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おはようございます、グッドモーニングボイスです。
この月曜日にやって、3日休んで、金曜日にやって、また休むって、やっぱりこの学校はこうなんですよ。
有給とかないですから。だから、うちはこのリズムになるんですけど、やっぱさすがに調子がちょっと変になるなっていうのはなくもないですが、
ここはもう、グッドモーニングボイスでリズムを考えないというのは無理なんですけど、極力考えないようにしようと思ってやってます。
最近ツイッターで出しましたけれども、60分を私と喋る時間を確保するみたいな、ちょっと対談の何というタイトルにするかで悩んでるんですけど、おいおい固めていこうと思ってます。
お申し込み頂きましたしね、何とかやっていけるかもと思うようになりました。何とかやっていけるというよりは、これも出しておこうという感じになりました。
これって、何か申し込む時よく分からんと思われるかもしれませんが、要は60分セッション、一枠あれで予約できますよという、ただ今月中にしましょうというだけです。
だから、PDXでお申し込み頂くようになっているんですけど、5名までというのは5枠までという意味で、5人で主張するミニセミナーやるとかそういうのではないです。
2人っていうのは今後、特に理由がある場合はありだなとは思うんですよ。カップルの方とかね。とにかく2人はありだとは思うんだけど、ミニセミナーやるわけじゃないんで。
2人の場合、他にどうしようかなというのもあるし、色々悩むんですけれどもね。
とにかくそういうのをとりあえずやります。
月初に枠出して、一応その月中には消化しましょうという形をとります。
申し込んだ日の翌日か遅くとも7日以内ぐらいが常識的かなというか、感覚的にですね。
悩みではない日ではあって、それから30日後とかではないような日がするんですよ、この種のものって。
だからせいぜい翌日みたいなのがちょうどいいかなという、せいぜいだから3から5日後までかなという感じをしているんで、
だから5月中っていうのは5月の頭に出して、それでいいかなという風に思っています。
それで60分6,000円という非常に単純な数字ですね。
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カラオケじゃないんですけど、延長どうしようかなというのもありますが、
延長はその時のニュアンスで決めていくかなと思っているんですけれども、
高くしたり安くしたりは一切しないで、10分延長したら1,000円みたいな、そういうぐらいでいいかと思っております。
結局、カウンセリングじゃないし、もちろん精神分析ではないし、
倉田さんがやっていらっしゃるセッションというのとも、僕のはそういうところまでは、
ガッツリやるっていうのは、実はタスク管理トレーニングセンターというところに入っていただいた場合にはガッツリやるっていうのはあるんですよ。
仕事とかタスク管理に特化して、特にタスクシュートに。
こっちのこの私の6,000円のやつはですね、タスクシュートの話とかはご希望であればしなくはないですけど、
ガッツリやるっていう感じにはしないつもりなんですね。
ガッツリやらないっていうのは別に話を流して聞くっていうわけではないんですけど、
手取り足取りタスクシュートの話をしますみたいな、そういうのではないです。
それだと60分では足りなくなる恐れが結構あるし、だからといって今回は60分で基本やっぱりサクッと終わろうと思っているんですね。
いろんな話をして、しかもタスクシュートの話もして、
ということになって60分で切れるかっていうと、まずまず難しい時が多くてですね。
だからタスクガニトレーニングセンターの方は時間は一応決めてはあるんだけれども、
終わるまでは私はやりますっていうスタンスですが、
こっち側の佐々木翔吾と60分みたいなやつは60分基本ですから、
解決したかしないかとか、そういうことはあんまり解決っていうのかな、
聞かれたことにきちっと自分なりに答えるってことはしますけれども、
ここでうまいカックを考えつけますとか、いいアイデアが必ず思い浮かびますとか、
そういう話ではないと思ってください。
CMになってないような気がするんですけど、一応CMでした。
これはだからそうですね、また話し続けちゃってますけど、
おいおいこれを形にしていくぞっていう、まずはじめてみましたという段階で、
先日ですね、つけよしはるさんかな、
ヨスに漫画家ですね、もう亡くなっていると思うんですけど、
漫画を読み直して、久しぶりに結構固めて読んだんですね、
非常に古典的な、でもすごくねじ式を描かれた人ですね、
あと原戦艦主人が有名、
短編で、新古典主義みたいな、そういう言葉は漫画にはないかもしれませんけど、
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そういう感じの方です。すごく古い日本の情緒を描いているようで、
かなりシュールな感じもして、最先端的な、1940年代でいう最先端ですけどね、
感じがする、そういう漫画家です。
で、中にですね、夜がつかむっていう作品がありまして、
ああいう表現ができればなって、まああれは漫画ならではな感じがするんですけどね、
僕はその作品の中に夜がつかんだという作品がありました。
それが、なんか突然来るんですよね、つけさんの作品って、
で、中にですね、夜がつかむっていう作品がありまして、
ああいう表現ができればなって、あれは漫画ならではな感じがするんですけどね。
ああいう表現こそまさに、ある意味ナルシシズムの病理っていうか、精神分析の世界ってこれだろうなっていう感じがする話なんですよ。
いきなり冒頭がですね、すでに何回ちょっと病んでる感じなんですけど、男女が裸で寝てるんだけど、すっごく真夏の暑い日っていうニュアンスですね。
最近で言えば熱中症で死ぬレベルな感じがするんだけど、昔の日本は締め切ってからと熱中で必ずしも夜、若い人だったら死なないぐらいの暑さにしかならなかったんだけど、
でも締め切って寝るっていうのは正気ではないですね。
女の人がとにかく暑かったので開けたら、男の人が殴り出すと、今で言うと完全にDV的世界ですが、そういう古い話なんでね。
なんで殴るかというと、夜が入ってくるって言うんですよ。
ところがこの女の人はですね、これをその文字通りには受け止めないんですね。
当然なんですが、夜が入ってくるとかって意味不明ですからね。
そのセリフが非常に私はそうだ、これだって思うんですけど、あなたはいつもそういうことを言って私のことをいじめるけど、これなんですよね。
そうじゃないんですよ。男の人は後ほど分かるんだけど、本当に夜に捕まれる。
捕まれるというか、夜がまず侵入し、部屋に入ってきて、そして夜にいたぶられるわけですよ。
それがもう恐ろしくて恐ろしくて仕方がないんですね。
白海もその一種だと思うんですけど、蒸気を完全に逸してるっていうニュアンスですね。
だけれども女の人はその現実が当然見えないので、私をいじめるためにそういうことをでっち上げてるっていうふうに、
あるいは何か非常に奇妙なアレゴリーを使って私をいびってるっていう解釈をするんです。
これがですね、もう何つんですかね。
まず一つには見えてるものが違うとはこういうことだよなっていう話なんですね。
それから精神科医とか精神分析科とか、カウンセラーもそうですが必要になるんだと思うんですよ。
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これを内面から理解しようとしてくれる人が、さもそもこの世にいないとはどういうことなのかっていう問題だと思うんですね。
内面から理解しようとしなかったら、この人何を言ってんだろうって話になるじゃないですか。
この奥さんも奥さんなんだと、奥さんなのか単なる同棲してる人なのかわからないですけど、
ギリギリ近いところにいるから、つまり内面が理解ある程度できるはずだから、
そんな男の人と一緒にいるわけじゃないですか。
殴られてるのに、その意味不明な話で殴られるのに一緒にいるわけだから、
だから相当内面が理解できるはずなんだけど、やっぱり解釈されてしまうわけですね。
そのセリフは私をいじめるために言ってるんだと。
これはつまり意味付けなんですけれども、意味付けしないと意味不明になっちゃうから、意味付けしなきゃなんなくなるわけですよ。
ここなんですよね、私たちのすれ違いって。
このセリフは私はすごくいいセリフだと思って何度も読んじゃうんですけどね。
精神分析家だったら絶対言っちゃダメなセリフですよね。
だけれども、これを普通の人だったらごく当然、一番よく相手に寄り添って解釈したところがこの辺ですよね。
でもここを頑張らないとコミュニケーションってやっぱり不十分なままに終わるだろうなと。
ここで自分流の解釈を施してしまうとここにしか行き着けないですよね。
どう考えても夜は入ってこないし、つかまないですからね、味とか。
だけどあれ漫画だから足を夜が掴むっていう感じを、むしろベタに描写してしまった方がきちっと表現できるんですよ。
この男の人の問題というのはもちろん、自明なものは何もないんですけど、でも杉さんは書いたわけだからやっぱり何かあるんですよね、そこにはね。
この男の人の問題というのは当然、やっぱり当然って言っちゃダメだね、おそらくは抱え込む母親が不在なんだと思うんですね。
つまり寝るっていうこと、夜になって寝るということはですね、そこに必須の意味付けがあると思うんですね。
大丈夫だという、現実ならなんとかなるっていうやつですよね。現実に対する信頼がないと寝られないんですよね。
現実というものが信頼できないんだったら、暗い中で寝てしまったら何が起きるかわかったもんじゃないじゃないですか。
単的にそれが夜が入ってきて、夜の侵入という、つまり侵襲なんですよ、インピンジメントなんですよ、あれはきっと母親というものがですね、下体の知れないものに変化してしまうんですよ。
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だって赤ちゃんになって考えてみればですね、夜とは何なのか知らないですよね。暗くなるのはなぜなのか、それも知らないですよね。
ただ、現実というものが良くしてくれるんだと、母親のミルクを持ってきてくれるように、何しろ母親というのは自分の身体から自分の食事を出してくれるんですからね。
もう万能、極まりない、それと自分は一緒にいるんだから、完璧ですよね。この感じをつかめなかったら、どちどち寝てもいられんわけですよ。
お母さんが実は自分の面倒を見るのなんか、嫌で嫌でたまらなくて、おっぱいだと承知で毒持ってくるとか、一瞬でも頭にその人のことが言い切ったら、お母ちゃんは正気じゃいられないんですよね。
夜が侵入してくるわけですよ。
昔、昔では全然ないな、先日藤山さんという方が言うの、多分藤山さんのだと思うんですけどね。
精神分析のセッションの中で、セッションとは言わないのかな、精神分析の中でですね、クライアントが全く一言も喋れないという、
この種のクライアントさんはいっぱい出てきますけどね、全く一言も喋れないんですよ。
自由連想するということが、まず普通にできるという、普通にもいろいろあるけれども、普通にそれなりにできるというのは、多分それなりにもう大丈夫なんですよね。
だけどその人は別に、日常生活では普通に怒ってるんだと思うんですよ。
だから難しいんですよね。そういう問題って人間は普通にいっぱいあるので、必ずしも鬱だとか、そうだとかいう話じゃなくてもですね、
日常生活はそれなりに支障なくやっているように見えても、例えば精神分析が一旦スタートするとピタッと一言も喋れなくなるとか、
言ったことが起こるんですよ。起こるらしいんですね。私はやったことがないからわかんないんですが、
多分そういうことはあるだろうなとは思うんです。すごく緊張するとかね。
で、その人はずっと言っているうちに何がいけないのかというと、窓から外が見えるのがダメだと。
この話はさっきのですね、戸が開いていると夜が侵入してくるというのと、多分一緒だと思うんですね。
いろんな意味で違うんですが、でも同じような問題を抱えているんだと思うんです。
つまり僕はこう考えるんですよ。私たちは世の中に勝手に意味づけをしているんだけど、
その意味づけの仕方は大半、大半といった多すぎれば5割は母親がした意味づけだと。
というのがどういうことかというと、母親が見るように世の中を見ているということはどういうことかというと、
私が赤ん坊だったときに、母親がこれであなたは生きていけるんだからねというそういうメッセージを私に送りつけたと。
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で、そのこれでというのはつまり母のものの見方ですよね。
もちろん正しいんですよ。水は飲める、ミルクは飲める、酢は飲めないね。飲めなくはないですけどね。
そういうものの見方を僕らは身につけておかないと生きちゃいけないので、
そういうですね、これは社会的なという意味じゃないと思うんですよね。
もうどっちかというと母親的な、その言い方がちょっと生きすぎているなら人間的なものの見方というものを、
しかもそれをすごくパーソナルに植え付けられているんですよ。
例えば母は家に虫が入ってくるのは許せないとか、これは人間全域にマッチしている考え方じゃないですよね。
人間ならみんなそう思うわけではないし、社会的でも別にないですよね。
社会の教科書とかに、家に虫が入ってきたらいけませんとか書いてないですよね、道徳の教科書にも。
むしろ逆のこと書いてたりしますよね。
つまりパーソナルなんですよ、こういうの。
騒ぐじゃないですか、いろんな虫がこれから入ってくる季節になりましたが。
騒ぎますよね、騒ぐ人は。
これはそういうものの見方なんですね。
私にもそういうものの見方を反映させているわけです。
私はその子までは騒がないんですけど、つまり他のものの見方も他のところで手に入れてますから。
だけれども母親のものの見方というのは、母親に普通に育てられればかなり重大な領域を占めちゃうんですね。
その中に夜が来ても大丈夫だとか、戸を占めてあれば大丈夫、この戸を占めてあればというのはすごく意味深だと思うんですね。
あるいは外から見えないようにカーテンが降りていれば大丈夫。
この辺からさっきの患者さんの窓から外に見えるのに、その窓そんなにデカいのかどうかわからないですよ。
だけど外が見えるのにここで話をするわけにはいかない、パーソナルな。
こういう観点で出てくるんですよ。
人は真理で生きているから。
つまり自分はどういう世界に意味づけを施して生きているかというのはとても大事な話で、
そのものの見方というかそのものの感じ方はもう取り外しが効かないんですね。
何がどう見えるかということと意味づけがイコールになっているから、そうですよね。
これはリンゴだというのは意味づけじゃないですか。
リンゴでもなんでもないんですよ、他の生き物にとっては。
でも我々にとってはこれはリンゴだという意味づけをして、それで機能しますよね。
それは毒リンゴだという意味づけをしたら全然話が違ってきちゃうんですよね。
ああいうふうに見えるものが全て毒ですという意味づけを子供の日からされようものなら大変なことになると思うんですよ。
生まない間の上にはウイルスがあるとかないとか思うか思わないかで、生きていきやすさがガラッと変わりますよね。
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そういうふうに私たちは目に見えないものとかどうなっているのか本当のところ自分は分かっていないもの、
女のところどうなっているか分かっていないものがこうなっているだろうというあたりをつけてそれで生きていて、
しかもそのあたりを信用しているのはおそらく母親を信用しているからなんだと思うんですね。
この場合、ウッドワイプス流でいうと信頼か。
僕がつい信用って言ってしまうのは僕のここら辺の薄さを少し表している気がしますね。
例えばなんですけど、よく漫画とかであるじゃないですか、よくはないけれども、
例えば梅塚雄さんとかが割と書きそうなことで、水道のホースとかから虫出てきたりするんですよ。
これはどういうことなのか、中見たことほとんどないですよね。
私たちは水道管の中とか、洗濯機に水を注水するチューブの中とか、あるいは下水の中とか見たことないですよね。
そこに不審感を抱く人は、何かそこに誰も知れない、やばいものがうようよしているんじゃないかというイメージを持っていても、
そんな不審はないわけですよ。私は全然持ってないですけどね。
つまり私は社会に対する信頼度って高いんですよ。
それは多分、母のあるいは父の社会に対する信頼度が根底のところでは結構高いんですよ。
口先では全然違うことを言いますけど、だいたいそんなものがインストールされないんですね。
こういうふうに思って考えていくと、少なくとも二つあって、
一つは私たちは、少なくとも私は素で世の中を見ることが全くできないということです。
全部この世の中に対する私のものの見方は、イリュージョン、意味づけ、空想、何でもいいんですけど、
そういうものばかりで満ち満ちているんです。
これは今度が資格であることは、おそらく事実だということではないですよ。
それはおそらくそうなんでしょう。
昼の方が明るくて、夜の方が暗いのもそうなんでしょう。
だけれども、そこに僕は単なるニュートラルな物理的な感覚だけで、
世の中を構成することは決してできない。
今そもそも資格って言っちゃいましたからね。
資格は意味づけじゃないですかね。
だから、こうやって私たちはほとんど夢を見ているように生きている。
クラゾンさんが夢を見ている人に罪はないと言いましたけれども、
そういうことです。夢を見ているわけですよ。
ここは通れる。通れるというのは通るかどうかを問題にするから通れるんですよ。
別に空間に通れる通れないはないですよね。
そういうふうに意味が全部ついちゃってる。
この意味のつけ方は人によって少しずつ少しずつ違っているんで、
世の中は安心して生きていけると感じている人と、
世の中は常に警戒しないと、
例えばこの鳥居の下をくぐると寿命が一年縮むとか、
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そういうことを言い出す人はいるんですよ、世の中にちゃんと。
意味づけなんだけれども、意味とはそういうものなんですよ。
電線の下を通ると電波がやってきて害があるとかね、
そういう話ってする人もいらっしゃるじゃないですか。
だから世の中は常に意味に満ちているから、
比較的楽に生きられるという人と、
比較的とても辛いという人と、
自然に自然に別れて生きやすいくって、
その中でも特に厳しいのが、
いわゆるプライバシーに関わるものが、
すごく危機に瀕しやすい。
つまり母親に関わられていないって言い方をするんでしょうけどね、
先進分析では。
夜が侵入してくるんですよ。
どうしようもない感じがありますよね。
こういうものが毎日毎日。
だって夜は絶対毎日来ますから。
普通の人はだから、夜というものね、
そこまで恐怖心を抱く理由を持っていないんだけれども、
その人はそういう意味をつけちゃったから、
夜が来るということになると足を使うんですよね。
そしてその前に女の人と居酒屋をして、
女の人を家から追い出している。
これは非常に意味深で、
非常に意味深というか、
象徴的だと思うんですよね。
私たちは特にそんな人は、
一人では生きていけないのですが、
夜が掴むようにやってくる人は、
一人では生きていけないんですが、
一人になりやすいんですね。
扉を開けているということで、
女の人を殴ってしまうと。
一人では生きていけないにも関わらず、
自分流儀に全てをやらないと、
非常に迫害されるという、
迫害妄想が強いために、
本当は非常に人を必要としているのですが、
自分の面倒を見ている母親を、
その前の面倒というのは、
ご飯を作ってくれるとか、掃除してくれるとか、
普通の人はそういうことを考えてしまうのですが、
私はちゃんと掃除もしているし、
ご飯も作っているでしょうと言われてしまうのですが、
その人が一番必要としているのは、
情緒上の安心感であって、
一人では生きていけないというのは、
ここが一番のポイントになるのです。
ここが満たされている人は、
それがあまり実感できないので、
お金を稼いできてくれているのか、
家事をやってくれているのか、
というふうに考えちゃうのですが、
そうではないということです。
夜がやってくるのから、
守ってくれる人が必要なんですよ。
この場合、一番人が必要という言い方をするならば。
一人になってしまうと、
もう守ってくれる人は誰もいないので、
夜がまっしぶらにつかみにくるのです。
この恐怖が最後のコマで、
とても素朴的に描かれているので、
逆にすっごい、
何ていうんですかね、
根次杉さんの本の中では、
僕には非常に印象が強いなと、
これはホラーだよなという感じが、
そしてホラーというのは、
こういうもんだよなと、
24:01
つくづく思った本なんです。
先日ですね、
大橋玄造さんと
カフェで、
原稿執筆カフェというカフェがあるらしいんですね。
東京の方に。
私はこの原稿執筆カフェという、
これは非常に平和な話に急になった感じがしますけれども、
行って書くというのは、
グラデーションでものすごく程度の差がありますけれども、
私が最近、
外に行って書かないというのは、
最近ではなくて、
ここ5年以上、10年以上かな、
してないのはですね、
まず家で書くのがベストな状態に、
自分を持っていかないとダメだという、
これはですね、
実は原稿執筆の話と、
またちょっと違ってくるんだけど、
つまり実はこれは原稿執筆の話じゃないんですけどね、
夜がつかむ話なんですよ、
私の中では。
夜がつかむかつかまないかは、
わからないんですよ。
もちろん皆さんにとって、
夜がつかみにやってくるはずはないんですけれども、
でも夜が本当につかむかつかまないかは、
わからないんですよ。
時々ここでもしますけど、
夜真っ暗になってしまった時に、
せっせと、
ママごとに教じていた子が、
はっとなって急に恐ろしくなって、
放り出して帰ってきて、
怒られると。
この状態をよく僕は連想するんですけど、
夜が暗くなっている頃に、
この子は気づかなかったと思うんですよね。
ママごとにあまりに夢中になっている時。
つまり僕は、明るさ暗さっていうのは、
主観的で心理的な問題だと多分に思うんです。
100%ルックスと無関係だとは言いませんよ。
だけれども薄暗いというものを、
ほの明るいと見るかどうかは、
結構その時の心理状態に左右されるはずだと思うんですね。
誰かの精神分析の人が、
不意に書いていた文があるんですよね。
夜暗くなって停電になった時に、
おばちゃんちょっと話しててよと。
話してても、
停電なんだから明るくなるわけじゃないと言ったんだけど、
その男の子が、
話せば明るくなるっていう言い方をして、
それを精神分析の人が紹介しているのは、
非常にその通りだろうと思うんですよ。
意味付けなんですね。
ママゴトっていうのは、
意味をつけやすいセットなんですよ。
つまり、
そのママゴトを周りに置いておくと、
母親がそこに出てくるんですね。
出てこないですけどね。
心理的に。
そうすると明るくなるんですよ。
夜がね。
そういう、
効果を得る、
セットを自分が持っていないと、
夜がつかむんですよ。
最悪の場合ですもんね。
つまり、
適切な意味付けをできない空間では、
眠ったりはとてもできないんですね。
27:01
意識をはっきりさせておいて、
警戒レベルを高くしないと、
どうしようもないから、
ここで人は別れると思うんです。
例えば、
カフェに行ったという時に、
ここにどういう意味をつけるか、
ってことだと思うんですよ。
オフィスのように騒がしくない、
部長もいない、
だから仕事がはかどるって意味をつけると、
ノマドっぽくなるんですね。
原稿・執筆というのは、
そういう意味が最初からつけられている空間だから、
そういう社会的な指示に従って、
その空間でやるべきことを
自分に意味付けていくのが
要因になるんです。
これは、
つまり、
意向対象ってやつだと思うんですね。
意向対象というのは、
こういう意味だと思うんです。
ライナスの毛布というのは、
ライナスは毛布をつかんでいると、
母親代わりってよく言われるんだけど、
厳密には毛布をつかんでいれば、
母親がそこに
発生するというか、
出現するんですよ。
もともといるんですよ、心の中に。
うまくそいつを起動するっていう能力に、
まだ十分持ってないから、
そういうことをする必要がある。
あるんですよね。
この話をすると、どうしても、
私の意向対象は何ですか?
という話をされたり、
どうすれば母親を出現させられるのかって
聞かれちゃうんですけど、
そうではないんですよ。
私たちの母親は常時出現し続けているからこそ、
夜がつかんだりは絶対しない
ということなんです。
母親がいないということは、
意味付けがうまくできないということであって、
意味付けができなかったら、
僕らはほぼ、
情緒的には即死に近いんじゃないかと
思うんですね。
適切な意味をつけてしか、
生きていけないので、おそらく。
特にそれは、
情緒上重要なんです。
だから、
それができてないのに、
生きてはいけている、
あとは母親が出てくれればっていうのは、
僕の話の伝え方の問題であって、
常時母親がいる。
意味がついているということは、
母親がいるということと、
僕は同じことだと思います。
で、
原稿を
どこで書くかというのは、
僕が家で書くのは、
家は
容易に
母親に包まれる世界だからなんですよ。
あなたは母親に
恵まれているとか、そういう話ではないんですよ。
家というのは
間違いなく、一番
母親が包んでいるというのを
意識しやすい空間に
決まっていると思うんですね。
そのことがむしろ帰って、
仕事をはかどらせないというならば、
何か理由があるはずなんです。
そこのところが大事だろう
と思うんですよね。
あるカフェに行って、
そこにノマドという意味をつけたり、
原稿執筆という意味をつけたり、
あるいは原稿執筆という意味がついていたり、
コーワーキングスペースという意味が
ついていたりするっていうのは、
30:01
徳家から来ている指示なんですね。
お母さんとどこかに行ったときに、
お母さんの態度って変わるじゃないですか。
幼稚園に行ったら、ほらみんなと
遊びなさいって。普段そういう態度は
絶対出さない人ほど、
その楽さって感じると思うんです。
私はよくそういうことを考えたんですよ。
幼稚園とか、
年中年少の頃に、
母親は態度が変わる。
そうすると、この空間の
私にとっての意味も変わる。
こんな風に論理立てて、
自分の頭で言ってたわけじゃないですよ。
でもかなりこれに近い
言葉を
僕は脳内で使っていた
気がするんです。母の態度が
変われば、自分の
振る舞うべき動きも
変化させられる。
それは何となく必然的に
この空間の
力学みたいなものが働いていて、
働いてないんですけどね。
母は母で、ここで例えば
私のことを普段みたいに
頭もなしに起こることはできなくなってる。
人の目気にする人
昔はそういう時代でしたし、
だからいかにも
怒る時でも笑ってる。
そういう怒り方をしながら
この空間に一つ一つ
意味をつけていって、
その意味が少しずつ変化していく。
大きな変化があります。
子供いっぱいいるし、そういう空間は。
そういう空間で自分が振る舞う
振る舞い方には、
期待させられている方向性が違う。
家でのこととは。
こういうことが僕たちは
あらゆる場面で
当たり前のように
起きているじゃないですか。
だから振る舞い方は
違ってきて当然なんですよね。
この力を借りて
仕事をはかどらせたり
あるいは仕事をサボったり
するっていうのが
決まってくるという話だと思うんです。
ノマドとか
どこを突こうから逃れるとか
あるいはそこそこへ行って
何々をするとか
全部意味付けですからね。
もちろん。
だからどんな意味をつけるかは
かなりの部分
自在なんですよ。
実際そうじゃなかったら
社会が勝手に意味つけたりはできないと思うんですよね。
ここを原稿し一筆するところです。
突然そういう意味がつくわけじゃないですか。
あるものはいつもと同じですよね。
コーヒーがあって、机があって、椅子があって
Wi-Fiがあると。
それにどういう意味をつけるかって話でしかないじゃないですか。
そして
一人一人内在させている母親は
違うわけだから
そして経験も違っているわけだから
当然どんな意味を
その人がつけるかというのも
変化していくわけですよ。
なぜ家の中では
家の中でも母親は
自分も知っているんですよ。
なぜ家の中ではしかし
うまくいかないんだろうと。
私はまず夜がつかむんじゃないと
思うんですよね。
母親は機能が極めて
困った状態になっている
話ですから。
だから最初に
窓を開けてしまった奥さんが
33:01
同性の愛人かな
いたわけですからね。
誰が母親って意味ですからね。
そうではなくて
私たちはもっと普通の形でいるんだけど
例えば家族がいる、いない
つまりその時間帯に
いない時は仕事がはかどる
って教えてくれた編集さんが
いたんですよ。
やっぱり意味深だなと思ったんですよね。
さぞそういうことは
起こりうるだろうという気がするんですよ。
で、カフェでしょ。
カフェにはいないんですよね。
家族がね。
これも同じような意味になってきますよね。
どういうことなんだろうってことを
考えないと
ダメだなって思うんですよ。
この空間にどんな意味を
自分がつけるつもりでいるのか
ということと
どんな意味を強制的につけさせられるのか
すごく大事なことだと
思います。
これを
テクニカルにやってるんですけど
今の時代というのは
本当はもっと情緒的な問題で
書けない
例えば家では書けないとか
いう話あるじゃないですか。
私は原稿出筆というカフェでも書けない
っていう人は絶対いると思うんですけどね。
書けないとは
どういうことなのかっていうのを
書けない時間っていっぱい必要なんですよ。
これを先日の
おはしさんとのお話の中で私は
すごく意識したんですね。
書けない
っていう時間があるはず
だし、多くの人はそれを
持ってるし
ある意味困ってもいますが
書けるようにすることばかり考えてしまうんだけど
書けないっていう
時間が
非常にいろんなヒントになるはず
だなと
書けないときに
何が起きるのか
眠れないっていうこと
ある意味近いんですけど
書けないときに起きていること
これを
もっと
細かく
知っていかないといけないなって
思います。
最後にタスクシュートになっちゃうんですけど
タスクシュートってのは
一つの時間に書けない
例えば書けない120分みたいな
時間があったとき
考えさせられるじゃないですか
ただただチェックリストのチェックが
入らなかったのとは違うじゃないですか
膨大な時間を書けないということに
費やして
こういう話ってですね、伝わりにくいな
と思うんですけど
このグッドモーニングボイスは
実験だからこのまま喋ってますけど
僕も何の解決
何の解も持ってないんですよ
ここで解らしき話を
するのは簡単なんだけど
そんな話をする
価値がないような気がするんですよ
書けない120分って
大変苦しい
ときがあると思うんですけど
いろんな
話がありますよね
自分を許していないとか
それもあるんですけれども
もっともっとあるなと
36:01
それをですね
もっと僕らは
なんかこう
よく言うじゃないですか
9年面壁か
そういうやつですよ
なんで書けない
120分を
120分なんてたった2時間ですからね
9年に比べればなんてことないですよね
書けないという
自分と
なんかこう
その関係性
私はだから母親っていうものをそこに
意識するんですけれども
その家族が
いないときは書けるのに
いると書けなくなるとか
カフェに行けば書けるのに書けなくなるとか
それがですね
もっと
もっと意味不明で
もっと地味
妄量としたものが
そこに見出せなきゃ
いけないんじゃないかなと思うんです
プレッシャーで書けるとか
しみきりがこうか
発揮して書けるとかじゃなくてですね
それはすごく一般的な意味づけですよね
もっともっとパーソナルな
意味づけがあるはずだと
それはきっと
ご両親か
非常に深く関わった友達とか
彼女とか
学校の先生と関係が
あると思うんですね
それが夜がつかむ
表現してくれている話だとも
思うんですよ