どうしても納得がいかないな、どうしても納得がいかないんですよね。
これをやろうとしている大きな要因の一つにケンスーさんの取り組みがあって、ケンスーさんは上手くやるんですよね。
だいたい僕はこの人のことがなかなか上手くやれないので、多分やっぱりやりたくないことは基本、ケンスーさんの方がそういう風に強くおっしゃってるんですけど、
でも僕は彼は、なんか彼に限らないんですけど、ライフハックとかそういう工夫できる人はやれちゃうんですよね。
結構ね、僕やれないんだなっていう、甘えてるって言えばそういうことになるんですけどね。
で、やろうとは思ってるんですよ。でもね、相当やろうと思ってる。だってやる直前のところまでさっき言ったんで。
顔が嫌とかじゃなくて、もうちょっとなんか動画をやるならせめて違う何かが欲しいと思ってるっていうね、そういうことでしかないんですけどね。
どうしよっかな。まあいいや、とりあえずちょっと考えます。
でね、今ケンスーさんのお話が出たので、せっかくなんでちょっとこの話、この話じゃなくてケンスーのさっき聞いてて思ったことなんですけど、
自他教会っていうことを彼がおっしゃっていて、自他教会、バウンダリーとか最近よく言われてますよね。
僕昔から思うことがあるんですけど、私の話は難しいって言われるんだけど、そうではなくてですね、
なぜ皆さん、皆さんというか世の中的にこれで納得されるのかがわかんないってのがあるんですね。
いや、ケンスーさんのおっしゃってことは実にもっともなんだけど、僕が言いたいのはケンスーさんが言ってる話云々ではなくて、
この自他教会というよくわからない言葉を、なんつーんだろう、わかったものとして使われたりするじゃないですか。
で、それがうまくいくんですよね。僕は自他教会の意味がわからないんですよ。
わかんなくないですか、自他教会って。自他の教会ってどこに先引きます?
秘符ですかね。僕こういうふうに考えちゃうんですよ、まず。秘符なのか?本当に秘符か?みたいな。
秘符だったら、いや、秘符だったら自他教会で悩む人っていなくないかなって。
悩んでる人には秘符が融合して見えてはいないだろうな、おそらくと。そういうことではないよね。
結局自他教会って言ってるときは真理の話してるんだけど、どこに教会引くってめちゃ難しくないでしょうかって思うんですよね。
僕はどうも世の中で言われる自己肯定観とか自信ではいけないのかって思うんですよね。
自信ならわかるじゃないですか。自己肯定観というのはなんで自己肯定観と言わねばならないのかと。
で、これが自己効力観とか言い出すんですよね。自己肯定観よりも大事なのは自己効力観だみたいな。
自己効力観って何ですかって感じがして、フィードバックの話とかになっていくんですよね。
なんか壁を押すと反作用の力で跳ね返ってくる。
なんていうのかな、やっただけのことはあるみたいな話ですよね。
勉強をしたら、英語の勉強をしたら喋れるようになってアメリカ人に通じたら自己効力感が上がるみたいな。
でもそれは英語のスキルにおける自己効力観であって、自分に自信がつくとかいう話になるだろうか、それでって。
僕はなんないんですよ、そんなことでは。
いや、確かにマリオカートとか毎日やってれば1位になれるから。
いや、自己効力感上がるよねって。いや、上がらないよね。
それはマリオカートが上手くなったって普通は考えません。
私は上がらないんですよ、そんなことで自己効力観とか自己肯定観とか。
心理的安全性とか言うんだけど。
いや、それなんか納得されるのが早いっていうか。
あと、心理的安全性は安全ではいけないのかって、すぐまた考え始めるわけですよ。
例えばだから、つまり、なんかある100日チャレンジとかでもいいんですけど、
私が100日チャレンジでコメントとか出すじゃないですか。
そうすると何捧げてんだみたいな、なんか冷たいとかボコボコに叩かれると安全じゃないとか思って引きこもるって話でしょ。
だからみんながいいねをいっぱい付けてくれて、認定トレーナーさんに突然ここで出すとびっくりされるかもなんだけど、
水溜りさんって方がいらっしゃってて、もうバンバンコメント付けてくれて、
いつ寝てるんだろうぐらいな心配になる認定さんがいらっしゃっていて、
しかも非常に肯定的なコメントがガンガン付けられる。
あれは一種の、天才的は言い過ぎかもしれないけど、かなりの能力だなって。
能力っていうか、いろいろあるわけですね。
僕にできないことができるわけですよ。
自分にできないことができる人はだいたいすごいと思ってしまうのが人間の悪い癖だと思うんだけど。
とにかく、僕は付けててもだんだん、なんていうのかな、
僕の場合、やっぱり簡単には肯定的なコメントを興奮して付けるとかいうタッチではないですね。
肯定的な気持ちにはなるんだけど、コメントをどんどん付けていくっていうことをやっていくと、
なんていうのかな、コメントをいっぱい付けてるな自分みたいになるんですね。
そこに肯定とか否定とかはないんだけど、なんかこう、不思議な気持ちになってきて、手が止まるんですよ。
あのね、さくらもんごさんがよく書いてましたね。
自分は手が止まってぼーっとしてると怒られると。
なんでぼーっとしてはいけないんだろう。私ぼーっとするのが好きだみたいな。
ぼーっとしながらコジコジみたいなのを考えて、コジコジって漫画が結構流行ってるんですけど、意味不明な漫画なんですよね。
あれすごい意味深で面白い漫画なんだけど、あんまり売れてないんですけど、
ぜひアニメも出てきます。コジコジ。だけど、かなりシュールな感じがしますね。
上手く書くんですよね、ああいうの。
だいぶぼーっとしてる時に出てくるんですよね。よくわかる気がするんですよ。
私も手が止まってぼーっとしちゃうんですよね。
なんでここで手が止まらないんだろうって不思議に思うんですけど、
何の話をしてるかというと、
心理的安全性の、100日チャレンジの心理的安全性って言われるのは、おっしゃっていただくのは大変素晴らしいし、
さすがJさんとかさすが菅原さんとか思ってるんだけど、つまり僕がやってもそうはなんないってことなんですけどね。
いやでも安全で良くないかっていうのと、しかし心理的にどれほど安全性が高い空間であろうとも、
明日もそうだとは限らなくないでしょうかっていう。
いや別に100チャレを皮肉ってるわけじゃなくて、どんなコミュニティでも同じじゃないかと思うんですよ。
だっていきなり僕とかがやや発狂気味になって、みんなのことを超ディスり始めたりするかもしれないじゃないですか。
わかんなくないですか、そんなこと。
絶対そうはならないという故障が、なぜそこに発生したことになり、
ここは心理的安全性の高い空間だとかいうことに、どういう根拠でそうなったのかというふうに私は思うんですよね。
だからどうしても心理的安全性という言葉は、極めて表面的な現象について指している言葉であって、
意味はほとんど感じられないんですよ、私には。
だからどうしてもそこに、心理的安全性とはなぜそこにあると人は見なし、
なぜそこにあると見なす心理がそこに発生し、
それは無意識とか全意識の中でどういう位置づけになっているのかということが明らかにならない間は、
全然納得できないんですよね。
なので難しく話がなるのではなくてですね、
僕にはむしろ自他教会とかの話の方がよく難しく聞こえるってことなんですね。
これが言いたかったんです。
僕には自己肯定感とか自己効力感とか、心理的安全性とか、自他教会、長いじゃんって言葉が多々。
あんまり聞き慣れないバウンダリーとかね、全然わからんって正直思っているわけですよ。
ケンスーさんの話を、彼は話うまいんでね、聞いているうちに、
そうか自他教会というのは、貝深い原則の話をしているんだということがわかったんですよ。
だからちょっとだけ今日この話します。
これメインテーマじゃないんだけど、つまり自他教会というのは、
ケンスーさんは贈り物の話をしてるんですよね。
贈り物をあげると、もらうと私は嬉しいから人にあげるっていうのはビジネスパーソンとしては特策ではないと。
彼はビジネスパーソン向けに発信されてますからね。
なぜならば、自分がされて嬉しいからって人がされて嬉しいとは限んないじゃん。
これが一致していると思ってしまうのが自他教会のわかってなさだっていう。
そういうことなのねと。
これは貝深い原則ですよ。この番組で言うところの。
つまり自己対象、いい自己対象といい母親対象がセットになる。
もうちょっと言うと内的対象なんで、いいおっぱいをもぐもぐしている赤ちゃんは私いい状態みたいになって、
これ自他教会がはっきりしないっていう説明は、なるほどねと思うんですよ。
だけどそれは、私の場合は対象関係に直して初めて納得がいって、理解ができました。
だから自分としてはね、私としてはですよ、この説明の方がわかりやすいし簡単なんですよ。
なんで私の方が難しいって言われてるのかが私にはよくわかってないですね。
つまり対象関係論の考え方にいいおっぱい悪いおっぱいってよく言ってるけど、
あれはいいおっぱいといい私の、いいおっぱいといい私。
だからいい自己対象って言うんですけどね。
いいおっぱいといい私。悪いおっぱいと嫌な気分の私。不快な私。
だからいいおっぱいと快適な私。悪いおっぱいと不快な私。
悪いおっぱいっていうのはあれですよ。出ないとかそういうこともそうなんだけど、
そういうことよりも、例えばおっぱいがないとか、それを悪いおっぱいがあると勘違いしちゃうのは、
余計な説明をするからいけない。
例えば美味しくないミルクを哺乳瓶で飲まされるのも悪いおっぱいなんですよ。
で、それを飲んでると自分嫌な気持ちになるから、
だけど自分という概念を持ってない赤ちゃんは、ここに自己対象という概念はないわけですね。
だから何が言いたいかっていうと、いい私と悪い私は別人だと思ってるってことなんですよ、赤ちゃんは。
でもそういうことって僕らも往々にしてあるわけですよ。
良い自分の時と悪い自分の、つまり快適な時はすごい良い気分なんだけど、不快になるとものすごい気分が悪くなってしまって、
これがカウンセリングに出るわけですよ。
良い佐々木と一緒にいる時の良い自分と、悪い佐々木と一緒に話してる時の悪い私は、
まるで別人のように別々なので統合しきれないということになるわけですね。
そうすると悪い佐々木とのセッションが発生する可能性があるこのセッションは、
全体的には悪いことなので捨てようってことになるわけじゃないですか。
そうすると、しかし良い佐々木も一緒に捨ててしまうみたいなことが起きて、
カウンセリングをやめてしまうと、いいとこ取りができなくなるという。
これが自田協会のバウンダリーの難しさだと思うんですよね。
健須さんがおっしゃっていたのは贈り物だから、贈り物をされても。
つまり贈り物をする私はいい私なんですよ。
で、贈り物をされる私もいい私なんですよ。
だからいいじゃんと。贈り物をしようよと。
そうすればみんながウインウインになれるでしょうと思って贈り物をしたら、
相手は嫌な気分になると。
この時何が起きるかというと、相手が贈り物をしたのに嫌な気分になる。
悪いおっぱいが現れるわけね。
つまり精神病水準では。
で、私、昔のことをよく思い出すんですけど、
幼稚園時代に、
ほぼこれで生きている先生に当たっちゃったことがあるんですね。
その先生から学んだことは非常に多いと思うんだ。
僕、その先生の時にお漏らししてるんですよ。
戒不戒遠足って怖いんですよね、やっぱりね。
その人を不戒にさせると、
大変な目に幼稚園生としては会わなければならないから。
だから、
ここであの先生のバウンダリーが、
っていう発想に僕らはなりがちなんですよね。
幼稚園生無力だから。
でもよくですね、
ここで頑張って頑張って考えてみると、
頑張って頑張ってあの時考えたんですよ。
孤立しているのはこの先生であって、
この先生を孤立させないように、
本来できれば理想的だってことを考えたことがあるんですよ。
幼稚園の5歳、6歳か、
その辺だと思ってお漏らししてるんで、
その辺の年齢だと思うんですよね。
で、僕4歳の時お漏らししたことはないですよ。
4歳の時の先生は、
そんなに凄い出来が良いとかじゃなかったんだけど、
後から考えると。
優しかったんで。
優しい先生にトイレ行きたいですって言えるんですよね。
で、
めちゃくちゃ怖い以外の形容は誰もしていないぐらいな、
幼稚園生の間では。
あの先生になっちゃったか、みたいな。
でもあの隣の先生の方が実はもっと怖いんだよ、みたいな。
幼稚園生の生活の知恵は、
いかに怖くない先生に当たるかが全てなんで、
自分で選べないくせにね。
だから、いかにその先生に殴られたり怒鳴られたりせずに
トイレに行きたいですと言えるかというのが、
喫緊の問題だったわけですけども。
いや、あの、さっさと言っとけよって話なんだけど、
そこが幼稚園生なんですよね。
激凛に触れるということが、
破滅だと思っちゃってるから。
自他教会はないでしょ。
これ、幼稚園生の方にないのか、
その先生の方にないのかを厳密に言うならば、
私のその当時の感覚では、
その幼稚園生の先生の方がなかったです。
ねえ、私はでもあの先生が悪かったと思ったことはないんですよ。
思えば。
一度もないんですよ。
当時からなかったんですよ。
これはしょうがないことなんだって感じがしてたんですよね。
なんかこう、当然やけしたけど、
それはそれなんですよ。
この先生が好きだったこともないですけど、
嫌いだったという記憶はあんまりないんですよね。
結構ブチマが昭和なんでね、
ブチのめされもしたし、
怒鳴られもしたし、
雨の日に幼稚園の外に放り出されるということも
再三あったんですけど、
それはみんなそういう目にあってたんで、
別に僕だけがそういう、
僕はいわゆるいい子ちゃんだったんで、
そういう目に実際にあったことはすごく少ないんですけどもね。
それはいいとして、
つまり何が言いたいかというとですね、
バウンダリーというのは、
なんて言えばいいのかな、
その人の責任ではない感じがするんですよね。
やっぱりお互いさなんですよ。
私が悪いことをしてたとかいうことではないんですよね。
つまり人がそうなってしまうというのは、
その生育歴からしても、
その時の状況からしても、
仕方がないことなんですよ。
100%だと思うんですよね。
もちろん持ちこたえることはできるし、
幼稚園の先生はできれば幼稚園生に対して
しょっちゅう腹が立つでしょうけど、
持ちこたえられる必要があると思うんですけど、
あの職業は。
無理な時は無理だよねと。
ほぼ毎日無理になっちゃうという人がそこにいるのは、
いるんだから仕方ないじゃないですか。
なんて言えばいいのかな、
教育虐待を野放しにするのか
的な話になりそうで嫌なんですよね。
この話するのがね。
でもね、
幼稚園生って自宅教会が曖昧なんで、
どうしても激霖に触れる先生の激霖を触れさせたがるんですよね。
わかります?
これはわざと怒らせてるという話ではないですよ。
やむを得ずそうなっていくんですよ。
東映ドイツカってそういうもんなんですよ。
これがオカルトにしか聞こえなくなってるなと
喋ってて思うんですけど、
だってですね、
どんな生き方をしようと、
そこがリッツカルトンのホテルじゃないんだから、
幼稚園なんだから、
不快なことはあるに決まってるじゃないですか、
お互いに。
絶対に。
暑いし、
なんか泣くし、
それ私ですらお漏らしするんだから、
お漏らしする奴はそこら中にいるわけですよ。
お漏らしも世話しなきゃなんないし、
なんで私がしなきゃなんないんだって思うでしょ。
思っちゃダメだとかは関係ないじゃないですか。
思いますよね。
そりゃ。
中にはうんこ漏らす子だっているんだから、
それは思うよね。
で、
お互いに騒がないです。
幼稚園生だって、
私例えばあの教室、
カビ臭いなここって思いましたもん。
思いますよ、幼稚園生だって。
やっぱり、
暑苦しいし、
なんかこいつら訳わかんないし、
人が噛み切ってくると、
それを、
なんか短くなった髪に限って引っ張りたがる女の子とか、
いるわけですよ。
もう、
そういう世界なんでね、幼稚園なんて。
でも、
かと思うと、
お弁当今日忘れたって言うと、
その先生はもちろんぶちまわすんですけど、
後でみんなお弁当くれるんですよ。
髪引っ張る女の子もくれるんですよ。
人間ってそういうもんだよねって思うんですよ。
回復回減速って大事なんですよ。
すごく。
で、この回復回減速を収めきれない。
我々はですね、
ヨクウスポジションのビジネスマンとかをやっちゃってるから、
回復回減速を収めるのは当たり前じゃん。
そこに見るべき良いこと何もないじゃん。
とでも思ってるらしいんだけど、
それがおかしいんですよ。
回復回減速には見るべきものはいっぱいあるんですよ。
回と不快が分けられて、
なるべくお互い回であろうとしてる。
バウンダリーとかは、
なんかですね、
バウンダリーが良い悪いとか関係ないんだよね。
やっぱりな。
その、
回復回が分かるということが大切なのであって、
確かにそういう世界に生きてると和薬茶だし、
全く生産性も進歩も何もないから、
こういう時代には厳しい感じがするんですよね。
でも回復回減速ってのは私は、
とても大事な原則だと思う。
なんだかんだ言ったって、
ヨッシャンはそれで運営されてるわけですからね。
ほとんど回復回減速で生きてるような、
力の強い先生と、
それ以外の子供たちとね、
あの時30人くらい人クラスいたような気がするんでね。
やってたんだから、
かなりそれでやれるんですよ。
もちろん、
抑鬱ポジションにいる人はいっぱいいますし、
その先生たち抑鬱ポジションに、
だって僕だって抑鬱ポジションにはいたんですからね、
通常はね。
で、
だからつまり、
本来そこに責任論を持ち込むことがナンセンスだということです。
だってお漏らししたら破滅するわけじゃないんだから。
してはいけないことなんてある意味誰もしてないんですから。
気に入らないことがあったら喚くし叫ぶんですよ。
それでいいんですよ、別に。
嫌なことがあれば嫌な気持ちになるし、
いいことがあればいい気分になるし、
いいんですよ。それでいいはずなんですよ。
お互いがそれをお互いに、
強い力度を掛け合って、
いい気分になったり悪い気分になったり、
いい気分になったら悪い気分になったり、
大きな波をこういう、
上がったり下がったり上がったり下がったりして、
そうやってやっていて、
何にもおかしなことは起きているのかもしれませんが、
結果としては1年経って、
その先生もみんな泣いて、
本当に楽しかったよみたいなことを言っていて、
いいと思うんですよ、僕はそれで。
僕はちょっと聞いてましたけれども、
そういう奴もいるんですよ、つまり。
そういう奴がいちゃいけないってこともないと思うんですよね。
俺はここからいなくなれてラッキーだわみたいに
思ってましたけど、間違いなく当時。
でもその先生が、
なんかこう、
悪い奴だとかって思ったことはないんですよね。
やっぱり孤立させてはいけないっていうのは、
どっかで思ってたんで。
孤立しますもんね、やっぱりね。