2023-06-09 46:00

【796】集まるには理由がいる

7月30日に東京ライフハック研究会を開催します
東京ライファー学研究会の開催
おはようございます、グッドモーニングボイスです。
6月の9日かな?
6月9日、金曜日、朝4時52分ですね。
なんとか週3は維持できたかなと。
できれば、明日やれば週4にはなるぞみたいな感じですね。
ものすごい雨が降ってまして、でもこれ午後に晴れるというわけなので、
学校に送るのはちょっとあれなんですけどね。
こういう日は車もめちゃくちゃ混むし、駅前とかね、あれなんですけれども。
まあまあ、それも一段落ついたし、今日も、つまり今週も終わりましたし。
まあ私は、今日は結構テンションは低くはないんですよ。
金曜の、まあ昨日ロッテ勝ったしね。連勝したし。
これも結構大事なんですけど。
まあ、とはいえ、どちらでもいいような話ばかりなんですが。
東京ライファー学研究会というのを、北信也さんが主催、メイン主催なんですけど。
私もサブ主催みたいな立場で、僕の認識ではなんだけど。
久しぶりに開催する運びになりました。
まだちょっと先なんですけどね。来月7月の30日、日曜日ということになります。
この日、私のたまたまなんですが、誕生日でして。
まあ、なんか縁が深い回だなと思いますね。
テーマは基本、私45分いただいてるんですけど、
タスク管理で行くということになってありますが。
まあ、東京ライフ研究会でわざわざ話すのがタスクシュートである必要があるかなと思いつつ、
私がちゃんとそれについてしゃべる。
タスク管理とノートについて
今度ね、6月、7月の1日にも、そういうのをやるから。
そっちの方が多分、時間をたっぷり使ってガッチリしゃべりますから、タスクシュートについてはですね。
タスクシュートなら、多分そっちで聞いていただいた方が、
特に私のやり方みたいなのだとそうだと思うんですが、
東京ライフ研究会の方では、もう少し一般的な話をさせてもらおうと思っています。
とはいえですね、最近ちょっと私はタスク管理の話もいいんですが、
エヴァノートが値上がりしたとかで、あとノーションなどが出てきていて、
こっちの方の話の方が盛り上がっているんじゃないかなと思うんですよね、タスク管理より。
わからないですけどね。
私もその辺の流勢についてはもう本当にうどくなっているのでわからないのだけど、
なんとなくノートとかの方が話としては盛り上がるんではないだろうと思って、
ベックさんと軽く打ち合わせの上、もっと総合的な話に持っていってもいいんじゃないかと。
拡散しちゃいますけどね、45分で総合的な話をしていると。
でもいろんなものを持ち寄って、かなり久しぶりに開催する回ですし、
ベックさんのお写真はわかりませんけれども、
どんどん毎月毎月やっていけるかどうかという話になると、
それはそれでまたわからないので先のことなので、
とりあえず今回はみんなでいろいろ持ち寄るみたいなのもいいんではないかと思ってはいるんだけれども、
もっとテーマをしっかり絞ったほうがいいのかもしれないし、
そこら辺はちょっとわかりません。
わかりませんので、
なんらかの形でまだ日がありますから、
募集かけてもいいのかなという感じは、
公募みたいな感じでですね。
ベックさんなのでLTなどもやりたいんじゃないかと思いますから、
そういう意味でもみんなで持ち寄る的なものを考えてもいいのではないかと、
私はちょっと思ったんですよね、告知を見て。
そしていずれにしましても、
以前私が喋ってたようなことをまんま喋るってことはもうちょっと考えにくいわけですよ。
以前やってたように何かを徹底的にコントロールするっていう方向を僕はもう持っていませんから、
以前もそんなに持ってなかった気もしますが今はまるでないので、
もっと遥かに最近喋っていることではありますけれども、
ゆるくという言い方になるのかな。
やってるんだかやってないんだかわからないようなところもありながらやってる感じなんですね。
そういうふうにやった場合の効果とか、
そうやりながらフェードアウトしないというのはどういうやり方なのかといったところをお伝えしていければいいかな。
一言で言ってしまえばですね、一言でここで言ってしまうとあれなんだけど、
一言で言ってしまえば、もっと受動的というのかな、受け身的に回していきましょうということになるなとは思うんですね。
もっと時間的というよりは空間的にですね、やってきているものとか目の前にあるものを受け止めて、
それに十分にそれとそれにコミットしていくためにタスク管理のツールなりを使うと。
そんな感じのイメージでお話ししたいと思っています。
でもこれはタスク管理の話であって、ノートとかに話を広げるとなるともう少し時間を話しも、
それを45分でどうやればいいんだろうというのもありますが、それを僕はやったらいいかなと思うんですよ。
人々の集まる理由
多分そんなにポンポン、まだわかんないですけどね、これもね。
私が主催でやっているものはそんなに特にリアルでは今募集をかけたからといって、
そんなにすいすいお申し込みがあるわけでもないのに、そんなにこうなかなか簡単には申し込みいただけないのではないかと。
それはライフハックがいけないのかどうかわからないんですけれどもね。
野球とかはあんなに満席になってるわけだから、なんか違う理由があるのかもしれないし、
もっと違う催しものなら集まるのかもわからないんですけど、
私が思う一つですね、こういうことを考えておりまして、
人は集まる理由が必要だと、集まるためには。
何の理由もなく集まれるのは大学生のサークルぐらいなので、
それだって私の時代の話であって、つまり今から20年以上前の話であって、
今はもう何か理由がなければ大学生だって集まらないのかもしれません。
野球場に人が集まるのは野球を見るという、野球なんか見てない人だって結構いっぱいいらっしゃるんだけども、
まあでも野球ってすごいなって思うんですよね。
あれほど人々の注目を一心に集中させられるというのは大変なことだと思いますね。
もし野球場が100人とかだったらもう大変ですよね。
私、千葉ロッテの前身のロッテオリオンズだった時代に川崎球場でやってたとき、
コミュニティについての考察
本当にそんな感じで野球場に観戦来ている子どもたちが、野球場でキャッチボールとかやってたんですよ。
本当に交渉って言うんですけどね、いわゆる1500人来ましたみたいなのはどう考えても嘘で、
数えられちゃうんですよ、人の数を。
行ってたんで私はね、そういうところにすら。
3桁はいたかな、でも。
でもあの数が東京ライフアップ研究会に集まったらすごいじゃないですか。
150人とかでもね。
だから野球の規模ってすさまじいなと思うんですけどね。
今日はその話をちょっとしようと思うんですよ。
久しぶりに東京ライフアップ研究会をやるということで、
7月30日、私の誕生日ですね。
ということで告知をさせていただいたので、
このお話をしたいと思ってたんだけど、
私はですね、
2つ、
今日は2つほど漠然と、
2つと言いつつ1つしか喋らないというので、
私はなんか有名になりつつあるらしいんだけど、
漠然と2つイメージ、今お話したいなと思っていることがありまして、
コミュニティというものについて考えていることが最近多いんですね。
それは主催とかするからなんですが、
オンラインコミュニティはともかくとして、
人々がですね、オフラインに集まるというのはどういう意味で終わっているんだろうかと。
先日Appleで発表になったあのすごいやつ。
またあのすごいVRとかすごいARとか、
ああいったものって必ずね、恐竜とかが出てくるんですよ。
恐竜が間近で見られる。
恐竜も間近で見たい人にはいいんでしょうけれども、
私は別に恐竜を間近で見たいという欲望が薄いので、
いや恐竜を間近に見るために50万とかは払えんなと思うんですけど、
あと蝶々とかが手に留まってくれるらしいです。
蝶々もちょっとこう、蝶々嫌いじゃないですけど、
蝶々は別にうちの庭にも来るんでね、
蝶々を見るために10万ってのも高いなって思ってしまうんですが、
要はああいう仮想空間みたいなものすら今はあるわけですよね。
多分それが本当にどう実現するか分かりませんが、
あれをズームでやるとですね、
目の前に、ベックさんならベックさんが目の前にいるような感じがしつつ、
そうだベックサヘリ、Jマスタキさんがね、
ベルリンにいるから、ベルリンにいるのにもかかわらず、
横に座っているような感じになって会議ができると、
いったことが行われるかもしれないわけですよね。
僕はそれに一つは、なるほどなと思ったんですが、
昭和ですよ、それこそ昭和。
昭和63年とかね、
もうちょっと後か、平成7,8年間、
私が秋葉原でバイトしてた頃、
あるいは村崎という居酒屋でバイトしてた頃ですね、
ミーティングとかあって、うわー買って早く帰りたいと思ってた時に、
まだに横に店長が座ってたわけですよ。
あれを再現するためにこのVRを使うというのは、
つまりどういうことなのかなと考えさせられるわけですよね。
あんなのは当時嫌で嫌でしょうがなくて、
一刻も早くこの場から立ち去りたいと思っていたんだけど、
やってたわけですよね。
居酒屋の中生飲ませてもらいながらやったから、
それでなんとか納得するぐらいな勢いだったんですけど、
この中生がないよな、VRには。
40万も出してもね、居酒屋に行けば数千円でできることですからね。
私なんかバイトしながらやってたわけですよ。
隣に副店長もいて、この副店長という人がまた非常に面白い人だったんですけどね、
そんなことをしゃべっててもしょうがないんで先行きますが、
横にいたわけですよ。触ろうと思えば触れますしね、
触りはしませんけどね。
VRですぐ横にいる。
つまり今の今まで逆へ逆へと言ってたわけじゃないですか。
遠隔にいても相手のアバターが見えればいいぐらいな感じで、
全然リアリティがない中でも在宅でミーティングができることを良しとしていたはずなのが、
今度はそれをリアルそのものに近づけるってことに意義を認める。
どうもこの技術のこういったバーチャルリアリティ的な話っていつもこういう感じだなと思うんですよね。
どっちを望んでるんだ我々はという。
いいとこを取りたいわけですよね。
例えば昔々だったら多分東京湾もまるでブアムの海のように美しかったと思うんですけど、
すっかりそうじゃなくなったからグアムにみんな行きたくなったわけじゃないですか。
そうすると今度は東京にいながらにしてVRでグアムに行けるっていう、
多分こういうのはかなり今目黒まれてると思うんですけどね。
それはつまりすごい技術が進歩したせいでできなくなったことを、
すごい技術を使って大昔の自然を手に入れようっていうような話だと思うんですよ。
だからいいとこ取りをしたいんですよね、私たちは要するに。
それは分かりきったことなのでそれで全然いいんだろうと思うんですけれども、
私はいいと思うんですけれども。
とはいえコミュニティというのもつまりいいとこ取りをしたいと考えたとき、
いいとこって何なんだろうなと思うんですよね。
VRで集まると言うんでもいいんでしょうけど、
それの方がいいんだって言われる方だっていっぱいいらっしゃると思うんだけど、
私は今回のコロナの騒動を通過してみて、まだ通過しきってないけど通過しつつあるじゃないですか。
昭和時代のリアルな集まり
外に行くと今は例えば横浜とか行くと以前より明らかに人が多くなってるんですよ。
明らかに多くなってるんですよ、平日なんかは特に。
昨日たまたま鎌倉行ったんですけど、ものすごいなという感じをもう受けましたね。
平日の鎌倉にしてこうかっていうぐらい人はやっぱり今はまだVRじゃなくてですね、
VR高いですしね、安いのもありますけど安いとえらく安っぽくなっちゃうんで、
今はまだリアルに外に出たいというのもあるんだけど、問題はその理由だと僕は思うんですよね。
これは僕はよく思ってるものなんです。
人は集まる理由を必要とする。
本当は外に出たいだけで、本当は外で食事したいだけで、本当はただ集まりたいだけなんだけど、
なんか理由がいるんですよ、そこに。
それが昔だったらですね、本当に昔だったらそれこそ週次レビューをするんだとか、
タスクカフェ行くんだとか、朝カツで朝食事会をするのがいいんだという理由づけだったんですよ。
多分それは何らかの形で潮流を失いまして、今は違う理由づけが求められるようになっているんだと思うんですけど、
基本的には変わってないと思うんですね。
果たして今私は東京来伯研究会というか、来伯研究という理由づけは十分だろうかと考えると、
うーんって感じはしちゃうんですが、ここまで踏まえればですね、悪い会じゃないなって思うんですよ。
これを皆さんがどういうふうに受け止められるかわかりませんが、
ここまで踏まえれば、しかもハイブリッドにすればそう悪い会じゃないなって思うんですね。
私昔三崎英一郎さんという方とチェンジズどもをご一緒させていただいて、
お声掛けしたりもしたんですけどね、チェンジズの執筆人として。
昔彼に月次朝食会というのに呼んでいただいて、いやこれは面白いなーって思ったんですよ。
私なんかはああいうところは三崎さんほどこなれてないんで、
なんかこう一人で黙々と寿司食っちゃう人間でいかんなと思って、でも寿司おいしいなと思って食べてたんですけどね。
でもつまりこれだなと思うんですよ。
かたや月次朝食会、かたやタスクカフェ、または東京来伯研究会、それぞれありますよね。
そこで情報交換したり、得る情報があったり、増える知識やスキルや、
それはそれですごく意味があることが起こり得ると思うんですよ。
見たこともないようなアジェットを持ってきたりされる方とかも、
タスクカフェとかそれこそ東京来伯研究会に行くといるし、
一方でその月次朝食会に行くと聞いたこともないような話がぽんぽん伸び勝手でびっくりするわけです。
僕とはある種、生きるスタイルとかレンジが違うから、やっぱりそこでしか聞けない話とかはあるわけですよね。
でも僕は大筋ここで行われていることは、
みんなで一緒にあんまり普段は食べないようなおいしいものを食べるとか、そういう意味だと思う。
ただそこに理由が必要になるんです。
そうじゃないと毎日毎日できないじゃないですか。
毎日毎日あんな高級なものを少なくとも私は無理だから。
毎日毎日月次に行って毎日毎日寿司食ってるわけにもいかないじゃないですか。
なんか程よい理由と程よいタイミングと程よいテンポみたいなものがあるところはあると思うんですよ。
集まる理由とボーダーの人
私はスード行くことにならなかったから、別にあれが嫌だったかそういうことではないんですよ。
ただスード行くことにならないのはやっぱり私のキャラとマッチしてないんですよ。
月次で朝朝食を食べるというのは。
やっぱり私は時期ですとそうですね、朝は散歩して二度寝して散歩して、そういう人間なんですよね。
なんかスタイルってあるんだなって思うんですよ。
で、理由がいる。その理由としての東京来伐会はそんな悪い理由ではないと。
私はフットワイブスとかもそういうふうなものって、そういうものではないんですよ。
そういうものではないんだけど、そういうものとしても機能するはずだっていうのはどこかに頭にあってですね。
いろいろそういうのを掘りもせずチャレンジし続けてるんですけど、
これはチャレンジさえすればね、懐が痛まないようにしつつチャレンジさえすれば、
家族なり人に迷惑をかけないように考えながら試していけば、それはそれでいいと思っているんですけれども、
なんかあるだろうと思うんですね。
なんて集まらなきゃいけないのって言われると、それは僕はもう考えないことにしてるんです。
今の横浜なり浅草なり鎌倉なりを見ていて、私がそう感じるんですよ。
人は理由を見出してでも集まりたいと本当は思ってるんだけど、
それではいろいろな邪魔が入るんです、自分の中でね。
先送りと似てるんですよ、僕からするとこの構造。
いやいや、そんなね、外に行ってわちゃわちゃやるのはなんか軽薄すぎるとかね、なんかあるんですよ、抵抗が。
あるいはそんなに自分は人恋しがる人間じゃないと思いたいとか。
そう思う理由は僕は、それはそれで最もだと思います。
これはですね、いきなりこの話になっちゃいますが、ボーダーの人の心理っていうのがよく自我心理学をいきなりこの話にしてやってますけどね。
アンナフロイトのですよ、フロイトの女王さんのアンナフロイトの推し進めた自我心理学で一番こうやっぱり大きな知見として得たのがボーダーの人の一つのこだわりみたいなもの。
つまりボーダーの人は、北山治虫さんに言わせれば、普通と思われることに我慢がならないんですよ。
そうですよ、きっとそういうのはあると思う。
普通に学校に行ってね、普通にサークル活動して、普通に人とコミュニケートして、普通にミーハーで、そんなのは私は嫌だっていうのはあるじゃないですか。
我々には、少なからぬ人に、それで全くいいです、すごい普通がいいですって人もありますが、
この普通にこだわりすぎる人は今度は脅迫神経症的になっていくって北山さんは言って、これは面白いこと考えるなと思ったんですよ。
北山治虫さんって人は本当にそういうセンスの精神分析、精神分析でやる人はセンスでやる人多いなと思うんですけども、
普通って言葉を出してきて、普通列車とか、普通学級とか、今ちょっと問題にありますけどね、そういうのはね。
普通の生活とか、この普通っていうものが、普通ってなんだよって言わずに、普通っていうものがわかるってのが、つまり健全ってことですっていう話をするんですね。
そうじゃなくて、誰もが本当は定義できない、誰も本当のことはわかっていない、この普通というものがわからなくなってしまうと一気に生きづらくなるんだという話をされているんですね。
生きづらさと普通
で、2つの極端があって、1つはもう絶対普通じゃなきゃいや、普通が普通万歳みたいな、なんか普通狂みたいになっちゃうと、狂白神経症っぽくなると。
いつも時刻はきっちりしていて、ずれがなくて、家計本もいつも一円単位でやっていて、なぜなら普通にしないと気が済まないからみたいになるわけですね。
一方で、普通って聞いた瞬間にアレルギー反応が起きる。普通ってなんだ?みたいなことを言って怒り始める。
普通なんて日本人が何とかとか言って話が壮大になっていくんです。
こっちがちょっとボーダーっぽさがあるっていう風に考えたわけですね。
で、普通に集まりましょうって言った時に、やっぱりこだわりがそこに出てしまうケースっていうのがあると思うんですよね。
いや私そんなの結構ですから、何もそんな寂しくないしみたいな、聞かれないうちから頑張り始めちゃうみたいなことが起こり得ると思うんですね。
それは一つには、ボーダーの話で出てくるんだけど、これはババ・レイコさんが本にはっきり書かれてましたが、
例えば、自立しますと言った時に、親にいろいろあれこれ指示されて、大学はここへ行けとか、就職そこにしなさいとか、結婚まだなのとか言われるのはもう耐えられないということで外に行くんだけど、
なんか痩せ細っていくんですよね。
外に行けば行ったで、東京無職日記っていうのを昔私紹介したことがありますが、この本もそのうち読書会とかで紹介できたらいいなと思ってるんですけど、
なんとかハローさん、なんとかハローさんちょっと忘れちゃいましたけども、ハローさんだったと思うんですけど、
ゴミ袋がいっぱいの部屋でゲームをしながら焦りまくってる絵が印象的な人ですよ。
このままじゃダメだ、このままじゃダメだと言いながらゲームをしていてなんかもう辛いみたいな、そういう話なんだけど、
彼が典型的だったのがカーテンをつけずに寝ちゃって、朝起きたらすごい暑くて眩しくて、そうかカーテンって大事なんだなと思うという独特の生活力の低さをあれで描いていらっしゃると思うんですけど、
要はそれは、なんつうんですかね、わかってると思うんですよ。ご飯を食べなければ痩せる、カーテンつけなければ生活しにくい、クーラーも必須だってわかってるんですけれども、
なんかこう、気が乗らないとか、腰が重いとか言って、なんかなあなあになって生活スタイルというものが確立するところまでも、
なんか自分のケアができないとかいう話をするときに出てくる話なんですよ。親に心配してほしいと思ってませんかっていうようなアプローチを自我死に行くでよくとるんですね。
一番典型的なのがやっぱり痩せ細ることなんですよね。人に会ったらすぐにわかっちゃうじゃないですか。全然ご飯も食べずに痩せ細ってたらあなた大丈夫みたいになりますよね。
これ言ってほしいって心理ってあるじゃないですか。でもそれを心の意識の表面では出しませんよね。意識の深層の方でそういう働きが起こるわけですよ。
簡単ですよね、深層からすれば。食欲を減退させてしまえばいいわけですよ。食欲に火がつかないと嫌だってよ。ご飯をわざわざ作って食べるほどお腹空かないんだもんってことになるわけですよね。
そして人に心配されると。つまり誰に本当は心配してほしいのかっていうと、友達じゃないですよね。その心配してほしいのは親ですよね。つまり親から離れたいんですよ、その人は。意識の上では。
でも意識の下では親から離れるのが寂しかったり不安だったり心もとなかったりするんで、意識の下では食欲をここでピタッと停止させていけば、つまり親もと離れると急に食欲が湧かなくなるのには訳があるってことですよね。
そしたらこう、痩せ細っていき、あんたそんなんじゃダメだから家に帰ってきなさい。せめてご飯ぐらい食べさせてあげるからってことになりますよね。そういうような人の親だと。そして親は海外食生活してくれて、お母さんってやっぱりありがたいなと思っていくと太るわけですよ。
こういうのを繰り返す、そういう接触障害というのの理解のアプローチがある。接触障害がこれで全部説明できるって話では全くなくて、こういう理解のアプローチを一つ考えてみると割と当たったというのが自我心理学の歴史の中にあるわけですね。
今度でも家に帰ってきて太っていくと腹が立ってくるわけじゃないですか。やっぱり前と同じことになってますからね。ご飯の世話はしてくれるけれどもそれだけじゃ済みませんよね。いい加減最初は仕事どうなのとか結局は結婚はいつするのとか話になってまたうざいってことになって家を出るとこんな痩せ細っていくと。
こんなに単純じゃないでしょうけども、そういう構造を検討することはできるということです。何の話をしているかというと、私たちは集まりたいと意識の上でちょっと思ったり、あるいは意識の下で人と接したいと思っただけじゃ、そう簡単にそうはままならないということですよ。
人間の心はそういう意味ではなんて言うんですかね。乙女心はとかって昔言いましたが複雑なわけですよ。それは人と接したり、わちゃわちゃ言うのは楽しいけど、でもそういうことにすごく物欲しそうにしている私は許せないんだよねみたいなそういうのがあったりするわけじゃないですか。
だから私はそこにカチッとした、そういう抵抗を容易に乗り越えていけるようなその人その人の理由があると思うんですね。この理由を持ってくればその人にとってあそこに行くのは、だってそんな人恋しいからおいしいものを食べに行くんじゃなくて、英語の勉強するために行くんだったら行くわみたいなそういうのあるじゃないですか。
そういう理由付けをここまで全部喋った上で虎拳堂っていうのってナンセンスな気もするんですけど、僕はそういうアプローチを今試みてるってことですよ。
意識科の話というものに対して言葉で言葉で明らかにしていって、結局そこにこだわらなくてもいいじゃないですかって言いたいわけですよ私は。そんなようなことであればですね、結局親とうまくやっていけばいいじゃないですかっていうのを何らかの形で納得できれば必ずしも我々はみんな無意識の抵抗つってもそこまでとことん抵抗されるほど分裂抱えてないはずだから。
それでうまくいくじゃないですかと。私が今やっている仕事の意味ってそういうことなんですよ。診療内科でもカウンセリングでも何でも利用すればいいじゃないですかって言ってるわけです。そこに微妙なこだわりを持ってしまうと。
集まる理由の多様性
分かりにくくなってしまって、何でそれができないのかが分からないうちに延々するみたいになってしまうと思うんですね。そうならないためにも何でそういう風なのを拒否したくなるのかというのを、私がこれ言ってるのはあくまでも1サンプルであって1提案であって、皆さん全部違うはずなんですよ。
だから納得のいく、集まれる理由も皆さん全部違うと思うんですよ。ただ、何らかのごく普通の人が普通に望む行為をできない時には、フロイトに言わせればそれがセックスなんだけど、ごく普通の誰がやっても別に構わない、それを望むのが少しもおかしくないことができない時には、その人に特有のこだわりというのがあるはずなんですね。
お母さんの中に、例えば父親と仲良くしたいとか全然普通にあると思うんだけど、ある種の人にとって、うわーおぞましい、最悪だわってことになっちゃうんですよ。お母さんはもっとそうですよね。お母さんと仲良くしたいって、ごく普通なんですよ、それはね。なんだけれども、それがもうそう考えるだけでもジンマシンが出ますっていうのもなんかあるわけですよね。
そのうちの一つが私は、こんなにコロナで長くみんなが在宅ワークだとかなんとかVRで頑張ってきたんだから、当然集まってご飯ぐらい食べたいってのはあると思うんだけど、そう思うだけでも許せない自分がいますって時にはなんかあると思うんですよね。
そこを検討に入れた上で、なんか理由づけをそこに持ってくれば集まりやすくなるんじゃないでしょうかっていうのが一つにトラケンっていうのがあったので、それは悪くないんじゃないかと思ったわけですね。月次聴取会だって別にいいわけですよ。
つまりなんちゅんですかね。そこで格好つけなくてもいいじゃないですかって言ってもいいんですよね。それで通るんだろうですね。いや私別に格好つけてるわけじゃないとかね、あると思うんですけどね。
例えばお金の心配がしてるんですっていうかどうもあるかもしれませんよね。今物は高くなってるし、でも本当にそれに払うお金がなかったり、以前はトラケン行ってたんだけど今は行けなくなるっていうほど貧乏になりましたってのは本当だろうかみたいなのもあると思うんですよね。
そこには貧困恐怖ってものが介在してたりしているので、そういうことについても考える価値があると。考えさえすれば私の考えでは、考えさえすればですね、実際に参加しなくったっていいんじゃないかぐらいには思うんですよ。
いやそんなのは面倒くさいってのは当然あると思うんです。でもこの面倒くさいだってさっきのわざわざ料理してまでご飯食べたくないっていうのとよく似てるところがあると思うんですよ。
無意識というのはなかなか匿名でしてね、結局は家に帰りたいというふうなことを実現するなら、この体をどうしてやったらいいんだろうっていうふうに無意識で考えることがあっても僕は全然不思議はないと思うんですよ。無意識はバカじゃないってことですよ。
例えばちょっとここで微熱とお腹の調子さえ下せば、あのどうしても嫌な先生と嫌な同級生ばっかりの学校に行かずに済むってなったら体はそっとそういうことをしますよね。私もこの番組で何度も言っていたドーラの症例それじゃないですか。まさにドーラさんはそうだったんですよ。
そうさえすれば父が偉人と別れてくれるならそっとぐらいしてやるわよってことじゃないですか。でもそれでそっとが起こるんだから大変なことですよね。これから会食に行きたいという気持ちと行きたくないという気持ちがある。多分ありますよみんな。雨が降ってるだけでも行きたくないって思うところあるじゃないですか。
その時に、でも雨が降っているから今日お食事キャンセルするわっていうのはさすがに気が引けるじゃないですか。そこで何か理由を作り出すんですよね。その時にお腹が痛くなったとかって上手い理由じゃないですか。食事会には最も適さないですもんね。お腹の調子が良くないっていうのは。で、四六時中お腹の調子が良くない人がいても僕は不思議なことじゃないと思うわけですね。
コミュニティーに求めるもの
その時に、いやでも中国語の勉強だったらお腹の調子も良くなるってならあんまりこの展開は良くない展開なんだけど、でも一つのきっかけとして悪くはないと思うんですよ。だから集まるのには理由がいるっていう風に今は思っているんですね。多分そうなんだと思うんですよ。
もう一つがですね、この種のコミュニティで私は今後仕事を進めていく上でこの点を強調したいんですけど、およそそれまでのコミュニティに対して害をなさないコミュニティはいいコミュニティって考えておいていいと思うんですね。
私たちがですね、カルトとかを恐れる最大の理由は今はここにあるんじゃないかって考えるようになりました。つい先日からGood Vibesでも信じる信じないに話が持っていかれやすいだけれども、試すこともできないんだとすると、これもやっぱりさっきのあれなんですよね。
普通じゃないのはダメだっていう考え方なんですよ。私はすごくそういう現代に生きる私たちが、例えば自由とか合理主義とかにこだわっているのはですね、脅迫的な部分っていうのがいつも警戒してしかるべきだと思うんですよね。
だまされたくないぞっていうところにすごく脅迫的なものを感じなくはないんですよ。難しいんですけどね。脅迫的なものがあるからだまされてもいいってことには、脅迫的なことを避けるためにだまされまふりましょうって話ではないんで、それを警戒するのはいいことだし、ある程度脅迫的な防衛をするというのもごく自然な成り行きだと思うんだけれども、
でも、全部徹底的に拒否するっていうのはやっぱり非常に、一歩間違えたらパラガイアに近づいていってしまうんじゃないかとさえ思うところがあるわけですね。疑心暗鬼の病ですよね。
で、例えば東京ライフアップ研究会なんかは、北さんにライフアップ洗脳を受けてしまうとかを恐れてる人はいないと僕は思うんですけども、それにお金を払うことの価値があるのと、時間を費やす価値があるのって話になると、途端にちょっとオブセッションっぽさが出てくるじゃないですか。
そのお金と時間への極端なこだわりは何なんだって感じが少しはするわけですよ、私なんかからすれば。だって毎月行いたいと主催者は思ってるかもしれないけど、現実には年に一遍もやってない会にたまに参加するときに、その2時間が僕の人生では2時間を虎拳に捧げてしまっていいんだろうかみたいな、すごいこだわりの強さがあるなって思わなくはないわけですね。
その時に私が随時ここを考えればいいんじゃないかって思うのが、コミュニティに参加することによって今いるコミュニティに強いそごを起こす、あるいはそごを起こしかねないというならば、不参加であってもいいはずだし、だけれどもそごを起こしかねないということはどうして起こっちゃうんだろうって考えるのもありだと思うんですね。
一番わかりやすいので言うとですね、あんまり今の方はご存じないかな、朝間産総みたいなやつなんですよ。
極左暴力革命みたいなのをやるために、このコミュニティに参加したら家族とも縁を切るみたいな、一番僕は極端なケースがそれだと思うんですけれども、コミュニティで我々が一番考えなきゃいけないのはそこだと思うんですよね。
かつている、今まで属しているコミュニティから縁を切ってまで新しいコミュニティにコミットしなければいけない理由はさらさらないと僕は思うんですよ。
昔から宗教というのはですね、仏教でも法法与道みたいな言葉があって、法を阻止する者に同じを与えてはならないみたいなことを言うんだけど、同席させてはいけないとか言うんですけども、そういう時代はもうとっくに終わってると思わなくはないわけですね。
うちが寺なんでこういうことを言う時にはやっぱりこのぐらいの言い方になっちゃうんだけど、はばかるところありますが、でもそんなことを言う時代はもうとっくに終わってるなとは思うんですよ。
それをやってるとどうしても浅間三相っぽさが出てくるわけですよね。みんなが家族を同じ宗教に経営させるか、さもなければ家族との縁を切るみたいに。
日本人はこれが苦手だったって話をタデ社会の日本社会みたいな本で、また名前忘れたし今の本のタイトルもいい加減でしたけれども、そういうのがありましたけど、やっぱり今はそうじゃないだろうと思うんですよね。
虎拳に入ったから家族と縁を切りますなんて絶対ありえないじゃないですか。つまり絶対ありえないならいいわけですよ。
ただですね、私の聞いた何名かの方がやっぱりそういうライハック研究会に入っていると思われるのはちょっとあれだみたいな話をされて、結構衝撃を受けたんですよ。
特に知的専門職のようなところに入っていらっしゃる方はそういう懸念を抱くみたいなんですよね。
やっぱりつまり論文を書くなりするの、そんなの例々しくやるもんではないんだけど、虎拳ってのは。論文を書くなりする上で、それこそ読書会みたいなのがあったりすると、そんな読書会なんかに頼って論文を書くようじゃダメだみたいなことになるわけですよね。
これってつまり新しいコミュニティと古いコミュニティの間に圧力が起き得るっていう話になってると思うんですよ。こういうことはいっぱいあります。実際にはね。お父さんが宗教にのめり込んでいるからお家で食べるものもない。やっぱりこれはまずいじゃないですか。
それってつまり、もともとお父さんが属している家族というコミュニティと新しく信仰している宗教というコミュニティがバッティングしているわけですよ。ちょっと前に私も言いましたよね。テニスにしょっちゅう熱を入れていって、仲間とテニスするみたいな時間をやってると、やっぱり奥さんが不機嫌になるみたいな、こういうことってあるわけですよ。
新旧コミュニティの圧力ってあるわけですよ。だから、新しいコミュニティについて自分の心の中で抵抗があるならば、ここを問えばいいと思うんですね。
新旧コミュニティの圧力
あのコミュニティにコミットすることで、今までコミットしていたコミュニティのメンバーが嫌な顔をするんじゃないだろうかということを懸念していないだろうか。これを懸念しなければいけないっていうのはいいことじゃないと僕は思うんですね。
それは新しいコミュニティが閉鎖的すぎるからなのか、古いコミュニティが囲い込もうとしすぎるからなのか、どっちでもあり得るので、両方検討するのがいいと思うんだけれども、
その時に、それこそさっきの研究者にとっての大ファクト研究会の問題みたいなものが、本当にそんなものを考えなきゃいけないことなのかねってのもあると思うんですよ。
実際ないですからね。東京大学研究会に入ってそこでお茶会しようと何しようと、そんなことが研究の妨げになるはずがないですよね。
そういうことを研究所で白い目で見られるとかいうことを懸念するのであれば、そこのところに一つのイリュージョンによる不安要素が過剰に邪魔をしていないかどうかというのを考えてもいいと思うんですよ。
一方で、明らかにここに来た以上は家族の応援を切ってくださいと、お金は全部この会に寄付してくださいとかいう場合に、それをすると前のコミュニティに同じようにはいられなくなるよなっていうことはですね、
同じようにいるのが鬱陶しいと思う意味もあったとしても、やっぱり考える必要はあると思うんですよ。
こういうのはですね、家から早く出たいとどこかで思っている思春期の人とかが取り込まれやすい理由はあるわけですよね。
コミュニティから出るっていうのは簡単なことではないじゃないですか。皆さんもご存知の通り。
それだけにそういうエネルギーをくれそうなところが魅力的に移るというのは当然あります。
それはもう宗教というものに属してきた人間には耳にタコができるというような世界なわけですよ。
出るのも容易じゃないようにちゃんとなってるし、一方で新しく取り込むときには必ずそれに類することが起こり得るからですね。
うちは寺だったからそれこそ。うちの父もその辺は一生懸命いろんな方法を使ってあれやこれやでしたよね。
やっぱりそれなりに市民権を得た宗教団体っていうのはその辺すごい気を配ってますから、密かにっていうのか一応。
家族の中で例えば極端な話、家族の人はみんなクリスチャンですみたいなケースだってないわけじゃないですか。
一人仏教に入っていきたいっていうのは当然、あなたたちはクリスチャンだからやめといた方がいいですよとは絶対言わないじゃないですか。
前のコミュニティとの関係を大事にするかどうか
一方でそんなクリスチャンの縁切りなさいっていうのはやっぱり今の時代では無理なわけですよ。
それを言うとほぼカルトになってしまうんで。
そういう非常に極端なケースもあるんだけれども、そうじゃない場合でもですね、
私なんかトラケンの話ではびっくりしたんで、えらいマイルドであってもそういうことは起こり得ることですけれども、
その時に考える価値ってのはあると思うんですよね。
私はGood Vibesもそうなんだけど、旧来のコミュニティでの関係を大事にしましょうって言ってる回はだいたい大丈夫だと思うんですよ、根本的に。
なぜかというと、こっちにリソースを割いてほしいっていう引力がコミュニティには絶対にあるので、
なのに前のコミュニティとの関係は大事にしましょうと言ったり、なるべく縁を切るのはやめましょうと言ってくれるというところはですね、
基本的には悪くないはずなんですよ。
だから私はごく簡単に、そういうところの職場とは距離を置いて転職をした方がいいですとか、
そういう夫だったら別れましょうとサラッと言ってしまうというのを微妙に引っかかるんですよね。
それをサラッと言う、かつてコミュニティが社会問題をいっぱい引き起こしてきたような気がするんですよ。
アメリカでもね、私入学中にすっごくその話出てきてたんだけど、やっぱりビデオとか見せられるんですけど、
このなんとか会というのに入って大学の人たちを見返しましょうみたいなのに、そういうのに行っちゃダメですよっていうビデオとか見させられるんですけど、
実にすごいんですよ。アメリカはすごいなと。
ほぼ監禁状態にされるのも日本よりはるかにレベルが厳しいわけですよ。
日本だったらほら、あまりにもひどかったら飛び出して保護を求めたとか、そういうことも大変なことですけどできるじゃないですか。
だけどアメリカで保護を求めるようにも下手に外に飛び出すと、クマとかに襲われてしまったり、
叱らないところに、つまり隔絶された世界は本当に隔絶されちゃってるから、めちゃめちゃそういうのは警戒するように言われたんですけれども、
そういうコミュニティがあるわけですよね。アメリカにも過激な共産主義のコミュニティみたいなのもちゃんとあったりして、非常に厳しいわけですよ。
話がちょっととっちらかっておりますが、つまりその前のコミュニティとの関係を大事にしましょうというかどうかっていうのが一つと、
もう一つはそのコミュニティというのが、自分が何かそこに行って何か、人と簡単に言うと接したいと思う欲求についていい理由をくれているかどうかっていうのは考えてみるといいかなと思います。
コミュニティに行く理由
そのコミュニティに行って価値ある情報が手に入るかってなるだけで考えるとですね、
多分それを考えているときというのは私たちは何かを欲視しているという、押し留めているような感じがある気がするんですね。
それが私の考えるところの、自分で生活を始めると何か食欲がなくなってしまうみたいなそういう話と、
僕の頭の中では何か奇妙な関係があるように思うんです。
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