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おはようございます、グッドモーニングボイスです。
2月24日土曜日、夜20時ちょうどです。
今日は特別編ということでお送りしたいと思うんですけれども、
本日ですね、J松崎さんと私の協調、先送り0が発売となり、
初速は大変いい感じで、皆様のおかげですね、これは本当にありがとうございます。
このぐらいの初速というのは、私はここのところほぼ全く経験していないので、
この辺は強調者の、人徳の賜物かなというふうに思うんですけれども、
相変わらず、ある意味でもなくシビアなところもある世界ですよね。
当然と言えば当然ですけれども、本というのは何と言いましても点数が多いわけでして、
その中でどの本も当然ですが、少しでも目立とうとしているその数が50万とかですね、
全部が目にするものではありませんけれども、そういう数になっているわけですね。
Amazonなんかはランキングだけ見ていると、一番最後の方は100万とかあるんだろうなって思うんで、
もちろんこの上位で少なくとも1万以内ぐらいで言っておかないと、商業出版にはなり得ない感じになっちゃうんですけど、
初速の話ね、初日2日目ではやっぱり最低でも4桁、できれば2000万台より前にいて、
できれば2桁まで行きたいと、その間なんですよね結局ね、100位から900位の間で、
少なくともある程度頑張れば、それはありとあらゆる力を尽くして頑張ればっていう意味なんですけど、
全て力っていうのとはちょっと違う気がするんですけどね、
その辺の順位に触れることぐらいはできますけれども、なかなか今日もそう見てて思いましたけど、
フラケタというのは本当すごいんだなって感じが、フラケタというのは世に100冊しかないわけですけれども、
そしてですね、もう一つすごい多く思うことがあるんですよ。
私は昔、朝霞に住んでたんですね、埼玉県朝霞市の、
お相撲さんの大英将というお相撲さんが一番強いんですけど、朝霞市では今住んでたわけですね、私。
で、四季にララポートというですね、船橋の方にあるのかな、ところがありまして、
行ってみればちょっとしたデパートなんですけどね、今四季で一番大きな丸井ですけど、
その5階に神聖堂書店があったわけですよ、レコードショップと一緒にね、
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あそこにはお金見ついた気がしますね、結構。
で、その神聖堂書店の本が並んでて、そこでナポレオンの本とか買って結構愛読していた記憶が、
今なんとなく蘇ってきたんですけれども、本に順位なんてついてなかったですよね、長らく。
全くついてなかった気がしますね。
神聖堂書店の中の売れ線1位みたいなのはもしかすると置いてあったかもしれないけど、
まあそんなんだって真面目に見た記憶が全くないですね。
だから、そしてポップみたいなものもあんま立ってなかったんですよ。
あんまりどころか全然立ってなかったような気がしますね。
まあ牧歌的でいい時代だったと思いますね。
今思えばAmazonランキングって自然と順位になるものが物についているのが当たり前みたいになってるじゃないですか。
本なんかも常識っていう感じでね。
そういうものと全く関係なく本って買うものだった気がするんですけど、
今やもう順位というものがついてるのが当たり前って感じになってるんで、
著者としてもその順位を今日みたいな日はもう一日中見てる感じに、
へばりついて見てるみたいになっちゃうんですよ。
まあそうしろって誰に言われてるわけじゃないんだけど、
まあでも大概そうすると思うんですよね。
やっぱり今時商業出版ビジネス書とかを出す人であって、
あれを頭から無視できるっていう人はよほどの売れっ子の人か、
神経が普通とは違う、いい意味でですね。
極めて独特の心理構造になってるかな、
僕はどっちかしかありえないだろうなって感じがします。
第一冊目からですね、この何とも言えない、
ある意味受験をさせられているような感覚っていうのが、
この読者さんとの関係でいうと、
あまり著者が順位をやたら気にするっていい感じはしないんだけど、
気にしたいとは全く思わなくても気になってしまうというね、
非常に、議員さんが選挙の時の心理状態って、
きっとこれをさらに過酷にしたというか、
過劣にしたものだと思いますね。
それだって結局、有権者さんの気持ちとの兼ね合いで、
考えるべきものだかもしれないけど、
やっぱりどう考えても投落のことを見ちゃいますよね。
その数字を追ってしまうと思うんですよ。
特にほら、競ってる時あるじゃないですか。
7万何千何百票、49.3%みたいな、
そういう候補者が2人いますみたいなのは、
本当気が切れなくなっちゃいますよね。
そんな感じが少々する世界なわけですね。
これは作り出された世界だなって思います。
今しゃべっててもね、
神聖堂書店に僕が小学校の頃ですけどね、
絶え間なく行っていた時期があるんですよ。
自転車で勝手に行くんですよね。
今思うとかなり危ないことをやってたんだけど、
あそこは四季に大きな立教があるんですけど、
あそこ自転車で渡るっていうのは危ない行為なんですよね。
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ガンガンやってましたね。
そうやって今夜ばっかり行っていた小学生だったわけですね。
今日はせっかく新刊が発売になりましたので、
あの本にまつわる、
そういう本の裏話とかをする点ではなくて、
あの本の中で書いていて、
大筋まずJさんが書き、
それを僕が塗りたくるように、
小手で塗るようにいろいろ施していった。
その結果、その間でですね、
編集さんとのやりとりの中で、
すごい構造をいじってみたり、
様々なことをしたんですけどね、最終的には。
まさに本作りって感じがする過程でした。
私の中ではですけどね。
人によって全然本の作り方って本当に違うんで、
著者によって全く違うんで、
私以前知ってる著者さんの中に、
DTPから作り出すみたいな、
それはもうDTPさんなんじゃないかっていう感じがするぐらい、
そういうことに長けてる人が本作ってる過程っていうのを見たことがあるんですけれども、
完全にDTP作ってるなって感じだったんですよね。
僕はああいうことは逆立ちしてもできないんで、
っていうかそのモチベーションも全然わからないし、
あれをやるとなってしまったら、
もう私にとって原稿を書くという行為の意味は、
全く変わるだろうなって感じがします。
ちなみに私はCod Editorっていうですね、
緑色のアイコンのエディターが大好きで、
ずっとそれで結局書いてます。
そこである程度書いたやつをUlyssesという、
マークダウンを扱えるソフトに移していって、
そこでDropboxなりで共有をかけて、
教授さんがいる場合、特に今回みたいな場合はですね、
その上で動かしていくというのが、
一番最近は自分のスタイルにはなっています。
僕、Scrivenerっていうのがどうもやっぱり、
何かこう性に合わなくて、
すごいなって思うんだけど何か性に合わなくて、
結局Scrivenerが定着しないんですよ。
Wordに直接というのも、
昔みたいにマシンパワーがないわけじゃないから、
Wordでも全然速度的に問題はないんですけど、
何かやっぱWordから入るっていう、
これはもう習慣の問題ですかね。
何かそういう風にならなくて、
結局Code Editorに気が付くとなっているっていう感じなんですよね。
Code Editorじゃなくても全然いいわけですよ。
いろいろありますからね。
でも何かやっぱり僕はCode Editorなんですよね。
Windowsでかの有名なHidemaruっていうのがあるじゃないですか。
僕Hidemaruもあんまり実は性にしっくり合わなくて、
何か少しずれたやつを使ってたんですけれども、
それと似た話なんですよね。
あと昔々紙コピっていうのにダイレクトでガンガン書いてた時代も、
本ですよ、ありましたね。
だからやっぱり相性っていうのと、
あとその本との関係する機能みたいなのもあります。
今やっぱりでもマークダウン形式が使えるのが便利かなとは思います。
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どうしても本の本題に入れてないですね。
本の周辺をうろうろしているような話になってます。
先送りゼロですね。
これ先日の確定申告で困ってる人へ向けてっていう珍しく、
そういうやや実務よりばっちりなタイトルだけなんだけどね。
中を聞いていただくとそうはなってないだろうって感じもしますが、
そういう話を書きましたね。
書いたんじゃなくてしゃべりましたね。
それと全く基本は今日する話は同じなんですが、
Jさんが、あれはJさんの新しい講話でタスクシュートといえども、
1日中びっしり記録に残すのではなくして、
まず3つぐらい、3つなんですよ。3つピックアップして、
それをやれたかどうかを記録に残すんだと。
なぜならばってところからあの本が始まるんだけど、
これの補足を少し、
しばらく僕はこの本についてしゃべる機会があれば、
これの僕なりの補足、補足っていうとなんか彼が
したたらずな感じがしちゃうんで、300ページもあって別に、
彼が言うべきことは全部言ってあるんですよ。
僕が考えるその方法論の中での、
必要なフォローっていうのをちょっとしゃべってみたいんですけど、
要は大事なことをピックアップするっていうのを、
どのくらい採用したらいいかってことなんですよね。
ただ3つしかピックアップしないのに、
大事なことじゃないものをピックアップしてやれるかっていう話になるじゃないですか。
ここに実は私はタスクシュートっていうものがあるんだって思うんですよね。
つまり大事なものを、というか大事なものって実はJさん書いてないんですけどね。
ここにはカラクリがあるんですが、3つだけピックアップしましょうって書いてるわけですよ。
ここには大事じゃなくてもいいっていう、そうは書いてないけれども、
私はそういうふうなニュアンスがあるなって思うんですね。
なぜかというと、大事なものを3つピックアップするという方法論は、
実は昔からあるんですよね。
なんかアイ…名前ちょっと忘れてしまったんでやめておきましょう。
6つなんですよね。6つピックアップすると。
そういう考え方があるんです。
しごとじゅつですね。大事なものを3つだけ書き出しなさいと。
なんか不合の人が教えてくれたらいい方法だみたいな、そういう話なんですけど。
コンサルが教えてくれたんだみたいなね。
私はこれは聞いた人はなるほどと納得するだろうし、
うまくいけば6つピックアップしてるうちに軌道に乗れてくるってことが起こるかもしれないって思うんですよね。
いや7つ大事なことがあったらどうするのっていう意見があるんだけど、
僕はその意見こそまさに、そういう不安を払拭するための6つなんだって思うんですよ。
で、そのありうとしての3つにも聞こえるかなと思うんだけれども、
12:05
僕はこの方法で軌道に全く乗らないという人が、
そうですね、納得した人のうちの7割前後までいくんじゃないかと思うんですね。
で、私自身はこの種の方法はもちろん試したことがあるわけですよ。
留学する前から試したことがあるし、留学中も試したことがある。
一度もうまくいかなかったんですよね。
今ならその理由がはっきりわかるんですよ。
ただこの理由がわかるようになるのには、ちょっとシュートを減る必要が僕はあったんですよ。
つまり大事なことというものはピックアップできない。
第一にまずそれがあるんですね。
なぜならばそれが大事だというのは自明なようで全然自明じゃないからですよ。
3つ大事なことをピックアップしましょうっていう話になったとき、
僕は真っ先にまず問い正したからです。
トイレどうするんですかっていうことなんですよ。
これはふざけてると思われてしまうのかもしれないけど、
多分どんな人でもどんなに大事なことがあってもトイレには行くんですよね。
これはね、深刻に今回のド半島の地震の時にトイレが何台必要か、
もっと数がないとダメじゃないかっていう話が盛んに出てるんだけど、
特に女性大変なんだからっていう話が全く私はその通りだと思うんですよね。
できないとなったらそれの大事さがどれほど切実になってくるかというのは、
シチュエーションによって大きく変わるんですよ。
やっぱりなんでトイレがここに入らないんですかって僕が言いたくなるかというとですね、
どんなに大事な仕事を抱えていても、
トイレに行きたくなったらそれを中断してトイレに行くじゃないですか。
例えばこれは調子がいいときの話をしているわけですよ。
今日お腹がめちゃくちゃ痛かったらどうするんですかっていう話あるわけですよ。
大事なことの中に病院を含めるのかどうか。
病院に行かないんだったらトイレに何回行くんですかっていう話は
僕は絶対入ってくるべきだと思うんですよね。
で、例えば途中で頭が痛くなりましたと。
そのとき昼寝をするっていうのは入れるんですか、それでも入れないんですかという話はですね、
僕は困るんじゃないかなっていうふうに。
っていうかみんな困るだろうなって。
今日は絶対確定申告するぞみたいな、
まあこの時期ですからまだこの話でもいいと思うんですけれども、
でもその前にちょっとコーヒーを入れようって人は言ったりするじゃないですか。
コーヒーは確定申告より大事なんですかっていう声も
ここで当然立つんじゃないかなって思うんですよね。
でもコーヒー入れるのは5分で済むからっていうのかもしれないけど、
その言葉を封じるかのようにJさんはですけれども
1日3つだけピックアップし各タスクについて1分着手すればいいんですなって書いてるじゃないですか。
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つまりコーヒー5分、コーヒー入れるのが5分かかるなら
先にコーヒー入れちゃダメだってことなんですよあれは。
僕はそういうふうに読めるんですよね。
なんで1分しかやらないもののために5分の休憩時間が必要なのかというと、
説明できないと僕は思うんですよね。
5分の間に3つのことを1分ずつできちゃうんですよ。
だから大事なことというものをピックアップしてしまったら、
その前に何かをやるっていうのはナンセンスな感じがしますね。
なぜならばその前に何かをやるってことはつまり、
それより大事なことがあるって言ってるようなものだと思うんですね。
ところがこの場合の大事ってのはそういう意味じゃないんだって多分おっしゃる方が多い。
でもそのようにおっしゃる方は知らず知らずのうちに
大事なことよりも前にもっと大事なことをやるという
価値判断をしているうちに夜を迎えるんですよ。
これが今のように言うとすごく変な話に聞こえるんだけれども、
現に朝1時で手がけようと思っていた〇〇に、
朝はなぜか手がけられなかったから午後1時で手がけようと思っていた〇〇に代わり、
にもかかわらず昼食後はやる気がしなくて夕方を迎えっていう話はいっぱいあるじゃないですか。
これを負のループと呼んでみたりするわけですね。
私この負のループっていうのは私が勝手に作り出したのかなと思ったんだけど、
負のループって言葉はもともとありましたけど、
この意味で作り出したのは自分勝手に作っちゃったかなと思ったんですけど、
先日日経の何かの記事で負のループっていうのがまさにこの意味で使われていたから、
これはよっぽど広範囲に皆さんが悩まれている事象の一つなんだろうということを
何となく雰囲気を感じ取ったわけです。
で、こう考えてみると、
この大事なことをやる前にもっと大事なことをやるのってのはすっごい怪しいんですよ。
これはつまりピックアップした3つは大して大事じゃないんだって言ってるようなところがあるわけですね。
大事なことを先にやるというただそれだけであるならば、
大事な3つのことをピックアップしてしまった以上は、
この前に何か言っちゃダメなんですよ。
どんなにトイレに行きたくなって、どんなにお腹が痛くても、
それをまずやるってことになってしまうんですよ。
ところがそういうことはできないって私は思うんですね。
普通はできないから。
私はさっき言いましたが、大事なことをピックアップするというのを聞いて、
ああなるほどと思った人のうちの7割くらいは、
多分その大事なことには手がけられずに終わるんではないだろうかと思うんですね。
私もそうだったんですよ。
マスクシュートというものを私がやるようになって、
これは先日も同じ話をしましたし、
しょっちゅうこのPodcastでもしてますけれども、
どうして1分も間を空けずにやったことは全部書くというふうに言うかというと、
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この先送りゼロではそうしなくていいですよって書いていますし、
そうしなくていいんですけれども、
でも私がこの1分も間を空けずにやってるというのは、
事実私はそうしているんですよ。
どうしてかというと、やったことは全部大事だからなんですね。
ピックアップすることはできないってことなんですよ。
なんで全部書いたりしなければならないのかと、
あんなにストイックなものをずらずらと並べ立てなくてもいいんではないかと、
もっと数を絞って本当に大事なことだけをっておっしゃるんだけれども、
私はそれをできないって思うんですよ。
無理だって思うんですよ、そういうやり方は。
私は今日ピックアップしている多分40前後になってるんですよね、
数減らしてますからね。
全部大事なんですよ、やったんで。
この言い方はおかしいように聞こえるかもしれませんが、
僕はタスクシュートをもう10何年も使っていて、
確信していることは事前に何が正しい大事かを見抜くことは不可能だってことです。
困難ではなく無理だと思うんですね。
これとこれとこれが大事なのは自明だっていう風に僕ら考えたがるんですが、
一度も自明ではないんですよ。
やっぱり震災とかが来れば、それが大事かどうかは変わりますし、
自分のお腹がすごく痛くなれば、それが大事かどうかも変わりますし、
他に様々な事情がある。
例えば子どもが熱を出せば、ピックアップした3つが大事かどうか変わりますし、
奥さんの調子が悪ければ、ピックアップした3つの重要なものが重要かどうかは疑わしくなります。
こうやって考えてみると、ピックアップした3つのものが大事であるということが、
間違いなく大事であると言い続けられる可能性っていうのは、
僕は10%もないんじゃないかっていう風に思うのですね。
だからそういうあやふやなものを当てにして動き出そうとしない方がいいと。
そうではなくて、やったことは大事だっていうことにしてしまえば、
やったことは大事なんだから、あとは頭の方、つまり価値観の方をチューンナップするべきなんですよ。
僕らこれを逆に従うんですね。
大事なものが3つありますと、それができないあなたの意思がいけないんですとか、
あなたのその精神構造がいけないんですとか、
大事なのはわかっているのに、その大事なことがやれないあなたの何かがいけないんですとか、
体調不良を招くのは健康に留意していないからですとか、
そうやってリストに自分を合わせよう合わせようと必死になるんですね。不思議なことに。
大事であるってことは客観的に自明だって言いたいんですよ。言いたがってしまう。
そしてそれに合わせられない自分というものに問題があるから、
この自分を大事だというふうに確定した現実にチューンナップして合わせていこうとするわけですよ。
21:05
お腹が痛くもならない自分。夫婦仲が悪くもならない自分。子供が熱を出さない自分。
そして震災にも合わない自分。だんだん無理な話をしているなって感じがしてきますよね。
私はここは逆に考えるしかないと思うんですよね。
やったことは大事だというふうに思える自分にチューンナップしていくべきなんですよ。
これからやろうとしていることが大事だということに自分をチューンナップするんじゃなくて、
自分を調節してそっちに合わせるんじゃなくて、やったことは大事でしたと。
これをやったんだからこれが大事に見えないとすると、見えるように自分を変えていったほうがまだしもいいと思うんですね。
これが受け入れるってことだと思うんですけどね。
つまり何をやったにせよ、ダラダラしちゃいましたとかいう段階で既にチューンナップがいるんですよ。
ダラダラしたんじゃなくて大事なことをしたんですよ。それが何であってもですね。
で、今日は確定申告が2月のもう24なんだけど、ほとんど手つかずだし今日もやりませんでした。
だったらそれでいいんですよ。それは大事なことじゃなかったってことですね。
このように本当に心の底から思えるように自分を変えていった方が多分、
約束的なんですけれども、明日確定申告が手がけられる可能性はぐんと高くなると思うんですね。
今日と全く同じ状態で、今日は全く手をつけられないダメな自分だったけど、
明日こそ手をつけようっていうことにしてですね。
また、明日の情勢、明日の体調、明日の人間関係、その他諸々を一切無視して、確定申告は大事だ。
2月25日なんだからって、たったそれだけをチューに浮かせて、光らせてしまって、
そういうふうに思えない自分はダメ人間だったって決めてからかかろうとすると、
2月25日にもそのダメ人間がほぼ確実に現れて、なぜか確定申告が大事な3つのことに全く手がつけられない。
1分もできないっていう事態を招きかねないと思うんですね。
だからそういうアプローチには土台無理がある。
ましてそれが6つとかになってしまったらもう絶望的な感じが私だったらします。
私は今それを時々ハマるんですよ。これは大事だなってつい思っちゃうんですね。
1個だけです、私の場合今や。
それを教授に大体しくじるんですよ。
タスクシュートでしくじるパターンって滅多にないんで、やっちゃったなって思う時は必ずこのパターンですね。
大事なことというのを先に頭で決めてしまう。
そうしてそれをやろうとする。
そしてそれができない。
このパターンしか私が最近タスクシュートでミスるってことはもうないんですよね。
ゼロにするのがこの種の話は望ましいというふうに思ってます。
これをやらなければいけないんだというふうに考えるのはゼロにした方がやっぱりいいなって考えてます。
24:05
昔は3つって話もあればせめて1つはってこともあって、
そういうことを何度も何度も何か方法ないかなと思ってやってたんですけどないんですよ。
無理だということがだんだんわかってきたんですね。
ここ4,5年で。これはここ4,5年ですね。
コロナ以後ぐらいな感じなんですよ。
確定的にわかってきた。
昔は何かまだ方法あるんじゃないかと思って模索してたんだけどないなってことがわかってきたんですよ。
Jさんはこのことを本の中で、これ強調書だからJさんは出ちゃいけないんだけど、
Jさんがまず書いた本だからJさんは洗い出すなっていうふうに書いてるわけですね。
これは結局気になること大事なことを洗い出すっていう先にそれが大事だと決めつけるっていうのを洗い出すっていうやり方で
そういう手法ももちろんあります。
手法自体を批判するつもりはないんだけれども、
ピックアップするという考え方は、
特に先に大事だと決めつけるという考え方はタスクシュートで極力排除した方が、
僕はうまくいくだろうなって思います。
先にタスクシュートといえてもデイリーリストはできちゃいます。
これはルーティンによって作られるんだけれども、
それは大事かどうかはわかんないし、やるかどうかも決まらないというふうに考えた上で、
リストを好きなように扱えばいいんです。
気に食わなければ消してしまえばいいし、
やりたくなったらまた複製でも何でもして何度も何度もやればいいんです。
時間帯とか、
昨日やったかどうかとか、
ルーティンの頻度が適切かとか、
見積り時間がどうというのはすべて2次的な話です。
2時、3時、4時ぐらいです。
一時期的には今から何をやっても構わないし、
やったことはすべて重要だし、
やったことの行為の優劣というものは一つもつかないというふうに考えておいて、
多分間違いないと思います。
このように考えることさえできればですね、
手のつけられないことなどというものはなくなります。
なぜならば、手のつけられないことはやらなくてはいいことなので、
すべてやらなければいけないことでは必ず手がつくという、
これは非常に、
そんな言い方もあるのかといった程度の話にしか聞こえないかもしれませんが、
僕はこれが事実だと今や思うんですよね。
現に僕はこのやり方だけを今、
押し進めるようにしていて、
タスクシュート市場でも、
自分市場でも、
今が一番やるべきことは基本的には進んでいるという感触を得ているからなんですよ。
これだと、
どうしても頭に思い描いたことはできなくなるし、
もともとできなかったんだけど、
27:01
そこを無理やり頑張るということをしないから、
お前それでちゃんとやるべきことをやっていると言えるのかと言われるのかもしれないんですけれども、
その証明って本来的にできないんですよ。
それをやるべきだったかどうかってなるんです。
結局は分からない。
僕がせいぜい言えるのは、
無事生きてます。
これしか証明の仕様がないからやっぱりこれを言いたくなるんですよね。
あなたがちゃんとやるべきことをやっているという証拠を見せてくださいと言われたら、
無事生きてます。
ただ生きてますというわけではないんですよ。
一応最始とも無事やってますというぐらいなんですよね。
それ以上のことを期待されても困るよっていう話でもあるんだけれども、
やっぱりこの辺は倉園さんのお話になってくるんですよね。
なりなさい自分にはなれないってことなんですよ。
他の人からすれば、
佐々木はなっとらんと、
なりなさいは他にもっといい像はいっぱいあるぞって言われるかもしれませんけれども、
こうですね、ちょっとした圧を乱れにかけただけでも、
結構崩れていくんですよ。
いとも簡単にね、
これはメダカとか飼っていると、
メダカの話僕多いですけど、
うちで飼っている唯一の動物がメダカだからなんですけど、
メダカとか飼っているとやっぱり、
ちょっと寒いところに野晒しにしてやろうとかって思わないですよ。
つまりメダカの生育環境として可能なレベルって結構広くて、
あれは日本の野生の魚だったら結構広くて、
このぐらいの寒さで外でも生きていけるんだけど、
下手すると死んじゃうんですよね。
で、暑さも今の日本はダメですね、やっぱりね。
メダカは昔は多分水温が30度を超えるというようなところでは、
滅多に生育していなかったと思うんですよ。
だから今夏の方が危険ですね。
日陰作ってやらないと死んじゃいますね。
とにかくちょっとしたことなんですよ、割と。
でもちょっとしたことさえ避けられれば結構、
1年しか本来生きられない生物なんだけど、
いやそんなことはないな。
でも1年で死ぬことはよくある生物なんだけど、
4年ぐらい生きたりするんですよ。
だからこのちょっとしたことに気をつけるっていうのは大事なんですよね。
ちょっとしたことってどういうことかというと、
なりなさい自分を下手に引き受けないってことなんですね。
そういうあなたになりなさいっていうね、
人はいろんなことを期待するじゃないですか。
さっさと確定申告1月のうちに出せよとかね、
いろんなことを期待するんです。
だからできる人はやったらいいんですよ。
でもできないなとか苦手だなと思ったら、
その頭の中ではできて当然役に立つし大事だというタスクを
優先してやろうとしないことだと思うんですよね。
でもそんなんではあの人とあの人とあの人に
嫌な顔をされたり怒られたり嫌味を言われたり
厳しい態度を取られるんだっていう、
そういう空想を抱くとは思うんですけれども、
構わないと思うんですよね。
そんなことは大したことではないと思うんですよ。
30:00
ここで多分意見分かれますけどね。
それこそが人生で一番リスキーで大事なことなんだと
思われるかもしれないですが、
私は全然同意できなくなったんですね。
そういうものにばかり僕は、
顔色をうかがうっていう表現を取りましたけど、
そういうものにばかり私はかまけていて、
ろくなことはなかった気がするんですね。
アトピーだったし、仕事は高どらないし、
その割に家庭内不安が多いし、
本も売れないし、
いいこと何もないんですよ、そんなことやってても。
ただある種の人の顔色だけは何となく
うかがいきれていたような気がするというだけで、
意味全くなかったなって思うんですね、今思う。
別に後悔してるわけじゃないんですけどね。
これも不思議なんですけどね。
だから好きなようにしたらいいって本当に思います。
好きなようにというのはつまり、
無理な圧を自分にかけないということなんですね。
好きなようにすると言っても、
どうせやることはやるんですよね。
不思議なことですけれども。
原稿を書きましたし、構成もしました。
やることはやったんですよね。
明日には100日チャレンジ。
100日チャレンジなんて、
この話も後でしようと思ったんですけど、
Jマスザキさんと、
Jマスザキさんもブログで書かれましたけども、
何となく始めたんですよ、あれは。
で、明日は第7期ですからね。
100日ずつ6期も終わったわけですよね。
しかも全部満席ですからね。
だから、なんて言えばいいんですかね。
いかにもああいうプロジェクトがやっぱりいいなと思うんですね。
何の無理も自分らにはかかってこなかったという感じがあるわけです。
これはやっぱり、
なりなさいマスザキみたいなのと
全然違うことを彼は期待されていた、
思っていたから彼も。
多分全然違うことをやっていたと思うんですよ。
そのなりなさい方式だけで言ってたら。
私もそうです。
なりなさいの牙で言ってたら、
多分全然違うことをやってます、今もね。
で、100日チャレンジなんて生まれてもいなかったと思うんですよ。
先日、タスクシュートジャーニーというので、
ゲストにお招きした井上新八さんがおっしゃってましたね。
何となく始めるんだと。
あれは私はすくすく大事だと思います。
何となくっていうのは、
無理が全くかかってないってことですよね。
いいんですよ。
今すぐやらなければいけない、
絶対やったほうがいいことなんて放っておいても、
何となくやりたいなと思うことを、
何となくやり始めるっていうのは、
それも大事だと私は思います。
井上さんは続ける志向で、
今非常にヒット飛ばしてますけれども、
何となく納豆を毎日食べるようにしてるんだとか、
そんな話だったじゃないですか。
私はああいう話の中でも、
どれ一つとして彼の真似をしちゃいけないと思うんですよ。
唯一彼の真似をしていいのは、
メタ的に何となく自分が始めたいと思うことなんですよ。
33:04
大概の人はああいうリストを見ると、
早起きだけまでしちゃいたくなるんですよね。
納豆は無視して、この話したと思いますね。
井上さんは早起きをしていると。
早起きだけはしようと。
納豆はどうでもいいやと。
そういうふうになるんですよね。
僕はそれはおかしいと思うんですよ。
納豆も早起きも彼にとっては同じなんですよ。
同じように大事であって、
同じように何となくなんですよね。
早起きだけ役に立つ、
そういうふうに客観的に決まっている価値ほど、
当てにならないものはないと思うんですね。
多分そんな価値はないんです。
この世の中には客観的に価値ある行動などというもの。
そして何となくっていうのは、
つまり分からんってことじゃないですか。
それに価値があるのかどうかは分かりませんよという。
そして井上さんは全部それだって言うんですよね。
こう、週刊課の行動の先に目標はないから、
彼はそう言ってましたよね。
ジャーニーの中でそうおっしゃってたんですよ。
週刊課の先に何もないと。
毎日納豆を食べていれば健康になれると思ってるわけじゃないと。
ただ何となく毎日食べたいんだと。
だから食べるんだと。
これは倉園圭同さんがGood Vibesでよくおっしゃっている、
その時その時で報酬はすべて回収できるっていう話と同じですよね。
納豆多分食べた時うめえと思えて、それで幸せなんですよ。
それは何日続けたかっていう話を井上さんはされるんですけれども、
私は多分それはもうおまけみたいなもんだと思うんですね。
今の時代に続けるとか週刊課っていうのはマッチするから、
そういう本が書けたというのは大変いいことだったと思うんですよね、ご本人に。
ただ私たちが考えるところはですね、
つまり何となく毎日やっとけばいいっていう話。
この何となくやるってことが今の時代なぜか難しくなりつつあるっていう話もあるんですよ。
何となくやってでどうなるのって必ず僕らそれを問いたくなるわけじゃないですか。
でどうなるのって問いたくなるのは、
これもこの番組で盛んに言ってるけど、不安がそこにあるからですよね。
この話は最近3ヶ月チャレンジでホットなんだけど、
この話をするとどうしても多分納得されてなかったんだなって思うんですよね。
ここではっきりさせておきたいんですけど、なぜ不安になるかじゃないですよ。
まず不安があるんですよ。
不安があって、そして何かを見るとその不安が強調される。
例えば不安があって閉じまりをして、そしてそこから離れると、
鍵をかけ忘れたという現実が見え始めるんですよ、頭の中で。
そうなったらもう家に戻るしかないですよね。
なぜ家に戻るのか、鍵を閉め忘れたかと不安になるからじゃないですよ。
その人は不安というものを持っていて、
しかもかなり強い不安というものを普段は抑圧していて、
36:00
プロイと用語で抑圧していて、自分の意識から切り離している。
だけれどもひどした表紙にそいつが意識に接続されてきている。
それはもともとあるもの。なぜあるのか。
良い暮れ気とかって精神分析で言うんですし、おそらくそうなんですけれども、
そこは問わなくていいと思うんですよね。
とりあえずあなたは不安なんですっていうことです。
この種のことが起こるのであればね。
だからその不安が刺激されて何かを見ちゃうんですよ。
気がつけっぱなしだったコンロとかを見ちゃうんですよ。
もう僕は見ちゃうって言いたくなるんですよね。
空想なんですけどね、もちろんね。
でもその人の中では見ちゃってるんで、もう戻るしかないんですよ。
で、あーついてなかったって思うわけじゃないです。
この瞬間には不安は一切なくなったと思ってるんですけど、なくなってないんですよ。
この瞬間に不安がなくなってるんなら、二度とその人はそこに戻ってきません。
この瞬間に不安はただ自分から切り離されただけなんですね。
確信を持ってついてない。だって目の前でついてないんだから。
確信を持ったに決まっていますよね。
そしてやれやれと思って家を離れると。
でも不安は実は切り離されただけでちゃんと残ってるんですよ。
だから家から出て、また1分くらい経つとその不安が接続されてきて、
コンロの火を消したという確信はどこかへ消えて、見ちゃうんですよ。
火をつけっぱなしにしておいた自分というものを見ちゃうんですね。
戻るしかなくなるんですよ。
非常に不思議に思われるかもしれませんけれども、
不安というのはそれぐらい人を動かす力があるのであって、
火がついていたかもしれないから不安になったのでは絶対ないんですよ。
火がついてないことは確実じゃないですか。
戻ってみてついてなかったわけですから。
そこで改めてつけたのでもなければつくはずがないですよ。
だからそういうことではないんですね。
不安があるんですよ。
これを僕ら受け入れられないんですね、頭の中に。
不安がなぜあるんだって言い始めてしまう。
そうではないんですよね。
不安は切り離されてそもそもある。
それが接続されてくるわけです。
そういうふうに考えないとこういう行動の説明ができないんですよ。
僕らはそういう不安というものを多かれ少なかれみんな持ってるんで、
こうした表紙に何度も何度も閉じまりに戻るというほど厳しい症状ではないかもしれないけれども、
近い症状を持ってるって、こういう不安が不意に接続されると、
気になる仕事というものが頭の中でいっぱい発生するわけですね。
これを全部やらなければいけないという気持ちになってくるから、
ピックアップというものとか洗い出しというものが始まってしまうんですよ。
このようなものを洗い出そうとピックアップしようと、
閉まってるとを確認しに行くようなものであって、
僕は意味が全くないような気がするんです。
だから、そのようなものを放置しておいたらいい。
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放置できるほどいい。
絶対だってどんな人だってですね、
3回か4回閉じまり、しかも閉まってるとですからね。
閉じまりしに戻っている人にする普通のアドバイスとしてはですよ。
専門家としてのではなく、普通にアドバイスするとして、
もう気にするのやめて行こうよ。
こう空いててもいいじゃないって言うと思いません。
それと全く同じで、もう洗い出すのやめようよ。
放っておいてもいいじゃん。
もしかしてやり漏れがあるかもしれないけど、構わないじゃない。
ていうか構うのやめようよって、
普通の感覚の人なら、畳からなら言うんですよ。
でも、やり漏れていたら大変なことになるんだよって言うでしょう。
これは家が火事になったらどうするっていうのと何も変わらないんですよ。
家の元を4回確認して火がついてなかったら、
家が火事にならないと判断するしかないわけですね。
でも、そうできない心理というものが、
人の心の中では作り出せてしまう。
人の頭というのかな。
人の脳みそはこれを作り出せてしまう。
だから我々はこれをタスク管理なり先送りなりのシチュエーションで、
必ず作り出せるものだと思っておかなければ、
やっぱりダメだと思うんですよね、私は。
これは結局やり漏れというものがある可能性をどこまでも追求していけば、
やり漏れが絶対にないと言い切れない心理状態は、
いくらでも再現できると私はもう今や思います。
それはかつての私がそうだったってことですよ。
今ではやり漏れがあったって少しも問題じゃないと。
誰かが私に対していい加減それやって欲しかったんだけどって言って、
メールをよこしてきたり、なんなら怒ってくるかもしれない。
怒られればいいわけですよ。
怒られる以上だと何も起きないじゃないですか。
実際私はそういう時にはそれが起きるのはもう身の破滅ぐらいに感じていたから、
身の破滅だと考えていたわけじゃないですよ。
身の破滅ぐらいだと感じていたから、
絶対にそれだけはないようにとチェックリストを作ったんだけど、
今そのチェックリストを全部丸々放棄していて何も起きないんですよ。
でも何が起きたって構わないんですよ。
家が火事になるほどのことはどうせ起きないんですよ。
せいぜい誰かが怒ったメールを私によこすというだけなんですよ。
そんなものはもらっとけばいいわけですよ。
なんなら読めばいいわけです。
読んでアーカイブすればいいわけですよ。
多分大概の人にとって、
特にこの番組を聞いていただいている方にとっては、
そういうものなんだろうと思います。
これを言うと無責任な感じがするのかもしれないんだけど、
責任のないところに無責任はないと思うんですよね。
閉じまりを4回確認して、
扉が開いているかもしれないから家から出られないというのは、
責任感の強さという文脈では成り立たない話だと思うんですよね。
やっぱりそれは無意識に放置された不安の強さの方を問題にしなければいけない。
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そこから離れるということは無責任ということにはならないと思うんですよ。
そういう責任は存在しないと思う。
これと全く同じようなことが、
意外と確定申告といったような話にも通用すると思うんですね。
同じ構造をしているから。
だからもうやめてしまえばいい。
つまりできないことをやろうとするのはやめてしまった方がいいと思うんです。
そして友江さんの方式で、
なんとなくやりたいことをなんとなくやる。
これはモチベーションではないんですよね。
流れなんです。
気分の流れみたいなものと共にタスクというものを進めていくというか、
タスクを進めるのではないんですよね。
そういう行動を取っていく。
あったそれだけだと思います。
そうしていれば絶対に必要だということが言えるようなことは、
全体的な観点からですね。
自分の頭の中では客観的にとか自明とかそういうのではなく、
後から考えてみれば絶対やらなければいけなかったと言えるようなことは、
おそらくこのただなんとなくやると。
そして無理はしないという流れの中で実行していけるんだろうな。
今回私はそれを彼とJ松崎さんとの分厚い強調を書く中で実感しました。
やっぱり書き上がるなと。
そしてやっぱり構成も6回もした割には一応終わるなと。
そしてやっぱりなんだかんだ間に合ったなと。
全部そういうふうに結果としては言える。
これは事前にはわからないんですよね。
確定申告もその頃は犠牲になったわけですよ、ある意味ではね。
ピックアップしようとしか出ないところがあったんだけど、
僕は極力もうピックアップせずに放置放置放置でいったわけです。
ある種の助力を頼んだ方でもいらっしゃるんですけれども、
でも結局は2月中にもう出し切れている。
こういうふうになるんですよ。
これは意思の強さとは全く関係ないっていうのがよくわかります。
早起きとも全然関係ないです。
早く起きて確定申告をやったわけでも、
公正をやったわけでもないです。
私は起きて2度寝をして11時ぐらいまで寝てたりしたことも多々あって、
公正の真っ最中でも、
確定申告が放置されている中でもそれをやったけれども、
それは私がただなんとなくやってたんですよ。
もっと早く起きようと思えば起きられたし、
ストーンの中でただグズグズしてたってことも多々あります。
これも全部確定申告より大事なものだったんだと思うんですよ。
今では私は心の底からそう思うんですよね。
あれは確定申告より大事だったんですよ。
公正より大事だった。そのタイミングではね。
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公正をやるタイミングっていうのがあって、
それをやっているときはそれが一番大切なんですよ。
だから何かを事前に大事なことをピックアップしてそれをやるってことは、
できないことなんだろうと私は思いますね。