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おはようございます、グッドモーニングボイスです。
11月13日、つまり来週の土曜日、日曜日に
コミュニケーショントレーニングというものを
グラゾノケイゾーさんとオンライン合宿というですね
オンライン合宿って奇妙な感じがしますけど
要するにZoomで合宿をするということです。
食事も寝泊まりも全て自宅なので
合宿をしているよということを
感覚をバーチャルで共有しつつ
実際の生活は普通に自宅で過ごすと
そういったやつですね。
その中でコミュニケーションに関するトレーニングを
延々やるというものです。
今日はコミュニケーションの話を
少ししたいと思っているんですけれども
コミュニケーションが苦手という方
いっぱいいらっしゃるじゃないですか。
ほぼほぼ、完全にとは言わないけれども
かなりの部分がイリュージョンのせいなんですけれども
苦手とか得意とかいうよりも
一番問題になるのは
狙った効果があるという考え方にあると思うんですね。
そういう話になるとスキルってことになっちゃうんですけど
一見スキルがあるように見える人は確かにいますよね。
この人と喋っていると気持ちいいとか
みんな気持ちよさそうとか
自然と人がそこに寄っていくと
その裏側に自分がいるわけですよね。
パーティーとか行くと気が付くと一人きりになるとか
みんな面白くなさそうな顔をするとか
話しかけても無視されるとかね。
そういうやつなんだと思うんですが
私もよくわかるんですけれども
このコミュニケーショントレーニング
クラザノスターナウトバイブスをずっと聞いていて
そういうことでは全然ないなっていうことを
皆さんにこれでお伝えできればという内容になっています。
これをやって効果が全く上がらないという人は
今までいなかったし
多分いないと思うんですね。
スキルの話はほぼないんですよ。
ゼロに近いくらいないんですね。
私はスキルが効果があったのは
あまり見たことがないなって思っております。
コミュニケーションスキルのトレーニングみたいなものは
私自身受けたことが実はあるんだけれども
あれが何かに役立ったかというと
03:00
さっぱりだった気がするんですね。
役立つ人はいると思うんですけどね。
一つにはコミュニケーションをしたいと思っていない人間が
スキル磨く意味ってほとんどないんですね。
よく自分に尋ねてみると
普通にしたいと思っていない自分がいたりするわけですよ。
今はいないですけれども、いたわけですよね。
わりとはっきりと。
よく自分を観察しなくたって分かるレベルでいたわけですね。
それがいる限り
技持っててもしょうがないですよね。
ゲームセンターですげー技持ってるんだけど
ゲームしたくない人ってあんまり意味ないと思うんですよ。
技を磨くことには。
多分その人の技はしかも
さほど磨かれるとも思えないわけですよね。
そういう状態にあるっていうのは
非常に盗作的というか
本末転倒な感じですよね。
まずそこからかなというふうに思います。
今日はそういう話をしたいんだけど
とにかく13、14と
つまり一泊二日という位置を
一泊二日を共有するという形でですね
コミュニケーショントレーニングをオンラインでやると。
トレーニングと言うけれども
確かにワークはあるんですけれども
多分嫌な思いをすることは全然なくてですね。
かつそのコミュニケーションというものに対する
苦手意識は激減するとは思います。
無くなるというのが理想的なんですけどね。
無くなることは十分可能だと思うので
一度ですね
このコミュニケーションというものについて
苦手意識があるならば
検討してみてくれるといいかなと思います。
そのコミュニケーションなんですが
まず私は基本的に本
最近書いた顔色を伺う本は
あれはですね
HSPの方向けに要するに書いたんですね。
みんな言うじゃないですか
あの本にははっきり書いてある単語はほとんどないですが
コミュ障とかって結構書いたかな
とにかくありますよね。
コミュニケーション障害みたいな
コミュニケーション障害と
ネットで言われているコミュ障は
全然違うなとも思うんですけどね。
いずれにしてもこのコミュニケーションにも
苦手意識がありますと
繊細だからね
恐れているとか
人の顔色を伺いながらコミュニケーションするというのは
そもそもやりたくないですよね。
だからそれは当然なんですけど
つまりですね
うまくやれている人には
あの本の文脈に沿って言えば甘えがあるんですよ。
そして甘えがうまく
処理されているというのは
満たされているんですね。
甘えが上手に満たされている
そういう人はコミュニケーションがうまい
うまいというのか
うまくいくんですね。
苦手意識を特に持つ必要がない。
自己肯定感とかって言うじゃないですか
僕はあの言葉は避けたつもりなんですよ。
数度出てきているかもですが
原則避けたんですね。
意味がよくわからないのでね。
甘えだってそうなんだけれども
06:00
そうでなくても
割と実は捉えどころのないものをですね
自己肯定感とかで言ってしまうと
どうしようもなくなるんです。
自己肯定感が低い以上ってことになるじゃないですか。
高める方法とか書いてあるけど
多分あの方法で高まるかどうかは疑わしいですよね。
疑わしいなと多くの人も思って
でも他にどうしようもないから
試みてみてるとかいうレベルだと思うんですよ。
そうなる理由は非常に簡単で
僕の本の文脈に沿って言うと難しくはなくて
甘えというのは捉えどころがないからなんですね。
甘えというのは
この言葉を使って説明すると説明にならないので
甘えというのは
でもやっぱりそうさだ。
ニードなんですよ。
ニードってこの番組でも時々言ってますが
要するに他人がそこに必要性を見出すというのが原則なんですね。
ニードってのは必要性なんです。
必要でもいいですけど
そこに必要があるということです。
パソコンが壊れましたと
パソコンは直したいとは自分では絶対思わないわけですよね。
だから欲求はないんですが
パソコンが壊れたときに
ユーザーは直す必要を感じますよね。
これがニードの原理というか第一義的な定義なんですよ。
そこにニードがあるわけですね。
だからニードだけでは主体はないんですよ。
そうですよね。
私が壊れましたとはコンピューターはさらさら思ってないわけですよ。
だからニードだけでは主体はないんですよ。
これが非常に大事なことなんですね。
ニードだけでは自分はないんですよ。
ニードだけなら私はないんです。
私のここが痛いとかってパソコンは思わないわけですよ。
私たちは自分の傷について主体性を意識するわけじゃないですか。
こんなこといちいち言う人いないですけど
私の足が痛いんでしょう。
私の腰が痛くても他の人には知ったことじゃないですよね。
そんなのどうでもいいことじゃないですか。
認知すらしないじゃないですか。
私の例えばいませんが
かかりつけで常にボディケアしてくれる人みたいなのがいるほどの
すごいアスリートとかならば私が
私の足や腰に対するニードを
意識してくれるわけじゃないですか。
痛みは感じてくれないと思うんですけど
私よりも先に実は故障箇所とかを
騙し出してくれるかもしれないんですよ。
知りませんけど。
つまりニードというのはケアする人とセットなんですね。
それについてケアする人
これを母親と呼んでるんですよ。
精神分析の世界では。
もちろんケアする人が
アスリートのケアする人は
女性でもなければ母でもないわけですが
形式上母親と言うんですよ。
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なぜなら生まれてくる
来た直後ぐらい
あるいは直前ぐらいの時には
まさに母と子は一体だった時代があり
ニードをケアするのはもっぱら母だった時代があったから
つまりこの例え話は
一度はみんな経験している
実体験がある例え話
こういうものを好むんですよね。
精神分析は。
実体験のある例え話
母子がケアするのは逆転するケースだってあるじゃないですか
っていう話も
今回出版記念セミナーで出たんですけど
あるんですよ。
もちろんあるんです。
子供が母親のケアする
例えば今私そういう形になってますよね。
もっと小さい頃だってけなげに頑張る子供の
この問題はカウンセリングの問題として出てきます。
アダルトチルドレンってやつね。
子供が家の面倒を見ちゃってると。
ありますよ。
その場合は子供が母なんですよ。
それで何にも問題ないんです。
実の母かどうかという話はしてないんですね。
ここでは。
あくまでもアレモリーとしての母親なんですよ。
子供が男の子で
それこそ5歳にも満たない男の子が
母親やっちゃってる家ってあると思いますね。
それはそれで大きな問題なんだけど
あることに違いはないわけですよ。
その場合は実の母親は子ですね。
そして男の子が母ですよ。
そういう逆転現象をアダルトチルドレンと呼ぶわけですけれども
そういう現象は起こるわけです。
さっきのケアするアスリートの話に戻ると
ニードっていうものはニーズになる前の段階ですから
腰が不調でってこういったらニーズに変わるわけですよね。
パソコンが壊れたというのは
パソコンの方では一切ニードしか発しませんけど
この箇所がおかしいので修理に出してくださいっていうメッセージ出しますけど
あれはパソコンが思ってることじゃないですからね。
メッセージが出るようになってるだけなんで
あれを見て人間の側がニードをニーズに変えるんですよね。
これを修理しようというニーズに変える。
これが心の基本機能なんだという考え方がまずあるわけですね。
私たちはみんな甘えたいというニードを持っているわけです。
ニーズじゃないんですね。
甘えたいっていう風に言葉に直すとおかしいでしょう。
私は甘えたいんですっていう人ほぼいないですよね。
つまりこれはこの言葉に直してみてもきちんと言葉に直ってないから
つまりそのニーズを満たしたところで甘えは満たされないから
ここがポイントです。
私は甘えたいんですというニードを持っているんだけど
これをそのまんま私は甘えたいですという言葉に直してみても
それはニーズになってない。
なぜならばこのニーズを満たしてあげてみたところで
満たしてあげようがないんですね。
私は甘えたいんです。
どうすればいいんでしょうってことになっちゃうんですよ。
12:01
仮にいろいろかいがいしくやってあげて
ジュース持ってきてあげたり
マッサージしてあげたりしたからといって
必ずしも甘えは満たされないでしょう。
だから甘えたいというニードは
甘えたいという表現によってではニーズには変わらないんですね。
これが喉が渇きましたというニードだったら
水が欲しいですという表現に変えて
飲めばニーズは満たされるんですよ。
ニードも満たされるんですよ。
この形になる方法が甘えたいというのは容易に見つからない。
HSPの人は甘えたいというのはあるんですよ。
みんなニードとしてあるわけです。
満たされている人もいれば
満たされていない人もいる。
今の時代は私の考えによると
ドイ先生の考えもそうですが
おそらく多くの人が意識して
漠然と意識しているのは
満たされていない人が多いんですよ。
このニードが何らかの形で満たされていない。
HSPの人の場合
このニードってニードはみんなそうなんだけれども
水を飲みたいですらそうなんだけれども
ニードのまま外に出すと
避難されるケースが多いんですよ。
本当は避難されるべきではないんですが
避難されてしまうんですね。
例えばお腹が空いたからといって
いきなりパン屋さんに行って
ガツガツパン食べ始めたりすると
避難されるか逮捕されたりするわけじゃないですか。
つまりニードというのは
適切な形に直してあげて
出さなきゃいけないんです。
これ普通の人はできますよ。
よっぽどひどい育てられ方をしたりしない限り
ニードをニーズに変えるということはできます。
だっていきなりあるニードを感じたからといって
そこら辺でおしっこしちゃったりしないじゃないですか。
トイレ行きますよね。
これはニーズに変わってるんですよ。
ニーズに変えるというのは
言ってみれば養育なんですね。
母っていうのが出てくるように
ニーズに変えてあげるのは最初は母なんです。
ニーズに変えてあげているうちに
自分の心の中に
自分のための母ができて
自分のニードをニーズに変えられるようになるんです。
これが心の成立ですよね。
これ大概の人は
少なくとも生理的にはある程度はできるんですよ。
自分のニードが全くニーズに変わりませんという人は
ほぼいない。
稀にあるんですよ。
稀にあります。
非常に問題のあるご家庭だと
ニードが全くニーズに変えることができないというケース
あるいはある種の人のニードと自分のニードを混同させてしまう。
しょっちゅうはないですよ。
アメリカで私はその症例を間近で見たことがあるんですけど
他の人がハングリー、アイムハングリーとか言うと
食べちゃいだすんですよ。
お腹が空いてなくても。
そういうことって起こるんですね。
誰のニードであるかっていうのは実は
15:01
定かじゃないはずなんですね。
これは我々には分かりにくい話ですけども
赤ちゃんだったらそういうことは起こると思うんですよ。
アイムハングリーっていう言葉を聞いちゃうと
その人は食べだしちゃうっていう人がいるんですよ。
だからお腹がいっぱいなのに食べるのをやめられなくなるんですね。
そういう病気っていうのがあります。
これは脳の病気なのか心の病気なのか
難しいところですけれども
我々にはそしてそれがどういうメカニズムで
どういう心理状態なのかもなかなか分からないですけど
この種のことって起こり得るんですよ。
だけれども普通我々はそのレベルはないです。
ほとんどの人はニードをニーズに
あるかなりの部分で自分でちゃんと変換できます。
できないとまず学校に通うってことができないと私は思うし
言葉を発するのもほぼほぼ不可能になっていく。
もちろん観目症みたいなのもありますから
そういうことって起こるんですけれども
あまりにも心理的な調子が悪くなると。
でもグッドイナフなんですよ。
だからグッドイナフな母親がいれば
グッドイナフのハードルは大変低いということですね。
お腹空いたっていうことが言えるってことは
既にグッドイナフだってことなんですよ。
毒親だろうと虐待していようと
お腹空いたっていうことを自分で言えて
あるいは自分のお腹が空いているってことが分かって
冷蔵庫を開けるってことができたら
もうグッドイナフなんですよ。
それでは社会的にはグッドじゃないだろう
っていうことはあると思うんだけど
カウンセリングの世界ではここまでやれるようになった
そこまでやれるようにしてあげれば
とりあえずグッドイナフなんですよ。
幅非常に広いんですね。
パーフェクトには程遠いですよ。もちろんね。
でもパーフェクトっていないですからね。
パーフェクトがいてしまうと今度は
自分のニードをニーズに変換する必要が
全くなくなってしまうので
それはそれで大問題です。
ただ私はそれは不可能だと思います。
子供のニードを全部完璧にニーズに切り替えられると
しかも時差もなく
そんなことはあり得ない。
だからグッドイナフなんですね。
ほぼ99.999%以上のグッドイナフ
ニードはニーズに変えられる。
だからといってそれで問題がないって話ではないですよ。
グッドイナフなら問題ないとは全く言っていません。
グッドイナフだけどすっげーバッドだってことは
あり得るってことです。
ただここを成立させるのが心の成立だから
ある意味ではそうはっきり言ってないですが
精神分析の世界である意味では
道徳教育なんて必要ないって
ある意味では言ってるんですよ。
大事なのはニードをニーズに変える
っていうこれなんですね。
トイレに行く、食事をする、水を飲む
あるいは呼吸をする。
赤ちゃん一緒には時々呼吸困難にすら陥りますからね。
走るとか急ぐとか
すべてニードをニーズに変換することによって
18:02
できることです。
しかもそれに名前を付けられますからね。
私急いでるのって人言うじゃないですか。
ニーズに変えてるんですよ、ちゃんと。
焦りたいとか急ぎたいとかっていうのを
意識することはしてないと思うんだけど
赤ちゃんだったらそんなことはできませんからね。
走れませんしね。
走りたいとか急ぎたいとかいう風に言えるっていうのは
もうはっきりとニーズに変わっていると
そういう風に言えると思うんですね。
ところが私たちは
別にそんなにひどい親に育てられてもいないようなのに
あるニードを変換するのが下手だと。
それが甘えたいなんですね。
甘えたいというニードが放置される。
あるいはこれがよくあることなんですが
HSPの人がそうなんですが
甘えたいというニードは禁止されてしまう。
その人は他のニードをニーズに変換できるんですよ。
ちゃんと食事できる。
ちゃんと電車に乗れる。
電車に乗れるなんてめちゃくちゃ完璧ですからね。
ニードをニーズに変換できなかったら
知性の問題じゃないんですよこれは。
十分そのことが知的に理解できていてもできないって人はいるんです。
ニードをニーズに変換できないから。
できないって人はいるんです。
抑鬱症をひどく患うとこれが起こります。
ニードがないってことはないってニードあるんですよ。
朝起きられないって言うじゃないですか。
起きたいという気持ちはあるんですよ。
ただそれが適切にニーズに変換できなくなってしまう。
起き上がれなくなるんですよ人は。
これ知性の問題じゃないですよ。
気性って言葉は知ってるんでね。
話を一気に進めたんですが、
甘えられないとか、
甘えたいというニードは漂ってます。
これは自分のものではまだないです。
この肉体、あるいは自分が生きている空間とその認識の中で甘えたいという情緒は持っている。
この肉体、あるいは自分が生きている空間とその認識の中で甘えたいという情緒は持っている。
この肉体、あるいは自分が生きている空間とその認識の中で甘えたいという情緒は持っている。
だけども、これは悪いことだという風に
どこかで教わったりするとですね、
甘えというものは
不適切に出てしまうと怒られるんですね。
適切に出ても怒られますけどね。
やたら泣いている赤ちゃんをやたら怒る人って
いるんですよ。親じゃなくてもね。
で、例えば
子供の場合、甘えたいというのと
自分のニードをかろうじてニーズに変換できる。
やっとお腹が空いたと言えるとか
すぐ泣いちゃうとかですね。
いろんなものが混ざるんですよね。
一個一個分解して出すという芸当は
当分できるようにならないじゃないですか。
人によって二十歳になったってできるようにならないわけですよね。
つまり、喉が渇いたとかお腹が空いたという時に
甘えを満たしたいというのは一緒になって出て行っちゃうんですよね。
21:00
その時に
何を甘えたことを言っているんだと言われると
甘えというものを引っ込めなきゃならないんだって
人は考えるわけです。ニードは満たすんだけれども
甘えは満たせないという状態が
長らく続くだけでなく
それがいいことのようにすら思えてきてしまう。
ニードは満たすんですよ。会社にはいく。
例えば、遅刻は許されないとか
朝起きられないのはダメとか
きちんとした服装ができなきゃダメとかいうところに
甘えというものに対する禁止が入ってくるわけです。
これ、みんながみんな甘えを禁ずるとは限りません。
ただ、ある種の人は
甘えというものが外から
見つかってというか
自分の中で甘えが満たしきれないと外に出て行っちゃうんですけど
この時に
失跡されたという場合には
自分の甘えというニードそのものが悪いものだと
思うんですね。
ニードが悪いものだとはさすがに思わないと思うんですよ。
トイレに行くとか水飲むとかは別に悪いと思っていない。
これを悪いと思うようになったらかなり厳しいと思うんですけど
これはだいたい悪いと思っていない。問題なのは
甘えるということが悪いということだと思っていると
そこから甘えだけ取り除いて
このニードに禁止すると。
自分のニードだけを乱す。生理的なニードとか
知的なニードだけを乱そうとするという現象が起こるんですね。
これがHSPだと思うんです。
そうすると
自分のニードが甘えが入っていないだろうかということが
絶えず気がかりになってしまう。
ほとんど全てのニードには実は甘えはくっついていくので
甘えたいというのが基本的なニードだというのは
そういう意味なので
くっついていっちゃうんですよ。
くっついていっちゃう中でも一番どういう時にくっつくかというと
コミュニケーションを取る時なんですよ。
人に何か話しかけるというのはすでに甘えたいというニードを
除去したらほとんどの場合
よっぽど必要がない限りはそのコミュニケーションを発する理由って
なくなってしまうんですね。
要事だけを言うってことになっちゃうんですよ。
でもそのコミュニケーションの取り方って世の中では別端推奨されてないじゃないですか。
何の迷いもなく
どんなトーンもなく
ただ要事だけを言って
実はコミュニケーションスキルとしてはなはだ不自然ですよね。
でもニードの中から甘えだけを取り除いて
例えばこの書類に反抗くださいという
ただそれだけであったとしても
この書類に反抗くださいというのはニーズなんですよ。
当然。
だけれどもこの書類に反抗ついてもらわなければいけないという
何か仕事を受け取った時
それはまだニードだったんですね。
この変換について我々は深く考えないから
一切自分のニードを意識することなく
24:02
さっと反抗を取りに行こう
反抗をもらいに行こうってするんだけれども
その場所は甘える必要が出るんですよね。
甘えるとは
愛されたいと願うことです。
だって相手の人がものすごい怖い表情で
極めて乱暴に反抗をつくことを
望まないじゃないですか。
そうじゃない態度で普通にやってくれることを
望んでしまいますよね。
私たちはデフォルトでそうなっているんでね。
そうすると自分が甘えているということを
禁じようとすると
ほとんど無意識にですけれども禁じようとすると
この行為はできなくなるんですよ。
あるいは非常に恐ろしいものになるんです。
もし万が一にも
自分の甘えというものがそこに露呈してしまったら
もしかすると
この反抗をついてもらうということを
頼むことになるのかもしれないということを
考えたりする必要が出てきちゃうんですね。
今、トイレに行ってもいい時間なんだろうかで
悩む子供って昔はいっぱいいたんですよ。
あれは甘えなんですよね。
当然いいじゃないですか。甘えても。
でも先生によっては甘えというものが良くないと強く思っている人は
トイレに行くのが良くないとは言わないわけですよ。
ただ甘えてはいけない。
甘えと好意を分離しようとすると
好意を取ることははなはな難しいことになるんですね。
本当はそんなことはできないんですよ。
私たちはどんな好意を取るときも
だってこの世というものは
私の願いと完全にマッチするようには
作られていないわけですから
トイレをしたいときにトイレをするとか
食べるというのが一番そうですよね。
食べるというのは大概他の生き物を食べるわけだから
甘えがなかったら食べられないですよね。
だからHSPという人の
心理状態にはものすごく無理なところがあり
甘えは一切許さないが
ニードを満たさなければならないという状態にあるために
とっても生き苦しいわけですね。
当然のことながら
人の甘えを見るとものすごく腹が立ちますよね。
自分は甘えが許されていないのに
他人は甘えが許されてしまっている。
だから怒鳴っている人は
甘えているんですよ。当然ですよね。
だって自分が怒鳴っていいと思っているわけだから
しかもその怒鳴っている内容を
押し通そうとしているわけです。
ということはもう完全に甘えているわけですよ。
自分の意思が通るのが、この世の中で通るのが
怒鳴るってわけにはいかない。
だから怒鳴っている人は甘えているわけですよ。
つまり甘えているというのが目の前でありありとあるのに
27:01
自分の甘えは禁じられている。腹が立ちますよね。
是非その怒鳴っている人の甘えも
禁じてやりたいと思うじゃないですか。
ところが全ての甘えを禁じるということは
多分窒息して死んじゃいます。
だって呼吸をしていいという風に誰かが許可したわけじゃないんですよ。
私たちは呼吸しないわけにはいかないから呼吸しますけれども
呼吸するっていうのは必ず
しちゃいますけどね。
止めるってことをできる人はいないですけれども
甘えってものがあるはずのここに空気があり
酸素があって自分が生きていくのは当然だ
という認識がなかったら
死んじゃいますよね。
こういう風に一時が万時甘えというものを
自分の時には語れなくなっているのに
人の甘えであれ自分の甘えであれ禁止してしまったら
生きていくのが息苦しくて困難なのは当たり前なんですね。
だから
あの本では甘えさせましょうになるんですよ。
自分の甘えを
満たすのは意外に難しいんです。
なぜならばこのニードをニーズにどう変換するかは
容易なことではないから
甘えたいですと人に向かって表明したのでは
甘えは満たされない。私は大学の時代に
若い頃特に大学の時代に
彼女がすごい欲しかったという話はよくポートキャストでしますが
ブログとかでも書いてますがあれどういう意味かというと
私の甘えを満たすためには
彼女が必要だと思ってたんですね。
ってのはどういうことかというと私は
甘えが全く満たせていなかったということなんですよ。
だって彼女いなかったんだから。
そして特定の人間しか私の甘えは満たされないと思ってたわけだから。
ここに
今度書きますけれどもチェニスで
モテたいという言葉のおかしなところがあるんですよ。
これはどういう意味なんだろうと
セックスしたいということなのか明らかに違いますよね。
それだったら一人で満たす方法はいくらでもあるんですよ。
優しくしてほしいということはこれも違うんですよ。
優しくしてくれる人は同性の友達とかにいたんですよ。
甘えが満たせないというのはそういうことではないんですね。
ここでポイントになるのは
甘えを満たすというのは
根本的には受動的な欲求なので
能動的な欲求じゃないんですよ。
能動的な欲求ならなんとか努力すれば満たせます。
受動的な欲求だから彼女を作るということが
まず必要になり次にその人に満たしてもらうという
ステップを踏まなければならない気がしちゃうんですね。
この形っていうのは
能動的に満たす方法はないっていう状態なんです。
受動的にしか満たしようがない。
受動的にしか満たしようがないということは
他人に満たしてもらうしかない。
でもそれを何という欲求をしてもダメなの。
要求をして満たすんだったらそれは能動的になっちゃうじゃないですか。
30:01
要求をしなくても満たされて初めて受動的ですよね。
そういうことをしてくれる存在というものは
私は当時彼女というものしか考えつかなかったから
そういう存在をセットする必要が
まずあると考えたわけですよ。
これが甘えたいという欲求が満たされてない状態なわけです。
ここでモテたいっていうのは自然じゃないですか。
モテれば彼女ができるから。
つまりモテたいわけじゃないってことなんですよ。
ヒモテってよく言いますよね。
イコールじゃないですよね。
ヒモテってのは私は甘えが満たされてないってことだと思うんですね。
間違いなく。
だから良い表現がないんですよ。
甘えって言葉は実にすごい発明だと思うんです。
良い表現がないわけです。
この欲求を表現する方法がそもそもないんですね。
西洋人はこれで困るんだっていう風に
マイケル・バリントって人が指摘したんです。
そういうことを発見して確か書くんですよね。
ないと困るんですよこの表現は。
非常に困ると思う。
満たせていないという自覚を持つことも難しいですから。
こういう風に考えてみて
自動的に満たすことしかできないという時に
まず私たちにできることを考えると
人の甘えを満たすしかないと思うんですよ。
これが一番確実ですよね。
これをやっても何もならないじゃないかと思われるのはよくわかります。
自動的な欲求を満たしたいと思っているのに
能動的に他人の欲求を満たしてどうするんだって話なんだけど
誰か他の人にしてみれば
みんな自動的に満たしてもらうしかないものなんだから
当然一番満たして欲しい人のその場で満たしてあげることが
一番いいわけですよ。
甘えたいという欲求を満たすという
ただそれだけの意味では自分のじゃないとしてもね。
そうすると一番目の前で怒鳴っている上司が一番いいんですよ。
やりにくい相手だとは思うんですけど
相手は自分に甘えようとしていることは100%確実なので
甘えているんでね。
そして自分では甘えを満たすことができないから怒っているわけだから
それは泣いている赤ちゃんと全く同じなので
この人の甘えを満たすということは
私にしかある意味できないんですね。
私がそれをしてあげることによって
甘えを満たされるという体が作り出せるんですよ。
その上司は特定の彼女を作り出さなくても。
これは赤ちゃんとの関係で私が学んだことなんです。
甘えを満たすというのは
親にしかできないんですよ。
これをやると非常に面白いことが起こるんですけど
甘えを満たしたいというこの気持ちが満たされるんですよ。
だって甘えを満たしてあげたから。
なんか言葉の早みたいだし
自分がイコール肉体だと思っているから
おかしなことになるのであって
自分の情緒的なことをよく考えてみると
ここにおかしなことはさほどないんですね。
33:02
相手の胃袋を満たしても
僕の胃袋は満たされませんけど
相手の情緒を満たせば
私の情緒も満たされるんです。
ここをもう少し機能的に言うならば
甘えを満たすという行為を行うことで
甘えは満たされるんですよ。
あえてその時に上司の甘えを満たしたからといって
自分の甘えが満たされた気はしないとしても
甘えを満たす能力というものは
自分にあるんだということが確実に意識されるんですよ。
甘えを満たす能力が自分にあるんだということが分かれば
自分の甘えが出た時に
必ずそれを自分で満たすということができるようになります。
この転換は一瞬で起こるので
特殊な能力とかトレーニングとかは
実はいらないんですね。
もしだってこのことができるようにならないというならば
この家の家
人間の親の大半は
グッドイナフにはなり得ないと思います。
人の甘えを満たすということを
ニードを満たすということをニードを感知して
しかも相手は言葉も喋れない
ただ泣いているだけなのに
そのニードを感知して満たすことができるというのは
親だからとかって言われるかもしれませんが
そんなことはないんですよ。
親だからテレパシーが使えるわけではないんでね。
子供のニードというのはよく観察してみれば
分かるように人間にはなっていて
なったわけじゃないじゃないですか。
私は保険の時間とかで習った教科は一切ありません。
これは本当に一部の人にしか
日本では言われていないことなんですしね。
1冊5000円くらいの本を3冊くらい買って読まないと
そしてそれにも分かりやすいようには
多分書いてないんですよ。
なぜならそういう教育の積み重ねを僕らは持ってないので
教育って一つの思想なんで
イギリスの精神分析の対象を
関係学派的な考え方をするようには
僕らは教育されていないので
あの種の本は読みにくいしよく分からないわけです。
今みたいな話なんですよ結局。
みんなできるじゃないですか。
全然教育が高等教育じゃなくてもできる。
もしかすると高等教育じゃない人の方ができます。
こういうことをやるのに東大とか出ていたり
東大の法学部の大学院とか出ている必要は
全然ないんですよ。
出てるとかえって分かりにくいのかもしれないと思うぐらいなんですよ。
子供に世話をするということと
情緒を満たすということがセットになってるっていうのは
普通の観客では分かるんだけれども
分からんという人もいるわけですよね。
そういう場合、私が少しうちの家がそうだったんだけど
自分の甘いを満たすという能力に
はなはなかけてくるんですよ。
36:00
お腹すいたとき、どこかに行きたいとき
全部適切なほど取れるんだけど
できないことがあったわけです。
自分の甘いをまず捉えるということができない。
自分の甘いを捉えてそれを満たすということは
ますますできない。
そして人が甘いをしているのを見ると突っ跳ねる。
これを繰り返していると自分の甘いもそうなんだけど
満たす能力というものが少しも育たないわけです。
これをずっと続けていると何が起きるかというと
大したことが起きなくても悪いこととして
頭が痛くなったり、腰が痛くなったり
肩が痛くなったり、消化不良になったり
身体症状としてまず現れる。
そして仕事のやる気がしなくなったり、疲れやすくなったり
体調が不調になったときに対処する能力が遅れたり
人に怒られたりしたときに
その問題を情緒が永遠に引きずったり
そういうことがHSPだし
発達障害で一番何の発達が障害しているかというと
注意欠陥指揮室とか
ADDとかADHDとか言いますけど
まず確実に
甘える能力が発達が障害されているんです。
だからコミュニケーションがセットであることが多い。
コミュニケーションを取るときには
絶対に甘えがあるんですよね。
情緒含みでコミュニケーションしない人って
いないですから人間の場合。
それが面倒くさいから記号でやるべきだという人も出てくるんですけど
その人は情緒の発達が遅れてしまったために
そういう発想になるんですよ。
むしろそう考える方が自然だと思います。
HSPと発達障害で一番違うなと思うのは
HSPの人は甘えを禁じている。
だから自分の行動の中に甘えが含まれていないかどうかを
発達障害系の人というのはどっちかというと
甘えを育ちしていますね。
自分の中の甘えをするしようとしている。
例えば甘えでしまうので電車に乗り過ごすとか
遅刻するとか約束を聞き損ねるとか
基本的に甘えた行動をそのまま出しちゃっているわけですよ。
自分の中の甘えを受け止める気はないので
行動だけを強制しようとするわけですね。
ライフハックみたいなもので。
リマインダーを鳴らすとか相手からの約束を
自動的に何かに変換するとかが好きなんですよ。
自分の中の甘えを受け止める気は断じてないんですね。
人の甘えももちろんのこと。
ただ約束の時にはきちんと行けるように
手は打ちたいという風になるんです。
甘えは人から非難を呼びますんで。
俺も非難しない方がいいのは
この文脈では僕には明らかだと思うんですけれども
自分の甘えを受け止めたり認めたりするのは
良くないと思うんですけれども
しちゃうんで。世の中ではされてしまうんで。
そうするとその人たちは自分の甘えを
これから受け止めるようにしようみたいには
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考えつかないんですよね。
そうじゃなくて新しいほぼ日手帳で対応しよう
という風に考えるんです。
一向に甘えの方はケアされないままになってしまう。
ニードのまま放置されて
怪我が悪いまま疼くと。
そういう状態が続いている中でも
一番目に今つきやすいのが
発達障害とかHSPとかいうことなんだと思う。
もうちょっと先行くとそれが
ジゾイドとかナルシズムみたいな
あるいはヒステリカルみたいな症状になって
相打つみたいなやつとか打つみたいなやつとか
多くの場合そこまでは行かないで
済むとは思うんですよ。
そこまでは行かないんだけれども
だから慢性的な腰痛とか慢性的な頭痛とかで
甘えの話は放置されて
ボルタレンとかそういう解決策の方が
今では非常に一般的で
ビジネスになりますからね。
そうじゃないこの種の話をしても
どうしてもHSPっぽくしか聞こえないと思うんですけど
僕はボルタレンで治そうという方が
この種の話を考えるときにはよっぽどスピリチュアルっぽく感じる。
要するに自分の中のニードをことごとく放置しておいて
身体症状に出ておかしいと思うというのが
むしろおかしいと思うんですよね。
情緒というものが存在する以上
情緒を無視するほどいい。
よっぽどオカルトなんじゃないかという
こういう話もよくしてますね。
だから頭痛など身体症状などは
身体に原因がある可能性というのは
常に一応検討する必要はあると思うんですね。
体が壊れてたらまずいから。
ただ慢性的な何たらかんたらというときに
情緒の話を頭から無視するというのはどうかなと
少なくともそのぐらいは思っていいと思うんですよ。
甘えたいというニードは絶対あったはずです。
無くても生きていけるんだというのは
むしろ相当どうかしてるんじゃないかと思うんですよね。
だって私たちは地球に甘えて生きてるじゃないですか。
じゃなかったら土星とかに行ったら
すぐ死んじゃうんですよね。
宇宙の大半の空間そういう風になっていますよね。
だから依存と甘えは違うんだけれども
情緒的には甘えというのはデフォルトセットです。
そしておそらくすべてのニードをニーズに変えるとき
甘えというものは出ていくに決まっている。
つまり自分だけで100%受け止めたり
満たしてあげることはできなくて
必ず他人力を借りる。
ただ甘えを一旦自分の中で受け止めてから
それを外に出せば受け入れられる甘えとして出ていく。
これも土井さんがいい甘えといったやつですね。
そして自分の中で全く受け入れない甘え
自分の中で全く受け入れないまま行動してしまうと
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どういうつもりであろうとも必ず他人の目には
受け入れがたい甘えというものが目につくようになる。
これを土井さんは悪い甘えといったんだけれども
歪んだ甘えとかね。
そういうことなんだと思いますね。