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おはようございます、グッドモーニングボイスです。
いよいよ、明後日なんですね。
明後日ということは、明後日リアルセミナーなんですが、
リアルセミナーが明後日ということは、多分明日ぐらいに申し込んでいただかないと、
微妙に厳しいという感じです。
オンラインだと、明後日やるなら、やる瞬間まで、何なら始まってからでもいいんだけど、
リアルなんで、ただこれよく考えてみると、
リアルだとどうして当日の後じゃダメなんだろうとか、
リアルだって来てから払えばいいんじゃないかっていう気もしないではないんですよね。
よーく考えてみると。
これはどういう風に考えるかは、ともかくとして、
明後日やりますと。
つい顔色を伺ってしまう私を手放す方法の出版記念セミナーで、
倉園恵三さんと一緒にやると。
リアルセミナーとしては1年ぶり。
ただ、書き上げ塾とかはやってましたけどね。
リアルセミナーそのものを外部商品でやっていくのは1年ぶりということです。
よろしくお願いします。
この日に喋ることは、まず間違いなく、
一つは、僕はですけどね、甘えに関わることです。
甘えというのは、どいたけおさんの甘えなんですけど、
日本人ならみんな知っているあれですね。
で、これは表面に浮かび穴ってこないものなんですよ。
あの、なんて言うんですかね。
オグデンっていう人。
私がずっと今喋っている話は、
クライン派っていう、イギリスの対照関係論学派みたいな言い方をするんですけど、正式には。
メラニ・クラインさんの弟子たちが展開していった考え方で、
一部メラニ・クラインさんから追い出されたり、
関係を切っちゃったりした人も含まれているけど、
影響は確実に強烈に受けている人の話を、
よく分からないながらも一生懸命読んでいて、
その一つの結実した内容として、あの本を書いたんですけど、
ミニコットっていう人がなんといっても大きくて、
あと同時代にビヨンって人がいて、
この人の話もところどころ適宜混ぜこぜにしていて、
あとオグデンって人。
このオグデンって人のはむしろ、
この人の本を読むことでミニコットの話が分かってきたみたいなところがあるんですよ。
そのうまい解説書みたいなことが書ける人ですよね。
まあこの3人の人の考え方、考え方だと思うんですけどね。
あともちろんクラインの考え方。
ということは当然フロイドなんですけど、
フロイドなんですけど、を下敷きにして、
要するに繊細さんの問題というものを解いていくと。
その過程で甘えというのが、
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この甘えの構造を書いた土居さんは全然クライン派でもなんでもなくて、
すごい独自に、精神分析は偶然なんですけど、
私が行ったカンザスシティの近くのトピカってところにある、
有名なんですけどね、あの辺では。
その辺のところのインスティチュートで勉強した人で、
戦後間もなくなんで、どういう経路でどうしてこういうことが可能なんだろうって、
まあいろいろと書いてはあるけれども、
やっぱりリアルにやろうとしてみると、考えると不思議ですよ。
戦後10年も経ってないじゃないですかね。
アメリカに行ってて精神分析を勉強しているだろうというのは。
しかもアメリカで習うということは、私も経験があるんですが、
自我心理学学派なんですよね。
日本で有名なのはコフードとかアンナフロイドとか、
要するに日本でまだ知られている方ですよ。
多分メラニー・クラインだって日本じゃ全然知られていない可能性が高い。
オグデンだ、ビヨンだ、ウィニコットだになると、
全く全然知られていないと思うんですけど、
これがアンナフロイドとかコフードとかになってくると、
断然知られていると思うんですよね。
つまり日本に長らく輸入されてきた精神分析は、
原則アメリカの自我心理学という方で、
こっちを勉強しに行ったドイさんが、
非常にクラインの方の発想に近い名前の構造を打ち立てるという、
多分ここには相当の経験があったと思うんですけれども、
彼はイギリスに行っているわけではないんですよね。
カリフォルニアには行っていたんですけど、
カリフォルニアは全然関係ないですよね。
非常にびっくりするような、
専門的な世界の中ではびっくりするようなことが多分起きていて、
この辺のことを僕は混ぜこぜにして書いていて、
理屈はそういうのを下敷きにしつつ、
解決策はグッドバイオスにすごく頼っているという本です。
なぜなら解決策に精神分析を使ってしまうと、
僕がそれをそもそもできない上に、
本ではどうせできることじゃないので、
誰がやっても本では無理だと思うので、
解決策みたいな考え方としては、
多分にグッドバイオスよりという流れになっていて、
僕の中では整合性が十分取れているつもりなんですけれども、
どっちかちと精神分析のただ説明はすごくサラッとしています。
ここをガチって書いていってしまうと、
どんどん複雑になる上にどんどん分厚くなって、
200ページは絶対に行きたくなかったんですよね。
人の顔色を伺っているとか、
会社に明日行くのも苦しいという人に、
僕は200ページ以上読ませたくはないんですよ。
サラッと読んでいただきたい。
できれば土日で読み切りたいじゃないですか。
月曜から会社に行くんだから。
06:01
ということもあって、200話を切りたいというのは、
編集さんとお話ししていて、
編集さんもそのことにはすごく同意してくださっていたので、
そういうふうに書いたんですよ、最初から。
200絶対に切るぞというふうに意識して書くとなると、
今しゃべっていることを延々と書いている場合じゃないんですよ。
これ絶対に延々と書いていると、
400ページを突破する本になっちゃうので、
よほど端折らないとそういうことになっちゃうので、
最初から込み込みというわけにはいかない。
だってフロイトの弟子にはメラニー・クラインさんと
アンナ・フロイトさんがいてみたいなことから書いていたら、
本当に400ページにすぐになっちゃいますからね。
そこら辺のことだけでも書くことは結構いっぱいあるので、
本当のところは。
そういうことなんですが、
甘えというのは日本語ですよね。
これは西洋には当然ない言葉で、
そういう話も時々僕はここでしていますけれども、
甘えの構造の中でも一番大事なのは、
甘えというのは一番大事かどうか分かりませんが、
甘えというのは通常は意識していないことなんだという話ですね。
これが僕、昔からそういうことが自分にもあって、
時々周りで見ていても気がつくことがある事例ですよね。
事例研究の中の事例なんですけど、
オグデンの本に出てくるんですけど、
つまり甘えという言葉や概念とは関係なく出てくるんですけど、
すごく僕はこの事例が気になっているというのが一つありまして、
ガレージでシステムエンジニアが仕事をしているんですよ。
彼は20歳も年上の奥さんと結婚していて、
奥さんが家にいる時はガレージで仕事をして、
すごく自立していると。
この話は僕はすごく考えさせられるというか、
感じるところがあるというか、
こういうことについて学校では何も教えてくれなかったというのは
すごく気になるんですよね。
このガレージのお話は、
僕はこういう事例が本当に欲しかったんですよ。
昔から。
こういう人いっぱいいるようになって思うんですよ、今時は。
例えば家族が家にいると仕事が進まないんだけど、
家族が家にいない時に家で仕事をするとすごいはかだると。
でもその人は結婚していない時はそうじゃなかったみたいなことを言うんですよね。
ものすごくこれは近いと思うんですよ。
ここに甘えの構造というものがはっきり見える気がするんですね。
オグデンの話ということは、
つまりそれは甘えの構造から書いているわけではないんですけど、
同じ現象だと思うんです。
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システムエンジニアが20歳年上の奥さんと結婚して、
その奥さんが家にいる時は自分のガレージで車いじっている仕事がはかどるわけですよね。
仕事なのか趣味なのか知らないですけど。
でもその奥さんが家から出かけてしまうと、
急に仕事が手につかなくなって奥さんの帰りを待っちゃう。
で、これ非常に甘えてるじゃないですか。
どう甘えてるのかを説明するのは難しいですけど、
甘えていると言えば通るじゃないですか、日本人だったら。
でも西洋には甘えに相当する言葉がない。
で、その奥さんが帰ってくるとまたガレージで仕事が進むんだけど、
ガレージに奥さんが来てしまうとそれに対しては嫌なんですよね。
この人怒ると。非常に良い話だと僕は思うんです。
良いというか良い事例だと思うんです。
一体これは何なんだろうとこういうのを説明するのは、
僕は精神分析しか見えてこないんですね。
母子一体という話がやっぱり一番考える上でもヒントになると思うんです。
ユイニコットの言った母子一体ですよね。
ビオンはこのコンテナーという表現を使うんだけど、
まあまあ同じことだなと思います。
要は自分のニードなんですよ。
ニードをニーズに変えられないということが人にはあって、
自分で変えられないというのは一つの問題なんだけど、
自分で変えられない人っているんですよ。
僕もそうだったんですよ。
ニードっていうのはつまりそういう必要性があるわけです。
例えばお腹が空いているというニードが違う。
血糖値が下がっているというニードがあります。
私の中でね。これはまだ空腹として認識されません。
よくこの番組で言うと、
それが起こると赤ちゃんはギャーと鳴く。
鳴くとお母さんがそれを汲み取ってニーズに変換する。
これをするのが心の一つの重要な役割なんですね。
ユイニコットはこのニードをニーズに変換するという部分に非常に集中したんですけれども、
ビオンという人はですね、ここにコンテナーという入れ物という概念を
持ち込んできて、そういう装置みたいなものを仮定したのかな。
その全体の状態を抱え込む。
だから赤ちゃんを抱っこするというのもそういうことなんだけど、
抱え込む機能としての母親とか、そういう言い方を
そういう感じの考え方を取るんですよね。
この方がそのコンテナーが出来上がることが
自分の心の研究ができる。
逆に言うとそのコンテナーがちゃんと機能していないと
ニードがニーズにならないんですよね。
そうするとその人は何か不愉快だとか、何か物足りないとか、
何か寂しいという感じを抱くことができても、
どうしたいのかが自分では分からないわけです。
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で、非常に不思議なんですが、
たくさんのコンテナーがあるんですよね。
そのコンテナーが何か不愉快だとか、何か物足りないとか、
でですね、非常に不思議なんですが、
他人を必要としちゃうんですね。
でも、昨日もしゃべりましたけど、
戸畑海人さんが言った通り、心は他者であるから、
他者がそれをやってくれるというのは、
非常に理にかなってはいるんですよ。
ただそれが、他者がいない時は自分でもできるようになって、
つまり自分の心が形成されるということになるわけです。
だから、これが形成されない状態だと
思っちゃうわけですよね、その人は。
それを神経症って言うんですけれども、きっと。
このニード、ニーズ、うまく変換することに、
なぜかしくじってしまう。
まあ、なぜかじゃないんですけどね。
これは母子関係の中で、
そういう変換をする心の形成を
うまくできなかった場合に、
大人になってから問題を引き起こすということなんだと思うんですよ。
このシステムエンジニアさん、そういうことが起きているんだと思うんですよね。
自分のニードが、ニーズにうまく変わらないんですね。
何かやりたいんだけど、何がしたいのかが分からない。
でも、家に奥さんがいることで、
この奥さん間違いなく20歳の年上であることからも分かる通り、
お母さんなんですよね。
お母さんが家にいることで、
心の機能が、お母さんが手伝ってくれているわけですよ。
手伝うというのは何にもしていませんよ。
手伝うのは何にもしていないんだけど、
いるだけで手伝ってくれるんですよ。
そうすることによって、
ガレージのところで、
自分の何かやりたい、分からないニードというものが、
車をいじりたいんだというニーズに変換されるんですね。
こういうのを寂しがり絵だとかって言うじゃないですか。
それじゃよく分からないと思うんですよ。
これは、こういうふうに説明されてみて、
初めてこの種のことってたくさんあるような気がするんです。
例えば、自分の部屋では勉強しない子が、
よく最近あるんですよ。
そういう子育て論が。
リビング・ダイニングに勉強する空間を作ってあげましょう。
これ、完全に同じ話をしているんですよ。
親がそこにいると勉強をする気になる。
親に勉強するところを見てもらいたいとか、
そういうふうに表現してもいいんですけど、
子供なので、まだ自分のニードがはっきりニーズに変わらないんですね。
勉強したいというニードはあるんですよ、人間には。
でもニードだと何がしたいのか分からないです。
ギャーと鳴いている赤ちゃんは、
自分がミルクが飲みたいのか、寝たいのか、
抱っこしてほしいのか、遊んでほしいのか、
構ってほしいのか、分かってないんですよ。
ただ、ニードがあるんですよ。
それに対して、お母さんが適切にニーズに変換してあげるということは、
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いつでもおっぱいあげりゃいいってものじゃないじゃないですか。
これはお好みけいごさんが書いていることなんですけど、
そういうときにいつでもひたすらミルクを与えるお母さんというのもいるんですよ。
そうすると、その子はなかなか自分のニードをニーズに変換するという機能を育てることができないんですよね。
子供は何をしたいのかはっきり自分ではまだうまく変換できないこともあるので、
勉強したいのにゲームしちゃうということはあるんですよ。
よくわかります、そういうことは。
何かがしたいんだけども、何がしたいのかははっきりしない。
あるいは、何かが勉強したいんだけど、勉強するような状況がうまく設定されていないので、
だからリビングダイニングに勉強スペース作れって書くわけですよね。
子育て本には。
だから漫画読んじゃうとか、そういう漫画を読むほうが環境設定としてはすぐにできそうな状態にあるから、
自分のニーズに変換するのが混乱するんですね。
でもこの種の混乱って僕らにもしょっちゅうあるじゃないですか。
必ずしもお腹が空いてないけど、喫茶店に入るとかね、普通にあると思うんですよ。
本当は休みたいんだけれども、何か本を読んでしまうとか、いろいろあると思うんです。
ニードをニーズに変換するというのは、そんなに簡単なことじゃないですよね。
シチュエーションも選ぶし、さまざまあるわけですよ。
このシチュエーションを選ぶというのは、つまり昨日おどといかしゃべった移行対象ということになると思うんですけども、
移行現象でもいいんですけどね。
とにかく最初はお母さんがやってくれたニードをニーズに変換するという、
お母さんがやってた機能、お母さんが実行していた機能を自分の心の中にインストールすることで、
お母さんいなくてもそれができるようになると。
多分これを自立と言うんですよね、精神分析では。
けどこれがある程度はできるんだけど部分的にしかできない人は、
家にお母さんがいるということによってその心の機能が働く。
だけどいなくなると機能が停止してしまうので、
ガレージにいてどうしていいのかよくわからないので、お母さんの帰りを待つ、奥さんの帰りを待つと。
けれどもお母さんというのはそこにいてくれりゃいいのであって、
ガレージに来て何か喋ったりしちゃいけないわけですよ。
勝手な話なんですけど、だから甘えなんですけどね。
勝手な話なんですけれども、そこにお母さんがやってきて、
ああしろこうしろって言うと今度はニードをニーズに変換するんじゃなくて、
ニーズが勝手に押し付けられることになるじゃないですか。
これをミニコットはすごい厳しい言葉を使って、
親衆とかって言うんですよね、メスで刺すみたいな話ですよね。
刺されてしまうんですよ、子供だからね。
だからガレージに入って、奥様が家にいて、
ガレージに自分だけがいて作業するのはいいけれども、
奥さんがガレージに来るのはダメなんですよ。
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親衆になっちゃうんですね。
その人の心の機能はまだ十分に働ききらないものなので、
そこにお母さんがドンと登場してしまうとすぐにその機能は停止し、
やっぱりガレージで自分が好きな車いじりというものをするというニーズが
自分の中でうまく機能しなくなり、
今度は奥さんの要求というものに邪魔されてしまう感じがする。
これが親衆なんですね。
こういう現象についてこれほどはっきり分かるように、
しかも事例付きだから事実としてあるわけですよね、こういうのが。
見たのは多分オグデンの本が初めてで、
非常にやっぱりそうだ、こういうのはきっとどこにでもあるんだと思ったし、
自分は非常にこの種のことで高校時代とか大学時代に困ったし悩んだし腹も立ててたんですよ。
非常に自分が頼りない人のように思える。
その年になって母親というのが何か非常に、母親でも父親でも何でもいいんですが、
心理的に頼っている感じがあるじゃないですか。
一方で何をどう頼っているのかよく分からないわけですよ。
母親がそこにいようが何しようが勉強を図るわけでも何でもないですからね。
しかもすぐそばにいられるのは嫌だっていう、
この自分の非常にわがままな感じ。
これが嫌だったわけですよね。
それを思い知らされるから嫌なんですよ。
だからそういうことって、
誰もそれについて何かを教えてくれることはないんですよね。
精神的に大人になりきれてないとか、せいぜいそんなものなんですよ。
その通りかもしれないんだけど、それはどういうことなのかがよく分からないし、
聞いてもよく分かるような説明は戻ってこなかったんですね。
で、今この私の感じではですね、このコンテナという考え方が一番分かりやすい。
自分のコンテナ、心には自分のコンテナがあって、
自分のニードをそこに入れると、なぜかニーズになって返還されて戻ってくる。
これが自分で意識できるようになると、
人がいるとかいないといったことはあんまり関係なくなるんですよね。
つまり寂しさというものはそこに生じなくなっていくんですよ。
これが違うなっていうふうにやっぱり思います。
知識っていうのはこういうものなんじゃないかと思いますね。
それでここにちょっと、
甘えというのはニードなんですよ。
ここが僕は大事なんだと思うんです。
書いてないですよ、オムデンの本に甘えはニードであるなんて。
甘えという概念を西洋人は持ってないわけですからね。
ただ僕は日本人にとって甘えというのは、
つまりこれは世界中の人にとってそうだと思うんですが、
日本人というのはここが鋭かったと思うんですが、
たぶん世界中の人にとっては、
甘えというのはニードなんです。
ここが鋭かったと思うんですが、
たぶん世界中の人が、だってこのオムデンさんのシステムエンジニアは完全に甘えてるじゃないですか。
でも自分でそれが分かってないですよね。
彼は甘えを、甘えという概念に変換することに失敗しているんですよね。
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そういうふうに考えるのが一番手っ取り早いと思うんです。
甘えたいというニードが私たちにはある。
でもこれはニードだから、本当は甘えたいなどという言葉にはならない。
何かこうある。何かこうあるんですよ。
何かこうあるものを心に入れて、
言葉に直すと甘えたいになると。
でもニードなんて本当は言葉に直しちゃったらいけないんですよね。
ノリさんが書いてるんですよ。
甘えというのは言語化できないものなんだ、本当はと。
言語化してしまうと何か過剰なものになってしまって、
甘えることに失敗しているときにだけその表現が出てくるという。
つまりこれは甘えているというのは自分では自覚できなくて、
外側からだけ判定できるものなんですよね。
人があいつ甘えてるといったときは、
すでに甘えがうまく機能していない証拠なんですよ。
甘えがうまくいってるときは、
それをことさら誰かが意識する必要がある。
それをことさら誰かが意識する必要ってないわけですよね。
ということはどういうことかというと、
甘えているというのは他人がその人のコンテナに機能を加えている、
まさにこのシステムエンジニアの場合の奥さんがやってくれていることが
甘えさせてあげるということなんですよね。
家にいてあげるということが甘えさせてあげるということなんですよ。
つまり、ある種の人の心がうまく機能しないとき、
このエンジニアさんの場合は通常うまく機能してないんだけど、
それは言ってみれば通常神経症ってことになっちゃうんですが、
そうじゃないです。
私たちはしばしばこれに自分でもうまくいかないことがあるわけです。
人に手伝ってもらわないと、ニードがニーズに変換できないと。
人のニードをニーズに変換してあげるということが甘えさせるってことなんですよ。
だって明らかに母親がやってるのがそういうことですからね。
母親は文字通りそれを常にやるから、母は常に甘えさせてるわけですよ。
これは父がやっても全く同じことです。
私たちは人間関係でしょっちゅうこれをやるんですね。
だから甘えさせるということは、人が心のコンテナに関与して、
関与するというのは特に何かをするわけじゃないんだけど、
とにかく一緒にいるとか側にいるとか寄り添うと言ってるやつが全部それなんですが、
関与してある人のニードがその人のニーズになるようにしてあげると。
特に何をするわけではないんだけどしてあげるんです。
そうすることによってその人を甘えさせることができる。
だから甘えるというのは特に何かをするわけではないんですよね。
自分の心が、あえて言うならば自分の心が機能するようにするってことです。
自分の心が機能するように人にしてもらうということが甘えるということの多分一番大前提なんだと思うんですね。
24:08
なんならばひびの入った自分の心のコンテナみたいなものをイメージしてもらって、
このひびの外側にちょっと何か塗ってもらうのが甘えるってことです。
しかもこれは純心理的な話なので、心だけの問題なので、
具体的に何をするってことは一切心の中にはないんですよ。
単純に言うとその人のニードを受け止めてあげたらその瞬間に甘えさせることになります。
倉園さんが昔、昔ではなくてしょっちゅうグッドバイブスで、
与えた途端に与えられるっていうのはこういう現象を指すと思います。
これは甘えさせた途端甘えることになるし、甘えた途端甘えさせたことになるので、
間違いなくニードをニーズに変換するというのは甘えることでもあるんだし、
甘えさせることでもあるんですよ。
これは必ず同時に生じてしまうので、そうじゃないといかにもおかしな話なので、
ニードがニーズに変換したというその瞬間に甘えっていうのが成立してるはずなんですよね。
ここのところが日本人の独特の感性だったんだと思うし、
これに言葉を与えたところがですね、本来言葉になりにくい部分なんですよね、これはきっと。
コンテナに入れてニーズに変換されたときに言葉になるはずなんですが、
その過程そのものを言葉に変えてしまっているから、
分かりにくいといえば非常に分かりにくい言葉で、
これが言語概念になってないという西洋っていうのは、
非常にある意味独立心が強いとも言えるし、
別の言い方をすると独立している気になって人に依存している部分に関する自覚が弱いとも言えるわけです。
話がちょっと込み入ってはいるんですけれども、
具体的には意外と簡単なんですよ。
甘えるということはですね、人と一緒にいて仲良くしていられるというのは全部甘えがそこにあるんですね。
しかも土井さんは間違いなくここに愛というものを考えているので、
その部分はすごく逆に僕は不思議なんですけど、
ミニコットにせよ美容にせよ、愛に関する部分の強調点が少ないなというか乏しいなと思うんですよね。
だって人のニードをニーズに変えてあげるというのは愛情そのものじゃないですか。
何をして欲しいのか分からないのに、
それを何をして欲しいのかを汲み取ってそれをやってあげるというのは愛情そのものですよね。
それが何か取引みたいな記号でのやり取りみたいに見えてくるというのは、
そこがやっぱり非常に西洋的なのかもしれないんですけど、
ニードをニーズに変換するというのは愛情そのものなわけですよね。
だからそこに甘えという言葉が入ってくるのは当然なわけですよ。
27:00
自分で自分の面倒が見られないとかそういう言い方もしますけれども、
自分で自分の面倒を見ている気になっているかもしれないけど、
その面倒の見方を教えてくれたのは他人なんですね。
だって私たちは生まれてすぐにどうやれば空腹を満たせるのか、
どういう言葉を使えばそもそも空腹だという表現そのものが他者を案に含んでますよね。
他者の存在を明らかに想定して喋っている。
しかもそこに自分の欲求が表現されているわけだから、
甘え以外の何者でもないはずなんですよ。
それを表現するということ自体が。
だから自分の欲求というものに名前を与えたということが、
すでにそこに他人がいて何とかしてくれるだろうという含みがあるはずなんです。
この含みが甘えですよね。
僕らは自分のニードをニーズに変換するということに時々失敗するので、
常時失敗すると神経症になるんですが、時々失敗するのでそこを他人に頼ります。
他人はこのニードをニーズに変えてあげるということを言ってみれば心理的に手伝ってあげるわけですね。
ここで甘えが成立するんだけれども、当然これがうまくいっている限りですね、
誰も甘えと甘えさせているという意識はほぼ持ちません。
これをいちいち意識する人がいるとすると、その人はよっぽど甘えています。
ここが逆説的なんですよ。
例えば他人を甘えさせるにしてもですね、
他人のニードをニーズに変換するということは、
心理的に手伝うということにいちいち苦痛を覚えるということは、
その人はよっぽど他人に甘えています。
そうじゃなければ相当変ですよ。
こうやって抽象的にしゃべると非常にわかりにくいんですが、
具体的に家の中にいればこれは非常に簡単なんですよ。
例えば私、娘との会話というか、会話がそんなに難しいんですけど、
例えば私、娘との会話というか、会話がそもそもそうなんですよ。
だってですね、人と人が対面でいて何もしゃべらないということってできるわけじゃないですか。
明らかにでもそうすると奇妙な緊張感が湧いてきちゃいますよね。
政治分析ではよくセッション中の沈黙というのの意味みたいな話をするんだけれども、
黙っているというのは結構厳しいじゃないですか。
だからしゃべりますよね。
しゃべりたいと思っていてもいなくてもしゃべりますよね。
非常にしばしば話題に困るとかいう言い方をするじゃないですか。
これ全部甘えですよね。
自分がそこで何をしたいのかが本当のところよくわからないわけですよね、その人と一緒にいて。
相手に何とかしてほしいとするとき、思うからしゃべるわけじゃないですか。
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しゃべるということは、相手も会話に乗ってくるということを案に期待していますよね。
自分がしゃべっても相手は沈黙。自分がしゃべっても相手は沈黙じゃない。困っちゃうと思うんですよ。
このときに相手に何かを期待するということが既に甘えなんですけれども、
そうしてくれると助かると思うということは、つまり相手がしゃべったときにわかるわけですよね。
自分が何をしてほしかったのかがわかると。
つまり自分のニードが相手によって受け止められるとニーズに変換されると、
その瞬間に自分のニーズがわかるわけですよね。
こういうケースって実は実によくあると思うんですね。
これを可能にするためには、相手が手伝ってくれる人がどうしても必要なんですよ。
そうじゃなかったら一緒にいる意味は全くなくなるので、一緒にいないほうがいいですよね。
この種のことって私たちは人間関係の中では頻繁に経験しているので、
頻繁に経験している上にほぼほぼ自覚なくやるので、
甘えているというふうに意識するとすれば、それはよっぽど甘えがうまくいっていないわけなんだけれども、
その一番極端なケースが起こるってやつなんですよ。
ほぼ確実に怒っている人というのは自分のニードをぶつけているんですね。
ニーズになっていないわけです。ニーズになっているんだったらニーズをしゃべればいいんですよ。
怒るとか不満を言うとかいろいろありますけれども、
例えばそうだな、私がTwitterでひたすら連追して来てください、来てくださいと、
明後日来てくださいと言うとするじゃないですか。見苦しいと思う人がいると思うんですよ。
共感性周知という言葉も流行るんですけれども、
ああいうのは精神分析だと思うんですよね。
共感性周知という言葉を認知心理学的に出してみても、社会心理学的か、
あんまり簡単にその現象が分かっても、その心情が分かるかどうかは微妙かなと思うんですけれども、
それで言うとするじゃないですか。見苦しいかどうかはその人に関係ないことですよね。
関係させてますよね。なぜ関係させるのかと。
そういうことを例えば私にやってほしくないと思うのは一つの甘えですよね。
ここで非常に不思議なことが起こるんですけれども、
通常私に甘えるということはいろんな形で可能です。
例えば私の本を読むというのがすでにその種のことの一つです。
だってニードがあるはずです。どんなニードが満たされるかわかりません。
この段階ですでに甘えなんですよ。
どんなニードが満たされるのかがわからないのに本を読むということは、
本によって自分のニードが明らかになったということはニーズになっているということです。
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しかもそのニーズが本によって満たされているということを先に期待するわけなので甘えなんですね。
これは逆に言うと、逆に言うとじゃないな。全然逆でもなんでもないです。
この種のツイートで喋るという前の段階で何を喋る喋らないというのが
すでに私のフォロワーさんは期待していることがあるはずなんですよね。
だから何か期待に外れたことが行われると不愉快になる。
ということはその瞬間に自分のニーズというものが少し見えてくるわけです。
こういうふうに甘えて機能しているので見えないんですよ。
だって何もツイートしていない段階において甘えているわけですよ。
期待し相手がその期待に応えることによって自分のニードがニーズに変わるんだから
その前の段階じゃ何もわかんないわけじゃないですか。
ということはその前の段階で自分が何をしているかなんて意識する人はいないですよね。
こういうことに全て顔色をうかがうということは深く関係すると思うんですよね。
自分がこれから何を言うか、もっと簡単なところで
例えばレストランで何を注文するかで躊躇するって人がいますよね。
躊躇するってことはこのように言うことで人は受け入れやすくなるだろうという
とても不思議な考え方があるわけですよ。
ラーメンというと馬鹿にされるんじゃないかって思っている人って少なからずいると思うんですよね。
人の顔色をうかがうの場合。
じゃあなぜカツカレーと言うと人はにっこりするのか。
そんなはずはないですよね。
だから事前に自分が何を期待しているのかわかんないわけですよ。
もっと言ってしまえば何を食べたいかがニードじゃないですか。
何を食べたいかがニードですよ。
これを何を食べたいに変換する、ラーメンを食べたいに変換するというのがニーズですよね。
これは自己完結できる話なのに
人前で何かを注文するときは自己完結できなくなってしまうというのは
ニードをニーズに変換できないんですよ、自分だけでは。
一種の新習が起こっているわけです。
メスが刺さってくるまではいかないかもしれませんけどね。
人が見ているとカツカレーって言ったら大食いだと思われて馬鹿にされるんじゃないだろうかと思っちゃうと。
これは新習ですよね。
そこで人に手伝ってもらうわけです。
私が何と言うとみんながここでいい顔をしてくれるんだろうということを教えてくださいという含みが案に始まるわけですよね。
うまく甘えられていないんですよ。
うまく甘えられていれば相手がどうするかなどということを考える必要は一切ないシチュエーションなんだけれども
考えちゃうということはうまく甘えられないんですよね。
攻撃されるかもしれない。
攻撃されるかもしれないというのは攻撃しないことを期待しているわけですよね。
攻撃しないということを期待するということはうまく甘えられていないということですよね。
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この状況に完全に甘えられていればその種のことを全く意識してずに済むはずなんですよ。
だからその種のことを意識しない人というのは実際は甘えているわけですよね。場面に。
自分が自分のニードを簡単にニーズに変えてしまう。
そうすることで何も問題は起こらない。
みんながそのことを良しとしてくれるという形でニーズが満たされるということがはっきりしている人にとっては
カレーってすぐ言えるわけですよ。自分がカレー食べたいから。
最初ニードだった段階では何が食べたいかなんてわからないわけですが
その人はそれを変換するのに何の苦労もないわけです。
ここで苦労する人は顔色をうかがってしまうはずなんですよね。
どういうふうに変換するということがみんなにとって望ましいですかということを
変換の中身に含めてしまうので、すっごい怪しいことになるわけです。
もうちょっと簡単に言うとグッドワイブス流によっておかしな行動になるわけですよ。
奇妙な感じがしちゃうわけですね。
何かそういうものを感じさせるケースは少なからずあると思うんですよ。
まあでもこれは母子関係に疑われてしまいますよね。
あなたそんなお子様ランチャーやめてカツカレーにしなさいとお母さんがしつこく言うみたいなね。
えーと今のはただの比喩ですよ。
誰が言うかわかんないですよこれは。
友達かもしれないし、近所のお兄さんなのかもしれないけど
とにかくそういう余計なことをした人が、しかも割と繰り返しした人がいたせいで
自分のニードをニーズに変換するというところに
いろんなものをまぜこぜにしちゃったんですよね。
これをウィニコットはホールズセルフって言うわけですよね。
偽りの事故というわけですけれども。
そういうことが僕らはただ無縁じゃいられないと思うんですね。
多分そういうことは多かれ少なかれいろんな人の身に起きている。
だから私が毎日のように一生懸命セミナーセミナー言ってると
それに対して何かが言いたくなる人が出てきてしまう。
それはこれを聞いているという段階で既に私に対する依存があるんだけれども
その依存が少し極大化していくわけです。
もっとこうであってほしいと無意識のうちに思い始める。
そうするとこういうことをしない方がいいのにと思ったりすることを
私がしないということや私がするということによって
甘えられなくなる。
甘えられなくなる。
その時に自分の甘えに気づくんですよ。
で、嫌な気持ちになります。
自分の甘えに気づくということは害して嫌な気持ちになりやすいことが多いです。
全部が全部そうなわけじゃないんですけどね。
甘えというのは甘えるということと甘えさせるということが同時に起こるので
相手のニードというものがニードに変換されたという瞬間に
自分のニードというものがニードに変換されなかったという時に
必ず自覚されるわけです。
39:01
私はこういう風であってほしいとか
セミナーにはこういうぐらい来てほしいとか
いろんなことを思ってしまう。
自分に直接関係なくてもね。
だからそういうことについて何かを思い何かを言いたくなるわけですよね。
あるいはツイッターとかで言及が入るのかもしれない。
その時には強い甘えというものが出るはずなんですね。
私のニードをちゃんとニーズに変えてくださいということです。
その中には私が例えばツイッターとかでは一切セミナーの告知をしないとかね。
当然そういうことも含まれるわけです。
するならこういう言葉を使ってほしいとか
語尾は丸じゃなくてエクスクラメーションマークにしてほしいとか
そういう風になるわけですよ。
自分のニードが相手によってニーズに変換されるということを期待するということはですね。
完璧にそれを満たすのは無理なので。
完璧にそれを満たすお母さんというものはつまりこういうことですからね。
赤ちゃんが血糖値が下がってきてミルクが欲しいと思って今泣こうとした瞬間にミルクが来るみたいな。
これが常に完璧にあらゆるタイミングで満たされるのをパーフェクトマザーというわけです。
理論上の存在ですよ。
これは絶対にこのパーフェクトはあり得ないのでどう考えても無理なので。
どう考えても無理なので。
赤ちゃんの血中濃度とか血中酸素濃度とか血糖値とかが全てオニタリングされていて
AIがサッサッサってやってくれるとかそういう世界ですよね。
じゃないお母さん全てグッドイナフです。
つまり私は環境としてフォロワーさんにとって私はツイートする環境なので
環境としての母親としては常にグッドイナフでしかあり得ない。
パーフェクトということは論外。
こういうツイートして欲しいとフォロワーさんの誰かが思ったときに
そのツイートがまさにそのタイミングで完璧なタイミングで苦痛点も全て揃っていてパッと来ると。
それが9000人なら9000人にとって常にパーフェクトである。無理ですよね。
これはAI使っても無理だと思うんですよ。
だからグッドイナフになる。
グッドイナフでもあると僕は今では思います。
程よいということは程よくないわけですよ。
程よくないところがないとニーズに気付けないじゃないですか。
これがある種のパーフェクトに近いお母さんがもたらす一つの問題なんですね。
自分が飲みたいと思ったらミルクが出てくる。
抱っこして欲しいと思った瞬間に抱っこされる。
全然自分の欲求に自覚を持つ暇がないですよね。
パーフェクトマザーというのは危険な存在なんです。
お母さんにならない。
多くの場合は押しつけがましいお母さん。
親習的なお母さんにしかならない。
ミルクも飲みたくもないのにミルクばっかり持ってきたり、
抱っこして欲しいわけじゃないのにどんどん抱っこしたりすると。
そうすればそうされたで、
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赤ちゃんは自分のニーズに気付くのが非常に困難になっていくわけです。
むしろお母さんとの対応に忙しくなってしまうと。
ミニゴッタはこのことをすごく言ってるんですよね。
赤ちゃんというのは静かにゴインゴンビームで、
静かに息づいてなきゃいけなくて。
そこにあだこだあだこだあだこだ言われてくるというのは、
要するに偽りの自己被害化させるという言い方をします。
私のひたすらセミナーセミナー言うというのは、
親習になるというケースがあるわけです。
親習されて困る人というのは、
ほぼ確実に心の機能が十分発達していないので、
そこが神経に触るわけですよ。
それを神経症と言うんです。
たぶん私がしてほしくないツイート、
例えば野球の話なんかにしてほしくないのにというのが意識されると、
それは電車の中でずっと喋っている人の声が気になるというのと
全く同じ現象を生み出すんですね。
そのある種の現象というものを
自分の心の中で抱え込むことができなくなっていく。
それはたぶん、やっぱり自分のニードというものが
起きてしまうということなんですね。
静かにしてほしいというニード。
それをそのままニーズに変換するのは
ほとんどの場合困難じゃないですか。
おじさんが喋っていて、
ちょっと黙っててくださいよって言えないですよね。
だからニードをニーズに変換するというのは、
実はシチュエーションを選ぶし、
いつもいつも簡単にできることでは確かにないので、
人の力を頼るということは絶対に必要で
うっといなくなんですけれども、結局は。
このことがたぶん、
パーフェクトに近づかないとどうしてもつらいという人にとって、
とっては、
あの顔色の本というのは、
そこそこ私は有効に機能するというふうに思っております。
なので、結局この顔色を伺うときに、
私たちがいつも悩んでいることは、
本当は実に簡単なことなんですね。
自分のニードを人の力によって
変換してもらっているんだということに
自覚すればいい。
本当はそれだけなんですよ。
これが、
なぜ私が相手のことを甘えさせなければならないんだ
に対する答えなんですね。
それは、私が人のニードをニーズに変えるということを
してあげるという意味になるんだけど、
なぜしてあげなきゃいけないのか。
してもらっているからなんですね。
ご視聴ありがとうございました。