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おはようございます、グッドモーニングボイスです。
連日、連日、連日、昨日仕事でも編集講義の方に書かせていただきましたが、
本とセミナーの話をしてますが、
必死じゃんって思われるでしょうけど、結構必死です。
必死にやらないとダメだという風に、だいぶ前から思うようになってたんですけど、
その割に必死にやれていないという自分がいて、毎度反省してるんで、一応必死なんですよ。
必死さというものが前面に出るとダメなんだなっていうのはちょっと感じるんですよね。
本を書く時も必死なんだけど、必死にやろうという風には別に思ってないんですよ。
告知の方は必死なんですが、本当に必死なんですよ。そこに問題があるような日が。
でもこれ必死という言葉の割にですね、多分うまくいかなくても死ぬことはないぐらいに思ってるんで、そこが難しいところだと思うんですよね。
ご存知ない人は全く興味ないと思うんですけど、今の千葉ロッテマリーンズなんですよ。
50年ぶりの優勝とか言ってですね、50年前僕は知らないんで、僕48ですから、
50年ぶりの優勝とかかかってくると必死じゃないですか。残り6試合で5勝1敗なら優勝なんですよ。
対象相手チームが負けてくれれば、つまりオリックスが負けてくれれば、6戦のうち一番少なくて済む場合3勝3敗かな。
オリックス残り2戦あって、2戦なんで、はっきり言って2勝しそうなんですよね。
2勝するともう残り5勝1敗でいかなきゃならないんですよ。
2敗にしてくれれば3勝2敗でいいのかな。
3勝3敗でいいのか。3勝3敗でいいんですよね。
3勝3敗とか言うのすら、微妙な時は微妙なんで、非常に必死にやってると思うんだけど、
必死にやったって勝てるわけじゃないんですよね。すでにずっと必死にやってきてるわけだから。
この必死の前面っていうのはどうなんだろうっていうのをいつも思うわけですね。
でもプロなんで、僕も一応プロなんですけど、必死にやれば一定の違いはあるかなというのもあるんですよね。
なぜならば相手が全くやり気がないと普通に勝つんですよ。
だから必死さって大事なんだけど、だからといって必死にさえやれば結果出るかっていうと、そこまた微妙なところもある気がします。
ぐにゃぐにゃ言ってるんですけど、要するにですね、本が売れて私が助かるというのは結構ビビたるものなんですよ。
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こういう途端なんですけど、たぶん本が売れて今著者が楽になるとかプラスになるというのは5から8万とかいう数字ですよ。
リアリティを持って話すとですね。そのぐらいなんです。
飛ぶように売れれば全然別なんだけど、普通によく売れてきたなっていう感じだけだと、
よっぽど上手くいってプラス10、8万とか、しかも税別、税別っていうのは収める税金とはまた別にっていう感じで、
手取りにするともうちょっと少なくなるんですよ。
はっきり言って必死にやるという話だけで言うと、私昔居酒屋で働いてたんですけど、居酒屋で必死に働くほうが1月のお金にはなったりします。
本っていうのは大変難しいんですよね。全くお金にならないとかは言うことはないんですよ。
クラウドソーシングですっげえしのほど働くよりは全然お金になります。
だけれどもコンビニで死ぬ気で働くほどにはならない可能性がありますね。
そのぐらいなんですよ。
という観点に立つと、あの本を読んで上手くいったわけ場合のメリットはあるんじゃないかって私は思っているんですね。
自分の昔のことを考えてみると、あれ一文にまとめてしまうとつい顔色がかかってしまうやつですね。
あれ一文にまとめてしまうと、危機に陥ったら甘えさせることを検討しましょうってことになるんですよ。
そんだけのために、そんだけでは効果なさそうに思われるでしょうけど、私は他のことは全部検討してきているわけです。
アサーティブネスとかもレジリエンスとかも、専門用語で言うとアサーティブネス、レジリエンス、マインドフルネス。
マインドフルネスは効果はありますけどね。
マインドフルネス、対人不安、先日は社交不安症っていう話でしたね。
それから内向性、HSP、今はHSSっていうのもあるんですね。
知覚過敏、ADDを言うならば大人の発達障害、注意欠陥障害って今は言わないのかな。
アテンションディフィシットディスオーダーです。
ハイパラクティブが入ると、多動性が入ると、アテンションディフィシットハイパラクティブディスオーダーです。
注意欠陥障害、多動性障害、全部検討してますよ。
それぞれについて5冊ずつくらいは組まなく読んでます。
それくらい僕にとっては、怒られたときのショックで何もできなくなるというのは重要な問題だから、もちろん抑鬱はチェックしてます。
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それらを全部加味しても甘えさせるということを検討するほどいい方法はないんですよ。
もうちょっといい方法があるといいんですけどね。
緑色と黄色いカプセルの入った錠剤を飲むと一発で気分がすっきりするとか。
ちなみにそういうこともできないわけじゃないんですよ。
ただ様々な問題があって、少なくとも日本とアメリカでは流通している薬違いますね。
私はストレスからくる背筋の痛み、背中の痛みに耐えかねてアメリカで一発薬を飲んだことなんですけど、スパッと消えるんですよ。
驚くほど完璧に消えます。
これはやばいなと思ったんで、その薬を飲むのを完全にやめたわけじゃないんですけど、
よっぽどの場合に限って半錠にしようと、一錠まるまる飲むのはやばいと。
アメリカ人の体のサイズと日本人のそれとは違うんだろうというのもあって、
それぐらいにした記憶があるぐらい麻酔的に痛みを止める。
かつ、それによってストレスから解放される基礎っていうんですけど、
そういう神経作用の薬っていうのは効果絶大なものもないわけじゃないんですよ。
僕はお勧めできないんですけど、あれについて詳しく調べれば調べるほど、
だんだんお勧めできなくなってくるんですよ。
別に副作用で死んじゃうとかいうことはないんですよ。
僕全然今ピンピンしてますからね。
ただ、薬は絶対に耐性ってついちゃうし、
副反応のない薬って世の中にないんで、
気分が朦朧とする習慣がついたとか、
いろんなことがあるんで、なかなか難しいんですよ、本当に。
しかもストレスから来る痛みはその時消し飛ばせるんですが、
うまくいけば。
ストレスそのものがなくなるわけじゃないんで、
またそこのところに副反応のない薬っていうのはないんですよ。
うまくいけば。
ストレスそのものがなくなるわけじゃないんで、
またそこのところに行くと同じストレスにハマって、
背筋の痛みに苛まれるんですよ。
で、また薬を飲みたくなる。
この繰り返しになっちゃうわけじゃないですか。
これを考えてもですね、やっぱり何とか別の方法を考えたいとは。
で、ないんだったらしょうがないんだと思うんですけど、
なくはないんですよね。
自分が甘えさせるという言葉は非常に考え抜いたんだけれども、
多分十分だと言って一発で却下されそうな気がするんですけれども、
する人には。
心の平安ってグッドバイブスで倉園健夫さんおっしゃるじゃないですか。
心の平安。
平安が失われた時ということなんですよ、まず考えるのは。
まず考えるのは、まず上司にとにかく言われるとか、
自分が柔らかして100%自分が悪いと思うとか、
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100%っていうのはないんですけど、
そう思った時に心の平安が失われて、
私のここで言う言葉で言うところの妄想分裂ポジションに入るんですよ。
アルファ機能か、ちょっとわかんないんで今飛ばします。
心理的な、心の中の精神病部分が優勢になり始めると言ってもいいんですけど、
私の本の中で言えばあれです。
変動体モードと3Fですよ。
逃走、あるいは逃走、あるいは死んだ振り。
フライ、ファイト、フリーズですね。
この状態に入った時にどうするかってことなんですが、
まずその状態に入ったということは、
これはグッドバイオスで言うならば、
イリュージョンを見てる。
100%間違いないと思っておくのがいいんです。
現実を見ていると思うでしょうけれども、
そんなことはあり得ない。
まず100%イリュージョンを見てるんですよ。
だから相手が怒って怖いというのは、
そうじゃなくて、相手が怒って怖いんじゃなくて、
相手が怒って私はそれによってイリュージョンを見て、
それによって怖いんですよ。
だからこのイリュージョンをやめれば、
平安はたちまち戻るんですよ。
相手がどんなに怒っててもですね、
殴ってこない限りは。
で、多分これを目の当たりにした時、
これは信じられないってことになるんですよね。
で、私の提案はますます知りづけられるわけですよ。
ここで相手を甘えさせて、
なんで俺がって、
この言葉はちょっと後々検討しましょうね。
なんで俺がって思うと、
なんで私がこの目の前にいる、
ふざけた夫を甘えさせねばならないのかと思うと、
思うわけですよね。
私も思うんで。
それもイリュージョンなんだけど、
このイリュージョンを見るという話はですね、
だから私これをナルシシズムって捉えてるんですけど、
ここまで行くと話が早すぎるんで、
もう少し手前のところから、
なぜ僕らはイリュージョンを見るかというとですね、
一つは見たいからなんですよ。
で、見たいからってのはどういうことなのかと、
プラゾドさんも見たい現実を見るんだっていうふうにおっしゃるんだけど、
まずなかなかこのパターンに陥った時ほど信じられないんですよ。
このパターンに陥った時ほど信じるべきなんですけどね。
一つには僕ら現実なんて見てないってことなんですよ。
すぐ現実を無視しますね。
たまたま先日夢を見てですね、
これも夢の上に実在じゃない人を捏造すると、
今度は話が分かりにくくなるんですよね。
実在、架空の人としておきましょう。
先日ある夢を見て、
そのままおしゃべりませんけれども、
ある人が普段は身長が大きくて、
ある人が普段は非常に押し出しの強い人なんですけど、
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実はじゃなくて、
ある日Zoomの待ち合わせ会議に来なかったんですね。
夢ですよ、私の見ている夢です。
で、その時になぜかですね、
相手と相手の家の様子がこっちに伝わってきて、
伝わってってのはZoomの画面で見えて、
この段階ですでにおかしいんですけど、
見えてすっごい欲ず状態にその人だったんですね。
佐々木さんの言うことはすごい怖いから、
もう話したくないんですって、
ボソボソと泣きそうになりながら呟いてるんですよ。
それがZoomでこっちから見えるんですね。
で、一生懸命僕が喋ってるんだけど、
僕の声はどういうわけか向こうには通らないみたいなんですね。
ミュートになってんですね。
で、一生懸命僕喋ってるんですけど、
何が怖いのか言ってくんないと分かんないしとか、
一生懸命喋ろうとしてるんですけど、
向こうには声が伝わってないという夢を見たんですよ。
で、パッと目が覚めた時、
そうなんだよ、あの人そういうところがあるんだよなって
思っちゃったんですよ、僕が。
これがイリュージョンなんですよ。
これは私の夢ですよね。
だからその人の実体とは何の関係もないはずですよね。
僕が勝手に見たんだから。
だけど私にはそっくりそれがリアリティを持って感じられたために、
あの人にはこういうところがあるんだという
私のなんとなくの推測を、
私は多分その人について
そういうところがあるんだと思い込んでるところが
どっかにあるんですよね。
無意識っていうのはこういう時に使うしかないんですが、
どっかにあるんですよ。
で、その通りの現実を夢が見せてくれたんですよ。
フロイトが夢は願望重速の現れであるといった時の意味は
多分こういうことなんですよ。
見たい、こうで現実があってほしいとまでは言えないんですよ。
だってそういう現実が本当だと
その人にミーティングをすっぽかされる可能性ってあるじゃないですか。
で、私は怖いと思われて
別にそう思いたいとは言えないんだけど、
なんとなく私の頭で推測しちゃうと
この辺にリアリティがあるんじゃないかっていう
リアリティがあるんじゃないだろうかと思っちゃうんですね。
夢と現実の混同っていうのはこういうことを言うと思うんですね。
で、私はその人について
そういう人なんではないだろうかと
かなりの角度を持って推定している。
それが夢に現れたもんだから
ああ、こういうところがあることを
私は知っているんだって思うんだけど
大きな間違いじゃないですか。
知ってるわけじゃないですよね。
私が勝手に夢を見たわけですよ。
知らないんですよね、私は結局。
本当のことは分からないっていうのは
もう本当にこういう時に使うもんだと思うんですが
本当のことは分からないし
本当はその人は全然そうじゃない可能性も
本当に見た通り押し出しが強くて自信満々で
私のことなんか少しも怖がってない可能性だって
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同じぐらいは絶対あると思うんですよ。
でも私は一瞬そうじゃない方を信じそうになった。
これがつまりイリュージョンが現実のようになって振る舞って
私はこの人に怖がられているんだろうという想定の下に
動き出してしまっているわけですよね。
多分僕は本当にそういうことが起きていてもしてます。
表面的にはそうは思ってないですけど
もしかするとこの人は自分のことをこう思ってるんじゃないだろうかという
仮定の下に動いているんですよ。
そうするとそういう現実が進行していっちゃうんですよ。
これが多分イリュージョンが現実化するという話なんだと思うんですよ。
一つはある種のタイプとしてですね。
これが私が思うところのナルシズムなんですよ。
私のですよ。
私は自分の現実を見ているくせに
自分で作り上げたイリュージョンを見ているくせに
外側の現実を見ていると勝手に思い込むわけですよ。
自分の中から出られなくなっちゃうわけですよね。
これが私が思うに自己愛的な態度というものなんだと思うんですね。
自分にとって都合いいか悪いかじゃなくて
自分にとってそれが愉快かどうかでもなくて
不愉快なんですよ。こういうことは。
でも私は自分の推測能力を過信しているんですよ。
そこにナルシズムがあって
このナルシズムが病理を生むという話をしているんですね。
これが甘えなんですよ。
私の甘えなんです。
つまりドイ・タケオさんが確か言っていたと思うんですけど
甘えがあるところには
自分が現れるという言い方をしていると思ったんですけど
そういうことなんですよね。
私が自分の推測能力を勝手に現実の上に上書きしていって
そのような推定通りに現実であるという風に
確信を勝手に抱くほど自分の推測能力に過剰な自信を抱くと
ここに甘えがあるわけですね。
この甘えが私を苦しめるとなると
それが精神病の始まりだよということを
ドイさんは甘えの構造で言っていたと思うんです。
こういうことが上司に怒られた時に
ショックで立ち直れなくなるみたいな時に起きているんですよ。
この上司はきっと私のことを断定しているに違いないという
過剰な自信があるんですよ。
私このことは本で少し書いていると思います。
マイナスの自己愛に過剰にのめり込んでいる。
マイナスみたいな書き方をしている。
もう少しわかりやすい書き方をしているつもりですが
こう書いたと思います。
私が失敗をしてみんなが私を罰創としているとか
そういう感情には変な確信がつくんですね。
私があの時にやらかしたから
妻はすごい怒っていて許さないと思っていると思っているんですよ。
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この思っていると思っているが一番いけないと思うんですね。
既読スルーとかで
倉園さんも本の中でこのことについて触れられていますけれども
既読スルーの例とかで
既読スルーをしている相手に対する
勝手なイリュージョンを膨らませていくわけじゃないですか。
これみんなやるにもかかわらず
自分がやらないとでも思うんですよね。
思うみたいなんですよ。
ああいう本を読んだり、ああいう例を見たり
私が書いたような例を見ている時には
こういう人いるようなと思うけど
私がそういうことをやっているということに
なかなか向き合おうとしない。
本当に向き合えば
相手がそう思っているわけではない可能性がある
というところが必ずあることに気づくはずなんですよね。
自分の推定が自分の確信に変わるっておかしいので
99.99%の推定であっても
0.0001%間違っている可能性ってあるので
実際には間違っている可能性がもっとはるかに高いんですよ。
この時に自分の中から出られなくなると
自分の苦しみが無限に続くことになるわけじゃないですか。
これがナルシズムの病理っていうやつで
甘えの病気なんですよね。
この時に例のあれが出てくるわけですよ。
なんで俺がこいつを甘えさせなければならないんだと。
その時に私たちはですね
私の範囲を断定づけようとするんですね。
私がやるべきなのはここまでだって
決めるわけですよ。
誰もそれを決めてないんですよ。
それ決めてるのは自分なんですよね。
だから私の義務はここまでなんですっていう
私ができるのはここまでなんですということを
自分で勝手に決める時に
私たちの甘えが出るわけですよね。
私たちの甘えが出た時に
私は自分というものが
自分というものに突き当たるというのかな。
そこまでしか自分はいけないという自分を
ここでくくりつけるんですよね。
これを辞めさえすれば
辞めようと思いさえすればですね
辞めることについて検討しさえすれば
きっとその時の苦しみは和らぐと思うんですね。
私は。
怖くなくなる理由がはっきりすると思うんですよ。
でも自分が目の前ないと
甘えさせる理由はないと思われるだろうから
あれこれ事例を考え出すしかないんですね。
一つには赤ちゃんですよ。
赤ちゃんはものすごく暴れて
自分が抱っこしている赤ちゃんがですね
暴れて手を離すと床に落ちて
ダメージくらう赤ちゃんだけなんですよ。
でも暴れると。
この時に甘えさせるということが
必然的に出てくるわけじゃないですか。
ホールディングというのはそういう意味だと思うんですけど
とにかく落とさないようにグッとやると
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グッと抱えると相手はますます嫌がるから暴れると
この構図が自分の奥さんとか自分の上司との関係で
再現されていると僕はよく思うんですよね。
相手をホールドするのはこっちの仕事になっているんですよ。
嫌をなくですね。
相手は訳もわからず暴れているわけですよ。
これは相手もつまり妄想分裂ポジションなんですよ。
返答タイムモードに入っているんです。
出なければそのようなキーなことをやるはずがないからね。
だから相手が甘えているんですよ。
その時に私ができることは相手を甘えさせることだけなんですね。
赤の方であればこれは必然になるんだけれども
相手が奥さんになると必然性が薄れるように感じられる。
相手が自分の上司になるとほぼ必然性がないように感じられる。
でもその時に自分らは現実を見ていると思い込むんですけど
そんなことはないと僕は言っているわけですね。
多分それは所が違えばその判断と反応は変わるでしょうし
場所が違えば国が違えばですね。
やはり判断と対処は変わるでしょう。
私たちはその時に一番僕が感じることは
この時に私がなんで俺がやるんだというこの思いは
絶対にどんな場所でもどんな人でも同じように思うはずだと思い込んでいるんですよ。
そこにおかしなところがあるんだと思うんですね。
あるいは自分のやらかした失敗は
誰がどう見ても許されるようなことじゃないんだって
これはだいたい言うのは嘘ですけど
どっちも嘘なんですよ。
つまり現実には甘えていないことは
甘えることもできる余地があるはずだし
甘えることが当然であると言えるような
その視点があるはずなんですね。
僕らはその視点が見つけられない。
見つけられない時に自分の視点が勝手に神の目のように見える。
絶対に自分は正しいんだと。
誰がどう見ても自分はやらかしたから
100%罰されなければならない。
誰に聞いてもそう言うだろうと。
どんな時代でもそう言うだろうと。
そうは考えていないと思うんですけどね。
でも心理的にそういうところにはまり込んでしまっていて
そういうのではない視点を取ることができなくなっているということが
イリュージョンなんです。
何だということを理解すればですね
そのイリュージョン、つまりその穴にはめてこんでいるのは自分自身だから
そこから逃れ出ることができるはずだと。
その時には相手を甘えさせるということは
何の負担もないはずだと。
そういう段階ですでにそれはイリュージョンだったと思うんですね。
何で自分がって思うというのはですね
僕もよく昔そういうセリフが自分の心の中から湧き上がってきた時に考えたんですよ。
グッドバイブスを知る前から、前にですよね。考えたんですよ。
24:00
特に妻との関係において。
何で俺がここでって思うんですよ。
でもその時に少し変だなって思うんですよ。
どこかに冷静な自分がいてですね。
少し変だなって思うんですよ。
何で俺がって思うということは
自分の範囲はここまでですっていう限定がさっき言った通りあることになるじゃないですか。
でもその線は間違いなく自分が引いているわけですよね。
家事の分担とか何でもいいんですよ。
なぜここで自分が
よく出す例としては鍋にしゃもじを突っ込んでいたということだけで
謝らなければならないんだろうと思った時
謝らなくてもいいっていう風に誰かに言ってほしいわけですよね。
つまりそこには客観的に自分の方が正しいということを
判定してくれる誰かが欲しいわけですよね。
実際にそこまで持っていこうとした時にはコストがあるわけですよ。
私が1対1でやる限りは
私が正しいということは相手は納得しないわけだから
第三者を必要とする。
第三者を連れてきて
この鍋に突っ込んでいるのはいいと思いませんかって言わなければならない。
そこまでしてでも謝るより
そこまでして自分の正しさを証明したいという
この気持ちは何なんだろうって思ったことが何度かあるんですね。
その時はそういう言葉は使わなかったんですけど
イリュージョンだっていう感じを抱いたんですよ。
これを自分は譲歩したくないって思うからには
譲歩してはならないって思ってるわけなんだけど
その譲歩してはならないという基準とか
つまりグッドバイブスで言う正しさとか
あるいは法的根拠とかね
そんなものはないですが
何なんだろうって思ったんですね。
自分がそれによって失うもの
プライドとか権利とか何かしら
本当に失うんだろうかと
誰か私の味方を絶対してくれそうな人を連れてきたら
絶対味方してくれるだろうかと
一つ一つ考えてみたことがあるんですが
どれをとっても完全ではないんですよね。
絶対に自分の味方をしてくれそうな人を連れてきても
してくれるとは限らないじゃないですか。
絶対に自分が正しいということを証明してみせたとして
その後の自分と奥さんとの関係を考えてみる
それが自分にとっての最終的なメリットになるかどうかも
疑わしいですよね。
その後、関係がものすごく破綻するということになって
果たしてそこまでする価値ってあるんだろうかと
あると思うから情報したくないんだけど
そうであればですね、私が思うに
とことん考えてみるべきだとも思うんですよね。
これについて絶対に情報しないことによって
自分が何かを守ったということに仮になって
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それは何であるかということをはっきりさせないと
そこまで必死になって守る
どんな理由も見つけられないことに
結局なってしまうんですよね。
つまりイリュージョンだということになってしまう。
本当にそれを明らかにしようとすると
消え失せてしまう。
そういうようなもんだということが
自分にはっきりしちゃう。
むしろそれのほうが嫌だと思ってるから
ここで何も考えずに突っ跳ねたい
なんじゃないんだろうかと
自問したときに私に関してはそうだったんですよ。
結局この問題でそもそも
長くやり合うこと自体が無駄だと
自分は本当のところ思ってる。
ということであれば
謝っちゃったほうが早いじゃないですか。
これもある種のイリュージョンなんですけどね。
早いとか遅いっていうことが
ここで最初に問題になってたわけでは
ないような気がしますので
途中からそれに入れ替わっちゃっただけなんですよ。
甘えさせるということにおいて
なんで私かって思った場合ですね。
明らかに自分がやるという
何らかの客観的根拠が
見つからないように思えた場合
ではそれをしないということによって
自分の反省をカチッと決めることが
どうして自分のメリットになるという
ふうに考えられるのかということを
時々考えるんですよ。
少なくともそれは自分の反省と行動範囲と
自分の可能性と自分のエネルギーと
自分の能力を
過小とは言いませんが
少なくしておきたいということではありますよね。
大体私たちはその逆に考えてますし
果たしてそれを少なくするということが
その人の幸せに直結するんだろうか
というのはよく思うところがあります。
そういうふうにおっしゃる方っていらっしゃるんです。
私の知っている中にも結構いらっしゃるんですよ。
余計なエネルギーを使いたくないと
でも余計なエネルギーを使わないということは
つまり自分の活動範囲は狭めておきたい
ということになるわけですよね。
私たちはそれがある意味本当のところ
相当嫌だから
刑務所に行って金庫何年とかやれるのは
相当嫌だと思うんですよ。
狭められてますからね。極度。
制約がある方がいいというのは
何らかの可能性を自分で積んでおいた方が
私にとってプラスであるという話なんですけど
それってどの程度本当なんだろうか
自分にとってどこまでだったら
妥当だと言えるんだろうかというのは
仮にイリュージョンだとしても考える余地が
僕はあるんじゃないかと思います。
関係ない話のようなんですが
共和児ってあったじゃないですか
共和児の放課事件
あれですね、もし
容疑者の人を説得できるという可能性が
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自分にあったとしてすると
説得しに行く気がしませんか
私はそう思ったことがあるんですよ、この文脈で
なんで私がって思わないと思うんですよね
あの事件を未然に説得によって防ぐことができないと思うんですが
できないですけれども
それにそれは架空の話ですけれどもね
説得によって押し留めることができるんだとすると
相当の努力を払ってでも説得するような日が
僕はしたんですよね
これはだいたいそう思う人が
あの後の事件の天末と悲惨さを思えば
考えるんじゃないんだろうかと
言ってもいいシチュエーションじゃないですか
なぜならば多分自分自身は
その容疑者の人とおそらく全く関係はないし
いろんな意味で自分の環境の外にあることだと思えて
自然だと思うんですけど
でも自分にそれができるのであればですね
むしろやりたいと思うんじゃないんだろうかと
それによって得るメリットって多分別に
メリットがはっきりとした形であるとは言えないと思うんですよ
それによって刑務所から金一風とか出ないと思うんですよ
なぜならば未然に防がれているわけですからね
このことを僕は時々考えるんですね
そうするとどうしてそんなに大変そうなことでも
できる時があって自分について可能性と自信があるならばね
できる時があるのにあるいはやる気になる時があるのに
ごくごく些細な自分の奥さんの謝文字が突っ込まれているということに関する
取り乱しに関して収めるという努力に関しては
節約した方がずっとマシだって考えるんだろうって思うんですよ
なぜかというと僕が思うにですね
それは自信がないからだとしか思えないんですよね
ここで奥さんを収める自信が実はないからだと
容疑者に関してもそうなんですよ
説得できる自信は多分多くの人にはないと思うんですね
だから説得しないという方が妥当であって
それは俺がする仕事じゃないからだって思うっていうのは
2番目に来る理由なんじゃないかと
むしろ後付けで出てくる理由なんじゃないかと思うんですね
そうするともしですね
自分が何かやらかした後でその場を収拾して
一切自分に関する
価値マックスの話になりますけど
自信を失わずにいるという自信があれば
そうすると思うんですよね
なぜ私がそこまでするんだろうなんて
絶対考えないと思うんですよ
それとですね上司に怒られた時に
それが理不尽なものであった場合
でも相手を甘えさせるということが
33:00
どれほど違うのかなと思うんですよね
私はどれほども違わないような気がします