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おはようございます。キクセ100日セラピー第1048回をお送りします。
えーと、7月…ごめんなさい。なぜ7月言ったのか。
9月5日、木曜日の7時26分です。
はい、えー、今日はですね、早く落としそうになっていて、
うーん、気候がいいんで落としたくないんですよね。気候がいいので落としたくないので、
ちょっとこう、急いで喋るというのはおかしいんですけど、
あ、あのですね、先ほどわかったんですけど、
スタエフの方にもアナリティクスというのがありまして、
総再生数というのがみるみる減っているんですけれども、
初日が高いんですよね、やっぱりね。
みるみる減ってはいるんですけれども、
あのー、コメントも結構いただいているということがわかりまして、
あとでちょっとお返ししようというか、思いました。
あのまあ、最初はね、ご衆議的にコメントもいっぱいついて、
基本おめでとうございますなんですけど、ありがとうございます。
あのー、スポティファイで長らく1000回ぐらいやっていたんだけど、
あっちはあっちでこう、なんていうのかな、スタエフのようなのとは違うんじゃないですか。
要するに、えー、こっちは配信サービスだけど、
あれはいわば再生サービスですよね、配信部分もありますけどね。
配信はどこからでもいいよっていうことになってはいますよね。
スタエフでスポティファイに送り込むみたいな感じになってるんだけど、
あっちのアナリティクスは今私の方見られなくなってるんですよ。
合わせると、なんかまあまあの数になってきてるんじゃないかなというのが、
ちょっとまあまあつっても、あのあれですけどね。
まあでもこういう番組なんで、えー、総再生数が1回につき100を超えれば大したもんだと最近は思うようになりました。
まあ、えー、願わくば300ぐらいまでは頑張りたいと。
今ちょいちょい300に届くこともあるっていう感じなんで。
タイトルの付け方なんだけど、まああの、毎朝これが終わった後タイトル考えるのは結構きついんですよ。
まあきついって言っても大したことじゃないんですけどね。
もう、あの、どのくらいこう真剣にやるべきかは、
この3WAYSの推移、まあでも3WAYSでいいかな、
あちらJ松崎さんとやっているものですけれども、
まあ彼がね、いろいろこの辺のことは私ができないことを全部やってくれちゃうんで、
あの、もうほとんど完全に依存症みたいになってますけれども、
まあそういうわけで、そういう、こう、これは何ですかね、
えー、住み分けと言ったらいいのかな、まあこれも言い訳っぽいですけど、こんな感じで、はい。
えー、今日はですね、9月22日、ダスクシュートで超術の回、第4回。
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これを、えーと、渋谷でハイブリッド開催ですがやりますんで、もうぜひ皆様遊びに来てくださいと申し上げたい。
あとそうだ、もう一つ、昨日ですね、たまたまリアル開催いいよっていう声を連発で聞いて、
リアル開催ちょっと頑張っていってみようと思いまして、10月13日にセットしました。
先に日付だけ、10月13日日曜日、午後いっぱいやります。
これはもう基本リアル開催のみでやりますということで、ハイブリッドしません。
えー、ややお値段ちょっと、えー、お安くない設定で、もうなんかね、1時から5時までとかにしちゃおうと思ったんですよ。
人来ないんじゃないかみたいな、ちょっと懸念もなくはないんだけど、1時から5時までを、なんか2000円、3000円でやるのはもうボランティア活動になってしまうので、
そんなに、だってハイブリッドならまだしも箱に、箱用意するわけですから、人入れないじゃないですか、100人とかは。
まあそんなことは入れるところにしても来ない、いらっしゃらないですけど、とにかくこの3000円100人とか言うなら、まだしもなんか3000円3人でお茶会もしましたみたいになると、
その日はもう完全に放置活動になってしまうので、それは良くないなとむしろ思うようになりまして、もう少しね、そんなに高額に10万円とかには絶対しませんけど、
そういうふうにして、10月だし、そろそろタスクシュートの総集編を9月の15日にやりますが、もう一つ自分としては、今やってる活動の基本的には精神分析を生かした仕事術の総集編ということになると思いますけどね。
そういうものを今から練りに、ちょっと練って久しぶりにそういうのをやってみようと思います。
ので、ぜひ10月13日開けておいていただけるとありがたいかなと、特に関東圏ないし、東京に来られるということがある人はですね、お願いできるとありがたいです。
さてですね、今日はその、久しぶりに、久しぶりではないんだけど、全然久しぶりじゃないな、でもまあやや久しぶりに、
噂っていうものについてちょっと考えてみたんで、この話をしようと思います。
人の噂も75日のあれですね。何をもって75日なのかよくわかりませんが、人の噂というものをみんなそんなの気にしても仕方がないよと言いながら、今の時代は大いに気にしている人の噂ですね。
SNSがありますからね。今や開示請求等も始まっておりまして、いよいよ噂をめぐって人が真剣にシリアスになっております。
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まあこれも昔からですけれども、そういう社会政治的な件は置いといて、
私はこの場ではその話はしてないんでね、社会モデルの側からの観点は一旦置きまして、噂は精神的には気にせずに済むな、気にしないに越したことはないと、私は信じているわけです。
というのは、噂っていうのはこの番組の、この番組のではございません。対象関係論の用語でいきますが、噂は内的対象だからですね。内的対象についての言動だから。
内的対象というものは、要するに妄想に限りなく等しいもので、内的対象が現実だと思ってしまったら妄想です。
思わなかったらまあいいんだけど、そうは言ってもそこに実態は何もありません。
で、これをあたかも現実のように扱い始めたら、まあ注意信号ですね。神経症レベルに入っていってる感じ。別の言い方をすると、
ちょっとパーソナリティ障害の種を自分に宿していると、そういった感じがします。
まあ、種はみんな宿してますけどね、そういうことを言ってしまえばね。
要するに、僕が例えば、そうだな、J松崎さんということに、彼について何か彼が言いもしないのにしゃべりだしたら、もうそれは彼について何も言及できてはいないということです。
彼の内的対象についてしゃべって、実際、振り返ってみるとですね、よほどこの病理みたいなもの、精神病状態が進行しない限り、ここに疑いはないと思うんですよ。
なぜなら、彼のイメージについてしゃべっているはずなんですよ。その時、自覚的にですね、無意識とかではなくて、だってそこに彼がいないことは知ってるわけですから。
で、私は彼のことをよく知ってますっていうふうに思うんですよ。人はそういう時にね。
だから、この言及は完全に正確ではないかもしれないが、そんなに外れていないでしょうっていう態度をする、とるんだけど、とんでもないと思うんですよね。
全く間違ってると思うんですよ。
内的対象というものについて、僕らは内的部分対象の部分の部分をすっ飛ばしてるんだけど、部分しか知らないはずですよね。
例えば、親だとしてもですよ。顔は想像できるかもしれないけど、例えば左手の薬指がどうなってるとか、全然わからずにしゃべってると思うんですよね。
親だとしてもですよ。まして、左足の小指がどうなってるかとかは、意識せずにしゃべってると思うんですよ。
でも、おそらく親御さんにそれらはあると思うんですね。足の裏とかね。足の裏とか知らんでしょう。父親の足の裏とか、多分あんまり知らないと思うんですよ。
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でも、父親は足の裏というものを知るくじ中意識して生きてると思うんですよ。
私たちは、相手の何を知ってるかというと、何も知らないと思うんですよ。
顔と声と反応ぐらいしか知らないと思うんですよね。よくて。
で、私がJ松崎さんについて、何も知らないわけですよね。
今日どんな下着つけてるのかとか、一切知らないです。一回も見たことがない。
でも、それを意識せずに生きている日って、僕ら1日も多分ないじゃないですか。
そういう意味で、我々は身体感覚をずっと伴って生きていると思うんだけれども、もうちょっとアレなことを言うと、
相手の性器がどうなっているかとか、知る余地もないですよね。
僕らはそれを知る余地もない人間について、よく知ってると思って喋ってたりするわけですよ。
でも、性器意識せずに生きている日なんて、めったにないと思うんですよね。
僕のこれは感覚ね。僕の感覚ではそうなんですよ。
だから、僕はよく思うんですよね。相手が私について、何も知らないのにって思った時には、
こいつ、俺の性器について何か言えるかっていうと、言える人はほぼ誰もいないのに。
彼らは、佐々木昌吾のことなんてよく知ってるよって思ってるんだけど、僕のことなんて何も知らないんですよ。
僕が四六時中何考えて、どういうつもりで生きているのかなんて、
私と一番親しい仕事のパートナーは大橋英通さんですけど、彼だって何も知らないんですよ。
僕がその瞬間その瞬間で一番意識して一番重視していることが何かなんて、そんなのは僕しか知らない。
うちの娘だって知らないんですね。
うちの娘が私について知っているほど知っている人はこの世に誰もいないのに、
他の人が私について知っている部分なんて本当にまさに部分対象ですよね。
1%を切るぐらいな感じなんですよ。本当顔と声と反応ですよ。
で、人が何を言うかっていうのを妙に重視しちゃうんですよ。
でもね、この何を言うかっていうのは、とっさにどんな反応をするかっていう話であり、
それが当たったということが何の意味も持っているとは思えないんですね。
例えば私に向かって朝おはようございますと言えば、僕は多分10中8個おはようございますと言います。
それで私のことがわかるかっていうと、そんなことはないと思うんですね。
こういう儀礼的なのでなくて、もっとっていうのかもしれないけど、
例えば僕の最新のトゥールリストは捨てていいに徹底的に攻撃的なことを言うと、
私はどんな反応をするかだいたい想像がつきますよね。だいたい明らかです。
僕もちょっとその場になってみないとわかんないけど、だいたいそんな風になるだろうなっていうのは間違いない。
でもそれは本当に僕の一部分ですよね。
それは全然重要なところではないと思うんですよ。
誰だってそういう反応になるよねっていうような反応が、反応的に起きるだけの話であって、
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それがわかるからといって、私のすべてがわかるっていう、その次に僕がやることすら多分当たらないのに、
その時の反応が当たるというだけをもってですね、私についてすべてがわかったって思えるっていうのはやっぱりよっぽどのことだと思うんですね。
このよっぽどのことってどういうことかというと、精神病活性化状態なんですよ。
つまり私は人が噂に生じている状態というのは、ほぼ精神病状態に限りなく近いと思うんで、
そこで言及されているのがですね、毒親の話であろうと、モラハラの話であろうと、
基本的に内容そのものは考慮するには及ばないように思うので、
私自身が炎上しようが、ネットでどれほど言われようと、本当のところそうは確実に思えるとは言えませんけれども、
でもきっと本当のところ、私には何の関係もない話なの。
私が例えば橋絵蔵さんなり、杖松崎さんなり、倉園経蔵さんでもいいですけど、言及している内容というのは一切彼らの本体とは関係ないんですよ。
彼らの本体のやっぱり持っている、つまりリアルの存在の内的対象じゃないってことですが、
レベルはこの内的対象とは見ても見つかないし、比較の対象にそもそもできるわけがない。
絵に書いてある対応と本物の対応ぐらい違うはずなんですね。
リアルってのはやっぱそれだけのものなんですよ。まず僕はやっぱり後ろ姿を持ってるからなって思うんですよ。
今言った3人について僕はよく知ってるつもりでいますけれども、彼らの後ろ姿って想像できませんもん。
後ろ姿は見たことありますよ、3人とも。でも後ろ姿は想像できないんですよね。僕の想像力ってそんなもんなんですよ。
まして履いてる靴どうだったかなって、倉園さんのは若干イメージできるけど、後の2人のは全く想像もつかないんですよね。
でも靴って大事じゃないですか。靴ってなんかこう、偶発的に選びましたってことはありえないと思うんですよね。
サイズから考えても。本人として過度にとっぴな靴って履きたくないと思うんですよ。
だから靴ってその人にとってすごい大事なものだと思うんだけど、僕は彼らの靴ってそんなに大事だと思ってもないし、注目もしてないんですね。
これで分かった気になれるんですよ。この噂話に生じる時の僕らのずさんさってものを思うと、本当のところ僕についてであれ誰についてであれ、そこで言及されている話がですね、私の何かをいさしているとは本当は全然全く少しも思えない。
だから炎上とかを恐れることはないですよって言っても無駄なんですけど、恐れるんですよね、僕らはこれを。
つまり僕らはそれだけ自分の内的対象のことを現実だと思ってる。このレベルが進めば進むほど精神病状態に近づくという話なんですね。
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で、これはただ僕がとっさの思いつきで喋ってるような話が多いんだけど、全部全部とっさの思いつきだけで喋ってるわけではないんです。
えーと、昨日松木さんのエッセイみたいな精神…なんだっけなぁ…精神回…わかんない。ちょっとタイトル忘れました。後でどっかにあげます。
最近ノートもちょいちょい書いてますから、また書かなくなるかもしれませんけどね。眠いからね。
あの、松木くにひろさんの本に出てくるんですけど、
その人が私が思う通りのその人であってほしいと、人はついつい願うものだっていう、なんか独特の書きっぷりで始まるんですよ。
で、こういうのがどうして問題になるかというと、こういうのは人を内的対象にしてしまうからだっていう、今僕が言ったことを拡張高く専門的に言うと今のようになるんですね。
だから私のイメージしている通りのその人ですっていう風に僕らみんな思うんですけど、さっきのJさんとか大橋さんについての言及みたいに。
そういうことをしているとすぐ僕らはすぐ内的対象を作って、しかもその内的対象を持って現実の人間だと思い込んでしまって、それは要するに精神病水準に近づくことですよというエッセイなんですね。
で、彼の内容だから、そこから先はちゃんと怖い話が始まって、まあ興味深い話と言ったらいいんですけれども、ある女性の患者さんがですね、
統合支助症の方なんですけれども、ひどく暗い感じだったと。気をもみ始めるわけですね。この時、松木さんは何が言いたいかというと、自分はすでに精神病状態に踏み込んでいるんだと。
カウンセリングルームで2人っきりに統合支助症さんの人となれば、そういう状態には確かに人は近づきやすくはなりますよね。
で、その女性は話そうとそもそもしない。普段はそうでもない。ちゃんと喋るのに話そうとしないというので、非常に動揺し始めるわけですよ。
動揺するってことは、この人は普段はもっと話す人だという松木さんの内的対象としてのその人を意識しているせいなんですね。
外在するリアルの存在は、私がイメージ、その松木さんが松木さんなら松木さんなりがイメージするような振る舞いをしてくれるという保障はどこにもないんですよ。
ここがものすごく大事なところなんですね。昔そういう本が流行りましたね。
そいつ今頃パフェでも食ってるよっていうあれですね。あれは、そいつという人にイビられたり攻撃されたりしたんだけど、そいつのことをいろいろ考えているっていう状態は正気とは言い難いっていうのをタイトルに一言でまとめるとああなるわけですね。
いやそいつはあなたのことをロクでもない奴だとかくだらない奴だと言って攻撃したかもしれないけど、そしてあなたの内的対象の中では、そいつは今でもあんたを攻撃してるかもしれないけど、そんなことはもうあんたのことなんか完璧に忘れてどっかの喫茶店パフェでも食って楽しんでるんだぜっていう話。
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これは外在するリアルというものは私の内的対象とは何の関係もないってことを確信すればそんなに傷つかなくてもいいでしょうっていう話を受けたっていうわけですけれども、同じ話、同じ話です。
だからその人はもっと饒舌なはずだとか、アンセリングルームでもっと最初は明るくていいはずだと言っても、暗い顔をして喋りもしない。どうしちゃったんだろうって思うのは、その人がその人らしくあってほしいと私たちが勝手に願う内的対象の振る舞いというものをその人の上にかぶせようとするから、こういうことになるわけです。
これをとにかくやめていかないと、特に僕らのようなこのSNS時代に生きてるとですね、ずーっと内的対象とだけやり取りをして1日が終わってしまうんで、だいたいしかもそれはネガティブな方面に自分の感情を持っていってしまうので、いいことが何にもない内的対象というのはレベルが低いんで。
なぜなら現実の存在は4次元なんで、内的対象はおそらく2次元なんで、もう全然次元が低いんで。この次元が低い世界にかかずらわっている時間を極力減らさないと、リアルにリアルに戻っていかないとですね、僕らは損をしちゃうということなんだと僕は思うんですよね。
何て言うんですかね、面白くもなんでもないテレビの画面を現実だとずーっと思って見て続けるような話になっちゃう。それが僕は精神病水準の辛さだと思うんですけれども。
だから精神病水準から脱したければとにかく内的対象と関わる時間を減らすに限るなというのが今の私が信じるところなわけですよ。
で、その内的対象の患者さんはだんだん引きずり込まれていくわけですね。彼は精神科医だからそんなことはわかってるわけなんだけど、それでも引きずり込まれていくと。
で、その女の患者さんが急に言うわけですよ。私が悪かったんですと。こういう不吉なことを言うんですね。で、どうしたんだろうと思って聞いてると、みんな、私がここで話したことはみんなが知ってるんですねって言うんですよ。
で、松木さんがやべえって思うわけですよね。ここの内容のことをこの人は松木先生が漏らしたと言って怒ってるんだと。私の病状についてそこら中で言いふらしていると。これは当然、手引義務に引っかかるので、もうなんか終わりだみたいな気持ちになっていくという話なんですね。
これ完全に松木さんが自分のリアルと内心で考えていることのずれに引きずり回され始めているってことなんですよ。手引義務を犯しているはずはないのに、手引義務を犯したというふうに自分が考えるってことは、もう妄想の世界に行き始めたわけですね。
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こういうことが起きやすいんだけど、この設定は。とはいえ、そこで基本的にはそういうことが起きないようにリアルにリアルに付き合っていかなきゃならないんだけど、松木さんはやっぱりそこで妄想を始めてしまう。そういえば先日の講演で、この患者さんのことの一部を研究した気がするみたいな話。
そんなのバレるわけないんだけど、てかその人、そのことが患者さんに伝わるわけがないし、その患者さんについては偽装を完璧に施したのにって書いているんで、この偽装を完璧に施したのにって書いてあるのを読んで私は別の意味で少し隠ってくるんですよね。つまり私たちが読むような臨床素材は基本フィクションだと思って書かるべきだってことなんですよ。
臨床素材というものをクライアントさんが読んでも自分のことだと判断でき判別できないようになってるってわけじゃないですか。ということは話がどこかで脚色されていると考えるしかないわけですよね。臨床素材で何月何日何番いくつって書いてあって、さむ本物の記録みたいな顔をしてるんだけど、本物の記録がそのまんまで回っちゃダメだってことなんですよね、ある意味では。
すごいなんかどういうフィクションだこれはって僕は思いながら、つまりこの、言ってみればこのですね、さむ本当っぽく書かれている女の人が暗い顔をしてみんな私のこの話ここの話を聞いてたんですねって言っていたっていうこの話だって作り話の可能性は大いにあるわけですよ。いかにも本当らしく書いてありますけれどもね。
わかんないですよ、そういうことは結局。だから偽装を完璧に施しておいたのに、この人は全部知られていると思っているのかいかんって思ってしまって、自分はもうすごく動揺をしていて精神病状態になり始めた。これが内的対象と関わることの危うさなんですね。でも僕らずっと関わってるからしょっちゅうこういう問題に苛まれるわけです。
もうアマゾンでto do listは捨てていいの本にもありましたけど、星2がついてガーッとレビューで書かれるとすぐもうこっちの世界に入ってっちゃうわけですよ。僕がその星2をつけた人の何を知ってるというのかというと名前も知らないんですよ。顔も知らない性別も知らない年齢も知らない。
相手の人について言っても同じですよね。私のあの本についてその人が何も知ってるわけではないんですよ。だからこういうものに関わってはいけないんですね。関わるなら冗談としてのみ関わるべきだ。すごろくみたいなもんですね。2次元の世界だ。4次元に生きる我々は2次元とずっと関わってちゃいけないわけですよ。
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遊びの世界なの。それは。それがリアルじゃないですかと人は言うんですよね。それで人が死んだりもするじゃないですか。それが一番いけないんですよ。それは自分の精神病水準というものを野放しにして。
つまり現実を無視するように自分を仕向けて現実からどんどん乖離していって質検討式に陥って本当に精神病状態に入るっていうのを良しとするって話なんで。私はこの内的対象発の現実という内的対象発のものをリアルだと思い込んでそれをもとに動き始める。
それを行動化と言うんだけれども。これがもうやっぱり行動化が全部ダメというわけじゃないんですけど。まあ1%以下に抑えないとなっていうのは無理なんですけどね。そんなことは。でもこれしかないなって思うんですよね。
基本的にリアルに生きていきたいじゃないですか。誰もここから素晴らしい女性がいるんだと思って平の上を歩いてそこから転落して死んだりはしたくないじゃないですか。リアルに生きることの意味ってそういうことですよね。リアルは面白くもなくなじけないかもしれないけれども。空想世界に生きていては多分井戸に起こっちゃうんですよ。昔の話で言えばね。
あるいはその昔あれですね。芦屋ゆうほうさんかな。ディモスの花嫁っていう漫画にデイモスが出てきたんですけれども、本当にこう結婚式だと思って男の人が綺麗な女の人と手を繋いで教会の鐘のなる方に歩いていくと骸骨と一緒に井戸の底に落ちちゃうわけですよ。そうなりたくないじゃないですか。そうなりたくなかったら噂話なんかに関わらないことだっていう話なんです。
松木さんの話で言うと、お互い様なんで統合視聴賞さんの人と一つの部屋で一緒にいるんでみんなが聞いてるんですねって言われて恐怖を覚えたんだけど松木さんはもうちょっと考えてみるとみんなが聞いているってこの人は言ってるっていうのに気づくんですよね。こうやって夢から覚めるわけです。みんなが聞いていたとは言ってない。だから先日の講演とは関係ないと。
現在形ってのはそもそもおかしいと。みんなが聞いてるっておかしくないって思うんだ。ここに二人しかいないわけだ。みんなとは誰なんだろうと。考えることができる。これが考えることができるってことなんです。夢の中にいると考えることができなくなっちゃうんですね。ただ思い出して恐れるとかそういうことしかできなくなってしまう。考えることができてみるとこの人はみんなが聞いていると言ってる。じゃあ今も聞いているのかと聞いてみるとそうです。今も聞いてるんですって言って。
だから喋れないんですよと言って声を潜めていると。なるほどわかってきたと。
あのー、盗聴器が仕掛けてあるっていう風に、この女性は交互視聴症の方で、妄想、幻覚ですよね。見えてしまう。この部屋には今も盗聴器があなたには見えますかって言うと、はいと言うという話なの。
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これ内的対象が現実のものになっているという人の見え方です。これは松木さんの方ではない。松木さんの方が見ていた内的対象というのは、この人は今ここにいるような人とは違うはずだと。今ここを否定するわけですよ。
今ここというものを否定するというのは、そういう事態を招くんですね。ここでですね、もし、いやすいません、あの、実は先日の講演でとか言ったら大変厄介なことになっていると言えそうじゃないですか。そういうことを松木さんは多分、うかつに言ったりはまずしない人なんで、あれは少し客色してもって書いてあると思う。
だけど私は松木さんの何を知っているわけじゃないですからね。彼の顔はYouTubeで見て知ってますけど、後姿は本当に知りませんから。後姿のない人間なんていないでしょう。だから本当ではないんですよ。私が知っている松木先生というのは、私の心の中の内的部分対象でしかなくて、彼の何者を指しているわけでもないんですよ。
なのに私はここで彼について何かをしゃべり、これが噂というものの正体です。まあ幽霊と言ったようなものだと思うんですよ。でもそれは幽霊で人は恐れて井戸から落ちたりするじゃないですかって言うから、だから落ちないようにしましょうねっていう風に普通に考えればそうなると僕は思うんですね。
だから幽霊というものをもっと恐れましょうっていうのが噂を恐れましょうって話なんだけど、僕はそれはどう考えてもやっぱり同意できないですよね。そういうことになることが仮にあったにせよ、やっぱりそこは徹底的に避ける能力が自分にできるんであれば避けたほうがいいと思うんですよ。
やっぱり悪霊退散のおまじないをするというよりはですね、悪霊は存在しないという方向に自分を向けていったほうが僕は賢明だと思うんですね。噂話についても全く同じで〇〇という噂を立てられないように注意しましょうっていうのは全く僕からすると悪霊退散のお札を一生懸命手に入れてくるって話に近いと思うんで、
勇気はいるかもしれないけど、やっぱり噂というものはそこに私と関係のあるような実態は一個もないというふうに確信する方向に自分を方向づけていくのが一番賢明だとしか思えないんですよね。
だから私はこの番組ではそういう方向性だし、どこに行ってもそういう話を少なくとも今と同じ気持ちでいる限りはこの話は一生こういう方向で続けていきたいなというふうに思っているわけですね。
内的対象っていうのはあるんですよ。特に親についてはみんな持ってると思うんですね。だからどんな親についてのどんな話を受けようと、それを信じるしかないと思うんです。ただその話はその人の内的対象についての真実なんですよ。これが心的現実ってやつですよね。
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サイキックリアリティっていうのかな。心的現実って変な言葉なんだけど、僕らの態度がそうだからしょうがないんですよね。だからうちの親は本当にひどい親で、いわゆる毒親でって言ったら信じるしかないんですよ。
ただしそれはその人の本当の親御さんが本当にひどい人かどうかについては何も言及されてはいないという、これはその人が嘘をついてるって意味ではないんですよ。その人の話の通りの親がどこかにいるということを私は意識しなくていいっていうだけなんですね。
その人がその人の内的対象としての母親なり父親が虐待的であるとか攻撃的であるとか素敵ですな行動ばかりするというのは信じていいんですよ。だから人間関係ではなくて対象関係なんだと僕は思うんですね。
内的対象との関係についてしか人は言及していないんですよ。特にそこに2者しかいないなら、第3者についての言及はその人とどれほど親しい人で毎晩一緒にいる恋人と会ったとしてもその本体についての言及だとは一切見逃さない。
これだけはですね私カウンセリングではないけれどあのセッションの最中に基本できるようにようやくなってきたんですよね。だから完全に相手の話は信用するだけれどもその人が言及しているその実態のある人間についての知識としては一つも仕入れていかないということがようやく1年ぐらいかな1年以上ですね。
立ってできるようになってきたんですよ。このスタンスはリアルでも大変役に立つんですよね。リアルではまあうっかりやっちゃいますけど、うちのお母さんひどいんだよねって言ったらひどいお母さんというものがリアルにいるような気になっちゃいますけど、なるべくそれも気をつけるようにしてるんだけど相手気を悪くしやすいんでここすごい難しいんですよね。
相手の人は100%本当のことを言ってるというのはそれでいいんです。相手の人からするとそれではいけないような気がするかもしれないんですけれども、僕らは対象関係についてしゃべっていることしかできないし、多分僕ら対象関係の中でかなりの時間を過ごしてしまう。
これがリアルとずれがないと思えば思うほど精神病水準に近づいていき、一番多くの場合僕らが経験するのは精神病状態が活性化していて、同時に非精神病状態も活性化している。この2つは人間の中にあるんだと思うんですよね。
頭ではわかってるっていう方が非精神病状態ですよ。多分。私たちは母親というものはこういうものではないと知りながら、母親とは言うのはこういうものだという言動を繰り返す。だからこの2つは同時に動くことができちゃうんですよ。だから正気の精神病と言ったりするんですよ。
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良い精神病部分と精神病部分。精神病部分っていうのは内的対象と共に常に活性化するんだと私は思うんです。だからこの話に付き合いつつ、リアルではそういうことはあろうとなかろうと関係ないという、そのスタンスを同時に取るという感じになると正気の精神病状態に入る。
この正気の精神病状態に入っているのが僕はセッションという状態に限りなく近いと。ずっとそうだったわけじゃないですよ。完全にただの正気の状態になるってこともありますが、その時には対象関係についての話はできなくなるので、お互いの今ここの、だから今ここなんですよセッションは。
セッションは今ここだけの会話にできれば、多分理想中の理想で、その人はもはやカウンセリングを一切必要としない状態になるんだと思うんですよ。お互いの今現在についてのやりとりだけで行う。でもそんなセッションは多分ほぼないわけですよね。
ほとんど昔話に終始する。多くは家族関係に終始する。ってことは、その人が言及しているのは心的現実のことだけであって、リアルの話は一切出てきていないと考えないといけないんですよ。でも、その人の心的現実については言及されていると。
親の責任はどうなるんだって話になるじゃないですか。それは社会モデルなんですよ。親の責任というのは親がそのような心的現実を子供に宿してしまった責任でしょ。おそらくそういうことになると思うんだけど、それは私が思うにそれはそのセッションで扱うべきかどうかは微妙なラインだと思うんですよね。
わかんないですよ。そこはいろんなモデルがあるし、社会モデルでいくカウンセラーさんだって当然いらっしゃると思うんです。今いなくても今後は出てくると思うし、今ももちろんいると思います。でも、私のような特にそもそもカウンセリングでもなく心理療法でもなく、基本やってることは仕事術ですっていうスタンスの人間にしてみれば、本当のところ親を良くするというのは全然関係ない。
教育機関をベターにするという話とも一切関係がない。だから避難したいという気持ちは当然ありますよね。何らかの理由で。現実に対して一切避難するべきことがありません。しかも本人は抑鬱的でもありませんという人は悩まないので、悩みゼロになる。
何らかの形で上手くいかないということは、悪いのは全部自分ですという話になってるか、悪いのは現実のこの部分ですって話になっていて、しかしその現実のこの部分というのはその人の心の心的現実だから、この心的現実が悪いんですっていう部分については、
そうじゃない世界に入ることというのは、他人の力というものとの共同によっては多分可能になるというのを信じなかったら、多分世の中のセッションとかカウンセリングとか一切無駄になってしまうので、ここ信じるしかないですね。
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人の噂も75日なわけです。最初も言ったけれども、そうは言っても私たちは心的現実の方しか信じてないので、ここから先は一般論で75日ですとか、そいつは今頃パフェを食ってますといくら言っても無駄で、いくら言っても無駄ではないんだと思うんですけれども、
一度や二度言っただけで、それだったらあの本の表紙でこの世のSNS炎上悩みは消滅することになりますが、今日も多分今もまさに今この瞬間も盛大に燃えてると思うんで、まさに僕らは人の噂の真っ只中に身を置きたがるし、心的現実で茫々に燃えていくんですけれども、
そこは人間のこの大脳とおそらく変遷系との兼ね合いで、そういう宿命のようなものを作りやすい脳になってるんでしょう。みんながみんなこれをやらないところを見ると、この脳に全責任があるわけじゃないんだけど、でもこの脳にはいくばかりの責任があると言わざるを得ないでしょう。
ちゃんと使えよってことかもしれないけど、それはしょうがないですよね。物事は何でもそうですが、ツールというのは常にちゃんと使えるというものではありませんから、で脳はツールですから結局しょうがない。これはもうそういうものを持って生まれてきたんだという。
大脳の部分がなければね、猫ちゃんぐらいの脳であったとしても、妄想というものは持てないので、あの大きさで。猫の額って言いますけど、神秘質が額レベルしかない猫みたいな生き物であれば、やっぱりリアルがすべてなんで、
少々妄想が入りそうになったとしても、目の前を小動物が歩けば早速小動物に飛びついていくんで、猫じゃらしみたいなのとかね、つまり今ここにしか生きられなければこの種の悩みは一切なくなるんだけれども、我々はそういうものではないので、これはもうしょうがないですよね。
内的現実という内的対象というものと、うまく付き合っていくより他ないわけです。だから内的対象がうまく付き合いやすいものであればあるほどいいわけだけれども、これも運悪くそうでなかったというケースが、学校行っていじめられましたみたいなケースが起こるので、
その時に取る2つの手段として、学校を良くするってことと、自分の内的対象というものとの関係を変えるっていうことと、両方行けばいいと思うんですよ。ある意味では。行きたいと思ったらですね、両方行ったらいいと思うんですよ。
内的対象とばっかり関わっているのに、それによって社会をベターにしようっていうのは、無茶だってやっぱり話ですよね。で、僕らはしかしそういうルートを取りやすいんですよ。夫婦間とかでもね、親子間とかでも、内的対象を通じて他人を変えようとした。
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で、明らかにそれはできないので、これにできないなーって気づくと今度は抑圧的になってしまうっていう、この行ったり来たりをどこかで断ち切って、できればですけれども、内的対象を縮小するんですよね。
いちいちリアルと付き合わせて、付き合わせて、付き合わせて、いかにこれがリアルでないかと。自分のことを考えてもそうだと思うんですけど。
人は私の内的対象について、彼らの内的対象としての佐々木昌吾と喋る。いかにそれが良い意味でも悪い意味でもリアルと関係がないかという話を、自分で何度も何度も反数しているとだいぶ違ってきます。