2023-06-14 46:04

【798】グッドバイブス編 罪悪感にまみれたまま行動を起こさない

少しおかしなことをしてると思えたら待ってみる
午前中のトラブル
おはようございます、グッドモーニングボイスです。
6月14日の朝8時38分なんですね。
昨日、あっさり音しているんだけど、全く気づかなくてですね、
昨日はもちろん上げただろうというふうに思っていたんですよ。
だけど、昨日の上がってないじゃんということに気づいて、
いや、そもそも昨日のなんて録ってなかったよね、ということに。
ようやくさっき気づいてですね、衝撃を受けたんですけど。
昔だったらね、タスクシュートをもっと厳密に運用していたんで、
ということは起こらないんですけど、
起こらないほうがいいのかどうかは結構、今はそうは思えないという感じですね。
昨日は休んでちょうど休んだことになるんだけど、
よかったんだろうとこう言うと、なんてことのない言い訳をしているようなんですが、
実感としてはこっちのほうがいいんだよなっていうのはあるんですよね。
何もかも自分で決めないという話ですね、これもね。
6月の好調と書き上げ塾の募集
最近、非常に、僕6月調子いいんですよ。
多くの人には同意されかねるかもしれませんが、
私実は6月って多分1年で一番調子がいいんじゃないかと思うんですよ。
まず温度がちょうどいいのと、僕はやっぱり、これは思い込みなんでしょうけど、
湿度が高いほど調子がいいんですよね、感覚的には。
1月がやっぱり一番厳しくて関東に住んでいるとなんですけど、
だから私、新潟とかにスキーに行くと1月って結構調子よかったんですよ。
雪で湿度が上がってくるから、やっぱりいいんですよね。
掃除でいいんですよ。
関東に住む人間じゃないんじゃないかって思うんですけどね。
6月はだから、決して調子が悪くはないんですよね。
一番いい季節だっていう感じがします。
このどんより曇ってるとこも全然気にならないんですよ、実はね。
全然気にならないんですね。
しかも晴れるとめちゃくちゃいい感じになるじゃないですか。
昔読んだ話では、
さつきバレっていうのは古典的には6月の晴れだみたいな、
本当か嘘か知りませんけれども、
私にはしっくりくる話で、
6月は晴れても雨降っても掃除で悪い季節ではない。
でもこれですね、今思うと、
昔サンチャイルドっていう、
幼稚園時代に写真付き絵本みたいなのがあったんですけど、
あれで6月のサンチャイルドがすごい良かったということが、
なんか影響してるという気もしているんですよね。
すこぶるいい加減ですよね。
イリュージョンが花々しいんだけど、
まあいいかなという感じですね。
あれがもっと1月のサンチャイルド、
1月とかサンチャイルドとかは熱心に読まないんですよ。
なぜなら冬休みだから。
結局あれ、幼稚園で暇だから読んでるんですよね。
のび太くんも言ってましたけど、
6月ってほら、休日ないじゃないですか。
だから僕は6月、幼稚園とか明らかに好きじゃなかったんで、
やむを得ずだが結構行っていて、
サンチャイルドばっか読んでいたというのが、
記憶に残ってるんですよね。
7、8月のほとんど覚えてないですよ。
やっぱり読まなかったと思うんですよね。
家じゃサンチャイルドなんか読まないんで、
多分もらってたとは思うんですけどね、
休みの時でも。
またしてもどうでもいい話で、
時間が過ぎていくといけないんで、
読書会にようやくお申し込みいただきましてですね、
この流れでもうちょっと、
しかも非常にありがたいことに会場を申し込むというね、
なんか始まって以来の階級じゃないかぐらいに、
そんなことはないんだけど、
思いまして、これはもうぜひあと2人ぐらい。
あとは2人いらっしゃっていただければ、
会場費的には赤字は免れるみたいな、
交通費入れても赤字免れるみたいな、
そういう勢いなんで、
ぜひ今週土曜日。
つまらなくはないと僕は思っているんで、
会場も悪くはないと思うんで、
そこそこまともな会場なんですよ。
だからできれば、
申し込みいただけると。
もちろんオンラインでも全然ありがたいんですけど、
普段で。
よろしければぜひお願いいたします。
根幹モードになってます。
それでですね、
今日はついでにどうでもいい話を繰り返し続けちゃうんですけど、
もう一つ、書き上げ塾第9期の募集が始まりました。
これはGoodVibesの公式サイトの方から見ていただきたいんですけれども、
6月中では、
6月早割りみたいな、
だってこれ始まるの割と先なんで、
6月中にお申し込みいただくと、
早割りが適用されますんで、
結構なお値段だと思いますんで、
そちらもよろしければですね、
考えていたという方は、
ぜひご参加いただければと思います。
第9期目の書き上げ塾
第9期ですからね、
もう4年ぐらいになるはずですよね。
半年に一遍やってるわけだから、
トータル的な長さで言うと、
4年にはなってると思うんですよ。
かぶってる時期があるんで、
厳密には4年経ってないかもしれませんけど、
でも4年にはなると思うんですよね。
9期も続くとは、
想像していなかったというか、
そんな想像はしないんで、
すごいなぁと思っています。
本書きたいという方は、
今私もようやく本を書き始めているわけですけれども、
Jマスザキさんとの協調ですね。
これを、
こういう経験もですね、
また踏まえつつ、
お話ししていければいいなと。
もちろん、倉園圭三さんのお話も、
赤入れも全部ありますんで。
しかもあれ、
8期、7期あたりからかな、
また時間が少し長くなっているんですよ。
後期3回はですね、
第4回、第5回、第6回は、
今まで3時間だったんですけど、
今また4時間で、
全部4時間になったから、
少なくとも講義だけでも、
これに赤入れがありますからね、
あの値段でも全然高くないと思いますので、
よろしければお願いいたします。
こっちはコンガンモードじゃないですけどね。
バーチャルな文章書き環境について
脱線し続けておりますが、
Appleでメガネ出たじゃないですか、
出るじゃないですか、
出てないですね、まだ。
仮想空間的なやつですね。
私あれを、
多分買えないんですけど、
お金なくて買えないんですけど、
ぜひあれはやってみたいとは思うんですよね。
待ってほうがいいんでしょうけどね、
初期ロットに手出すとかいう話もあるんで。
一番僕が、
2つありまして、
1つは、
僕が一番やりたいのはあれで、
文章を書きたいんですよ。
私は、
動画編集とかは、
事実上やれてないですし、
他のことも、
ほとんど実際に、
真剣にやりたいと思うことって、
ないんですけども、
文章を書く環境だけは、
完備したいみたいなのが、
どこかにありまして、
イリュージョンに近いもんだと思うんですけど、
でも、
私の仕事の期間を成して、
来たことは確かに、
そこまでじゃない店を、
中心に来てるわけですよね。
ノートも、
ノートブームなど、
ブログブームなどが来ると思って、
やってるわけじゃないけど、
やっぱり書くんですよね。
なぜか書くぐらいな感じで、
書くんですよ。
あれであれば、
タッチタイプなんてしないかもしれませんけれども、
体制を問わず、
っていう状態になるじゃないですか。
そもそも立ち机だ、
斜め机だ、
様々ありますが、
そういうものが、
そういうものが必要なのは、
つまり、書く時の体制というものが、
決まっちゃうからですよね。
昔のもの書きの人達って、
大変だったと思うんですよ。
原稿を書く時って、
みんな姿勢悪いじゃないですか。
姿勢よく書いてた人もいるのかもしれないけど、
ほぼそういう絵になってないですよね。
みんな丸まって、
一生懸命斜めになって、
人によっては、
原稿を横にして書いてるよなっていう、
ああなる理由は、
決まっちゃうことが多いと思うんですよ。
でも、バーチャルのやつって、
要はバーチャルなわけだから、
どういう体制であっても、
構わないはずですよね。
目とディスプレイの、
位置関係とかも、
かなり自由自在だと思うんですよね。
バーチャル空間によるイベント開催の可能性
極端なんです。
上向きながらディスプレイ見えますよね。
そういうのって、
実験しようと思うと、
物理的には不可能じゃないけど、
めちゃくちゃ困難じゃないですか。
寝る机とか椅子とかも、
いろんなものが考案されてるけど、
つまりあれは全部、
ディスプレイとの兼ね合いが問題なんですよ。
しかも、一度天井とかに固定しちゃうと、
今度は天井嫌だなと思っても、
早々は切り替えられないですよね。
これをぜひやってみたいな、
っていうのがあります。
一つはね。
あともう一つは、
これはちょっと微妙なんですけど、
もう二つあるな。
この話してると、
あと一つにしておきますが、
やっぱりZoomでワンオンセッション、
今複数の方とやらせていただいてるんですけど、
これは一度、
この仮想空間でやりたい、
みたいなのはありますね。
Zoomのこのセミナーみたいなのも、
仮想空間でやったら、
これは面白いかもな。
でもなんだかさっぱりわかんない感じもするな、
っていうのもあって、
なんとも言えないですけど、
そこに人がいるかのように、
はっきり言って、
一旦、
リアルで集まるというのが、
めんどくさいから架空にしたのも、
今度は架空でリアルに集まれるように、
感じられるって、
どうして人ってそうなんだろうと、
前もそんな話した気がしますけど、
でもやっぱり、
要は出かけなくても、
背面できるみたいな話ですよね。
いよいよそういう時代なのかな、
と思いつつ、
でもあの値段ですからね。
ただそれをやるためにしては、
ちょっと高いと思うんですが、
これは本当に、
考えさせられる、
新しいテクノロジーについての考察
機能ではありますよね。
そうは言っても、
私はこれが一番いいのは、
ご老人が使って介護とか、
お孫さんに遠距離で、
うちなんか、
今おじいちゃんが、
北東北なんで、
すごい使うことは絶対ないと思うけれども、
いいなとは思うんですよね。
だいたいこういうのって、
実用化されたからといって、
みんながそれを使うかというと、
微妙なんだけど、
これはいいと思うんですけどね。
本当はね、やるとね、
まあまあそんなことを考えています。
あともう一つ、
iPhoneとディスプレイを、
当然同じ場所で扱えるんで、
タスク習得的な話をする時も、
これは面白いんじゃないかな、
と思ったんですけど、
これはただ漠然とそう思っている、
まだだけですね。
今日はGood Vibes編にしたいと、
思っているんですよ。
月曜Good Vibes編じゃなかったんですよ。
火曜にそうしようと思っていて、
うっかり寝過ごして、
しかもあげた気になって、
多分夢の中であげてたんだと思うんですけど、
あげた気になっていたために、
今日に回っているわけですね。
100チャレ編も、
ちょっと100チャレ編も今、
第3期第4期が並行して動いていて、
しかも第4期が手帳編ということで、
非常にこう、
読める内容を考え直さないといけないのではないかと、
直さなくていいのかもしれないんだけど、
思っていて、
考え込んでいるんですけれども、
一時ナルシシズムとは
Good Vibes編を
今日はお届けしたいと思っております。
それで、
私はGood Vibes編で
一つ、
Good Vibes編で
っていうのがないな。
Good Vibesをお話ししていく中で、
よく、
いろんなことを
考えさせられるわけだけど、
まず精神分析の用語で言うと、
一時ナルシシズムをどう考えるか、
みたいなのがあるんですよ。
一時ナルシシズムって、
要は、
大事を考えていただければ、
一番いいんじゃないかと。
大事は、
私の宇宙は私のためにあって素晴らしいな、
ぐらいに、
全く意識できていないけど、
そういうぐらいに感じていると思うんですよ。
お母さんのお腹の中にいて、
何もしなくてもバッチリ生きていけるわけですから。
でもそれが、
お母さんのお腹の中だなということが分かったら、
恐怖だと思うんですよ。
これをトラウマって言うんですよ。
いや、
これで永遠にやっていけると思ったけど、
なにこれ、そんなに危ういものなの?
っていうことに気づいたら、
ダメじゃないですか。
これはインピンジメントって言うんだと思っているんですね。
心臭っていうやつですね。
環境としての母親が、
対象としての母親だということが分かったら、
トラウマになるっていうね。
ミニポッターそういうことを言ってたんだと、
僕は思うんですね。
で、
我々は大事じゃないから、
そんなふうには経験しないけど、
やっぱりこう、
環境としての母親に包まれている、
ホールディングって言うんですけど、
包み込まれていて、
ホールディングには2つの意味が、
常にウィニコットはそういうところがあるんですけど、
一方では確かに包み込まれているんだけど、
他方ではそこから出してはもらえないというね。
大事ってそうですよね。
そういうものが、
私はだからウィニコットは、
引きこもりというものを説明する、
精神分析家としては、
最先端にいたんじゃないかと、
今だから非常に、
ウィニコット流にアプローチすればいいんじゃないのかな、
と思いつつ、
こんなアプローチはなされていないんだろうな、
とも思うんですけど、
要は、
確かにそこにいれば素晴らしいけど、
そこから出してはもらえないというか、
Good Vibesにおける現実
そこから出ては生きていけない。
手塚治虫さんの漫画によくこうですね、
試験館のでっかいやつの中に、
いろんな生き物が生きている、
絵みたいなのがあったじゃないですか。
象さんとか、
なぜかタマミっていう女の子が、
その中で生きてたりするんだけど、
ああいう感じですよね。
その中で生きている分には、
素晴らしいんだろうけど、
そこから外に出ては生きていけない。
だから出してはもらえない、
というのかな。
で、
その、
なんと言いますかね、
その一時ナルシシズムは、
ゼカヒカって考え方なんですよ。
私はミニコットは、
いいものと捉えていたし、
私もいいものだと捉えているんですけれども、
これがつまりですね、
なんつうんですかね、
その、
現実で生きていく上で、
一番この、
なんというかこう、
ディスカッションになってしまうところの
一つなんだろうなと思うんですね。
グッドバイブスでも、
究極的には、
現実を信頼するっていう言い方で、
つまり、
なんつうんですかね、
現実はあなたによくできているんですよ、
っていうのか、
そうは言わないんだけど、
クラスマさんは、
よくしてくれるんですよ、
というのか、
最終的には、
良い関係が結べるはずです、
みたいな、
なんつうんですかね、
案にそういうメッセージがあると思うんですね。
一時ナルシシズムを超える
これは、
一時ナルシシズムを超えているんですね、
私の考えでは。
お母さんの体内から出ても、
なお現実はいいものなんですよ、
これって、
一見したところ、
なんてことはない話のように、
聞こえるかもしれませんが、
必ずここに引っかかりを覚える、
というタイプの人が、
いらっしゃると思う、
タイプというか、
そういう感覚なのか、
考えなのか、
わかんないんですけど、
特に社会問題というものを、
意識されている方には、
ここがハードルになると思うんですね。
実際、精神分析も、
ここで批判されるケースは、
多いわけですよ。
一時ナルシシズムがいいものだっていうのは、
いやそれは恵まれている人は、
そうかもしれないけど、
例えば、
お母さんがいいお母さんの人は、
それはいいでしょうよ、
ある日は、
今が平和なら、
日本は平和だからいいんですよ、
みたいなね、
治安がもっとひどい国だってあるでしょうとか、
あるわけじゃないですか。
これつまり、
一時ナルシシズムっていうのは、
独りよがりだっていうことを、
言っているわけですよね。
そうですね。
お母さんの体内に至ってですね、
お母さんの体内にいるから、
安心だと、
赤ちゃんは思ってるけど、
客観的には、
そんなんじゃ、
本当は安全でもなければ、
いけないじゃないですかって、
でも言われるんだけど、
そうそうそんなことは、
現実にはそうそうは起きないですよね。
49%は、
49%ははるかに超えて、
安全は安全ですよね、
そこにいる間はですね。
第一章
でも大人はそうはいかないでしょう、
っていうのがやっぱり、
引っかかりとして出てくると思うんですよ。
それで、
大人はそうはいかないという場合にも、
場合にはですね、
いろんなこう、
起こりうるかもしれない、
生きづらさとか、
あるいは危険とかですね、
もっと言ってですね、
犯罪に巻き込まれるとか、
事故に遭うかもしれないとか、
病気になりますよねみたいな、
病気にはお母さんの体内にいる場合でも、
なんないという絶対的な保証はないと思うんだけど、
今の事故とかも、
実は全部あるんですけどね、
ないわけじゃないんですけれども、
ただ、
まず第一に、
たぶんですね、
それを喋っている時には起きていないことに対する、
警戒なんですよ。
で、
これとごっちゃになるんですよね、
私たちの頭の中は。
起こりうるかもしれない問題というのと、
今今の現実というものが、
なんていうんですかね、
こう、
根前一体となってしまう。
そして、
これらのことが、
これらのことが、
降りかかってくるという世界では、
私は暗論としてはいられないんです。
っていう、
話になってしまう。
ところが、
そうは言うもののですね、
割と暗論としていたいのが人間なんですよ。
ここで、
あの手この手を打ち出す人も、
実際いらっしゃるんですけど、
そういうケースだとすごく、
オブセッシブになっていくんだと思うんですが、
そもそも意外に、
何の手も打たないんですよ。
心配はするんだけど、
何の手も打たないんですね。
この心理状態というのは、
私が思うにですね、
母親の環境ではなく、
対象なのかもしれないという、
世界に入っていったら、
やっぱりそこではですね、
最初に来るのは、
どうしても欲物的になってしまうと思うんですね。
これは、
クラゾンさんがよく、
罪悪感はいらないって話をされるのと、
第二章
同じポジ、
同じ線に差し掛かってるんだけど、
そうは言っても、
持っちゃうというケースは、
いっぱいあると思うんですよ。
で、クラゾンさんがあれほど強調されるところを考えても、
そうは言っても、
持っちゃう人がごく普通だからだったと思うんですね。
で、ここで、
そこにとどまらないという、
そこにとどまらないというのは、
立場の問題じゃなくて、
真理の問題なんですよ。
純粋に真理の問題なんですよ。
ここで、
なぜかですね、
不思議なことだとも思うんだけど、
欲物的になってしまうからなんでしょうけど、
実際には、
心配、
ひたすら心配するんだけど、
このひたすら心配したまま、
なんかこう、
なんて言うんですかね、
心配することはやめずに行動し続ける、
っていう流れになりやすいんですよね。
心配することはやめずに行動し続ける、
っていう流れになりやすいんですよね。
これをどう説明すればいいのか、
分からないんですが、
分からないというのは、
つまり今ちょっと、
その話の筋道をですね、
どう展開すればいいのかに、
確信が持ててないんですが、
状況は分かりきったことなんですね。
つまり、
自分は環境に良くしてもらっている、
例えばですね、
そういう罪悪感があるわけですよ。
自分は環境に良くしてもらっているが、
そんなんでいいんだろうか、
っていう心配をされるんですね。
だけれども、
心配をしたのは、
環境に良くしてもらっている、
申し訳ないな、お母さんに、
みたいなことを言いながら、
特に自分は、
その状態に、
うつうつとしてしまう以上のことはできない、
とか、
そういう感じになっていく、
というケースがあるんですね。
ケースというか、
心理があるんですね。
これは僕は、
心理だと思うんですね、
完全に。
その人の能力とかでは、
第三章
全く関係ないような感じがするんですよ。
やっぱり、
お話に伺っていても、
そういう感じがするんですね。
母は私に良くしてくれたのに、
私は親孝行ができていないとかね、
そういう形で、
罪悪感を持って欲打つ状態に入る。
それはそれで、
しょうがないなと思うんですよ。
環境としてのお母さんだと思っていましたが、
実はお母さんは人間だったんですと。
だからお母さんだって大変なんだ、
ということが分かりました、
というところはいいと思うんですよ。
本当に申し訳ないと思って、
自分に絶望しますってところに、
立ち至らない方がいいと思うんですね。
これについては、
気遣いとかいう表現で、
minicodはそこに気を使うのは良いことだよ、
というところまで行くんだけれども、
つまりそこに行くこともできずに、
ボーダーライン水準に
行ってしまうよりは、
確かにここで欲打つポジションに入るのは、
良いことなんですよね。
問題なのは、
欲打つポジションという名前は良くなくて、
そこまで気づいたなら、
もう一歩前へ出られるでしょう、
という話をしていると思うんですね。
倉園さんの、
罪悪感はいらないという話は。
ここで罪悪感を持ったところで、
立ち止まってしまう、
強い罪悪感とともに、
必ずしも、
それについての手立てを打たないで、
例えばですね、
すごい罪悪感があるから、
ライフハックしようみたいなのは、
現実との関係についての心理状態
そうじゃないでしょうって感じが、
ちょっとするわけですよ。
もちろんその場合に、
そこでタスクシュートをやりますと、
言われることに対して、
私がNOとは言えないんだけど、
NOとは言えないというのは、
立場上じゃなくてですね、
それはその人の自由だから、
NOというのはおかしいと思うんですけれども、
でもやっぱり、
そこはちょっと、
まず問題にするべきは、
行動の方じゃなくて、
行動を取る必要があると思うんですが、
行動を取る必要が出てくれば、
行動を起こした方がいいと思うんですけど、
まずその心理の方を、
優先的に、
検討する必要があるだろうなと、
それを僕は、
気づきという言葉で済ませない方が、
いいと思うんですよ。
もっと心理状態が、
違う状態になっていいはずだ、
っていう感じを、
割と強く抱くわけですね。
それがさっきの一時ナルシシズムは、
いいことなのかどうなのかというのと、
関係があるんですよ。
私はこれが不思議だというか、
奇質なんだと思ってるんですが、
メラニ・クラインは、
対象関係論で、
こういう話に近いところにいるにも関わらず、
一時ナルシシズムってものを認めないんですよね。
彼女に言わせると、
一時ナルシシズムっていうのは、
全部基本悪いことで、
二次ナルシシズムしかない、
みたいな世界なんですよ。
この話、何度かここでしていて、
ピンとこないこともあるかもしれませんけど、
それだったら、
簡単な話をしてしまえばいいんですね。
話を簡単にしてしまって、
いや、お母さんに守られてるから、
安全っておかしいでしょ。
お母さんもろとも、
強盗に襲われるかもしれないじゃん、
っていうのがまさに、
日本のグッドバイブスの一つ意識と、
違うんですけれども、
現実を信頼するっていうのは、
もっと大きい枠なんですけれども、
でも、基本的なスタンスは、
僕は、
ほとんど同じことになると思うんですね。
我々は、
お母さんに守られている時代は、
多分終わっている。
私の考えではそうなんだけど。
で、
一時ナルシシズムについての議論
一時ナルシシズムによる万能感っていうのは、
確かに、
社会運動とか、
社会改良という人たちからすれば、
あくまでも主観的に、
たまたま恵まれた環境に、
安納としている、
ちょっと、
おめでたい人なのかもしれないんだけど、
僕はそうじゃないと思うんですよね、
やっぱりね。
たまたまって言うけれども、
そういう風に言う、
この話、
僕も何度かしてきて、
飽きられてるかもしれませんが、
たまたまと言う、
社会改良をしたいという方にしても、
社会改良するのは全然、
結構なことだと思うんですよ。
そうじゃなくて、
たまたま恵まれた環境と言うけれど、
その人は私よりは環境的に
恵まれてなかったかもしれないけど、
でも地球上に生まれたじゃないですか。
で、
言いたくなるんですよね。
地球っていうのはやっぱり、
恵まれてるじゃないですか、
環境的に。
つまり、
フェニコットがそう言ったように、
環境というのは、
フットイナフなんですよ。
パーフェクトってことはありえないわけですよ。
どんなに改良を加えたところで、
パーフェクトな環境っていうのは、
おかしいわけです。
環境は自分のために用意されたものではないのだから、
お母さんの体内だけはね、
相当自分のために用意されたとは言えますが、
でもお母さんっていうのは結局、
体内だけ、
胎児の体内、
胎児のためだけに存在しているわけじゃない。
ないじゃないですか、
そんな場合だとしても。
環境というのは原理的に、
100%自分のためだけにあったら、
それはおかしいわけですよね。
ただ、
その胎児の状態がたぶん、
一番環境がパーフェクトに近い状態で、
徐々に徐々にそうじゃなくなっていく。
だからそれを移行空間って言うんですけど、
彼は、
フェニコットはですね。
その究極的な移行空間、
最もその環境というものに依存しなくなった時でも、
現実との関係というのかな、
世界と私の関係は、
本質的にはいいんですよ、
っていうのが、
私はグッドバイブスだと思うんですね。
本質的にいいんですよと、
仏教的にも言うんですよ。
ほぼ違う宗教で
行くっていうケースは、
すごく珍しくて、
ないわけじゃないんですよね。
本質的には、
あとは、
本質的には、
環境とあなたの関係は、
全然よくないんです、
みたいな意見の人も、
意見の宗教もあるんですが、
私はやっぱりそこは、
何度かこの番組でも述べてますが、
しっくりこないんですね。
そういう世界観。
精神分析は宗教じゃないから、
一時ナルシシズムまでで
止まっているわけですよ。
この先、本当に現実と
自分の関係は、
良いものなのか、
平安なのかっていう問いは、
立ててないと僕は思うんだけれども、
でも、一時ナルシシズムは
良いものだっていう風に
言った人っていうのは、つまり、
現実との関係についての価値観
イニコットのように、
Going on beingは静かに息づいていて、
平和で良いものなんだっていうような
感じを与えてくるということは、
それは結局、
現実ってのは、
あなたとの現実の関係は、
不価値かもしれないけど、
結局的には悪いものではないんだっていう、
僕はそういう思想だと
思うんですよ。
マイケル・バリントなんかは、
もっとはっきりと、
一時愛っていうし、
一時ナルシシズム以上に、
世の中と自分との関係は、
良いんですよっていう風に
言っているんだけれども、
どっちかというと、そっちじゃないと、
あれだろうなって思うんですよ。
なぜなら、
だってこの母子関係って、
結局、カウンセリングの世界の
例えなわけですよ。
クライアントさんは、
カウンセラーのところに来たら、
言ってみれば、
一時ナルシシズムを取り戻せる、
取り戻そうっていうような話なんですね。
一時ナルシシズムで、
こじれちゃったらつらいんですよ。
体内にいる、
胎児が、
もしかしてお母さんは、
僕のこと殺そうとしているかもって思ったら、
いてもたってもいられないじゃないですか。
でもそういう格外妄想に、
囚われる病気まで、
対応するってことはですね、
やっぱりここは安全なんですよってことは、
まずカウンセラーは必ず、
今は多分伝えると思うんですよね。
その辺がだから、
戸綾田さんが先日言っていた、
ケアとセラピーの話で、
まずケアありきなんですよ。
まずケアしてあげて、
セラピーに入ると。
そういう話なんです。
でも、ケアして終わらないわけじゃないですか。
この精神分析な、
精神分析の、
カウンセリングルームなら、
子供だったらプレイルームみたいなのが、
ここにいれば大丈夫なんだ、
ちょっとお母さんは難しい人だけど、
ここにくれば大丈夫なんだ、
なったとしても、
手塚治虫のカプセルじゃないんで、
ここでずっと暮らしましょうって話には、
絶対にならないですよね。
そういうカウンセリングだとしても、
やっぱりいずれは世の中に出ていく。
その時世の中というものは、
本質的に悪ですって言うんでは、
カウンセリングっていうのは、
前提が壊れちゃうと思うんですよ。
やっぱり出ていくのは、
こういう風に世の中と対峙すれば、
ちょっときついかもだけど、
世の中ともうまくやれるようじゃないと、
話の辻褄が合わなくなっちゃうと思うんです。
現実と夢の関係性
だから、
カウンセリングっていうのは、
僕はすべからく、
一時ナルシズムを、
全面的ではないかもしれないけど、
ベースとしては肯定的に
捉えているんだっていう感じを
持っているんですよ。
だから、
グッドワイプスっていうのは、
ある意味カウンセリングルームの
外にあるもの。
そことの関係はグッドなんです。
それは、
一時的には、
蔵野さんはこれを
プロセスって呼んでたと思うんですけど、
一時的には、
ちょっとこじれる感じがすることもあると思うんだけど、
その場合、
大抵は、
その人はイリュージョンを見ていて、
こじれていますっていう。
ここもですね、
納得いかないって方は納得いかないと思うんですよ。
いや、それは、
俺のせいなのかみたいになるわけじゃないですか。
これは、
イリュージョンを見ている人のせいなんじゃなくて、
みんなイリュージョンを見てるから、
こじれることはあるんだけれども、
それは、幻想を見ているから、
お互いがこじれることがあるというのは、
現実が悪いって話ではならないですよ。
この辺も、
非常に、
実際にそういうことに遭遇すると、
なかなか、
なんていうんですかね、
釈然としないってことになるかもしれませんけれども、
でも、
極力、
現実を見るっていう言い方もありますが、
それよりも極力ですね、
今夢見てるかもって思って、
その夢を
自分の方に
引き戻していき、
かつ夢を見たことに
罪悪感を抱かなければですね、
だいたいグッドになると
思うんですよね、
この関係性というものは。
壁によっかかってしまった場合
やっぱり、
どうしても、
途中言いかけましたけれども、
心臭は起こるんですよ。
なぜならば、
私が持っている一時なるシズム、
若干に間違いはするんですよ。
しょうがないんですよ。
現実そのものを、
私はいつも見ているわけではないから、
壁をよっかかるためにあるわけじゃないけど、
壁によっかかっちゃうことはあるわけですよね。
そしたら壁崩れましたみたいな。
そういうようなことを
人間関係で、
うっというショックを受けるようなことが
起こるのはしょうがないんですよね。
この時に、
お決まりのコースに
向かなければいいわけですよ。
壁によっかかってはいけなかったのに、
壁によっかかっちゃって、
本当に申し訳ないことをしたっていうことによって、
深く反省して、
でも壁の修理はしないみたいな、
そういう話を、
僕は今日したつもりなんですけれども、
そうじゃないよね、
っていうことなんですよね。
本当に壁に向かって、
やっかい謝り続けてるけど、
壁の修理はしてませんみたいな、
そういうのではない方がいいんじゃないだろうか、
っていうことなんですよ。
でもこういうことは、
なぜか偉くよくあることなんですよね。
今、壁って言いましたけど、
壁って、
よっかかれる壁とそうでない壁って、
明らかにありますよね。
すっごい極端な話をすると、
ないと思うんだけど、
公室に呼ばれましたみたいな、
たぶん壁によっかかって、
胎児の自己認識からの罪悪感
母とかってできないと思うんですよ。
僕が思う環境としての母親っていうのは、
実際環境なんだけど、
使えるか否かっていうのを
組むんですよ。
私たちは環境だけで、
それがただ環境だというだけでは、
やっぱり使えないんですよね。
使うって言ったのは、
すごくウィニコットの
いい言葉だと思うんですけど、
環境僕ら使う。
だけど、環境は使われるためだけに
そこにあるわけじゃないから、
環境を気分よく使ってると、
これが万能感なんだけど、
不意にちょっと厳しい目に遭うことも、
静電気が走ることぐらいは
あるわけですよね。
先日も私100日チャレンジで、
そういう経験を
不意にしたことがあるんですよ。
佐々木さんのコメント、
あれはないんじゃないかみたいな、
僕このパターン時々あるから、
よっぽど変な調子に乗るんだなっていうのを、
それこそ反省しそうになるんだけど、
反省しそうになるというか、
この時欲打つ的になっちゃうんですよね。
どっかこう、
僕の感覚では、
左耳の後ろあたりがちょっとこう、
細い針で刺された感じで、
そこがふわっと厚くなって、
嫌な感じになるんですよ。
体感なんですよね。
倉園さんがよくおっしゃるように。
体感なんだけど、
ここでこう、
昔はこれが一気に全身にガーッと広がって、
ああ、申し訳ありませんでした。
っていう風になってですね。
えーと、
その申し訳なさの
プールみたいな中では、
泳ぎながら
ライフハックを始めるっていう。
つまりさっき喋ったのは僕のことなんですけど、
それじゃダメだなと思うように
やっぱりなったんですよ。
これは、
だからタスクシュートなんか役に立ちません
っていう話ともまた違うんですよ。
まずやるべきことは、
その変な針みたいなのを抜いてですね。
まずこの、
これが意外に難しいんですよね。
意外にこれが難しい。
えーと、
例えばその時に、
いやー、
本当に申し訳ないことをしたって、
Jさんかなんかに言っておかないと、
なんかこう、社会人としてダメなんじゃないかみたいな
気持ちになるんですよね。
たぶんそういうことを、
昔誰かに習ったに違いないと思うんですよ。
そしてなんかこう、
例えばですけど、そうだなぁ。
昔で言うと誰だろうなぁ。
例えばうちの娘にそういう話をして、
いや僕そこまで悪くないよねみたいな。
そういう、何かこうですね、
おかしなことをやってしまうんですね。
そういうことではないんですよね。
えーと、
くらどのさんがこれをおかしな行動って言うんだのは、
いかにも的確だなと
僕は思うんですよね。
まさにこれは、おかしな行動を
私は昔ずいぶんこう、
やってたなって思うんですよ。
まあ例えば、
それこそよく当時お話ししていた
タスクマの開発者の
トミさんと会って、
いや僕そんな悪くないよねみたいな。
で、彼女はだいたいそういう時は心得ていて、
なんかうまいことを言って、
そんなに悪くないですよみたいなことを言ってくれて、
めちゃくちゃ僕は元気になって、
なんとか対応できるみたいな。
すっごいおかしな行動をとってたわけですよ。
笑えますよね、この行動は。
笑えるっていうのが一つと、
明らかに意味のないことを
かなり長い時間かけてやっているわけですよ。
まあ6、7年前の話ですね。
で、これは、
えーと、そしてその後こう、
同じことが、
同じ事態を引き起こさないための
ライフハックとかをチェックリスト等で
作り始めるわけですよ。
ワーク、スローイーとかで
こうやるとか、
これで対応できたみたいな。
全然対応できてないわけですよ。
ていうかその対応自体がまず、
いらないと言ってもいいと思うんですよね。
なんか今思い出したんですけど、
その罪悪感のプールってのはですね、
こうなんか醤油のプールみたいな。
醤油って肌にかかると痒くなるじゃないですか。
そういう感じでこう浸されて
痒くなってくるみたいな感じが
あったんですよね。
多分僕のアトピーはこれと
関係が少しあるんですよ。
今は私はそこまで
自体が
罪悪感にまみれることを自分に
許さないというか認めないから
痒くはならないんですよ。
左耳の後ろが
うわっと熱くなったりするんだけど
痒いところまでは
活かせないんですよ。
ここをですね、ぜひそういう風に
考えてみて欲しいんですよね。
これって
例えば一つの理由として、
これはもう本当コツみたいになっちゃうんで
やりたくないんだけど、
でも例えば一つの理由として、
私がまだグッドバイブス
始めたてで
器用にできなかった頃は
やってたことの一つに
例えばですよ、胎児は
お母さんが対象だと気づいたので
胎児悪くないじゃないですか。
父なるシシズムの
脆さというものに気づくということと
父なるシシズムを見ていた
自分は
愚かで罪だっていう風に
考えることは違うんですよ。
ここを我々はすぐごっちゃに
するんですね。胎児が
お母さんに今まで頼ってきた
自分はナイーブでバカだったな
って思うのは僕は間違いだ
胎児の比喩と罪悪感について
と思うんですよ。胎児ってのは
やっぱりお母さんの中で
ここが全宇宙だと信じて
そういうの
スクスクと生きている
必要があると思うんですよね。
そこでスクスクとやっていた自分を
反省してバカだと思って
頭叩き出す胎児ってのは
絶対成長する上で
良くない。僕らがやっていることは
それに限りなく近いんですよ。
針が刺さってきたように
感じちゃうのはしょうがないけれども
そこで
何もそんなにこう
呆然と反省しなくても
良いはずなんですよね。
そこで起きた事象というものは
それこそ
その心配が
全面的に窓外れ
なわけではないんですが
している反省の
程度と比較してみると
全面的に筋違いな
レベルに入っちゃっているのは確実だ
と思うんですね。やっぱり
そういうことをやらかすことは
ありますよね。でもそれは
反省するには
反省しないことなんですよ。
胎児は反省しなくていいんですよ。
お母さんが自分の
母体というものが
母体だと気づかなかったことについて
反省させられる言われは
ないんですよね。事実は
そうかもしれないけど、その事実を
知らなければいけないわけではない
ということなんですよ。だから我々は
多分その
気づかなくてやらかした
失敗を未然に
防げたなんて考える必要は多分ない
んですよね。
いかなる意味でも僕は
今はないんだと思うんですよ。そして
そういう風な
今の私は自分に胎児の
比喩を持ってきて、それでも
不思議なことにですね、自分でそこまで
持ってきても自分は胎児と
違って反省しなければいけないという
気持ちが押してくるんですよね。
これが長寿が大将の
なせる技なんですよね。
誰がそんなことを僕に
ここまで徹底的に吹き込んだのか知りませんが
押してくるんですよ。
そしてなんかこう
例えばJさんなりにそういう話をしたとして
いやいや全然そんなの気にする必要ないですよ
って言われたとしても
内心ではこの人も
安崎さんは本当困ったやつだと思ってるんだろうな
って思っちゃうんですよ。
これは内的部分大将ですよね。
彼の裏側を
呼んでるんですよ。で
こういうことをいかに速やかに
決定的にやめるか
ということをここ
僕は3年間で
徹底してきたわけですよね。
自分の読みかじった
ウィニコットとかグラインとか
ビオンとかそれこそフロイドとか
藤山先生のやつとか
土居さんの
お前の構造とか
読んで思いついたやつを
片っ端から動員しては
この罪悪感を広げない
っていうのを徹してきて
まず何かをするんだったら
ライファックじゃなくて
例えばその
クレーム入れてきた人に
速やかに謝るとかね。
他のいかなることをやる前にも
速やかにでも残さないレベルで謝るとかね。
これも大事なことだと
思うんですよね。
相手がそれによって
傷が深くなるっていうのは
いけないと思うんだけれども
私が妄想するというところを示すことで
相手の罰したいという
気持ちを満たさせるっていう
観点だと
どんどん元に戻しちゃうと思うんですね。
妄想分裂ポジションに
両者がどっぷり入ることになるんで
しばらくはその傷
抜けないと思うんですよ。そういうことをやっちゃうと。
昔はやっちゃってたんですけどね。
めちゃくちゃ
謝りまくるみたいなことをやって
謝りまくると
相手の処罰感情は満たされるんですけれども
相手は処罰感情を満たしちゃうんですよね。
ここまで考える必要は
あるような気がするんですよ。
で、
それよりも何よりも
まず一番いいのは何もしないことなんですけど
罪悪感が取り払えるまでは
どうしても
おかしな行動をとってしまうので
行動をとっちゃうと。だから罪悪感を
ほぼゼロに
できたなって思えたところまでは
基本行動しないと。これがまだ難しいんですよ。
お前やらかしたくせに
罪悪感を払拭する方法
尻拭いもしないのか
みたいに言われてる気がしちゃうじゃないですか。
これも
誰も言ってないんですけどそんなこと
僕実際ここ3年で
この取り組みをしている最中に
もっと素早く対応してくださいとか言われたことは
一回もないんですよ。
いやそれは
っていう観点もありますよね。
いや佐々木さんにはもうそれが言える人がいないんですよ
みたいなことを
内心では言うんですよ。僕が。
でもそれは
わからないことだし
おそらく事実でもないと思うんですよね。
仮にそうだとしても
やっぱり
そこはあれなんですよね。
胎児が気にやむべきところではない。
自己認識の変化
最終的に
完全に
罪悪感というものに
左右されずに
自分がやらかした周知心みたいなものにも
ほぼ左右されなくなれば
必ず
このケアをする私というのは
つまり環境としての母親として
振る舞える私だということに
気づくので
胎児側ではなくなるんですよね。
環境側に
自分の意識がシフトしていく。
長児化対象についての議論
その時長児化対象っていらないじゃないですか。
長児化対象が必要なのは結局のところ
誰が悪いのかって話なんで。
環境としての母親は悪くない。
胎児も悪くないならば
長児化っていらないんですよね。
正しさは必要なくなる。
相手が謝られることによって
相手の環境としての母親を
取り戻すことができるなら
そのサポートは支出するんですが
それは私が環境としての母親になってあげればいい。
そういう風に考えてみると
全然この種の問題は難しくはない。
そしてここに新しいライフバックなんて
いらないんですよ。
そういうことを
Good Vibesの紹介
私が知ることになったのが
Good Vibesだというのが
今日のお話ですね。
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