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2022-05-09 23:37

【595GMV】甘えは相手あってのこと

100%甘えさせられないなら甘えることは決してできない
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おはようございます、グッドモーニングボイスです。
先日、ちょっとした発見がありました。
この種の発見は不思議で、自分にとって目当たらしくないのですが、
とても大事な発見をしたという印象が根強いのです。
クラゾノさんとお話ししていると、本当にこういうことは僕には多いのですが、
その話を考えたのも、ある意味、知ったのも決して初めてではないのですが、
初めて聞くような話に聞こえて、そのことがとても大事だと言ったことが多いのです。
これもまさに今日の話もそうで、これまでも同じような話は私はしていますし、
何なら本にも書いていたりするのですが、
でも自分にとってこれほど腑に落ちたのは、今回、昨日だみたいな、そういう話なんですね。
しかも、こうやって話してみると、意外と自分の中の衝撃的な部分が出てこなかったりするというのも、
よくあることなんですね。これから喋ってみないとわからないのですが。
どういうことかというと、例のあれですよ。
甘えさせることでしか甘えることはできないという言い方はしていないのですが、
結局そういうことなんだなと。
グッドバイブス流に言うとあれなんですよね。与えると同時に与えられる。
他の言い回しも他の事例もいろいろあるのですが、
実は全く同じことがドイタキオさんの甘えの構造にもちゃんと書いてあるんですよ。
私は全く同じようなことを自分の顔色をうかがう本でも書いたんですよね。
なのにこういうことが起こるというのが不思議なんですね。
まず一つは、これをとことんネガティブな方を追っていってみるというのが大事だなと思うんです。
ドイさんが甘えの構造の中で甘えられない病理という、
甘えられない病理が普通に起こるとノイローゼン、神経症ですね。
それがグッド深刻になると精神病。
つまり、より重篤な問題になってくると。
ドイさんに寄せると全てが甘えられないというもののグラデーションになって、
そこがだから甘えの構造が日本人論だというのは誤解だと言われているゆえんなんですね。
なぜならば神経症はノイローゼン、精神病は精神病ですけれども、マスキゾヘルニアとかああいうやつですけど、
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ああいったものは海外にもあると。
ドイさんに寄せればそれはどちらも結局日本人だろうとドイツ人だろうとアメリカ人だろうと甘えられなさがひどくなっていった。
あるいは甘えるということをしたことがないまま大きくなってしまったことによる病理だという捉え方があるんですね。
それだけかどうかは難しいところもありますが、まずそういう観点が彼の本から伝わってくるんですよ。
そう考えてみたときに、ドイさんはさらにですね、
甘えられないあるいは甘えを知らない人は自分がないという問題に必ず直面する。
私たちも自分を見失うということはしょっちゅう起こるんですけど、それが神経小水準ということになるんですが、
自分がとことんない人をまず考えてみるわけです。
そうすると何が起こるかと。
例えばなんですが、そもそもこの番組でもおなじみのニードですね。
つまり赤ちゃんは泣く。
赤ちゃんは彼、彼女は赤ちゃんは自分が泣いているなどという認識はない。
つまり自分がないんですよ。
こういう状態に陥るときって私たちもあるわけですね。
例えば何でもいいんですけれども、会社で大きなミスをしたと。
上司がものすごく怒ったと。
自分はものすごい落ち込んだと。
そのときに強いニードが発生するんですよね。
何を望んでいるのかとにかくはっきりわかる。
それよりはるか以前にとにかくつらいという状態ですね。
このつらさを何とかしてくれってなるじゃないですか。
でもそのつらさは、これは倉園さんだけが言うわけでは決してなく、
ほぼこの種の問題に携わった人は、おそらくほぼ全ての人が言います。
そのつらさは自分で作り出したものだと。
これは自分がミスしたせいだという話じゃないですよ。
自分で自分をつらいという情念、情緒、感情、あるいは心理状態に追い込んだのは自分だってことなんですよ。
自分がやらかしたせいでつらくなったんですっていう話ではないんですね。
それは世間一般で言うところの話ですが、
倉園さんがグッドバイブスで言う話、あるいは禅の話とかでもいいですが、
あるいはまたカウンセリングの話、精神分析の話、みんな言いますよね。
そのつらさを作り出したのは自分だと。
つまり、非常に簡単に言えば、会社の問題はなくならないかもしれないし、
やらかしてしまったミスも長期的にできないかもしれないけど、
そのつらさ自体は本気でやろうと思えば立ちどころに消失させることはできる。
なぜなら自分が作り出しているから。
これはちょうどですね、見えない。
何も周りが見えないんですって言っている人に、目を開けてごらんなさいっていうのと同じことなんですよ。
だけど、私たちはそうは思わないってことなんですね。
特に、自分がない状態になったとき、なぜ自分がないのかというと、
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このつらいっていうのは自分が作り出しているってことに気づけないから自分がないんですね。
やらかしてしまったからだとか、上司がすごい怒ってくれるとか、
やらないようにする仕掛けがあったらいいのにとか、私たちはそういうふうに考えるわけです。
そのNになった原因というものを自分の外に見ようとしますね。
というか、外にあるものだと思います。
過去の自分とか、なってないシステムとか、怒りすぎる上司とか、いろんなものに見えます。
だけれども、その感情自体を作り出しているのは自分である。
泣いている赤ちゃんはそのはずなんですよね。
なぜ泣いているのかは赤ちゃんにもわからなければ、お母さんにもわからないんだけど、
泣いているその不快感というものを作り出しているのは自分ですよね。
その原因は自分自身にあるわけですよ。
熱くなっているのかもしれないし、お腹が空いているのかもしれないんだけど、
全部自分が作り出しているんですよ。
自分自身が作り出しているんですよ。
熱くなっているのかもしれないし、お腹が空いているのかもしれないんだけど、
全部自分が作り出しているんです。
ただ赤ちゃんにはそれが見えない。
だからニードなんですね。
その原因を特定することが犯人にできない以上、周りの人が推定してあげるしかない。
だけれども、大人は本当はそうじゃない。
作り出してしまったニードは自分が作り出しているんですよ。
それが見えてこないんですね。
たとえ過去の自分がやらかしたせいだとしても、そうじゃないんですね。
ニードを作っているのは自分の感情だと。
自分の脳みそだと。
そういう自分の身体だと。
結局身体なんだけど、自分なんですね。
これがなくなるというのが神経症の始まりなわけです。
だけれども、この水準であれば結局のところ、
自分がこの感情を何とかしないといけないんだなとどこかで分かっているから、
それができるんですね。
つまり自分で泣き止むことができる。
泣き止めることがなかなかできない。
つまりあやしてもらいたいというふうに思うのは思うんだけれども、大人でも。
あやしてもらわなければ死んじゃうみたいにはならないはずなんです。
ところがある種の水準に達してしまった人は、
人があやしてくれるべきだと考えてしまうんですね。
これがたとえばある程度年がいった幼児は、
例えば兄弟を憎んだりするわけです。
お母さんが自分をあやしてくれるべき時間帯なのに、
お母さんは兄弟の方に行っちゃっているせいで、
自分はこの不快感から逃れられないんだと考えるわけです。
つまりあいつ邪魔だと。
こういうふうにでも考える大人の人もいっぱいいるじゃないですか。
この邪魔だという考え方というのは甘えを強烈に反映しているんですけれども、
この場合の甘えにどういう無理があるかというと、
お母さんとは自分であると考えているんですよ、心のどこかで。
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そうですよね。お母さんが自分自身であると考えない限りは、
あの兄弟が邪魔をしたせいで私のニードが満たされない、
どうしてくれるんだ、などとは思わないはずなんですよ。
でもそう思いますよね。
そう思う子どもがいても別に不思議なことはないですよね。
こういうところが大人になった場合ですね。
神経症水準から精神病水準に移るグラデーションの中で、
つまり甘えというものが満たされない程度がひどくなっている中で、
自分というものを見失う程度がだんだん深みにはまっていくと、
ちょうど境界線にあるからボーダーとか行ったりするんだと思うんですね。
ボーダーラインということですね。
でももっと先へ行くと何が起こるかと。
例えば私たちが、私もつい先日もありましたけれども、
何か物忘れをすると。
普通我々は物忘れをして何かが思い出せないな、あれ何だったっけなとなった時に、
これは自分発のNだって気づいているじゃないですか。
自分が我々にはあるから、不快ですよね。
何かを忘れて思い出したくて思い出せないな、不快です。
あるいは漢字のテストとかでも、
どうしてもあれが何編だったかが思い出せないっていうのは不快です。
これはNですね、ニードですよね。
でもこのニードは自分発だって知ってますよね。
だから思い出そうと頑張る。
これがニーズを提供するということなんですよ。
自分に思い出させてあげようと頑張る。
ところがですね、このNに完全にとらわれてしまうと、
さっきまで頭の中にあったものがなくなったって考えるんですよ。
そういうのが糖質腸症という病気の一つの全ての特徴ではないですが、
時々見られる特徴で、私も面と向かってこれを言われたという経験が1、2度あるんですよね。
非常に不思議で、ちょっと気持ちの悪い体験だけれども、
絵がたい体験でもあります。
お前、俺の考えを盗んだろうって言うんですよ。
違法く考えてみると、私たちはなぜ自分が物を忘れるのかなって分かりませんよね。
つまり、自分というものに原因があるんだという確信が持てないならばですね、
ある考えがあったのに、さっきまで頭の中にあったのに不意に消えたと。
それはまるで机の上にさっきまで置いといた財布がいきなりなくなったと。
誰かが取ったんじゃないかと。
そういうことってあるじゃないですか。
そういう考え方、実は自分が持ってきてなかっただけなのに、
誰かが取ったんじゃないかって考えるじゃないですか。
それと全く同じように思考が盗まれたので、これを思考ダッシュ、
そういう言い方があるんですよ。
つまり、赤ちゃんというものがそうであるように、
自分の中にある種の不愉快な事象が起きたと。
その原因というものになって、自分というものを完璧に見失うと。
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そんなことは我々はまずないんですけれども、
極めて深い水準でそれを見失うと、
自分が全くなくなってしまうと、
とっても不思議なことが起きるような気がするんだと思うんですね。
そしてそれは大変腹立たしいことなわけですよ。
何かさっぱりわかんないんだけど、いきなり自分の考えが消え失せるわけですね。
だからそれを他人のせいにせざるを得なくなっていくわけです。
だって何か原因があるだろうって思うのが人間のここが困ったところなんですよ。
何か原因があるのかもしれませんけれども、
何か原因があるというふうに勝手に考えるのは、ある意味おかしな考え方なんですよ。
何にしてもNに対して提供する、NSが提供されるとニーズが提供される、
つまり母親というものが自分の中にちゃんとインストールされていないために、
他人というものが本当の意味では他人ではなくなってしまう。
さっき言った通り、私の面倒を見てくれるために存在している母親、
これはもうほとんど自分ですよね、というものが弟なんぞにかわけている。
弟許せないからぶん殴ろうみたいな、そういうふうになるわけですね。
私は昔、学校で非常にびっくりしたんですけど、
いきなり先生が怒鳴り込んできて、お前らがうるさいから、
さっきまでいい考えがわれわれまとまりかけていたのに、
どっか行っちゃったんだよ、どうしてくれるんだっていっていきなり殴られたことがあるんですよ。
そういう時代だったんでびっくりしました。
何が言われているのか全然わからなかったんですよ。
これは思考ダッシュの一種だったと思うんですね。
その先生は何か素晴らしいアイディアを閃いたという気がしたんだけれども、
それが不意に見えたんですよね。
その先生は何か素晴らしいアイディアを閃いたという気がしたんだけれども、
それが不意に消えちゃうんですよね。
そういうことはよくあるんですよ。
物書きとかやっているとよくわかります。
もしかすると何も閃いていないのかもしれないんですよ。
脳ってそんなもんなんですね。
だけれどもすごいいい考えが閃いた。
その途端に、われわれですけども、子供が隣で大騒ぎしたので消えてしまった。
お前らのせいで、俺の大事な素晴らしいアイディアが消えたんだ。
どうしてくれるんだ。
そういうことを思っているわけですよ。
これがボーダーラインですね。
先生というのは非常に過酷な状況にあるんでね、
周りに子供に囲まれているなどと、
しかも集団の子供に囲まれているなどというシチュエーションって、
私たちはそうはないんですけど、
先生は四六時中ですよね。
だから非常に虫の居所が悪いというのは、
これも一つの精神的な表現になってくると、
おといさんなんかは言うんですけども、
これは強烈な甘えでもありますよね。
先生なのに、大人なのに、子供に完璧に甘えてるじゃないですか。
これがニードが発生した。
相手の方が強いからそう見えないんですけども、
殴られた私たちというのは、まさに環境としての母親なんですよ。
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私たちは残念ながら、それをどう提供していいのかさっぱりわかんないから、
両方ともニードになってしまって、非常に不愉快な状態がただそこに放り出されてしまうんですけども、
ベストなのはやっぱりその先生に対して、不可能ですけどね、
ニーズを提供すると、少なくとも甘えを受け止めてあげると。
でも私は殴られたんだから、甘えを受け止めてあげたんだと思うんですよ。
ここにポイントがあると思うんですね。
そんな風に扱われたんじゃたまったもんじゃないっていうのはよくわかります。
その通りなんですが、ただですね、殴られるじゃないですか。
私は不愉快になりますね。私だけじゃないんだけどね。
そこにいる10人ぐらいがババババって殴られちゃったんだけど、
その殴られた子供は私を含めて不愉快になるんだけども、
この不愉快になったのがNなんですよ。ニードなんです。
どうすればいいのか。この不快感はどうすればいいのか。
どうすればいいんでしょう。
これはね、結局答えは1つしかない。2つかな。2つあると思う。
端的に言って記号だけで図式的に考えるなら、
この先生のNに対してニーズを提供してなだめるか、
私たちの自身の心に発生したNをNに、
この不快感に、いやいや殴られたけど大丈夫だからと、
誰かが言ってなだめるか、どっちかしかないんですね。
で、例えば先生をうまくなだめて機嫌よくすることができたら、
一瞬にして2つのNは消えるじゃないですか。
これが私が考えるところのですね、ネガティブな方からいきましたけど、
ネガティブな方から考えるところの甘えさせるということは、
同時に自分を甘えさせるということ。
つまり、要は不快で困ったNを、
助ければいずれにせよ自分を必ず助かるという状態が同時に成立する。
そしてこれは同時にしか成立しないんですよ。
先生がその先生をなだめることができると考えるということは、
結局その先生のことを心の底から信頼するしかないんですよ。
これを95%の人に伝えたら、
どうにかこうにか先生をなだめられると思わなかったら、
結局のところその分だけ自分の不安は残っちゃいますよね。
いくらなだめて頑張ろうとしても、結局なだめて頑張らないと
自分の不安は残ってしまうんですよね。
これを99%信頼して1%不信感を持つという状態だと、
私の中の不安というものはぬぐいされないですよね。
自分が頑張ろうとしている自分を見抜かれてまた殴られるんじゃないかと
心のどこかで思っていたら、私の中のNは最終的には残る。
決して私のニーズが完全に提供された形にならない。
完全に提供された形を目指すにはどうすればいいかというと、
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私はこの先生をなだめることができるんだと確信を抱くほかないんですよ。
その確信を抱くということは、結局この先生は
やはり私が頑張れば、この先生を落ち着かせることができる。
たとえ子供であったとしても、この先生は子供の話を聞いてくれるんだって信じる。
この信じることが完全にできない間は、私の不安は決して完全には消えないんですね。
ということが、つまり甘えの構造なんですね。
私を甘えさせるためには、この先生を甘えさせるしかなくて、
それは同時にこの先生に私は甘えるしかないんですよ。
だってこの先生は子供の話を聞いてくれるっていうのは、結局私の側の甘えなんですよね。
信頼できるということを言ってるから。
つまり甘えというのは相手次第なんですよ。
甘えは相手次第であって、しかも甘えは相手あっての話なんですね。
相手というのはどういう存在かというと、自分じゃないってことなんですね。
自分じゃないというのは自分の自由自在にはならないということです。
相手に相手の都合や人格があるわけですよ。
こう思ったときに初めて自分には自分の都合や人格があるんだと言えるんだと思うんですね。
だから自分というのは必ず感性的に後から思い出すことしかできなくて、
特にNとNSのやり取りをしている最中は自分って見失いやすいわけです。
ただその時でも自分は自分だと言えるということはない。
相手は相手だと言えるということなんです。
完全に母子だからといってぴったり一体化してしまって、
お母さんは私の世話をするためだけに存在しているんだということになったら、
つまりお母さんの人格とかはないことになってしまう。
ということはお母さんと私の人格は完全にくっついているわけだから、
私の人格なんてないことになってしまうわけですよ。
この幼児的な甘えの程度がひどい人ほど、
実際には被害妄想に陥りやすい。
これはドイタギョさんが甘えの構造で書かれていることなんだけど、
全くそうなんて、そうなるわけですよね。
甘えているにもかかわらず、その人は非常にエゴイスティックに振る舞う感じになってしまうし、
白口中被害者意識に苛まれてなければならないわけです。
なぜなら、相手の人格ってどこかにありますから。
その人格が信頼できない以上は、何が起きても不快感というものがあり、
何が起きても信頼できず、何が起きてもある程度腹が立つはずなんですよ。
私の本でもどうしてもここが指摘される部分ですけれども、
上司がパワハラだったら、相手をいくら甘えさせても、
相手は増長して突き上がるばっかりで、どうにもならない。
ここが著者が一番誤解している点だと言われているんですけど、
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もちろん僕の伝え方がダメなんですよ。不十分なんだけれども、
この点を見落とすと、この観点にはまるんですね。
まさにその突き上がるばかりだという観点こそ、
私たちが甘えられないために甘えさせることができずに、
自分が見失われるポイントになるわけです。
その相手の人、つまりパワハラの上司というものは、
ニードで凝り固まっているわけですよね。不愉快なわけです、その人は。
なぜ不愉快かというと、なぜ不愉快なのかを見失っているからなんですね。
不愉快さを作り出しているのはご自身だから、
いくら外にそのことを訴えても無意味なんだ。
その人は、ただ相手あっての甘えというものを欲しているわけです。
つまりこの自分のニードを受け止めてほしいと思っているわけですよ。
もしそういうふうに考えた以上は、その人は人を甘えさせるしかないんですね。
お互いそういう状態なわけです。
お互いが不愉快になってしまったら、お互いがどっちかを甘えさせるしかない。
そうして、それが成功するって思えたときに、
自分は心の底から安心することができると。
これが甘えが成立するってことだと。
だから、人を完全に甘えさせることができるって考えは甘えなんですよ。
その人を信頼しない限りできないことですから。
私は人を完全に甘えさせることができるって思えた瞬間に、
私はその人に完全に信頼することができるっていう構図が成立して、
つまり二者における相互の最高の満足というものが追求できるんだっていう感じを抱くことができるんです。
抱くことができない間は、どうしてもどこか甘え切ることができない。
こういう体験を一度か二度、少なくとも人生で一度も持ったことがないという人は、
どうしても自分を見失いやすくなる。
究極的なところまで行ってしまうと、つまり何か不愉快なことが起きたら、
全部自分じゃないところに原因があるって考えなければならなくなってくる。
そういうことになってしまうと、もうどうしようもなくなりかねないわけですね。
実際にどうしようもないことは何にも起きてないんですけど、
例えば私たちは物を忘れるわけですよね。
忘れても何にも問題はないにも関わらず、だから忘れるわけですから。
忘れるということは非常に大問題だと。
極めて深刻な問題だと思うから小学生に殴っちゃうわけですよ。
それもグーでね。
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