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2021-10-28 37:29

【GMV 486】怖い人がいたらそのニーズを理解してあげる

甘えさせるということ
00:04
おはようございます、グッドモーニングボイスです。
もう10月31日の話をするしかないので、来てねって話ですね。
この話を今日はしようと思ってるんですけど、昨日だと思うんだけども、おとといかもしれませんが、
つい顔色を伺ってしまう私を手放す方法に、星1がついたんですね。
この方にこそ来てほしいっていう感じなんですよ。
やっぱり思ったのは、本ってのは医療でも診療でもありませんから、
どうしても相手の話を聞きながらそれに答えるってことはできないわけじゃないですか。
一方通行なわけですよね。
これもそうなんだけど、一方通行なんですよ。誰も目の前にいないから。
反論とか疑問点とかをもらって返すという形がとれるのが一番いいんですけれども、
そうはいかない。だから、もらったという仮定のもとに返すっていうのをやるんだけど、
それだとですね、昨日のレビューにあった反対意見も全部僕は書いてるんですけども、
でもやっぱり書いてないことに、書いているように読めないわけですよね。
それは僕の側からするとイリュージョンの濃さ、濃いも薄いもないんですけどね、に寄ってるんですが、
結局僕が対面でいたところでですね、その人にとってそれが届かないということは大いにあり得るわけですよ。
医療や診療ではないという点においては、私が対面で喋ったところで医療でも診療でもないんですが、
本はそこから少し遠いわけですよね、当然のことながら。
だからここを、やっぱりある面では一番伝えたいところに一番遠いっていうと、一番遠くはないけれど読んでいただいたわけだから、
読まないって人は当然いるわけですからね。
遠い、その距離感というものを何とかするために、だからそこは文章力ってことにだんだんなっていくんですけれども、
限界があるな、現状の限界だなと。
昨日読んでみて、自分で本持ち歩いたこともあって読んでみて、
これ以上は難しいな現状、僕の力量から考えるというところはあったんで、納得感はあるんですけどね。
今このセリフを喋って思い出しましたが、
昨日千葉ロッテが終戦を迎えましたということはつまりオリックスが優勝したって話なんですけど、
つまり力量の限界っていうのはあるわけですよね。これはエリプスですよ。
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現実原則ですよね。より多く勝った方が優勝するわけです。
いくら一生懸命やったとか万全を尽くしたと言っても、そっち側がつまり母子の一体感なんだけど、
そうは言っても壁には突き当たる。この壁が大事なんですよ。
というわけで、ぜひ異論や反論があれば、せっかく倉園圭三さんもいらっしゃるんで来ていただけると。
多分なんですが、ダイレクトに異論反論を持ち込んで佐々木と倉園のいるところに行くのはむしろ嫌だっていうこともあると思うんですけど、
そういうことにはならないんですよね。ここもこれがまたエリュージョンの濃さってやつになるんですけど、
現実にぶち当たるからと言って必ずしも嫌な思いをするってわけじゃないんですよ。
ってことを僕は本で書いているんだけれども、どうしても現実にぶち当たるということは全て嫌なことなんだと。
今日はこの話をするんですけどね。現実にぶち当たるというのは嫌なことなんだと思っていると、
いかにも現実的なものがそこに僕みたいなのが立っていると、それだけでも嫌じゃないですか。
でもこの視点を取り外すことができると、一段と楽になることは確実だと思うんですよ。
なぜかというと、現実にぶち当たるのが嫌だということは、つまり非現実の中に生きていかなきゃならないっていう、
ここの難しさですからね、結局。この顔色を伺う問題というのは。
突き詰めていけば、毎回同じようなことを喋っておりますが、そういうことなので、
そういう目には合わないと僕は思うんですね。
なぜなら僕が怒鳴ったり怒ったりするってことはあり得ないことなので、
なぜあり得ないかというと、単純に言って恐ろしいと思っていないからなんですよ、もはや。
恐ろしいとかつて思っていたのは間違いないです。
星もそうですよ。星1は出版社に申し訳ないなとは思うんですよ。
アマゾンに悪いなとはあまり思わないですけどね。アマゾンってやってるシステムだから。
ただ、私はあれを昔は恐れてたんだけれども、今でも気分が落ち込みそうになりますけれども、
怖いと思ってないんで落ち込まないんですよ。
だから怖いと思ってないということは起こる理由ないんですね。
サイコパスか。だからこの話になっちゃうと本題に入ってしまうので、
とりあえず一旦ここで10月31日に、怖いことは起こらないです。
怖いことが起こるのは、私が怖いと思うからなんですよ、間違いなく。
セミナーの主催者が怖いから怖いのは、もし怖いとすれば、
セミナーの主催者が恐ろしいと思うことをやった場合のみが変動体モードが発生するわけですから。
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3Fがね。それは起こらないんですよ。なぜなら私は怖いとか思わないから。
その日、むしろ地震とか大地震とかが来るとかの方が、それは全然違う話になるんで別ですけども、
この対人関係においてセミナーをやるということ、私はもうそれこそ300回やってると思うんですよね。
もうやってると思うんだけども、結局一番最初の頃は少し恐れてたことはありますけど、
結局のところ、怖いと思ったことって本当の意味ではないんですよね。
そんなことを言うくらいならば、うちの奥さんに家で怒られる方が怖いくらいなんですよ、僕にとってはね。
怖いってイリュージョンなんで、その人がどういうふうに心の構造を持ってるかで決まってくるんですよ。
私が外で失敗するってことは、はっきり言ってそれほど怖いとはそもそもあんまり思ってなかったんですね。
今は全然思ってないんで、ということは怖いことはそこでは起きないってことです。
このカラクリなんですけどね。まあ、おいおい今から喋っていこうと思ってます。
つまり、心というのは他人からもたらされるっていうのは誰が言ったんだろう、ビヨンかな。
ウィニコットとビヨン、どっちももともとメラニ・クラインっていう人の弟子だと思うんですけど、
片方は追放されて、片方は生き残ったというか、ちょっとこの辺の言い方はいい加減ですが、そういう人がいます。
母子一体っていうことを盛んに言ってるのは、昔は僕らはみんな母子一体だったからです。
ここに実は他人を恐れなくていい最大の理由があるんです。
パワハラをする上司とかいう話もあるし、DVをする、昨日もそういう話があったんですけどね、そのレビューの中では。
あるいるし、サイコパスかな、ということになってるんですけど、彼らだって母子一体だったことは間違いないんですよ。
母子一体だったということは、彼らの心の構造も、僕はこの発見はでかいと思うんですけど、
もちろん後期のフロイトの延長戦にある考え方ですが、
でもやっぱり、ドミニコットとかビヨンって人たちはすごくそこに、ほぼオリジナルと言っていいぐらいの、
コペルニクス的な表現の仕方を見つけてくれてるんですよ。
ラカンとかが言うことだ、でもラカンは持ち出したくないんで、ラカンはこれっきりにしますが、
要するに心は他者であるっていうような言い方なんですけど、心は母親なんですよ。
どういうことかというと、この番組でも時々言ってますが、ニードをニーズに変えるのが心なんですよ。
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この時、抽象化ってものが必ず起きるんです。
僕の経験でも、これは倉田野さんが何回か僕の前で喋ってくれてたことで、
非常に近いっていうのがあったんですよね、ビヨンに近いっていうのがあって、
心というのは抽象概念を扱うことしかある意味できなくて、
これは精神分析のほぼ全域でコンセンサスが得られてると思うんですけど、
心は抽象概念が扱えなくなるのが病理なんですよ、精神病なんです。
具体的になっちゃうというやつ、これは説明がほぼ不可能です。
なぜならば、我々はそういう心のありようを知らないし、事実上ほとんど。
かつ、言葉を使うということはすでにそうじゃないって言ってるようなもんなんで、
どんなものでもそうですけど、言葉っていうのはすでにそれ自体抽象概念ですよね。
言葉を扱ってる以上、心が具体物しか扱えないということはありえないはずなんですよ。
ニードっていうのは具体的って意味なんです。
赤ちゃんは最初心がないので、というか心が形成されてないというべきなんですね。
ないので、抽象概念を扱えないわけです。まず言葉をしゃべれない。
だから空腹ということを知らないわけですね。
何かとにかく苦痛だという具体的な感じを抱いている。
これを投げるわけですよね、外に向かって。
叫ぶとか、ぐずるとか、何でもいいんだけど、外に向かって投げる。
それをその信号を受け取ったお母さんが、おそらくお母さんが、多くの場合お母さんが、
ニードをニーズに変換する。これをやれるのが心なんですよ。
ニードをニーズに変換するということは、お腹が空いている、これは抽象化ですよね。
いろんな空腹がありますが、ミルクが飲みたいとか、肉が食いたいとか、いろんな空腹がありますが、全部違う。
本当は全部違うんだけど、全部違うことにしていては、シグナルでも意味をなさないので、
それを全部同じだということにしちゃうわけですね。
お腹が空いたという名前をつけて変換する。これが心がやることですよね。
これができないというときに、我々はおかしな行動を取るんですよ。
つまり母子一体ということは、心が形成されるまで母子一体なんですよ。
心が形成されるまで母子一体ということは、心は母親が作ってくれるんですよ。
ここが最大のポイントで、ここのときに何かひどくこじれると、心がうまく作られないということになってしまう。
その場合に、例のサイコパスだの、DVだのという話が出てくるはずなんですよ。
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ということは、その人たちはいろんなレッテルを張られちゃうんですけど、別に悪人というわけではないわけですよ、と僕は思うんですよね。
心が形成されていないから悪人であるというのは、微妙な感じがするんですよ。
本人はニードをニーズに変えられずに困っているわけです。
ニードをニーズに変えられれば、おそらく社会で問題とされているような行動は起こらないはずなんですね。
ニードというのは切実な欲求ですよね。お腹が空いたと赤ちゃんが言っているような切実な欲求があるわけです。
したいことがなんだかが、自分の心の中で明快に切り替えられるならば、その人自分でそれをしますよね。
お腹が空いたと言って部下をすげえ脅すとか、そういうことはしないはずなんですよ。おかしな行動ですよ、それは。
お腹が空いたと言ってAmazonの星に1をつけて著者を叩きまくるとか、おかしいじゃないですか。そういうことが起こっちゃうわけですよ。
こういう言い方をすると批判がましいので、あまり言わないといいとは思うんですけれども、そういうことが起こり得るってことですよね。
その人は別に悪人じゃないじゃないですか。車が擦ったと。
私が先日宣伝か宣伝伝ぐらいですけど、擦ったわけですが、まだ放置してあるんですよ。
いろいろと保険金とか高いんで。そこにニードというものがあるわけですね。車が直してくれとか言わないですよ。心がないですからね。
車が直してくれと言いませんが、私がそれで車を直す必要があるなというふうに返還するわけですよ。
これ中傷化ですよね。車を直すっていろいろあるわけですよ。盤金なんとかとか盤金屋に持っていくとか、
単にコートで済ませるとか、もうちょっと簡単なところではオートバックス行ってなんかちょっと上から塗ってごまかすとか、いろいろあるわけじゃないですか。
すべて直すという言葉で一括して返還するのは中傷化ですけれども、この中傷化が車にはできっこないですよね。自分では。
だから私が母親となって、ここに比喩というものが出てくるんですけど、母親となって私と車は一体で、これ車の運転手って多少そう感じてますよ。
なんかね、傷がつくと自分の体に少し擦り傷がついたような感じが抱くんですよ。これ具体的ですよね。
明らかにおかしいじゃないですか。このおかしさがニードというものにはつきまとうんですね。おかしいんですよ。ニードというのはどこか。
これを、車の擦ったのを直さなきゃってなった時にニードからニーズに返還されて、そこで起きていることがもっと遥かに現実的で適切な形に修正されるというか、収納されるっていうんですかね。
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ビヨンという人はここでコンテナーとコンテインドみたいな心という入れ物と中身というものがあってみたいな話をするんだけど、そういう比喩を使ってみたりしていろいろやってることは何かというと、
つまり母親は幼児のニードをニーズに変えてあげると。これと全く同じ形を変えるけれども、精神分析家とクライアントの関係で起こると。
クライアントさんはいろんな事情があって自分の心というものが危うい状態にあるので、非常にしばしばニードをニーズに変えることに失敗する。
それを精神分析家が何度も解釈する。解釈するということはつまりニードをニーズに変えるとはこういう解釈をするんですよということを告げるわけですね。
そのうちにクライアントさんは自分でそれができるようになるということはつまり心が整うということですよね。心が形成されるということ。
そうなれば様々な病理として名付けられているものの症状は収まっていくという結果としてですね。
だからフロイトは結果として症状は取れていくというような言い方をしているんだと思うんです。
こういう流れがある関係かということを踏まえるとですね。
悪人っていないんですよきっと。ここで議論が分かれているはずなんです。
昨日のレビューまさにそうだったし、絶対あの本読んでそう思う方いると思うんですよ。
悪人はいると。悪人なんだと。
それはとにかく悪いことをするように生まれついたようなニュアンスになるわけですよね。
我々では理解できない存在として悪を成す。
でも私の目にはそうは見えないんです。
もちろんその悪行なるものによって自分が被害を被ることがあるから、
だからさっさと避難するのが先だという意見も出るんだと思うんですけど。
私は避難するのは結構だと思うんですよ。
避難というのはつまり逃げるってことですよ。
批判するって話じゃないです。
距離を取るとかいうのも結構だと思うんですけど、
心の距離を取るって話が違うと思うんです。
私は目の前にいる人がおかしな行動をした時に、
どうするこうするは自由だと思うんですよ。
ポイントはその人は何でそういうことをしているのかなんですよ。
単純に言って。
そんなことは知ったことではないということにはならないんですよ。
なぜならばそんなことが知ったことじゃないことになってしまうと、
急に世の中にはサイコパスだらけになってしまうからなんですね。
私はその見方を取るとですね、
多くの人は多分あの本を読んで気に入らないという方にしてみれば、
私は人間関係にただ恵まれてきただけなんだと思われると思うんですよね。
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たまたま運良くその根っからの生まれつきの間違いなく、
サイコパスで悪い人間でパワハラである人間が
目の前に現れたことがないから、
ああいう気楽なことを言っていられて、
訳のわからんことを本に書いて、
ばら撒いていて世を悪化させていくから、
そういうことには到底同意できないってことだと思うんですけれども、
そういうぐらい仮に恵まれている私だとしてもですね、
やっぱりうちの家族とか、
あるいは昔会社に勤めていた時の上司とかに対して、
これはパワハラの上司だろうと思ってしまう見方を取ることはやすいんですよ。
私が恵まれているかどうかによらないんですよね。
それはやっぱり私の考えでは、
Aと見るかBと見るかっていう話になってくるわけです。
そのような理論なんですよ。
グッドバイブスにしても精神分析にしても。
精神分析では名付けています。
アルファ機能とベータ機能っていうような言い方をするんですよ。
つまりニードをニーズに変えられないということは、
アルファ機能が機能できていないというふうな言い方をする。
これは何度名付けようとその人その人ですよね。
ただ私の考えるところ、ニードというものをニーズに変えられない人を、
人は悪人と呼ぶんですね。
ニードというものを外に向かって振り回すことを、
罪悪と言うんですよ。
ケースによってはそれを犯罪と呼んでいるんです。
赤ちゃんが空腹で猛烈に鳴くと、
これを誰も罪だとか悪だとかは言わないんだけれども、
これを20歳の男の人がガッとやるとですね、
猛烈に周りは困るんですよ。
それを悪だ罪だと言いたくなるのはよくわかるんですけれども、
ものすごい怒鳴りまくるとか、振り回すとかあり得るんですよ。
ニードって厳しいんです。
なぜニードが厳しいかというと、本人にとってニードって非常にきついからなんです。
私がよく赤ちゃんは切実なんだというのは、
あるいは赤ちゃんは切羽詰まっているんだと、
これはグッドバイブスとかじゃないですよ。
子育てをしているときによくそういうことを言っていたんです。
赤ちゃんは切羽詰まっていると。
自分に言っていた面もあるんですよ。
だって切羽詰まっていますよ。
死んじゃうかもしれないと思っているんでね。
そこがニードなんですよ。
しかも伝わってないと思っていますからね。
うちの子は育てやすいと思っていました。
育てやすいというのはね、
究極的にはよしよしなんだなって思うんですけれども、
親にとっては助かりますよね。
ニーズっぽい伝え方が、
生まれつき確かに得意な人と、
若干苦手な人はいるように思います。
この子いい子ねと言われている子は、
外してニーズというものに近い形でニードを表現できるんですね。
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必ずしもこれは、
昔僕がそう思っていたようには、
親の顔色を伺っているというわけではないんですよ。
確かにある程度遺伝的な面もあると思うんですけれども、
僕はもう生後0、1、2日の周りの大人に恵まれていたとか、
この辺は運ですからね、どうしようもないんですけれども、
ニードなんだけど、言葉になっていないんだけれども、
うまく伝えられるという子は確かにいるんです。
そういう子は多分に恵まれますよね、対処法にしてみれば。
結局大人の側がニーズに変えると、
この大人の側というのは全員母親ですよ。
ここが精神分析の言葉の使い方の特殊性であって、
母親がやらなければいけないのかみたいな話ばっかりになるんですけど、
母親と言っておくしかないという意味なんですよね。
私がやろうと母親です。
看護師さんがやろうと母親です。
環境を供給する者は皆母親です。
赤ちゃんにしてみればという意味なんですよ、これは。
いずれにしてもニードをニーズに変えるということが、
もう全部と言っても過言ではないほどだと思うんですね。
これができないから困ってるわけじゃないですか。
これができれば、僕が考えるに万能なんですよ。
ニードをニーズに変えられれば完全だと思うんですよね、基本的には。
その場で必要なことは手に入るし、
その場でやってほしいことはおそらくやってもらえるし、
人間社会の外にいなければですね、
人間社会の中にいてニードをニーズに変えられれば十分なんですよ。
万能なんですね。
その人がわざわざ万能感を持つ必要はないという話が
イリュージョンというものは手放しても構わないという話なんです。
だけれども、そうは感じられないというケースがあります。
心が不十分で、心の発達が十分ではないので、
ニードをニーズに変えることが自分でしばしば失敗するんですよ。
すごい辛いとか、そういうのが言葉にもならない。
これを人に伝えようとすると相手を傷つけてしまう。
これがニードをニーズに変換できないという状態であって、
このニードをニーズに変換できないという時に、
人は万能感というものに頼りだすんですね。
自分が万能でないのに。
つまりですね、自分が万能であることに気づけば、
自分でニードはニーズに変えられるんだということにさえ気づけば、
万能感はいらなくなるはずなんで、
よく心理学の教科書に出てくる
オルターミティの秘められたる生活みたいなことをせずに済むわけです。
ひたすら脳内で秘められたる空想をいっぱいして、
自分はすごく女にもてて、すごく喧嘩が強くてという空想をしながら
ダメ人間として毎日を送るみたいな、ああいう話っていうのは
全て自分の中の万能感というものに対する
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一種の見失いなんですよね。
ほとんどは自分で、自分の必要なことは全部
言葉に変換して伝えることができて、
それを満たすこともできるんだけども、
そういうことは一切忘れてですね、
空想で満たそうとすると。
これがジゾイド的な在り方なんですね。
でもこれは正常ですよ、相当正常です。
ニードーニーズに変換しない限り
人に伝えてはいけないということを知ってますからね。
これがわからなくなったときに起こることが
やたら怒鳴るとか、そういう表現なんですね。
そういう表現になってしまう、それしかないから。
あるいはもうふてくされて一言も口を聞かないとか、
これも同じですよね。そういう子はいるじゃないですか。
この辺の言葉を全て、精神分析の言葉はあるけれども、
要するにドイツ語だったり英語だったりして
よろしくないと思ったドイ・タケオさんが
甘えるとかすねるとか噛みつくとかいう表現を使って、
つまりワン語に直したほうが精神分析の世界だって
はるかに通りが良くなるよということを書いたのが
甘えの構造ですね。
これは画期的だったと私は何かはすごい思うんですよ。
一時ナルシシズムだとか排出だとかスプリッティングだとかいうよりは
はるかにこのほうが通りが良いですよ。
甘えるとかすねるとかネタムとか。
そういうことをある程度ですね、そういうのの仕事の引き継いで
それをちょっとギャグみたいにして書いているのが
トガタカエトさんですよね。
あれが心はどこに消えたでもそうですし、
その医者は笑うでもそうですけれども、
すねみとネタミなんだとか書いているのは
つまりヒステリーのことを書いていたりしているわけですよね。
あるいは東映ドイツカみたいなことを
東映ドイツカという言葉をほぼ一回も多分出してないですよね。
書いているのが彼なんですよ。
でもこういう話っていうのは何て言うんですか、
ある意味界隈の話なので、
普通にそれを文春で連載で読んで楽しんでいればいいっていうこともあるんですけれども、
なかなか全てが接続されるような形にはなっていかないのは
しょうがない面もあるとは思うんですけど、
何にしてもそういう流れっていうのも一応あって、
あるけれども世の中的には全然主流ではないので、
一般的にはやっぱり世の中には極悪人がいるから
距離をさっさと取らないと大変なことになるというのが現状主流なのは確かなので、
その辺のことについては山崎さんという方かな、
精神分析の現在の立ち位置というのは結局のところは阻害、
今のところはほぼないものに近づいてきているというようなことを書いていますけれども、
27:02
難しいっていうんではないと思うんですよね、最近は。
ただ、今の時代にはなかなか受け入れがたいところはあるのかなというふうには思います。
あと、いずれ変わっていくと思うんですけれども、
心を形成しきれなかった人を言ってみれば、
サイコパスって言葉が一番そうなんですよね。
生まれながらのモンスターみたいに捉えるという、
本来そういう捉え方というのは民主的じゃないと思うんですよ。
だから今の世の中に合っているとは到底思えないんだけど、
なぜかこういう捉え方のほうが主流になりやすいところがあるんですよね。
これは別に資本主義とかではないような気がするんです。
ただ、なんとなくそういうふうに見るっていう見方が、
今のところは確かに主流になりやすいなと。
本人の責任だとある意味言っているわけですよね。
だから全然リベラルじゃないような気もしなくはないんですけれどもね。
本人の責任じゃないと思うんですよ、やっぱり。
精神分析は明らかに本人の責任じゃないということを強調している文化だと思うんですけれども、
母子一体ですから。
今散々述べた通り、いずれ母子は一体じゃなくなります。
生まれてきた瞬間に一体ではなくなりつつあり、
その後いわゆる親離れ子離れという時期が来るから、
やっぱり母子一体というのは徐々に分離していくんだけど、
その分離するときにニードをニーズに変えるというのはどうやるんだということが問題になるわけですよね。
一番最初に問題になるときにエリプスというタイミングが来るというのが
フロイドの言ったことだと思うんですけれども、
これこんなに図式的にきちっといかないですけどね。
ただ、一番最初にやらなきゃならなくなったときに私たちはすぐにはできないので、
ママごとセットを使うんですが、これを移行対象と言うんですよね。
自分の心の中で、自分の心の中にお母さんをインストールして、
その心にニードをニーズに変えてもらう。
つまり私たちは心の中で自分のやりたいことが表現できるようになるには母親を必要としている。
この母親はヒルですからね。
看護師だったのかもしれないんですよ。
保育園の先生だったかもしれないし、とにかくいろんな人が教えてくれたわけです。
だから心は他者なんですよ。
そういうことを表現したのがラカンだったと思うんですよね。
心は他者であると。
わけわかんない言葉になってしまうんですよ、こういうことを言うと。
心は自分の心だろうって思うんですけれども、
30:01
それにしては全ての人の心が同じように機能しているってところが世界中のですからね。
倉野さんがよくおっしゃる言葉を使うのは、76億人の人が全てこれを心でやってますからね。
だからこういうものがですね、たまたま偶然にみんな同じになるってのは非常に変なんで、
なんかやっぱりそこには生物学的な素因もあるでしょうし、
人間の文化っていうのはそういうふうにするように作ってるんですよね。
ほぼ確実に。
ライフハックにしたってそうですよね。
いつかやりたいことって言うじゃないですか。
この表現がすでに非常に抽象的なもので、いつかやりたいことの中身は全然違いますよね。
とにかくただそこに含まれているのは、お金がないのか時間がないのか何なのかわからないけど、
今すぐはできないけど、これを忘れてしまいたくないという何かがあって、ニードがあって、
そいつをいつかやりたいことという表現をつけて、心の中に収納するということができるから、
いつかやりたいことと一言言っておけば他の人にも通じるわけですよね。
こういうことをできるようになったときに僕らは自立できるわけですよ。
自立というのは精神分析の世界では多分こういう言い方なんです。
最初はすぐにはできないので、ママごとセットがいるわけですよ。
鍋のやつとか蓋の蓋のやつとかを使って、ちょっと待ってなさいねとかって女の子が言うと、
お母さんになっていると。
ニードをニーズに変える練習というのをする期間があって、それは意向現象とか言うんですよ。
いずれそういうことが自力でできるようになって、
これをやっているときは大丈夫なんですよ、その子は。
公園で一人でいてもお母さんと一緒だから安心していられると。
これが万能な状態なんですよね。
私たちはこれを見失わないように会社にも行けて、学校にも行けて、社会人に会って、
死ぬときでもこれを見失わずにいられるというのが多分幸せってことだと思うんですが、
しばしば見失うんですね。
子どもは簡単に見失いますよね。
キョロキョロっとし始めて、どこにも周りに人がいないことに気づき、
カラスがないっていう群れになっていて、
そこにあった意向対象の大事なママごとセットを見ても、
もはや自分の中にお母さんは戻ってこないので、
ニードをニーズに変換できなくなって泣くと。
何がしたいのかがもう分かんなくなっちゃうわけですよね。
泣くしかない。
これが起こるんですよ。
あるタイミングで私たちにも。
だから叫ぶんですよ。
叫ぶように部下に怒鳴る。
何か起きてるんですよ、その人の中には。
さっきまでいたお母さんが急にいなくなってしまったわけですね。
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つまり心が機能しなくなってしまう。
その時に強い恐怖感に駆られて大変なことになる。
それは何なのかは分からない。
例えば私の本を読んで、これは大変なことになる。
こんな本が出回ったら大変なことになるって時には、
もう暗闇の中で一人取り残されて、
目の前にはママごとセットが非常に何かこう、
さっきまでは酷く明るく輝いていたように見えるママごとセットがですね、
酷くどうでもいいものに見える。
だから放置したまま駆け出しちゃったりするわけですよね。
それを洗ったり片付けたりしないですよね、
そういう状態になった子どもは。
意向対象がもはや何の機能も果たしていないと。
その時に叫ぶとか怒鳴るとかわめくとか、
おかしな行動をとる。
それに対して何て悪いんだろうとは、
子どもであれば僕らは思わないんですよね。
相手が大人だとあれはサイコパスだってなっちゃうんですよ。
僕にはそう見えるわけです。
だからこの観点を取らないことがどうしたって必要だと思うんです。
あれは一時的にお母さんを見失った理由ですよ。
母子の一体感の中に包まれて安心していたという状態が
いきなりかぎ取られてパニックを起こした人の行動であって、
その状態からもう一回その人が安心できる心理状態、
つまり意向対象と意向現象のところなんですけどね。
そこに戻してあげれば自分で自分のニードをニーズに変換することができる。
そうなるとその人は鬼の行走になって血管切れそうになって叫んでいるのをやめて、
要するにこの売上じゃダメなんだよっていう言葉になおるはずなんですよ。
そうするともうそこにはさっきまでいたはずのサイコパスでパワハラの上司っていなくなるじゃないですか。
だから最初からいたわけではないんですね。
ということが本当はあの本で伝わるはずだったんだけど、
甘えさせるというのはつまり意向現象に戻してあげるという意味なんですが、
私としてはそんなことを書いても絶対ダメだと思うので、
今の時代にウィニコットの名前すら知らない人の方が普通ですから、
ビヨンに至っては全く聞いたことも見たこともないんですけどね。
なっちゃうのでやっぱり甘えさせるという言葉の方がまだ下だと思うんですよ。
あのDVの夫を甘えさせてどうするんだっていうのはこの観点からすると、
36:00
どうするんだというか甘えさせる以外にはないんじゃないんでしょうかということなんですね。
できなかったとしても甘えさせてあげるという観点を取ることで、
この泣いてる子供っぽく見えてくる可能性を感じるんですね、僕は。
泣いてる子供っぽく見えてきさえすればもうそれで十分なんですよ。
同じようには見えないはず。泣いてる子供は生まれながらのモンスターであると思う人は誰もいないと思うんですよね。
でもそれぐらい僕らの視点はですね、相手が怒り狂っている時の表現によって、
恐れをのどいて怯えきってしまうと同じになってしまう。
私たち自身も暗闇で泣いている子供になっちゃう。
二人揃って泣いているから手に負えないわけですよね、この状況は。
この二者では手に負えなくなってしまう。
これが多分僕の思うに、僕もそうですが、先生さんの心の底から恐れている事態なんじゃないかと。
恐れることはない程度の事態だと思うんですよね。
今の時代なら特に暗闇で迷子になるというのは大変な問題ではありますけど、
恐らく何とかなりますよね。
物の分かった大人さえそこに一人いれば。
それ、エリプスなんですけどね。
37:29

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