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2023-06-12 36:21

【797】何を「わかってほしい」のか?

人との共同作業によって、自分の本当の気持ちを理解する
読書会の紹介と精神分析的な読書
おはようございます、グッドモーニングボイスです。
今ですね、ちょっと独特なんですけど、今日は6月12日月曜日、朝7時ちょうどになってます。
本当でしたらまだこの時間に収録は無理なんだけど、今日はできちゃいます。
ちょっとだけイレギュラーだったんですよね、今朝の動き。
今週の末に読書会というのをやります。
これはですね、現在これもぜひ皆さんに募集かけさせていただいている3ヶ月チャレンジのオプションなんですよ。
オプションサービスで3ヶ月チャレンジにご参加いただいている方は自動的にご参加いただけると。
任意ですけどね。
そうでなければ、こちらにだけご参加いただくには3000円プラス300円という形にさせてもらっているもので。
本を使って私が言わんとすることを説明するという、それを大掛かりにやるというやつですね。
いつもこれでやっているようなものをもう少しスライドなど。
スライドより最近はZoomのホワイトボードを使ってガチャガチャ書いたり、
引用部分は共有して示したりするんですけど、そういうやり方です。
ある種の本を例えばカウンセリング的に読むとか、漫画のこのシーンを精神分析的に読むとか、
ちょっと野暮なことをするわけだけど、そういう見方もできるということを知っておくとですね。
今日その話をちょっとしたいんですが、
自分の置かれているシチュエーションというものに対してちょっと違った観点を取りやすくなる。
それが結構大事というふうに思うんですよね。
読書界なので本を読むということそれ自体を目的としてなくもないんですけれども、
どっちかというと最近はやっぱりですね、精神分析的に読むという。
野暮だろうと何だろうとそうするということで、
昔の人、昭和のまだ私が生まれて間もない頃の人たち、作家とかはね、
すごく精神分析っていうものを意識して、あるいは意識はしても意識してたと思うんですよね。
三島由紀夫の作品に嘘っていうのがある。嘘だったかな。
とにかくそういうタイトルがあるんですよ。
それは結構軽いタッチなんだけど、あれは精神分析そのものを扱っているんですね。
嘘をつかずにはいられない女性の精神分析をカウンセラーがやっていって治療していくというやつで、
三島由紀夫自身は軽い、割と娯楽的な読み物としたっていう感じです。
その分かりやすいんですけれども、でもですね、やっぱりこう決してそんなに分かりやすくはないだろう。
あれは例えば精神分析なりは知ってるということがとっても意味がある内容になっているんです。
全く知らなくても娯楽物っていうだけあって別に読めるんだけど、
やっぱり知っていた方が遥かに面白くはなると思うんですよね。
昔三島由紀夫さんがまた全然別の作品でフルスチョフかなんかに手紙を送る人で世界平和を目指すために
線とオーバーラップによる人間の生き方
ソ連も核をやめなさいみたいな手紙を送る家族の話ってあるんですよ。
あれは完全に統合主張だと思うんですけどね。扱って、テーマは統合主張だと思うんですけど。
非常に面白いんですよね。また時代を感じさせますよね。
ソ連があるっていう、今もない国ですしね。
それに米ソ冷戦っていうのはやっぱりいろんな意味でですね、本当に深刻な雰囲気っていうのがあったんですよね。
お互いがボタンを押すと世界中の人類が死んじゃうみたいな、そういうボタンを押さないと思うんだけど、
そういう時代だったんですよね。
だからそのソ連の書記帳に手紙出すみたいなね。
そういう話ってよくあるじゃないですか。よくはないかもしれないけど、あるじゃないですか。
なんかよくわかんないんだけど、そのある種の人が総理大臣に手紙出してワクチンやめなさいというとか、そういうやつですよね。
そういう話ってのは僕は、今もそこら中にあると思うんだけれども、
すごく心理的な世界と現実世界というものが人間の場合オーバーラップすると言いますか、
私はよく赤信号の話をしますが、そういうことが多いと思う。
というか人間の生きる世界っていうのはそういうふうにできちゃってますよね。
つい昨日もめでたく、ここのところだけはもう全然番組の視聴者度外視みたいな発言で申し訳ないんですけど、
ロッテが広島に勝ちまして佐々木浪貴が良かったわけですけど、
それよりも何よりも阿波谷ホームランとかそういう辺りを見ると、
それってつまり線があるからですよね。でも空間のどこにも線はないわけですよ。
だから何かと何かをオーバーラップさせる。
よく番組なんかでもやるじゃないですか。ここに線を引くと見えやすくなるみたいな。
だけどその線はどこにも引きようがないじゃないですか。空間上に線引けないわけですから。
だけど線を引くとわかりやすくなる。人間ってすごいそういうところが凄まじいわけですよ。
うちの目高なんかは餌をやる。私が餌をやるから最初は私の姿が影として映ると速攻で逃げてたんだけど、
最近私が映る度に私の方に寄ってくるわけですよ。
でもこれ法則はないわけじゃないですか。そこで取って食われるかもしれない。
取って食えば絶対しないんだけど。でもそういうことを目高はわからないわけだから、
そういう風に僕が行けば自動的に寄ってきちゃうわけですよね。
自動的に。でもそれは何で寄るのかは彼らはわかってないわけですよ。
昨日も餌くれたからという、多分そんな脳みそはないから。
彼ら今ここに本当に生きてるんですよ。
だからなぜ自分が寄ってきてるかっていうのは多分何の自覚もなく寄ってくるんだと思うんですよね。
大体これで上手くいくんですよね。でも人間だけはそうはできなくて、
人間だけは空間に線を描きたがるし、時間に数字を当てたがるんですよね。
こうやってオーバーラップさせていかないと、
我々は生きていけないと思い込んでいる、実に特殊な生き方をしている生なんだと。
これがだからもう少し先へ行くと、全て逆算しないと危なくて仕方ないでしょうっていう話になっていくんだけど、
その全て逆算して生きている生き物なんていうのは他に全くいないわけですから、
全て逆算した生き物の安全性について
この生き方がそんなに安全かどうかっていう話は僕ここでよくしてますよね。
でもそういうふうに生きるという部分はあるわけですよ。
やっぱり信号灯が赤く光ってたらもう止まらざるを得ないんですよ。
止まってもいいとかではないんだということですよね。
そういうことを本を通じてシェアしていきましょうというのが読書会です。
今月17日土曜日の2時から、これは会場に来ていただく場合はなかなかおしゃれに有楽町でやります。
だからその懇親会とかも来ていただければですけど、やってもいいかなと思うわけです。
あるいはハイブリッドなのでオンラインでもご参加いただけます。
そんな感じにしてあります。
どちらもお値段は同じになります。
今日はさっきちらっと言いかけたんですけれども、
喋ることを忘れましたね。
忘れるんですよ、これがね。
さっきのようなことをベラベラ喋っていると、そのまま突入してしまえばよかったなと思うんだけれども、
何を喋ればいいのか今忘れてしまったのでどうしようかな。
ちょっと最近まず思うところがありまして、
グッドバイブス、クラクラ園野さんのグッドバイブスですが、
私が例えばタスクシュートの話をするのでももっと軽くいこうというふうに考えました。
そうは言っても精神分析の話とかしてるんで自動的に重くなっていっちゃうんですけど、
ここでただ喋るやつはそんなに重い話にする必要はないんだよなというふうに思うようになってきて、
ようやくそういうふうに思えるようになってきたと思いますが、
もうすぐ800回を数えようとしているわけですから、
いい加減そういうふうに慣れてもいいわけなんですが、
軽くならないかもしれませんけれども、
発泡塞がりっていう久しぶりにだいぶ前にこれをワードとして使ったんですけど、
これは日常用語じゃないですか。
やっぱりこういう言葉がいいとは思うんですよね。
発泡塞がりみたいな日常的にみんなが使う言葉。
かわいかやおさんがどこかで臨床的な意味として使ってたんですけど、
要するになんで発泡塞がりになるかというと、
これは簡単なんですね。
答えが決まってるからなんですよ。
セッションとかでお話ししていたり、
グループセッションなどで、
プラゾンさんが月に1回Good Vibes Factoryでもグループセッションされてますけど、
議論が熱を帯びてくると、
発泡塞がりっていうのが絶対に僕の頭をよぎるようになってるんです。
なぜかというと、ご質問されている方は、
その解決は既に試したがダメだったとか、
その解決策は選択できないことになってるとか、
塞がっているっていうことが議論を進める上での大前提になるわけですね。
面白いと言いますか、面白くはないのかもしれないんだけど、
悩んでいるというか、発泡が塞がっていて苦労されている方は、
いかに塞がっているかということを、
相談している人に強調しなければならないわけですね。
なぜかというと、塞がっていないんだったら、
日常的に発生する発泡塞がり
その解決策を選択すれば済んじゃうからなわけですよ。
これはそんなにいわゆる深刻な話で、
あろうとなかろうと出てくる話でして、
それこそタスク管理という比較的軽いノリで済む話で、
あっても、だから深刻になっていっちゃうんですけど、
軽い話で済む場合であっても、
タスクカフェなんかでも、
この発泡が塞がっているぞということを強調されるというシーンが、
随時起こってたというか、毎月あったわけですね。
本当はですね、この発泡塞がりの話が出てきたら、
それを手ずるにして話を進めるわけですね。
手ずるにして話を進めていけばよかったんだけど、
当時は私はそういう臨床的な知見をあまり活用しようという気がなかったから、
発泡坂にそのまま乗っかっちゃっていて、
まあそれはそれでいいんですけどね、
乗っかっちゃっていて一生懸命話し合いをしていたと。
でもやってることは結局同じなのかなと思うんだけど、
今ならばそういう精神分析の人も言うぐらいの話が、
変え早さもそうですけどあるから、
そこを念頭に置きながらこの話を進めていくことができるわけですよ。
こういう使い方をですね、広げていきたいなと思っているんですよね。
発泡塞がりというのは日常用語ですけど、
カウンセリングの用語としても存在できるし、
それをいう時代に立ち入ってきたなと思ったら、
すでに先人がですね、この事態はなぜ起きて、
どういうふうに一般的なカウンセリングでは進めてきていたのかということが、
すでに事例として紹介されている。
その事例通りにやってうまくいくって話ではないんですけれども、
少なくともその事例を知っているっていうことは、
意味のあることなんですよ、やっぱり。
その辺を、どんな場合でもそうじゃないですか。
人事の話とか、部下が上司にそれこそ相談とか、逆もあると思うんだけど、
そういう相談ごとの時にもですね、
必ずこの話は出てくると思うんですね。
発泡塞がりが、何て言うんだろう、
抽象的には発泡塞がりというものが意識される。
発泡ではないから、塞がっているのが8とは限りませんよね。
これはもう全方位が塞がっているって意味だと思うわけですよ。
四方八方の発泡ですよね。
全方位塞がっているから、どうしようもないんだと。
どうしようもないと思いたいわけじゃないんだけど、
今のところどうしようもないというふうに、
自分が立ち至ってなければ人に相談する理由がないと思っているんですね。
まずここに大きな突破口があると思うんですよね。
発泡が塞がっていなければ人に相談してはいけないと思っているという、
その真理が発泡塞がり的なんですよ。
大塞がりな真理なんですね。
先日たまたまなんですけれども、
自分は内向的だと、この話はセッションに限らず、
なんとタスクカフェでも山ほど僕は聞いてきたんですよ。
発砲塞がりとチャレンジ
この話を聞いただけで、そういう話を意識してもよかったんですけど、
私は内向的な性格をしているので、
これは掛け上げ塾で言うのでからなんですけどね、
内向的な性格をしているので、
どうしても営業さんとかの人たちに比べて効果が低い気がすると。
そういった、だいぶ昔にタスクカフェだったと思うんですよ。
相談ごとを受けた記憶が蘇ったんですね。
蘇ったんですね。
その時にものすごく八方塞がりを頑張られたという印象があるわけですよ。
例えば、タスクシュートでまず考えますよね。
私なんかそれでボイトレとか言っちゃいましたからね。
ボイストレーニングやってみたらみたいな、
そんなことをやるだろうとは思ってなかったですけど、
だんだん八方塞がりが深刻になってくると、
とりあえず言ってみようみたいな。
これもアリなんですよ、実はね。
テクニックという意味でもなくはないんですよね。
とりあえず言ってみるみたいなね。
ボイトレ、実はそのボイトレは今思い出したんですけど、
試したんですよって言われたんですよね。
そうか、やっぱり人っていうのは同じようなことを考えるものなんだなって思いましたね。
そして内向的な性格なんで、
特にやっぱり、だんだんグッドバイブス的になってきちゃうんですけど、
怒られると言い返せないということがすごく悔しいんだと。
これもタスクシュートにチャレンジされてるわけですよ。
チャレンジというのはつまりあれですよ、戦いが挑まれてるわけですよ。
タスクシュートで怒られたときの言い返し方って、
チェックリストに乗っけておいてもできないでしょうっていうことを案にほのめかされてるわけですよ。
これはつまりタスクシュートなんて役に立たないよねという話なんですよ。
この発砲塞がりってそういうふうになっていくんですね。
相談者は回答者に挑んでいく格好になりやすいので、
回答者が言うであろうようなことは全部論破してやるという、
その論破が自分にとって不利益をもたらすんだけど、
相手の提案というものがうまくいけば損に越したことはないんだけど、
相手の提案がうまくいくのはある意味尺に触るわけですよね。
だからそれはつまりメラニー・クラインが言う嫉妬と煽謗の煽謗なんですけど、
これ嫉妬じゃないですよね。
相手の戦略のほうがうまくいくからいいっていうのがちょっと嫉妬っぽくもあるんだけど、
相手の戦略がうまくいくぐらいなら、
俺が損をしてもいいから戦略を壊してやろうっていうのは非常に事故破滅的なので、
煽謗に限りなく近いんですよ。
何かと何かを比べてというよりは、もはや相手がいいことを言ってくれるから憎らしいっていう感情になる。
子供はこの感情に結構よくとらわれるんですよね。
そういうふうにして、だんだん解決の糸口がなくなっていく。
当然なんですよね。
それが目的なんで。
発砲を塞ぐことが目的なんで。
例えば言い返すことができないと。
まさか言い返す。
例えばまだこの仕事が終わっていなくてはいけないみたいなことを言われた場合には、
こういう言い返しをチェックリストに載せておいて、
即座にチェックリストを見て、これを課長に言い返すとかね。
そういうわけにはいかない、確かに。
いきませんよねということが言われているわけですね。
そうは言わないんですけどね。
そうはおっしゃらないんだけど、
そういうことが案に言われていてタスクシュートは役に立たないじゃないかと。
そういうチャレンジなわけですね。
内向的な性格とコミュニケーション
まあまあ確かに。
それはもうとっくにその通りだと。
朝早く起きて朝活に参加するなにして、
コミュニケーション能力を高めるとか。
だからボイトレなわけですよ。
ボイトレもやってみたと。
でも一向に自分は人を話していても相手の人は気持ち良さそうではないと。
そもそも内向的だから会話もおぼつかないので、
相手はつまらないと思っているに違いないと。
そういう話なんですね。
で、まあその辺にしても投影ですよね。
投影ドイツ化だとは言えると思うんですよ。
その面白くないだろうという、
私が昔面白くなかった相手をしていた人を投影してしまう。
例えば父親は面白い顔しなかったというのを相手に投影すれば、
当然その会話は決して面白いものにはなりませんから、
相手も面白くなさそうな顔をする。
これ完全に投影ドイツ化の流れで、
その人が持っている自分の心の中の人たちとのやり取りを、
そのままそっくり外に投影しているだけなんですよ。
私はそういうことも知識が皆無だったわけでは当時もないので、
意識はしたんですけど、やめようみたいな。
そのフロイトをここで押し出すのは絶対良くないと思って、
必ず行動科学で行くみたいなね。
そういう無駄な縛りを自分に与えていたために、
じゃあ笑顔を作る練習みたいな。
どうしてもそうなっちゃうんですよね。
だってそれしか考えつかないんでね。
そういう内心の心理の奥底みたいな話を、
一切自分に許さないという、
安全と笑顔の世界
それはやりすぎだったんだけど、
やっぱりある種の賢明な選択ではあるわけですよ。
当時やっぱりフロイトとかを私が持ち出していればですね、
相当抜信を、これもイリューションなんだけど、
浴びたであろうと当時の私は強く恐れていたために、
どうしてもやっぱりそういうものがよぎればよぎるほど、
いかんそれは危険すぎるっていうのが働いて、
必ず好きなほうに行こうみたいな、好きなほうに行けば安全。
事実、好きなほうに行けば安全なんですけれども、
どうしてもそうすると、
ペンを加えて笑顔を作りましょうの世界にならざるを得ないんですよね。
なぜならそういうものだから好きなっていうのは、
目に見えない心の問題
心、内側にある心というものを原則認めないわけです。
すべては目に見える形におき、
それはそれで大事なことだと思うんですが、
目に見える形におき、
しかもそれはスキルとして人間がやるならば練習すると、
それによって報酬、
この場合は人とうまくやれるということが楽しいよねという報酬を得ると。
ある程度はこれでもうまくはいくんですよ、ある程度は。
ただその気になる必要がありますよね。
発砲塞がりというのはつまり、
その気にはならないぞって言ってるある意味わけだから、
なかなかそういうことではうまくはいかない。
そういうことではうまくはいかないわけですよ。
朝勝も試したけど無駄でしたと。
ボイトレもやってみたけどダメでしたと。
そしてタスクシュートなんか役に立たないんですけれども、
でも自分は内向的で損ばかりしていて、
特に怒られるとうちに抱えて内向的だからね。
家に帰ってから、
ああ言えばよかった、こう言えばよかった、
こういう話よく聞くんですけどね。
悔しいと言えばよかったのに、
もう相手は目の前にいないときに限って、
うまい言い返しが考えつく。
それがうまい言い返しになっているのは、
あくまでも内心の出来事であってですね。
それが果たしてその場で言い返したからと言って、
相手に痛打を与えられたかどうかは、
私は疑問だと思うんですけれども、
そもそも考えつくと、
その場では考えつかないんだと。
私は考えついたからと言って、
言い返せないから考えつかないんだろうなと、
むしろ思うんですけれども、
まあまあそういうふうにして、
ずっと会話がですね、
いわば平行線を辿るわけですね。
この平行線、それ自体が非常に重要なんですね、
まずね。
発泡塞がりと無能感
その平行線は、
相談者の方が作り出している平行線じゃないですか。
臨床なら間違いなく、
そういうところに気づくっていう話の重要性を
していくと思うんですよ。
発泡を塞いでいるのは誰だっていう話ですね。
死体が発泡を塞ぐわけですよ、自分の発泡。
だって相談されている人はですね、
ある意味では困らないわけですから。
ところで相談されている人も、
私ですけどこの場合、
だんだん困っていきますよね。
私は、
つまり無能なんじゃないかっていうふうに
絶対に思い知らされていきますよね、
これをやれば。
いろんなことを提案しているわけだけど、
いやそれはだめだ、
それは無駄です、
それは無効、
効果ないです。
そういう効果のないライフハックばっかり
しゃべることしかできない、
お前ライフハッカー言ってるけど何なのってことですよ。
そういうことじゃダメじゃないのっていうことなんですよ。
それが私に一番向けられている重要な議論なわけですね。
発泡塞がりっていうのは、
この構図があるんですよ。
これカワイハヨさんであっても全く同じですよね。
やってきたカウンセラーが、
じゃあお父さんに相談して、
いやお父さんはいませんとかね、
じゃあ先生に相談で、
先生は聞く耳持ってくれません、
そんな当たり前のことしかあんた言えないんですか、
っていうふうにして、
カワイハヨさんがいかに無能なカウンセラーであるか
ということを思い知らされていくわけじゃないですか。
これを無意識のうちにその方はやっている。
発泡塞がりというのは、
つまり何かというと、
その人の無能が、
無能力というものが、
相手に投影されて、
で、同一化されていくわけですね。
お前は無能だ、無能だってずっと言われていれば、
自分無能かもなって、
そりゃあ思いますよね。
そうじゃなくてもそういう不安って、
我々は持っているから。
だから、投影された内容そっくりのものがですね、
ついに現実になっていくのを、
投影同一化と言うんですよ。
これを利用して、
この問題を打開していかないとダメなんですね。
いろんな打開の仕方がありますよね。
相談した相手の投影同一化
例えば、そんなに無能を扱いされて、
いやあ、私無能だなと思っても、
カウンセラーをやってられるとかね。
この相談している方の心配って、
究極的にはそれなわけですから。
相談している方は、
内向的であるという問題を、
前面に掲げてきていらっしゃったわけだけど、
実はそういうことは問題じゃないんです。
相談している方は、
私無能かもしれないという不安が問題なんですよ。
外交的に振る舞って、
営業活動とかバンバンやって、
どんどん出世していく、
あの人たちは有能だけど、
私はどうもこの性格が患いして、
無能なのかもしれないという、
懸念があるんですね。
この懸念がそっくり、
そのまま相談した相手に持ち込まれて、
相談した相手は、
所詮他人ごとですから、
さっき言ったように、
相談した相手は、
所詮他人ごとですから、
さっき言ったように、
発泡ふさがって困るのは、
カウンセラーの方じゃなくて、
受けている人ですよね。
クライアントさんこそが発泡ふさがりだ、
ここはふさがっている、
そこもふさがっていると言っていても、
カウンセラー困らないわけですよ。
別にあたたたの人生は発泡ふさがっていても、
俺の人生は別に発泡ふさがっていないからと、
相談された私としては、
思っておけばいいんだけど、
どんどんどんどんそれをやられていくうちに、
いや、俺無能かもみたいになったら、
共感の重要性
俺の人生も発泡ふさがっていくじゃないですか。
これで今まで食ってきたけど、
やっぱりこれじゃ無理なのかもしれないけど、
今さら会社員できないしね、
みたいに思い始めるということが起こると、
同じ状態に置かれますよね、
相談した人と相談された人が。
これが目的の、
というかゴールの一つなんですね。
こうなったとしても、
例えば私は、
でもやってますよっていう、
これを示すことで、
相手の人がですね、
一つ道が開けるんですよ、
不思議と。
発泡ふさがってるはずなのに、
やっていけるんだって、
発泡ふさがってたって大丈夫なんだというのが、
一つの突破口になるわけじゃないですか。
これはあくまでも一例ですね。
つまり、
こういう形でですね、
ものすごく、
こういうドイツ語っていうのはつまり、
強制された共感なんですね。
共感能力っていうのとはちょっと違うんだけれども、
一般的に言われている。
つまりでも、
共感っていう言葉が、
この文脈でしばしば登場してくるんですよ。
こんなに厳しい状態であるということを、
話を聞いてるだけじゃダメなんですよね。
全く同じ状態に置かれてみて、
お前これでどうよっていうことなわけですよ。
こんな状態だと辛いでしょと、
確かに辛いなというところで、
共感できるわけじゃないですか。
でもっていうのが大事ですよね。
全く同じぐらい辛くても、
カウンセラーはここを何度かできます。
例えば、
私は、
何にもしないということによって、
何とかできますと。
そういうこともあるわけじゃないですか。
あるいは完全に無能だけど、
あなたの話を聞くことはできますっていう、
そういう態度もあり得ますよね。
相談している人も、
誰かの話を聞くっていうことは、
これまでしてこなかったって話に気づくかも、
知れないわけですよ。
それは分かんないんですよ。
いろんなパターンがある。
ただそういうふうにして、
内向的という前提の否定
ポッパできないはずだったので、
気がついたら何らかの形で
ポッパできているような気がするって思えれば、
全然違いますよね。
こういう話なんだと思うんですね。
私は、
その時は、
ずっと食い下がられているうちに、
これも先日思い出したことなんですけど、
そもそも、
こんなに私にしゃべっているあなた、
必ずしも内向的じゃないですよねって、
これはもう全く何にも、
意味がないんですよね。
だから、
これこそいかにも精神分析的だとは思うんだけど、
あんなに封じていた私の、
そっちがポロッと出ちゃったんですね。
一生懸命僕は、
ライフハックなり、
行動科学なり、
認知の歪みなりみたいなもの、
バイアス、
というものに対する手当てを
ずっと考えてきたんだけど、
それが全部、
相手側に突っ跳ねられてしまったから、
最後にポロッと、
いろんなことをしゃべるから、
しゃべるうちに、
必ずしも○○さんは、
内向的じゃないじゃないですか。
ここが要するに、
突破口なんですよ。
その内向的という前提を持っているから、
発砲が塞がっているわけですよね。
答えが先にあるわけですね。
内向的であるというのが、
答えとしてあるわけです。
その答えが、
一番まずい結果をもたらしている、
という話なわけですよ、
これは結局。
大体おかしいじゃないですか。
80億の、
倉園さんに言わせると、
80億の個性があるのに、
個性の多様性の重要性
それを40億ずつ、
例えばですけど、
こっち内向的、
そっち外向的、
明らかに変ですよね。
でもその人の頭の中で、
その点に関しては、
全く疑問の余地はなかったんですよ。
面白いぐらい。
確かにパッと見の感じとしては、
内向的な雰囲気というのは、
ありますよね。
しゃべっていれば。
内向きな感じとか、
最近言うところの、
別に僕に比べて、
目が暗いとはとても思えないから、
陰キャとかっておかしいと思うんだけど、
あれも結局おかしいと思うんですけどね。
そういう言い方をするならば、
最初の印象は、
そんな感じもしないわけじゃなかったけど、
でも実際は、
別にそんなことはないわけですよ。
しゃべっていけば、
全然普通に、
何にもボイトレとかは必要ないぐらい、
声も普通に、
聞き苦しいとか一切ないですよ。
全てそれは、
ある意味、
自分についてのイリュージョンなんですよね。
完全に、
一番最初に私が申し上げた通りで、
ファールかホームランかっていうのは、
線を引くからできる区別であって、
そこに内向外向っていうのも、
線を引くから、
そういうものができちゃうんであって、
そんなのは別に最初から、
そうと決まってあるわけではない、
ものなんですね。
だから、
その人が辞めればいいのは、
自分が内向的なのでっていう、
それなんですよ。
のでからなんですね。
その大前提さえ、
手放してしまえば、
そもそも内向的だから、
電話ができないとか、
内向的だから営業がうまくいかないとか、
そういうのが全部、
非常に疑わしい、
平然みたいになっていくんで、
消えていってくれる、
そう思うんですよね。
その辺が、
発泡塞がりと内向的
その方と話していて、
タスクカフェですけどね、
話としてはスムーズに、
その頃から流れ始めたわけですね。
だから、
こういうのって、
つまり発泡塞がりっていうのは、
大事だってことですね。
発泡塞がりというものが、
その現象として、
その場に持ち込まれて初めて、
僕はそういう言葉まで、
たどり着けたわけですから。
でも、この人内向的じゃなくない?
みたいな、
それ最初に言っても、
たぶんダメだと思うんですよ。
最初にっていうのは、
一番最初の初対面の時に、
そういうやり方もあると思うんだけど、
当時の私だったら、
それを言ったところで、
それに当時の私は、
それを最初に言おうという気に、
やっぱりならなかったですから、
全く受け入れてました。
内向的、なるほど。
こうやって受け入れられてしまう時に、
別に外向的だと思う必要はないわけですよ。
確信をもらわなきゃいけないんです。
内向的って思いは、
大体どこから来てるんだろう?
ぐらいに思えれば、
もう全然違うと思うんですよ。
それがその時に、
必要な話だったな、
あった話だったんだなと。
それで、
そのような事態に立ち至るために、
やっぱり発泡塞がりということが、
必要だったんだなと思うんですよね。
自分としても、
もうできることないや、
みたいな。
発泡塞がっちゃったよ、
みたいに僕が思い知らされたってこと。
その時に、
私は発泡塞がっちゃいましたけど、
別に私、内向的じゃないしな、
みたいな。
私は自分のこと、
別に内向的だと思っているわけではないんですよ。
そういうところで、
何かが閃くんですよね。
大体この人、
何で内向的、内向的言ってんだろう?
みたいに、
そういうものが閃くんですよ。
そういう話だから、
何ヶ月かかかっちゃってるわけですよ。
毎月1回しか行われないものでしたからね。
精神分析とか違って、
毎日やってるわけじゃないんで、
毎月1回だけなんで、
土曜日やってるだけなんで、
でも何度も何度もいらっしゃると。
その話を伝えられるということは、
そういうことだったわけですよ。
非常に私はタスクカフェでは、
鍛えられているんですよね。
何しろ100回やりましたから、
もう、
こんなような話を毎回のように聞かされる
人がいるんですね。
何回もそういうことが起こるわけです。
10回と言ったって1年かかるわけですから、
そして10回ぐらい来られるっていう、
繰り返し来られるっていう方は、
一定数いらっしゃいましたから、
非常に僕はそこは勉強になったなと、
思うんですよね。
10ヶ月も同じことを訴えてくるというのは、
やっぱり、
それだけのことはあるわけですよ。
しかもあれ最初は朝やってたわけですから、
朝の渋谷にわざわざ土曜日に行って、
私内向的でって話をされているという、
やっぱりそういう重みがあるわけですよね。
それを10ヶ月にわたって、
冬に始まり夏を通り越すわけですよね。
でも、
その話が来ると。
そういうのが何度も繰り返されるというのを、
私は、
10件以上は経験してきたと思うんですよ。
そういうところから、
あの精神分析とか、
カウンセリングっていうものが言ってることが、
分かるようになってきて、
そういうところから、
精神分析とか、
カウンセリングっていうものが言ってることが、
分かるような日がしてきたのは、
あると思います。
恐れと内向的
やっぱり、
投影っていうものを繰り返されていると、
同一化していってしまうし、
そうするぐらいまでやらないと、
なかなか心の底から共感するとか、
簡単に言うけれども、
同情とはやっぱり違うわけですよね。
大変だろうなと思うことは、
思いますよね。
ある程度の気持ちがある人間ならば。
でも、
全く同じ状態に置かれてみると、
これは困るな、
というわけですよね。
お前、完全に無能だけどいいのか、
みたいなね。
それがその人の持っている恐れだ、
という話ですよ。
発砲塞がりっていうのは、
やっぱりどこにも行けない、
っていうことじゃないですか。
そんなことはないと思うんですけど、
会社に行かれてたわけだから。
でも、どこにも行けないというのは、
やっぱり恐ろしいってことだと思うんですよね。
この場から動くのが恐ろしいっていう、
それがまさに内向って感じがしますよね。
やっぱり、
発泡塞がりと精神分析・カウンセリング
そういう人たちにとっては、
もしかすると人生の、
小学校の頃から続く内向的という、
発砲塞がりだったのかもしれないわけですよ。
その辺の話もしてくださったんですけど、
それは今日はちょっと長くなってきたんで、
また今度、
みたいな感じで、
なるべく、
これからは少しでも、
このGood Morning Voiceも軽く
移行していきたいな、
というふうに思います。
では、
ご視聴ありがとうございました。
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