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2022-08-03 34:30

【644GMV】やらかして落ち込むのも悪くない

コミットとデタッチ
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おはようございます、グッドモーニングボイスです。 最近ですね、J松崎さんという方と100日チャレンジというのをやっていて、
今もう募集締め切っちゃっておりますので、 CMにはならないんですけどね。
タスクシュートクラウドを使っている方は、今回第1回はどなたでもご参加できるようにしました。
おかげさまでですね、400名もの方に参加いただいて、連日私とJさんとコメントに追われて嬉しい悲鳴ってやつなんですけどね。
これだけ反応がよろしかったので、第2期もやろうというふうに、昨日Jさんと拡作しておりましたけど、
そうは言っても、 まず第1期が終わっていないのでまだ100日ですからね。
平行してやるにはまだちょっと、さすがにマンパワーが圧倒的に不足していて、 しかもJさん日本にいらっしゃらないからね。大変なので、
まず第1期終わるまでどういうふうに回っていくかを、かっちりまとめてから第2期を始めようという話になっております。
で、まあわかんないですけどね、先のことなので。 でも第2回はやると思うんですよ。そこらへんは確実かなと思っています。
そしてですね、このコメントなんだけど、コメントをつけているうちに様々なことを思い出すようになったんですよね。
で、私のことなんで思い出していることがウィニコットとかになっちゃうんですけど、なんでここでウィニコットなんですけど、
この番組、何回か聞かれている方にはもうそれほど不思議じゃないですよね。
どういう繋がりなのかわけわかんないかもしれないけど、こいつの頭だとそうなるだろうなぐらいな感じはあると思うんですよ。
そのウィニコットなんですけど、つまりコメントを出すっていうのはニーズなんですよ。ニーズをこちらから提供しているわけですね。
つまり環境としての母親なんですよ。コメントに対する何かっていうのを僕は受け取るわけですよね。でもそれはわかんないわけです。
本当のところ、どんなコメントが最高に適切なのか、もしかすると最悪に不適切なコメントが出ちゃうかもしれないですよ。
これが大事なんですね。今まで私はやっぱりどうしても、
えおはしさんとそれこそタスクシュートの仕事、タスク管理系の仕事、タスクカフェとかもやってましたけど、とにかく正しいコメントを出そうということに
急々としていたと言いますか、そういう感じだったんです。私の性格から言って当然なわけですね。
とにかく自分は見抜こうとしちゃうわけですよ。昔ドイタケオさんがですね、誰かに言ったみたいなですね、
その精神分析のトレーニング受けてる人に、分かろうとしちゃダメなんだよみたいなことを何度も言ったって言うんですよ。
分からなくていいんだから。あれがね、分かりにくいんですよ。 カウンセリングじゃないけれど、それっぽいことをやってると、どうしても相手のことを分かろうとしちゃうんですよね。
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なんか共感とか傾聴って言うじゃないですか。傾聴ってのは、体自身も分かるためにやってるわけじゃないんだけど、話を一生懸命聞いて、
そうかそうかなるほど、だからこうこうこうなんだから、この人に足りないのはこれだからこう言おうっていう話にしちゃいたくなるんですよね。
世の中一般に言う人生相談そのものになっちゃうわけですよ。多分これではダメなんだと思うんですよね。
これでいいならば、こうしなさいって書いてあると思うんですよ。ほとんどのカウンセリングの技法系の本読めば。
こうしなさいと書いてあるのは一冊もないような気がするんですよ。これまで読んだ中で。そういうことはこうしちゃダメなんですよね。
戸畑さんはすごい分かりやすくその辺書いていて、こんな時にはどう言ったらいいでしょうっていうのを聞かれるんだけど、それに対する答えはないみたいな話をしてますが、
これをみんなやっぱり求めちゃうわけですよね。最初のうちは特に。こう言われたらどう言えばいいか、そういうなんかこう問答集みたいなものが欲しくなるわけですよ。
そういうのが役に立つはずがないんだけど、そうは思えないんですよね。そういうものほど役に立つような気がしてしまうから。
つまり正しい答えを言いたくなっているわけですよね。で、一番嫌なのは相手に向かって喋った言葉で相手がすごく不快になって、
傷ついたとか、かえって迷惑だったとか、もうあんたのことはいいとか言われるのが嫌なんだけど、これがやっぱり必要なんですよね。
で、ここまで行かなくてもいいんだけど、不適切なコメントっていうのは絶対あるし、
会っていけなくはないし、むしろ会った方がいいっていう部分があるんですね。
そのことをですね、私は実はタスク集とのこのやり取りの中で学んできたんですよ、だんだん。
どうしても出ちゃうなと。最初はもう極力少なくしようとするんだけど、やっぱり出ちゃうなと。僕は迂闊なんだなみたいに思ったんだけど、そうじゃないんだということを
なんとなく、倉園さんのお話を伺ううちに分かってきたんですよ。
自分が受けてみるって大事なんですよね。自分が受けてみるって本当に大事です。私は倉園さんのセッションを何回か受けさせてもらっていて、
無料で質問を含めると相当な数になるんだけど、やっぱり全部が全部バチバチって当たるっていうわけではなくても大事なんですよね。
このズレっていうのは受けてみて分かるんですよ。この、いやそうでもないなみたいなのが大事なんですよ。
で、このことと並行してですけど、ウィニコットの話を読んでいて、そうかなるほどなと思うようになったのが、まずこれがないとダメなんですよね。
これがないとダメって話はこの番組でも何度かしましたが、母親が幼児の
ニードに100%パーフェクトに答えて、これは現実的には不可能だから、ここがポイントですよね。現実的にはまず不可能。
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100%パーフェクトに答えるということはそもそもおかしい。生身の人間なんだから、赤ちゃんただ泣いてるばっかりなんだから、
おっぱい飲みたいところで寝かしつけをし、暑いと言ってるのにおっぱい飲ませってことが絶対起きるはずなんですよ。
で、いやいや、ノウハウをわかってAIとかにすれば、そんなダメな生身の人間じゃなくて、パーフェクトな答えを出せるでしょっていうのもあるかもしれないですよね。
一歩間違えて育児症ってそれに近かった時代あったんですけどね。こういうトーンで泣いてるときはこういうことを要求してますみたいな、犬の気持ちみたいな本でやりそうな話ですよね。
あれがいかにダメかという話なんですよ。 まずこれだと、ウィニコットが言うところのいわゆる万能感なんですけど、
赤ちゃんは言ってみれば、自分と母親は一体だっていう意識の中で生きていて、そこから一歩も抜け出せなくなるわけです。
あまりにも親が先回りする子供の状態っていうものを想像してみるとちょっとわかりやすいと思うんですよ。
あらゆる望みが先行先行先行で叶えられていったら、その子っていうのは、これもありえないですけど、自分の願望を持てなくなりますよ。
普通に考えて、ある種の人ってちょっとそういうところがあるじゃないですか、この人は何を一体望んでいるんだろうというぐらい、自分の望みが奥深くに隠れてしまっていて、全然それが表示されてこないという。
つまり、コメントが常に正しいっていうのは何の意味もない感じがするんですよね、ある意味では。
コメントがずれるんですけれども、例えば先日も言いましたが、ノープランっていうのを僕がある意味無駄に言い過ぎて、それに対してカチンと来た人がいた。
ああいうのはない方がいいって思われているんですけど、確かに一面ない方がいいんでしょうけど、やっぱりああいうのがあった方がいいんですよ、お互いのために。
まず僕のためには絶対になるんですね。それによって一段と考えることになります。
一段と考えるというよりも、なお遥かに良いのは、間違ったコメントを出すという時のあの感覚というのをまず僕が学べるんですね。
良い気持ちにはなれないんですよ。しょっちゅうですね、ドイさんとか、それこそこの番組でも何度かお話しているカウンセラーさんたちはみんなですね、
ウェニコットが言うところのやらかしを絶対やるんですね。
打ちひしがれてるんですよ、なんか知らないけど。そう書く人結構います。このコメントが全く適切でなかったことに自分は打ちひしがれたと。
だってウェニコットとか絶対読んでるはずだから、そんなに落ち込まなくていいこともわかってるんだけど、落ち込んじゃうわけですよね。
ここに劇場があるんですよね。カウンセリングというのは劇場なので、その人は打ちひしがれてもいいんだと思って打ちひしがれたじゃ劇にならないじゃないですか。
やっぱり心の底から、ああダメだ、やってしまったって思わないと。田畑さんそのことを最近のやつで2冊で連続で書きましたよ。
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何でも見つかる夜に心だけがってやつと、その辺の本で2冊で連発して書いてますよね。あれどんなに大事なことかってことなんですよね。
やっちまったみたいなことを書いてたんですよ。女の人がすごい怒り出すシーンで。この話も何度かしてますね、この番組で。
あれ非常に大事ですよね。あれがなければ多分、あのカウンセリングは絶対あそこまで行かなかったような気がする。
ってことを多分、田畑さんも意識されてるから、あのまんまのことが起きたわけじゃないんだと思うんですけど、ああいうことがあって、あれは多分中でも非常に大事な事例だったから、
わざわざ2回載せて、しかもかなりクライマックスシーンをはっきり見せるように書かれているじゃないですか。
読まれるとわかると思うんですけど、そういう感じなんですよ。本当に相手が怒り出して、あ、やっちまったって、田畑さんがすごい落ち込んでる様子が書かれるんですよ。
私なんかは読んでて、いやいや、田畑さん別にそんな悪くないじゃんって思うんだけど、あそこですっごい落ち込んじゃうというのはやっぱり本人の中ではすごいやらかした感じがある。
で、このやらかしは演技であっても何にもならないと思うんですよね。ああ、やっちまったっていう様子を例えば見ることで、クライアントさんの気持ちは大きく動くと思うんですよ。
あの赤ちゃんがですね、これ予朮ポジションの話に繋がっていくと思うんですけど、赤ちゃんがうわーって言って、親がああ、ごめんねって言ったらすごい嬉しいじゃないですか、ある意味では。
これをやってもらったことが全くないまま、何年も過ごしてきた人がやってもらうとどんなに救われるかっていう話がここにはあると思うんですよね。
で、親に悪いことしたなっていう風に、最初私は絶対そのこと思わないと思うんですよ。でもそういう気持ちが芽生える瞬間っていうのがあって、これがメラニー・クラインっていう人が
妄想分裂ポジションから抑鬱ポジションに人が移行する瞬間みたいな言い方を、クラインは言ってないかな、そのようには。でもクラインの概念なんですよね。
そこで償いの気持ちが生まれると。つまり、後悔して親に悪いことをしたから償わなきゃっていう気持ちが生まれると。これがそのいわゆる自立への一歩に繋がるんだと。
これを演出するっていう話になったら、やっぱり本当に心の底から悪かったなぐらいに思えるようじゃないと、なかなか親は子供に対してそうは思わないですよ。
ちょっとくらい間違ったからってなんていうことはないんだけど、やっぱりたまに起こるんですよね、そういうことが。
ミードに対するニーズがかなり不適切だったと。本当に今だったら涼しくしなきゃいけないのに暖房つけたまま放置してたみたいな、死んじゃいかないからダメなんですけど、冗談ごとになんないんですけどね。
とにかくなんかあるんですよ、そういうやらかすことが。本当にごめんねって言うわけですよね、本当に悪かったと。
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相手が幼児でもそういう気持ちになる日があるんですけど、そういうのって伝わるんですよ。
これが全くない家って僕は少ないと思うんですけれども、親に本気で謝られた経験っていうのを覚えてる人って、覚えてそういう覚えはないなっていう人はいらっしゃるんじゃないかと思うんですよね。
だからこういう傷つけ合いが必要だみたいな言い方もあるんですけど、償いの気持ちみたいなものを受け止めるってことですよね。
償う方が大事っていうよりは、それを相互にやり取りするっていう、そういう瞬間があるんだと。
私たちは普通はあるんだけれども、たまに運悪く、あんまり親がそういうことにならなかったために、なかったという話になってくると、
やっぱりこう自分が価値マックスだと信じる機会が一つ減る感じがするじゃないですか、幼児からすれば。
償いがそういうふうに親の方ですごい申し訳なかったというのに対して、子供が理解を示すって話になると、ものすごく安心できると思うんですよ。
これが相互に得られる話なんですよね、多分。
これだけじゃないんですけど、とにかく不適切なニーズを提供してしまうということがどれほど大事かというのは、しばしば感じることなんですよ。
これは、ここでグッドファイブスの話になっちゃうんですけど、怖くて警戒しすぎてると、やれなくなってしまうんですよね。
お互いに適切なもの、少なくとも不適切だとは言われないもの、ここですよね。
こういうものの提供ばかりになってしまいます。つまり、偽りの自分を相互に出すだけで済ませてしまうわけですよ。
ここであれがあるんですよ。
かわいはよさんならコミットメントって言いそうですよね。
精神分析ではコミットメントとは言わないんじゃないかな。
とにかく可能性空間みたいな言い方をするんですよね。
遊べるか遊べないか。つまり、所詮他人なわけですよ。
こういう言い方は大変失礼なので、この場だけの話だという話ですけれども、でも所詮他人なのは確実ですよね。
たとえ百日チャレンジであろうと、大事なお客さんであろうと、結局他人なわけですよ。
空暮らしいというのもあれですけれども、そんなに不適切コメントを出したくなければ、手はいっぱいでもあるわけですよ。
これを言っとけば大丈夫っていうようなのを、こんな私も20年近くこういうことをやってるわけですから、少なくともこういうコメントを出すみたいなのを10年もやってるわけですから、
これ言っとけば大丈夫っていうのはあるわけですよね、当然。
で、そういうケースもあります。もちろん。ここであんまり深入りはできないなみたいなケースもある。その辺がもう塩梅なんですけど、でも言ってみれば不適切なコメントを出してしまうと。
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例えばノープランがいいですというのも、先日言いましたよね。冗談で言ってるわけじゃないんだと。つまり本気で言ってるっていうことは、本当にこれ大事だと思ってなかったらそんなこと言わないじゃないですか。
これも何度かこの番組で言ってますけれども、いやいや計画をがっちり立てて、最終的な目標にフラグを立てて、第二領域のことに邁進していって、毎日少しずつ長期計画に貢献するような行為だけを最低でも1時間、できれば2時間ずつやっていけばあなたは大きく変わるんですって言っとけばいいっていう話があるんだったら言っとけばいいじゃないですか。
僕にこれが言えないわけでは全然ないんですよ。7つの週刊のそれなりのところから引用して、774章限の勝馬さんの本から引用して、そういうことはできますよ、もちろん。そうしとけばいいじゃんって言われるかもしれない。だからここが可能性空間っていう話なんですよね、多分。
どうしたってここで十分コミットメントしていくという話になってくると、たとえ劇場であったとしても心の底から悪かったと思えるようなシチュエーションに自分を持っていくためには、やっぱりのめり込むしかないんだと思うんですよね。
だから遠畑さんだって、どいたけおさんですら打ちひしがれるわけですよ。あーって思うわけですよ。でもあーって思う必要全然ないじゃないですか。観覧用によっては。そんなクライアントさんはもう来ないでくださいって一言言ったら済んじゃうわけですよ。
だって他にもお客さんいっぱいいて、どいさんなんて絶対そうだと思うんですよね。ミニコットだって絶対そうだと思うんですよ。空に困っているわけじゃなければ特にですよね。その劇にそんなに入り込まなくたって、ここでコミットメントなんだけど、デタッチメントですよね。切り離してしまえばいい。バラバラ意識に戻っちゃえばいいわけですよ。
不適切コメントを出すのが怖いならば、ニーズというものが不適切で子供がますます泣くのが嫌ならば、そんなの私知ったことじゃないからってことにしちゃえば通るわけです。他人ならね。他人と思えなくなっている時にこれが起こるっていうことですよ。先日言った通り、他人と思えなくなるってことは家族ってことでしょ。家族じゃないのに家族ってのは、つまり疑似家族ってことですよね。
この辺が精神分析的にだんだんなっていく瞬間なんだと思うんですよ。だから私は精神分析はやれないですけれども、こういうことは知っておいて損はないというのはこういう意味で思うんですね。
で、親は子供に対してはこれできないんですね。コミットメントはもうせざるを得ないから。絶対に不適切であろうと何だろうとニーズを提供しなきゃいけない。だから親になってみるっていうのは得なんだなって私は時々思うんですね。
怖くても不安でもなんでもとにかくニーズを提供しないわけにはいかない。そうしないことが許されないですから。お医者さんもそれに近いんじゃないかと思うんですけどね。でも親は一番ですよね、どうしても。
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子供がニードを発していれば無視するってわけにはいかない。それじゃニグレフトになってしまうんで。ニグレフトも一つのニーズなんですけれども、提供しているニーズと考えることもできる気もするんですが、そういうことは置いといてですね。
コミットメントをしちゃってるわけで、これが自分の不安というものを乗り越えてニーズを出していく。結局それが不適切であるという不安を乗り越えてニーズを出していく。そうするとやがて頭でわかっているだけじゃダメなんですよね。
適切なニーズだけを提供したいという欲求がどんなに筋違いなものかというのは自分に実感としてわかってくる。嫌ですよ、打ちひしがれるんだから。でも打ちひしがれるのも彼らの仕事じゃないですか。もうあれは絶対そうだと思うんですね。ウィンコットは非常に正しかったと思うし、フロイトも結構すごいやらかしてますよね。やらかすことが大事なんですよ。やらかさないままだったら多分あの仕事は絶対に完結しないと思うんです。
私たちはそこまではない。絶対にやらかさなきゃいけないわけではないと思うんですけれども、でもやらかすことは仕事のうちなんですよ。その時には本当に落ち込んでもいいぐらいなんだと思うんですね。本当に落ち込むというのが大事なんだと思うんです。でもトウハダさんだってそうだったけど、決してやらかしてなんかいないんですよ。
あれはかなり特殊な状態をセッティングしたからあれがやらかしたようになっちゃうんであって、やっぱりそこはいわゆる劇なんですよね。あくまでも遊びなんですよ。ウィンコット風に言えばですね。遊びってそういうもんですよね。ママごとってそういうもんじゃないですか。
子供は真剣にやってすごい楽しんでるけど、それが本当の食事ではないことは子供だって知ってますよね。私たちも多分同じなんだと思うんですよ。第二領域の話をしてようとノープランだろうと、そんなことはどうでもいいんだけど、それがどうでもいいと思ってないからこの話をする意味が出てくるわけじゃないですか。
そういう意味では不適切も適切もないんだけれども、やっぱりこれを真剣にやってるから意味が出てくるわけですよ。私はそれを精神分析的な解釈の中で置き換えて、後で考えます。打ちひしがれるっていうのは起こるんですよ、私にも。
これは全く同じようなことが起きているというのを戸畑さんが本とかを読んで、なるほどなと思うわけですね。で、この恋ってやつですけれども、恋から出せないんですよね。ニーズブ恋から出せないというのは、私は子育てをやっている一つの病院まで行かないけど神経症に近いものかなと、そういうケースって起こりうるし、現に起こったような自分にもって思うんですよ。
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例えば子供への弁当を、弁当って自分への弁当とかなら用意できる人間でも、私はそういう人間なんですよ。自分への弁当なら用意できるんだけど、子供への弁当となるとすごい躊躇しちゃうところがあって、これが要するに不適切なニーズを出すことへのそこかかとない不安なんですね。こういうことっていっぱいありますよね。
急によくわからなくなってしまう。どうすればいいのか。子供の弁当を作るという話になってくると。で、この不安はありとあらゆるシーンに出てくるので、これを何とかしようというのがライフハックになってくるんだけど、僕はそれは物足りないなと思うんですよね。
そういうふうに弁当を作るなら弁当を作るライフハックで不安を解消する。次に泣き声をあやすときのライフハックはこうやって解消するというやり方って、根本的に不安が解消されていない感じがどうしても抜けないんですよ。
で、先日話に出てきた、この辺はクペラゾノさんの講習している感じになるんだけど、不安になっているのは体なんですよね。ここを我々はそう思わないじゃないですか。不安になっているのは何か心みたいな気がするんですけど、不安になっているのはやっぱり体なんですよね。
最近そのことも並行して入ってきたんですよ。不適切コメントに対する、ノープランの話でもいいですよね、に対して来た場合に反応しているなっていうのがあったんですよ。要するに打ちひしがれているやつがあったんですよ。
あれでも身体反応だっていうのを強く意識するようにして、身体反応に火に薪をくべるような、息子の子の前の薪がイリュージョンなんだけど、真似をせずにとにかく身体に向けてメッセージを発する。
怖がる必要は本来はない。こう言ったからって言って怖がらなくならないんですけれども、でも反応を起こしているのが体だということに決めてしまえば、これ以上脳内であれこれ空想することによって恐怖を続ける必要がないというメッセージを体に発すれば止まるんですよね。
2つの理由があると思います。通常身体反応は極めて不快なんで、打ちひしがれる系ですから落ち込むんで、人によって様々な反応があると思いますけど、お腹のあたりが気持ち悪いとか、あとは顔面神経なんとかみたいな感じの反応が出る時もありますよね。
顔って神経がすごく多いんで、そういう自律神経系の問題が起きた時なんか変にピクピクしたりするんですよね。僕の場合頬が引きつったり、顎のあたりの動きがおかしくなるんですよ。自律を失っている。何かが混戦しているみたいな感じなんですよね。神経系からの。
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これをまず起きた時に、身体反応だと決めちゃえばいいわけですよ。やっちまっただけならいいんですよ。そうするとまず体が怖くなるんですね。不思議なことに。でも体に責任はないじゃないですか。やっちまったのは体かもしれないけど、私ですからね。どっちかというと意識ですから。だから体の方にあんた関係ないからと言っておけばいいわけですよ。
そしてこの次をやらないことなんですよ。イリュージョンを。つまりなんで私たちがこの体の反応が起きた後にイリュージョンを使って怖くなった問題を解消できると思っちゃうかというと脳内シミュレーションを始めるんですよね。
例えばこの脳プランで言ってしまったことでJに迷惑をかけていてJ今頃怒ってるんじゃないだろうかみたいな。こういうことが体の恐怖感から脳の方にワーッと上がってくるんですよ。そしたらじゃあこういう風に彼には言っといて、こう言えばこれがイリュージョンなんですよ。
こういうふうに馬鹿げたことを頭の中で考えて、体がそれでもうまくいかなかったらどうするんだっていうようなやり取りの中で一層恐怖感を募らせていって、判断力がだんだん狂ってくるわけですよね。
この体の反応が起きている時というのは、つい最近私は日系サイエンスの本で脳が切れる時って、ちょっと違ったな。とにかく切れて、最近ラスベガスの乱射事件とかアメリカで問題になっているじゃないですか。だからああいう研究が進むんですけれども。
要は脳ではどういうことが起きているのかというと、これは全く身体反応というふうに考えて差し支えないなというぐらいのことが起こるんですね。大体脳は身体ですからね。ただ単に脳が身体だというだけじゃなくて、まさに身体反応と言っていいぐらい、
基底の方、つまり脳の方でも脊髄に近い下の方で、まずこう、これ驚きだったんですけど、扁桃体とか視覚とかが十分でないうちからかなり早い段階で、まず身体の方に心拍数を上げておけ。血糖値を高くしておけ。筋肉がすぐ発火できるように体温を少し調節しろみたいなのがどんどん命令として出ちゃうんですよね。
文字通り身体反応がどんどん起こるわけです。心拍はまず間違いなく早くなっています。私たちは嫌なメッセージとかアンケートで5段階で1とか見た瞬間に心拍も上がっちゃってるわけですよ。ひどい話ですよね。心拍全然関係ないですよね。心拍数なんか高めたところで何の役にも立たないんですけど、これに引き続いて、いつもの扁桃体の話なんですけど、大脳がですね、一斉にこれに協力体制を整えてですね、
全くある意味意味のない不適切な一連の活動を始めてしまうんですよ。まずこういう反応が身体の方から起きてるし、もう視覚処理の流れとか思考の流れとかも一切がいつもとは違って、もうこの差し迫る脅威への対処っていうのは全てになってしまうんですね。
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特に私がこれがひどいなと思ったのが、江東洋か東張洋かな、その辺の方からこの脅威を振り払った暁には膨大な報酬が来るぞっていう報酬系回路が動き出す。これがあれなんですよ。リベンジを果たした時のすごい気持ちよさ。
僕らが多分最初怖くなって、次に攻撃的な気持ちになって、そしてそこでストップするのが非常に難しくなるのは、これを果たしたらどんなに素晴らしいかっていうすごい雨ですよね。巨大なご褒美が入ってくる。
この話をサイエンスの記事で読んで、なるほどあれだなって思ったんですよね。よくあるんですよ。奥さんと喧嘩しちゃった後、これを罰してやることができたらどんなに気持ちいいだろうって思うんですよね。
それに取り憑かれると、これさえできれば他の何を失ってもいいみたいな。だからラスベガスで乱射とかしちゃうわけですよ。
本当にこう割に合わないんですよ。だってこの報酬って脳が勝手に、これ脳ってすごいなって思うんですけど、脳が勝手に報酬を用意できちゃうわけですね。
外的な事実とは何の関係もないわけです、ある意味では。外部の出来事が良くなったから報酬が来るってならわかるんだけど、外部の出来事がどうなろうと、ただリベンジさえすれば報酬が来ちゃうわけですよ。脳が作り出してるから。
あれみたいな感じですよね。経済状態がまともでなくて、ちゃんと機能してない政府が札束吸ってるみたいなもんで、もうこのお札に何の価値もなくてもいいから、とにかくじゃんじゃん札吸って、これをやりさえすればお金たっぷりあげるからっていうのにハマってるようなもんなんですよ。
それと全くほとんど変わらない自家発電的な、自家発電ってどうしてもあっち系なんですけど、でもあっち系の話とよく似てますよ、ある意味では。
結局それも不毛なわけじゃないですか。それによって何かが生み出されるわけじゃないけど、ただ報酬系が強烈に働くからそういうことをしたくなる。
これはリベンジでもなんでも同じなんですね。リベンジしても自分を取り巻く状況も環境も現実も何一つ良くならなくても、脳のくれる報酬がでかいので、それに向かって正義の刀みたいなのを振りかざしたくなるわけですよ。
お前のプランが全然わかってねえとか言って、ガーって言ってついでにJとかにいろんなメッセージ送ると気分がすっきりするみたいな。
で、事態をすごく悪化させるわけですよね。だからこのイニュージョンを要するに止めればいいんだけど、そのために一番いいのは体をまず鎮めにかかり、しかもこの不快感は全部身体の不快感だから、
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自分自身が不快になっているわけではないので、ここちょっと難しいんですけどね。でも自分自身が不快になっているわけではないので、
身体の不快感が消えれば、おそらく全然大したことだとは思えなくなる上に、処置も対応も極めて適切なものが出てくると信じて待ってればいいんですよね。
私の今回の経験ではですね、これを待って時間を測ったんですよ、やっぱり。3分経つと消えるんですよね、このやり方であれば。
もちろんこれはダイレクトに脅威が差し迫っていないという事情はあります。所詮は政治なので、見なきゃいいという部分がありますから。
例えば奥さんが、私が何か本当にやらかして奥さんが超目の前で怒っている時に、同じ方法で3分で消せるかというとそういう自信はありませんが、でも理屈は同じだと思うんですよ。
多分脳の解説は非常に理にかなっていたし、やっていることは理にかなっていませんけど、でもあれがジャングルで蜘蛛に襲われつつあるとかいう時にはあれで適切だと思うんですよね。
今の時代はやっぱり怒っていることはそういうことじゃない。あるいは群れの中で私が暮らしていて、他の群れのチンパンジーにリンゴかすめ取られたのを取り返すというのならあれでいいと思うんですよ。そういう意味じゃないから、これはですね。
だから恐怖というものの反応、不適切な行為をしてしまった時の打ちひしがれるというのはまず第一に悪いことじゃないということですね。
そして次にこれを沈めるというのは、我々は十分やろうと思えばやれるということさえわかっていればですね、要はコメントを出すのが全く恐ろしくはなくなるわけです。ある意味では不適切なコメントが出てしまったとしても、結局それは不適切ではないんですよ。
これが大事だと思うんですね。たぶん、いわゆる行事計帳ですけれども、現実に十分コミットしていて、一点したところ拒絶されるようなメッセージだったとしてもですね、だからそれが不適切ということにはならないんですよね。最終的にはそういうことにつながっていくんだろうなとは思います。
ここはやっぱりウィニコットの言うところの遊びの空間なので、コミットメントしなければどうしようもないし、ある意味何にも生まれっこないですから、コミットメントして自分としては十分こうだと言えるような、やっぱり母親と赤ん坊という関係を考えてみればいいんですよ。
お客さんが赤ちゃんだというわけじゃないんですけど、その場合、適切か不適切かだけが一番大事じゃないですか。まずはコミットメントしてニードに対して対応しようという、言ってみれば姿勢ですよね。それが一番大事だと思うんですね。
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そうすれば多くの場合、9割方は当たらずといえども尖らずというところは多分抑えられると思うんですよ。場合によっては赤ちゃんは感の居所が悪くて、ほぼ適切であっても反応は悪かったりしますよね。大泣きするとかね。
でもそれは、それが不適切な対応だったということを意味しないじゃないですか。それと同じことは起こるんですよ。そしてそれが起きることは多分いいことなんですよね。そしてその起きた時の自分をオロオロするのもいいんですよ。その上オロオロするのを鎮めるのもできるんですよね。これだけあればですね、やれると思うんですよね。
対外のことって実際のところ。その辺の話が今回の経験ですごく実感できたという収穫があったなというのと、先日読んだ戸畑さんの、先日読んだ土居さんのもそうだったし、他の精神科医の外国の方も含めて何人か読んだんですけど、みんな揃って打ちひしがれたって書いてるんですよね。
この時私は本当はこう言うべきだったのにこう言ってしまったみたいなことが書いてあるんですよ。でも、にもかかわらずそれをわざわざ書くってところがやっぱり、カウンセリングの意味ってそういうもんなんだと思いました。
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