番組の導入とお知らせ
おはようございます。ライフハックからの精神分析、第1276回をお送りします。
11月6日木曜日、朝8時3分です。
なんとなくですけど、本当になんとなくですけど、このやり方が板についてきたかなっていう風な感じをようやく持ててきました。
やり方がなんとなく見えてきたかなというような、そんな感じなんですけれどもね。
とりあえず、システムの概要が見えてきて、YouTubeとスタンドFMの両方にこれをアップするためには、
Zoomで録音するのが今の私には最適だなと思います。
ライフハックっぽい話なんですけど、Zoomって録音ファイルだけを最初から別にクラウドで取っておいてくれるんですね。
しかも、それが今の私の状態だけだといらない機能なんですけど、話者ごとに録音ファイルを分けてくれるんですよ。
だから、例えばこれ複数でやっていて、もう1人の方が質問者だとするじゃないですか。
あるいは聞いている方がみんな質問者だとして、5人とかいてですね。
そうすると5つ録音ファイルを作って、それをアップしないでほしいって言った場合、取り除く必要って一切ないわけですよね。
だから、それは非常にいいなと思いまして、このやり方にしてみております。
何て言えばいいのかな。
これを使う機会がどのぐらいあるかは分からないんですけども、
とりあえず、私の3ヶ月チャレンジでやっているレクチャーなりを外に出したいなと思った時とかに、
これはやっぱり不可能なんで、手で除去するなんてことは、音声だけ外に出すとかだったら、
音声ファイルが私の声だけを取っておいてくれるっていうことになれば、それはいいなと思いまして、
どのぐらいそれが使い物になるかというのは、またちょっと置いておくとしても、やってみようかなという感じを持ってます。
大元のところには全部入っちゃうんだけど、そっちは動画から音声を除去してしまえばいいんで、
それは今は割と専用ツールを使えば一発なんで、
非常に考えているいろんなことをですね、今考えてやっております。
ただこれは私の仕事というよりは、仕事ですけど今となってはね、この番組そのものも最初は趣味とは違いますが、
別にそういう趣味なわけじゃないんだけど、何のためにやってるのかよくわからないような活動だったんですけど、
ようやくそれが趣味を拡充させてるみたいな、その感覚でやれれば一番良かったんでしょうけどね。
今はさすがに趣味を拡充させてる感じではやってないですね。
はい、あともう一つお知らせで、11月8日、もうあさってですね、あさってに
センリーさんという方と認定トレーナーのですね、タスクシュート認定トレーナーのセンリーさんと、私とでセミナーやります。
で、もう20人は行くんじゃないかなと、あの無料のゲストの方、招きする方を全部合わせれば20は絶対超えるんで、
30近く行くんじゃないかと思いますが、にぎわってる方がいいところも、こういうセミナーはあるんで、よろしければぜひですね、ご参加いただければと思います。
まだあすあさってとお申し込みできます。
で、あのセンリーさんは、もうすでに早速スライドも用意してくださったんですけどキャンバーの方に、そういうことが私には絶対できないことなんで、
あのその辺もタスクシュートを使って時間をやりくりするというのが、あの徹底できる人なんだなというのを相変わらず感じさせられるわけですけども、
まあライフログ撮るような方にもですね、非常にいいお話になるんではないかと、私は何の話するかってすごい悩んできているわけですけど、
まあいいスライドを見ると、この辺のことをもうちょっと深掘りした方が面白いかもなぁと思ったり、急にするんですよね、そういうことって急に思いつくんですよ。
だからあんまりアジェンダってあげたくないんですけど、まああげちゃってますけど、当日若干変更はあるかもしれませんので、まあその辺はぜひ期待しておいていただければと心配せずにですね、思います。
はい、ということであさってね、時間ありましたら、時間なくてもアーカイブでも手に入りますんで、よろしければぜひご参加ください。
精神分析の重要性
で、今日の本題はこちらなんですね。こちらっていうのが動画だから出せるんだけど、まあ別に動画見てない方も何ら問題ないです。
本をただ僕の横に顔の横にかざしているだけで、どっちにしてもこれはサムネイルかなんかにあげますんで、
あの、ポッドキャストだけの方でもあれです。藤山直樹さんの本、今日は紹介します。
岩崎学術出版社から出ている精神分析という営み。大変表紙僕はこれいいなぁと思うんですよね。
どう考えても専門書であってビジネス書とかじゃないですけどね。藤山直樹さんが書いた精神分析という営み。
で、副題がですね、この副題に非常に意味が、もうどっちかちょっとタイトルでもいいんじゃないかぐらいな、生きた空間を求めてっていうタイトルなんですけど、
あの、この本確かにそういう本なんですよね。最初に読んだ時には副題はほとんど意識の片隅にも入ってませんでしたけど、
今改めて考えてみるとこの副題は全く完璧だなって思うんですね。
まあ、専門書っていいなって思っちゃうんですけど、僕が今何をしようとしているかというと、この本の紹介がしたいわけではなくてですね、
紹介をするんだけど、したいことは精神力度を広げたいというよりは、
世の中のそこを賢にばらまいておくぞっていうのが僕のやろうとしていることですね。なんか悪事みたいなんですけど、
そういうわけじゃないつもりなんですけどね。とにかくこう潜ませておこうみたいな。
今って認知行動療法、CBT、Cognitive Behavioral Therapyですかね、が主流ですよね。もはや今が絶頂と言っても過言ではないぐらいです。
まあ基本的にはカウンセリングに2回行けばどっちかがCBTである可能性が普通はほぼ確実だろうと。
狙って違うところに行くのは別ですよ。だけど知らずに行けば、それをやっている治療がCBTである可能性はもう圧倒的に高い。
精神力度にぶつかる可能性に比べればですね、もう全然10倍以上は高い。上に精神分析にぶつかる可能性と比較すれば、
もはや1対100を超えて精神分析にぶつかる可能性は適当に言ったらないなって感じが僕はしますんで。
リキド系である可能性はまだしも精神分析そのものである可能性はないと思うので、CBTにあたる可能性に比べればですね、本当にあれですよ。
僕もガラガラガラガラ、連発なんてガラガラガラガラ回すやつあるじゃないですか。吹く引きの。ほとんどティッシュだったりするじゃないですか。
まあそれ価値の問題になっちゃうんだけど、価値の差はないですよ。言いたいことはそうじゃなくてガラガラやってティッシュが出る可能性と
ハワイ旅行があたる可能性の差ぐらいはCBTにあたる可能性が高いぞという話をしています。
CBT以外の可能性だってありますよ。時々商品ケアだったりするじゃないですか。そのぐらいの可能性でCBT以外にあたる可能性は十分ありますけど、
CBTにあたる可能性はポケットティッシュです。昔はポケットティッシュはそのぐらいバンバン配られていたわけですよ。消しゴムとかでもいいんですけどね。
今じゃそんなことはないですよね。わかんないけど。でもポケットティッシュはやっぱ普通に白い球が出るとポケットティッシュが赤か知らんけど。
ほぼ見たことのない青い球とかは精神分析とかはハワイ旅行よりもあたる可能性は僕は低いと思うんで。精神分析そのものはですよ。
精神分析的心理療法とかならば別ですけど、精神分析そのものにあたる可能性っていうのは僕はゼロだろうと。ほとんどね。
具体例から学ぶ
ただ本といってあたる可能性はハワイ旅行ぐらいに思っていただいて差し支えないんじゃないかと思いますね。
そのぐらい圧倒的にCBTのこの時代ですから、もうその世の中に広ませておくみたいなことをやっても別にいいだろうっていうね。そういう感じを僕は抱いているわけですね。
この本なんですが、初学者には何かとか聞いたこともよくわかんないっていう方に何があった時、この本がおすすめだとは僕は思わないかったんですよね。
でもそうでもないんではないかって話をなんと驚いたことに2回、3ヶ月チャレンジで話してるうちにね、2回たれてそっかって思って思い直してみて今読み直しているんですよね。
わかんないですよ、もう僕には。何がわかんなかったのかが、何がわかんないのかって難しいじゃないですか。わかってないときは何もわかんないから。
で、わかってくると何がわかってるのかはいくらかはわかるんだけど、そうすると本当に何がわかんなかったのかなって考え始めると、なんかどれも嘘くさく感じでくるんですよね。
で、とりあえずこの本でまず冒頭からいきなり、いわゆる何もわかりませんっていう人の読む本になってないんで、冒頭からいきなり藤川直樹さんが本当か嘘か知りませんが殴られるシーンから始まるわけですよ。
クライアントさんにね。で、そのクライアントさんに殴られるんだけど殴られる直前には恐ろしいと感じてないんですね。
だけど殴られた直後に恐ろしいって感じるっていうこの不思議な、普通は殴られる前に恐ろしいって感じるよねっていうことを書いてるわけですね。
で、それが考えられなくなるってことなんだっていう話をされていて、まあ要するにこれは専門、必ずしもこの時藤山さんが精神分析家だったかどうかわかんないんだけど、
そうは言ってもそういうことには十分、危機感とか知識とかが十分働いてもいいはずなのに全く働かなくなってしまっている。
で、そこが伝えられたいことなわけですよ。で、私このスローモーションってタイトルもとても込み出しなんですけど、いいなスローモーションのように殴られる。
なんかそういうことってあるじゃないですか。ものすごく恐ろしいことが起きた時って、なんかそれがスローモーションのように起きて、で、なんか事実に自分巻き込まれているんだけど、
観察者みたいになっちゃっていて、なんかこう殴られるのに余計もしないでただ殴られてしまうみたいな、そういうことを書いてらっしゃるわけですけど、
僕はその例よりこの直後に出てくるですね、同じような事態なんだっていうことになっている、
ある女性のクライアントさんがずっとこうわかりやすい話をして、それを理解十分行き届くからそれを普通に解釈していくんだけど、
ちっとも事態が進展していないっていうか、手の震えを訴えてくる人なのに、手の震えは1年通い続けても一向に止まる気配がないっていう、
なんかまずいことが起きているような気がするって話の方が、私は非常にこの本の中ではですね、強いインパクトを持っているんですよね。
未だにこの話を僕は一つの教訓にしようとしているところがあるんですよ。
まんまは使いませんよ、もちろん。そもそもこのエピソード自体理想の可能性が十分高いですし、まんま書けないですからね、臨床例。
で、私の体験したことじゃないんで、臨床例とか私は持ってないわけですから、臨床できないんだから。
なんですけど、この話はでもですね、いわゆる相談系の個別支援している人間としては、すごい身につまされるものがいっぱいある話なんですよね。
この一つの事例を持って大量のことを一気に伝えてくるというのが、藤山さんの本の真骨頂だと僕は思うんですよ。
この一つの事例で伝えてくることが実はたくさん詰まっているんですね。
いろんなことがここに込めることに成功しているというか、自由的に話が伝わってくる。
この辺が他の本にはなかなかないことなの。ないわけじゃないんだけど、でも藤山さんは突出してそれがやっぱりすごいなって感じがするんですよね、藤山さんの事例っていうのは。
これから読むと、ここにいろんなことがすでに書いてあるんだなと。
それって全部は伝えきれないじゃないですか。一文では一文しか書けないわけだから。
一文に意味が2つも3つも4つも入ってたとしても、書いてあることは一文なんで。
っていうその制約の中でですね、たくさんの話がここから伝わってくるっていうのが実現できている感じがするんですね。
まずいかにもありそうなことが起きているんですよ。
一見すると精神分析とか精神力道ならではのことのようにも読めるし、そう書いてあるんだけど、実際にはこれは相談という出来事の中ではこういうことは外してありがちだということが書かれてるんですね。
その中に潜んでいる、我々がいかにも諸学者ゆえなのか、諸学者であろうとなかろうとなのかわからないですけど、ありそうやりそうな失敗の羽根がそこら中にこのストーリーの中にある感じがするんですね。
無意識の避ける動き
殴られるのもそうなんだけど、殴られるっていうのはさすがに何ていうのかな。
ここに問題があるんだけどすでに。殴られるっていうのは避けようとするじゃないですか。
普通に考えると。こういうことは起きてほしくないな、正直言って。いくらなんでもなって思うじゃないですか。
何をしているにせよ相談を受けていて殴られるのはごめんだなって思うじゃないですか。
だからこれはそれこそ無意識みたいなことを言うならばですね、密かに避けると思うんですよ。
無意識だったとしてもね。だから意外と殴られずには済むと思うんですよね。
でも女性のような欲打つ状態っていうのか打つ症状なのかわかんないんですけど、
長く休職していたみたいな。調子が良するにすごく落ちたみたいな。
これもすごいよく聞くような話じゃないですか。
でもその人はすでに知的に高度だし、情緒的にも生き生きしているようにも感じられるし。
話もちゃんとするし、話はわかりやすい。要するに何が言いたいかというと、
古典的に言うところの神経症水準で、しかも機能は高いと。
ごくごく真っ当にやれている感じがする女性がやってきて、
そこで語られている話というのもごくごく真っ当であって、何らおかしなところはない。
だけど手の震えが止まりませんという、藤山さんのこの書き方からすると些細な症状なんですね。
この些細な症状を取るために精神分析を1年もやって、
大企業に勤めているようだけどお金がすごい裕福なようでもないのに、
1年も続けているっておかしくないかって考え始めると。
考えてみると解釈は、解釈ですから精神分析だから、
要するに相談内容はわかりやすいし、相談されていることにも応えているし、
その辺すごく懲りに凝っていろいろと伏線張ってあるわけですけど、藤山さんが。
つまりその女性は別に藤山さんの言うことをまんま鵜呑みにするような人ではなくて、
ちゃんと考えているようだし、考える能力もあるようだし、
しっかりと受け答えもして、自分の状況に照らし合わせて、
現実見当も十分にして、どんどん良くなっているようだと。
でも手の震えが止まらないわけですよ。
しかも手の震えを止めるためだったら、何もそんな手間かけなくても良さそうなわけじゃないですか。
飲みたくないかもしれないけど、ドーパミンに関わる薬をちょっと飲めば、
あっさり止まっちゃうかもしれないわけじゃないですか。
一体これは何なんだろうってことになるわけですよね。
そんなに深いところまでしっかりと現実見当もできていて、
何もかもがうまくいっているように見えているのに、
手の震えが止まりませんから今日も来ましたみたいなわけじゃないですか、結局は。
なんだか密かにそれについて訴えてきているわけですよね。
要は訴える素材が欲しいから手を震わせているようにも見える。
これだと先日話したドーラ症例みたいな、ヒステリーみたいな話になっていくんだけど、
要は何であったとしても、何かここに来たくなるわけがあるんだと。
この辺がだから、癖物なわけですよ。
何が癖物って、相談をされる側っていうのはですね、
例えば非常に単純なところでお金をずっと取っていたいって絶対なくはならないはずじゃないですか。
もちろんめちゃくちゃ忙しい場合は別かもしれないけど、
ギリギリでやっと解雇できてくれてますみたいな、何なら私みたいな、
私よりも厳しい方だって、別に公認の心理師さんの中だっていらっしゃるとは思うんですよ。
もっとお金使うかもしれないんだし、子ども私立に入れますみたいな話とか、
あるいは子ども偉大に入れますみたいな話だったら、
うちの子は偉大にはいけそうにないから、その辺は安心なんですけど、
安心しちゃいけないんだけど、お金いるじゃないですか。
だから手の震えが止まらない人がですよ。
ただそれだけのことで、手の震えが止まらないってのはあんまりいいことじゃないかもしれないけど、
手の震えが止まらないだけだったら、その人がいきなり殴り出したりはしそうにないじゃないですか。
しかも話はよく伝わってくるし、話しているっていうのはですね、いいじゃないですか。
例えばずっと沈黙されるとかに比べると、いいじゃないですか。
つまりそういうクライアントさんが来ていて、気持ちよく話しているという状態が続くっていうのは、
良くないじゃないですか。
だからうっかりすると、そういう良くないことに巻き込まれていっちゃうわけですよね、きっと。
そんなことは、ザラにありそうだ気がするんですよ。
ちょっと油断していると、そうなりそうですよね。
そうなんていうことの性質から考えて、
上手いこと言っている感じがして、しかも自分にはこれといった危機的な状況はないと。
それ自体が危機的な状況なんだけど、危機的な状況がないということになってくると、
別に搾取ってことをしなくたって、向こうは自発的に人が来るわけだから、
お金も時間もやたらとかかっているっていうことの割には、
この些細な症状を取りたいだけなんだろうかっていう疑問は、
やっぱり浮かばなければ、浮かばさせないようにすれば、
全然目をつぶってしまえると思うわけですね。
症状と解釈の関係
だから問題なんですよ。
なんで3ヶ月チャレンジが3ヶ月で一旦区切るかっていうことと、
やっぱり関係がないわけじゃないんですよね。
で、例えば私の話に照らし合わせればですけどね。
もうちょっとそこまで金銭的に単純な話じゃなかったとしても、
この話の多分スローモーションの直後に置かれている意味っていうのが
そこにあるわけだけど、
生きた空間を求めてっていうサブタイトルとも絡んでくるんですけど、
この関係は死んでるよねって話なんですね。
で、こっちはすごい重大ですよね。
お金がとか時間がって話よりは、
僕はある意味はるかに重大だなって思うんですね。
この関係は死んだ関係だっていうこと。
で、そのことに気づいてないってこと。
藤山直樹さんがですよ。
十分僕らが気づかなくって、僕がね、僕らがって言っちゃいけないですね。
僕が気づかなくってもおかしくはないですよね。
この関係は生きた関係じゃないっていうことには気づかずに、
だって話弾んでるんですから。
ただ、そこで語られているお話、つまり物語化していくわけですよね。
自分の人生の物語みたいな、こういうことがあったから、
つまり解釈のように聞こえるわけです。解釈ですしね。
僕はこういう感じだったから、親との関係がこうだったから。
よく三ヶ月チャレンジでもやってるわけですけど、親との関係がこうだったから、
会社に行くのが辛くなったんだって。
そこに嘘があるわけじゃないんだけど、
その話に生きた感じがしないっていうのは、
これは本当に微妙な言い方で、
なんで生きた感じがしないのかっていうことを、
なんでそんなに延々と話していたのかっていう話が
ここで起きてるわけですよね。
専門用語の東英同一化って言葉を使った方が、
スムーズにここは説明できるんですけど、
なるべくそれを下げてるわけですよ、さっきから。
だからこういうぎこしない説明に、
もともと専門用語を使ったってどうせぎこしなくなるんだけど、
ぎこしない説明になってんだけど、
このぎこしなさっていうのは、本読むともう少しスムーズになりますけどね。
要は、先に結論はあるんだよ、ここの本の中には。
それって本当のことなのかどうかは知りませんけれども、
てか、そこに本当とか嘘とか言っても始まらないんですけどね。
少なくともこの本のクライアントさんの
心的現実ってやつかな、の中では、
要するに両親は不仲だったと、もともと。
なんだけど、離婚できない理由があったのか、
したくなかったのか、それは分かりませんけれども、
自分を産んだと。
ここがヒットですよね。
自分っていう、だから分かりにくいんですよね。
分かんないじゃないですか、産まれた側にしてみれば、
そんな事情で産まれてるなんて。
でもそれによって、両親は離婚せずに、
てか離婚できなくなったと。
ありそうな話ですよね、いかにも。
この離婚できなくなってしまった両親の、
しかし不仲は不仲ですよね。
不仲を決定的なものにしたと。
つまり離婚できずに一生一緒に一歩間違うとね、
いなきゃいけないというこの事態が、
お互いを非常に腹立たしい存在にしちゃいますよね。
で、子供はどう思うかというと、
罪悪感を持ちますよね、間違いなく。
自分のせいで両親は、
お互い好きでもないのに一緒にいて、
で、延々自分の世話をさせられて、
これ真的現実ですからね。
だからここが厄介なんですよね。
事実がそうなのかどうなのかは、
そこに親は同席してないわけだから、
藤山直樹さんのところには分かったわけじゃないですか。
だけども結局そういうことなんだろう、
ありそうだことだしね。
何よりもそういうことだということが、
はっきり分かるのが、
生きた関係の喪失
この面接室の中で行われていることなんですよ。
つまり藤山さんとクライアントさんが
象徴的に結婚して子供を産みましたと。
その子供は物語なんですよ。
その人の人生に関する解釈なんですね。
その解釈のせいで、その解釈を生み出すために、
ここに二人に来ていて、
二人で来ていて話し合っていると。
藤山さんとそのクライアントさんが、
その物語について話し合うために、
その二人が来ていると。
気がつくと両親とそのクライアントさんと
そっくりのことをやってるわけですよね。
つまり死んだ関係なわけですよ。
意味のないことをやらされていると。
意味のない物語を一生懸命二人で語り合うために、
そこに二人が集まって、
一生懸命話しているんだけど、
何の意味もないことをやっている感じがすると。
つまり死んだような感じになっちゃっていると。
物語が子供の位置にいて、
藤山さんがお父さん、クライアントさんがお母さんで、
二人でやりたくもないことをやらされている。
ズルズルとですね。
っていう話をここで、
東映同一課の説明としてされているわけですよね。
この本、かなり冒頭で。
多分100ページは言ってないところですね。
やっぱね、
初心者向けではないんだけど、
でも私はこの話の方がよっぽど、
フロイトの本よりは分かりやすいと思うんですよね。
フロイトは精神分析入門とか書いてますけど、
全然あれ読んでも精神分析が分かるような入門書には
なってない気がするんですよ。
だけどこの本読めば、
このスローモーションの殴られた話とこの話、
つまり何が言いたいかというと、
私が正しい解釈をできるような状況には、
そもそも全くなってないって話をされているわけですよね。
まずね。
でもカウンセリングって、
外してこうやって進むじゃないですか。
こういうことに対する、
ある種継承をならされている感じもあるわけですよ。
支援をするという仕事っていうのは仕事ですよね。
ビジネスをしている側としてみるとですね、
これよっぽど気をつけないとこうなるよねっていう。
相手の話に耳を傾ける、
それに対して寄り添うように、
共感するように話に入っていくっていうことをやっているうちにですね、
ある意味のめり込み過ぎているわけですよね。
つまりその人が体験したことを
体験させられるところまで来ちゃってるわけですよ。
話を理解するっていう水準を突破して、
なぜならばその話を理解したくないからなんですよ。
ってことは、このクライアントさんは
手の震えを作り出してまである意味、
クライアントの心理的構造
話を理解してほしくて、
その話を理解したくて、
藤山さんのところに来ているはずなんだけど、
その理解が嫌すぎるんですよね。
あまりにも嫌な理解なんで、
理解したくないもんだから、
全然違わないんだけど、
その話の本質には踏み込めないような物語を
延々紡ぎ出してしまうわけですね。
その物語はよくできてるわけですよ。
両親は船家だと。
事実にマッチしてるじゃないですか。
両親は船家なんですよ。
だから私は両親の二人の機嫌を取るように
気をもんで、
親の二人の間を取り持つようにして、
やってることは間違いなく事実そのものなんだけど、
確信に触れてないんですよね。
つまり、一番の確信は何かというと、
この話、一見したところけなげない、
いい子になってるじゃないですか。
このクライアントの女性は
多分そういうアイデンティティを持っていたから、
こういう嘘ではないんだけど本当ではない、
みたいな話を作り出しちゃうわけですよね。
そういう気をもんで、
そういう風に抑鬱状態になる人は
よくいらっしゃるからみたいな話を
しませんよ、どういう話をしたのか。
でもそういう話をするじゃないですか。
よくわかりますと。
共感的にね。
するじゃないですか。
話をじっくりと聞いて。
だって話は辻蔑だって、
ちゃんと整然とした話されるんだから、
そうでない話する人もいっぱいいるはずだから、
藤山さんのところでは。
という話には、
あっさりと耳を傾けやすいじゃないですか。
傾聴しやすいじゃないですか。
で、共感するわけですよね。
そうやって両親の、
よく書いてあるじゃないですか。
カウンセレーラーさんが正規のですよ。
カウンセレーラーさんが
ビジネス書向けにも書いてるじゃないですか。
親の起源取りとか、
親の顔色を伺って生きてきた。
私そういうタイトルの本書いたわけですからね。
親の顔色を伺ってませんか。
そんなことしなくていいんですよ、
みたいなこと書いてたりするじゃないですか。
こういう線に沿って、
この話を理解すると、
究極的には何も理解できないまま、
カウンセリング終わっちゃいそうじゃないですか。
で、手の震えとかだって、
人によっては見落とすかもしれませんよね。
ショットだったんだけど、
そのうち、
手はちょっとまだ震えてるんですよね。
あっ、それはちょっと辛いですね。
なんかお薬あるって、
私、薬出せませんけど、
お薬あるみたいですよ、みたいな。
こうして、
何事もなかったかのようにね、
話し聞いて、
ああ、先生はすごくいい話を、
話ししてくれたし、
聞いてくれたし、
もうとっても良かったです。
元気になって、
会社に行けるようになりました。
じゃあ、さよならってことになって、
完全に成功した事例になりますよね、
これで。
っていう含みを僕は、
この本の冒頭に、
置いてる感じがするんですよね、
藤山さんがですね。
やっぱり、
騙してるわけじゃないのに、
みんな騙されるわけですよ。
そして話が終わっていくと。
これだって結構、
ちゃんとした良いカウンセリングだったって、
話に多分なると思うんですよね。
世の中、もっと正規でないものにせよ、
正規であるものにせよ、
ずさんで適当でいい加減なものは、
ありますからね、やっぱりね、
残念ながら。
ないとは言えないんで、
ここまでやればもう十分だ、
みたいなノリになってる気がするんですよ。
つまり、話をちゃんと聞いたと。
会社にも行けてると。
別に十分じゃないですかと。
お母さんとお父さんが、
あんまりお互い仲良くなさそうなんだけど、
私という子に対しては優しくしてくれたから、
私は一生懸命、
両方の間を持ってね、
顔色を伺って頑張ってきたんだけど、
ちょっと疲れちゃったと。
だからそんなことを今、
頑張ってやらなくていいんですよとか、
なんとか言っていて、
カウンセリングっぽくなっていくわけですよね。
っていうか、カウンセリングですよね、
それはね、それで。
で、何がいけないんだよって話なんですよね。
何がいけないのかは、
自明じゃないんですよ。
いけないのか、いいのかだって自明じゃないんですよ。
ただ、精神分析という営みの中で、
藤原直樹さんがやってるのは、
これは生きた感じがしないっていう、
その感覚なんですよね。
で、それエビデンスないじゃないですか。
それは死んだのか生きてるのかを、
リトマス詩的に測れるものがあるのかって、
ないですよね。
だから困るわけですよ。
これは精神分析であるべきだとか、
その方がいい結果を生み出せるんだとか、
本当なのか嘘なのかみたいな話を、
どこどん詰められればですね、
多分困ると思う。
困らないかもしれないけど、
結局は、いや、そんなの信じないからって言われて、
終わってしまうことはあり得ると思うんですね。
だけど、抜けてるものが、
少なくとも藤山さんの目からすると、
どうやって終わったら抜けてるものがある。
一つは、この些細な症状は取り切れてなかったっていうようなことだし、
仮にそこは置いとくとしてもですね、
置いといちゃダメな気もするけど、
でも置いとくとしてもですね、
もう一つは、こっちが重大なんですが、
罪悪感を自分という存在そのものに
罪悪感を抱いていると。
結局、自分が生まれたせいで、
両親はもう永遠に仲良くなれないし、
多分一生男女としてセックスもしないだろうって、
ここで性って問題が出てくるわけですね。
ところで、藤山さんが最後にチラッと書くわけですけど、
この女性は十分魅力的なのに、
性っぽい話すら一向に出てこなかったのが
負に落ちたみたいなことが書いてあるわけですね。
そういうことですよね、結局ね。
だって自分自身の存在に罪悪感を抱いていて、
自分が生まれてしまったおかげで、
両親の関係が性愛的にも恋愛的にも
夫婦関係としても意味のないものになってしまっているのに、
永遠そこにいて、家族構成だけはきっちり頑張ってます
みたいな状態になっていて、
子供はその船かに木を揉んでるばかりっていう
この家の状態に生きてるものが何もないじゃないですか。
で、そのことに気づきたくなかったわけですよね。
そういう自分でありたくもなかったわけですよね。
っていう悲しい話ですよね、これはね。
だからその悲しみが抜けてるわけですよね。
木を揉みましたってのは悲しいってこととはちょっと違うじゃないですか。
気づかれしますってことですよね。
そこまではいけてるんだけど、そこまで当然いきますけど、
気づかれじゃないんですよね、問題はね。
悲しいってこと。
自分ではそれについて考えたり気づいたりすることが
はばかられるほど悲しいってこと。
そのことには踏み込めてないっていうことが
その人を知らず知らずのうちに
父の役割と影響
欲打つ状態を重くしていくみたいなことが
つまり悲しめないという感情を
未評価のまま心にずっと置いておくから
ここまで言っちゃうと先に行き過ぎてるんだけど
でもそういうことですよね。
感覚的にも
築じる話だと思うんですよ。
そういう話を書いていて、なるほどこれは
ありそうなことだなと思うんですよ。
こうやってカウンセリングが表面的に終わっていくってことも
ありそうなことだし、そういうことは書いてないけど。
で、こういうふうにして話の
本質に入るのがすごく難しいってことも
これでなんとなくわかりますね。
なんでこの話が
相談という体としてちゃんとなされないのかというと
相談されている、解釈する私ってものが
いなくなっちゃってるからですね。
なぜならば藤山さんはそこで
お父さん役をやらされていて
お父さん役やってる以上はですね
この物語がどういうものが
そのお母さん役をやってるクライアントと一緒に
物語という子供を生み出して
その子供の世話にかかりきりになっているもんだから
この全体としてここで起きているこの事態は何なんだろう
っていうことを考える人がいないんですよ。
精神分析家がどっかに行っちゃってるわけですよね。
それがスローモーションで殴られるシーンも同じで
私とあなたの間は一生懸命やってきて
ここまでうまくいったじゃないですかっていう
心理状態になっちゃっていて
つまり考えるための精神分析家が
精神分析家がそこにいなくなっちゃってますよね
っていう話なんですよ。
考えてないからそこで物語とか
殴られるかどうかっていうような話とか
そういう話に熱中させられるっていうのかな
要するに再演といったりもしますけれども
演技でないんで再演っていうのも再現なんでしょうけど
微妙な表現だなと思うんだけど
他に方法ないんですよね。
あれですよ赤ちゃんがガーッと鳴くじゃないですか
技術家の説明って現象的にはそこに行き着いてるわけだけど
ガーッと鳴いた時にお母さんの血がカッとなったら
解釈する人いなくなりますよね。
赤ちゃんが体験していることと
お母さんが体験していることがイコールになっているわけで
さっきのクライアントさんの罪悪感と
要するに死んだものにした夫婦関係というのが心の中にあって
つまり自分の夫婦関係死んでるなっていうのを
その人は心の中で無意識に持っていて
それをカウンセリングルームの中に登場させて
登場人物になってしまっていて
その状態に象徴的なんですよね。
メタファーはあるんだけどそのメタファーを解釈する人がいないと
それと全く同じことが子育てで起きますよね
ガーッと鳴くカッと鳴る
そうするとこの子は何を求めてるんだろうについての
解釈をできるお母さんがその場から消えますよね
赤ちゃん二人になっちゃうようなものですよね
そういう状態になっちゃうってことを言ってるんですよね
危機と自己喪失
藤山さんは
少なくともいくらかなっちゃうのは避けられないんだ
っていうことを言ってるわけですよ
余裕が全くなくなって
だって演劇をしてる最中に
ものを考えてちゃダメじゃないですか
なんかこうドラマ化なんかに出ている真っ最中に
何かのお母さん役をやってる人が
今日の晩御飯家では何にしようかとか考えてたら
演技に身が入らないですよね
演技に身が入るってことは私では
私でなくなるってことですね
別の人になっちゃうわけだから
こういうことが起きますよっていう話をしていて
起きないんだったら何かまずいし
起きまくっているんだとしてもやっぱりまずいですよね
っていうだから中間の何かの状態が
欠かせないわけですよ
私に戻ってみたり演技してみたり
私に戻ってみたりっていうことが
欠かせないんだけど
自覚なく始まっちゃうんで
私に戻れなくなってしまうという時が来るわけですよね
そのことを危機っていう風に彼は書いてるわけですね
藤山さんが危機っていうこと
私を喪失する危機っていう風に書いてるわけですよね
これは先日お話しした
結局あの
精神分析と共感
小霊ドーラという失敗霊と同じ話なんですよね
いつめて言えば
プロイトは知らず知らずのうちにお父さん役をさせられて
お父さんが娘にするようにドーラに説教して
完全に私が私でなくなってるわけですよね
プロイトがどっか行っちゃって
ドーラの心にあった私とお父さんの関係ってものが
そのまんま精神分析ルームに再登場させられていて
お父さんを廃役させられてるから
プロイトはお父さん役をやらされているから
私がこの状況について解釈する人間なんだ
あの当時は解釈とか転移っていうのがまだ
プロイトがこれから発明しますの状態だから
しょうがないんですけど
だけどそういう問題じゃなくて
結局私たちにもそういうことが頻繁に起こるわけですよ
傾聴して寄り添って
共感的に対応するっていうことをやっているうちに
これは絶対やる必要があるんだけど
これをやっているうちに
これをやっているということのこれが
その人の心の中で起きている苦しみの種なんだという視点を
見失うんですよね
見失うぐらいまでのめり込まないと
つまり一致ってやつですけど
のめり込まないと話を聞いていることにはならないし
つまり理解できていないわけですよね
赤ちゃんの鳴き声でガーッと鳴って
思わずお母さんがカッと鳴るというのは正しいわけですよ
赤ちゃんにしてみれば
ようやく私の苦しみがわかってくれたかっていう
ミルクを飲ませたりお物を買えたりするだけでは
不十分なわけですよね
それは対処であって
私は苦しんだってことが大事なわけですよ
お母さんが思わず我を見失うぐらい
だって赤ちゃんに我はないんだから
我を見失うぐらい苦しんで
初めて赤ちゃんの気持ちがわかると
ただしわかってしまうような状態になると
心の状態がそこに
東映ドイツ課ですけどされてしまうんで
今度はわかってしまうぐらい共感すると
わけがわからなくなってしまうっていう
そういう話なわけですね
なので
何が言いたいかというと
こういうのが精神力度の考え方にありますと
別に採用するしないはいいと思うんですよ
自由にやれば
したくなければしなければ
私はこれにひたすら
よくかかっていってるわけなんだけど
どこにでもありますよねこれはね
だって母子関係にあるぐらいだから
人間関係にはどこにでもあるじゃないですか
こういうことを
地下活動のように
秘密に広めていきたいわけですよ
みんながなぜか知っているみたいな状態が
一番いいと思うわけですね
例えばうちの子はドラえもんを
実際には見たことは
アニメで見たことはほぼないです
一度もないかどうかは知りませんけど
ほぼないです
でもドラえもんというものはなぜか知っていて
ジャイアンというキャラクターが
どういうキャラクターも知っているみたいな
ああいう状態に持っていけるのは
それは無理な話かもしれないけど
理想的かなというふうに思うんですよね
精神力堂っていうのは
特に対人支援やる人には
これは僕の偏見ですよ
みんな持っていたほうがいい
使わない別の問題として
知らないっていう状態ではないほうが
絶対ユーザーとしては
心強いんじゃないかなと思うんで
こういう話をしていけたらいいかなと思ってます