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2022-04-20 19:12

【587GMV】不機嫌になる心理

ニードに罪悪を感じ取る
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おはようございます。グッドモーニングボイスです。
このお話はですね、これからするお話は、私の中では一つの発見だなと思っているんだけれども、
えーと、その、何の確証を得る根拠もないんですね。
あの、つまり、ま、もともとここで話してる話はほとんど全部そうですけど、
それにしてもこう、エビデンスというものに欠ける話だな、と思って聞いてください。
あとですね、えー、強い、グッドバイブスからの強い影響と精神分析からの強い影響はいからずこう、
えー、カクテルした話なので、どっちも、こう、どっちも根拠が全くないわけでは全然ないんだけど、
えーと、でもこう、基本的にサイエンスじゃない方、サイエンスじゃないものとサイエンスじゃないものを、
えー、私が頭の中でミックスした話ってもう、なんか、うさぐさいにも程があると言いますか、
そういう側面はありますんで、ま、その辺もこう、えー、割り引いて聞けっていうのは嫌なんで、
えーと、まあ、そういう話だと思って聞いていただければと思います。
今日初めてするっていうわけでもないんだけど、えーと、前々から私が非常におもしろいというか、
不可解な現象だなと思っていたことに、
罪悪感に苛まれている人というのは、えー、自己肯定感が低いとか、自分に自信がないとかいう割に、
人を攻撃しがちだなって昔から不思議に思っていたんですよ。
えー、身近な身近なところでは、私の母がちょっとそういうところがありまして、
自己肯定感が低いって言うんではないんですけれども、
なんかこうですね、えー、何かにつけてこう、なんて言うんですかね、えー、
ま、その、自分に自信がないみたいな話はするんですけど、
それにしては私に対して偉い威圧的なものを、私が子供の時はですね、感じてたことがあったんですよね。
あれは大変矛盾してると私なんかはよく思っていて、
自分に自信がないならば、もっと謙虚にしていられないものなのかと思っていたわけですね、子供だったから。
で、長寿につれ、あ、明らかにそういうもんではないなというのはわかってきたんですよ。
で、それはまあ、いいとしていいんですね、私の中では。
そういうこともあると思うんですが、
なぜそうなのかの説明って難しいと思うんですよね。
やっぱりこう、自分に自信がないと言う人が自分に対して高圧的だというのは、
どうしてもこう、単純に言って自信有無で言うと、ちょっと矛盾があるように思うわけです。
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自信があるから高圧的だというのはわからなくはないんだけど、
自信がないから高圧的だというのはどういうことなのだろうと。
で、えっと、自信がない人ほど柔るとか言うじゃないですか。
そういうなんかこう、モラル的な話聞きますけど、
私はだいたいそういう話に何の説得力も感じない人間なんですよ。
それは全然合理的な説明とは言えない。
なんかこう、本当に自信がある人は腰が低いものだとかいう、
そういうなんかですね、きれいな話みたいに聞こえて、
まあ校長先生が朝の挨拶で言うのは結構なんだけど、
私がそれで納得する筋ではないなって、
まず真っ先に思っちゃう方なんですね私は内心では。
表面的には黙って聞いてますけど。
どうしてもやっぱりその、なんつうんですかね。
まあ例えばこれがなぜか将棋になっているんだけど、
将棋が強い人が自分に自信があるから弱い人を弱いと見下すと非常にわかるんですけど、
弱いのに強い人を見下すと断じて理解に苦しむとやっぱり思うわけです。
自信があるなというのは結局ある意味ではそういうことであってもいいわけですから。
ただこれはスキルだけの話じゃないから、
自信がないから強く出るというのはわからないではないんだけど、
それで自信もないのに強く出て相手に逆襲されたらどうするんだと、
私なんかやっぱり思っちゃうんですよね。
ようやく最近ですよ、50歳にもなって。
こういうことは15歳ぐらいでわかりたいじゃないですか。
一番その頃そういうことで困ってるわけだから。
50にもならないとわかんないのかなと思うんだけど、
しかもこれもだいたい自分で考えてわかったというのじゃないですからね。
倉園さんのお話を伺ったり、
土井武夫さんの本を読んだりしてようやくなんとなくわかってくるという話になっていて、
なかなか自分の頭で考えてわかることって多くないなと思うんだけど、
やっぱりニードとニーズがいいですね。
ニードという話とニーズという話、これセットで考えるべきなんですが、
赤ちゃんがニードを感じるというのは基本不愉快なんですよ。
私最近ゼロ歳児だった頃の娘の動画を見まくってるんですが、
よく泣いてますね。ニードニードニードなんですよね。
ニードというものがある。
だけどそれはなんだか本人にはわからない。
不快であるというだけなんですね。
で、当たりをつけるわけですね。
周りにいる私や妻は。
つまり環境としての母親なんですが、
これ当たりをつけるしかないわけです。
だいたい本人にわかってないものを、
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周りが類推するんだから当たりをつけるしかないんですが、
なんかくるくる回るおもちゃを回してほしいのか、
キラキラ回るおもちゃを回してほしいのか、
実際にはそんなことはわかってないんですよ。
水が飲みたいのかミルクが飲みたいのか、
でも数種類しかないからわかるわけですよね。
6、7通りしかないわけですから。
全部やってもダメなこともありますけどね。
これがニーズなわけです。
ここで面白いのはニードは娘初だけど、
ニーズは提供されるものなんですね。
提供するもの、提供を求めるものに思うんですが、
つまり要求っぽいんですけど、
実際はデマンドではないんですよね。
キラキラしたのを見せてくれとか、
抱っこしてくれとかは言えないわけだし、
多分本人にもはっきりはわかってないわけですよね。
多分ミルク欲しいくらいなら、
そろそろわかってたかな、
6ヶ月くらいでも十分って感じはありますけど、
わかってないことも多々あるわけです。
背中痒いとかね。
こっちはわかんないので、
こっちから適当に当てずっぽうに提供するわけです。
ニーズを認めて、しかも提供もするわけです。
セットなんですよね、ニーズになった瞬間に。
形としては。
ニーズを見つけてそれを提供する。
100%合致することはほぼないですよね。
少なくとも多少はずれる。
このずれが大事なわけです。
ずれを認識していく中で、
自分でニーズを満たすということを覚えていくわけだから、
これではない、これじゃないかみたいなのはきっと大事なんだと思うんですけど、
ニードっていうのはとにかく不簡易なわけですね。
赤ちゃんだからニード、ニード、ニードになっちゃって、
放置されることすらあるわけですけど、
大人になった場合、大人になってもニードがあるんだけど、
例えば空腹なり、例えば暑いなりすると、
自分でニーズに変えられますからね、それは大人になれば。
クーラーをつけようとか、この時期だったらまだヒーターをつけようかな。
自分のニーズというものに変換し、
この変換は少しずれるはずですね。
この部分はそれほど文脈は重要じゃないけど、とりあえず言っておきます。
このずれは非常に大事だと私は思うので、
ヒーターをつける、つまりニーズに変換し、
ヒーターをつけてあったかくなったとして納得する、
という形でニードが満たされるわけです。
ここで自分の中で赤ちゃん役と母親役を一人二役やるわけですね。
私がもう私の中で泣き、私の中の母親が暑いのね、と言ってつけて満たす。
これができるから、できればですね、
自立しているとも言えるし、万能であるとも言えるわけです。
だって現実に発生する要求を満たすことができるわけですから。
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ただし完璧ではないんですね、この中には。
完璧でない部分がどこかに潜んでいる。
それは良いとしまして、さっきの自分に自信がないなりの人なんですが、
これはですね、不快感、Nが発生した時に、
次に何を思うかというと、
罪悪というものを探し出すんですよ。
これがグッドバイブスでクラズノンさんが繰り返しおっしゃっていた話から、
私が学んだことだったんですね。
そうか、この人たちはNが発生すると、
罪悪を探しに出かけるんだと。
出かけてないんですけど。
1、どこに罪悪があるか。
2、自分に罪悪があるのか。
この問いがほぼ自然に発生してしまうんですね。
そもそもニードって無意識に発生するじゃないですか。
そうですよね。
意識的にさあこれから眠くなろうとか、
さあこれから暑いと感じようって人は誰もいませんよね。
ふと不愉快になる。
そこから話は始まるわけです。
だから、ふと不愉快になり、
次に後入れに行きたいんだ。
つまり最初は無意識に不快になるっていう形を取るわけです。
この時にはまだ言語化もできないし、形式もないし、
どうすればいいのかも分かっていないから無意識だったんですね。
それが何か形を与えて自分に何かを当て推量してみる。
一瞬だから、このやりとりが一瞬でできるように私たちはもうなっちゃってるから、
自分の中ではっきりしないんですけど、
あの喫音ってあるじゃないですか、どもり。
ああいうところでこのやりとりが実はスムーズにいくとは限らないことがよく現れると思うんですね。
私たちだってどもることはもちろんあるし、よどむこともありますよね。
うんってなる。何を言わんとしているのかがはっきりわからないということは多々あります。
だからNがNSになるというのは決して自然でも自明でも自動でもないということです。
何かそこに提供しようとしてうまく当たっているからそれができると。
ところがこのNって不快なんですよ。そうですよね。
お腹がすく、寒い、熱い、かゆい、痛い、眠い、全部不快なわけです。
不快感から発する。この不快になったときにある種の人は罪悪がどこかにあるはずだって考えがちなんですね。
これは多分私は要育歴のためだと思います。私そういうふうに考えてないんで幸い。
ところが機嫌が悪くなりがちな人というのはここを考えるんですよ。
私が不快になっていいはずがない。これだとすごく傲慢な感じがするんですけどそうじゃないんですよね。
この種の人々は非常に苛まれている感じがあるので幼少期に怒られたケースとか何かいじめられたケースとかがあるんだと思うんですよね。
そうじゃないとこの発想の説明がつきにくすぎると思うんです。
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例えばお腹の具合が悪い。誰が悪い?何が悪い?って考えるわけですね。
この考え自体はそう不自然ではないと思います。
例えば昨日食べたものが悪かったんだろうかと。そう考える可能性は十分あります。
ただある種のNが発生したときにいちいちことごとく悪の原因を探しにいき始めると、
さっきも言いましたけどNSというのは提供されるニーズというのは自分のNが、普通僕らはそう考えちゃうんですよね。
ある不快感があるとそれが自然と暑いとか寒いとかトイレに行きたいという形を取るんだと。
つまり一人一役で自明に種から芽が生えるようにニードがニーズになるんだと思うんだけど、
最初の形を考えてみる限りそうではないはずなんですよ。
だって不快になったとして常に正しいと限らないのはここにあるんだけど、
例えば不快になったとき常に飯食えばいいわけじゃないじゃないですか。
でもある種のお母さんは常にミルク与えちゃうんですよね。
いつも抱っこすればいいってもんじゃないんですよ。
背中かいてほしいのかもしれないんだから。
だけれどもいつも抱っこして済ませてしまうということは親だったら多々あります。
つまりニーズというのは常に外から提供されるわけですよ。
だからニードとニーズは実はあんま関係なかったりもするんですね。
ということは不快になりましたと。
これはきっとこの旦那の態度が悪いからに違いない。
こういう発想を取る人はいっぱいいるわけですよね。
ニードとニーズというのはニードからニーズが自然と発生する。
非常にいつも合理的に決まるものでは決してなくて、
ニードに対してニーズが提供されるという形で完結していたために、
その原因を外に探しに行くというのはごく自然な話なわけです。
だから戦争が起こったり恋愛したりすると人は結構分裂っぽいことになってしまうんですね。
被害妄想的なことが起こりやすくなるわけです。
私が不愉快になったのになぜあの人は電話をよこさないんだろうとか、
こういう理屈が平気でまかり通るわけですよ。
私が不愉快になった理由は実はただ腰痛なだけかもしれないんだけど、
あいつが電話をよこさないからだと。
そういう解釈をしても何にも不思議はないわけですね。
赤ちゃんだってそうですよね。
不快になりましたと。
抱っこしてされたら納得すると。
この場合眠いから抱っこされて納得したのかもしれないし、
寒いから抱っこされて納得したのかもしれないし、
それでも寂しいから抱っこされて納得したのかもしれない。
分かんないわけですよ。赤ちゃんにも分かんない。
つまり永遠に不明なわけですよ。
でもNがNS、Nが発生しNSが提供されて満たされた気分になったという事実に変わりはないわけです。
何でもいいんじゃ何でもいいわけですね。
多分ミルクじゃダメだと思うんですよね。今のケースだったら。
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ずれがあるのはしょうがないって事ですね。
そうするとずれがあるんだから、多分ずれというものがいつもいつも発生していた上に、
このニーズの満たし方にネガティブなものがいつもいつも混ざり込んでいたようなケースでは、
罪悪というものを探しに行くケースがすっごく増えてしまうと思うんです。
心理的に。
私が悪いのかもしれない。不愉快になった。
あるいは社会が悪いのかもしれない。
とにかく悪いわけですよ。不愉快になったわけだから。
本当は適切なニーズを探して満たせばいいんだけれども、
不愉快になった原因として悪を探しに行く。
そしてその悪を凝らしめれば自分の不快感が消え失せると考えちゃうんですね。
この構図からして、悪を凝らして埋めても絶対に自分のニードは満たされないはずなんですよ。
赤ちゃんの立場に立てばよくわかると思うんです。
背中が痒い。これはお母さんが悪いからだ。
お母さんを凝らしめれば私は納得するだろう。
しないですよね。絶対に。
でも私はこれと全く同じことを僕らしょっちゅうやってるんだろうと思うんです。
それは残念なことに幼い時にNというものの不快がかなり長いこと放置されてきたとか、
何らかのNが発生した時にかなり不愉快な目にあった上でなければニーズになって満たしてくれなかったとか、
例えば長いこと泣く。やたら叩かれた後ようやくミルクを飲ませてくれるとかこういう形を取った場合、
不快になるということは悪いことだっていう。
不快になることは悪いことでも何でもないわけですよね。
不快にならないと困るんですよ。
ミルクは飲めないし、熱くてもわかんないしじゃ困るじゃないですか。
痛くてもわかんないし、風邪ひいてもわかんないしじゃ困るわけですよ。
だから不快になるというのはいいことなんだけど、不快になるというのは悪いことだと考えるようになってしまう。
不快になると悪いことだと考えるようになると、奥さんの機嫌が悪くなると落ち着かなくてソワソワしてしまって、
機嫌を取りに走るというのがまさにそういう状態を意味してますよね。
不快になっていてこれはまずいっていう考え方ですよね。
不快になるということが悪いことになってしまうと、
その不快を取り除くということが善になってしまって、
不快のままであることが悪になってしまうので、
そういう動機づけで私たちが動くようになってくると、
非常に居心地の悪い世界が出現する。
それが多分ですね、僕が顔色を伺うで書いて言いたかったことなんだろうなと。
今のような構図で説明すると、
Nすなわち不快であり、そこから罪悪を探しに行き、
ニーズを満たすという観点がどこか失われてしまって、
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罪悪の根源を叩き潰すということに地道を挙げるようになる。
でも不快というNは満たされないので、ずっとそれが続く。
そういうところがあるから、自分に自信がないとか、
自己肯定感が低いとか、ある意味自分に罪悪感があるとか、
いったタイプの人が非常に外を攻めるようになるというのは、
ごくごく自然と言ったら変かもしれませんが、
こうして考えてみると理にかなった話なんだなと。
最近ようやくわかるような気がしてきました。
だからといって不機嫌な人を見て、
同情心だけで十分フットバイブスみたいに許すってやつですけれども、
できるようになったかというと、まだできないんですけれども、
でもこの図式で見て、何とか頑張って適切なニーズを満たしてあげると、
つまり泣いている赤ちゃんを見るように見るということが、
いくらかできるようになってきたかなと。
そうすると人生界はやっぱりだいぶ変わる気がしますね。
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