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2022-11-25 29:39

【708GMV】グッドモーニングボイスを改名します!

「みんなのセラピー心理学」とします。

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おはようございます。グッドモーニングボイスです。
ただいま11月24日の9時、少し過ぎたところで、実は9時ちょうどから撮ってたにも関わらずですね、テイク2となってしまいました。
突然落ちたんですよ。本当にやめてほしいんですけど、朝下で撮るとこれが起きることがあるという、まだちょっと原因が特定できてないんでね、取り除けないんですよね。
いい感じで喋ってたにも関わらず、少し落ちて、うってなって、まあいいやと思って撮り直しております。
さっき喋ったことの、ワールド杯で日本が逆転したという下りはもはや繰り返したいと思わないので、勝ってよかったねという、
昨日前半で寝ちゃった私としてはショックを受けてびっくりして、まあいい驚きですけどね、そんな話をちまちま喋ってましたが、その分はスキップするので少し短くなるかな。
お知らせがありまして、この番組の名称を変更しようと思っております。
これは前も言ったかもしれませんけれども、決めました。
みんなのセラピー心理学という名前に名称を変更しようと思っています。
700回のやつを引き継ごうかどうかはまだ迷っているんだけど、とりあえず引き継ごうかなと。
気分一新というのもいいんだけど、やっぱり私は気分一新タイプじゃないんですよね。
つないじゃうタイプの人間だという気がします。
今のところね。
そういうわけで、名前は変える予定でおります。
来週くらいから変更しようと思っています。
それに関わる関連するお話を今日はしようと思っていて、
さっきこの辺の話を始めた途端に落ちたんだけど、
つまり私は今の活動というのをセラピーという観点で眺めているわけですね。
もともといろんなものって考え方とか、
それこそ思想とか哲学とか宗教と言われているようなものは、
結局カウンセリングをすることになるんですよ。
明らかに昔のお坊さんというのは、つまり仏教ではね、
それをやっていたし、今でもやってはいますよね。
キリスト教の懺悔室とかいうのは、
完全にあれは精神分析の原型ってあそこにあるんだろうと思うんですよね。
それ以外はちょっとあの形式では考えにくい、
非常にいろんな意味でよく似たところがあるし、
機能や効能もかなり似ていると思います。
この番組でも以前少しお話ししたストア派の哲学みたいなやつ、
あれももう完全に冊子を読んでいると、
これはつまりこれカウンセリングじゃんっていう感じで、
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しかもその発想もグッドバイブスで言われるような話と、
グッドバイブスとストイシズムが似ているというわけではないんですけど、
非常に言っていることが似てくるところってあるんですよ。
グッドバイブスもあれは何なのかっていうのはちょっと難しいんですけど、
倉園さんが考案されたメソッドって言っておくしか今のところない、
自己啓発っていうのがやっぱり現在のジャンルで言えば、
本にすれば多分そのカテゴリーに収められることは多いと思うんですけどね。
そこには当然カウンセリングっていう要素が出てきますよね。
カウンセリングのためには見出されたものではありませんが、
カウンセリングというものはカウンセリングという形式を取って活用することは、
たった今後もあるんだろうと思いますね。
それを私はいろんなセラピーもカウンセリングも同じ臨床心理なんですけど、
臨床心理という観点で捉えて、そして何をしているかというとですね、
いわば日常生活、特に仕事で引っかかるんだけど、
日々いろいろなフリーランスならフリーランスの、
会社員なら会社員の、派遣社員なら派遣社員の、
働いていない人は働いていない人なりに壁に当たるときに、
それを取り除く観点の重要なピースとして、
セラピーというものが非常に使えると思っているわけです。
セラピーは心理で今、分野としては心理で研究されているから、
セラピー心理というのは当然ありますよね。
というか、心理の半分はセラピーだと私は思います。
そういうふうにして、私のやっていることを改めて整理し直してみるとですね、
いわばタスクシュートでずっとやってきたわけです。
そういうタスクシュートベースでやっていることというのは、
やっぱり基本的には仕事のためなわけですよ。
多分に生活というのがタスクシュートに入ってきますけど、
少なくとも半分以上は仕事のためなんですよね。
そこでの行き詰まりといったものを何とかするのは、
タスクシュートの中のシステムだけでできることもいろいろあるんですけれども、
どうにもならなくなったときに、
私はGood Vibesを取り入れて何とか切り抜けたわけだけれども、
そのGood Vibesというものを私はやっぱりカウンセリング的に見たんだなって感じがするわけですね。
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そして他のカウンセリングでもタスクシュートでの行き詰まりとか仕事の行き詰まりというのは、
できるというかすでに皆さんがやっているんですよ、多くの人が。
これは戸畑海人さんの聞く技術がまさにそうだったんですけど、
聞くというのはカウンセラーだけが聞くわけではないし、
ましてGood Vibesだけで聞いているわけじゃないわけじゃないですか。
これはもう言うには及ばずで、Good Vibesを知らなくて、
カウンセリングなんかも知らない人でも人の話を聞くということはあるわけで、
聞いてもらうということはあるわけで。
ああいったものが仕事とか日常生活のかなりどん詰まりの時に実は有効だよという話を彼は書いて、
今しかもそれがベストセラーですよね。
こういう展開を見るにつけですね、やっぱりセラピーというものがもっとこう、
昔に比べれば今でも十分広がっていますけれども、
もっとこう遥かに深く浸透して行き渡っていけばいいだろうと、
少なくとも悪くはないだろうと。
そして特に、特にではないんだけど、私はこう自分のしてきた仕事の関係もあってですね、
ライフハックとか仕事術のところにこれを言ってみればガッチャンコしたいと思っているわけですよね。
昔ライフハック心理学なんて僕が言ってたのは多分この辺のことを意識してたんだろうと。
はっきりどれを意識してたってのはないんだけど、多分結局はそうだったんだろうなと。
やっぱり僕の基本的な性質っていうものがそこら辺から来ているんだと思うんですよね。
そして精神分析に今すごく傾倒していて、もちろんグッドバイブスあるんだけど、
グッドバイブスは心理学ではないですからね。
それに心理学の話を加工つけることはできるんだけれども、もともとがそうだったわけではありませんから、
あくまでも心理学っていうものを持ってくるとなると、またさらに一つ外から取り込んでくることになるわけですよ。
最近私がちょっと読んで、面白いなと思っているのがナラティブセラピーってやつで、
それほど目新しいかっていうと、すごく今ある分野では流行ってきているみたいなんだけれども、
ナラティブセラピーっていうのはさっきの聞く技術と同じなんですよ。語りのセラピーっていうわけなんですね。
人は非常に精神分析的だなとも思うんだけれども、ある種の物語を持っていると。
北山治虫さんが言った台本とそっくりですよね。
記憶っていうのは要するに私たちが、物語というのは記憶なんですよ。
過去の出来事をただ覚えておくだけでは何にもならなくて、そこに意味付けはするし、イリュージョンも加えると。
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そして結局記憶を引きずり出せるようになった時、脳の中からね、それはもう事実というものと明らかに異なるわけですね。
だから人の数だけ記憶の数があって、同じ記憶であってもストーリーがあるわけですよ、必ず。
記憶とはストーリーだってことなんですね。
そうすると出来事に意味付けをして、私たちはこの物語というものを覚えているわけで、記憶というよりは物語を覚えているわけで、
その物語の語り方というものを修正することで問題が解決していくことが非常によくあると。
それがナラティブセラピーの基本的な発想の大元にあるんですよね。
いわば記憶の書き換えというか、物語の記憶の解釈のし直しと言いますか。
これが有効だというのはよく分かります。
精神分析でやっていることとほとんど全く変わらないし、言うならば精神分析はナラティブセラピーでもあるわけですよね。
それを言ってしまったらほぼ全てのカウンセリングってナラティブセラピーなんじゃないかって思わなくもないんで、
でもそれは思うに悪いことではないと思うんですよ。
ナラティブセラピーという概念でいろんなセラピーを見つめ直すってですかね。
そういうこと自体は悪いことではないと思うんですね。
そういうものの一番私が今こういう台本が多くの世の中の人に出回っていて、
それを書き換えるのに使えるなと思っている概念が例の私の言葉で言えば、私の言葉じゃないけどね。
私が好き、今一番使っている言葉で言うと甘えっていうやつなんだなって思うんですね。
つまり私たちは甘えてはならない物語というのが今の人たち、今の私たちの日鮮で働いている人たちの間の大きな葛藤になってきているわけです。
多分僕が思うに、それこそ実名出しては申し訳ないんですけど、悪意を持っているわけじゃないんでね。
メンタリストさんとかニチャンの人とか、要するに新自由主義の機種みたいに言われている方々ほど、
我々はバリバリでバラバラ意識と競争意識だけでやっていった方がいいんだって思っている人って少ないと思うんですよ。
そんなにいるもんじゃないと思うんですね。
かなり第一線でバリバリやっている人であっても、
主張は時々口に出せば、お酒に酔ったりすればね、そういう風かもしれないけど、そこには葛藤があるなって感じを聞いてて抱くんですよ。
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逆のことも盛んに言われているわけじゃないですか。人間はそれだけでは生きていけないみたいな。
それは最もだし、どう考えてもそうなんだけども、
でも、転落の怖さみたいなのもあって、甘いことは言ってられないっていう葛藤もあるわけですよね。
この、要するに甘えと甘えられない葛藤みたいなものが、いろいろな人なりの性格に合わせた形で、
あるいは、結局性格と同じ葛藤になりますけど、
要育歴に合わせた形で、その人を葛藤に追い込むわけですよね。
つまり、物語に合わせた形なわけです。
その人の抱えている物語、あるいは台本ですよね。
で、いろんな台本があると。
その台本は、つまり幼少期から繰り返しその台本で生きているうちに、その台本に沿った出来事に目が行くようになったわけです。
例のカラーバス効果ですね。
蔵園さんが最近ポッドキャストで喋っていた言葉を使えば、事実に合致する出来事を探していくというわけですね。
つまり、自分の台本はどんどん強化されていく一方なわけですよ。
だから、カウンセリングってものがそこで始まろうとするとも言えるわけです。
台本の書き換えをするには他人の力を借りなきゃならないから、ここで面白い問題が起こるわけですよ。
つまり、人に甘えてはならないという、この現代の一つの力ですね。
全ての人がこれを、ただ一つだけを信じているわけじゃないんだけど、一つの言い分の勢力としてこれは厳然とあって、
うまくいっている人ほど、この線から逸脱しにくいというからくりがあるんですね。
つまり、甘えてはいけない台本を書いて生きているとですね、
人に甘えましょうと言っているカウンセラーなりセラピーなり、
それこそグッドバイブスなり、グッドバイスがこれを言うわけじゃないけれども、
この趣旨を抱えている人が周りにいくらいても、そこのところに行かないわけですよね。
この他人の話を聞かないというシナリオはですね、
今言ったようなからくりがあって、非常に抜け出しにくくなるわけだ。
すぐ周りを見れば、いくらもそんな話は落ちているというか、目の前に置かれているんだけれども、
これを目にすること、これを目にしないことで私は生きてきたんだ、サバイブしてきたんだと思う。
その価値観を支える体験と物語が混ざり一体となっているために、
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甘えるという話がですね、その人なりの文脈を通して読むと、
そういう言動もあるだろうけどね、本当にそれを信じている人はいないよねという世界を生きることになるんですよ。
この話を手を変え品を変え、流派によってはその流派の流儀に従ってね、
スピーカーを当ててみんな言ってるわけですよ。
精神分析は精神分析なりに、ナラティブはナラティブなりに、
グッドバイブスはグッドバイブス流に、そういう流儀があって言ってるんだけど、
全部甘えてはいけないという文脈を通してみると、
効かないサプリメントのようなものだという解釈によって効力を停止させられるんですね。
という全体がセラピーなんですよ、私が思うに。
これを一度聞いただけでは絶対意味がないし、
なかなかたとえ自分が成功体験できてなかったとしても、
ここから逸脱するのは難しいわけです。
今お話しした通りの理由で。
逸脱するということ自体が転落であると。
だから甘えるということがそもそも転落であると。
この甘えの進めみたいな話もわからないではないけど、
詰まるところは転落につながっているという恐怖がありますよね。
逆の方に向かっていけば、
どの程度自身自意的に競争を過劣にやっていくかわかりませんけども、
少なくともある程度はうまくやることができて自分にはね。
ある程度うまくやれば、
例えば先日新宿に新しいアップストアができていましたが、
こういうところでもあまり自分を我慢させずに、
わりとシンプルで、シンプルなんだけどきらびやかな、
良い対象を手にして生きていく。
そっちの方がはるかに幸せに違いないという状況を、
その心理状況というものに対して言ってみればですね、
その心理状況に沿って生きているうちに、
なぜか壁にぶつかり葛藤が猛烈になったという段階で、
初めてそういえばああいうのがあったなという、
なんていうんですかね、ムーブメントなのかな、道しるべなのかな、
そういったものとして置かれているもの。
そういうのがセラピーなんだろうなというふうに、
今は私は考えているわけです。
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これはすごく抽象的かつ速攻性のない話でして、
つまりこういうことをイベントを打つとか、
告知するといった側面も非常に重要なんですけど、
どこかで、なんていうんだろう、こういうのは、
絶えず心臓にトントンと打つようなのってあるじゃないですか、
何かを維持するために、生命維持装置みたいな、
ああいう感じで絶え間なく打ち続けていく、
それは大事なものなんだけど目につかないようなところにあって、
そういうものが必要なんだろうし、
たまにはベストセラーになったりもするんでしょうけどね。
おおむねそういうことは起こらないんですが、
そういうものとして、このポッドキャストもそうですよね、
そういうものとしてあればいいのかなというふうに思うんですね。
そして先日もお伝えしましたけど、
この甘えられないという問題、問題じゃないな、
甘えないと、甘えてはいけないから、
私は甘えずに生きているという甘えね、
これは非常に、もともと精神分析にあったものではない、
ドイ・タケオさんが発見したものですよね、
日本の言葉の中にあったというような意味で。
ウィニコットの、多分ですけどね、
ウィニコットのあるいはビオンの、
ビオンのコンテーニングというのはああいうことにすごく近いと思うし、
ウィニコットの言葉で言えばニーズですね、
ニーズの提供でしょう。
というのはGood Vibesで言うと他人というものが必須になるということですね、
自分一人ではやれないという、
これはもう甘えていると言っているのとほとんど同義ですから、私の感じではね。
一時ナルシシズムの世界と言ってもいいんですけど、
つまりこう、何て言うんですかね、
ニーズっていうのは言葉なわけですよね、
それは何かしらの対人関係における経験だっていう意味だと思うんですよ。
具体例を出さないと、これをいくらしゃべっていてもダメな感じがしてきました。
つまり、お腹が空いたっていう言葉を言うじゃないですか、
これって対人関係の体験なんですよ。
多分なんですが、僕らは物をただ食べただけで、
無人島にいて物を食べただけでは、
お腹が空いたという体験を持つのは難しいと思うんですよね。
赤ちゃんが泣く。
そして、それは排出とか力動って言うんだけど、
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それを泣かれているっていう風に
お母さんが荒いピロヤサの中で苦しんでましたよね。
これでなぜ泣くみたいな感じでね、
もうそれって力が入ってきたわけですよ。
これ、その依頼だってものに直面しない人には分かりにくいと思うんですけど、
ものすごい嫌な感じがするわけですよ。
これが赤ちゃんが経験を持っている、
苦痛なわけですよ。
これがニードが入ってくるってことなんですね。
入ってきちゃったみたいな。
ところがお母さんはこのニードが入ってきたときに、
それを自分の心で、
この辺ビヨンっていう人の考え方に限らないしかないんですけど、
グッとやって、解釈して、
あ、空腹だっていう風に自分の空腹体験に置き換えた上で、
このグッてきたものを少しマイルドにして、
赤ちゃんに体験して、
言ってみればね。
そして見る子をもらうと、
赤ちゃんは満足したケースだとしましょう。
これがお腹が空いたという体験になっていくわけですよ。
言葉になっていくわけです。
ニーズになるわけですよね、ニードが。
この世界が甘えの世界なんですね。
つまり僕らは言葉を使って、
言葉を使って、
言葉を使って、
言葉を使って、
僕らは言葉を発すると、
しかも自分の欲求についての言葉を発するということができたならばですね、
もうそれは甘えているわけですよ。
私は自立しているから甘えていないというのはね、
ニードだけで生きられるって言ってるんですよ。
つまりお腹が空いたら、よしわかった、生地を取ってこようみたいな、
そして生地を切り裂いて、
生のままバクバク食べようってことができるんなら、
その人はかなり甘えていないとは言えるんだけど、
僕はそういう人は文明社会では生きていけないとむしろ思うので、
甘えなしに生きるっていうことは、
本来的に無理なんですね。
この甘えているという状態でしかし満たされていないとき、
つまり赤ちゃんが泣いているとき、お母さんがイライラしているとき、
ニードがニーズになっていないとき、
Nの苦しみというものを抱えているときに、
私たちは自分を失うんですよ。
そのとき我々は自分がないんですよね。
少しでも甘えられてくると、まず言葉になおると、
言葉があるというのは、
言葉があればいつも自分があるわけじゃないんですけれどもね、
基本的には自分があるといったことになるんだと思うんですね。
よく上司に、これはもう本当に最近ツイッターを見たりノートを見たりすると、
上司に怒られるというこの出来事は、
全部神経症みたいだなというふうに僕の目には見えてくるぐらい、
山のようにあって同じパターンを持っているんだけど、
上司に怒られるってあるじゃないですか。
つまり上司はNなわけですね。
ニードを発しているわけです。
甘えてきているわけだけど、
誰も母親役を買って出ませんよね、今みたいな時代は特に。
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お互いがNになってしまうわけですね。
上司の力動と、さっきの赤ちゃんが泣いたのにイライラしているお母さんと同じで、
イライラというものが自分の中に入ってきて、
自分もすっかりイライラして、
次に起こることはどちらが悪いんだとか、悪いのは何なんだっていう問題。
この段階っていうのはずっとNだってことなんですよね。
ニーズがどこにも提供するという存在がいないので、
Nが力を持って暴れ回っているわけです。
この時に私たちはいろんな意味付けを開始するんですよ。
パワハラという意味付けだったり、いろんな意味付けがありますよね。
理不尽という意味付けだったり、
意味付け、意味付けになっていくわけです。
そこでは、この体験とは何であり、
この体験をニーズに変えて、
何を提供するとみんなが平安になるのかという観点を取る人がいないときの問題だと思うんですね。
つまり甘えられないってこと。
これをぐちゃぐちゃ喋らずに甘えられないって一言を言えば済むところが甘えって言葉の力なわけですよ。
もうそろそろおしまいにしたいんですけど、
つまりこういう観点を取るってことがセラピー心理的だって僕は今思ってるわけです。
あるいは臨床心理的だと。
臨床という言葉って床ですから、床ですから、病気みたいになっちゃうじゃないですか。
だからこの言葉っていうのはカウンセリングっていうと、つまり大げさなんだけれども、
いちいちいちいち小さな祖語で、
こんなことをしなくてもいいようなものなんですけど、
でもいちいちいちいちやっておくと、大元にならずに済むわけです。
結局全部一つも残らずやらないよっていう、さっき言った葛藤があるわけですよ。
甘えは認めないよっていう考え方からくる葛藤が。
でも認めなくても甘えはあるわけですね、そこら中に。
なぜならここは文明社会だからなんですよ。
無人島に行って鳥バリバリやったり、お腹が空いたら魚釣ってって、
お腹が空いたらっていうか、お腹が空いたっていう表現じゃなくて、
魚釣りに行こうって表現になっちゃうわけですね、甘えの乏しい世界では。
それだって魚に甘えてるんだけどね。
こういうことが一つ残らずないっていうのは、それは月面で生きるって話になるわけですよ。
誰もそんなことは思ってないわけね。
文明に生きてるってことは当然甘えてるというわけです。
非常に僕は紹介するたびにうーんって思うのが、
戸畑さんの環境都市の母親には電力というものがありますっていうのがあって、
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何もかもわかって書かれているから、電力かって思っちゃうんだけど、
僕ら電力に甘えてるとは思わないですよね。
でも電力に甘えまくってるじゃないですか。
どんなに自立してる人でも。
ある意味それこそ新自由主義的な人ほど電力に甘えてる気がするわけですよ。
その依存度が高いと。
NもNeedも一瞬なのでわかんなくなっちゃうわけですよね。
例えば明かりが欲しいとかって言わないじゃないですか、すぐ電気つける。
そういうことを僕らはできているからこそ、
自分がなくなる瞬間とか、自分がある瞬間といったものに
むしろ無頓着になっていくところもあるわけですね。
これは便利な生活の落とし穴的な話になっちゃって、
それはそれであまり面白い話じゃないんですけどね。
それが言う意味になるっていうケースって、
残念ながらそう多くはないという気もするのでね。
ポイントはそういうところではないんですよ。
どうして他者に頼っちゃいけないと思ってるんだろうってのが、
僕はやっぱり一番ポイントなんだろうと思うんですよ。
他者に頼っていながらね、
いながら頼っちゃいけない、頼ってもいないって思いたがるっていうこの心声は、
グッドバイをするようにパチッと言ってしまえば恐れからくるものなんですけどね。
人に頼るということが恐ろしいって意味なんだけれども、
とにかくこれをどうにかこうにか、
それこそナラティブで物語というものを考え直していかないことには
やっていることを自分で否定しているから、
矛盾に陥るのは当然なんですね。
やっていることを自分で否定するっていうのは、
つまり自分がないという状態でなければおかしいわけですよ。
それに十二分に自覚的になったら、
自分が明らかに言っていることとやっていることが全く違うということに気づくわけですから。
頭はいいわけだからね。
そんなようなことをこれまでずっと考えてきたんだなと思って、
これをタスクシュートで、
多分タスクを実行するときも同じことを私たちはやっているから、
多くの場合、誰にも私は甘えていないし甘えるわけにはいかないから、
このタスクを自力でやらなきゃいけないと思ってしまえば、
100日ぐらいはあっという間に先送りですよね。
というように使おうと思っているわけですね。
ありがとうございました。
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