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#10 わたし起点の一撃でいい
2026-07-17 15:41

#10 わたし起点の一撃でいい

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「ふつうの先生の、ふつうじゃない話を聴いていく番組」 ホストは、高知の現役教員で「会いに行けるセンセイ」という活動をする「のざたん」

第10回は、前回話した「学校の外に居場所を持つ」という話への、自分自身のツッコミから始まります。——外を見にいくって言ったけど、それ、良さそうなもの=キラキラを探しにいくことになってないか? きっかけは、生徒が研究者やNPOに絞られていない質問メールを大量に送り、受け手が疲弊してしまう「探究公害」と呼ばれる現象。生徒を責める話ではありません。なぜ生徒はいきなり専門家に向かうのか——その問いを、先生自身に返してみます。 正解のない時代だと言われながら、正解を探す癖だけが残っている。キラキラした「良さそう」を追いかけるより、わたしが何に引っかかっているか、目の前の具体的なひとりの困りごとに向き合う。その一撃でいいんだ、という話です。

▼ この回で話したこと 

・前回の「外に居場所を持つ」への自己ツッコミ:外を見にいくことが、キラキラ探しになっていないか ・入り口としての「探究公害」——生徒がいきなり専門家に向かうのはなぜか 
・その問いを先生自身に返す:生徒が立派なものに向かうのは、先生自身が正解と成果に追われているから。これは自戒として語る ・正解のない時代だと言いながら、正しいやり方を探し続けている。第5〜7回の「そもそも」「引き出す」ともつながる 
・正解を追いかけるのを手放す。これは諦めじゃなく、引き算 
・「良さそう」を手放すと残るのは、自分が何に引っかかっているか、という一次情報 
・「会いに行けるセンセイ」の起点は、ある保護者の「学校の先生と気軽に相談できないんですかね」という一言だった。大きな主語じゃなく、目の前のひとりから始まったから、続けてこられた 
・リスナーへの問い:「誰もが」のために何かする前に、今いちばん気になっている目の前のひとりは、誰ですか

🎙 Voicy「学びのセカンドオピニオン」 → https://voicy.jp/channel/3708 
📝 note(ゆとり教育者マガジン) → https://note.com/nozkoh

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サマリー

本放送では、「学校の外に居場所を持つ」という前回のテーマに対し、それが「キラキラした良いもの探し」になっていないかという自己ツッコミから始まります。生徒が専門家へ一方的に質問メールを送る「探究公害」を入り口に、なぜ生徒が立派なものへ向かうのか、その背景には教員自身が「正解」や「成果」に追われているのではないかと問いかけます。正解のない時代にあえて「正解探し」をやめ、自分が何に引っかかっているかという一次情報や、目の前の具体的な困りごとに向き合うことの重要性を説きます。これは、ホストである「のざたん」が「会いに行けるセンセイ」という活動を始めた原体験にも繋がっており、大きなビジョンではなく、目の前のひとりの声から始まったからこそ続けられたと語ります。リスナーに対し、誰もがのためではなく、今一番気になっている目の前のひとりに向き合うことから始めることを提案しています。

「キラキラ探し」への自己ツッコミと「探究公害」
リスナーのみなさん、こんにちは。ゆとり教育者ラジオへようこそ。パーソナリティののざたんです。
今回でゆとり教育者ラジオも10回目となりました。
前回は、学校の外側に居場所を持つことで、それは逃げじゃなくて、共同エージェンシー、共同指定した姿勢を持っていく、そんな実践なんだよ、という話をしたんですね。
これを話した後に、外を見に行くとか、外との関わりを作る、みたいな話をしたんですけど、
これをですね、やりすぎちゃうと言ったらいいんですかね。
まあまあ、ちゃんとやろうとすると言ったらいいのかな。
なかなか難しい部分もあるな、ということがあってですね。
それをちょっと紹介したいなと思っております。
これですね、外を見に行くって言ってですね、良さそうなもの探しをするんですよね。
良さそうなもの探しするときって、だいたい調べ物しますよね。
調べ物して、なんかいい実践例って言うんですかね。
なんかすごい取り組みとかさ、キラキラ事例みたいなものを見て、
これを聞きに行かなきゃとか、うちもやらなきゃって焦ってしまうこともあるなと。
正直に言って、僕もやってしまうことがあったり、
なんかこれはここの学校がやってるからいいに違いないみたいな、
何も考えないでですね、そのままスッとやってしまおうみたいなことがあるんですけども、
これも実はしんどいことの一つなのかなと思いまして、
そんな話をしたいなと思うんですね。
これはきっかけになった記事があってさ、
まあまあきっかけになった記事というか、
よくこの今年度ぐらいからよく見かけるんですけれども、
探究校街という言葉がよく出てくるんですね。
高校生が探究学習のテーマを決めるために、
大学の研究者とかNPOの人とか大量にメールを送ってきますよと。
質問が絞られてないまま話を聞かせてください祭りが起こっていてですね、
受け取った側はこれ全部なんか回答できないよねみたいなそんなことがあって、
だから探究校街なんだみたいな言い方をしているのもあってさ、
でもこれなんかギュってなるものがあるなと思いまして、
これは正当を責める話じゃないよなと思うし、
じゃあなんでこの専門家に向かってたんだろうねっていうところを考えると、
そもそも専門家に行く前にやることあるんじゃないのとか、
ご立派なことと言えばいいですかね。
立派なことに向かってしまう背景には何があるのかな、
みたいなことを考えているんですよね。
生徒が立派なものを向かってしまうのはやっぱりそれに触れると褒められるというような経験があるからかなと思うんですよね。
ということはどこかで学校側、教える側が立派なものというものを求めているんじゃないかなと。
大きな社会課題とか、専門的な調査とか外部の連携とか、
こうやって並べてみるととても聞こえはいいんですけれども、
聞こえがいいものほど生徒の実感値からはだいぶ遠くなって、
聞くことがないから話を聞かせてくださいが、
出てきてしまうんじゃないかなと思うんですよね。
これは本当に生徒の発想なんだっけ?
その探求という文脈で言うと、
生徒の発想とか生徒がやりたいが先に来てほしいんだけれども、
それがないから、でも何かに追われて立派なものを求めてしまうんだろうみたいな。
考えてみると、やっぱりこれは先生が立派なものを求めているんじゃないかなと思ったわけですよ。
教員が「正解」に追われる構造
先生自身がこの探求というものとか、他のものもそうなんですけれども、
その正解とか成果とかそういったものに追われてるんだろうなと思っていて、
事例集に乗るような実践とか、見栄えのある取り組み、
何々企業とやりましたみたいな話とか、
やっぱりキラキラするんだよね。
そういうのが調べてみると飛び交っていたりします。
これで見ていると焦るんですよね。
うちもやらなきゃみたいな。
これがゾッとするんですよね。
この先生たちの焦りみたいなもの。
年間で、1年間でどうにかしなきゃいけないんだとか、
成果を出さなきゃ、結果を出さなきゃみたいなものに追われているとですね、
手間を省いて一気に生徒が届かないような、
本当だったら生徒の手なんて届かないような場所に探求を出ちゃって、
聞けばいいんだみたいな。
暴力的ですよね。
そうするとですね、別にここに出てくるのは誰の悪いみたいなものもなくてさ、
焦った人がいて、それに巻き込まれた人がいて、
生徒もそれに巻き込まれてて、みんな削られていくみたいな。
それはハッピーじゃないなと思うわけですよ。
これは学校がダメとか外の学校がダメとか、
他の学校がダメ、やってることがダメとかそういう話じゃなくて、
これをやりがちなんだよな。
学校の文脈でとか、教育の文脈でもかもしれないです。
何かしらの成果とかそういったものを誰かに求められがちです。
誰かに求められがちって言うと、
じゃあ親ですか?みたいなこと言うんですよ。
親でもないんですよ。
親も誰かに求められてる気がするんですよね。
何かを追われるかのように、
誰かが追っているかのようにそんなことが起きてるのかなと。
正解のない時代に「正解探し」をやめる
そもそもなんですけど、正解のない時代って言うじゃないですか。
何が正解だかわからないし、
これからの時代わからないのだみたいな。
って言いながらさ、みんな正しそうなやり方探し続けてるんですよね。
そうじゃないですか。
何々先生の事例が良かったとかさ、
何々学校のやってることが良かったみたいな話がいっぱい出てくるんですね。
どこどこの塾が良いわ、どこの教育施設が良いわみたいな話がいっぱいあるわけですよね。
そもそもそれ自体がさ、
終わってる話なんじゃなかったっけっていう。
そんな風に思うわけですよね。
そもそも学校ってなんだっけとか学ぶってなんだっけっていう話もしてきましたけれども、
正解を与えることが学びだっていう時代はもうおとっくりのとうに終わっていると思うんですよね。
なんだけれどもこの教える側の僕ら、教育者側がですね、
正解を手放せない何かであると。
何か分かんないけど手放せないんですよ。
正解をないんだ、正解なんてないのだ、何が正解なんか分からないのだ、
みたいなことを思えるのであれば、
それっぽい正解を追っかけ続けなくていいんだろうなと。
だから一回手放してみたらいいんじゃないかなと。
そのキラキラした良さそうな何かを手放しちゃう。
そうするとさ、
自分の中に引っかかっている何かみたいなものは残るじゃないですか。
好きとか嫌いとかあれとか、
ちょっとした違和感とか、
これはなんか嫌なんだよねみたいな。
実は本人しか分かってないような、
とてもとても小さな、
半径数十センチかもしれないし、
1メートルくらいかもしれないんですけど、
誰にも借りてくることのできない、
専門家に聞かなくてもいいけど、
自分の中ではとても嫌な問題とかね。
それを触れた方がいいんじゃないかなみたいな。
目の前の「気になること」から始める
例えば何だろうな、
今カバンでジャラジャラキーホルダーとかさ、
カバンにいっぱい付ける子いるじゃないですか。
これ何があるんだろうみたいな。
これには何か分け…
これの種類はあるのかなとかね。
同じようにキーホルダーをいっぱい付けてる人もいるけど、
それぞれにこだわりがあるのだろうかみたいな。
そういった問いの方が面白そうな気がするんですよね。
他にも、例えば、
子供たちと接していると最近よく耳にするのは
ヤバイとかっていう言葉ですかね。
ちょっと古いかもしれないですけど、
ヤバイっていう言葉を言いすぎてて、
そのヤバイはどういう文脈のヤバイなんだろうみたいな。
ヤバイには一体何種類あるんだろうみたいな。
あの子もヤバイって言ってるけど、こっちもヤバイって言ってて、
ヤバイだけで会話してるけど、
これはどういう意味で会話をしてるんだろうなっていうことを、
中学生なりの辞書とか、
高校生なりの辞書みたいなものを作って、
ヤバイだけで辞書を作ってみるとかでも面白いじゃないですか。
そんなの考えたことないし。
そういった言われてみればこういうの気になるよねみたいなのが
子供の中にあったら、
それを起点にして調べてみるっていうのがいいんじゃないかなと思って。
ちょっとした引っ掛かりみたいなことって動きやすいし、
確実にその目の前の何かを解決してくれるんですよね。
で、僕こうやって今、
「会いに行けるセンセイ」の原体験
会いに行ける先生ってなのって活動したりしてるんですけど、
これもね、実は起点がありまして、
ほんと些細なことなんですが、
小学校の保護者の方から言われた一言で、
その時小学校のお母さんだったよね。
学校の先生と気軽に相談できるってできないですかねみたいな。
どういうことですかって言って、
学校の先生ってなかなか喋れないんですよね。
担任の先生ですかって言って、担任の先生じゃなくてもいいんですよね。
いわゆる学校の先生という立場の人と、
自分の子育てのちょっとした詰まり具合とか喋りたいんですけど。
えーみたいな。
いるみたいな感じですけど、
いるらしくて。
だから聞いて相談できますよって言ったら、
それが広がっていって、
あそこに会いに行ける先生っていうのがいるらしいよって言われるようになってきたっていうのが、
実は活動の原点だったりするんですよ。
なんかことの始まりって壮大なビジョンとか、
社会課題とかそういうところから別に始まってなくて、
もちろん思ってる部分はあるんですけれども、
でも何から始めようかってなった時は、
やっぱり目の前にいる人のちょっとした困りごとをね、
答えるっていう。
それに対して答えるみたいな。
そういったことができると、
なんかこう、誰でも相談したいってあるよねとか、
一人一人そういった権利があるよねとか、
学びに向き合う権利ってあるよねとか、
そういったことが多分心の中では思ってたんでしょうけど、
それが具体に落ちてきて、
言葉になってできるようになってきたみたいな。
自分起点のアクションの力
最初から教育の自由を買おうとか、
誰にでも教育の権利をみたいな大きな大きな何かを言って始めてたら、
僕多分やめてたと思うんですよね。
でも目の前にそういった人がいたからできたんだろうし、
本当に些細なことでしかないと思ってやってたんですけど、
その目の前でこう、よかったですとかありがとうが始まるだけで、
なんかだいぶ気が楽になったし、
偉そうなことって言っちゃいますけど、
ごたいそうな何かを僕はやっているわけではないので、
目の前に起こっていることをちょっと解消したらすごく喜ばれて、
それを繰り返しているっていう感覚でいるんですが、
それが活動の輪を広げていったり、
なんかそっちの方が実はありがたいと、
ありがとうがちゃんと帰ってくるって言ったらいいかな、
そういったことなのかなと思って。
なんかその良さそうなこと、すごく大きな誰もが、
エブリワンがいいなと思うことをやるよりも、
自分を起点にして自分の目の前にあるものに、
ちょっとしたアクションを起こすことの方が届くんじゃないかなと、
そう考えたらちょっと気が楽になるじゃないですか。
正解のないデザインだって言われてるけど、
大きな正解を探すっていう癖だけが残っちゃってさ、
キラキラした目立ちそうなものを追っかけて、
やりがちなんだけどそこには誰もいなかったりするんですよね。
だからそういった大きな話は一旦手放していいなと思っていて、
誰もがいいなって思うよりも、
自分の引っ掛かりを解消する。
自分の目の前にあるちょっと困ったこととか、
ちょっと嫌だなと思ったこととか、
ちょっと気になるなと思ったことに向き合うので良くないですかって。
しかもそんな大騒ぎやらなくて、
一個アクションを行ってみるぐらいでもだいぶ違うんじゃないかなと。
これぐらいだったら誰でもできそうだなと思ってもらえるかもしれないですし、
なんか自分の起点でいいじゃんって。
自分起点でいいんじゃないって。
できまなくってやっていいじゃんって。
目の前のいる人はそれで喜んでくれるんでしょうって。
だってそれよりも大きなことをやろうとしたら、
やっぱり目の前にいる何かをさ、
目の前にある小さな問題を片付けるしかないのかなと思うので、
そこから始めるのがいいんじゃないかなと思って、
皆さんそれぐらいのゆとりでいいですよと。
そんなことを思いながらこの10回喋ってきましたが、
少しは力んでしまう日々が減ってくれたらいいなと思っております。
というわけで今日はこのあたりで、ゆとり教育者ラジオのざたんでした。
15:41

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