00:05
おはようございます、グッドモーニングバイブスです。
グッドバイブスファクトリーというオンラインコミュニティがありまして、
倉園さんと私に24時間体制で一応、なぜなら倉園さんは夜起きるからですね、僕は朝起きますけど、
すごくざっくり言いましたけど、夜は何かあったらそこに投げていただくと、
倉園さんが最初というケースが多いですけど、というのは私が寝ている時間に投稿されることが多いような日がちょっとしますが、
これがですね、僕は様々あるんですよ、ファクトリーには。
こちらから発信している、倉園さんと私のぶっちゃけ相談のもっと閉じた、クローズなやつのTVとか、
月額そんなに高くないので、オンラインコミュニティとしてはむしろ安い方だと思うんだ。
最近私知ったんですが、例えばアドビで写真を10枚月々ダウンロードするのの半額ぐらい、半額じゃないけどほぼ半額ぐらいですので、
すげえ高いってものではないと思うんですね。
比較できるものがあんまりないんですけど、ああいうものは。
あとそうですね、ニテラのドロップボックスの月付き払いよりちょっと高いかなぐらいな感じですね。
年間でドロップボックスを契約すると間違いなくファクトリーのオンラインよりは安くなっちゃうんですけど、
そういう比較の対象じゃないんで、片屋クラウドストレージで、
こちらはオンラインコミュニティで働く人だけではないですけど、つらさを相談できるという内容です。
それにしては高くはないと思うんですよね。
毎日クラゾノさんが平日なのかな、今日のグッドバイブスとか平日じゃないと思うんですよね。
ほぼ日で、しかも分量的には何らブログと変わらないんですよ。
クラゾノさんのブログとあまり変わらない分量なんです。
少ない日でも私のノートよりははるかに文字数がいってるという、
フェイスブックにしか投稿されませんので、オンラインコミュニティの中じゃないと見られないんですけど、
別に買うことはできると思います。
そういったものの投稿もあったりします。
私がカウンセリングとか精神分析の実例とか心理学用語とかを上げて、
03:07
それをグッドバイブス風に解釈しているというのも週に1回投稿しております。
そういうのも諸々ありますので、よろしければチェックしてみてください。
公式サイトの方からすぐ見つけられると思います。
初月無料ですしね。
その投稿を今朝から見て思ったんですけれども、
私たちは何か問題が発生したときには、自分が環境としての母親と、
このポッドキャストでやたら言っている、これはウィニコットという人の言葉なんですけど、
になるしかないんだなと最近思うんですね。
最近ドイツ卓強さんの甘えの講座じゃなくて、もうちょっと専門的な本を読んでるんですけれども、
ドイツ卓強さんってすごい人で、多分彼はウィニコットのことは知らなかったはずなんですよね。
アメリカに行った人なんで。
ウィニコットは対象関係論という方で、
イギリスの方に行かないと多分メインで出てこないと思うんで、
名前は知っていたかもしれませんけれども、
あるいはですね、多分厳密な意味では知らなかったと思うんですけど、
あの人の精神分析の考え方というのは全然アメリカ的じゃないなというふうに、
自分がアメリカで習った、いわゆるサイコアナライシスとはすごく違うやり方をするんだなというのを思ったんですよ。
彼が甘えと言っているのは、特にですね、
クライアントさん、来談者さんがする甘えを自分が受け止めるというあの構図は、
そういう構図が明らかに感じられるような記述が多いんですが、
多いというかよく出てくるんですが、
同じか。
すごくウィニコットの言うところの環境としての母親という感じ、
異行空間という感じをものすごく連想させる方式なんですね。
多分あれ独自にやり始められたことだと思うんですけど、
どうなっているんだろうぐらいに思うんですよ。
で、その時に彼がやっているようなことって、
でも私たちには全く同じことは到底やれませんが、
でもこれやっぱりグッドバイブスでいうところの業種経調というのと
よく似ているなと思うんですね。
もうちょっと違う言葉をですね、
経調ってのはですね、結局聞くってことじゃないですか。
何を聞くのかというと、その人が訴えんとしていることを聞くんですよね。
何かトラブルが人との関係で起こった時には、
やっぱり私たちにできる一番いいことはそれかなと思うんです。
聞くこと、知ること、探ることですかね。
よく言うんですが、これ誰が言ったのかな。
06:05
哲学者が誰か言っていたんですよね。
それがそうであることは当然であるという風に私たちが思う時に、
実は何の根拠もなく、何の理由にもなっていないんだけれども、
そうだとしか思わないというケースが一般的だみたいな話をした哲学者がいたんですよ。
名前はど忘れしました。
名前を忘れたというか、これを誰かが言っていたはずだという認識でしゃべっているんですけど、
例えば、倉園さんが昔そういうお話をされていたんですけど、
高所恐怖症だと、彼はですね。
飛行機に乗るのは恐ろしいと。
昔、ジャングルジムから小さい頃に落ちた記憶があって、高所恐怖症なんだって話をされた時、
私たちは、なるほどって思いますよね。
必ず思うんですよ。
これはどういうことかというと、その哲学者の言い分によると、
それは理由になっていないというわけですよ、本当のところ。
つまり例えば、合理的な理由とかそういうもんじゃないと。
この時に私たちがこの事態を了解するのはですね、
私たちだって小さい頃に高いところから落ちた経験、
それによって背中を強く打ったとか、頭を打って死ぬ思いをしたという経験があれば、
高所恐怖症になるだろう、誰だってなるだろうってことなんですよ。
この誰だってなるだろうって思えると、私たちはその内容について了解しちゃうんですね。
誰だって本当になるかどうかわかんないですよね。
自分はならないかもしれないですよね。
それどころか、自分は高いところから落ちた経験があって、
しかも高所恐怖症じゃない人っていますよね。
私もジャングルジムほど高くなかったかもしれないけど、
もっと高いところから落ちたようなこともある気がするんですよ。
でも高所恐怖症にはなってないと。
なぜか、あるいはうちの奥さんが高所恐怖症に近いところがあるんですけど、
そんな高いところから落ちたという記憶はない。
記憶がないだけで落ちた経験あるんですけど、
なぜか答えられないんですよね。
でも、そういう経験をしたならば高所恐怖症になるのはよく理解できるよねと私たちは考える。
これを精神分析の世界ではやろうとするんですね。
カウンセリング一般でやろうとしますよね。
この人はなぜか電車に乗るのが怖いと言う。
このなぜか電車に乗るのが怖いとただ言っているだけではなく、
このなぜか電車に乗るのが怖いとただ言っているだけではなく、
私たちはそれが何でだかは了解できないんですが、
これを聞いているうちに了解できる内容を聞き出し、
そして了解できると、なぜか雷談社さんが良くなると。
そういうことをですね、繰り返し土井さんは言って、土井武夫さんは書いているように思うんですよ。
私が蔵園さんのセッションを聞いていても思うのは、原則これに限りなく近いような感じがするんですね。
これってでもよく考えてみると、例えばお医者さんやってるんですよ。
09:04
例えばお医者さんのところにいてとっても辛いんですって言ったとするじゃないですか。
必ずこう聞くと思うんですよね。何がどう辛いんですかと。
この場合のお医者さんは多分内科医でいいと思うんですよね。
とっても辛いんですとだけ言うと、どこが辛いんでしょうって聞かれると思うんですよ。
これ普通ですよね。これはつまりどういうことかというと、私たちは辛いとだけ言っても、
それがどういうことなのかを実は誰も了解できないという意味だと思うんですね。
なぜ辛いのかとか、どこがどう辛いのかを言ってくれないと分からないと。
これはすごく当たり前のことのように思うんですが、
ここでですね、患者さんがしかし必死になって辛いんですとしか言わなかったらどうするかと。
お医者さんはどうするのかと。
私はですね、多分診療内科に回されるんじゃないかと思うんですね。
これってどういうことなんだろうと思うんですよ。
この番組でもよくニードをニーズに変えるっていうことを言ってたんですけど、
これもウィリコットって人の言葉なんですよね。
一番最初に生まれた赤ちゃんってそうですよね。
辛い時には泣きますよね。辛いとすら言ってくれないですね。
これはニードなんですね。
つまりこの赤ちゃんは何も訴えてないんですよ。
でも何かを訴えている。
そのどうすればいいのかはあんたが考えてくださいと。
そういう訴えかけなんですね。
だからあなた考えてくださいってここから始まるんですよね。
カウンセリングみたいなものって。
だから生きにくい面があると思うんですよ。
お医者さんならばそもそも私たちは何かに行くことすら自分で決めてから行くじゃないですか。
大きな病院に行くと。
私ね、大きな病院に行くと、
大きな病院に行くと、
大きな病院に行くと、
大きな病院に行くと、
大きな病院に行くと、
大きな病院に行くと、
大きな病院に行くと、
私ね、結構小さい頃から大きくなってもですね、
え?って思ったことがあるんですよね。
何かに行くのも自分で決めなきゃならないのか。
でも当然そうかと。
でもそれが明快に向かっているぐらいならそんなに大きな病院に行かないじゃんって思うことが多々あったんですよ。
そんなに明快に何かに行くこと。
例えば歯が痛いんですって言ったら大病院に行かないじゃないですか。
会社さんに行きますよね。
つまり私たちって実はですね、
この辛いんですに相当する状態で生きているケースが多々あって、
ところがこれって持って行きどころがないんですよね。
私がよく内的な母親という話をすると、
うちの母親はひどい母親だったとか、
内的な母親が私の中にいませんとか、
そういう話が出てしまうんですけど、
そうではなくて、
僕らの内的な母親がやってくれていることは、
このニードをニーズにまず変えるってことをやってくれてるんですよ。
12:04
やってくれてるというか自分でやるんだけれども、
水を飲むってことを始めるってことはすでにそうなんですよ。
いないってことはありえないと思うんですね。
いないほどひどい目にあったり、
いないに等しい状態の方もいますよ。
でもそういう方が私のところに相談に来るはずはないし、
ましてタスクシュートとかを使っているはずはないんですよ。
ニードがニーズに変えられないというのは大問題で、
そんなことはありえないんですね。
普通のケースでは。
でもしばしば私たちはそれに近い悩みを持つわけです。
なんかよくわからんけれどもとてもつらいとかね。
あるいは、これが内階酸だったらこれでも困るなものが、
頭が痛いんです。
これはすごいはっきりしているようじゃないですか。
でもこの頭が痛いことを繰り返し繰り返し訴えるだけでは、
一歩間違えると診療ないか。
こういう言い方をしてはおかしいんですけど、
要はうちでは扱えないなというふうに考えるか、
少なくとも専門ではないなと考えられる可能性はあると思うんですよね。
ということはつまり、体調不良であろうとなかろうと、
なんであろうと精神科というところに行く可能性があることの一つは、
そしてかなり重要なファクターとして、
自分のニードがニーズにならないということ、
あるいはできないということなんだと思うんです。
ということはどういうことかというと、
考えることができないということです。
赤ちゃんは考えることができません。
だから代わりに母親が考えてくれるわけですよ。
泣くということはお腹が空いているのかもしれないと考えるのが母親ですよ。
いずれこれ自分でやるようになるじゃないですか。
移行対象とか移行空間とか移行期とかいうのは、
これを自分でできるようになりかけている時ですね。
私たちはそれはいつもあるわけじゃないですか。
大人になれば自分のニードを全部ニーズにばっちり変換できるわけではないですよね。
何を俺はやりたいのかわからないが、
なんだかこれはやりたくない、でもそれをやらなきゃいけないみたいな話は
タスクシュートでもしょっちゅう、タスク管理でもね、
ライフハックでもしょっちゅう出てきますよ。
これは移行期じゃないですか。
母親がいてくれればいいわけですよ。
いやいや、あなたは今これをしなければいけないんだ。
これをしなさいと言ってくれればいいんですよ。
まあ、言ってくれる人がいないとGTDとかに頼り始めるわけですよ。
あれは移行期なんですよ。移行対象というのが。
とにかくあれがないと自分のニードがニーズにきっちり変換されない母親代わりなわけです。
だからいない人って基本いないんですよ。
いないということは大変なことになってしまうんで。
水も飲めないって。赤ちゃんは自分で水は飲めないって。
15:03
で、その代わりに考えてくれる人として、
多分一番専門的にここを徹底的にほぼ自覚的にやるのは精神分析家なんですよね。
だから話を聞くんですよ。
とにかく相手が連想して人言うことを喋っているのをとにかく聞くと、
それほどまでにその来談している人は自分がなぜ、
まあ簡単に言うと母親機能が確かに何らかの形で機能しなくなりかけると、
ニードが一つもニーズに変わらなくなっていくので、
その人ばっかりになってしまうので、その人は大変困るわけです。
なぜか電車に乗れないとか、なぜか高い道路が怖いとか、もろもろ出てくるわけです。
アメリカではこういう現象を一つ一つに対処療法的に当たっていくという考え方もあるんですけれども、
いくらそれをしても症状がなくなってはいかない。ただ変わっていくだけで。
ドアノブが触れません。手を洗うのがやめられません。
食べ過ぎてしまいます。あるいは何にも食べられません。
ありとあらゆる現象が起こり得るわけですね。
なぜならばニードがニーズに変わらないから、自分で変えられなくなってしまったからですね。
これ簡単にできることではないと思うんですよね。
辛いですっていう話あるじゃないですか。
で、よく見かけるのが辛ければ辛いと言おうと。
でも僕はこれは何を言わんとするかわかりますよ。
辛さを我慢するのはよくありませんと。
勝手に苦しんでいては大変なことになりかねないから辛いと訴えましょうと。
でも辛いとだけ訴えたのでは、私たちはそれがまだニーズになってないので、
聞いた人はどうしていいのかわからないわけですよね。
何が辛いんですかって話になってしまうわけですよ。
この一本は違うと何が辛いんですかと聞かれること自体がトラウマになるじゃないですか。
そういうことは僕は感覚的にわかる気がするんですよね。
これをやっぱりイギリスの方の精神分析で辛臭と言ったりするんですけど、
辛臭よくわからんっていう風に前に言われたことがあるんで、
辛臭の辛は侵入の辛、侵略の辛です。
臭は襲うですね。
体にデカいがメスを入れるのを辛臭と言うらしいんですけど、
要するに辛臭はない方がいいわけです。
辛臭がトラウマになるというのは、
要は環境としての母親は環境じゃなきゃいけないからですね。
環境側から何か突然やってきては困るわけですよ。
辛いんですと言ってる人は、環境としての母親にまずこの辛さは、
なぜ、どのようにして発生した、どういう辛さなのかを説明してください。
代わりに考えてくださいっていうところまで、
18:01
対抗が進んでいる、赤ちゃん返りが進んでいるわけですね。
これに対して答えるべきは、
あなたはこうこうこういう理由で辛いから、
今はこれをしましょうって答える。
これが欲しいはずなんですね。
何が辛いんですかっていうのは、
すでに何か突き放された感じがしますよね。
本当にめちゃくちゃそれで困ってる人からすると。
だからそういう受け答えであっては困るんだけど、
内科医さんは精神分析やってるわけじゃないから、
当然何が辛いんですかって聞きますよ。
で、これを聞かれるのが怖いから、
お医者に行けないんですっていう人もいらっしゃいますよ。
多分いると思うんですね。
私が昔、多分あれこそがまさに
カウンセリングジレアンだったんですけど、
彼女が欲しいんです。
この彼女が欲しいんですってのは、
いかにも何が具体的になっているようですけれども、
実は辛いんですと何も変わらないんですね。
ニードだったわけです。
ニーズになってないんですよ。
そういうニーズに答えるものだって今あるじゃないかって言われると、
それはその通りです。
でもそういうことではないんですね、これは。
そういうことではないってところに問題があるわけです。
辛いんですと人が言ったときに、
辛いと言えないのは良くないから言いましょうっていうのは、
そうかもしれないんですけれども、
辛いというのはニードなので、
そうですよね。
相手はどうすればいいのかは、
完全としないですよね。
泣いている赤ちゃんが泣いているというのと、
そう違わないわけです。
それに対して、それが言えるならば、
すでにだいぶマシだという考え方もあるでしょうし、
いずれにしても、こう言われたときに、
いろんな考え方があると思うんですけど、
一つには、おそらくカウンセラーの一つは、
まず関係性の構築から始まるというケースはあると思うんですね。
ラポールとか言ったりしますよね。
つまり、辛いんですというところから、
いきなり何が辛いのかを聞き返すのではなくて、
言ってみれば甘えさせてあげるわけですよ。
辛いんです。甘えたいんです。
甘えたいんですはダメじゃないですか。
ダメというのは甘えがダメという話ではなくて、
甘えたいんですも同じ字ですよね。
ニードですよね。ニーズになってないですよ。
甘えたいんですか。じゃあ甘えさせてあげます。
おかしいではないですか。
たぶん、それではその人の要求は全然満たせないんですね。
この甘えたいという要求、あるいは辛いという訴え、
こういったものを受け止めるという存在が必要で、
私たちは幸いにして、
私がうちなる母親と呼んでいるもの、存在ですね、
21:01
そういうのがあるので、
意識せずに済むぐらいには満たされているわけです。
日頃は。
たぶん奥さんが満たしてくれているとかでは、
僕はないと思うんですよ。
少なくとも私の場合はそういうのではないんですよ。
多少はそういうところはありますよ。
ここが環境としての母親というのが、
自分の中なのか、あるいは自分の外なのか、
はっきりしないところがあるわけですよ。
布団だったりするケースもあるわけですよ。
布団だったら移行対象になっちゃいますけどね、たぶん。
いずれにしても、そういった状況で、
いずれにしても、そういったいろんなものによって、
よく言われる話で言うと支えられているんだけど、
その支えでは十分でないという状態が発生するわけですよね。
発生したときに僕たちは、
二能二図に変えられないというところまでいくと大変ですけれども、
その手前の段階で、
何か人に頼りたいといったような感じを抱くことがあるわけですね。
そばにいてほしいとか言うじゃないですか。
あまり僕は言ったことはないですけれども、
そばにいてほしいはニーズになっているじゃないですか。
ギリギリですけれども。
非常に移行対象的な何かを感じますけれども、
大事だと思うのはですね、
赤ちゃんの場合、代わりに考えてくれるのはお母さんです。
僕らはそれを移行期を経て成人死というか、
心理的に独立すると自分で考えられるようになります。
このときですね、
何て言えばいいのかうまく説明できる気がしないんですが、
そこに赤、本当のお母さんがいちゃダメですよね。
これは物理的な意味でもそうなんだけど、
むしろ心理的な意味だと僕は思うんですよ。
ここに生々しく具体的なお母さんがいたのでは話にならないじゃないですか。
そうするとそのお母さん代わりに考えてしまうから。
代わりに考えてくれる存在が不在であってこそ、
私たちは自分で考えることができるわけですよね。
母親の不在とかって言うんですけどね。
もうちょっとうまい表現がないかと思うんですが、
前に倉澤さんがGood Vibesでほぼ同じことを
全く別の言葉で話してくれて、
心にはスペースが必要だと。
これもほとんど同じような表現を
美音とかが取ったりしちゃってるんで、
そういう感じなんだよなとしか言いようがないんですけれども、
とにかくそこのに赤ちゃんがいてお母さんがいます。
もういっぱいいっぱいですよね。
赤ちゃんが考える余地がないわけです。
お母さんがいてくれて考えてくれるんで、
この状態を成人になって持ったらまずいってことですね。
そうすると極めて具体的な存在が邪魔になってしまう。
僕らはこういうことがしばしば起こるんですよ。
心がいっぱいいっぱいになってしまうんです。
心の中で親のことを考えてるとか、
24:01
自分が昔怒られたことを考えてるという時に、
考えてしまっているその何かがいるために、
自分で代わりに考えるということができない
そういう状態があるわけです。
この状態が僕はつらいんだと思うんですよ。
こいつどかしてくれって感じなんですよね。
代わりに考えてくれちゃっている存在。
だいたいその考えがしかも正しくなかったりするわけです。
この話はただしたの話は置いとくんですけれども、
要はいちいち考えてくれる存在というのが
自分の中で邪魔をするわけですね。
今の話は非常にややこしい感じが今喋っているんですけど、
私がこの番組でよく喋る話としては
鍋の蓋の位置とかですよ。
鍋の蓋の位置についてケチをつけられたと。
カッとくるっていうのは
私の中の母親が勝手に考えてしまったんですよね。
ここで私が考える余裕を持つためには
この母親の考え、母親の考えといったって実在していませんよ。
実在していないんだけれども、勝手に考えてしまったんです。
実在していませんよ。実在していないんだけれども
勝手に考えたその考えというものを
一旦考えさせるのをやめさせて
私が考えないといけないわけです。
これが結構ややこしいんですよ。
そしてこれが結構難しいんですよ。
つらいという時に、例えば電車に乗って
ドアが閉まるととても怖いとか言った時にですね
答えが出ちゃってるわけですね。
代わりに考えてくれている存在が
しかもそれが非常に間違った答えを出してしまう。
例えばこのまま電車でどこかに連れ去られるかもしれない。
こういう考えではないんだけれども
こういうような恐怖感を感じさせるような答えをですね
先に用意しちゃうんですよね。勝手に。
なんかそういう感じっていうのが心がいっぱいいっぱいの時には
とっても多いんです。
しかもしゃべっている人は
すごく理にかなったことを言っているような感覚を持つらしいんですよ。
持ちますよね。
私これ何度かいい例じゃないとは思うんですけれども
いい例が思い浮かばないんですよね。なかなか。
例えば私が本を何冊か出すと
売れもしない本を何冊も書いて
そういう評判が立って
あなたに本の依頼が来なくなりますよと
言ってくれた出版の関係者さんがいるんですよ。
すげえ理にかなったような考えに聞こえたんですよ。
こういうことです。
心の中が間違って
考えが間違っているというよりは
勝手に代わりに何かが考え始めちゃったという
それは言った人が考えたんでしょうって言われるかもしれませんが
そうではないです。
27:01
そんなに一言をしゃべっただけの
どこかの例えば部長さんだの
編集長さんだのが
私の心の中でよく対象と言いますよね。
対象関係論の対象はこれなんだけど
対象としてはっきり私の中には根付けないです。
このように言った言葉が私の中で響いたとすれば
それは多分私の父親の
対象としての父親が
その編集さんの言葉を使って
考え始めちゃったわけですね。
そうすると私は
ニードをニーズに変換する余裕を失うんですよ。
例えば本を書きたいというニードが
あったとして
本を書きたいだったら完全にニーズになっているじゃないですか。
具体的にできますよね。
テキストエディターを起こして文章を書けばいい。
企画案を練るなにして
編集さんのところを持っていけばいい。
ここだな。ここら辺が一番ネックになりそうな気がする。
本を持って行って
編集さんのところに持っていけなくなるじゃないですか。
それはそんな本ばっかり書いていると
およびじゃなくなると言われたことと
関係しているように思いますよね。
普通世の中ではそういうふうに考えますよね。
ところがそれができなくなったとき
辛いとか言って私は口走るわけですよ。
書けなくなったんだよねとか
企画に自信がないんだよ。
この企画に自信がないんだよって
ニーズじゃないじゃないですか。
企画に自信がないんだよって
言ったらな。
うちの奥さんに言ったとしましょう。
答え返って答え出せないですよね。
自信持ちないぐらいですよね。せいぜい。
それができないから困ってるんじゃんっていう
言い争いが起こりそうですよね。
これがニードがニーズに変わらない
ということなんですね。
それは何でそういうことが起こったかというと
私の中の父親
多分この場合父親対象みたいなものが
勝手に答えを出してしまうから。
勝手に答えを出したのは
練習さんの言葉を
そのお父さんが言ってみれば
乗っ取ってしまうだからですね。
私の父親がね。
私の父親がそういうことを
乗っ取るはずはないんですよ本当は。
私の母かもしれない。何でもいいんです。
とにかく乗っ取ってしまうんですよ。
そうするとニードをニーズに
変換できなくなってしまう。
代わりに勝手に考えやがるから
私のニードを考えてくれるのが
本来の母親の
母親でなくてもいいんだけど
本来の役目ですよ。
何かしら私の心の中で
スペースを使って
そういうことを
自分でしなきゃいけないわけです。
辛いんだったら何が辛いのかと
どこがどう辛いのかと
いうことをはっきりさせるものが
必要なわけです。
書きたいんだったら何を書きたいのかと
何をどういう企画にしたいのか
考えなければいけない。
こういうこと考えられなくなるじゃないですか。
心が傷つくと。
全然違うことばっかり考えるようになる
と思うんですよね。
30:01
部長がずっとこう言ったら
それがとても辛い。
そればっかりになってしまう。
可愛いにこういう仕事をしたらいいとか
少し朝早めに出たらいいとか
いわゆる健全な
前向きな考えをしようとすると
なんだか全然リアリティを感じなくて
すっごくただただ辛い感じがする。
そういうふうに人が
なぜなるのかというと
代わりに答えが出ちゃっているからなんですね。
代わりの答えを勝手に出してしまう存在があったから。
そしてこの答えというのが
また偉くリアリティを持つんですよ。
嘘っぱちなのにリアリティを持つのは
なぜかというと
私が子供になっちゃったからなんですね。
子供というのは代わりに考えてもらったことを
受け止めるしかないんですよ。
本当は眠いのに
お母さんはミルクを差し出してきた。
飲むんですよ。泣きながらね。
これをやるってことが
必要なケースっていうのが多々あるんだけれども
大人になってこれが起きたことが多分ですね
私は一種の心の傷と人が呼んでいるのは
これだと思うんですよね。
代わりに差し出されたものは
明らかに検討違いなものなんだけれども
親が子供に差し出しているだけあって
それが正しい現実として
受け止める理由がないような
シチュエーションにハマってしまっている。
だから自分のニードがニーズに
全く変換されないのにもかかわらず
何かリアリティのある正しい答えが
そこに用意されたような気がしてしまう。
僕が本を書いて全然売れず
お呼びで亡くなるということは
あり得ますよね。当然。
でもそれは検討違いの答えであることに
違いはないんですよ。
イリュージョンなんですからね。
そのような時代はまだ起こっていない。
100%このままいったらそうなるとしても
それを事実と呼んではいけない。
ここが非常に大事なんですよ。
なんかここが今のような時代
シミュレーションがこれほど前世の時代には
今のような言い分って
ヘリクスっぽく聞こえると思うんですけど
そうじゃないんですよね。
絶対に妄想は妄想であって
空想は空想であって
近くでは絶対ないはずなんです。
近くしてから動けばいいんですよ。
私たちはほぼほぼ
そうやって動いているはずで
よっぽどですよ。
先回りして動かなければやばいっていうのは
津波とかで。
そんな本が売れなくなる程度のことで
先回りして動かなければ
先回りして動けばそもそも
上手くいくと思っていること自体が
ナンセンスなんですが
それは長くこの業界でやっていれば
よく分かることなんで
そういう言い方をするならば
なぜ出版業界で長くやっていた人が
そんなことをしゃべるのかも
不思議は不思議なんですけど
言いたくなることはあるんですよ。
で、何て言うんですかね。
33:02
今の例は
もっともっともっとしっくりくるのが
いっぱいあると思うんだけど
パッとは出てこないんですね。
ただこうやってイリュージョンを膨らませる
ということは
何か内的対象が
間違った考えにすっかりしがみついて
そのことで
頭、心をいっぱいにして
自分で考えるという能力を
塞いでしまっています。
それはもう
間違いないような気がしますね。
もっともっとバカげているんですよ。
本当は。
今のはリアリティを持たせるために
リアルな感じの
僕が考えつく限り
覚えている限りリアルな感じの
持ち出しなんだけど
大体はドアノブを触るときに
金が映って
自分は指から腐って
死ぬかもしれないとかが
こうなっているんですよ。
ここが大事なんですよ。
このレベルの無茶苦茶さでも
僕らリアリティというものを
自分の心の中で与えれば
もう信じ切ってしまうから
できなくなる。
僕が言ったとき
静電気が怖くて
カナケのものに全然触れなくなったと
全く同じです。
感覚として同じだから
言われたから分かるのもあるんだけど
感覚としてビリッと来たら
死んじゃうぐらいの感じを
持ったことと
売れない本を出し続けると
お呼びがかからなくなるよ
って言われたことが
ほぼ同じ感覚を持っているから
分かるんですよ。
これはデタラメなんだと
だってビリッとも
確実にデタラメですからね。
考えるまでもないです。
でも触れなくはなるんですよ。
ここが大事なんです。
デタラメなんだけど
話がリアリティがあるような
感じがしたから
もっとリアルな感じがしますよね。
手が腐るほどバカげている話
じゃなく聞こえますが
同じぐらい、全く同じレベルで
バカげているんです。
実現可能性は関係ないんですよ。
実現可能性だけの話をするならば
脅迫神経症の方の言っていることは
実現可能性が1%だったり
10%だったりするものはあります。
でも僕らそういう風にしては
生きていない。
ここに出れば
上から看板が落ちてきて
死ぬかもしれない。
そういう風にして亡くなった方
いますからね。
でも私たちはそういう風に考えては
行動しないじゃないですか。
だから僕らは絶対そういう風には
やらないはずなんですよね。
そこにあるリアリティというのは
そうじゃないんですよ。
1%とか0.1%とかではない。
100%起こると恐れているんですね。
そこが大事なところで
何で100%になっちゃうかというと
そういうリュージョンに
リアリティを与えているせいで
そういうリュージョンに
なぜリアリティが与えられるかというと
おそらく内的な母親が
勝手に考え始めてしまったから
私のニードでも何でもないのに
全く誤解して
36:00
違う答えを出してしまって
それを受け止めるしかない状態に
私がはまり込んだせいですね。
これが書けなくてつらいとか
企画書を持っていっても
どうせ必ず跳ねられる
こういう風に考えるようになる
じゃないですか。
そしてそこには
何ら精神障害的なものではない
理由によっている感じがしますよね。
ごく自然に
常識的な社会人が
十分深刻に考えた結果
お呼び出がかからなくなるのが
怖いから
比較に自信を持てないから
企画案を出ることができない
と思っているわけですよ。
嘘なんですよ。
そうでは全くない。
自分の企画案を出したいという
ニーズに変える能力を
本来使うべきものが
別のことにかまけてしまっていて
つまり
寝かしつけてくれるべき母親が
ミルク作りに精を出してしまっているから
寝ることができなくなっているわけです。
そして泣いている。
これがつらいの正体だと
やっぱり思うわけです。