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2022-03-21 28:23

【GMV 568】グズグスと先送りしてしまうとき

自分の中の母親を機能させたくない
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おはようございます、グッドモーニングバイブスです。
なんかこう、普通にこれをやるのは久しぶりという感じが、僕の中にあるんですね。
で、そんなはずはなくて、先週散々パラやってるし、結構ね、えっと、まあノリノリ的なおかしいんだけど、
えー、わっ、いやなんかこう、え、なんていうんだろうね、えーと、えー、気合い入れてっていうのも変だな。
でもまあ、乗ってやってた気がするんですよ。
でも、えー、今、私は一応、病気以来久しぶりにこう戻ってきて喋ってるみたいな感覚がちょっとありまして、
あのー、これが世で言うところの戻った感じなんだろうなと。
あのー、先週までは多分やっぱり何か引いてたんでしょうね。
今週に入ってからも、体調的に言うと完全に元に戻った感じがあります。
で、それ多分土日にセミナーが2発入ってて、これが大きかったかなという感じがしてます。
でですね、えー、やっぱりこれは戻ったっていうのはよくわかるんですけど、一方でこれは戻ったとかではないんですよね。
現に私、こう、病気の前後で2つほど習慣変えてることがあるんですよ。
それは大した習慣じゃないんで飛ばしますけど、そういうことがあるということは、つまり元に戻ってないってことなんですよね。
もはや永遠に戻らないだろう。当然ですよね、元の人に戻らないですからね、私たちは。
ただこれを戻ったって、僕らは錯覚する習慣をつけてるんで、多分元に戻る戻らないっていうのを一つの大事なポイントに置いちゃうんですね。
でですね、えーとその戻らないというのって、不愉快なんですよね。不快なんですよ。
で、不快ということは、えー、この番組では何度か出てきている用語なんですが、ニードがあるんですよ。
ニードってのは、本人はどうしてそうなのかわからないけれども、何か満たされていないものです。
えーとこれは、もし一体だった時代の話をしていて、ベースにはそれがありまして、
それがカウンセリングの関係、つまりそれはクライアントとカウンセラーの関係。
カウンセラーがこの場合母親で、養育者で、クライアントが子供の赤ちゃんなんですけど、に例えられていて、
で、クライアントはニードを持っているんだけど、それが何だかわからない。何だかわからないんだけど、えーと、不快であると。
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そういう話ってよくありますよね。えーと、例えばうちの奥さんが月後機嫌が悪い。
何でなのかと聞いても、理由はないとか、別に機嫌が悪くないって言うんだけど、明らかに機嫌が悪い。
明らかに機嫌が悪い。これがニードを持っている状態。
ニードを誰かが持っていると、周りの人が母親代わりになり、そのニードをニーズというものに変えて、ニーズですね。
これはもう世の中一般で言うニーズですね。に変えてあげて、それを満たしてあげなければならないような感じになってくる。
この時に、えーと、なぜ私がこいつのニーズを満たさなきゃいけないんだという、えーという答弁、問いが発生して、
これにとられると、ここで喧嘩が起きるはずなんです。
例えば、車が壊れているという時は、ニードがそこにあるんですが、誰もそこにニードを認めなければ、ニードはないことになる。
ニードってこういう清めて微妙なもので、で、その本人が不快であると気づいているかどうかは、車は当然気づいていないにしても、赤ちゃんは微妙ですよね。
で、さっき私が言っていた、元に戻っていない状態という状態を意識している時の私は、えーと、つまり、まあ今回はオミクロンですけど、から回復する途上にある時の私はニードを持っている。
で、そういうのってのは結局ですね、えーと、あるのかないのかは、えー、なんていうんですかね、あの、ある意味では自覚すればあることになるし、
ある意味では自覚しなければ、自覚症状がないと言いますよね。えー、ないことになる。ないことにするっていうのも一つの考え方なんですけど、いつでもそれがないことにしとけばいいっていうものでもないわけですよ。
赤ちゃんを黙って放っておいたら死んじゃいますよね。だからニードっていうものをニーズに変える必要っていうのはある時は必ずあるんですけれども、えーと、それをやるのは本人でないことが多い。
あの、先日面白い話を聞いたんですね、そのセミナーの途中に。えーと、なんかこうトイレが汚かったって話なんですけど、汚いトイレというのはニードなのかっていうことなんですよ。
で、汚いトイレがニードであるというのは、えー、トイレが言ってるわけじゃないですよね。必ずそれを見た人が言うはずなんです。
その時にその人がニードを認めてしまい、ここをきれいにするというニーズを意識した場合、もしきれいにするっていうニーズをその人が認知するとですね、なぜ私がっていう問いが発生すると思うんですね。
すると喧嘩になりうる。まあトイレとは喧嘩しませんけどね。これがニードとニーズの関係。
だから私たちはその、当然カウンセラーがですね、クライアントさんがのニード、ニーズに変えてそれを満たしてあげる時に、なぜ私がとは考えない。
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えー、お金もらってるからですね。仕事だから。しかし、えーと、時々考えるかもしれない。そういうのが大事なんですよ。
なんで私がこの人のこのもうわけわかんない物体をずっと聞いてケアしてあげなきゃいけないんだろうと。えー、未熟なカウンセラーさんなら考えるかもしれない。
で、それを考えるということがなぜ大事かというと、そこに本当の母子関係のようなものが発生するからですよね。再演されるっていうのかな。再現されるからですね。
そこが大事なポイントになるわけです。
で、あのー、このニードとニーズということを色々考えてみた時、つまりこれは私が一番考えたいのは、まあ散々この番組では言っている環境としての母親という言葉。
あのー、普通の場面ではまあ聞いたことのない言葉ですけども、環境としての母親、つまりニードというものを認めてしまった時の、えーと、その人は環境としての母親役を割り振られ、
男女関係なくですね、えー、もしかしたら子供かもしれません。
ヤングケアラーとか最近言ってますけどね、あれまさに何かニードがそこにあり、それをニーズに変え、そのニーズを満たすという役割を振られた感じを持っているわけですよね。
だから母親になってしまう。歳派もいかない子供であってもね、そういうことは起こり得る。
で、その時、なんで私がって思うかもしれないし思わないかもしれませんが、社会がそう思うかもしれません。
なんでこの子がこれをやらなきゃいけないのかと。社会の構造的な問題だろうという話をするという時に、その子、その話をしている人が今度は環境としての母親役を実はやっていると。
そういうことになってくると思うんですよ。
もっともっと私がしている話は、ライフを履くよりですが、例えば仕事に直面した時に、というご質問が出たんですね。
私は薄く実はそれに対する恐怖感だ、嫌悪感だと思っている時、ここにちょっとした抵抗があって壁にぶつかった感じがあると。
つまりそれまでスイスイとタスクシュートに書いてある通り、食事するだの、トイレ行くだの、ご飯片付けるだの、歯を磨くだのはポンポンできるんだけど、
はい、現行ですとなったり、グッドモーニングバイブスですとなった時にピタッと止まって、なんかこうツイッターでも見ていたんだ。
この時にタスク対象を不安に思っているわけですよね。このタスクやるのがちょっと嫌だなと。
それは怖いってことなんですよ。そんなに強い自覚症状がない。つまりこれがニードを持ったってことなんですよ。
ニードって不快なものですよね。車が壊れても車は不快がありませんが、不快なものです。
赤ちゃんはお腹が空いている、これはもう完全に譲りますよね。不快だと。眠い、これも不快ですよね。
ただ本人は何がしたいのかわからない。さっきも言いましたけど家族の人がご機嫌斜めだ、不愉快だからご機嫌斜めなんですよね。
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で、私さっきオミクロンから完全に戻ってない。ある種の不快感がそこにある。これもニードですよね。
どんなニーズかわかりません。ただ不快感があるということはすでにニードなわけですよ。
ドイさんが言った非常に重要なやつ。何にも満たされていないものはない気がするんだけど、甘えられていない。
人は常に甘えというものを満たされていない、満たし得る状態にない、よろしくないという巨大な情緒的なニードがある。
つまり甘えたいというのはニードなわけです。これをニーズに変換して私甘えたいですという人はいないんです。
だから満たすのが非常に難しく満たされていないときは、満たされているのをデフォルトと見なさなければいけないようなニードがそこにある。
でもこういうものはいっぱいありますよね。で、私もそういう風になるわけですね。
グッドモーニングバイオスを前にするとニードが発生する。どんなニードなのかちょっとわからない。
うまくしゃべりたいなのか途中途切れなくしゃべりたいなのかこの辺がありそうなんですけどね。
このニードが発生したことで炎上させたくないなのか、炎上したことないからそんなに強く自覚症状がないと少しはあったりするわけです。
それがつまりニードとして意識されるんだと満たされない。満たされないことはやりたくない。
つまりこういう話は昔セミナーでして、どうも私には関係ないような気がしますと言われたときに結構ショックを受けてしばらく考え込んじゃったんですけど、それも大きなニードです。
ニードとニーズの話は受けないんだということが私の一つのニードになってしまうということは、そんなことはないですよって言ってほしいってことなんですよというニードが僕の中に発生しちゃうわけですね。
そんなことはないですよと自分で言うのは難しい。人に言ってほしいわけですよね。これは甘いと言いますよね。
つまりそういうニードとニーズの関係があるわけです。
私はやっぱりこの考えに割と固執しているというか、固着と言ったら言い過ぎでしょうけれども、環境としての母親が機能していれば先送りというものは全部なくなるはずだと信じています。
そのうっすらとした恐怖というのは強い恐怖なのか、そうでないのかわからないんですけど、やっぱり当日倉澤さんも一緒のセミナーだったんですよ。
その正体を見極めた方がいいというふうに彼もおっしゃっていたんですね。これがニーズに変えるということなんですよ。
やっぱり何らかの形で、おそらく自分自身でですね、自分が愚図っていると。
つまり自分は子供でもあり、母親にもない一人二役なんですね。この一人二役が大事なんですよ。
何が怖いんだろうと見に行くというのが、つまり怖がっている自分がいて、その恐怖感を取り除く母親という自分がいる。
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この形を成立させないことには前へ進めなくなるんじゃないかと思うんです。
私はそうしているんですよ。自分はどんなニーズを持っているんだろうというふうに考える。
それに対してどんなニーズにしてあげて、どう満たしてあげれば私は落ち着いて仕事を始められるのか。
この観点に立てるかどうかが問題なんですよ。
愚図っている子供でいるうちは、仕事は進まない。仕事に取り組めない。向き合えないとか言ったりしますよね。
向き合わせる私というのがいるはずなんですよ。いなきゃ私は完全にアカウンポーと同じなんです。
でもそんなことは普通あり得ないから、やっぱりいるんですよ、この母親は。
見出すとかいうものではないんですね。この観点に立っちゃえば間違いなく自分は母親役ができるんです。
これを多くの人はすでに間違いなく無意識にやってるんですよね。
例えば、暑くて喉が渇いたから水飲む。この瞬間にもそれはやれてるんですよ。
水が飲みたくて喉が渇いてるという子供がそこにいて、それに水を飲ませてあげるという自分が一人二役で母親役もやってると。
これが環境としての母親ですからね。非常に簡単なことなんです。
なんで私がとかって思わないでしょ、こういう時には。
そういう思わない、そんなことを思う間もなくできちゃうというレベルがやっぱり望ましいと思うんですよ。
だから、これが機嫌が悪い家族であろうと、なんであろうと、これがサッとできるかどうかに、多分どんな場面でもかかってると思うんですね。
簡単なのもあれば難しいのもあるのは当然です。
最初簡単なところから始めるわけですよ。これを移行期間というんだと思うんですよ。
一番最初は本当に一人二役じゃなくて二人二役だったわけです。
環境としての母親と、これはお父さんだったかもしれません。
うずってる子供がいると。ニードをニーズに変えてあげる。
そして満たしてあげるところまで全部やってあげる。
そういう母親が外にいた。
でもそれはいつしかそこに完全に耐え切ってるという生き方ができないから移行期間というところに移ります。
その時、例えばママ元を使って、これを移行対象と言うんだけど。
女の子がやるじゃないですか。男の子もやるんですけどね。
親役をその子やってるんですよ。必ず。
お人形さんかなんかに見立てて、お腹すいたの料理するからねとか言ってるんですよ。
これが一人二役の最初のトレーニングなんですね。
ニードをそこに見立てて、ニーズに変えてそれを満たしてあげるということを擬似的にやるんですよね。
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これが移行期間におけるやり方で、自分の中で母親というものが育っていくんですよ。
で、その育てたのは私たちはとっくにやってるんで、
いや、私の中にこういうのいませんっていう方がいらっしゃるんだけど、それはありえないんですね。
この中に、自分の中に母親がいなければ、言葉は喋れないと思ってください。本当に。
絶対無理だから。ニードというものをニーズに変えるのがはっきり言葉の原型ですから。
これがすらできないということになるはずなんですよね。こういうのがいなければ。
だってその移行期間におけるママごとやってる子供って、言葉がたどたどしいじゃないですか。
こういうことは深い関係があるはずなんですよ。
最初にやる言葉って、絶対ニードニーズに変えることですもん。
ママって言うじゃないですか。ママっていうのはニードニーズに変える一番原始的な言葉ですよね。
ああいうことすらできないということはありえないから、まずありえないから、
少なくともセミナーを受けてる人にはないから、うち、私の中にはいませんということはないんですよ。
ただ、そいつを起動させる気がしませんということはいっぱいあるんですよ。
なんで私が?っていう問いになっているわけですよね。
私はあなたの母親じゃないよっていうことなんですよね。
私は勝手に環境としての母親役にさせないでくれるっていう話をしてるんですよ。
ということはどういうことかというと、自分はニードを持って、それをニーズに変換して満たしてあげたりはしないこともあるよってことなんです。
しないことはありますよね。
ただ、これをしないときにやってることは自分は子供のままでいるよっていう宣言になってるんですよ。
自然と。
ここを指摘すると炎上しますから、通常ここは言わないですけれども、
違う言い方にしますけどね、それこそ。
私たちが環境としての母親役を振られているんで、その瞬間には。
セミナー主催者とかいう立場であれば当然ですけれども、振られているんでですね。
それを振られている以上やりますよ。
その時、あなた子供っぽいねとかっていうのは、それはニーズに変えたことになりませんから、
母親として機能できてないことになっちゃうんで、そういう言い方はしません。
そう、だからそういう言い方はしないんですけれども、結局それは何て言うんですかね。
ニードを放置するということは、母親機能というものを放棄するっていうことになるんですね。
これがつまり、母親役は母親に相当する部分は自分の中にはいませんとか、脆弱ですとか、
そういう言い回しになっていくんだと思うんですね。
でもそれは誤解なんですよ、きっと。
否くもないし、脆弱でもない。
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ただ、起動させる気がない。
で、起動させる気がしないってことは何度も言う通り、
どこにでもいくらでもあります。
すごく簡単なところで言うと、私が朝起きることができないのかですね。
寒い冬、いつまでも布団の中でぐずぐずしていたい。
これが、移行しきれないという時に起きる現象なんですね。
つまり、自分は赤ん坊役でやっていたいと。
布団というのが多分、環境としての母親役を担わせているやつで、
布団をくるんでいるのは自分だから、結局そこは一人二役になっているんだけど、
この状態でいたいと。
で、その時はもう母親機能に相当するものは全くなくて、
全くないことにしておいて、寝らんないって言ってるわけですよ。
出らんない私しかいないってことにしたんですね。
だから出られないんですね。
で、ここでホールディングの話をするとめんどくさいんですけど、
ついでに言うと、これは母親が過保護な母親なんですよ。
抱え込んでいるわけですね。
すっかり抱え込まれているから出られないんですよ。
この費用を使って引き籠りをよく話題に取り上げるという精神分析は多分あると思うんですけど、
要するに抱え込まれてしまっているから動けないんですね。
抱え込んでいるのも自分自身なんですけど、
外は寒くて危ないよって言うじゃないですか。
言わないけどね。
親はそういうことを子供に言う。
そういうどっちかというと抱え込み型の親は言ってみれば頼りにもなります。
その状態に頼っている自分みたいになっていると、
次の行動が起こしにくくなるんですね。
要するに次の私のニードというものを見極めてニーズに変えてあげて、
それを実行するという母親を起動させる気がないので、
いつまでもぐずぐずと布団の中にいたいというだけの私がそこにいることになると。
それを抱え込んでいる母親みたいな、
そういう関係を自分の中に作り出しちゃうと動けなくなる。
これが多分全ての先送りなんだと私は思うんですね。
だからこそ環境としての母親役というものを理想を言えば、
なんで私がと言わずにことごとく勝手に出ると、
その時に大事なのは心理状態なんですけど、
なんで私がという感情を持ちながらお母さんがやることもありますから、
それはそれで結構だと思うんだけれども、
これを起動するということを惜しまないという話は完全にグッドワイブスになっちゃうんですけど、
要するに依頼されたことはすぐに対応するというのは、
理想的な母親の在り方なんですよね。
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これを繰り返していれば、その人の中の環境としての母親は、
言ってみれば機能を不全に陥ることが決してなくなる、理想を言えば。
そういう状態になって先送りをしたり、タスクが怖かったりすることもなくなる、
というのが私がセミナーで、だいぶ前にやったセミナーで伝えたいと思った話なんです。
それで伝えたつもりの話でもあるわけです。
戸畑海人さんの一番最近の作品、本の中で、
離婚を急に言い渡されたという、アレなんかアレンジが強いなという気がする実例ではあるんですが、
実例かどうかわかんないということですよ。
小学生の子供がいるのに旦那がいきなり離婚するって言ってきたの。
大変混乱していたと。
その離婚された女の方が見た夢に、とても綺麗なガラス細工が粉々になって届いてきたという夢を見たと。
そのガラス細工の手を入れたら、手が切れて痛かったと。
なんだけれども一生懸命そのガラス細工綺麗なんで、
その中には何か良いものが入っているんじゃないかと探しているという夢だと。
これは夢も出来すぎていて、やっぱりアレンジ感がちょっと僕は感じたんですけれどもね。
そういう話が冒頭で紹介されていましたね。
ここにもニードがありますよね。
この夢の意味は、離婚された直後に見る夢としては至ってわかりやすくて、
これといった象徴というようなものをあまり考えなくていい気がするんですが、
大事なのは粉々なものの中に良いものがあると思って探すと。
そういうニードの話をしているんだと思うんですよ。
まだこの関係に望みをつなぎたいというニードがある。
だけれども目が覚めてお昼に意識がはっきりしている時は、
もうそんなことはあり得ないと思っているわけですよね。
だから自分がどんな不快感を宿しているのかが不快なんですよ、非常に。
でも不快の根本的な理由は、他人の目にはある程度明らかじゃないですか。
他の人の目からすればですね。
完全にもう修復は不可能なのに、粉々になっているのに、
その中にさらに良いもの、粉々になったものは美しいんですよ。
手を切ってでも探したいものがあるという、そういうニードですよね。
これをニーズに変えて、それを満たしてあげることはできないですよね。
だから夢としてそれを見るわけですね。
世の中には満たし得ないニードというものもあるわけですよ。
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だけれどもそれであったとしても、それを見極めるということの意味はある。
こういう話がカウンセリングではつきもので、
見極める意味がどこにあるんだという考え方もあると思うんだけど、
いや、あるというふうにカウンセラーは考える。
人が多いと思うんですね。
精神分析ならきっとあると考えると思うんです。
常にそれをやるのの良し悪しというのはまた置いておくとして、
こういうふうにニードというものを見るのも難しくなったニード。
だから夢で見るんだけど、
言うものをカウンセリングの場ではっきりさせていくというのが、
そもそもカウンセリングだったりするわけですよ。
これが分かるか分からないかの違いはあるじゃないですか。
結局自分はまだこの壊れてしまった結婚の関係に望みをつなごうとしている。
そういう葛藤があるから望みをつなごうとしているというふうに言っている一方で、
もうこの関係は粉々だから二度と戻らないという認識もあるから葛藤が起こるわけですよね。
それが当人の苦しさを当然生み出すわけです。
ニードを抱いているというのは苦しいことなわけですよ。
布団から出られない時も同じで、出ようとしているわけですよ、心の底ではどこかで。
そいつを抱え込んでしまっている。
家から出て自立したいと思っている娘さんや息子さんがいるんだけど、
一方で世の中は危険がいっぱいだよというふうに無意識ですよね。
無意識のうちに父母が強烈なメッセージとして出すと。
だから家の中で暴れるみたいな話になっているんですよ。
ということは定番中の定番で、ほとんど今言ったような話はステレオタイプみたいなものでありますけど今の時代。
でもこういうことは実際に起こってしまうことであって、
私はですね、タスク主となりタスクリストなりで実行できないタスクがある時に起こっていることは全部これだって今は思っているんですね。
実行しようとすると父母が、母でもいいですけど、強いメッセージを送ってくるわけです。
そんなのまだ無理だよと。
たかが布団から出るという程度のことであっても、そういうことになってしまうことはあるわけですよね。
そういうメッセージを投げかけられると、自分は完全に赤ちゃん代理にしてしまって動かなくなる。
動かない方が気持ちがいいというふうに、気持ちいいんですけど、思うようになる。
そういうことがですね、怖いタスクと。
意識できない程微量の怖さではありますが、外に出るのが怖いとは思っていませんからね。
怖いタスクというものにはつきまとっておりまして、
怖いと思っているということはニードのまんま、そのまんま何らかの形で放置されているわけです。
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だからそれを見極めに、行くって言ってもどこに行くんだって話なんだけど、
心の中をよくよく探ってですね、夢にガラス細工を見るような形でもいいから、
何らかの象徴を使う形でもいいから、自分が何を怖がっていて何をしようとして何がそれを引き止めているのかというのをわかればですね、
多分大概のタスクはそれで実行できます。
もうどうしてもそれでもできないのであればですね、それは微量な恐怖とかいうものではないと思いますね。
もっと真剣に考えないと多分そのタスクを実行するのは相当困難であって、つまり甘く見ちゃいけない問題がそこに潜んでいると思うんですよ。
ただし甘く見てはいけない恐怖というものは基本的には全てイリュージョンだと私はよく思うんですね。
イリュージョンの方はよっぽど現実より怖いことが多いですからね。
このイリュージョンが極めて大であるという場合にはですね、多分実行できないんでしょうね。
でもそれは実行できない原因は心の中にしかありませんよとやっぱり言う話になるんですよね。
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