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はい、こんにちは。今日は8回目ですね。 今回のテーマは、上手に話せる方が良い?、逆じゃないです。
前回のポッドキャストで、私がですね、 無料の方が得っていう、本当に逆じゃないっていう話の中で、
企業の中で自社の製品を使うことについて、 何か言いたいことがあったんですね。
言いたかったことは、自社製品を使うってことは、 他社製品を使ってみる機会がなくなるので、
会社としては自社製品を使って、それが売れた方が 良いっていう価値観なんだと思うんだけど、
実はそれ、他社製品を自社の社員が使ってみる機会がなくなって、
自社の製品というものの良くなっていくっていうのを 阻害してしまうし、
社員の自分が使う機会っていうのも 奪ってしまうんじゃないか。
それって良いことっていうか、企業にとって 良いことのようでいて、逆じゃないか。
っていうことを言いたくて言い始めたんですけど、
なんかうまく言葉が出てこなかったし、
記憶がなかなか鮮明に覚えてなくて、
文脈をエピソードとしては頭の中にあって 何か言いたかったんですけど、
それを言うまでに時間がかかってしまって、 そういうことが私よくあるんですよね。
なので結構その前にもちょっとお話ししたんですけど、
コメントを求められるとか、
セミナーとかでも何て言うんですかね、 公表してくださいみたいなのが、
たまにそういう機会があって、それすごく苦手で、
例えば学校での先生たちの実践っていうのを聞いて、
それについて良いことを言わなきゃいけない みたいに思ってたときは、
すごくそれが苦痛だった。
思ったことを言うと失礼になるかもしれないし、
でもよく思ったことを言えないのも、 何のために来たんだろうってなるので。
最近はあんまりそんなに良いことを言おうとか、 上手なまとめをしようっていうことは
あんまり考えていなくて、相手の言ってることを理解して、
それに自分は時間がかかるとすれば、ちょっと時間をかけて、
それでまたフィードバックしていこうっていう、
少しフラットな形で考えることができるようになったので、
少し話しやすくなったんですけど、
やっぱりこの社会の中には上手に話せる、
即時的に相手の話を理解して、
上手いフィードバックとかコメントをすることが、
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とても賢い人っていうか、
そういう価値観が、
それを私は内面化してたのかなっていうふうに思うんですよね。
なるほどね。
ひのさんもそういう、私の様子とかを見て、
よく私が緊張してたり、上手く話せてないときも、
なんかすごい待ってくれるし、
司会の話の時もお話ししましたが、
司会の役割ってこういうところだよ。
始めてみんなに振って終われば、
それが一番大事な役割だよって言ってくれて、
そういう価値観って、あんまり世の中に名分化されていないように感じていて、
それをひのさんは意識してるんだなっていうのを感じるんですけど。
でも、司会が始めないと誰が始めるんだっていつも思ってるし、
司会が終わらせないと誰が終わらせるんだってね。
司会ってかなり、その場においては大きな権力を持ってるから、
その権力を意識するっていうのは、
常日頃大事だよねっていうふうには思ってますね。
それと同時にイベントなんかで、
フェミゼミ&カフェはそういうことしないんだけれども、
企業の人とか自治体の人とか、
いろんな異業種の人たちが一緒になって、
シンポジウムとかイベントとかやったときに、
必ずじゃあ最後、いのさん、何か一言お願いしますみたいな、
最後の一言を振られるっていうことがあるんですよ。
あれがね、すごい嫌だなって。
本当に心の底からやめてほしいなって。
もうこの場台無しだよって思う。
そのあたりが嫌か、もう少し。
つまり、いろんな立場の人が一増に返すっていうね、
多様性っていうのが重視されている場であるにもかかわらず、
大学で働いている人がその場において、
特権的な位置に据えられてしまう。
一番最後にね、しかも。
そういう役割を最初から担って出席する会議みたいなのは、
あり得ると思うんですよ。
だけど、せっかくその多様な立場の人がいるんだから、
多様な意見を出し合おうねっていう想定というか、
目的の場において、それやられちゃうと、
いきなり権威主義がそこで持ち出されちゃうよねっていうふうに思って。
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それすごくやめてほしいなって思って。
コメントっていうのを指定討論みたいな、
学会だと誰かが、司会は司会でいて、
発表する人がいて、
それについて少し関連分野で知っている人が指定討論っていう、
みんなが持ちそうな共通のことだったり、
これまでの背景と結びつける役割だったりする人がいる。
そういうときはいいけど、それはそういう枠組みだから。
もう少し平場でやってるときに。
そう、自分もワンノブゼンでそこに参加してるつもりだったのに、
一番最後に役割を付与されて持ち上げられるみたいな、
それは別に悪意もないと思うし、
最後の締めの言葉みたいな、
最後の締めが必要だったら一本締めでもすればいいんじゃないかって思うんだけど、
そういう締めの言葉が欲しいみたいなさ、
そういう文化っていうのがあるんだと思うんだけど、
でも、すべてが台無しになる感じがそこでして、
いつも戸惑う。何を言おうかなって。
まとめるっていうのはしたくない。
いいから、だってそうでしょ?
せっかく多様な意見が出てるのに、それまとめちゃったらさ、
意味ないじゃんって思うのね。
いつもずらして、宣伝とか情報提供に流したりするんだけど、
最後に振るのやめてほしいなって。
そのまとめの時に、やっぱり何を切り取るかっていうのが、
その人によって違うから、
それが切り取られなかったものの価値が失われるような感じがしますか?
多様な形でいろんな意見が出てたのに、特定の意見だけを拾うと、
それを勝ちづけることになって、他を無視してしまうような感覚?
それもあるんだけど、そもそもそういう多様な人が集まる場っていうのは、
例えば2時間のイベントだったとするでしょ?
その2時間で集結するものではないというか、
終わりになるものではなくって、
それぞれがそれぞれの観点から見えたもの、気づいたものを持ち帰って、
それぞれの現場でまた徐々に徐々に、
あれって一体何だったのかな?とか、
あそこであの人が言っていた、あのことはこれとつながってるのかな?っていうのを、
日常実践の中に落とし込んでいくっていうのが大事だと思うんですよ。
でもそのイベントの最後で、その場で一番偉いとされる人が出てきて、
それでそのまとめがどんなにいいまとめだったとしても、
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いいまとめであればあるほど、その場の参加者っていうのは、
ああそうか、今日話されたことはそういうことだったんだっていうふうに、
その枠組みの方に引っ張られていって、
自分自身の理解っていうのをそっちに持っていってというか、
縮減していって、それで本来持っていたはずであろう、
その違和感とか、それぞれがなんか気づいた、
まだ言語化されていないいいものっていうのを忘れてしまう、
なんかそういう効果を持ってると思うんですよね。
大体だから、私はうまくまとめないっていうことを意識してるけど、
私の同僚にはすごくうまくまとめる人がいて、
それを意識してやってるんだって、やっぱりお持ち帰りしてほしいから何かを。
サービス。
サービスとしてやってるって言ってて、
で、うまくまとめればまとめるほど、
ああ今日もいいお話聞いた、今日も切れ味のいいまとめだった、
で帰っちゃうんらしいんですよね。
ダメじゃんって、むしろ引っかかりっていうのを、
いろんな形で残して帰ってもらった方が、
イベントから帰って、それぞれの現場に行ってもらった方がいいじゃんっていうのが私の考えなんです。
なんか私その、まだまとまっていない状態のものを持ち続けるっていうのが、
やっぱり自分には必要で、すごい時間かかるんですよね。
それが消化されてくる。
そうだと思う。
それでなんかこういうことだろうか、ああいうことだろうか、
とか日常で、この間言ってたこれとなんか関係してるのかな、
そういうのがエピソードとして自分の中に蓄積していくので、
まとめによってその作業が止まっちゃうかといえば、あんまりそれも止まらないんですけど、
たぶんまとめもまた、なんていうのかな、一つの情報なので、
あんまりそういうことはないけど、
だから平昌さんの場合あんまりその権威主義がないから、
そうなんじゃない?
フラットにそれも一つの意見として受け取れるんだと思う。
でも井野さんと研究会とかをやる機会が増えたことで、
私の中ですごく自分の意見が言いやすくなったのは、
そういうまとまりのないことをあんまり言っちゃいけないと思ってたんですよ。
質問とかあるんだけど、あんまりうまく質問できないかもしれないっていう。
なんか全然、まだ自分の中ですっきり繋がっていなくて、
話してみようかなって思って話し出したら、うまく話せる時もあれば、
ちょっとタコの糸が切れて何の話してたんだっけってなっちゃって、
申し訳なかったなみたいな、その貴重な質問の時間を。
だけど私にとってはそれは大事な話だったから、やりたかったんだけど、
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それを他の参加者の人にとっては、何の話だったんだろうっていう風に、
思われちゃうんじゃないかなって思って言えなかったですよ、ずっと。
なるほどね。
本来であれば多様な視点から、いろんな質問や意見を出す場なんだけど、
それがそうではなくて、それぞれのセルフプレゼンテーションの場になってるってことか。
なんかうまく言わないといけない。
考えてることが理路整然とそれで、言えないと伝わらないから、
そんなことはないんじゃない?
そう、そういうことを言ってくれるので、
そうか、またそうやって自分がちょっとタコの糸切れそうでも、
言っていいってこと自体がその場をインクルーシブにするし、
他にもそうやって思ってる人がいるかもしれないから、
私がそういうちょっと取り留めもないタコが糸が切れるようなことを話していることも、
ああいいんだなって思えば話しやすくなるかとか、
やっぱりいろんな視点でそういう見方もあるよねとか、
何があの人言いたかったんだろうなっていう風に考えられれば、
なんかこう、その人とまた話した時に話題にもなるだろうし、
だけど何も言わないと、その相手が何を考えて、
私が何を考えているのかが全くわからないわけなので、
最近はだからかなりフラットに研究会とかでも、
自分が登壇者であってもですね、
あんまりこうまとまってないことも起用わずに言えるようになって、
すごく参加しやすいし、
それがその場を少し柔らかくもしてくれるのかなっていう感覚があるんですよね。
なので、最近学校に授業をよく見に行って、
子どもたちと社会モデルを考える授業実践っていうのを、
日本のいろんなところで先生たちに実践してもらってるので、
それを見に行くんですよね。
そうすると授業の最後に先生たちって必ずまとめを子どもに書かせる。
で、その時は最低一番やりやすいやり方としては、
ワークシートを配って手書きさせるっていう方法で、
これって、そんなに早く授業でその日新しく学んだことについて、
書けるかなーって思いますよね。
もう当たり障りのないことしか書けないよね。
そうそうそう。
私は子どもの時ずっと何書いていいかわからないし、
まだそんなに考え途中だから、
うまく言葉にもできないし、
書けないよねって止まってたタイプ。
だからあんまり人にも言いたくなかった。恥ずかしかったですよ。
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うまくしゃべれないからね。
なので言わなかったんですけど、
そういうことっているんじゃないかなーって思っていて、
手書きだけしかないので、
手書きで文字で文章を出力するって相当なことなので、
何度も書いてることが出てくるだろうなっていう。
やっぱり自ずと慣れ親しんでるね。
明日から障害者に優しくしようと思いましたとかね、よく出てくるよね。
面白かったとか、そういう話はすぐ出てくるし、
もやもやしてた時のそのもやもやを言葉にできないですよね。
とってももやもやしましたっていうふうに、
書いてくれたらいいなと思うんですけど、書けないよねって。
それで例えば表現の手段がもうちょっと、
例えば絵を書いていいとか、動画を作っていいとか、
ダンスしてもいいとか、そういう風になってたら、
なんかちょっと子どもが考えたことの雰囲気がわかるのかなと思って、
この最後にまとめを書くのをやめたらいいのにって。
本当にそう思う。
思いますよね。
学校だけじゃないんですよ。
ワークショップっていうやつも、結構そういう最後に参加者が持ち帰れるように、
シートを作成してほしいみたいに言われることが多くて。
あれ持ち帰るためにやるの?
持ち帰るためにもやる。
特に行政の場合は、やはりそれ自体がアウトプットというか、
にもなるから、必ず何かを書かせるっていうことをしますよね。
その場で出てくるものってね。
学校の場合はそれが評価とね、結びついていたりして、
その評価っていうのも、じゃあまとめやらずに何も書かせないと、
その授業を子どもにどう伝わったのか、評価できないっちゃできないんですよね。
だからそのどこが伝わってて伝わってないかを知るためには書かせなきゃみたいなことあると思うけど、
書かせてもそれは評価できないから、
やっぱりやめたほうがいいんじゃないかなとかって、
もうちょっとじっくり取り組んでからやるならばいいかもしれないけどね。
あと1回の授業、1回のワークショップで伝わることとか、
理解できることってすごく限られてるはずなんだけど、
1回1回の成果っていうのを求めてしまう、
そういう傾向は学校だけじゃなくてあるなっていうふうに思います。
そうですよね。
じゃあ手を挙げさせて話させたっていうことも、
誰かがうまく話したら、ああそういうふうに言えばよかったのかっていう。
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子どもはね、特にね、それあるよね。
全員同じことを言ったりして。
それが正解でしたかみたいな。
本当は正解ないんだけどね。
本当はだから、もっとね、多様な回路があったはずなのに、
さっきのさ、うまくまとめてしまう問題と同じで、
回路が閉じてしまうっていうか、
そういうのはあるかなというふうに思うし、
だいたい書かせるっていうのも本当に数分で書かせるから、
書けるものは少なくて、本当に大事なのは書けなかったもの、
言葉では拾えなかったものの方が大事なんじゃないかっていう可能性を考えながら、
じゃあどういう締めにすればいいんだろうっていうのをね、
ちょっとこうクリエイティブに考えていくことの方にね、
エネルギー向けたいよなと。
そうですよね。
その時間だけで何とかしようとするんじゃなく、
学校なんて日常生活だから、
日常にね。
そうそう。それはだから、私が話した、
異業種の人が集まるような場もそうで、
それぞれの現場、文脈っていうのがあるから、
そこにそれぞれがまた帰って、考えていく。
なんか部分的には実践してみる。
で、なんかうまくいかなかったぞ。
で、また持ち寄るみたいな、
そういうなんかプロセスがうまく作れるといいんだけど、
なんかどうしても一回一回になっちゃうし、
特になんか企業の研修はもうね、一回で終わりみたいなことも多いから、
まあほぼほぼこれは意味のない実践だよなと思いながらやってますよね。
そうですよね。
このうまく話せるのがいいことっていう価値観をちょっと広がせていきたいですよね。
そうでもないんじゃないのっていう?
そうだと思いますよ。
うまく話せる人とか、
あとすぐにレスポンスできる人が頭のいい人っていう誤解があるけれども、
そうじゃないと思うんですよ。
うまく話せる人って、私もよく嫌味だよねって言われるんだけど、
まあなんとなく綺麗にまとまりましたねっていうことで。
うまくまとめた人に?
そうそう。苦笑いされるんですけど。
やっぱり、枝葉全部切り落として幹だけ残しても、
切った枝や葉っぱに大事なものがたくさんあったりするし、
特にマイノリティのことをやってたりすると、
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幹だけ残してどうするよって思うので。
大事な。
そうそうそう。
それでやっぱりさ、自分たちにとってはすごく大事な歴史だったり、
考え方だったりを切り落とされるっていうことだから、
暴力的な行為でもあるんですよね。
だから、整理する人ってね、慣れてるんだけど、
慣れてるからって、どこででもここででもね、
重宝されて、枝葉切り落としてっていうのは控えたほうがいいよねって自戒を込めて。
なんか、私アウトプットって、出してみて、自分が考えていることを出してみて、
なんか自分が思ってたことと、なかなか近いことを言えたなって思ったり、
出してみて、ちょっと違った、ちょっと修正してみたいに、
頭の中で整理してからアウトプットできる人もいると思うんですけど、
言葉っていうのは紡いでるから、子供なんか特にそうだけど、
出してみて、それが相手に伝わったかなっていうので調整していくプロセス。
だから、言ってみるっていうのは、やっちゃいけないわけじゃなく、
隣の人に話してみるっていうのはすごくいいなって思う瞬間が、
つい先日会って小学校で、小学校でグループディスカッションやっていて、
3年生だったんですけど、あるテーマで話し合いをしているときに、
ある男の子が、順番に話していくっていう文脈だったから、
順番の番になったけど、なんかすごく、うーんと、うーんっていう感じで、
喉のところまで来てるんだけど、言葉にならないでまた下がった。
またトライしたぞ、また下がったぞっていうのを、結構2分ぐらいやってて、
でもその周りにいた子はそれをよく聞いていて、待ってるんですよね。
それでたまにちょっとこう、ちょっとでも一言でもいいんだよって励ましていて、
それでまたその子が言おうとして、
で、今度ちょっと無理だってなって、一回ギブアップしたら、
じゃあ後でまた他の子が先に話してから最後に言うって言って、
じゃあそうするって言って他の子に回って、
で、他の子が言い終わった後に、まるまるくんもう一回どう?って言って、
そしたらまた言おうとトライしてて、
その時はやっぱり言うことはできなかったんだけど、
なんか言葉に紡ごうしようっていう、
それをこうプロセス踏んでるなっていうのが見えて、
あ、とてもいいなぁと。
そういうのを見るとやっぱ感想欠かせてしまって、面白かったとか。
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動かできるものだけを出させるっていうのはね、もったいないですよね。
もったいないなって思います。
それなんか今の話聞いてね、私大人でもあるなって思ってて、
先日フェミゼミ&カフェのある講座で、
参加者ね、結構いろいろと話してくれる人も多いんだけど、
やっぱりすごく言葉が出てこない、なかなか出てこないっていう人がいたんだけど、
ずっとみんなで待ってたんだね。
何度もトライして、なかなか出てこない。
何度もトライして、なかなか出てこない。
最後に出てきたんだけど、すごい本質をついた意見でね、
それはすごい大事な時間だったなって思ったんですよ、その瞬間。
だから、ああいう場って言えることしか言わないっていう風になっちゃってて、
実は言いたいこと、聞きたいことが実は言えても聞けてもない時ってあるんだろうなって、
改めて気づかされた瞬間で。
結構そういう喋ろうとしてるっていうのは、なんか大きなチャレンジを、
まだやったことないことをやってるという時間だから、
すごい大事ですよね。
そういう時に、やっぱり代わりに言ってしまったり、
例えば大人だったらこういうことなの?それでもああいうことなの?どっち?とか、
押し込めようとね、枠の中に。
そうそう、回路を閉ざそうとしていくからね。
そこのある種の暴力性みたいなものを意識してないと、
特に言語家が器用にできる人ほど、先に言っちゃうから。
自分の枠組みに合わせようとするというか、
なので、自分はね、そういう言語化する機会がより多く与えられてきたに過ぎないんだっていう、
まだまだ、自分が気づけてないことって本当にたくさんあるから。
なんかさ、それと同じことで思い出したんですけど、また、
アンケート?アンケートで、4件法にするかとか、5件法にするか、
4件法っていうのは、とてもそう思う、そう思う、あまりそう思わない、そう思わないみたいなのが4件法。
その間にどちらとも言えないみたいなものを入れると、5個になって5件法なんですけど、
なんか子供にアンケートする時に、
4件法だと、あ、5件法だと真ん中に集中してしまうっていう話があるようで、
子供だけじゃないですよ。
子供だけじゃない。
だけど私は子供にアンケートするなら、4件法の中に押し込めてしまうっていうのは、
これに当てはまらない子どうすんのって、答えられないよね。
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答えたくないとかあればいいし、ちょっとこの中にはないとか、
作ってもいいのかもしれないけど、そうするとアンケートする方としては困るわけですよね。
そのデータが無効になっちゃうから。
だから枠に押し込めたいんだけど、でもそれってすごく問題だよねって。
この考えていることを知ることが目的だとすれば、
まあアンケートの場合は知ることが目的じゃないのかもしれないけど、
そこでそぎ落とされて、4つの中に分類されてしまうっていうことの問題も、
ちょっと考えてもいいんじゃないかなって思って5件法にしたり、
あえてしてみていたりして、
そういうなんか、より小さな声を拾おうと思ったら、
ちょっと工夫をいろいろしないと難しいよなって。
そうですね。
では今回は第8回目、上手に話せる方がいい?逆じゃないの?
っていうお話をしてみました。
はい。
ありがとうございました。
ありがとうございました。