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#09 「いつもの」の外に接点を持つ
2026-07-10 12:39

#09 「いつもの」の外に接点を持つ

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「ふつうの先生の、ふつうじゃない話を聴いていく番組」
ホストは、高知の現役教員で「会いに行けるセンセイ」という活動をする「のざたん」

第9回は、前回話した「主体性は一人で持つものじゃなく、共同エージェンシーだ」という話の続き。今回はそれを、子どもの話から教員自身の話に移して考えます。
学校という職場は、朝から夕方まで同じ環境・同じ職員室・同じメンツで過ごしやすい場所。コミュニティが一つしかないと、その空気が自分の評価のすべてになって、うまくいかないことが自分の存在価値そのものみたいに感じられてしまう。
——じゃあ、教員自身の主体性は、どこで育つ?
今回は、Voicy・note・X・Podcast・企業プロジェクトなど、学校の外に持っている複数の接点を手がかりに、「外に居場所を持つことは逃げじゃない。むしろ、学校の中の関わりを良くするための還元になる」という話をします。

▼ この回で話したこと
・前回話した「主体性は共同エージェンシー」——それは子どもだけじゃなく、教員自身にも大事な話だった
・学校は閉じやすい職場。コミュニティが一つだと、その空気が自分のすべてになって、うまくいかないことが存在価値の揺らぎに直結してしまう
・そうなると、一歩引いて見る、という相互作用のいい距離感が持てなくなる
・だからこそ、学校の外に相互作用のある相手を持つ——Voicy・note・X・Podcast・企業プロジェクトなど、自分で選んで関わっている場所たち
・外に居場所を持つのは「逃げ場」じゃない。学校がしんどいから外に行く、という話ではない
・外で見たものが中に還元される。違うルール・違う制約の中で動く場所を知ることで、「あ、だからうまくいかないのか」と学校を見る目が変わる
・一つの物差しだけで見ない。誰かに合わせて不安になるより、自分が見てきたものの中で判断できると、それは一つの解になる
・主体性を一人で背負わなくていい、というのは、子どもだけじゃなく大人自身にも当てはまる。学校・塾以外に、保護者も含めて自分のエージェンシーを保てる場所があるか、考えてみてほしい

🎙 Voicy「学びのセカンドオピニオン」 → https://voicy.jp/channel/3708
📝 note(ゆとり教育者マガジン) → https://note.com/nozkoh

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サマリー

本放送では、前回の「主体性は共同エージェンシーである」という話を発展させ、教員自身にとっても、学校外に接点を持つことの重要性を説いています。学校という閉鎖的なコミュニティに閉じこもりがちだと、評価が全てになり、うまくいかないことが自己価値の揺らぎに直結してしまうため、Voicy、note、X、Podcast、企業プロジェクトなど、学校外の多様な接点を持つことが、学校内の関わりを健全に保ち、主体性を育む上で不可欠であると論じています。

主体性は教員自身にも重要:学校という閉鎖的な環境
リスナーのみなさん、こんにちは。ゆとり教育者ラジオへようこそ。 パーソナリティののざたんです。
今回でゆとり教育者ラジオも9回目となっておりまして、 1週間に1本のペースでゆるゆるとお話をさせていただいております。
前回の放送で主体性の話をしたんですよね。
主体性って実は1人で持つものっていうイメージがあるかもしれないんだけども、そうじゃなくてね、 共同エージェンシーなんだなという話をしたんですね。
教員仲間がいるとか家族がいるとかもそうかもしれないですね。
地域とかみんなでっていうお互いに影響しながら一緒に育っていくっていうそういった部分があって だからこそ子供の主体性をっていうのは教員一人が背負い込む必要はないんだろうねと思ってたんですけど
これは生徒、子供ですね。彼らにどういう場の提供が必要なんだろうなという話もそうなんですけども、実はこれ教員である自分自身も大事なことだなと思ったんですよね。
一人で背負いがちというか不安になりがちというか。だからこそね、もうちょっと教育に携わる人って外というかね、自分の基準を持つために外の基準を持ってほしいなと思っているんですね。
まず教員からにしましょうかね。教員っていう仕事についてお話するところは結構独特で、基本的に今の職場に閉じこもりやすいというか、学校に閉じこもりやすい。広がっても学校の範囲内みたいなね。
そんなイメージが強くてですね。まあまあ閉じやすいと。朝から夕方まで同じ環境で働いて同じ職員室にいて関わるメンツも大体同僚か保護者か子供かみたいなね。
そんな感じがして。これが悪いわけじゃないんですけども、やっぱりその共同体というかコミュニティが一つしかないとね、そこでの評価になっちゃうんですよね、どうしても。そうするとこう、その空気感が自分の全てになりがちになるんですよね。
だから何て言うんですかね、家族みたいなものに近いのかなとかね、家庭とかそれっぽいものに近すぎちゃうのかなという気がしてます。そうするとですね、学校現場職員室とかで何かうまくいかないとですね、もうそれ自身がもう何て言うのかな、自分の存在価値そのものみたいになってて。
いやー憎いバカないよねーとか。だからその共同営人士どころじゃないわけですよ、もうなんか自分がしっかりしなきゃみたいになっちゃってね、そのいい塩梅の相互作用の関係性になれないと言いますかね、引いてみれないって言ったらいいですかね。
もうなんか全部一歩目というか、ちょっと一歩引いてみるができなくなっちゃうっていうね。以前ね、一歩引いてみるの話はしたんですけども、なんかそれができなくなりやすい性質なのかなというかね、意識して出ていかないとちょっとその罠っていうかね、そのループに陥りやすいのかなという風にも感じます。
学校外の接点がもたらす相互作用と健全な距離感
えっとですね、それをなんか意識してたか、なんだろうな、僕は会社勤めもしていたので、その時の影響からなのか、まあ学校の仕事はもちろんあるんですけれども、その他にこうやってポッドキャストで話してみたり、音声配信のボイシーで話してみたり、あとはそうですね、最近はノートにも書いたりして、あとなんだ、SNSで言うとXのポストをしてみてとか、
まあその他、実際に人と会うみたいなこともやったり、プロジェクトに関わったりするみたいな、そうした多面的な場面で人と接点を持っているっていうところですね。
で、それはまあまあ、その言葉だけを見ていくととても忙しいになっていくと思うんですけれども、なんかそれがあることによって、まあそれを自分で積極的に選んでいるので、なんかそこがですね、非常に良い環境になっていると言いますか。
僕に対して影響を与えうる人、というか僕が影響を与えているかもしれない人、要するに相互作用ですね。影響の相互作用がある相手が学校の外にもいるという感覚が持てているというのが事実かなと。
で、実際にボイシンのリスナーさんがいたりとかノート読んでくれる読者の方がいたり、こうしたポッドキャストのリスナーさんもいたり、あとは企業のプロジェクトで一緒にやったり、まあそういった人たちのやり取りの中で僕がいるよなという感覚があって、まあ学校オンリーにならずに住んでいるというのは非常にありがたいところだなと思っていて。
これがあるからこそ自分の主体性というものが輪郭が出てくると言えばいいですかね。これは逃げ場所を作っているというわけじゃなくて、まあ学校がしんどいから外に行くという意味じゃないよという話ですね。
外に居場所があるとですね、学校の中でとかその組織体の中でうまくいかないことがあったら、なんかここでダメだったけどあっちで聞けるなーみたいなところもあって、まず気持ち的な余白もあるし、健全に距離が保てるし、今はそうじゃないのかなと思ってちょっと弾いてみたりすることができると。
ただ、所属はしているのでやっぱり意識はしているんですよね。だからちょっと距離とって、今まで見てなかった視点で見てみると、ああこういう風にやっていいのかなとか、ちょっと力抜けていいのかなとか。
そうやって外に居場所を持つことが結果的に学校の中の関わりを良くしていくのかなという風にも思っています。
そこの中だけで考える必要はないし、外の方のアドバイスをいただいて、ああこういう風にできるんだとか、やっぱり外の判断基準で考えた時にそれはやっぱり違うなとか、じゃあ何をしたらいいんだっけみたいな、前のみになってその組織だけに突っ込んでると見えないものが見えてくるようなそんな感じは残っているんですね。
ただそれを外に逃げてるではなくて、ちゃんと外で見たものが中に還元されていく。やっぱり人間って所属していればやっぱり気にはするので、そうやって還元をするようにできているのかなという風に思ったりしています。
学校外の視点がもたらす新たな気づきと自己判断
その企業のプロジェクトとか企業の取り組み方に関わっていると、やっぱり学校とは違うルールだなと思うし、学校と違う制約の中で動くものだなというのは改めて感じるし。
もう十何年も前に会社員してましたけど、その時とまた違う社会的な背景があったりするので、その時とも変わっているんだなと。
ながらこそ今、学校の中で捉えられているのと、今の状態とその周りの状態とみたいなものを学校の中で持ち帰ってきた時に、ああそうか、だからうまくいかないのかみたいになってくるっていうんですかね。
一つの価値観で、一つの物差しで見ているわけじゃないから、ああそれってどうなんだっけなーみたいなことを思える瞬間が出てきて、それがやっぱり自分の視点で見れるっていうのがすごく大事なことなんじゃないかなという風に思っています。
で、こうすることで、一人で背負うもんじゃないんだなーっていうのはやっぱり思えるかなと思っていて。
誰かに揃えるわけでもないし、いろんなものがあるから別に気にしなくてもいいんじゃないかなという風に自分自身、いいですかね、自分の選択に自信が持てること。
誰かと一緒じゃないと不安で不安で不安でしょうがないのではなくて、自分が見たものの中でこうやって判断していくから、これはある意味一つの解なのであるみたいなね。
そういうものの見方ができるのかなと思っていて、だからこそその外の目を入れたり、最終的には自分で判断していく。
前回の主体性を持っていくっていう、その部分が子どもたちだけならず大人にも大切なんじゃないかなと思ってですね。
少し緩めてもいいんじゃないですかとか、他の視点から見るとどうなんですかねっていうのは、教育者にすべからか持ってもらいたいものだなというふうに思っています。
まあまあ、ぼやんとした内容かもしれないんですけど、大切なことは一人で背負わないでほしいなと。
それは生徒だけじゃなくて大人自身にもそうやって持ってもらいたいなと思って、特に教育っていうのは裾野がすごくすごく実は広いものであって、関わる人は本当は多いんですよね。
その中の学校というのは一つの一つの一つのコミュニティであって、しかも隣の学校とまた風土が違って。
だからその一つのところだけで頑張る必要はないんですよね。隣のところも考えてみたらいいんじゃないとか、もう少し幅広い範囲で捉えてみたらいいんじゃないみたいな。
まあそういうふうにですね、家庭もそうですよね。隣の家庭とやってることは違っていいのであると。
ただただ、じゃあそもそもなんだっけみたいなところは大切にしたらいいし、考えて考えて考えて考えた結果そういった何か一つの結論が出たならそれでいいのかなと。
そうやって自己判断することが何よりも大切なんじゃないかなと。そういうことができるために一つの学校、だって学校だけじゃなくてね、いい環境みたいなものをちょっとずつ広げていけるといいのかなと。
誰さんが勧めるから誰さんが勧めるからの、一人の人が勧めるからではなくて複数の人が勧めているものをつまみ食いしていった結果、そのつまみ食いしているものの種類が自分一人にしかないものであるような状態。
それがすごく大切なことなんじゃないかなというのをちょっと思ったので、その教育に関して言えば学校以外ですね、学校とか塾っていう同質性の高いところ以外に子どももそうですけども保護者も自分のエージェンシーというのを保てる場所ってあるのかなということをちょっと考え直してもらえたらいいなと思って今日はお話をさせていただきました。
まとめ:一人で背負わず、多様な居場所を
というわけで、今日はこのあたりで終わりにします。
ゆとり教育者ラジオのざたんでした。また次回お聞きください。
12:39

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