2022-05-13 43:14

【598GMV】なぜ精神分析とグッドバイブスだったか?

小さな積み重ねの先にあった危機
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おはようございます、グッドモーニングボイスです。
なんとか昨日の続きをやろうと、喋ろうと、記憶を呼び覚まそうとしているんですけど、
まあ、引き直しはいいじゃんって話なんですけどね。
昨日、多分、タスクシュートから、なんで精神分析なの?っていうところまで、途中まで喋ったと思うんですね。
で、なんでかっていう話は、つまり、母性と女性の問題があって、
ドイさんの患者さん、ドイタケオさんの甘えの構造の患者さんに、
助言と承認を欲する人っていうのが出てくるんですよ。
つまり、あれですよ。天皇は内閣の助言と承認を問うたらこうたらってあるじゃないですか。
そこに基づいて、内閣総理大臣を任命するとかあるじゃないですか。
つまりあれは、かなり形式的なものだと思うんだけれども、
それに近いんですね。助言と承認が欲しい人を言ってることって。
要は、自分で何かを決められないわけではないんだけど、決めるんですが、
それに対して自分一人だけではダメで、助言と承認をしてくれる人がいると決められるから、
そういう人が欲しいって言うんですね。
私はこういう人が欲しかったんだと思ったんですよ。あれを読んだ時に。
それがつまり、私にとっての助成なんですね。
この場合の助言と承認というのは、すごく勝手ででしてね。
反対しちゃダメなんですよ。助言と承認がしてくれる必要があるのであって、
反対意見とか、多分反対の仕方にもよるんだろうと思うんだけど、
反対意見そのものは求めてないんですね。
私はこれが母性というものの機能の弱さにハマった、主に男性の、つまりスキゾイド的なという意味なんですけど、
の人たちの一つの性格、一つのですね、いろんなバリエーションがあると思うんですけど、
一つのパターンにはこれはあるだろうなって思ったんですよ。
思い出すのが、ドステフスキーが悪霊って小説を書いてるんですけど、
あそこにスタブローギンっていう人が出てくるんですけど、
あの人が最後の最後でわけわかんない手紙をですね、
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ラブレターとは到底言い難い内容なんだけど、
それ出して自殺しちゃうんですけどね。
それ出して、そこにあるのもやっぱり同じなんですよ。
私には看護婦が必要なんだっていう、有名じゃないのかもしれないですけど、
よく引用される部分なんですよね。
あれがまさに、女性に側にいて助言と承認を必要とする、
あの人のお母さんっていうのが非常に困ったというか、
ややこしい人で、ワルワラ夫人っていう、ちょっと義学化されて登場する人なんですけど、
このお母さんに育てられるとこういうふうになるのはわかる気がするなっていう、
あの、ジゾイド的な展開なんですよね。
非常に私は、悪霊の中心テーマがジゾイドにあるわけではないんだけど、
すごくあれはジゾイド的な問題にハマっている男たちの群像劇みたいにして読む、
というか、私はそういうふうにしか読めない人間だから、
そういうふうに読んじゃってたんですけどね。
あれ、学生時代に読んだんですけど、あ、これはこれなんだよなと、
つくづく思いましたね。
学生時代、彼女が欲しかったってよく私、言ったり書いたりしてるじゃないですか。
それがあれなんですよ。
で、助言と承認っていうのは、なくてもいいわけですよね。
うっちゃけ。
だって自分はどうするとかこうするとか決めてるわけだから、
この話するとよっぽど気が弱くて決断力もないみたいなんですけど、
その辺がですね、私なんかそうかもしれないけど、
レフスキーはすごくよくわかってて、気が強くて決断力もあって、
全然女性にも困らないような、めちゃくちゃ押し出しのいい感じの男性が、
実はそうだっていう話で自殺しちゃうわけだから。
これはすごく大事なポイントだと思うんですね。
表面的にはわからないんですよ。
すごくなよなよしててダメっぽそうならば、現実にはそうかもしれないけど、
そういうだけの問題じゃないってことをレフスキーはよく知ってたというか、
そういうキャラクターとしてあれを出すことでですね、
そうは表面的に見えないにも関わらずっていう問題も打ち出せてたと思うんですね。
自分で何でも決断してるように見えるんですよ。
なんだけども実はそうじゃないと。
その問題の大元のところには結局自分一人ではその判断に対する何の確信もないっていう問題が挟まっていて、
その確信のなさというのはこの番組で言うところの母親が不在なんですね。
不在というのは本当はおかしいんですけれども、でも機能していないんですね。
だから助言と承認を自分で与えればいいんですよ自分に。
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でもそれができないというかできる感じが一切しないので他人にそれを求めると。
そして母親というのは普通女性ですから、だから女性にそれを求めてしまう。
そういう展開が、そういう心理的なからくりがあるんだけど本人はそれをあんまり意識していないので、
それは彼女が欲しいんだと思ってしまうんですね。
そういうことをChangesという有料マガジンで一生懸命書いていたわけですよ。
本当に必要なのは彼女じゃないんですよね。
彼女じゃないとか言ってもわけわからん話になってしまうんですけど、本当に必要なのは助言と承認なんですよ。
私はタスクシュートをずっと使っていて、ここに焦点が当たり始めたというのが前回の機能のお話なんですね。
いくらタスクシュートで見て、これが依頼であり、このままのペースでいけばできて、この1日のペースも完全でと。
つまり自分の判断としてはもうこれ以上できる材料はないんですよ。
これはこれをやるしかないっていうところまで来てるにもかかわらず、それができないというか、
それをするのに一定の確信が自分の中にない状態でずっと人生をやってきてしまっているというその先に、
昨日言ったようなクライシスが待ってるわけですよ。
買い物とかでよくあるじゃないですか、これ買うしかないと。
比較もいろいろ検討したし、例えばですけれども最近で言うと、うちなんかですとですね、
木枠みたいなのがあるんですよ、ガーデニングで。
木枠とかって、何かって言いながら素人とかわかんないじゃないですか。
でも寸法もかかり、いろんな条件、情報を徹底的に、この辺もgoodvibesに出てくる話なんですけどね、
倉園さんが書いてますが、とにかくあらゆるものを比較して、ありとあらゆるデータが揃って、さあこれを買いましょうと。
ポッチできないっていう問題はあるわけですよ。
これは私途中に言うわけじゃなくて、うちの奥さんによく出てくる問題なんですけど。
買ってって言われるわけですよ。
買ってっていうのはワンポッチすればいいわけですよね。
特に金額がでかくなってくるとこういう問題が起こりますよね。
もはやデータでは、つまり決断をする以外にできることは何もないんだけど、まさにそれをしたくないわけですよね。
こういう時こそ、助言と承認が欲しくなるわけじゃないですか。
なんとかコンサルタントとか、なんとかアドバイザーとかが活躍するのは結局ここなんですよね。
それでもいいですよ。それぜひ買ってくださいって。
この一言があると何か変える気がするわけですよ。
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どっか責任の押し付けみたいなところもあるんだけど、実際になんとかアドバイザーの人が責任を取ってくれるわけではないですからね。
でもお見合いとか何でもそうじゃないですか。
最終的には何の責任も取ってくれない人の助言と承認ってすごく大事になったりすることはありますよね。
まさにこれなんですよ。
これをやるのが非常に専門的な言葉で言うところの、多分内的対象としての母親なんですよね。
内的対象なんだから自分に決まってますよね。
自分の中にいる自分の対象なんだから自分以外の何者でもないんですよ。
つまり自分に助言と承認を出せるのは自分以外の何者でもないんだけど、
それを外に投影してしまいたくなるというか、うんと幼かった頃の記憶が蘇ってきて、
そしてその時の記憶というのはですね、今から思い出しているせいで非常に頼りなく寄るべなさってフロイトが書いているんだけれども、
寄るべない存在なんですね。思い出すからいけないんですよ。
当時赤ちゃんだった時の自分はきっと寄るべなくなんかなかったんだけど、
後から赤ちゃんのことを思い出せば誰だってそれは頼りなくて何にもできない赤ちゃんじゃないですか。
まさに全て内的対象じゃないんだけど、外在する母親が全部やってくれてできたということが後からは分かるんですよね。
その時そういう自分だった、あの時の自分というものが、これは誤解なんですが、
全く頼りにならないのによくあんなのでやってこれたなと。
ここで私たちが考えることってのが再現性がないなって思うんですよ。
あんな風であったら絶対無理だって。そんなことはないですよね。
ほとんどの赤ちゃんはあんな風にやっていってるわけですよね。
お母さんに訴えうる可愛らしさとかそういうものも全て武器になる、こういう言い方をすればですけど、
そういうもので実際やってって、そのほうが頼りになるのに、
私たちは何かそういう観点から何らかの意味で、これがフロイトが言う神経症の時代なんだけど、
追い出されてしまって、阻害されてしまって、あれじゃやっていけないって思うんですよ。
グラズノさんが緑の本、グッドバイブスご機嫌な仕事術の一番冒頭で書いてたじゃないですか。
リスの話が出てきたじゃないですか。そしてリスじゃ生きていけないっていう、
あの感じを僕らみんな持ちがちなんですよね。
そして僕らが生きていけるやり方という、このほうがはるかに頼りがいがあり安全だっていう生き方を私たちは選択するということなんですよ。
一つは最大のポイントは衛生面ですよね。そして食料の確保ですよね。
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つまりワイルドでなければないほどいいわけですよ。最後のあたりに来るのが保険だと思いますね。
衛生面を充実させて食料事情を確保して保険に入っておけば安心なわけですよ。
リスはそのどれも持ってないわけですよ。だけども忘れちゃいけないのは、
僕らが今生きているということは、昔はああいうリス的に生きていたことによって成功しているからであって、その逆じゃないはずなんですよね。
うちの目高もそうですが、保険とかに入る気はさらさらないわけですよ。
そして衛生的でも全くないところで、食料事情も万端私に一任されているわけですよね。
だけど生きていることは確かなんですよ。このような生き方は危ういっていう話をそこ賢でやっているじゃないですか、今もね。
ほんのわずかな出来事においても、私たちはそれが気になって気になってしょうがないわけですよね。
この気になって気になってしょうがないから神経症だってことになるんだけれども、
例えば記録を残しておかないと、人に会った時に失礼なことをしてしまって死ぬみたいな、
この死ぬまでの距離がものすごいあるんだけれども、要は何か致命的な傷を負うんですよ。
私たちはその分ワイルドじゃないってことなんですよね。
さっき言ったリスだの目高だのはワイルドなんですよ。
私たちはワイルドじゃないってことなんです。つまりこれは引き換えにしてるんですね。
衛生面の充実だのワイルドじゃないですよね。食料事情の確保、これもワイルドじゃないですよね。
保険でしょ、これもワイルドじゃないですよね。
こういうものによって身を守るということによって、私たちはワイルドさというものを売り渡してるわけですよ、言ってしまえば。
だから自分からどんどんなくなったものが一方でワイルドさであって、
一方ではその代わりに人工的な安全というものを、安全安心というものを獲得していくわけですね。
こうして弱くなるわけですよ。
だから程々にこれをしようねっていうのが、クラゾンさんがよくおっしゃってる話だと思うんだけれども、
これを程々にせずにいたために、私がぶつかったのがミッドのクライシスなんですね。
たぶんそういう流れ。
ここの途中で私が母性と女性という問題に、一番底が自分の弱点として浮かび上がってきていたから、
そこのところで自分はまずタスクシュートから限界に達したところで、精神分析を再度引きずり出したんですよ。
自分は精神分析を言ってみれば、地層の下の方、下の奥の奥の方に埋め込んで、
取り出す前に二度とこれを出すのをやめるぞと。
私、かわい早尾さんの本とか、盛大に売りましたからね、ブックオフに。
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そういうようなことをして、100冊は絶対売ってると思うんですけど、そんなもんじゃないですね。
もっと遥かに売ったような気がします。
その上に、認知行動療法的な、あるいは認知心理学、そして脳科学だな、
昨日これを言い忘れたんだ。
認知神経科学というのが正式名称なんですけど、実は脳科学という言葉はどこにもないんですけどね。
認知神経科学なんですけれども、
だから、認知神経科学って逆なんじゃないのかな?
コグニティブニューロサイコロジーなのか、ニューロコグニティブサイコロジーなのか、
コグニティブニューロサイエンスとか、日本の方は時々そういうのはないんだっておっしゃるんですけど、あるんですよ。
アメリカの学部とか行くと、そういう学部はある大学とない大学とあって、結構いろんな名称あります。
そのうち、脳科学だって出てくるんじゃないですかね、ブレインサイエンスっていうのが。
今のところ脳科学だけでは出てこないような気がするんですけれども、
認知神経精神分析学みたいなのもありますからね。
コグニティブニューロ、まあいいや、そういうのあるんですよ。
ないわけじゃないんですね。やろうと思えば結構なんでもできちゃうっていうところがあるんで、面白そうなことが。
それはいいんで、要は私がいわゆる分析の方を引きずり出さなきゃなんなくなったということは、
中年度危機に陥ったせいであったんだけれども、
それは結局タスクシュートが何度も示唆してきたこと、
タスクシュートって何度も同じことを繰り返しているぞということを突きつけてくるところがありますから、
何度も繰り返していること、つまり助言と承認をくれない、
どこへ行っても誰もそれをくれないというときに、
はなはだまずいことが起きたときに、つまり多くの人がNを発し始めるわけじゃないですか、ニードをね。
ニードをね。多くの人が泣き叫び始めるわけですよ。
てめえ、なんとかしろというわけになるわけですよ。
これは何なんだろうということなんですよね。
なんとかしろと言われても、なんともできないからなんとかしろと言われているわけですよ。
例えば私の父から電話がかかってきて、妹の身柄を確保して、
いい精神病院に措置させる方法を考えてくれと言われたりするわけですよ。
完璧にNですよ。そんなことできるわけないんですよ。
まず妹どこにいるのか分かりもしないのに、身柄をどうやって確保するんだと。
誰も連絡も取れなくなっているし、連絡を取るなんていうのが最後にメッセージとして発されたりもしたにもかかわらず、
どうやって身柄を確保するという、どこに行けば身柄が確保できるのか、
いった方面も方向もさっぱりわからないのに、できるはずがないじゃないですか。
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もう一つ素人考えなんですけど、いかにも人をそうやって成人している、
バッチリ成人している人を、無理やり身柄を確保して病院に連れて行ったりすることは、
人権問題で絶対できないんですよ。これは私、厳しくですね、
シロバインの警察官に言われたんですよ。
たとえ警察だとしてもそういうことはできないんだと。
もちろん暴れたり殴りかかったりしてくればできるけれども、
ただ、怒ったりしているということで、どうしてそういうことができる、
という話をされたことがあって、だからそういう話は非常にエヌなんですね。
ニードなんですよ。ただ無理なことをしゃべっているだけでしかなくて、
それに対するニーズを提供するということは、他人にはできないんですね。
そういう無理に無理をした結果、ぶち当たっちゃうわけですよ。
やむを得ず体はジンマシンでも出しておくしかなくなるわけですね。
これが私がハマって、分析の本を猛烈に再読し始めた大きな経緯であって、
そういう観点で見ると大変不思議なんですけれども、
全然昔読んだときとは違う文脈で読めるんですね。
全然違う文脈で読めるんですよね。
甘えの構造も、例えば漱石の長井大輔が甘えているというのは、
全然違う文脈で読める。全く同じなんですけどね。
確かにそう書いてあるんだけれども、でも全然違う文脈で読めるんですよね。
いわば発泡塞がりになるときにニードを発するというのは確実に起きてしまうことで、
発することが、そのニードが発しても無駄だとなればなるほど、
人は追い詰められていくし、最終的には心身傷、私のようにね、
身体が無理だというのを言う代わりの出来事が起き始めるわけですね。
そうすると、人物が発するというこの無理だというのは、
私が何も誰かに、奥さんにとか親にとかそういうことを言わずにも、
病院に行けって話になるじゃないですか。
つまりそういうことなんですよね。我々ではニーズを提供できないから、
ニーズを提供できるところに行けと。そしてまた、行くことそれ自体がニーズになるわけですよ。
私はもうこの空間にいて、人のデマンド、要求に耐えうる状態になくなっているから、
ごく短期ですけども、入院っぽいことにもなったわけですよね。
そういう展開というのが起こる、起こすんですよね。
自分の側で、私が意識的にというのではなくてね。
この時にグッドバイオスだったわけです。
だんだん話が長く、しかも込み入ってきているんですけれども、
平行して、精神分析と平行してですね、グッドバイオスという方向になるわけですよ。
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つまり、つまりでは全然ないですね。
どこから行けばいいのかがすごい難しいんですけれども、
僕の言葉で言うならば、ニード。
ニードというのはつまり、不快感というものが、不快という要因がそこかしこにあるわけです。
私の中にも当然もう、不満やるがないと言ってもいいくらい積もり積もっているわけですよ。
はっきり言って私は、その時もそうでしたけど、お金もなかったから、これもニードですね。
お金がないとか言っただけでは誰もお金くれないじゃないですか。
つまりニーズになって戻ってこないですよね。
だからお金がないというのは、お金がないお金がないお金がないなんですよ。
ニードなんですよ。
まさにウィニーコットというのは上手いこと言うと思うんですけど、犬が犬であるは犬であるっていう、まさにそういう感じなんですよ。
あの、ドックイズワドックイズワドックっていうのは、なんかこう、謎かけされているみたいな気になると思うんですけど、
と思うんですけど本当にお金がない時に人が言うことはこれですよ お金がないお金がないお金がないじゃないですか
えっとそうしたからお金が降ってくるとか言うことはまあオカルトになっちゃいますしね つまりお金がないお金がないお金がないというのはニードなんですよ
ニードというのは本当に言いたい表現は取れないってことだと思うんですね えっとそれを言っても何にもならないような要求というものを
しかし発せざるに発さずにはいられないそういう状態 ジンマシンもそうですよ体が痒いジンマシンが出た
何もならないですよそれを言って誰も何ともできないですしね でもとにかく何とかしてほしいと助言と承認が欲しいということなんですよ
でえっと依頼をするわけですけれども 依頼をいくらしてもですねもはや依頼をできてないということなんですね
最大の問題ここにあるわけです依頼ができてないわけです ただニードが自分の中にあるだけで誰にもそれを依頼することができていない
お金くださいと言ってない ジンマシン沈めてくれとも言ってない
失踪したのを引っ張り戻してって言われたんだけどこれは依頼になってない そんなこと私にできないことは明らかですからね誰が誰が考えてもって言ってもいいと思うんですけどね
ありとあらゆる意味でニードなんですよ 母は入院するしその成功率もよくわからない
説明いくら聞いても心房と写真室がどうのこうのって 昔中学校の理科で習ったような話を
厳精密にされるんだけどさっぱり意味がわからないわけですね そういう話を延々聞いていて
不毛な感じしかしない そういうことが立て続き
まあ結果としてなんだけど立て続くわけです でこういうところから
一つ一つずつっていうのかなあのまず何よりも えっとこれも大変不思議だったんですよね
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だから私はグッドバイブスで相談しに行ったわけです 個人疾患を受けに行ってお金がないんですって
まず言ったのはまさにこういう背景があるからなんですよ 犬は犬であるんですよっていうことなんですよ
相談とはそういうものなんですねこれが言えるだけマシで これが言えなくなるとどうなるかというと
完全に黙秘しますと 相談しに行っているのに完全に黙秘して何になるんだってことなんだけど
精神分析でよく出てきますよね 1時間中緩黙であったみたいな
1時間中黙っているということに意味があるわけですよ まざわざ接種を受けに行って
私はまだもうだいぶマシな方だったから お金がありませんと
これも非常に不思議ですよね だって接種を受けに行ってお金払っている立場ですからね
立場としては お金がありませんという物体は何になるのかと
当人もそう思っていますよ カウンセラーの方がお金くれるはずはないわけですから
そういうことなんですよ でももちろんこれだけが言いたいわけではないんですね
問題なのは多分このまま行ったらお金はないにもかかわらず働けもしなくなるだろうな
というそういうどうにもこうにもならない見通しというものだけがドーンとあるわけですね
その時に非常にこれも全問答みたいになりやすいんですけれども
結局でも結論として出てくるものはですね つまりこの接種を受けに行った後家に帰って何をするか
依頼に応えるってことなんですよ そういう解釈しかできなかったんですね
当時の私の考えを受けた感じとしては 依頼に即応しましょうと
これは一体何なんだろうって感じになるじゃないですか
グッドバイブスにもよくそこのところ話題になると思うんですけれども
依頼に本気で応えると 健全に調子よく上手くいっている人ごとつまり私がかつて
タスクシュートを手に入れて万事OKだった頃 絶対そういう考えは受け入れられなかったと思うんですね
だからクライシスにぶちつかったんですけど これは誤解しないでほしいんですけど
そういう生き方をしてたらクライシスにぶつかりますよとは 言ってないつもりですよ私は
そういう人生の教科書みたいな話ではないんですよ 結局そういう話になってしまうんだけれども
これは何かの法則とかではないと思うんですよね
ただAでうまくいくやり方というものが 永続するように世の中はできていないわけです
当人も変化しますし周囲も変化しますし 結局私がやられてしまったのは周囲の変化ですよねある意味
当人の変化もあるんだけど 例えば廊下とか単純なところで年老いると弱くなりますからね
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同じように働けなくなる 同じようなタスクシュートを使って同じようにやってるつもりでも同じように働けなくなる
そして周囲も変貌する 誰かがいなくなってみたり誰かが手術受けてみたりするわけですよ
そういうものに変化に対応できなくなると言ってしまうと簡単なんだけど
それも何て言うんですかね ただそれだけのことではなくて
変化に対応しようとするやり方も方法も 何一つ明らかになってはいないんですよ
一番昨日もお話しした通り 最初に叩き込まれていることが時間大切にしなさい
お金は頼りになりますってこれですから そしてライフハックやりなさい
母はそうは言ってないけど母の考え方はそういうものですから あれ大元には今日はその話は展開しませんが
牛丼っぽいものがあるんですよ 母は好きなんですよそういうものがね
自己犠牲的な中心蔵とか好きなんですよ 非常に大事なポイントなんだと僕はこれ思うんですけれども
マゾヒスティックなところがあるわけです 男性的なね
非常にそれはライフハックというものと 僕は縁があるなと思ってるんだけど
その線で押していったら最後腹切ることになるじゃないですか こういう問題なんですよ抱えている問題というの
時間をいくら大切にしても時間を大切にするということは 依頼に本気では応えたくないっていう風になりやすいんですよ
絶対そうなるわけではないんですけどね さっきも言った通りこれは法則のようにそうなるわけじゃないんだけど
時間を大切にするんだからやっぱり くだらない用事にかかずらわっているわけではわけにはいかないし
となるとどうなるか 例えばいなくなった妹の身柄を確保しろ
無理なんですよ1日費やしたって無理なのに そんなことにかかずらわってる場合じゃないんですね
こうしてえっとなんて言うんですかね依頼には答えないという姿勢が そこかしこでっていうのかな
タスク一つ一つについて確立していくんですね いやそれをやる前にまず原稿だろうとだけれども
こういう環境的背景を持ちながら原稿を書くというのは 花々厳しいものがあります
こういうことが一切起きずに円満な状態で演講書くのと 身柄確保しろという無理なニードがあることがわかっていながら
そしてその電話がつとつとかかってくる ほぼ毎日かかってくるという背景の中で
原稿書くと非常に厳しいものがあるわけですよ その中で家族旅行とかに行ったりするわけですよ我々は家族旅行に行きながら
自分が考えたことは決してそういうことじゃないんですよ で家族旅行に行きながらそういうこともそういう実家からのニードについて考えなきゃいけない
そして 夫婦仲も今から見れば
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ごく最悪ぐらいのレベルですよね でも家族旅行には行ってる そしてお金のことを私は常に心配してるから 本当は旅行というものそれ自体をしたいわけではないと
そういうニードが私の中に溜まっているわけです この中でしかし旅行先で原稿とかを書きたくなるわけですよ
一方ではそういうものが手につく心理状態にはないけど 他方ではまさにそういう だって原稿を書けばお金になるからね
そういうふうに発想するわけですよね
依頼には応えたくないわけですよ ちなみに原稿とは依頼ですよね
できるだけ本気を出したくはないというか本気を出すというのはもう 本気を出すというのは
詰まるところはですね 私はシングルタスクにするってことだと思うんですよ
シングルタスクにならないんですよね 頭の中にいっぱいニードがあって 私のニードをまず何とかしてほしいわけですよ
こういうことをずっと考えてきて
でもまあ倉園さんのセッションをせっかく受けたんだからということで 一つ二つ私の当時の私からすると一つですね
全くどうしようもないぐらい 死ぬほど馬鹿げている
依頼を即座に本気でと言えたかどうかわかりませんが もはや即座ということも言い難いんですが
やってみて多分当時はっきりは全然わからなかったんですけど 当時私が掴みかけたこととして
依頼に答えるということは つまりさっき私がずっと放置していた自分のニード
ニードを言ってしまえば
ニーズに対応させるということなんだと それがわかったんですよきっと
やむを得ずやったんですよはっきり言って セッションを受けたからやるというのはやむを得ずやるというのとまたちょっと違うんですよね
何て言うんだろう やりがいが全くないことを
それでも自主的にやるしかないような気がしてやるっていうそういう感じですね あのあれだ
夢を叶える像という自己啓発的な本の中で 冒頭で神様の我寧者の像に主人公が靴磨けって言われるんですよね
でまぁ いろいろと抵抗しつつもまあとりあえずしょうがなく靴を磨くああいう感じ
全くこう何の意味もどうせないんだろうなと思い 何の意味もやりがいも感じずにやるんですよ
そういうものってやるときは 私もそういうふうにして
グッドワイブスでやったというよりは
もうあんまり他に手段もないし つまり
ドックイズはドックだからやろうと こういう
こういう何て言うんですかね 独特の定観みたいなものっていうのが
33:04
割と人生では効くなって時々思います もう一つはやっぱり主軸としてはこれなんですけれども
つまりNをNのままにしているから クライシスになっているわけですね
もうこれは確実ですよね NをNのままにしておくありとあらゆる信号が後から話をまとめているからそうなんだけれども
助言と承認というのはつまり助言と承認は必要なんですよ 助言と承認なくして無理やりブンブン
力技で進んでいったからこれでいいんだと思って アマゾンでポチするとかそれは助言と承認なしで突き進んでたわけですね
これを繰り返していたから一つ一つはいいんですよ 小さなことなんでだけれどもこれを100万回とか1億回とか繰り返すから
クライシスに来るわけですよね つまりNがNのまま黙って信仰しているということは
究極的に言えばニグレクトですよ 私が自分のこれはもういわゆるよくあるところのカウンセリングですけど
私がいわゆるインナーチャイルドを私の中で ニグレクトするからそういうことになるわけで
依頼に応えるというのはつまり当たってないかもしれないし 適当ではないかもしれないけどとにかくニーズを出せってことなんですよ
この番組の文脈で言えば だからニーズを出したと
そういうことが大事なんですよ 子供は何をしてほしいのか知らんが
ここに子供がいて困ってるんだからとりあえずあやしてやるわけですよ ここから始めるしかなくて
とりあえずあやすと ここで私もよく今では聞かれるんです何をしてやればいいんでしょう
その問いを立てないことなんですよ 何をしてやればいいんではないんですよ
わかんないんですよそんなことは というかわかんないからこそニードなままだわけで
わかるまで頑張りましょうと本気でやるってそういうことじゃないですか わかるまで頑張りましょうと
だからいくつかの中でそのしょうもない依頼を聞き そのうちに行き当たったのが父親の言葉を
一生懸命聞いたんですね 身柄確保できないから
でここで非常に多く言い争ったわけですよ 実際には何の言い争いにもなってないんですけどねなぜなら当事者同士の利害は不一致
ではない もう一つは当事者同士に怒りは覚えていないのでただ言い争ったわけです
だってどうしょうもない問題をどうにかしようとする時っていうのは しかもその2者はどうにかしなきゃいけないと思ってれば言い争うことになるんですよ
そういうことを知ることになるんですよね こういう依頼に応えていくという中で
依頼には応えてないんですよ 確保できるわけじゃないんだから
でもこれが不思議と後転するんですよねそういう後に 全然後転するような結果は出なかったんですけど
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父親は失職するしね でもそれが結局後転につながっていくんですよ
だから依頼に応えるってのはそういうことなんだなと
Nを言ってみれば受け止めるとニードを受け止めるってことなんだなと 受け止め方は無様かもしれないし
そもそも受け止めていることにすらなってないかもしれないけど 拒否するっていうのはこれとは全然違って拒否すると不審とスマートに見えるんですよ
そうだと思いません?なんか父からのそういうくだらない電話はガチャッと切って即原稿に向かって
ビシッと原稿を出すってこれはある種の仕事術にある考え方ですよね
なんとなくこれの方がスマートに見えるんですよ そういうふうにスマートに生きている方もいっぱいいらっしゃる気がします
でも私はもうそれに限界があったんですね その方向性に限界があったんです
だから非常にこう不様なことにはなるわけですよ
延々そのどうしようもない会話を3時間も4時間もしかも家族旅行の真ん中でして
奥さんも娘すらもいい顔は絶対しないですよね そして何度しかも解決も見ない
ところがこれが大事だったわけですよ 結果的には
つまりそういう方向性に
足を 進めるっていうところまでも言ってないんだけど足を向けるぐらいな感じ
でもそれがグッドファイルスの方に足を向けたから 後転のいろんな
そこで得るものがやっぱり後から思えばそこで得たものは極めて大だと言うしかないんですよね
今になってわかってやっていることってある意味わかってやってるからやりやすいんですよ それでもその都度その都度困るけど例えばこう皿を割ったって奥さんに怒られて落ち込むんで困るとか
あるんですけどこれはもうどういう展開を見るか どうすれば破綻
どうすればこう なんていうんですかねまあそれこそグッドバイブスの方にあるいはどうすればニーズというものに
接していけるかがわかっているからできるんだけど 当時は全然わからなかったから
まさに私がだって当然じゃないですか私は助言と承認を必要としていたわけですよね 非常に必要としているわけですよ
100や1000欲しがっていたわけですよ で結局倉園さんの接種を受けに行ったんだって助言と承認を受けに
絵に行こうと思っただけですよ でまぁあらゆるカウンセリングはそうなんだけどくれないんですよ
そのようなもの まあ政治分析ではしばらくの間少なくともマネジメントという形のために
議事的にもまず助言と承認という形を取るケースもあるんですけれども まあまあ普通のいわゆる相談では助言と承認だけを得に行ってそれを手に入れて戻っ
39:06
このやり方ですと数年はかかると思いますからね やっぱりもう少し早送りというのが少し進めを早く進みを早くするためにはもう少し最初から踏み込まないとならないところがあるんですね
だから私の時には 踏み込んでもらったと思うんですね
結局その まあ何をしろという話には一切実はなってないんだけれども
私が聞いた話は具体化するならば 父の依頼に答えることにまずなるなと
これは論外に近い話だったんだけど だって金がないのに父の話延々聞いてる場合じゃないじゃないですか
しかも当時はですね 父の方も職業上の危機に陥っていて大変な問題だったわけですよね
それだけそもそも関わってる場合ですらなかったわけですよ
しかもまあしかもではないんだけれども つまりこれが
こういうことなんですよね結果としてなんだけれども 父に私が出したのが助言と承認だったわけですよ
これは多分父はそうは思ってないと思うし 父が最も人に実は求めないものだったんですけれども
だって坊さんというのは人に助言と承認を与える商売ですからねある意味
助言と承認を他人からそれも息子から得るっていうわけにはいかないんですよ
ここのところに非常に家族ゲーム的な問題というのは実際には潜んでいて
多分私の助言と承認というものを それが役に立つとかではないんですよ
役に立つとかではないんだけど助言と承認というものを得ることで
なんて言うんですかねそれをお互いがそれを交換し合う 逆転してますからね立場としては
交換し合うということによって どうにもならない問題はどうにもならない問題のままなのですけれども
でもどうにかできるこれは非常に何か矛盾したところがあるんですけど
こういう危機はそもそも矛盾を払っているからしょうがないですよね
それをどうにかするまではやめないということに決まるわけですね
多分それが本気になるということなんだろうなと
あの頃にそういうことがいくつもいくつも積み重なったわけですね私には
母の心臓の問題とかこれも私が本気になったところでどうしようもないじゃないですか
本来的に見てそもそも日本でこの手術ができるのは何にもいませんって話を聞かされているばっかりなわけですからね
結果だけで言うとその手術してないんですけれども非常にこう不思議な話がいくつも起こったんだけれども
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確実にわかったことはつまり不思議だってこともう一つはそれなんですよ
ニーズを出すということとニーズを出すってのは
赤ちゃんの時によく私も学んだんだけど非常にぴったりのニーズを出すことはできないんですよ
だけれどもそれで赤ちゃんとの関係はちゃんとうまくいく不思議ですよね
そういう不思議というものはつまり私たちが分かってないっていう証拠なんだと思うんですね
本当は不思議じゃないと思うんですよそれでいいんだと思うんです
だけれどもはっきりとこうだからこうだっていうことはわからないんですね
よくライフハック的に言うならば再現性のない話なんですよこれは
だから不思議になってしまうんだけども不思議でいいんですよ
そういうことなんだなというのがわかったんですね
その時に私たちがわかることは少なくともお互いがニードを出しまくって打ち合っている間は
みんな赤ちゃんになってしまっていてそれじゃダメなんだってことなんです
43:14

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