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2022-05-16 29:06

【599GMV】相手が不変と信じて甘えさせることなどできはしない

甘えは相手あってこそ
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おはようございます。グッドモーニングボイスです。
599回、あまり正確に数えているかどうかすら疑わしいので、何かこれに意味を持たせるところでもないんですが、やっぱり考え深いものってありますよね。
次回は600回ということで、その割には半歩とか0.3歩しか前に行ってないぐらい変化に乏しい話をしているような気もするんですが、しかも私は聞き直してないですからね。
そうは言っても、タイトルを見てみると、100回前に比べるとちょっと違うことをしゃべっているんだなという感じがします。
毎日聞いてくださっているという方は大変ありがたいんですが、何なら10回に1回ぐらい、ちょうど520、30、40とか聞くと展開感があるかもしれないですね。
わかんないですけどね。
今日もまた似たようなことをしゃべりたいと思っているんですが、その前に6月4日に立花たけしさんのセカンドライフというブログで有名なブロガーの方なんですが、一緒にセミナーをやります。
一つのテーマが時間管理で、これは私が主に得意とするというか軸足を置いてきた分野ですね。これに私がしゃべり、立花さんがしゃべり、クロストークをする。
だから1テーマで3部あるわけですよ。
第2テーマが情報発信、あるいは自己表現と書かれていますが、第2部で私がしゃべり、立花さんがしゃべり、クロストークをする。
しかもその後に総合で質疑を取るから、全体で7部に分かれる。なかなか大きな構成なんですけれども、そんな風にしてやりたいと思っておりまして。
これぜひご都合合えば参加していただければと思っているんですが、多分これの中で私の集大成的なテーマがきっと現れるだろうと思っています。
つまりタスクシュートとグッドバイブスのベンズの真ん中付近の話が、しかもそれを立花さんと共催するという文脈ではやるの初めてなんですが、
こういう時にはだいたい今までになかったようなのが出てくるか、あるいは今までのがきれいにまとまるか、そういうことが起こるんですよね、ポジティブにいけば。
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しかもそういうのは同じパターン、同じ文脈に置いてみないとできないんですよ。不思議なもんなんですけどね。
というわけで、よろしければ聞いていただけるとありがたいですね。
後でアーカイブでの購入もできるようになっていますので、実際私はどっちにしてくださいとかは言えませんが、
その場にいらして、できれば質問もしてほしいというのが私の極めて勝手な願いではありますが、そういうふうに私は毎度毎度思っているんですよ。
一番いいのは、ずっと思っていることなんですけどね、これは。
テレビのように受動的に眺められて、しかも思いついたら不意に質問するというのが、
これがインターネットの動画でできる、今テレビではできない、他の方法ではできない、最高の形なんじゃないかと思っております。
個人が情報を発信できる、これはでもできますよね、今の時代。
ただテレビのように眺めていて十分面白い、なかなかこれはできないんですけれども、なるべくそうしたい。
その上でいきなり面と向かって聞ける、これはテレビでは非常に難しいと思うんですね。
これを実現できるのが毎回一番いいかなって思っています。
ので、初めてそういうのに参加するという方も、何ら緊張していただくことはないと本当は思うので、
緊張しちゃうという方はいらっしゃるんですけど質問するとなったりすると、
ただ黙って聞くというのでも全然ありがたいですので、よろしければどうぞ参加いただければと思います。
今日はいつも通りのテーマというか、前にも絶対話しているんですが、
先日個人セッションをしていて、やっぱりこれをしばらく強調できる機会があれば強調したいと思っているのがこの甘えなんですね。
甘えという話を出すとどうしても精神分析の文脈だから、母子ユニットみたいな話を出してしまうんですけどし、
それでいいんですが、実務的なというか実用的な、つまり会社に行ったり家庭環境の中でこの話を出すということはネガティブな状態にある。
つまり誰かが甘えられずに強烈に困っていて、困っているのは甘えられない方では害していないように見えるんですけど、
実は困っているのは甘えられない人なんですね。それはみんななんだけど、一番困っているのは例えばよく言われているところのモラハラの夫だとかパワハラの上司だとか、
最近すごくなんとかハラ多いんだけれどもと命名されている現象が多いのであって、そういうことが急に増えたんじゃないですよ。
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あれは昔から絶対ありました。それに名前を付けるようになったんです。
しかもなんとかハラで統一するようにしているんですよね。だから多く感じられるんだけど、そのなんとかハラやっている人たちが甘えられていないんですよ。
私はそれに対して顔色の本で甘えられていない人をなんとか甘えさせるしかないということを書いているんだけど、
当然ある種の人にしてみればナンセンス極まりない話なわけですね。
避難強行ってわけじゃなかったけど、なぜならそんなに売れなかったから、避難強行ってわけじゃなかったですけれども、
奴らが悪いのであって、あれを甘えさせて増長させてどうするんだということなんだと思うんですが、
でもあれは甘えられない現象なんですよ。甘えられないということが引き起こしている、ほとんど病理に近いものなんですよ。
なんとかハラって言うぐらいならば病理に近いものだという方がまだマシかなと、どっちもあまり良くないかなと思うんですが、
とにかく甘えを受け止めてあげないと、いつまで経ってもあの問題はどこかで必ず勃発することになるんですが、
甘えを受け止めるというのはつまり甘えるってことなんですね。
このカラクリがなかなかセッションを喋ってても、ああ言ってもこう言ってもそう言ってもなかなか頭ではわかるとか言われてしまって、
頭ではわかるという話になりやすいし、頭でわかるかどうかも微妙な話にもなりやすいわけですが、
甘えるというのはどいさんも書いている通り相手あってのことなんですね。
これは当たり前ですよね、相手あってのことだというのは。相手に甘えるわけですから。
甘えることができると、こういう言い方をあえてしなくてもいいと思うんですが、やっぱり甘えられるということは信頼できるってことなんですよ。
そうですよね。信頼できない人に甘えられるはずがないですよ。
信頼せずに甘えるということは、これがグッドバイブスでいう取引、リールになるんです。
どうしてもそういうふうにしかなり得ないと思うんですね。
信頼できない人に頼るというときには我々は対価を学ぶはずなんですよ。
100%の信頼だけで成り立つ関係であれば、そこにあるのは甘えなはず。
少なくともそれが甘えがそう言えないならば、甘えることができるのは信頼できているからだと言えると思うんですね。
信頼が全て甘えじゃないかもしれないが、甘えは全て信頼です。
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信じて頼っているわけですから。
何でもいいんですが、気持ちの問題なんですけどね。
お金を借りて待ってもらう。それは甘えてるってことだと思うんですが、
安心して待ってもらえるということは、つまり甘えられるということであって、
それは相手を信頼できているということになりますよね。
ここまではいいと思うんですよ。頼る側が甘えるとき、その相手を信頼している。
信じて頼るから信頼だし、甘え。
甘えてるときは、絶対信頼している。
親に子どもが甘えるという状況を感じてみればいいんですよね。
考えなくても。
子どもが何にも分からずに親を頼っている。
親に甘えている。赤ちゃんが親に甘えている。
それは信頼しているに決まってますよね。
そのとき、不審感をどこかに根付いている。
根差してるなんてことは考えられないことです。
ここまではいいと思うんですよ。
私が言ってるのは逆の構造だから、構図上逆になってるから、
どうしてそれで甘えさせることができるんだって話になるわけですよね。
上司は最近飽きてきたんで、もらはらの夫にする。
もらはらの夫とか言っても、自分も夫側ですからね。
とにかくご機嫌斜めというか、ご機嫌悪くて理不尽なことをくっちゃべっている
パートナーがいるとしましょう。
それを甘えさせることができるというのは、
信頼感が必要なはずなんですよ。
今、感と付けたんですけど、これは信頼まで行き着いてないというニュアンスを出したいんですよ。
信頼感なんですよ。もちろん不審感もありますね。
だからこれは信頼じゃないんですよ。100%の信頼はできない。
でも、まだ一緒に付き合っているということは、完全に退けたいわけではないはずなんですね。
ここに不審がいくらか混じっている、でも信頼したいという状態がある。
この状態のとき、その人に甘えることはできないですよね。
できないと思うんですよ。
甘えるということができるときには、それは100%じゃなければおかしいんですよ。
99.9%はどうでしょうとかはダメなんですよ。
99.9%じゃダメなんですね。
不審があるならば、もうそれは甘えではないです。
なんか別のものですね。
そして、相手がとにかく何か言っている。
子供がでもいいですよ。
自分の子供が宿題するよとか言いながらゲームして宿題しない。
このときに甘やかすではなくて、甘えを受け止めるのであれば、
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結果として悪いことにはならないという意識が絶対必要なはずなんですよ。
もうしょうがないなと言って甘やかすというのはドイタキョウさんの言葉遣いですね。
甘えさせるのと違うのは、不審がそこにあるんですよ。
何に対する不審かというと、子供に対する不審でもあるし、
この世に対する不審でもあるんですね。
子供がゲームをして勉強しない。
それでいいって100%思えないにもかかわらず、
それをあたかも許容しているかのような顔をしたり、
増長させるということを懸念しながら、
そういう状態を多めに見ているという状態は、
不安がそこにあるはずなんですよね。
不安を抑え込んでいると思うんです。
この子本当にするんだろうかと思いながら、
強いことは言いたくないから黙っているというようなのは、
安心はしきってないんですよ。
つまり甘えさせるためには何かに安心しきる必要があるはずなんですね。
相手が甘えるということ、
それはこちらを100%信頼しているという状態です。
子供が親に甘えるということは、
親側から見ると甘えを受け止めるというのは、
100%子供が親を信頼できているという状態のはずなんですね。
これははずとしか言いようがないんですよ。
相手が100%信頼しているかどうかを測定する方法はないから。
だけれども、おそらくそうなっているはずだと。
このそうなっているはずだという事情を100%信頼できていないと、
甘えを受け止めることはできないんですね。
ということは、100%向こうが信頼していると、
100%こっちが信頼できるという状態が甘えが成立している状態であって、
つまり甘えを受け止めるということは甘えているということになるんですよ。
自分が相手の甘え、信頼を100%信頼しているから。
そういう側面が一つ。
もう一つは、多くの場合、
その時、我々はそんなことを言う時には、
何か不安にさせられるようなことが起きているから。
それを不安に思わずに済むためには、
結局は相手の将来とか、あるいは世の中の仕組みとか、
ここでゲームを100%満喫して、
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もしかして万が一宿題をしなかったとしても大丈夫だというふうに何かを信頼。
この場合、2者あると思うんですけどね。
子供のことと世の中のこと、あるいは学校の仕組みとか。
怒られるかもしれないけど、
とにかく最終的に悪いことにはならないだろうという信頼が必要なんですよ。
この信頼も不審が少し混じっているところではダメだと思うんですね。
でもこの場合は、いくらかはやむを得ないかなという感じもあります。
いろんな要素が出てきますからね。
でも最終的にはやっぱり大丈夫だろうというのは100%なんですよ。
不信感ゼロという状態です。
つまりこの人の甘えを受け止めるという必要というのかな、
そういうシチュエーションに入ったとき、
これができるためには相手のことも世の中のことにも、
こっちが甘えられない限りは不可能なんですね。
自分が神様みたいになって完全に相手の甘えを受け止めるという場合には行かないんですよ。
つまり非常に面白いことなんだけど、
何かによっかからせるには、
こっちが何かによっかかっているという状態があるということですね。
これはまた依存との区分が難しくなってくる話なんですけれども、
仮にそういうのに近い状態であっても、
トータルでは最終的には心配いらない。
結局現実なんだから何とかなるはずだというのは甘えですよね。
それは現実ってものを信頼していないと言えない話。
これが相手が子供であろうとも、
パートナーであろうとも、
モラハラらしく見えようとも、
パワハラらしく見えようとも、
同じ構造になっているはずなわけです。
理不尽な自分の機嫌が悪いからやつ当たりするとかね、
そういうものを受け入れてしまうといった場合に、
多めに見るでは物足りないということですね。
それを多めに見ているだけだと、
結局自分が自己犠牲を払うことになってしまう。
いわゆるマズキスティックなナルシズムという話をしたことがあるんですけど、
そこに落ち込むだけで、
全然自分は相手の甘えを受け止めていないことになる。
ということは自分は何にも甘えないでこれをやろうとするから、
そういうことになるんです。
何にも甘えずに、
ただ相手の理不尽、あるいは周囲の理不尽を受け入れるという話になってしまうと、
それは自らに頼むところが極めて大じゃないですか。
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無限大ですよね。
そういう人っているじゃないですか。
私が我慢すればとか、
私だけが犠牲になれば丸く収まるとかいうのって、
自分最強説をとっていますよね。
そして実はこういうことを言う意味でおいて、
つまり私は最下層の人間ですからと言いながら、
世の中の全ての人を見下ろすような立場に立とうと、
そういう心理状態ってあるんですよ。
お馴染みなんです。
そんなに珍しいものではない。
これをやれる人は大体、何らかの意味で実務上優秀な人ですよ。
それが高次すぎて、
萌えつき症候群みたいになることは多々あるんですけれども、
ここに落ち込むという話を、
私の顔色の本もよく受け止められがちだとは思うんですね。
でもそんなに厳しい心理状態になることを、
私はお勧めしないわけです。
それ、さっきも言いましたが、
萌えつきますからね、それをやっていると。
萌えつきることが明らかな話を進めても、
しゃあないじゃないですか。
だから、もっと遥かに楽にやれる。
萌えを受け止めるといった時には、
相手に甘えないとどうしようもないんですね。
相手のことが信頼できない。
全く不信感というもので覆い尽くされている。
モラハラですからね。
モラルハラスメントでしょう。
全くモラル感の欠如している。
理不尽なことをさせればさせるほど、
ただただ増長していく。
これは全然信頼を全くしていないじゃないですか。
その人は性格が絶対変わらないという話だと思うんですよ。
性格が変わるはずはないし、
モラルを破るということに快感を覚えるような
心理構造をしているに違いない。
そういうふうに見えているわけですよね。
そういう人を信頼してよと言っても、
それは当然無理というものなわけですよ。
だから甘えを受け止めるという話になった時、
非常に非対称的な関係に入るわけですよね。
極めて良心的な私が、
あえて理不尽でどうしようもない
ゴミのような人間の甘えというか
学校のような振る舞いを
犠牲精神いっぱいにして受け入れてあげるという話ですよね。
これだと自分が無限大にならなくなるんですよ。
しかもそうじゃないと思っているんですね。
自分は有限な存在だと思っているわけですよ。
だから両立できない話。
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これをやっているから欲打つっぽくなっていくのは
ごくごく当然の結末であって、
これを避けるには距離を置かないのならば、
自分が何かに甘えるしかないと思うんですね。
その時にできることが、
甘えるというのは信頼するということだから、
信頼するというのは何を信頼するのかと言うと、
相手をしかないと思うんですよ、この場合には。
相手は本来こうではないというふうに
信頼するしかないと思うんです。
これは現実の、これを客観的に見れば
ごく自然としてこういうふうになるしかないはずなんだけど、
自分の側からこれを厳しい状態で見ると
非対称的にしか見えないので、
ものすごく理不尽な感じがすると思うんですね。
この場合の信頼はどうしてもギャンブルじゃないかって感じがするからなんですよ。
信頼して、ここが変なんだけど、
信頼して相手の甘えを受け止めて、
自分が相手の可能性に甘えたとしても、
相手が変わらなかったらどうするのかという不信感が
同居してしまっているわけですね。
この状態で信頼するということが成立しているというのは無理がある。
だから、この自己矛盾を抱えたまま
この課題にチャレンジするというのは、
なんとなくギリギリの厳しさを実感している真っ最中には
すごく無理があります。
この実体験が私の経験に基づく厳しさなんですよね。
言い返してしまったり、耐えられなくなってしまったりするときには
いつもこの葛藤があるんです。
今はそれがないから、なんとなくギクシャクした喋り方になるんですけれども、
腹が立っていれば、もっと今の話はスムーズに出てきます。
なんだけど、今腹立ってないですからね。
腹立たずに同じ状態について喋ろうとすると、
こういう息苦しい感じになってしまうんだけれども、
実際には腹が立っているときというのは、
つまり信頼できる心理状態にないときに
あえてやろうとするから、賭けに出ているみたいな雰囲気になっていくわけです。
でも、自分が赤ちゃんに変えたとき、
何かの保障があって親に甘えていたわけじゃないという事情があったはずなんですよ。
でも、甘えるでしょう。
つまり、ここがおかしいんですよ。
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だから逆転してしまってるんだけど、
自分が無力であると言っているにもかかわらず、
強い不信感を抱いて、相手が甘えようとしている事態に対面してはいけないんですね。
話が逆転してしまうから。
ここ込み入ってますよね。
自分が赤ん坊であれば、信頼して甘えるしかないじゃないですか。
それ以外の選択の余地はないわけですよ。
しかも世の中というのはそういう風にできているはずなんですよね。
そうじゃないようにできていた事ってかつて一度もないと思うんです。
なのにもかかわらず、自分が赤ん坊で頼りなく、弱々しく、寄るべない存在だと言いながら、
自分しか頼むところがないと言わんばかりにして、
全く相手の事は信頼できないんだけれども、
私は相手を受け止めるんだという態度は取れないと思うんですよ。
そうだとすると、逃げ出す祈りの手はないと思うんですね。
だから、自己犠牲で相手をもらはらのままにしておくか、
それとも逃げるかという選択肢ではないと思うんです。
そうではなくて、相手の甘いを自分が相手に甘える事によって受け止めるか逃げるかしかない。
そういう選択肢だと思うんですよね。
で、逃げられるならばまだしも、逃げられないならば、
もう一手しか残ってないと思うんですよ。
この三手目の、さっき言った自分が弱いまま自己犠牲を払うというのは、
実は私が言った話が増長させる結果に終わるものだとしても、
それよりも危険だと思うんです。
自己犠牲によって受け入れるというやつは。
しかし実際には相手との心理的距離を置いて、
自分はなぜか弱いにも関わらず、
自分に無限大の強さを課すような選択肢を用意してしまって、
その場に留まっているにも関わらず、
心理的な距離を空けるという言い方をして、
その悪い相手をそのままニードにしておく。
相手は不明な不快感に困惑しているんですね。
動揺したままにしておいて、
つまり心理的な距離を空けているにも関わらず、
相手という赤ん坊をニグレクトしているんですよ。
この状態をずっと続けることが僕は最悪だと思うんですね。
これをするぐらいならば何かする必要があります。
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それが格好がつこうがつくまいが、
うまくいこうがいくまいが、
結局はニーズを提供するということになるじゃないですか。
一番評判の悪いご機嫌を取るということですらそうですよね。
ニーズを提供するということです。
つまりご機嫌を取るというときに、
その結果に信頼を全く置かないのであれば、
それは100%自己犠牲になってしまうということなんですよ。
ご機嫌を取るのだとしても、
相手を信頼できたほうがいいはずなんですね。
ここを絶対に防いでおいて、
ご機嫌を取るけれども、
相手を信頼してしまったら増長するというのはおかしいと思うんですよ。
こう言えばよかったんだな。
ご機嫌を取るということしか考えつかなかったとして、
相手のご機嫌を取るというのは最悪だと自分が思っているというのは、
ご機嫌を取っても相手は増長する以外はありえないからということですよね。
私はそれ以外の可能性にかけたほうがいいと思うんです。
ご機嫌を取ることしか考えつかなかったとしても。
本当はもっと違うオプションがいくらかあるんだけれども、
そうとしか自分には思えないというときもあるんですよ。
そんなときにご機嫌を取ったところで、
どうせ一時的にこいつは機嫌が良くなるだけの
スーパーパワーハラスメント野郎なんだと思うよりは、
ご機嫌を取ることをきっかけに、
相手はグッドワイブスでいうところの本来の相手に変化し得ると信頼できたほうが、
自分の心ははるかに楽になるはずだと思うんですね。
それがつまり私が考えるところの甘えを受け止めるということは、
自分が相手を信頼するということであって、
つまり甘えるということが同時に成立するはずだという話なんです。
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