1. グッドモーニングボイス
  2. 【GMV 459】父親に話を伝える..
2021-09-16 41:23

【GMV 459】父親に話を伝えることの難しさ

無意識に伝える
00:05
おはようございます、グッドモーニングボイスです。
ようやくですね、散歩が気持ちよくできる季節になってよかった。
散歩すると帰ってくると弱熱中症気分みたいになっているというのは、すっげえ困るんですよ。
朝散歩する時間がだいたい6時なんですが、食事の自宅とかをするわけですよ。
娘を起こすとこの頃に軽くでも熱中症的になっていると、どうしても作業が滞るんですよね。
普段はグッドワイブス的に後ろの時間を気にしないでいいんだけど、
学校の登校班とかの時間はすっげえ厳密なんで、後ろを気にしないでぼんやりやっていると100%アウトなんですよね。
急いでやるしかないのに、頭がぼんやりしているという状態になると、大変困ってしまうので、いい季節です。
この季節になるとグッドワイブス的に食事の自宅だけに没頭していてもちゃんと間に合うんですね。
大体うまくできているぐらいに、タスクシュートでも測っているわけですから、うまくできているはずなんだけど、
真夏のすごい暑いとき、朝の6時でも一周して戻ってくるとふんわりしちゃうみたいな、
熱中症まではいかないんで、頭がぐらぐらするとかはさすがにないんですけれども、
8月の暑かった時期はやばかったっていうのがあんまりあって、
夏休みっていうのもよくできているんですよね。8月は大した問題じゃないですよ。ほんの一瞬なんですよね。
7月中旬の頃に物添え扱ったときは困ると。
8月も子供を送り出すのが塾であっても困るという感じなんで、この季節はいいなってことですね。
これが真冬になると今度は6時とかがもはや夜なんで、あれはあれで困りはしないけど、
やっぱり非常によろしくないので、この季節はいいなと思います。
全然グッドバイブス的じゃないんですけどね。
で、えっとなんだ。
あの、そうそう、えっとですね。
今日はちょっと父とね、父に難しい言い方なんですけど、結局でもアドバイスなんだろうな。
アドバイスをしてうまくいったという、この話をなぜグッドバイブスなのかって言われると非常に難しいんですが、
精神分析的なのも多分に入ってきていて、なんて言うんですかね。
もともと難しい、どちらかというと私には無理がある話をそこそこうまくやれるようになってきたという話をしようと思っています。
03:06
難しいと言っても、するのがすっごく嫌だとか、心理的抵抗が際立って強いというのとはまたちょっと違う難しさでして、
要は父にアドバイスをするというのは、私にとって私の父にアドバイスをするというのは不毛な行為なんですね。
なぜならば聞かないから。
で、父は私の話を聞いているようで全く聞いていないということが多いんですよ。
でも内容によっては聞いているんですよ。非常にこれも父的基準があるので厄介なんですね。
そもそも私は昨日たまたまなんですが、ちょうど久しぶりに用事で町田に行き、
倉園平塚さんと一緒に収録をしたんです、YouTubeのですね。
いつも通りです。ぶっちゃけそうなんですね。
ただ二宮で撮るのが現在の緊急事態宣言下で公共の建物が全市名になって難しくなったので無理になったので、
町田で久しぶりに収録したというときに、この前置きはいらなかったんだけど、
アドバイスというかセッションというのは対等でないと、対等であるのがやっぱり非常に大事だという話が出て、
あれはですね、私は必ずしもそう書いているとは言い切れないんですけど、
やっぱり精神分析でも全く同じことになっているなとは思ったんですよ。
すごく対等ではある意味ない気もするんだけど、やっぱり対等じゃないといけないんだと思うんですね。
何でかというと、これはウィニコットの言葉通りで精神分析とは遊びであるというのがあるんですね。
ママモト遊びに例えられているママモト遊びというのはですね、
参加者が対等でないはずはないと思うんですよ。
参加者が対等でない遊びというのは、かなりやっていて厳しいものがある。
すぐ遊びでなくなる要素がありますよね。
でもママモトというのは、女の子がお母さん役をやったりするわけじゃないですか、
ということは一時的に上下関係がそこにでき得るものですよね。
でも例えば年下の、そして上の男の子が子供役をやったりもするということは、
対等じゃないとできないですよね、ある意味では。
ここら辺に面白さがあって、精神分析でもよく転移ですけれども、
要は普通に考えれば、分析家は親役なんですよ最初は。
でも知らないうちに子役に逆転させられるということが起こる。
これが起こるということは対等だということですよね。
その人たちが役をやっていないときは、ある程度対等じゃなかったらおかしいと思うんですよ。
06:03
そうやって役の逆転ができるということは、上下関係が最初からあったら難しいと思うんですよね。
ところが親子関係には最初から親子関係があるわけじゃないですか。
そうすると最初から親子関係があるところを対等に持っておき、
しかも親子関係を配役上逆転するというのは難しいですよね。
タブーであると。
つまり創始者のフロイトがフロイトに精神分析をやった、ああいうことをやっちゃいけないと。
私も今ではそういう決まりごとになっていると思うんだけれども、
そもそも近しい関係の中で精神分析なんてやるのはいけないと思うんですよ。
基本的には他人同士がやらないとあれはまずいんじゃないかなって思うんですね。
だって例えばこの人は不倫してましたみたいな話も出るわけじゃないですか。
あんまり近い人がそれを知ってしまうと、やっぱりそこに至上が入ってこないはずないと思うんですね。
親子でそんな話を聞き始めてしまったら、親子としての関係ってそこに出てきてしまうと思うんですよ。
実は私不倫していますみたいなことを果たしてクライアントがカウンセラーに言うように子供が親に言えるのかってことがあると思うんですね。
だからアンナフロイトとジークムントフロイトで精神分析をやったっていうのは、
もう何て言うんですかね、そのようなことは創始者にしか起きたかっただろうなって感じが。
ただやるときにさすがに取り決めが決まる前のものだからそういうことが起こったんだと思うんですけれども、
つまり作り出した人がルールも作るわけじゃないですか。
ということはその人がルールを作る前のルールはないわけだ。
こういうことっていうのは何かのパラドックスみたいな感じがするんだけど、起こりますよね。
で、やっちゃったわけですよね、要するに言ってしまえば。
僕の感覚からしても正気とはとても思えないなってところがあるんだけれども、なんか感じるじゃないですか。
たとえそういう取り決めを知らなくても非常に濃いカウンセリングみたいなものを親子でやるべきじゃないんじゃないかと。
例えば私だって娘とそういうことをやりたいと絶対に思わないんですよね。
なんかいいことが起こる感じが全くしないんですよ、そういうことをやっちゃうと。
娘の相談は親子関係として聞くものですよね。
娘の相談を例えば、正確には知らないですけど、教会の懺悔を聞くように自分が神父役、
娘が告白する人みたいにして、しかもそこが親子であるっていうのはなんかまずい感じがしますよね。
09:04
多分ですけど私は、教会でもそういうことはやらないことになっているんではないだろうかという気がします。
私ですね、寺にいると思うんですけど、
例えばうちの父が坊さんの格好をして、そこのところで一番前の方に行って、受戒を受けるみたいなシーンが入るんですけど、
やっぱりああいうところには私は行きたくなかったですね。
行くならば父が一番前に座っているときじゃないところで行きたいと、そういう心理って働きますよね。
なんかおかしいんですよ。
あそこで父と子なのに、相と親とみたいなのが同時に発生するみたいな、そういう位置づけに入りたくないと。
今言ったような事情をもろもろの、かなり薄くしたバージョンですけど、やっぱり親にアドバイスするっていうのはやりにくいというかですね、うまくいかねえよなと思うわけですね。
でも色々な事情が重なり、親の人間関係もだんだん置いてくると減ってくるので、そういうことをしないわけにもだんだん行かなくなるシーンが出てきますよね。
そのときに私が考えたのは、そうかこういうときにグッドバイブスなんだなというのと、そうかこういうときに精神分析なんだなというのがあったわけです。
ただですね、不毛なことには違いないんですよ。現状問題になっているのは引っ越しなんですけど、つまり引っ越しというものをそもそももうするべきでない年齢に差し掛かってきているわけですね。
妹がやや難しい状態にあるので、いったい今妹はどういう状態にあるのか私でもちょっとよくわからないんだけど、難しい状態にあるので引っ越しはいよいよ難しいわけですが、
しないというわけにはいかないんですよ。賃貸な上にとにかくしないというわけにはいかない。
だからしないという選択はできない。絶対にしなきゃいけない。なんだけれども、ある意味しないで済むならそれに越したことはないというのが現状なんですね。
母はすでにこの種の話のメインとしてはちょっと頼りにならない。妹はそもそも妹が取り仕切ればいいんだけど、それはむしろ逆にする。どっちかというとお荷物になっていると。
残るは父だけであり、父はわりとちゃんとしていてできそうなんだけれども、状況は難しいですよね。
一番取り仕切るべき人は事実上お荷物になり、妻にそうとしますよね。父から見ると。
うちの母はどちらかというと老後の世界を楽しむだけの人になりつつあって、後は父が頑張るしかないんだけれども、事実上そんなことはあまりやってきたことがないわけですよね。
12:16
父はずっと寺の住職ですから、不動産関係のことに詳しいわけでもなければ、考えてきたこともないに等しいわけですね。
結局私が相談役になるしかないんだけれども、そもそも近くに住んでいないから、これがまた考えたところではあるんですけどね。
1,2年前に倉園さんに相談したことがあるんですね。
その時に距離というのは一つ考えておく必要がありますという話をされたんですよ。
当時はなんとなく分かるような、なんとなくふんわりしている話だなと思ったんだけど、今にしてみると距離というのはすごく差し迫った問題だなと感じざるを得ないんですね。
一面いいことだなと思うんです。距離が遠いというのは、あれこれ全部はできないんですよ。
このご時世になっちゃったから、いよいよ行ってあらゆることを取り仕切るということは今は不可能ですね。
これが一つ目、つまり遠いということがとても不便だというのが一つ目ですね。
電話でやり取りするしかないと、しかもメールもできないと来てますから、本当に電話でやり取りするしかないんですよ。
二つ目がいいこととして、私が全部取り仕切るということはできないと同じことなんだけど、
やっぱり私が全部取り仕切ってしまってはまずいんだなって、まずいっていうのもちょっと難しいんですけどね。
つまり、今の実家の状況というのは、私の実家の状況というのは何事も物事がこうやればすんなりポンポンポンポンいくというのに対局の状態にあるんですね。
どうやってもしっくりかねえなということばっかりなわけです。
このところで私が外部から、このポッドキャストを聞かれている方には伝わると思って軽く言ってしまいますが、
私が外部から母親としてガンガンやっていくと、あの家全体にとってはまさに侵入になるんだっていうのがよくわかるんですよ。
これは多分精神分析そのものなんで、概念としては精神分析の概念は真っ白なので、ほぼこれだけ言ってなるほどって思われるとは思わないんですけれども、
15:03
でもこの説明が完璧だなって思うんですよ、今の私の感覚としては。これ以上うまくは説明できないんですね。
いろんな言い方をこういう件に関してはあちこちでされているんだけど、全部僕は今までその説明はさっぱりわかんねえっていうか、
なんかしっくりこんと思ってたんですけど、この環境としての本来母親であるべきものがしゃしゃり出ていって、
リアルな母親として全部やっちゃうというのは侵入なんですよ。
つまり、母子という世界において子供ができることというのはごくごく少ないんですね、ごくごく少ない。
ウィニコットが作った非常にユニークな言葉にニードっていうのがあるんですけれども、赤ちゃんはお腹が空いたというふうには感じられない。
ミルクが飲みたいという欲望も概念としてそういうものは持ち合わせてない。
お腹というものを知りませんからね。ミルクもわかりません。
だから何かニードがそこにあるんだけど、そのニードを知っている人は自分じゃない。自分という概念がないですからね。
だから赤ちゃんはそういうニードを持っているというかニードを発生させてるんだな。
ニードを発生させてる。これはちょうど車のガソリンが切れかけているのと同じなんですね。
車は別にガソリンが欲しいとかって思わないですよね。
車っていうのは自分が車だとも思ってませんよね。多分。カーズみたいな世界はともかくとして普通に考えればそんなことは思ってません。
つまりそのニードには子供が気づいてあげる必要があって、だから母子は一個なんですよ。母子で一個。
二つではないし三つでもない。母子は一個なんですよ。そこに子供はいない、母親はいないっていう言い方をするんだけど、そういうことなんですね。母子しかいないということです。
母子でも子母でもいいんですけどね。一つというのは二人で一つなんですね。文字通りそうなんです。
だからそのニードがあった。ガソリン入れろっていうニードがあったら、そのガソリンを入れたいというふうに思うのは所有者なんですよ。
つまり子供にミルクを飲ませたいと思うのは母親だけであって、ミルクが飲みたいと思う人はいないんですよね。そこには。
もちろん空腹という、我々が名付けることができる。それはありますね。
だからニードしかなくて、ニードしかないというところに母親はしゃしゃり出ていっちゃダメだっていう話なんですよ。
母親はただ黙ってミルクを飲ませてあげればいいと。黙ってというか別に何か喋ってもいいんだけど、とにかく子供はここに母親がいて、ミルクを持ってきましたということに気づくような、そういう出方をしちゃいけないという言い方になるんです。
18:05
その通りのことをやるのは全然構わないんですよ。
ただ子供がここに外部の母親がいて、つまり子供からすると母親というのは自分の内部にいるんですね。
どこかから知らないけどミルクがやってくる、これも自分の内部にいるんですよ。
どういうことかというと思考そのものなんですね。
現実に起きていることと自分が考えていることの区別がついていない。つかないですよね。だって自分がいないんだから。
ただそういうことが起きるという、ただそういうことでしかないわけです。
でも生きている実感はそれにもかかわらずあるんだという、そういう時代に生きていたことがあって、
そういう時に外部というものはないんですよね。内部がないわけだから。内部も外部もないわけです。
ただミルクがやってくると。外から来ちゃいけないんですね。
外から来ちゃいけないんですね。外からそれが来たということを知るってことになったら、
自分がまだないのに外部があるってことになったら大変なことになりますよね。
世界が2個に分裂しちゃうわけです。これを分裂って言うんでしょうけれども、
ものすごい恐ろしいことに感じられるし、ものすごく押し付けがましいことにも感じられる。
そういう精神分析、これ結局精神分析の話なんですね。結局カウンセリングの話なんですよ。
今のは例え話なんです。あくまでもね。精神分析のど真ん中でそういうことが起こるんですよ。
自分というものが何かはっきりしないような大変生きていて苦しい精神病的状態にある人が、
例えばなんですけど、引っ越しの話って割とこういう時出てくるんですよね。象徴的なんだな。
引っ越しの手続きをしなきゃいけないんだけど、なんかすごくつらいと。
それをカウンセラーの人が聞いてるわけですよ。
そうだろうな、この人に引っ越しの準備とか大変だよなと思うと。思いますよね。
ここで大事なのは、引っ越しをしたいはニーズじゃないってことなんですよ。
ウェニコットのこういう言葉の発明ですよね。コインとかっていう英語で言うやつですけれども、
言葉を作り出したのはすごくやっぱり面白くて、ニーズだと我々は思ってしまう。
この人は引っ越したい、引っ越す準備をしたいとか、引っ越しの手続きをしたい、でも面倒くさい。
これはニーズですよね。我々にとってはそういうものです。
けれども精神病の人にとってはそうじゃないんです。
自分というものがはっきりしない中で引っ越ししなきゃみたいなものが漠然とあるっていうのはニーズになってないんですよ。ニードなんですね。
多分その人は引っ越ししなきゃいけないんですよ。引っ越ししなければならない状況があるんだけど、
はっきりとそれを自分が引っ越しを必要としているんだと自覚できない。
なぜなら自分というものがはっきりしないのに、自覚というものが成り立つはずがないからです。
21:00
それを聞いているカウンセラーは母親なんですが、
母親はそのニードを認識しながらニーズに変えてあげるという作業を、
つまりその人が自分で引っ越しをする必要があるんだと自覚して引っ越しの準備を始めるというところまで持っていかないと面倒くさいなと思うこともあるんですが、
面倒くさいのはとてもいいことなんですよ。ニーズになってますからね。
面倒くさいというのは自覚がある、つまり自分がしなきゃいけないことが分かってて初めて面倒くさいにたどり着けるわけで、
その遥か手前の状態、面倒くさいとかなんとかもうさっぱり認識できていない状態では、
面倒くさいという気持ちにはいたらないんですね。自覚ができないわけです。
この時にそういう話が紹介されてたんですけど、
ちょっと君がやりたいと言っていた引っ越しの手続きとか、ネットで調べておいたからと相手に示す最悪なんですね。
それで患者が取り乱してブチ切れて、危うくカウンセラーを殺しそうになったみたいな事例が紹介されているのを読んだことがあるんですけど、
絶対やっちゃまずいことの一つなんですね。
何でかというと外部からそういうものは急にもたらされてくるということになると、
自分の中ですら何かがはっきり認識できないような状態にある人にとっては脅威でしかないと。
普通ここまでは来ませんけれども、うちの実家の状態ってそういうのに近いんですよ。
あれはニードなんですね。
だからここに行って、私が引っ越しになきゃダメじゃんということを言って、
こうすればいいからって全部やるとですね、相手はものすごく押しつけがましいということを言ってきたりするはずなんですよ。
うちの親は別に精神病状態にあるわけじゃないから、押しつけがましいとか不愉快になるだけなんですが、
きっとね、なぜ不愉快になるのかよくわかんないでしょう。
多分そんなにすぐ引っ越さなくてもいいのに、そんなに急いでやることはないんだよっていう反発が来る程度なんですけれども、
そうじゃないんですよね。
全体としては、なかなかニーズになっていないところに無理やりニーズを作り出しちゃダメなんですよ。
そういうことが今は手に取るようにわかる。
手に取るようにわかるんだけど、私は子供なんで、親から見るとね、どうしたもんかなと思うんですよね。
こういう話を持っていく時のややこしさというのはこういうところにあるんだなと、今はつくづくわかります。
ニーズになって、結局のところ私がやっちゃダメだってことなんですね。
いろんな言い方ありますよ、こういうところには。
そういう物件じゃないものが自分が欲しかったとかなんとか言うんですけど、そういうことではないんですね。
24:01
私はつまり、立場としては環境としての母親っていうところにあるべきであって、
専門用語ですけどね、完全に対象としての母親であっちゃまずいということなんです。
それに妹の状態を考えますと、無意識ぶくみになってくるじゃないですか。
なぜなら妹の状態というのは、私の妹の状態というのは非常にはっきりとした何かを要求してくるわけじゃないんですよ。
どちらかというと、被害妄想みたいなところにある時も多いので、引っ越さなければいけないということになると、
迫害されているんじゃないかって考えたりもしなくはないわけです。
この辺も非常に難しいんですよね。絵に描いたように迫害妄想、私を追い出そうとしているのかみたいな、
そういう話だったらある意味わかりやすい面もあるんですけど、ちょっとそれとはまた違う。
そんなに早く引っ越さなくてもいいのに、早く引っ越そうと無理矢理させて、また私の意思をないなしろにしようとしているんじゃないか。
これぐらいだったら、なんとなく普通の人でも考えるじゃないですか。考える時には。
でもこれ引っ越さなきゃいけないことが確実であれば、美容によっては全く意味のない抵抗を示しているようにも見えるわけですよね。
この辺が非常に集団で動く時、そういう難しい状態にある人を含んで、しかもその難しい状態とは何であるかを確実に認識できているわけではない。
うちの父にはそれは難しいことなので、確実に認識できているわけではない人にとっては非常にややこしいですよね。
けれども、私と父の関係というのは非常にエリプス的なところで言うと、権威的にエリプスなんですよ。
これも今、世の中的には盛んに叩かれているので、私は父を見ていると、これを叩くのは大変かわいそうだと思うんですけれども。
例えば、今って、ちょっと以前に話題にした仕事できないおじさんみたいな、権威というものは必ずしも実務的に有能であることを意味しませんよね。
さっき申しましたけど、父はずっと寺の住職をやっていたわけで、不動産関係の実務的手続きとかに長けているわけでは全然ないんですよ。
ただ、うちは坊主ってそういうもんですが、親子において父というのは偉かったわけですよ。
別に非常に大坊だったとかそういうわけじゃないんですけど、最終的な決定権は我が家ではほぼ父が持っていたわけですね。
以前ちょっとこういう話をこの番組でもしましたね。
倉園さんと協調の不安ゼロで生きる、父は全然よく言わなかった。
27:02
こういうことがうちではごく当然なんですね。
私はそれがいいことだとは思いませんが、そして悪いことだとも思えないわけです。
なんて言うんですかね、これ非常に難しいんですよね。
ここをうまく今日説明したかったんですけど、そうできている気はしませんが。
つまり能力主義じゃないっていうことなんですよ。
秩序を保つためと言ってしまえばそれまでなんですけれども、
例えば昭和50年代において寺というものでは、
例えば奥さんと住職は全然対等じゃないんですよね。
でも果たして奥さんの方が偉そうにしているからといって、
寺の経営上問題があるかというと、若干問題が当時はあったかもしれませんが、
秩序を乱すみたいな話には多分ならないんですが、
母にそういう気は別になかったわけですよね。
例えば宗教上の話において、寺で母が活躍できる場面ってなそう、
やっぱりそう多くはないわけですよ。
儀式ができるわけではないし、人生相談に乗れるわけでもないですし。
でも今は実家は寺ではない。
でもそういう、ある意味、何て言うのかな、
過不調性の名残みたいな状態で、結局大事なことは父が決定すると。
これをずっと繰り返した気がせいで、母はそもそも決定するということを放棄しちゃっているから、
今回の引っ越しみたいな時には非常に困ったことになる面もあるんです、確かにね。
しかも人生相談にずっと乗ってきた父にしては、
うちの妹、つまり自分から見れば娘のそういう心理的に困った問題には、
必ずしも対応できているとは言い切れない。
でもこれは私が思うに、親子は難しいんですよ。
フロイトがあんなフロイトの精神分析をしたのはまずいことであるように、
やっぱり親は子供のカウンセリングをするのは難しいと思うんですね。
この全部含み込んで考えてみると、非常に困った状態にあるんだけれども、
じゃあこれ誰がどうするんだって話になると、やっぱり父がそうするしかないんですね。
その時に私が考えたのが、これが最終的に考えたことなんですけれども、
無意識に訴えようってことだったんですよ。
意識的なやり取りはすぐ行き詰まる。
現にすぐ行き詰まっちゃうんです、意識的にやり取りをしていても。
分かった、分かったとか言って、何も聞いていないわけですよ。
父は別に私に対して横暴であるつもりも、軽く見ているつもりもないんですけれども、
そういうスタイルで生きてきてしまっているので、
明らかに私の方が分かっていることが明らかで、
30:01
しかも話を聞いておいた方が得だというか利益がはっきりしているという話は聞くんですよ。
例えばネットの繋ぎ方とかなら聞くんですよ。
ところが、うちの妹にはこういう対応をした方がいいとか、
引っ越さなければならないんだから腹くくった方がいいみたいな話は絶対聞かないわけですね。
そんなことは分かっているわけですし、
もうちょっと俗っぽい方で言うと、
そんなことを子供に言われるのは面白くないってことになるわけです。
こういう話ってグッドワイブスで流す、
グッドワイブス的に考えるならば、
そういうお父さんに対する恐れや不安を取り除きましょうでもいいんですけれども、
別に私は父を恐れているわけでもないんですね。
ただ、この結果がひどく不毛のものに終わることに対する
一抹の不安はないつもりですが、
不満みたいなものはないとは言い切れないような気はします。
ずっと電話で話していてもこのスタイルは変わりませんからね。
分かった、分かった、分かった、分かったと言って
ほぼ完璧にバジ東風なわけですね。
こういう風になっていたとしても、
でもやっぱり引っかわしはしなければならないと。
物件をちゃんと探すのかどうかも疑わしい中で、
しかも父の気持ちの中でも確実に言えると思うんですが、
きちんと探してみたところで妹がダメだと言って、
動かさんになってしまう。
無理やり動かすことはできないわけですからね。
もはや父の体力でも。
体力があったときに無理やり動かしても
惨事が起こるだけなような気もするから難しいんですよね。
もちろん相手の気分が非常にいいときであれば
その物件でもOKになる。
でも気分次第で物件を決めることはできないですよね。
その日その日の体調とか心理状態で精神的に
難しい人っていうのは非常に違うので、
ある意味それはボーダーラインというものに
見えるように違うので、人格が逆転するぐらいに
違って感じられるケースもありますから
難しいわけです。
この時に私が考えたのが最終的には
一つ意識みたいに話もいいんですが、
私まだ自分の中に一つ意識がそこまで
組み込めているわけではないので、
やっぱり無意識っていう風に私は考えるんですね。
無意識だって人によって捉え方が
様々だと思うんですけど、
私はやっぱり無意識に訴えるっていうのは
一つ意識のこともあってなんですが、
だいぶ釈然とするんですよ。
つまり父の無意識に言っておこうと。
ところがこれも父の無意識に言うだけじゃ
ダメなんですね。
父は不動産医療の方で
家にも行ってるし、行く気もあるし、
引っ越さなきゃいけないことも知ってるし、
33:02
引っ越す気もあるんで、別に父を説得する必要は
本当はないわけです。
父を説得しなければならない私の立場は
妹を説得しなければいけないよということを
父に説得しなければいけないわけです。
でもこれは誰がやっても何事業なので、
一歩間違うと顔も合わせてくれないときも
少なくないわけですからね。
なので父も当然これについては
しなきゃいけないのは分かってるけど
全然乗り気にはなってないと。
こういうことなわけですね。
そういうふうに言って乗り気じゃないでしょうと
言ってもそんなことはないと父は絶対言うんですよ。
というか先日もそう言われたわけですね。
いやいやそんなことはないからと。
そんなことはあるんですけどね。
だから無意識に訴えなければならないんだけど
無意識に妹に訴えかけなければいけないよ
というメッセージなんだなと
思ったんですよ。
意識的なやり取りとしては
顔も合わせてくれないかもしれないし
そんなのダメだよって言われるで終わりかもしれないけれども
相手は聞いてるからと。
それは不安を抱くのはやめましょうなんて
言ったところで、そんなものは父が散々ですね
倉殿さんよりも多く
喋ってきてしまったことなんで
ここに難しさあるなって私は思ったんですけどね。
恐れ不安を抱くのはやめましょうっていうのは
多分全く有効ではないので
そんな話を人から聞かされたくないじゃないですか。
多分自分が
一千万回くらい喋ってきた感覚でいるものをですね
人に聞かされたくはないと思うんですよ。
仏教そのものですからねある意味。
このセリフは私も父からほぼそれに相当するもの
わかんないというくらい聞いてるんで
まさかそれを言うっていうのも響かないので
でも結局それを言うことになるんですけどね。
なぜならこれは
結局のところ全てがうまくいかないのではないか
という恐れを
父が抱かなければいい話なので
抱かないってだけでいかないと思うんですよ。
同じ家に住んでいるというのは
そういうことなんだなと思うんです。
でも
うまくいってないという
そういうことにこだわらない方だとは思うんですけれども
母なんかは間違いなくこだわっちゃっているんですけれども
うまくいっていないというものを
思い知りたくないケースですよね、本件は。
例えば子育ての専門家が
自分の子育てはうまくいきませんでしたみたいな
このケースにありはまりませんけれども
どんなケースでも同じですよね。
こういうところで私は
許すって言葉は大事だなって思うんですよね。
36:02
外文もいいわけじゃないし
許せないじゃないですか。
突っ込む人は絶対突っ込んできますよね。
お前はそれの専門家じゃないのかと。
虫歯がいっぱいの歯医者さんみたいなもんですよ、これでは。
お前自分の歯も直せないのに
人の歯が直せるのかと。
でも私はそうじゃないと思うんですよね。
そういうところってあると思うんです。
それがやっぱり親子が難しいって言ったのと
同じことなんですけれども
だから許すって大事なんだと思うんですよね。
自分の歯が直せないのを許そうって
歯医者さんが思うのは大事なことだと思うんです。
今にしてみると非常に
私も昔指摘されたことがあるんですよ。
そんなにタスク管理でわりわりに
タスク管理やってるくせに
買い替えに書かれたことがあるんですけど
そうじゃないんですよね。私はそうじゃないと思う。
そうじゃないってことを
人に言っても通用しないので
自分は絶対に分かってあげておかないと
いけないと思うんですね。
というところまできてようやく
妹に向かって、父にですよ。
妹に向かって無意識に、向こうは言いませんが
言っておくっていうことが多分大事ですよ。
っていう話、これが通った気がするんですよね。
通ったかどうかっていうのは
喋ってて感触でなんとなく分かるんですけど
この時分かったって言われたのは
本当に分かったな、分かった感じがするような
っていう感じが少ししたんです。
本当のことは分かりませんが、騙されてるってことはないんですけど
父は別に騙してる気はないんでね。
こういうふうな含み込みが大事なんだな
っていうふうに思ったんです。
父に向かって喋ってるつもりで
父に対しても無意識に向かって喋ってるつもりで
喋るしかないと。
これだって父からすればもう聞き飽きてるというか
言い飽きている。言い飽きてることと聞き飽きてることは違うんですよね。
言い飽きているようなことに近いんですけれども
西洋流に言ってるだけですからね。
仏教的な内容を。
それでもこれだったらば伝わってるんじゃないかな
という気がしました。
でもやっぱり無意識に伝えてるってことなんです。
基本のところその時には拒絶されるかもしれないし
相手は聞いてないように思えるかもしれないけど
多分聞いているんですよ。
状況が状況なだけに
全く何もわかっていないわけじゃないわけですから
引っ越さなきゃいけないということはですね
結局は引っ越さなきゃいけないんだから
引っ越したいというニーズを持つということが
一番必要なことだということを認識できればですね
そのテーマは結局
誰が代わりに手続きするかとか
39:02
実際に引っ越しとして動き出すのかということは
大して重要なことではなくて
引っ越しをするというニーズを持てるように
家としてなるということですね。
家としてその意識の中に
つまり三人で一つなんですよ。
母子が一つであるように
三人で一つになったところの無意識が
自分たちは思えれば多分いけるんですよね。
今まだそこまでいってるかどうか
大変怪しい感じなんだけど
私は昨日そういうことを喋っててですね
つくづく感じたんです。その時に私と父は
対等じゃないとダメだなと思ったんです。
私が父より下であるとか
逆にこれよくあることなんですけど
もう今自分の方が実務的なんだから
自分が上に立つとかいうことをやってると
多分それは私と父になってしまうからなんだと思うんですね。
この話全体で今回はいろんなことがあったから
むしろ分かりやすくなってるんですけど
全体では妹に伝えなければいけない。
私は父と喋ってるわけだから妹に伝えなきゃいけない
というのは非常に不思議な感じもするんだけど
こういうところには一つのユニットっていうのが
役に立つなと思いながら
ドバイブースを思い出してみたり
精神分析を思い出してみたりしていたと
いうことがあったわけです。
もうほとんど脱足なんですが
これ全体でかかった時間は膨大なんですよ。
ここまでにかかってる時間も膨大で
しかも何一つ決まっちゃいないんですよ。
引っ越し先の物件すら決まってないですから
既にタスクシュートで計算は出してませんけれども
多分既に
そうだなぁ
全体で見れば100時間くらいかけている
ということなんです。
まだ何も決まってないわけですよ。
でもこれは非常に私は
実りが自分の中で大きい出来事だったなと
つくづく思っているんです。
だからやっぱり生産性とか費用対効果とか
時間で測ることはできないなっていうのを
つくづくこの件は感じさせる話でした。
41:23

コメント

スクロール