1. 佐々木正悟のライフハックからの精神分析
  2. 私は自他境界を上手く扱えない..
2025-10-14 49:49

私は自他境界を上手く扱えない【1264】

扱える時もあります。
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サマリー

このエピソードでは、自己と他者の境界について議論し、特にケンスー氏の意見を参考にしている。バウンダリーの概念が理解されにくい理由や、心理的安全性に関する疑問にも言及されており、個々の体験が自己肯定感や自己効力観に与える影響を探っている。また、自他境界についての理解不足が人間関係を難しくする様子についても話している。主にケンスー氏の理論を通じて、バウンダリーの重要性やその曖昧さから生じる課題が考察されている。さらに、幼稚園時代の経験を通じて自他境界の扱いが考察されており、幼稚園の先生との関係から境界の曖昧さやその影響について探っている。このエピソードでは、自他境界の理解と心と世界の関係についても議論されており、心の領域と責任の所在、介入の種類が個人の心理に与える影響を深く掘り下げている。最後に、自他境界についての理解を深めるためにライフハックやスピリチュアルの影響を交えつつ、心と世界との関係性を探求している。

収録の開始と状況
おはようございます。3ヶ月チャレンジ通信第1264回をお送りします。10月14日火曜日、7時32分です。
はい、えっとですね、途中ちょっと、もしかすると、4時50分ぐらいに、ぐらいじゃなくて、ジャストに途切れる可能性が濃厚です。
あのー、ゴミ出してこないとなんないんで。えー、まあその後また、続き収録するんですけどね。
ただまあ今日はですね、あのー、ドジャーズとブリュワーズとの対一戦があるので、少々短めに切り上げさせていただこうと思っております。
あとですね、あのー、まあ、ライブやるぞって言ってたんだけど、なかなかライブをやろうという、さっき実はここにiPadをセットしてですね、いつもiPhoneでやってるんだけど、
iPadをセットして、こう、ライブやろうと思ったらなんか、僕の顔がドーンと映るんですよね。
もうこれを見て結構悩むんですよ。もう別にいいんですけど、なんかね、こう、もっとこう、ビジュアル的にいけてないと、この顔だけ映してライブやってどうすんだよみたいなのが、
ちょっと僕の中で、こう、ふつふつと、なんとなくこう、なんかもう少しないのかって思ったら、ないんだけど、顔急に良くなるとかないから、ないんですけど、
いや、これなんか意味がよくわかんないなと思いましてですね、とりあえず今日は普通に撮ることにしました。
なんか、なんて言えばいいの、コストが無駄、無駄すぎるみたいな、なんでこれが映った方がいいのかが、YouTubeの方がいいってことなのかもしれないけど、
どうしても納得がいかないな、どうしても納得がいかないんですよね。
これをやろうとしている大きな要因の一つにケンスーさんの取り組みがあって、ケンスーさんは上手くやるんですよね。
だいたい僕はこの人のことがなかなか上手くやれないので、多分やっぱりやりたくないことは基本、ケンスーさんの方がそういう風に強くおっしゃってるんですけど、
でも僕は彼は、なんか彼に限らないんですけど、ライフハックとかそういう工夫できる人はやれちゃうんですよね。
結構ね、僕やれないんだなっていう、甘えてるって言えばそういうことになるんですけどね。
で、やろうとは思ってるんですよ。でもね、相当やろうと思ってる。だってやる直前のところまでさっき言ったんで。
顔が嫌とかじゃなくて、もうちょっとなんか動画をやるならせめて違う何かが欲しいと思ってるっていうね、そういうことでしかないんですけどね。
どうしよっかな。まあいいや、とりあえずちょっと考えます。
でね、今ケンスーさんのお話が出たので、せっかくなんでちょっとこの話、この話じゃなくてケンスーのさっき聞いてて思ったことなんですけど、
自他教会っていうことを彼がおっしゃっていて、自他教会、バウンダリーとか最近よく言われてますよね。
僕昔から思うことがあるんですけど、私の話は難しいって言われるんだけど、そうではなくてですね、
なぜ皆さん、皆さんというか世の中的にこれで納得されるのかがわかんないってのがあるんですね。
いや、ケンスーさんのおっしゃってことは実にもっともなんだけど、僕が言いたいのはケンスーさんが言ってる話云々ではなくて、
この自他教会というよくわからない言葉を、なんつーんだろう、わかったものとして使われたりするじゃないですか。
で、それがうまくいくんですよね。僕は自他教会の意味がわからないんですよ。
わかんなくないですか、自他教会って。自他の教会ってどこに先引きます?
秘符ですかね。僕こういうふうに考えちゃうんですよ、まず。秘符なのか?本当に秘符か?みたいな。
秘符だったら、いや、秘符だったら自他教会で悩む人っていなくないかなって。
悩んでる人には秘符が融合して見えてはいないだろうな、おそらくと。そういうことではないよね。
結局自他教会って言ってるときは真理の話してるんだけど、どこに教会引くってめちゃ難しくないでしょうかって思うんですよね。
僕はどうも世の中で言われる自己肯定観とか自信ではいけないのかって思うんですよね。
自信ならわかるじゃないですか。自己肯定観というのはなんで自己肯定観と言わねばならないのかと。
で、これが自己効力観とか言い出すんですよね。自己肯定観よりも大事なのは自己効力観だみたいな。
自己効力観って何ですかって感じがして、フィードバックの話とかになっていくんですよね。
なんか壁を押すと反作用の力で跳ね返ってくる。
なんていうのかな、やっただけのことはあるみたいな話ですよね。
勉強をしたら、英語の勉強をしたら喋れるようになってアメリカ人に通じたら自己効力感が上がるみたいな。
でもそれは英語のスキルにおける自己効力観であって、自分に自信がつくとかいう話になるだろうか、それでって。
僕はなんないんですよ、そんなことでは。
いや、確かにマリオカートとか毎日やってれば1位になれるから。
いや、自己効力感上がるよねって。いや、上がらないよね。
それはマリオカートが上手くなったって普通は考えません。
私は上がらないんですよ、そんなことで自己効力観とか自己肯定観とか。
心理的安全性とか言うんだけど。
いや、それなんか納得されるのが早いっていうか。
あと、心理的安全性は安全ではいけないのかって、すぐまた考え始めるわけですよ。
例えばだから、つまり、なんかある100日チャレンジとかでもいいんですけど、
私が100日チャレンジでコメントとか出すじゃないですか。
そうすると何捧げてんだみたいな、なんか冷たいとかボコボコに叩かれると安全じゃないとか思って引きこもるって話でしょ。
だからみんながいいねをいっぱい付けてくれて、認定トレーナーさんに突然ここで出すとびっくりされるかもなんだけど、
水溜りさんって方がいらっしゃってて、もうバンバンコメント付けてくれて、
いつ寝てるんだろうぐらいな心配になる認定さんがいらっしゃっていて、
しかも非常に肯定的なコメントがガンガン付けられる。
あれは一種の、天才的は言い過ぎかもしれないけど、かなりの能力だなって。
能力っていうか、いろいろあるわけですね。
僕にできないことができるわけですよ。
自分にできないことができる人はだいたいすごいと思ってしまうのが人間の悪い癖だと思うんだけど。
とにかく、僕は付けててもだんだん、なんていうのかな、
僕の場合、やっぱり簡単には肯定的なコメントを興奮して付けるとかいうタッチではないですね。
肯定的な気持ちにはなるんだけど、コメントをどんどん付けていくっていうことをやっていくと、
なんていうのかな、コメントをいっぱい付けてるな自分みたいになるんですね。
そこに肯定とか否定とかはないんだけど、なんかこう、不思議な気持ちになってきて、手が止まるんですよ。
あのね、さくらもんごさんがよく書いてましたね。
自分は手が止まってぼーっとしてると怒られると。
なんでぼーっとしてはいけないんだろう。私ぼーっとするのが好きだみたいな。
ぼーっとしながらコジコジみたいなのを考えて、コジコジって漫画が結構流行ってるんですけど、意味不明な漫画なんですよね。
あれすごい意味深で面白い漫画なんだけど、あんまり売れてないんですけど、
ぜひアニメも出てきます。コジコジ。だけど、かなりシュールな感じがしますね。
上手く書くんですよね、ああいうの。
だいぶぼーっとしてる時に出てくるんですよね。よくわかる気がするんですよ。
私も手が止まってぼーっとしちゃうんですよね。
なんでここで手が止まらないんだろうって不思議に思うんですけど、
何の話をしてるかというと、
心理的安全性の、100日チャレンジの心理的安全性って言われるのは、おっしゃっていただくのは大変素晴らしいし、
さすがJさんとかさすが菅原さんとか思ってるんだけど、つまり僕がやってもそうはなんないってことなんですけどね。
いやでも安全で良くないかっていうのと、しかし心理的にどれほど安全性が高い空間であろうとも、
明日もそうだとは限らなくないでしょうかっていう。
いや別に100チャレを皮肉ってるわけじゃなくて、どんなコミュニティでも同じじゃないかと思うんですよ。
だっていきなり僕とかがやや発狂気味になって、みんなのことを超ディスり始めたりするかもしれないじゃないですか。
わかんなくないですか、そんなこと。
絶対そうはならないという故障が、なぜそこに発生したことになり、
ここは心理的安全性の高い空間だとかいうことに、どういう根拠でそうなったのかというふうに私は思うんですよね。
だからどうしても心理的安全性という言葉は、極めて表面的な現象について指している言葉であって、
意味はほとんど感じられないんですよ、私には。
だからどうしてもそこに、心理的安全性とはなぜそこにあると人は見なし、
なぜそこにあると見なす心理がそこに発生し、
それは無意識とか全意識の中でどういう位置づけになっているのかということが明らかにならない間は、
全然納得できないんですよね。
なので難しく話がなるのではなくてですね、
贈り物とバウンダリーの理解
僕にはむしろ自他教会とかの話の方がよく難しく聞こえるってことなんですね。
これが言いたかったんです。
僕には自己肯定感とか自己効力感とか、心理的安全性とか、自他教会、長いじゃんって言葉が多々。
あんまり聞き慣れないバウンダリーとかね、全然わからんって正直思っているわけですよ。
ケンスーさんの話を、彼は話うまいんでね、聞いているうちに、
そうか自他教会というのは、貝深い原則の話をしているんだということがわかったんですよ。
だからちょっとだけ今日この話します。
これメインテーマじゃないんだけど、つまり自他教会というのは、
ケンスーさんは贈り物の話をしてるんですよね。
贈り物をあげると、もらうと私は嬉しいから人にあげるっていうのはビジネスパーソンとしては特策ではないと。
彼はビジネスパーソン向けに発信されてますからね。
なぜならば、自分がされて嬉しいからって人がされて嬉しいとは限んないじゃん。
これが一致していると思ってしまうのが自他教会のわかってなさだっていう。
そういうことなのねと。
これは貝深い原則ですよ。この番組で言うところの。
つまり自己対象、いい自己対象といい母親対象がセットになる。
もうちょっと言うと内的対象なんで、いいおっぱいをもぐもぐしている赤ちゃんは私いい状態みたいになって、
これ自他教会がはっきりしないっていう説明は、なるほどねと思うんですよ。
だけどそれは、私の場合は対象関係に直して初めて納得がいって、理解ができました。
だから自分としてはね、私としてはですよ、この説明の方がわかりやすいし簡単なんですよ。
なんで私の方が難しいって言われてるのかが私にはよくわかってないですね。
つまり対象関係論の考え方にいいおっぱい悪いおっぱいってよく言ってるけど、
あれはいいおっぱいといい私の、いいおっぱいといい私。
だからいい自己対象って言うんですけどね。
いいおっぱいといい私。悪いおっぱいと嫌な気分の私。不快な私。
だからいいおっぱいと快適な私。悪いおっぱいと不快な私。
悪いおっぱいっていうのはあれですよ。出ないとかそういうこともそうなんだけど、
そういうことよりも、例えばおっぱいがないとか、それを悪いおっぱいがあると勘違いしちゃうのは、
余計な説明をするからいけない。
例えば美味しくないミルクを哺乳瓶で飲まされるのも悪いおっぱいなんですよ。
で、それを飲んでると自分嫌な気持ちになるから、
だけど自分という概念を持ってない赤ちゃんは、ここに自己対象という概念はないわけですね。
だから何が言いたいかっていうと、いい私と悪い私は別人だと思ってるってことなんですよ、赤ちゃんは。
でもそういうことって僕らも往々にしてあるわけですよ。
良い自分の時と悪い自分の、つまり快適な時はすごい良い気分なんだけど、不快になるとものすごい気分が悪くなってしまって、
これがカウンセリングに出るわけですよ。
良い佐々木と一緒にいる時の良い自分と、悪い佐々木と一緒に話してる時の悪い私は、
まるで別人のように別々なので統合しきれないということになるわけですね。
そうすると悪い佐々木とのセッションが発生する可能性があるこのセッションは、
全体的には悪いことなので捨てようってことになるわけじゃないですか。
そうすると、しかし良い佐々木も一緒に捨ててしまうみたいなことが起きて、
カウンセリングをやめてしまうと、いいとこ取りができなくなるという。
これが自田協会のバウンダリーの難しさだと思うんですよね。
健須さんがおっしゃっていたのは贈り物だから、贈り物をされても。
つまり贈り物をする私はいい私なんですよ。
で、贈り物をされる私もいい私なんですよ。
だからいいじゃんと。贈り物をしようよと。
そうすればみんながウインウインになれるでしょうと思って贈り物をしたら、
相手は嫌な気分になると。
この時何が起きるかというと、相手が贈り物をしたのに嫌な気分になる。
悪いおっぱいが現れるわけね。
自他境界の理解
そうすると自分も不快になるじゃないですか。
せっかく贈り物をしたのに嫌な気分になったと。
そうすると自分も悪い自分になってしまうわけですよ。
これが嫌っていう人は、自田協会が分かってないってことになるわけですよね。
で、これが嫌ってことはつまり、人は人って言うじゃないですか。
人は人、自分は自分って。
これがつまり自分があるってことだと土居太郎は言うんだけど、
つまり自分があるというのは、人は人、自分は自分っていうのが分かってるんだと。
大概にしたらこれは分かってるよ、私はそれはって思うじゃないですか。
僕はそうは思わないんですよ。
これは私もそうなんだけど、絶対不快になった自分の時にはかなりのダメージを受けるものなんですよ。
というところに皆さん、そういう話をする人の話を聞いているので皆さんは。
これ大事なんですよ。
僕が言ってるのはどういうことかというと、
ケンスーさんに言うと、自田協会というものがうまく扱えない人向けに僕は発信してるんですよ。
僕がそうだ。
自田協会がうまく扱えるのが自明であるような人は人ですよねっていうのをさらっと言えるなら、
この番組はいらないってことになるんですよ。
僕はその自田協会の話は分かってなかったんだけど、ケンスーさんの説明を聞いてよく分かったんですよ。
あれは欲打つポジションがこの番組ではおなじみだと思いますよ、思うことにしますね。
欲打つポジションが確立していて、
欲打つポジションからPSポジションになることはあるはずなんだけど、ケンスーさんだって。
だけどそこはちゃんと扱える人向けというか、そういう世界の話になって。
私はそういうことは難しいという、無理だとは言わないけど難しい話ですと思ってるんですよ。
そんなに簡単にこれが納められるはずがないというか、
送り物するじゃないですか。
何こんなの送ってきたんだと言われたら、こいつはもう二度と付き合わないぐらいになるわけ。
それでも付き合うかもしれないけど、それこそビジネスライクにね。
しかし、なるんですよ、私だったらきっと。
で、これがなるのは避けようがないっていう話を僕はここでは散々してるはずなんですね。
なぜならPSポジションの人は卒業しないから。
で、ケンスーさん教育っておっしゃってたし、
子供の頃にこういうのは学ぶものだと。
それはそう。
つまり彼がおっしゃってるのは、
PSポジションの確率には幼少期に成立するはずだと。
するんだけど、なかなかしないっていう人もいる。
それがボーダーって問題を引き起こすんですよ。
バウンダリーの重要性
だけどもう、僕もなかなかしなかったんで、
いや、それって言われてるほど簡単にするかっていうのを紐解いているわけですね。
そうしてメラニクラインの本とか読むと、
すげー難しいですって書いてあるわけですよ。
PSポジションの確率なんていうのは、
もう人間にとっていいことに言わせれば、ほぼ死と再生なんですよ。
一度そういう目にあった赤ん坊は死ぬみたいな。
なんだけれども、本当には死なないから、
お母さんと赤ちゃんは二人共復活するんですみたいな。
これって大変じゃないですか。
もう一度死ぬみたいなノリになってるわけですよね。
だからこれが自然と確率しましたみたいなのは、
僕はただその人は、
その時の苦しみを忘れているに過ぎないと思うんですね。
僕も忘れてますよ、もちろん。
なんだけど、
これ簡単なはずないなと思うんですよ、赤ちゃんだったら。
だって私は、
そのうちにいてですね、
もうなんか、
背景が流石になくなったけど、
もうちょっと前、
数年前とか、
毎日離婚を決意してましたからね。
毎日っすよ。
365日どころじゃないな。
もう700日くらい連続で、
もう絶対離婚するしかないみたいに思ってたわけですよ。
それも、
なんて言うんだろう、
あれですよ。
だから皿をガチャンとやった。
割ったとかじゃないですよ。
音をさせたみたいなことで、
なんか言われるじゃないですか。
もう離婚を決意してるんですよ。
なんかこのまま一緒にいたら、
自分は頭おかしくなるみたいになって。
で、なんか、
なんだろうな、
土地家屋に関する何とか権利書とかをまとめて、
で、そのバッグ持って家とか出ちゃうんですよ。
で、一周して帰ってくると、
ただいま。
一周すると、
浴室ポジションに戻ってるんですよ。
そこら辺30分くらい歩くと、
家を出てるんだけど、
家出た時は家を出る決意とかしてるんだけど、
坂を降りて登ってくると、
心臓とか心拍変わるじゃないですか。
感覚的にはそうなんですよね。
分裂してますよね、これってね。
なんか笑い話と喋ってるんだけど、
要するに分裂してますよね。
で、まあ今ちょっとゴミを捨ててきたんですけどね。
あのー、
ちょっと喋ってたことについて考えてるんですけど、
これを聞いていると、
なんかこう、
自分のこと言われてるんじゃないかって思う人も、
いらっしゃるかもしれないですよ。
で、僕はそれが、
自分のこと言われてるんじゃないかって思う人も、
いらっしゃるかもしれないですよ。
で、僕はそれが嫌なんですよ。
これは僕のことを言ってるんですよ。
これはとても大事なポイントなんですよ。
この種のことって世の中にいくらでもあると思うんですよね。
で、ついつい自責の念に駆られがちな人は、
この種のこと、
全部自分のせいだって思い、
思ってしまうんですよね、最終的に。
でも私は、
だからバウンダリーという言葉が、
多分理解もできないし好きでもないんですよ。
対象関係論のいいところは、
えーと、
要するに、
そういうふうになりうるということ、
そして人は本当はバウンダリーなんて、
分かるはずがないって言っているわけなんですよ。
ここだと、
これを言うとまた誰かを批判してるみたいになるんだけど、
つまりバウンダリー考えた人を批判してるみたいになっちゃうんだけど、
そうではないんですよ。
発想が違うと思うんですよね。
つまり、
バウンダリーっていう言葉って、
自打協会を分かる人と分からない人が、
あだかもいるような、
仮説を持っちゃってると思うんですよね。
そんな認識はないだろうから、
別にいいんですけど、
究極的にはそういうことを意味しているのは、
私は自分があるが、
ない人もいる。
で、
っていう話になってると思うんですよ。
でも僕は、
そうは思わない。
ですね。
ない人は、
あのー、
でも、
本当に扱える人はほぼいない。
し、
あのー、
誰だって、
なるときはなる。
バウンダリーが不明瞭になるときはある。
孤立と分裂の問題
ていうか、
しょっちゅうなる。
私なんかはほぼ毎日絶対なる。
で、
そのときに、
もう一つ大事なのは、
自打協会が曖昧になるのは、
悪いことなのか?
ていうことなんですよね。
赤ちゃんが、
回復回減速で生きているというのは、
当然、
じゃないですか。
それが分かんないっていう構造状態が、
要するに二次元的構造なんですけど、
つまりそれ以前があるってことなんだけど、
つまりですね、
まあ、
以前以後って言うから、
進歩してるみたいに思うんですけれども、
僕はそうは思わないんですよね。
やっぱり回復回減速というのは、
僕ら生き物にとっては、
絶対的な原則で、
何度も言いますけど、
これもね、
取り込んでるものが、
いいものだって感じないと、
生きていけないんですよ。
取り込んでるものが、
何だか分かんないですとか、
取り込んでいるものが、
嫌なものなんか、
いいものなんかの判断もつきません。
そうやっておいしいものが、
おいしく感じられないみたいな話ですから、
まずいわけですよ。
自打協会っていうのは、
だから、
贈り物されましたら嬉しい、
そしたら人に贈り物もしましょう。
これでいいはずなんですよ。
だけれども、
どうしてもそこが、
贈り物をしたら、
相手は嫌な顔をしましたってことは、
起こり得るよね。
起こり得た時には、
まあ普通に考えて、
この人は贈り物が好きじゃないんだとか、
いろいろ贈ったものが良くなかったんだって、
思うかもしれないんだけど、
この時、
回復回減速と現実減速が、
並行して走るわけですが、
これは我々にとって、
簡単なことではないはずだと思うんですね。
ここでどうしても考えるということが必要で、
考えるためにはまず、
やっぱり、
対象関係が言う通り、
不快を一旦持ちこたえる必要があると思うんですよ。
この持ちこたえがあたかもないかのように言われるのは、
私は良くないと思うんですね。
ここで心が引き受けるという、
不快感を引き受けるという、
つまりバウンダリーが曖昧になるっていうことは、
瞬時にいつでもどこでも起きうるし、
起きて不快になるっていうことも起きちゃうんだけど、
それが起きるのがおかしいんだって言い分に近いじゃないですか。
バウンダリーが曖昧になるっていうのは、
起きるのは絶対起きるんですよ、僕が思うに。
起きるのをどうやって持ちこたえるかっていう話であって、
まず不快にはなるわけですよ。
相手が不快になってんだから。
人間はやっぱり、
なんていうのかな、
そういうところで繋がってるみたいな話をすることになっていくんだけど、
この繋がりっていうのは、
良くも悪くも避けがたいっていう、
良い時だけ繋がるってわけにはいかないはずなんですよね。
だから良いことだと思うんですよね、ある意味ね。
人が不快になったら自分も不快になるというのは、
ある意味では必要なことだと思いますし、
それがないと共感とか、
ナンセンスな話になってくると思うんですよ。
良い時だけ繋がっているっていうのは、
なんかおかしな話だと思うんですよね。
自打協会が曖昧になった時に、
どうしても我々は次に、
誰が悪いのかって話になるんですよね。
つまりどっちが自打協会が曖昧にしてるのか、
みたいな話になるんだけど、
僕は自打協会が曖昧になってる時は、
曖昧なんだから自打協会が。
相互作用以外何者でもないだろうと。
つまり東映同一化でしょう。
責任を言うんだったらお互い相応のはずなんですよ。
ただ僕はここに責任を持ち出すのは、
そもそもおかしいと思うんですよね。
悪いおっぱいが出てきたのは、
母親の責任ではないんですよ。
でも赤ちゃんは泣く。
その時に母親が責任を感じちゃうみたいな罪悪感ね。
感じちゃうみたいな話になりやすいんだけど、
本当はそうじゃないんですよね。
だから泣いてる赤ちゃんが悪いのか、
それとも私の出し方が悪いのか、
みたいな話にしないってことが、
この場合、とても大事だと思うんですよね。
どっちかが無罪ってことは絶対ないはずだと思うんです。
どっちかが有罪ならばよ。
で、その、
戒不戒遠足なので、
相手が戒なら自分も戒だし、
自分が戒なら相手も戒だしっていう世界ですよね。
不戒も私狩りですよね。
分裂しているものというものを統合させるのは厄介なんだけれども、
統合させないと、
えーと、
なんていうのかな、
孤立になっていくわけですね。
で、その孤立っていうのは、
つまり、
自分は不戒になりたくないんですけど、
誰だってそうなんですけど、
そこは大事なポイントなんですが、
不戒にすることもあれば、
不戒にさせられることもありますよね。
で、これを受け入れられないんですよ、私たちは。
どこかの水準で。
幼稚園時代の思い出
つまり精神病水準では。
で、私、昔のことをよく思い出すんですけど、
幼稚園時代に、
ほぼこれで生きている先生に当たっちゃったことがあるんですね。
その先生から学んだことは非常に多いと思うんだ。
僕、その先生の時にお漏らししてるんですよ。
戒不戒遠足って怖いんですよね、やっぱりね。
その人を不戒にさせると、
大変な目に幼稚園生としては会わなければならないから。
だから、
ここであの先生のバウンダリーが、
っていう発想に僕らはなりがちなんですよね。
幼稚園生無力だから。
でもよくですね、
ここで頑張って頑張って考えてみると、
頑張って頑張ってあの時考えたんですよ。
孤立しているのはこの先生であって、
この先生を孤立させないように、
本来できれば理想的だってことを考えたことがあるんですよ。
幼稚園の5歳、6歳か、
その辺だと思ってお漏らししてるんで、
その辺の年齢だと思うんですよね。
で、僕4歳の時お漏らししたことはないですよ。
4歳の時の先生は、
そんなに凄い出来が良いとかじゃなかったんだけど、
後から考えると。
優しかったんで。
優しい先生にトイレ行きたいですって言えるんですよね。
で、
めちゃくちゃ怖い以外の形容は誰もしていないぐらいな、
幼稚園生の間では。
あの先生になっちゃったか、みたいな。
でもあの隣の先生の方が実はもっと怖いんだよ、みたいな。
幼稚園生の生活の知恵は、
いかに怖くない先生に当たるかが全てなんで、
自分で選べないくせにね。
だから、いかにその先生に殴られたり怒鳴られたりせずに
トイレに行きたいですと言えるかというのが、
喫緊の問題だったわけですけども。
いや、あの、さっさと言っとけよって話なんだけど、
そこが幼稚園生なんですよね。
激凛に触れるということが、
破滅だと思っちゃってるから。
自他教会はないでしょ。
これ、幼稚園生の方にないのか、
その先生の方にないのかを厳密に言うならば、
私のその当時の感覚では、
その幼稚園生の先生の方がなかったです。
ねえ、私はでもあの先生が悪かったと思ったことはないんですよ。
思えば。
一度もないんですよ。
当時からなかったんですよ。
これはしょうがないことなんだって感じがしてたんですよね。
なんかこう、当然やけしたけど、
それはそれなんですよ。
この先生が好きだったこともないですけど、
嫌いだったという記憶はあんまりないんですよね。
結構ブチマが昭和なんでね、
ブチのめされもしたし、
怒鳴られもしたし、
雨の日に幼稚園の外に放り出されるということも
再三あったんですけど、
それはみんなそういう目にあってたんで、
別に僕だけがそういう、
僕はいわゆるいい子ちゃんだったんで、
そういう目に実際にあったことはすごく少ないんですけどもね。
それはいいとして、
つまり何が言いたいかというとですね、
バウンダリーというのは、
なんて言えばいいのかな、
その人の責任ではない感じがするんですよね。
やっぱりお互いさなんですよ。
私が悪いことをしてたとかいうことではないんですよね。
つまり人がそうなってしまうというのは、
その生育歴からしても、
その時の状況からしても、
仕方がないことなんですよ。
100%だと思うんですよね。
もちろん持ちこたえることはできるし、
幼稚園の先生はできれば幼稚園生に対して
しょっちゅう腹が立つでしょうけど、
持ちこたえられる必要があると思うんですけど、
あの職業は。
無理な時は無理だよねと。
ほぼ毎日無理になっちゃうという人がそこにいるのは、
いるんだから仕方ないじゃないですか。
なんて言えばいいのかな、
教育虐待を野放しにするのか
的な話になりそうで嫌なんですよね。
この話するのがね。
でもね、
幼稚園生って自宅教会が曖昧なんで、
どうしても激霖に触れる先生の激霖を触れさせたがるんですよね。
わかります?
これはわざと怒らせてるという話ではないですよ。
やむを得ずそうなっていくんですよ。
東映ドイツカってそういうもんなんですよ。
これがオカルトにしか聞こえなくなってるなと
喋ってて思うんですけど、
だってですね、
どんな生き方をしようと、
そこがリッツカルトンのホテルじゃないんだから、
幼稚園なんだから、
不快なことはあるに決まってるじゃないですか、
お互いに。
絶対に。
暑いし、
なんか泣くし、
それ私ですらお漏らしするんだから、
お漏らしする奴はそこら中にいるわけですよ。
お漏らしも世話しなきゃなんないし、
なんで私がしなきゃなんないんだって思うでしょ。
思っちゃダメだとかは関係ないじゃないですか。
思いますよね。
そりゃ。
中にはうんこ漏らす子だっているんだから、
それは思うよね。
で、
お互いに騒がないです。
幼稚園生だって、
私例えばあの教室、
カビ臭いなここって思いましたもん。
思いますよ、幼稚園生だって。
やっぱり、
暑苦しいし、
なんかこいつら訳わかんないし、
人が噛み切ってくると、
それを、
なんか短くなった髪に限って引っ張りたがる女の子とか、
いるわけですよ。
もう、
そういう世界なんでね、幼稚園なんて。
でも、
かと思うと、
お弁当今日忘れたって言うと、
その先生はもちろんぶちまわすんですけど、
後でみんなお弁当くれるんですよ。
髪引っ張る女の子もくれるんですよ。
人間ってそういうもんだよねって思うんですよ。
回復回減速って大事なんですよ。
すごく。
で、この回復回減速を収めきれない。
我々はですね、
ヨクウスポジションのビジネスマンとかをやっちゃってるから、
回復回減速を収めるのは当たり前じゃん。
そこに見るべき良いこと何もないじゃん。
とでも思ってるらしいんだけど、
それがおかしいんですよ。
回復回減速には見るべきものはいっぱいあるんですよ。
回と不快が分けられて、
なるべくお互い回であろうとしてる。
バウンダリーとかは、
なんかですね、
バウンダリーが良い悪いとか関係ないんだよね。
やっぱりな。
その、
回復回が分かるということが大切なのであって、
確かにそういう世界に生きてると和薬茶だし、
全く生産性も進歩も何もないから、
こういう時代には厳しい感じがするんですよね。
でも回復回減速ってのは私は、
とても大事な原則だと思う。
なんだかんだ言ったって、
ヨッシャンはそれで運営されてるわけですからね。
ほとんど回復回減速で生きてるような、
力の強い先生と、
それ以外の子供たちとね、
あの時30人くらい人クラスいたような気がするんでね。
やってたんだから、
かなりそれでやれるんですよ。
もちろん、
抑鬱ポジションにいる人はいっぱいいますし、
その先生たち抑鬱ポジションに、
だって僕だって抑鬱ポジションにはいたんですからね、
通常はね。
で、
だからつまり、
本来そこに責任論を持ち込むことがナンセンスだということです。
だってお漏らししたら破滅するわけじゃないんだから。
してはいけないことなんてある意味誰もしてないんですから。
気に入らないことがあったら喚くし叫ぶんですよ。
それでいいんですよ、別に。
嫌なことがあれば嫌な気持ちになるし、
いいことがあればいい気分になるし、
いいんですよ。それでいいはずなんですよ。
お互いがそれをお互いに、
強い力度を掛け合って、
いい気分になったり悪い気分になったり、
いい気分になったら悪い気分になったり、
大きな波をこういう、
上がったり下がったり上がったり下がったりして、
そうやってやっていて、
何にもおかしなことは起きているのかもしれませんが、
結果としては1年経って、
その先生もみんな泣いて、
本当に楽しかったよみたいなことを言っていて、
いいと思うんですよ、僕はそれで。
僕はちょっと聞いてましたけれども、
そういう奴もいるんですよ、つまり。
そういう奴がいちゃいけないってこともないと思うんですよね。
俺はここからいなくなれてラッキーだわみたいに
思ってましたけど、間違いなく当時。
でもその先生が、
なんかこう、
悪い奴だとかって思ったことはないんですよね。
やっぱり孤立させてはいけないっていうのは、
どっかで思ってたんで。
孤立しますもんね、やっぱりね。
バウンダリーの重要性
1人だけやたらと興奮しちゃうっていうことは
起こるわけじゃないですか、そういう人の場合。
周りの生徒はほぼただ引いてるだけなんだけど、
ひたすらヒートアップしてるみたいなことが
起きるわけじゃないですか。
でもなんかこうですね、なんつーのかな。
持ちこたえようという気がちょっとでもあれば、
人間なんとかするっていうことなんですよね。
なんかこう、回復剤原則になったから
良くないみたいなのになってしまうと、
なるものを絶対なるものなのになってはいけないと
だけ思うっていう状態って、
結局のところは失敗のできない世界を
生み出すだけなんですよ。
しかもそれを失敗とみなすんですよね。
これは失敗ではないと思うんだよな。
あれが失敗だったら漏らしした子は
失敗したってことになっちゃうんだけど、
もちろんそういうふうに
みなされる部分もあるんですけど、
私結局あれは失敗だったとは
後から考えるとは思わないんですよね。
それは極力非的客観的に見れば
勢いそうじゃないと思うんですよ。
幼稚園生を漏らすんだって
別に失敗じゃないじゃないですか。
それをちゃんとお世話できている
そこにいる、言ってみれば担任の先生ですよね。
ちゃんと仕事してるじゃないですか。
それこそ仕事じゃないですか。
なんかですね、それが
ダメなことなんだみたいになっていく
っていうことはないと思うんですよ。
不快にはなるよね、そりゃね。
だから不快になるってことは
バウンダリーがやっぱり
カウンセリングと心の図
曖昧になってるってことじゃないですか。
曖昧にならないってことは
あなたはお漏らししたから不快かもしれないけど
私は不快じゃないから
みたいな世界に生きるってことでしょ。
なんかね、そんなはずないだろう
って思いますよね。
そんなはずないですよね。
カウンセリングとは何かで
この話で結局30分言っちゃいましたね。
困ったもんですね。
カウンセリングとは何かでですね
心と世界と事故の図があるんですよ。
この図があるだけでこの本は買いだと思うんです。
175ページの図3、3回
もう4回は同じ図
再掲してると思うんですけどね。
この図がこの本の一つのポイントだなと思うんですよ。
事故、心、世界。
これベースにフロイトのあの有名な
Sと超自画と自画の図があるんですよね。
その外に世界を付け足しただけなんだ
って書いてるんだけど、そうなんだけど
横にもしてますね。
フロイトの図はだいたい縦で表現されるんだけど
上の方に自画があるんだけど
この図だと真ん中に心があって
右側に世界があって
心が世界に取り巻かれていて
背後に事故があるんですよ。
世界の反対側に事故があるんですよ。
ここの事故か事故って書かずに
肉体とSって書いてほしいなって思うんだけど
肉体記憶Sとか書いといてほしいなって思うんだけど
何か事故とかって書いてあるの。
ここが彼がユング派だって
ユング派だって言いたいのかなと思う
ユング派はセルフっていう言葉があるんでね
イーゴーではないってことですね。
何かちょっとここの事故がね
山崎さんも何でここ事故にしたの?
自他境界の重要性
とかって言ってたんですけど
そう思うよね
精神分析の人であればね
と思うんですけど
それはまあいいとして
この図のそのいいところはですね
心と世界の表面にコグニティブな介入
つまり認知良好って言ってるわけですよね
認知行動良好かな
事故は肉体も含むんで
心と事故の境界のところに
ソマティックな介入
要するに心身症がここにあるから
タッピング良好とかEMDRとか
ああいうのはここに入るって言ってるわけですよね
すごい合理的な説明だなと思うんですよ
世界に直接介入すると
ソーシャルな介入
要するに社会派ってことになりますよね
福祉的な運動も
ここに入ると思うんです
事故の身体が含むんで
心に直接介入するのは医療ですよね
要するにバイオロジカルな介入
生物学的介入ってこと
歯医者とかもそうですよね
歯に介入してる
心に直接介入するのが
サイコロジカルな介入
つまり精神分析とか心理カウンセリングが
ここなんだということなんですけど
責任と心の領域
私が要するに言いたいのはですね
ジダ教会というのはこのように最初から
曖昧だってことなんですよ
世界と心というものは接してるんだから
ここのどこに線を引くか
すごい実は
爆破によっても違うし
人間によっても違うんですよ
コグニティブな介入
つまりどこが世界の責任で
どこから心の責任なのかを
認知的に見ていきましょうね
っていうのがカウンセリングとして
あるということは認知行動療法が
今世界の主流だし日本では
圧倒的にこれが優勢ですから
これがここにある
つまりジダ教会というものに
介入するのがカウンセリングの
仕事になっているということは
いかにこのジダの教会というのは
自明ではないかということ
これが自明だというのは
やっぱり僕は
その言い分がすでに
どこかジダ教会というものに対する
誤解があると思うんですよね
私が自明だと思っているこの
自明な線こそが自明でしょうと
言っていること自体が実に
PSポジションらしい感じがするんですよね
いやあなたはそこに線を引くのが
単に会議的なだけなんじゃないのか
という問いがあるはずなんですよ
ここには
そこに線を引くのは自明ではなくて
あなたの会議不開原則
じゃないでしょうかと
あなたは今実は言っている
その言い分にはボーダーライン的な
部分があるはずだと
僕は思うんですよね
これを言うとやっぱり批判になっちゃう
これがそもそも批判になるってのはおかしいんですよ
そういう風に線を引きたくなるのは
よくわかりますしね
やっぱり線そこで引きたくなるじゃないですか
つまり俺の線が
世界の線だって言いたいっていうのは
ナルシシズムかもしれないけど
人間にとって当たり前じゃないですか
どっかそこを信じてないと
それこそ自己肯定感も
ヘッダフレンもあったもんじゃないと思うんですよね
でこの
ついでにこの
せっかく心のモデル出たんで
この話にちょっと
こっちをメインにしたかったんですよ
38分なら一気に終わりにしますけど
心と世界と事故の中で
要するに
何が今起きてるかというとですね
これは東畑さんと山崎さんのイベントで
話されてたしその通りだと思うんですけど
心の領域をうんと狭めに
かかったんですよ
それが科学的合理主義なんですよ
ある意味社会主義でもある
つまり心に責任はないって
言い出したんですね
責任があるのは世界であると
だから世界領域が広がった
ここ大事なんですよ
責任があるのが世界であるって言うと
悲しいようなんだけどそうすると
人は心の領域が狭められていくので
個人というものは実はですね
非常にないがしろにされていく
部分もあるわけですよ
共産主義とそうじゃないですか
最大多数の最大幸福だったはずだけど
ものすごく厳しい世界が
出来上がっちゃいましたよね
あれは結局心の領域を狭める
時に起きる結果なんですよ
同じことが
バイオロジカルな世界でも起きるわけですよ
心の領域が狭くなり
あなたに責任はありません
悪いのは体ですってなって
あらゆる介入が体に向かうというのは
過酷なんですよ
私その過酷にものすごいひどい目に遭ったから
よく分かるんですよ
どんなに皮膚がひどくなっても
心身症とは認めてくれない
どんどん厳しい薬を皮膚に塗りまくっていき
最後は注射を打ってくる
つまりゾマティックな介入というものを
どんどんどんどん広げていくということは
こういうことになるわけです
うまくいってないなら
心のどこかがおかしいんだということに
させられるわけですよ
誰かが困っているなら
セロラ世界がおかしいんだってことは
世界をどんどんどんどん介入されていくわけで
世界が作り変えられていって
なぜか強制収容所とかがいっぱいできる
収容所群島って本がありますね
同じように
体のどこかが悪いはずだってことになると
脳にレーザーを当てるとか
だんだんそういう世界が出来上がってくるわけですよ
昔ありましたよね
転換の発作を治すために
ロボトミー手術をするという
脳両を切断すると
すごい手術ですよね
脳両を切っちゃうという
右脳と左脳を切断するわけですよ
アメリカで大量に
手術は行われているんですよ
これが事故に対する介入を
ぐっと強めて
心の領域を狭めると
だけど心の領域を広げると
これが戸方さんとか山崎さんが
よく懸念されている
自己責任論になっていく
心に責任があるというのは
さっき言ったように
自我教会という問題って結局
心の領域を広く取っているわけですね
心の領域を広く取って
嫌なことがあっても
それを心に収めて
人は人
自分は自分
これは心の領域ですから
広いわけですよね
広く取っている
不愉快なことはあるだろう
それは人は人
だから嫌なことは起きるよね
その嫌なことは
あなたの心で消化しなさい
個人コンサルの進化
っていうのが心への介入なんだけど
つまり心を強めましょうって結局
ある意味言ってること
世界を変えようとするんじゃなくて
心を変えろと言ってるってことですよね
だから自己啓発の世界と
サイコロジカルな介入は似てくるんですよ
これはこの図で非常によく分かりやすくなっている
日行土両法だって
同じですよね
世界の見方を変えれば世界が変わるっていうのは
自己啓発の世界の表面を
調整しろって言ってるわけじゃないですか
心の領域を広くすると
うまくいくとですけど
世界が輝き出すんですよ
なぜかというと心をいい状態にして
そして結局のところ認知とか
視覚とか物の見え方とかも
心が多少は
左右を絶対するんで
心の状態を良くして
世界を見るって
この世界と心の表面において
心に介入した上で
世界全体が輝いて見えるわけですよ
自己啓発はここを強調するわけですね
心理学はもっと慎重だけれども
結局ここをやろうとしていることに
違いはないわけですね
いっぱい公園を作るとか
いっぱい図書館を作るとか
やって世界を輝かせてもいいんだけど
そうではなくて
自分の心のありようと
心の目を通して見る世界
この見え方の部分に
メスを入れるとうまくいくと
世界が輝いて見えますと
戸畑さんが
いるのは辛いよで
岸上二郎賞でしたっけ
撮った時に
信号を見ると
赤信号はルビーのようで
青信号は
サファイアのように見えて
そして黄色はもちろん
ダイヤモンドで
そして空は星空で
宝石で輝く
満天の空になったらしいんですね
要するに賞を取って
嬉しいって話ですよね
しかしこれは心が変われば
世界が変わるのは典型的な例ですよね
しかも信号を通して
満天の星空を
表現するあたりから
うまいと思うんですよね
売れるだけのことはあると思ったんだけど
この自己と心の境界も
そうですね身体と心の
関係も結局
僕のようにひたすら
強めのステロイド
VG軟鋼の最強のやつを
ベタベタに塗るっていう
全身に塗ってその上から包帯を巻くみたいな
そういうことをしてたんでね
させられてたというか
これはつまり体への介入ですよね
心というものの領域が
ほぼなくなっている
一時そういうのが流行ったわけですよやっぱり
で痒みを
例えば我慢するんだって心の領域に
期待してるわけじゃないですか
で私はこれは結局
心身症で
どういうものを求めているんだという風に
確信したところで治ったんですけども
これ完全に心の
領域ですよね
自己責任が増えてるわけじゃないですか結局
ただし大事なのは
自己責任が増えてる時の方が
よっぽど楽になっているということも
あるわけですよ
これが現代社会では
いろんな意味で攻めにあってるわけですね
新自由主義みたいな話になってくると
自己責任を増やすんだけど
それだとやっぱり福祉的に
自己責任を狭めると
そうすると
自己の領域の中で
心が小さく見積もられるか
大きく見積もられるかによって
本当にその差は小さいんだけど
どっち側に拡張したり
縮小したりするかっていうことを
考えただけでも
割と言うことががらっと真逆になる
それによって
捉える心の狭さや広さは
ミリ単位だと
要するに大した差はない
と思うんですけどね
でもここがすごく
お互い戦ってるわけですよね
確かにこの戦いも
この図まで
見せられると
ここで戦う意味ってほとんど
全くないような気が最近してきておりますので
3カ月チャレンジは
これについて
戦うのはやめようと思って
外に向ける看板では
心理療法とは言わず
内実は
精神力動系の
なんだろうね
ほとんどセラピーだと
言われてもいいんじゃないかな
って言っちゃってますけどね
ここではね
ここにいる人たちがみんな味方だと思ってるところは
僕のおめでたいところなんですけど
まあでもですね
だってこの図まで見てしまって
私がやってることは心得の介入であることは
100%間違いない
気がしてくるんですよ
どう考えても自己の身体に介入してない
行動療法ではない
そして世界への介入では
全くない
認知療法ですらない
そしたら残ってんのは
心への介入しか残ってないんじゃないですか
個人への介入
という言い方をしてるんですけどね
私は自我への介入をとって
個人への介入だから個人コンサル
という名前にしてるわけですけども
結局個人コンサルは
何を言いたいかというと
自他領域自他協会
自分と世界というものの領域は
ちょっちゅう揺れているんです
攻めにあっているんです
戦ってもいるんです
勢力争いもしているんです
微調整もしています
拡大鏡で見て
ライフハックがそれです
だから世界に対する働きかけの
一種だという顔をして
ノートに対して働きかけるのがライフハックじゃないですか
ものすごくミクロな世界なんですよ
でもあれは
世界に対する働きかけ
自他境界の理解
少なくとも認知に対する働きかけ
自他領域を
うんと拡大鏡で見て
いいとこ通りするんですよライフハックは
別に心に働きかけても
世界に働きかけてもいいよね
ただし働きかけられる領域を
はっきりさせようねというのが
多分ライフハックなんだと僕は思うんですね
だからやることが
やたら細かくて
効果がそんなに大きく見込めないかもしれないけど
だからものすごく繰り返しを要求するわけですよ
小さく小さく
何度も何度も
心と体
心と世界両方に小さく小さく
例えば腕立て伏せ一回とかね
これは体に働きかけてるわけですけど
少ないわけですよね
そうすることで
安全を確保しつつ
大量に繰り返すことによって
成果を長い目で見ていく
というのがライフハックの得意技だと僕は思うんですが
これは
どこに働きかけるかというと
どこでもいい
いいかどうかっていうのも
いっぱいやってみないと分かんないっていう
そういう発想を取ってるわけですね
だからあの図非常にいいんですよ
いろんなものが
うまいこと説明できる
スピリチュアルというのは心の影響を
ある意味マックスにするみたいな世界ですよね
だから世界を
一変させるほど心に
いい働きかけをするみたいなノリがあるわけですよ
ミラクルが起きれば
世界は変わるみたいな
そういう感じですよね
ライフ発の極端なバージョンといってもいい
ところがそうすると意外と体とか
世界にダイレクトに働きかけ
始めるところがまた面白いんですけどね
なんかこう
薬とか飲み出しか出ないじゃないですか
そういうところがあるわけですよね
いろんな意味で
この
バウンダリーって言葉は
考えさせられるなと思うんですけど
要は
回復界で見れば
世界と自分の領域は
大きく変わる
基本的には心拡張ですよね
回復界原則って
現実原則というのはやっぱり
世界を拡張してみていますよね
だって心で
直接できることっていうのは
ある意味極めて持ちこたえるとか
胸に納めるとか
そんなの分かりになっていくんで
人は人自分は自分っていうのだって
世界に働きかけないってことじゃないですか
どっちかといえばね
世界はあるようにしてあるんだから
コントロールしようとしない
これは当然大事な考え方です
欲打つポジションですか
大事なんだけど
私たちはそれだけで生きているわけでは
ないんですよ
だから自他教会は
時と場合その人の心理状態
相手の心理状態
そしてどのように遭遇したかによって
毎度毎度変化するものだと
自分は思いますね
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