言葉の伝達と意味の変化
こんにちは、のらじおのmuroです。
こんにちは、かえです。
うん。どこから何の話を始めたらいいのか、ちょっとわからないんだけど、
最近ちょっと考えていることがあって、
はい。
はい。言語って、僕がこれまで思ってたのと違うかもって思ってるんですよ、最近。
はい。
で、それを思うようになったのは、僕が、自分の言っていることが相手に伝わってないなと思うことがあり、
それ結構よくあるんですよね。
うん。
だから、僕の伝え方の問題かな、みたいなのをずっと思ってたりとか、
もしくは相手の理解力の問題かな、みたいなのをずっと思ってたりしてたんだけれども、
僕が結構子供の時から好きな遊びの一つに、言葉に特定の意味をのせてしゃべるみたいなのがあるんですよね。
うん。
普通は一定の意味があるけど、そうじゃない意味をのせるみたいな。
え、比喩じゃなくて?
えっと、例で言うと、野ラジオでもしゃべったのかな、同性種の3人のほうでしゃべったチャシット道場みたいな。
うんうん。
ああいうのを思いついて名前をつけて入れておくみたいな、野ラジオの。
名前をつけるってことですね。
そうそうそうそう。
なんか現象とかに新たらしくっていうか、東京ハイカルチャーインテリとかもそう。
そうそうそうそう、そういうやつ。
自分のオリジナルの現象にオリジナルの名前をつけて使うみたいな感じ。
そうそうそうそう。みたいなのを、概念を作り出すみたいなことなのかな。
みたいなのを好きでやってて、で、僕が勝手に作ってるやつだから、通知なのは当たり前なんだよね。
でも一応、僕としては説明してるつもりなんだけど、全然僕の説明とは独立していって、なんていうか、全然別の意味になったりとかしていくことあるなと思っていて。
言葉の使用と学術用語
僕が、なんかちょっと難しいんだけど、野良人間と社畜人間の話をして、それをサバンナと動物園という話をしたと思うんだよね。
で、動物園っていうのは、僕がその時考えてたのは、ある特定のゲームみたいなのがあり、そのゲームに入っていくというか、ゲームをプレイするみたいなのをすごく大事にする人たち。
で、サバンナっていうのは、ゲームにうまく入り込めないような人たちが生きていく場所であるみたいな、たぶん使い方をしてたんだけど。
とある、なんていうかな、おそらくこの野良人間と社畜人間の話からサバンナみたいなのを、結構いくつかのポッドキャストでみんなが喋り始めたタイミングがあると思うんだよね。
で、そのタイミングで、そのポッドキャストの関係者の、もうある、なんていうかな、その人に、あのね、その時言われたのは、ちょっとどうやって説明したらいいんだろう。
言われたこと自体は、僕が結果をコントロールしたくないという話をずっとしていて、意図を持って物事に臨むと、その結果通りになるから、意図を持ち込まないでやってみようと思っていると。
で、ちょっと前の会社組になったあたりで、その、なんていうのかな、ああしたらいい、こうしたらいいみたいなプランはいろいろあるんだけど、どれもしなかった時にどうなるかなと思ってるみたいな話をした時に、聞いてた人が、自分はこれまでの人生すごく考えてバックキャストして努力してきたと。
で、人間とはそのようにして生きるべきであると。で、私は、そのそういうふうな、そのサバンナで生きているのであって、で、なんかあなたは、なんかそんなあまちょろいこと言って好きにしたらいいんじゃないですか、みたいなコメントを受けたんですよ。
で、その人、プロスポーツの選手だったんです。で、思ったのは、めっちゃ動物園っぽいことやってるのに、だってスポーツってゲームだから、そのゲームの中で、そのゲームの中の自分を高めるっていうやつをやって、で、それはなりわいにしてるっていう話なんだけど。
で、それがなりわいになってるっていうのは、なんか僕の中ではすごく人間社会のランダムにその結果であって、だって、スポーツってすごく人気があってお金になるやつもあれば、そうじゃないやつもあるみたいな状況の中で、たまたまそのスポーツっていうのが、制御するに至るスポーツになったっていう話であって。
で、その偶然性の中に身を委ねているにも関わらず、それが全て自分のコントロールの下で起きており、っていう自覚の下に、しかも僕が生み出した概念を使って、それを生み出したという自覚もないままに、すごく批判された経験があって、面白いなって思ったっていうのがあるんだけど。
なんていうかな、その時に、なんかすごくサバンナの概念がその人に伝わってないっていうか、サバンナの概念がうまく伝わってれば、自分のやってることがサバンナにいるって思わなかっただろうなって思ったんですよ。
スポーツの持っているサバンナのイメージと黒腰さんが説明したサバンナが違ったっていうことですね。
で、自分の意味で使ってるから、別にそれ好きにしたらいい、別にサバンナという言葉が僕が排他的に持っている言葉じゃないから、好きに使ったらいいんだけど、でもおそらく僕が使っている言葉の連続線上の中でわざとその言葉を使ったと思うんだよね。
でもその時に全然違う意味合いで使ってたみたいなのが、で、その意味合いが間違ってるんじゃなくて、違っているみたいなことも特に考慮されていないみたいなのがあったなと思ってて。
僕が勝手に作った言葉を勝手に使っているので、そのように使われないのは当たり前なのだが、そういうふうに意味が変わっちゃってる言葉あるなと思っていて。
で、これはなんか僕の周りで観測可能な現象なんだけど、最近思うようになったのは、学術タームとかもめっちゃこれ起きてるなって思ったんですよ。
学術用語って、ある種厳密な使い方をしているというか、その定義が厳密に決まってなくても、ある文脈みたいなのを持っていて、これはだいたいこういうものに使うみたいなのが決まってると思うんですよ。あれる学術用語って。
で、その学術用語の文脈とかを、がむしして自分の言葉として使う人っていうのがすごく増えたなって思った。
増えたのか、もしくは観測可能になったのかわからないけど、そのように言葉が使われているなって思うようになったって感じかもしれない。
だから、何か言葉を受けたときに、それが今、たとえばサバンナの例だったら、
むろこしさんの説明の中で使われたサバンナとか、サバンナのどの要素をとって、その現象に名前がつけられたかっていうのではなく、自分の持っているサバンナのイメージで、その言葉を使ったっていう感じがする。
だから、むろこしさんはノールールであるっていう比喩としてサバンナを使ったけど、たぶん私の想像では、そのスポーツをしている人は競争してきたっていう意味でたぶん使ったんだろうなって思うんですよね。
サバンナっていう言葉を。
私はこれぐらい過酷に競争してきたっていう意味で、弱肉強食であったっていう意味で、たぶんサバンナっていう言葉を使ったんだけど、それはもう、その人の言葉としてサバンナっていう言葉を使うのであれば勝手にすればいいんだけど、
むろこしさんの概念と絡めたら、むしろ、もはや違う言葉だから、全く別の言葉だから、つないじゃいけないんだけど、つないじゃったっていうことかな。
おっしゃる通り。
それが学術用語とかっていう、すごく厳密性求められる部品みたいな言葉を、聞いたとき受けた印象とかで使っちゃってるみたいなことかなと、そういう話。
レビィストロースの視点
まさにそうで、最近僕レビィストロースの野生の思考を読み直したんだよね。連載に書こうと思って。僕のレビィストロース理解が正しいっていう自信あんまないんだけど、連載で書いた原稿も含めて全然ないんだけど、
それを読んでるときに、肌と思って、レビィストロースは野生の思考の中で、その本の中では未開陣っていう言い方していて、今その人類学では未開陣っていうことは使わないんだけど、その伝統社会に生きる人たちみたいな、伝統社会に生きる人たちっていうのは、具体の科学を持っているっていう話をしていて、
例えばレビィストロースはトーテミズムの話を持ち出すんだよね。トーテミズムって、自分の先祖がある動物であるみたいなことを考えて、その動物の子孫たちの集団みたいなのが、例えば狼だったら狼クランとか、クマだったらクマクランみたいなのを持っていて、そのクランとその動物っていうのは特別な関係にありますよっていう風な考え方で、
で、レビィストロース以前の人類学者や宗教学者っていうのは、そこに何らかの宗教的意味みたいなものを持ち出そうとしたわけだよね。この人たちはその、自術的思考によって、シカを先祖だと思っているみたいな、科学的にありえないのにとか、この人たちはシカを食べ過ぎないために、食べ過ぎて絶滅しちゃうと困るので、
シカを保護する観点で、この領域に住んでいる一部の人たちがシカを食べないっていう風にするために、そのシカクランみたいなのを作ったんだみたいな意見とか、まあいろいろあったわけですよね。
で、レビィストロースはそれ全部間違ってますっていう話をして、じゃあどうなってるかっていうと、例えばなんかオーストラリアの先住民の中にキバシリクランっていう、キバシリっていう鳥がいるらしいんだけど、クランとコウモリクランっていうのを持っている民族がいるらしいんだよね。
で、人類学者たちっていうのはこのキバシリとキバシリクランの関係、コウモリとコウモリクランの関係をずっと考えてたわけだよね。でもレビィストロースが言ったのは、いやそこが大事なんじゃないんだと。
キバシリとコウモリの関係っていうのがあるでしょうと。で、キバシリクランとコウモリクランの関係っていうのがあるでしょうと。この関係が同じなんじゃないって言い始めたんですよね。で、その民族ではコウモリは狩りをする動物、キバシリっていうのは盗みをする動物と考えられていたんだよね。
ってなると、狩りをするハンターの人々のことをコウモリクランって呼んでいて、で、盗みをするような人たちのことをキバシリクランって呼んでいた。キバシリの人たちって呼んでいたんだっていうことを言って、で、この関係みたいなのが比喩の関係で結ばれているんだっていう話をしたんで、それを具体の科学だっていうふうなことを言ったんだけど。
それと対照的に、なんていうかな、我々っていうか近代人みたいなのを持っているのが、レビストロスの言い方では野生の思考に対応する栽培された思考っていう言い方をしてるんだけど、概念みたいな、抽象的な概念みたいなのをまず作り出すと。
で、これはその家を作るときにまず建材を作るみたいなもんで、で、もしくはその専用の道具を作るみたいなもんで、その専用の道具で積み重ねていくっていうタイプの思考パターンをするよねと。
で、けどその伝統社会の人たちはそういうまず考えるための道具みたいなのを作り出さずに、ありあわせのもので自分の思考っていうのを組み合わせていくんだと。
だから西洋人の感覚から言うと、ある人間のその抽象的な特性みたいなのを出して、背の高い人々と低い人々みたいなその抽象的なカテゴリーを生み出して、背の高いクランと背の小さいクランみたいに分けたいっていうのが西洋人の考え方なんだけど、
伝統社会の人たちはそのコウモリと木走りみたいな身の回りにいるものを使って、その集団の違いみたいなものを考えていくんだみたいな話なんだよね。だからこの話を読んだときにそうかもって思って、僕は多分言葉を使うときにこの幸いされた思考を使ってるんだと思うんだよね。
その言葉の抽象性みたいなのがあり、その先に定義された専用の道具性みたいなのがあるわけだよね。この言葉はこういうもののために使うってあらかじめ決まってるわけだよね。だからそれ以外の場所で使っちゃダメなんだよね。
だから、だけれども、そうではなくて、この具体の科学のように言葉を使っている人たちがいるんじゃないかって思ったんだよね。例えばアカデミックな文脈ではリベラルとは何かってことがある程度決まってるわけだよね。それが古典的リベラルがいて、社会的リベラルがいて、ネオリベラルの人たちがいて、これは全部違うっていう話。
リベラルという名前がついているんだけれども、これは全部違うものなんだってなってるわけ。一個にはならないんだよね。でも、例えば今日リベラルを批判している人たちは、そのような文脈に、しかもリベラルというのは、ある種、王政みたいなものの圧勝の中から自由主義みたいなのが大事だよねって考えた人たちでもあるわけ。
この対立概念みたいなのがあるわけだよね。だけれども、そうじゃなくて、リベラルってこんな感じっていう、おそらくイメージというか、その先見的な関係があり、その属性だとその人が考えているもの全てをリベラルと呼ぶみたいなことが多分起きているんだよね。
じゃあ、本当には厳密に、もうすでにこの世に定義があるけど、その定義があると知らなかったり、大したことではないと判断して、印象で運用しているみたいな感じ?
言葉の定義の変化
自分の印象の方を、印象だけで、リベラルってこういう感じ?みたいな感じで、これってダメだよね?みたいな、もう大きくまとめて対象にしてるみたいな感じ?
じゃないかなと思って。具体の科学の面白いところは、その世界って変わっていくから、その具体的なものっていうのの関係っていうのは変わっていくわけだよね。木走りが絶滅して木走りの代わりに別の鳩とかが来るわけかもしれないじゃん。そうすると、その木走りを使っていた人たちが今度は鳩を使い出すみたいなことが起きるわけだよね。
だから、栽培された思考においては、リベラルとは何かっていうのは動かないわけなんだけれども、その具体の思考ではリベラルとは何かっていうのが、世界の動きに合わせて変わっていくわけだよね、たぶんね。
私がリベラルと呼びたいものみたいなものが、リベラルと呼ぶみたいなことが起きているんだよね、たぶんね。
なるほど、ちょっと想像がついてきたかな。
だから、ある種会話が成り立たないというか、同じ言葉を使えてないんだよね。
これは、言葉に定義があってそれをリスペクトしてないみたいな話ではなくて、言葉というものに対する基本的な態度というか、言葉をどのように想像しているかということそのものが違うんだよ、たぶん。
これが野生の思考と栽培された思考が違うように、言葉をどういうふうに運用するかっていう態度そのものがたぶん違うんじゃないかなって思ったんだよね。
私が大学入って、文学部入って、授業を受けたりして、びっくりしたことがあって、
はい。
特に、比較習学研究室のゼミで先生たちの授業とか聞いて、びっくりしたのは、この世にこんなにたくさんの種類の辞書があるんだということにびっくりしたんですよね。
あー、はい。
国語辞典、孔子園、漢話辞典、あといろんな言語の辞典には触れてきたけど、
はい。
民族学辞典とか、宗教用語辞典とか、哲学詩辞典とか、もうありとあらゆる辞典がある。
それが、授業の中で引用されるから、それを知ったんですけど、
この世にこれだけ辞書があり、その分野において、こんなに言葉に出てはいけない範囲があるっていうか、
決められた用法なり、意味はもちろんだけど、分野ごとにあるということにびっくりした。
で、それを曖昧に使うと指摘されたから、ゼミとかで。
はい。
レジュメとか、個人の発表とかで、言葉を曖昧に使うと必ず指摘されて注意されたから、
あ、ダメなんだっていうのを学んだなと思うんですよね。
適当に自分の感覚で言葉って使っちゃいけないんだっていうのをすごく指導されたなっていう記憶があって、
それ、今でももう癖になってるから、よく調べるんですけど、言葉、なんかパッて使おうとしたときに、
え、なんかこれって、ここで使ってよかったっけ?とか、え、これって名詞として使えたっけ?とかいうのを不安になるんですよね。
はい。
みたいなのは、指導されたことだなって思う。訓練を受けたこと。
でも、だから訓練を受けてなかったら、できなかっただろうなと思います。
言葉のそういう面というか、そういう性質の訓練を受けてなかったら、こういうふうに言葉に対して慎重にならなかっただろうなとは思うんですよね。
なるほどね。そうかもしれない。
コミュニケーションの厳密性
もっとそのコミュニケーションのツールとして、感情とか、相手と私の間にあるものとしてだけ言葉を運用していたら、あまりその厳密性って必要ないじゃないですか、その場が大事だから。
必要ないね。
だからレビィ・ストロースもその具体の科学のことをその詩だと言っていて、ポエムだと。
ポエムの方が現実、あの、的確に現実を描写できることだってあるじゃないですか。
具体のものを組み立てているから、ちゃんと具体の話になる可能性あるんだけど。
だからそういう話、そういうことを今、かえちゃんは指摘したなって思った。
そこで、どのような場面で言葉を使ってきたかで、全然、言葉一つ一つに対する使い方が違う、きっと違うようになっているんだろうなっていうのは思いますね。
まあ、こっちはこっちで勝手にやっていることなんだけど、私は私で。
いや、絶対あると思うんですよ、その、一個のその言葉の地上地点の範囲を出ない運用よりも、目の前の人の感情を優先した方がいい場面とか絶対あったと思うんですけど。
なんか、できてなかったこともあるだろうなと思う。
だから、今は手で投げるより足先蹴ったほうがよかったのに、手で投げたなみたいなことかなと思います。
でもまあ、私はやっぱり言葉を慎重に使うほうが好きだから、好きっていうか、
そのほうが人とのコミュニケーションというか、意思疎通の精度が上がるって信じてるって感じですかね。
だから、言葉の意味の厳密性みたいなものにすごくこだわるみたいな感じ。
うん、そうだね。
だから、同じ言葉、サバンナっていう言葉でも、何の話の中で使われているサバンナなのかみたいなことが大事みたいな。
だから、どの辞書に載ってるサバンナのやつで、今使ってるかみたいなの。
そういうのは結構好きですね。
そうだよね。
大事にしたいと思う。
まあ、できているかどうかは別にして。
こういうのがやっぱりちょっと独特な作法なんだろうなって思うのが、
前の会社でメタ認知みたいな話をいっぱい出てきたときに、辞書的には多分今間違った使い方してるんだよね。
メタ認知って、自分の言動みたいなものを認知しているっていう言葉だから、自分の言動をメタ的に認知していますっていう言葉なんだけど、
前の会社で言い始めてから付け加わっている意味合いに、物事を俯瞰してみるっていう意味でメタ認知っていう言葉になっちゃってるんだよね。
なんかこの間ホリエモンもこの意味で使ってたから、結構広がってるんだなと思うんだけど、別に広がってても言葉って変わっていくもんだから別にそういうことってあるんだろうなと思ってるんだけど、
その社内で違う意味で使っちゃっているから、言いたいことを言うための言葉をまた別に作るか、どこかそのような言葉がないかどうか、
一旦調べてからもう一回考え直した方がいいという話をしたんだけど、あんまり重要性を理解さなかったんだよね、社外で。
で、結構そのアカデミックな意味におけるメタ認知は今もう多分コンタミニされている状態だとは思うんだけど、
その〇2、辞書で言うと〇2の意味がもうできちゃってるっていう話なんだと思うんだけど、
でも言葉ってそういうもんだから、しゃーないと言えばしゃーないっていうことだと思うんだけど、みたいな感じで、やっぱそこを考える人と考えない人っていうのがいて、
で、それはなんていうのかな、かえちゃんはその訓練の差なんじゃないかって言ってて、まあ訓練の差なんだろうなとは僕も思うんだけど、
なんか結構根深く認知世界みたいなのがガラッと違うんじゃないかなみたいなのを最近思うようになった。
だから、そのSNSとか、まあSNSだけじゃないよね、最近は、そのメディアとかでもその罵り合いになるみたいな、その議論ができないみたいな、その相手を論破するみたいなもそうなんだと思うんだけど、
その議論っていうのを何か真理に到達する場所ではなくて、その競合する2人のCを決する場所みたいに観念するみたいなのは、コミュニケーションが成立しないからなんだろうなって思ってて、その次の積み上げていく必要があるじゃないですか、議論で何か真理に到達するためには。
でも、その言葉の使い方みたいなのがあまりにも使いすぎると積み上がんないから、そうすると勝ちと負けを決めるしかなくなるんだろうなと思っていて、なので人々は無限の闘争してるんだろうな。
で、SNSで専門家の訂正みたいなのがアジテーターとかインフルエンサーに入らないのもそうかなと思っていて、アジテーターとかインフルエンサーの人たちはすごく具体のものとして言葉を使っている。
今ここにあるじゃんみたいなものとして言葉を使っていて、ですが何のために作られた、どういう意味なのかみたいな使い方をしてないから、そうするとその言葉の意味ってこうですよねって言われても、そりゃあなたが勝手に言ってることですよねってなると思うんですよ。
あなたの具体と私の具体違うのは当たり前じゃないですかみたいな、そうすると同じ言葉を使ってる意味がないっていう話になるから、だから議論にならないんだと思うんですよね。
たとえば最近ではその、なんていうのかな、閣僚の人が憲法に関してその義務というのは権利を得た、果たした人が得られるもの、権利というのは義務を果たした人が得られるものですみたいな憲法解釈を言ってるけど、それはたぶん憲法学という文脈の中ではやべえほど間違ってることだと思うんですよ。
でも憲法学の文脈にのっとって憲法という言葉が使われているっていう感覚がなければ、なんか何か一番すげえルールみたいな感覚で憲法を捉えていれば、そりゃそういうルールだってありじゃんみたいな発想になるっていうのは無米なるかなっていう感じだなと思っていて。
これが起きてるなって思っている。
で、なんか僕の身近だと、その学術的な単語で言うと、文化資本とかはもう学術的な意味みたいなのがようなさないぐらいめちゃくちゃに使われてるし。
あとは何かな。リベラルもそうだよね。リベラルも多分政治学上の分析概念として使えたはずなのに、もうもはや使えないレベルまでその人がリベラルという言葉を使って何を指しているのかが全くわからないところまで来てるんだろうなと思っていて。
左翼右翼もそうだよね。左翼右翼みたいな言葉も、どういう意味合いで使っているのかが全くわからなくなっている。自分たちの味方と味方ではない人を表現していて、その時に自分はこちら側だと思っている方を選び、そうじゃない方をそうじゃない方で呼ぶみたいな言葉になっちゃってて。
で、自分が右翼かどうかみたいなのっていうのは本当は政治性みたいなものと関係してくるんだけれども、あまり政治性とは関係のないところ。右翼っぽい人たちと仲間みたいな。この政治家と自分は仲間みたいなところですごくもう右翼という言葉を使ってたり左翼という言葉を使ったりしてるなっていうのがあって。
なんていうのかな。こういう僕らみたいな感じで言語を運用している人の方が、僕が想像してたよりもっとずっと少ないのかもって思うようになった。僕が言葉によって何かを説明しようっていうのは、マジでずっと不可能なことだったんじゃないかっていうようなことを思うようになったって感じかもしれない。
なんか、対面のコミュニティの中の会話とか、コミュニケーションとか、そのコミュニティの運営っていうか、では具体の科学で、
全然良かったと思うんですよね。
SNSで何が起こったのかみたいなののひとつに、SNSって基本的には文字だから、多くが。
インスタとか写真がメインになってるのもあるけど、文章ついてるし、Xなんかはもうほとんど文章じゃないですか。
言葉の言葉を使っているんだけど、対象がすごくたくさんになったときに、小さな狭いコミュニティじゃなくて、何千人もいっぺんに見れるみたいな場になったときに、
本当は、そこに言葉の厳密性っていうものがないと、何もわからないのに、それを無視して、具体の科学の方法で、
何千人、一万人にいっぺんに言葉がまかれるようになって、めちゃくちゃになってるっていう感じがする。
もう成り立たない、具体の科学では成り立たないのに、でもみんなが使えると思ってるもんだから、言葉を使ってるから、
本当は成り立ってないのに、成り立っているような感じになって、大混乱してるみたいな感じ。
言葉の乱用とその影響
そうだね。
そんな、いっぺんの人に何かがいっぺんに届けられるのって、それまではメディアも限られてたし、
で、たとえば新聞とか、テレビとかラジオとか、その場合は、そこから走られるまでに、何層ものフィルターみたいなのがあって、
確かめたり、精査されたりするフィルターみたいなのがあって、論文とかだったらもっと厳しい精査があって、世に出てたのに、
個人がいきなりそれができるようになってるけど、その段階を踏んでないから、言葉が乱用されてしまってるんだろうなって思います。
薬みたいにっていうか、本当は薬剤師が調合して、ちゃんと危なくないか検査して、一人一人の体重とかに合わせて処方されなくちゃいけなかったものが、なんか取放剤になってるみたいな感じなのかなと思いました。
そうね。やっぱり、で、しかもなんか現れているのは、その乱雑さでもって、アカデミズムの話をしうるという感覚みたいなのが、変だと思われなくなった時代なんだなというのを思った。
それが例えば政治の話でもいいし経済の話でもいいんだけど、あたりの話っていうのは、栽培された志向の花というか、その中小概念に中小概念を重ねて、専門用語に専門用語で重ねてやるできた議論で、そのある種の厳密性みたいなものがあるんだけれども、
それを野生の言葉でもって語り、語れないわけじゃない、絶対に語りうるんだけど、語るということの、なんていうのかな。
しかもそれが、その栽培された言葉より、いくつか種類があると思うんだけど、栽培された言葉と自分が使っている野生の言葉の違いがわからないこともあろうし、その栽培された言葉に対して自分の野生の言葉の方が優越しうるということもあろうと思うんだけど、
そこに入ってきて、何かその、重大なことを語りうるという感覚があり、それに対して異を唱えるのは、権威主義的で主流的でバカバカしいことだと思っている人がたくさんいるっぽいって思いますね。
難しいなあと思うのは、難しいのは、なんだろう、その、具体の科学って語っている人の、もしかしたら、
言葉の上はめちゃくちゃかもしれないけど、語っていること自体は、何かしらである場合みたいなのもあるじゃないですか。
ありますね。
だから一概に、じゃあもうそれだったら語らないでください、みたいなのはダメだし、みたいな。
うん、まさにそうなんだよね。
SNSとコミュニケーションの課題
今まで言葉を発信する、できなかったところから、現実の声みたいなのが上がるようになったっていうのも、SNSのすごい、それはいいところだし、
じゃあ言葉が正しくないからといって、それは全部切り捨てるのはやっぱりおかしいし、みたいな。
それこそ持っている言葉、自分の中にある言葉で何かを語ろうとされている事実みたいなのとか、説実は必ずあるわけで、みたいな。
だから、さっとせんびきはもちろんできないし、
本当は、学術論文とかが、言葉にすごく精密でないといけないのは、言葉でしか伝えられない相手に伝えようとしているからだと思うんですよね。
それは、後世の人間とか、会うことができない人たち、遠くの人とか、死んだ100年後の人たちに残さなくちゃいけないから、言葉の厳密性にこだわるわけで、
じゃあ、この同時代に生きている人だったら、一番は、言葉だけに頼らない、言葉だけで判断しない、みたいなのが大事かもしれないですね。
例えば、会うとか、表情を見るとか、その人の置かれた環境に目を向けるとか、文字だけのやりとりじゃなくて、和色を見るとか、それが、そこに目を向けるのが難しいから、SNSの言葉。
こっちの、持っている印象とかで、言葉だけで判断すると難しいけど、それによって、言葉の使い方に多少誤差があっても、
この人、こういうつもりで使ってるんだなってわかることはあると思うんですよね。その人の、何か、環境とか、表情とか、和色とか、その言葉をはせられる、はし方とかで。
SNSこそ、言葉だけでお信用しちゃいけないかも、みたいな、スポーツされてた人も、
ああ、この人は、そうやってスポーツしてきてた人だし、サバンナーをこのようなイメージで使っているんだろうなっていうところまで、到達できるじゃないですか。
できますね。
話をすれば、っていうか。
でも、だから、そういう総合的に見る、みたいなことができたら、一番いいかもしれないと思います。
まあ、そうなんだよな。でも、むずいなと思うんですけど、それも最終的には読解力の問題に行き着くと思うんですよね。
その人が言っていることの言葉の幅みたいなものが、より広い幅を受け手が持っていなければ、わからないので。
そうですね。それはそうですね。
で、それを理解して、受け手が理解している限り、話し手は自分の言葉が持っている幅が狭かったりとか、あるいは間違っているということをわからないままずっと使い続けるっていうやつ。
例えばエモいみたいなね。僕が大学生の時に使ってたエモいは間違ってたんだけど、世間が僕に追いついてきたから、みんな僕と同じ間違いでエモいっていう言葉を使うようになっているので、今は。
でもそれは指摘されたから、お前のエモいおかしくねって言われたから、自分のエモいがおかしいのであるっていうことが気づけるし、それはエモいの意味をちゃんと把握している人がいたから、わかったわけだよね。
だから難しいなぁと。だからわからない。難しい。だから僕は結構話題とかにもよるのかなって思うんですよ。
だからリベラルという言葉遣いがずっと間違っていたても、別に居酒屋で飲みながら話す別にどうでもいいじゃないですか。そんなの。間違い続ければ。
場のやつだから。
そうそうそうそう。でも、あるパブリックな場所で、多くの人にリーチするときに、そのような態度を取るっていうのは、その態度が一個のメッセージになっちゃう。
でもそれを指摘するしかないとは思います。違いますよ。違うと思いますっていうしかないじゃないですか。
だから一緒にやってりゃ指摘できるけど、例えば今インターネットで起きてるのは、あなたの使い方間違ってますよって言っても、それを絶対認めないということをするだけで勝ちになるっていうゲームになっちゃってるから。
それが論破か。
論破になっちゃうから。だからインターネットで意見を表明している人のほとんどって、多分アカデミックな場で言うと、
違いますよって言われるから。
違いますよって言われたらおしまいのことばっかりだと思うんだよね。もうちょっと勉強してください、もうちょっと勉強してください、でおしまいになることばっかりがほとんどなんだと思うんだよね。
でもゲームルールが違うから、この今の言説空間においては、SNSというかもう、今の社会的なコミュニケーションのスタンダードみたいなのが、そちらになりつつあるなと思ってて。
フェミニズムと言葉の力
私はやっぱり、言葉を信号してるんですよね。やっぱり言葉で伝えるしかないって最終思ってるから、立場が違えば違うほど、環境が違えば違うほど、もう最終的に言葉しかないと思ってるから、
言葉の厳密性みたいなものに慎重でありたいと思っている。
えらいな。僕はなんかやっぱりちょっと違うな。話してて、かえちゃんと結構立場が違うなと思った。
あ、そうですか。
うん。僕は、僕の言ってることわかってくれよって思ってる。
あ、そうなの。
うん。そんなに難しい話してないだろ、わかってくれよって思ってるかもしんない。
説明してるだろ、わかってくれよって思ってるかもしんない。
あ、え、じゃあ私は何?私何ですか?私は何?
どうだろう。なんかもう少し、こう、切実性があるなと。なんかかえちゃんの話には他者がいるというか、僕はなんか究極どうでもいいところがあるっていうか、
言葉の厳密性をそんなに信頼しているというか信仰しているというより、僕の言っていることが相手に伝わってないのにイライラしてる。
あー。
ないしは、その第三者と第三者の話が伝わってないことにイライラしている。
あー。
その、なんでこんな厳密に書いてて誤読すんねんみたいなのがすごいイライラしてる。
うん。いや、それはイライラすることもある。
こんなに説明してんのに、なんでわからんの?みたいなのでイライラしているだけで、
その、この厳密性にみんなが合わせて、そのようにしなければならないとはあんま思っていないし、
究極的には別に僕の言っていることが伝わらなくてもいいというか、
あの、そうだね、別に伝わってないこと自体にはどうでもいいんだけど、
せっかく僕がおもろい概念作ったのに、なんかこう、しょうもない使い方すんなおい、みたいな。
取り上げてして違う感じになってるのが嫌、ムカつくみたいな。
ムカつくみたいなのはあるかもしれないね。別になんか、全然知らないところで勝手にやってもらう分には別にどうでもいいんだけど、
僕と話すときに間違ってるみたいなのとかは、そういう意味じゃないんだよね、みたいなのがずっと通じないみたいなのがムカつくみたいなところあるかもしれないね。
で、それが僕の作った概念だと、でも究極は僕が勝手に言ってることだから伝わんないのはしゃーないって思ってるし、
それがわからないことが相手のせいだとは思わない。僕はムカつくけど、相手が悪いとは思わないんだけど。
でもその、公的な言論空間において、すごくみんなにとって大事な話をするとき、政治とか社会問題とか話をするときに、
言葉をずっと間違って使っているのは、やっぱかなり良くないと思ってるかもしれない。
なんかね、私は不安になる、なんかその適当に言葉、私も全ての言葉を正しく使えてるとは思わないけど、自分が。
間違った使い方もいっぱいしてるし、お前が言うなって言われても仕方ないんですけど、
でもなんか、すごい適当に言葉を使ってるなみたいなのを見て、それが許されてる感じ、めっちゃ不安になるんですよね、なんか。
なるね。
え、その感じでこれいいんだったら、もう何も分からないし、もう共有、誰とも何も共有できなくなっちゃうよ。
一歩が大事だよ、一歩ずつが、みたいな気持ち。
話してること意味ないってなるもんね。
だって、集合Xが、集合A、集合Bにパッキリ分かれるっていう話をしてるときに、
Bの意味で、Aって言ってる人がいたら、Aの言葉とBの言葉がある意味ないもんね。
うんうん、そう。だし、それが共有できてなかったら、本当に何にも意味ないっていうか。
ずっと泣いてるに近いもんね。
うん。ローラディーンに振り回されてるとか、虎に翼、私は鬼滅の刃もだと思うんですけど、
このへんの作品は、すごく言葉が多い。
はいはいはい。
批判されてるものも見た。
台詞が多いですよね。
説明しすぎ、みたいな。何でも言いすぎ、みたいな。
虎に翼とかよく、朝ドアで見てる人多かったから、よく言ってたけど、
なんかもう、何でも言いすぎてしらける、みたいな。
言われてたけど、どれにも思うのは、
でも、そうしないと正しく伝わらないじゃんって思う。
できる限り、みんなに同じことを受け取ってもらおうと思ったら、
もう言葉でやるしかないじゃんっていうことだろうと思うんですよね。
メッセージの厳密性があるからね。
ローラディーンに振り回されてるは、
けっこうクイアーな人たちに関与のっていうか、
みんな違うよねっていう感じの世界が描かれてて、
そうなったら、ほんとにもう言葉しかない。
みんな感覚違うんだから、
私は異性愛者です、私は同性愛者のこういう人ですって、
自分で説明しないと、全員異性愛者だよねっていう前提の社会じゃないから、
だったら言わなくてよかったわけじゃないんだけど、言わずにいたんだけど、
みんなが、だってみんな異性愛者だもんねって思ってたときは、
それは別に確認し合わなくても前提だったから、言わなかっただけで、
違うってなったらもう説明するしかないってことだったと思うんですよね、ローラディーン。
虎に翼もそうだったと思う。
みんな違うということを表現するにはやっぱり説明させるしかないから、間違いなく伝えられたの。
っていうこと。
それはやっぱりもう言葉しかないから、
もう私とあなたで共通で使えるツールが言葉、
もう言葉に願いを託すしかないっていうことかなと思って、
だったらやっぱり厳密に使わないと、私たちはもう分かり合えないということになってしまうじゃんみたいな。
あと言葉を厳密に使うことの理由は、
厳密に使わない人、言葉の力みたいなのが弱まっていくからだと思うんだよね。
強雑物みたいなのをどんどんはらんでいくっていうか、
僕日本でフェミニズムみたいなものが、
なんていうかな、今一歩力が出ないみたいなところがあるのは、
フェミニズムという言葉自体が弱められてるからじゃないかなって思うんだよね。
それからその石田純一的なものをフェミニストと呼んでいた時代がかなりあるじゃん。
その女ったらしいで女をたらすために優しくする男みたいなのをフェミニストと呼んでいた時代がかなり長いじゃん。
だからフェミニズムという言葉がその分だけ弱められてると思うんだよね。
フェミニズムという言葉が想起するイメージが、
本来であれば女性の権利獲得のために、権利の回復のために戦う運動であるというイメージを
多くの人が持っていたはずなのに、半分を石田純一に奪われてるわけじゃん。
みたいなことが起きると思うんだよね。
だから文化資本っていうのはブリュデューが使うある種の使い方があって、
言葉の意味と文化資本
そうではなくて、カルチャーに人間がアクセスできるみたいなことで言ってしまうと、
ブリュデューが使った意味での文化資本っていうのは、言葉が使えなくなっていくんだよね。
だって相手がどっちで取るかわからないから。
そうですね。どっちで取るかわからないですね。
から厳密性が失われるんだよね。厳密に使わないと。
メタ認知だってそうじゃん。
事故の言動をメタ的に認知することっていう言葉だったのに、
物事を俯瞰的に認識することっていうのをメタ認知っていう意味としてもう入っちゃってるから、
相手がどっちの意味で取るかわからないから、すでに。
ってなると、もともとの心理学の学術用語としてのメタ認知っていう言葉の力はそれだけ落ちてるんだよね。
みたいなことがあるので、あんまり良くないなと思う。
そうですね。
僕は言葉に特定の意味を乗っけてやるみたいな遊びがあるけど、
なんていうかな、ある種の厳密把握をしているという前提だから遊べたわけだよね。
同じ前提をお互い共有できてるから、それに意味があるっていうか。
そう、道場のもともとの意味、茶室のもともとの意味がわかっているから、
そこに別の文脈を付与しても、我々の間では理解し合えるよねっていう話をしたかったのに、
元のやつがわかってなかったら比喩できない。
そうそうそうそう。
見たことないものは比喩できて使えないもんね、みたいな。
そうなんだよね。
いや、モンドン語とアヒアコンの違いみたいなもんだよって言われても。
そうそうそうそう、無理だから。
何の話ですかってなるけど。
でも、私とあなたの間には道場も茶室もありますよねって思って喋ってたら、
無かったみたいなことが起きてるみたいな。
無かったみたいなことが起きてる。
それぞれの、それぞれの言葉になってしまっているみたいな。
そうですね。
それがすごく素朴に言葉っていうのが使われてるんだなーみたいなのが、最近気がついたこと。
言葉の遊びと厳密性
そうですね。
なんか、別に軽減とか結論とかはないんだけど。
でもやっぱり、個人的には言葉に欠けたいので、っていう感じですね。
そうね。
僕はこの遊びが好きなので、もう少しみんな言葉を厳格に運用してくださいって感じかもしれない。
その前提がないとこの遊び成立しないから。
誤解されてると、思いつきの面白さみたいなのが減っていくのがやっぱり嫌だね。
これはなんか本当に幼児的な、3歳の子供が怒ってるみたいな意味なんだって怒ってるんだけど。
別にお前に怒る権利ないよみたいなやつで怒ってるんだけど。
せっかく、せっかくおもろいこと思いついたのに、思んなくしていくみたいな。
東京ハイカルチャーインテリとかね。
東京ハイカルチャーインテリと地方ハードコアプレーヤーを分けたのは、東京ハイカルチャーインテリのような虚ろなものを追いかけて序列を作るっていうのは虚しくないっていう話だったのに、
そこでまた序列関係を作って、私は東京ハイカルチャーインテリの上位のこのような存在であるとか、
地方ハードコアプレーヤーのほうが本当は偉いんであるみたいな話をしたら、全然おもろい部分伝わってへんやないかいってなるから、なーって感じ。
でもちょっとなんか、僕には高い作がちょっと今のところ思いつかないですね。どうしたらいいのかわからない。
うん、じゃあどうしようもできないんじゃない?
僕の作戦だいたい天丼だから、どんどん説明するっていうのになるから。
誰かにどうしてもらおうみたいなのは無理だから、私は言葉を信じるしかないって感じ。
あー、そっか、言葉を信じるしかないか。
最後の一人になっても言葉を信じるしかない。
あー、このように他に辞書がなくなっても僕は辞書を引くみたいな。
そうなんだよね。なんかそうなんだよな。なんかもうちょっと終わりたいところはあれなんだけど、すぐ定義の話するやつもムカつくんだよね。
言葉って領域があるじゃん。辞書の定義だけが全てじゃないじゃん。
辞典で言えばさ、その言葉が、その縮約版の辞書にはちょっとしか書いてないけど、日本国語大辞典とかは書出が出てて、何世紀にはこう使われていて、何世紀にはこう使われていて、最近はこういう風に使われていますみたいなの書いてあるじゃん。
広がりがあんねんみたいなのをすごい感じてて、言葉を使うときにその人が広がりを作ってるときもあると思うんだよね。
まあ新しい意味を乗せてるというか、それをじわり広げているときってあると思うんだ。
そのときに、そのじわり広げたのに、英文になれよみたいな。
辞書ではこういう意味になってますからみたいな感じで、この領域の持つ豊かさを殺すなみたいなのもムカつくんだよね、僕はね。
だから両面作戦になっているんだけど。
そのときどきによって。
そのときどきによって。厳密すぎてムカつくこともあるし、自由すぎてムカつくこともあるって感じかもしれない。
厳密ってないといけない場面もあれば、そのときがあっていいときもあるってことかもしれない。
そうそうそうそう。コンテクストがあるってことかもしれない。
僕たちにはコンテクストがあるってことかもしれないね。
どうですか?
そうですね。
言葉が、だから、私もラジオやったりとか、なんとかしたりとかして、自分のこともわかるじゃないですか。
しゃべってわかる自分のこととかあるじゃないですか。
だから、あらためて、相当人より言葉が好きなんだろうなと思いますね。
一個ずつの言葉しかり、できるだけ美しく使ってみたいと思ったりとかするみたいなのとかも、相当好き。
みんな好きだって結構思ってたけど、結構特殊なのかもっていうのは最近。
確かに。
言葉オタクなのかもしれない。
そうね。
コミュニケーションのスタイル
オタクってよりは、ほとんど信仰者かもしれない。
言葉信者なんだね。
言葉信者。だから、もうちょっとここ遊びをもって美しくしろとか思うし、
いや、ここ美しいとかじゃない、厳密さのほうが求められてるから、もっと大事にしてくれとか思ったりとかするの、相当好き。
だから、きっと服が好きな人が、この色とこの色合わせないでって思うときもあれば、
同じ配色でも、いや、ここはすごい良いとか言うときもあるじゃない、みたいな感じで、言葉が好きなんだろうなと思います。
なるほどね。
なんか、そう言われてしまうと、僕はめちゃくちゃ雑に言葉を使うからな。
聞きかじったビジネスパーソン語とかを、すぐよそで使うからね。言うにもよくわからないのに。
ビジネスパーソン語は、私の中であまり好きじゃないタイプの言葉群だから、使わないようにしてる。
僕、意味がわからなくて、よく使ってるの。フィージビリティとかがあるからね。
いや、知らない。その言葉知らない。
フィージビリティって何?って思いながら使ってる。
なんかね、ちょっとわからないな。
日程のフィージビリティみたいな使い方をするのかな。
それ英語ですか?
多分、英語だと思う。
ビリティ?
うまいこと調整できるかどうかの可能性っていうか、それができるかどうかみたいな。
じゃあ、フィージビリティとケイパビリティは何が違うのかみたいなのもある。
私の中で、勝手な私の言葉信仰者としての思考で、思考品の思考で、ビジネスパーソン語美しくないって感じです。
ビジネスパーソン語美しくないね。
美しくない。
美しくない、美しくないけど使っちゃうんだよな。
引きかじった変な言葉、ちょっと使いたいからな。
使ってみたくなる。
使ってみたくなる。
使ってみたくなる、なるね。なる。
気づくと、誰も使ってない言葉を使ってたりするしね。
なんか、野良ジョーの初期の方で言ったと思うけど、気の毒しいとか。
気の毒しい。
そっちの方が美しい。美しい。なんか身から出たって感じ。
身から出た。気の毒しい。
美しい言葉。
僕の身体勢から出てる言葉。
そうそうそうそう。
言語学者の人と話したんだよね。
気の毒しいっていうのを僕使ってるんですけど、
どう思いますか?みたいな。
ありますかって。
ありますかって。
うーん、うーんって言ってた。
なんか結構あの、結構1時間ぐらいそれについて話してたけど、
あの、僕も酔っ払ってたから、ほとんど何も覚えてない。
言葉を覚え始めぐらいのちっちゃい子が、
僕は、応用で違う、そういう感じで言葉を使うんですね。
気の毒しいみたいな、本当はないけど、
確かにこのヌールだとそうなるよねみたいな言葉、
時々使うんですけど、美しいなあと思いますね。
それほら、みずのさんの本でまとめられてるから。
今日ゴリラを植えたよってやつ。
そうそう、そういう、そういうやつ。
温まると冷たまるみたいなやつでしょ。
そうそうそう、そういうやつ。
美しいなあって思って。
冷たまるもんねってなるもんね。
そうだよね、そのルールだったらそうだよねっていう。
世界の方が不条理だよねってなるもんね。
そういうのあるんですよね。
うんって言ってたかな。
そうそう、いいですよね。
いいね。
ぜひみずのさん、今日ゴリラを植えたよ、みなさん買ってくださいね。
最近会話を、ちょっと待って、ちゃんとした署名を調べるね。
新刊出たんですよ、みずのさんの。
めっちゃ売れてるやつ?
めっちゃ売れてるやつ。
で、これうちうちの話で聞いたんで、野ラジオで言っていいかわからないんですけど、
僕の異想郎という経験を経て思いついたことが、
ふんだんに盛り込まれている本らしいです。
そうなんだ。
それ読んだらわかるんですか?
読んだら、読んだら僕の話だということはわからないけど、
なんていうかな、僕とのコミュニケーションで変だなと思ったことの謎がわかるらしい。
すごい役に立ちましたね。
会話の0.2秒を言語学する、みずの大輝。
すごい。
たぶん身長者から出てるのかな。
だから普通人間って0.2秒で返事するらしいんだ。
だから野ラジオで0.2秒で返事しないじゃん。
しない。
だからみずのさん的にはおかしいじゃんってなってるわけ。
それはなんでだろうっていう本になってるらしい。
余裕で5秒ぐらいしかない。
5秒とかじゃないよ。1分とかしてないよ。
そうなんだ。これちょっと変なんだ。
変、変。わかんない。変らしいよ。
そう。
だからみずの大輝ぐらいの白狼狂気をして不思議だって思わせたコミュニケーションスタイルこれ。
だから人のコミュニケーションスタイルに文句言ってる場合じゃないよ。
よく言われてるじゃないですか。
他のポッドキャストではない間があるとか言って、え?とか思ってたもんな。
なんのことだろうと思ってた。
普通、他のポッドキャスト、間を詰めますからね、編集で。
僕、詰めてないんでね。
でも、詰められたら違うもんね。
考えたもんね、それぐらいの時間。
考えたもんね。
考えたのなかったことにできないもんね。
できない。その結果だからね。
しゃあないよね。
あ、そうなんですね。0.2秒って、ちょうど短いですよ。
うん、そうよ。
すごい、そんな瞬発力でみんな喋ってるんだ。
ね。
うん、すごい。
うん、バカだと思われるはずだよ。
うん。
返事しないんだもん。
うん。
普通、返事するところ、返事しないんだもん。
LINEとかも、次の日に思いついて、
昨日の話題で、みのこしさんにLINEしたりしますもんね。
うん。別の話題の後に、メンションして、話し直したりしてるもんね、僕らね。
そうそう。だって、思いついちゃったんだもんね。
しゃあないもんね。
なんて、そりゃあ、あなた、別の話題してた時に、別のこと考えてましたから、私みたいな話だからね。
だからね、そう。人間って0.2秒で返事するらしいよ、普通。
あ、そうですか。
うん。
早いですね。
早いね。
言葉の重要性
すいません、あの、人のコミュニケーションに文句垂れてすいませんでした。
すいませんでした。
それではまたお会いしましょう。ごきげんよう。
ごきげんよう。