ボツになったエピソードの裏話
おはようございます、グッドモーニングボイスです。
すっかり忘れてたんですけどね。
今日は、5月の9日、朝の4時28分です。
これは取って出しできるはずだなと思ってます。
実は昨日の夜、フェクチャレ編を収録したにも関わらず、ボツにしたんですよ。
今の時間に比べると目は冴えているので、頭もしっかりしていて喋れるはずだと思ってたんだけど、
やっぱり夜と朝は少し違うというのがあって、
昨日のを出せばいいのかもしれませんけど、ほぼ同じようなことを喋るので、
なんかやっぱりしっくりこなくてボツにしちゃったんですよね。
もう撮ってないからわかんないですね。
昨日もそもそも久しぶりだったこともあって、ほとんどエクスキューズなんですけど、
グッドバイブス編と称しつつ、グッドバイブス編としては微妙にグッドバイブス編になってないなということで、
繰り返しグッドバイブス編だと言ってる割には、そうタイトリングしてないというですね。
つまり表題に掲げてないですね。
今週のどこかでグッドバイブス編を改めて撮ろうと思っています。
こういうことも考えすぎないほうがいいんですけどね。
長い目で見ると、この長い目で見るとという話をグッドバイブスの方ではしたいというのもずっとあるんだけれども、
これがですね、うまく喋れる気がまだしないというか、気がしないと。
どこかででもうまく喋れようが喋れまいが喋ろうとは思っているんですが、
今日は100チャレ編で。
これがですね、昨日のがうまく喋れてないのかというと、
もう完全に主観の世界で、そうは言えないなと自分でも思うんですけど、
アップする意欲が湧かなくて、ボツにしてしまったわけですね。
やりたいことに対してのタスクシュートと不謹慎な話
じゃあ今日撮ったやつの方がベターになるのかというと、もはやわからないんですけどね。
内容はそんなに変わらない。
100チャレ編は今後ですね、認定講師の方もご誕生されてますから、
ゲストで読んでお話ししたいなというのも今後は考えております。
で、100チャレ編で今日お届けしたいのはよくよくいただく、
しょっちゅういただく疑問なんですけど、わりとはっきりいただくようになったので、
ブログにも書かれていたんで、
そしてとても腹が立ったみたいなことも書かれていたんで、
これはもうネタにするより他ないだろうと思いましてですね。
不謹慎と言われるかもしれませんけれども、しゃあないんですよ。
つまり、いつかやりたいことというのをやるためにこのタスクシュートだ、
100日チャレンジだに参加しているのに、
佐々木はそれをしなくていいかのように言って問題だっていう話ね。
これは私の中でもはっきりした理屈があるんだけど、
2つまずエクスキューズもありまして、
1つはですね、私の話をスルーすればいいっていうのがあるんですね。
100日チャレンジはジェーン松崎さんとやっているんだけど、
彼は少なくとも私と同じようには言わないわけで、
そのいつかやりたいことをやるのが良いといった話であり、
かつ僕が言っていることが一番それに反するということであればですね、
僕の話をスルーすればこと足りるわけですよね。
佐々木が全面的に正しくないんだということにしてしまえば、
話は早いと思うんですよ。
あいつは何か間違ったことを喋っているに違いないということにすればですね、
そんなことで考え込まずに済むと。
これは良いと思うんですよね、私は。
私が良いと思ってるんだから、
誰に気兼ねする必要もなくそういう方向でいけばそれで良いと思うんですよ。
佐々木にいつかやりたいことをさせようというのは行き過ぎじゃないですか、
そこまで望む必要は全くないと思うんですよね。
ノープランでの目標達成と逆算理論
そもそもその人がやりたいことと何の関係もないわけですからね。
私がいつかやりたいことをどうする、こうするっていうのは、
私にはそのリストすら今やないわけですから、
そのようなものが私の世界にはないわけで、
だから、つまりそういうことなんですよ。
でもそれでも納得ができないということであればですね、
百値あれば半分は少なくとも私が担ってるから、
いつかやりたいことはしなきゃいいっていうのが、
言われるだけでも気分が悪いということでしたら、
説明はしなきゃならないだろうと。
これ、やるようにすることにしましたと前言を翻すってわけにはいかないのでですね、
というのは私がまず大事にやってないというのと、
これに納得されてしまっている方もすでにいらっしゃるので、
これを翻すってわけにはいかないので、
いつかやりたいことであれ、ノープランであれですね。
ノープランというのはつまり、計画を立てないという意味なんですけど、
私は計画は立てませんし、意識もしていないので、
ただこれはですね、ちょっと厳密にしゃべる必要はないかなと思ってるんですよ。
例えば、そうだな、認知心理学にあるんですよね。
目標設定逆算、逆算なんて言ったかな、ちょっと名前忘れたんですけど、
そういうハノイのトークでもやる方法論としてあるんですよね。
これはつまりロボット工学みたいな話につながっていくんだけど、
例えばさっき私トイレ行きましたけど、
トイレに行くという目標を立てて、そこから逆算しているということを
無意識にもやっていないかって言われると、
やっていないと私は思っているんですが、
それを証明する方法はないんですね。
もしかしてMRIを頭にやってですね、カポッと入れて、
ほらトイレという目標を立てて逆算、
そこまで脳画像で見るのはまだ当分私はできないと思うんですが、
FMRIのさらに精緻にしたものに何かAIのような計算を投入することでですね、
そんなことをしてトイレに行くのを逆算しているのを証明するというのは、
よっぽど研究マニアみたいな人しか実際にはやらないし、
興味持ってくれませんけど、
私はでもそういうところに留学中はいたんですよ。
それを大好きでしたからね。
でも私はそうはしていないなと思うんだけど、
そうしていないということを無意識の上でもしていないと絶対に生きれるかと言われるとですね、
計画と逆算についての哲学的考察
それは分からないんですよ、究極的にはね。
よく分からないので、そこは可能性として否定する気はありませんが、
たとえそうだとしても、私は次のタスク、
次のタスクをゴールを立てて逆算するということを意識の上では全くしていないし、
そうする必要性も一切感じていません。
ただ、この話はそういう哲学的な話をする部分ではないと思うんですね。
究極的には長期での話をしているわけじゃないですか。
本を書くとかですね、私の場合は。
そういうものを目標を立てて逆算していないかというと、いない。
これはもう確実にそうはしていないです。
本を書こうとするってことはしてますよ。
でもそれは計画とは僕の中では感じられないんですよ。
何日までに本を書こうみたいな計画を意識していないので。
だから、むしろですね、タスクシュートに載せる前はですね、
仮のものとしてそういうものを設置することはします。
なぜならば、それを求められるからですね、求められなきゃしません。
多くの場合というかほとんど全部100%編集さんですね、
出版社の編集さんに何月何日までに本を書いてくださいと。
何なら計画書を提出しろって言われれば、
もっとマイルドに言われますけど、しますよこれは。
ただそれは、私の中であくまでも家庭的なもの、
家庭っていうのは仮に定めるやつですね。
を提出するというのであって、
いやそれはどうでもいいと思ってるとか、保護にする気満々だってわけじゃないですよ。
一応守ろうと思ってますけど、
その段階でそういうふうなものとして書くものと、
ましてするのがガントチャートとかにはしませんから、
私あれは建築設計のためのものだと思ってます。
エンジニアさんがああいうものを使って仕事をすると便利だというならば、
それに反対する気は妄当ないですけど、
本を書くための計画について
私エンジニアの知識ないから、
本を書くためにガントチャート作るっていうのは、
僕は全く全然役に立たないと思うんで、本当に。
それはもし編集さんが立ての頼みだっていうなら作りますけど、
そんなことは50冊ぐらい本書いてきて一回も頼まれたことがないから、
多分編集さんの方でもそのようなものが有効だとは思ってないんですよ。
出版社さんの方でもね。
だからそれは別に議論の対象にならないと思うんですよね。
ゴール逆算設定って言っても、
必ずガントチャート引きましょうって話ではありませんからね。
しかもそれはこの業界で誰もそれを強く推奨している、
強い勢力があるとかでもないわけですよ。
本を書くためのガントチャートをやった方がいいぞって話は、
僕は聞いたことないですから、それはしないですね。
する必要もないんだろうと思う。
立ての頼みだっていうならば誰かに頼んででも作りますけれども、
それは僕のやることではないなとは思ってます。
で、そこまでなんですよ。
この計画というものにお付き合いする可能性があるとしても、
タスクシュートに一旦原稿を書く、
エイブリデイの繰り返しというふうに設置してしまったら、
もうその計画のことは瞬時に忘れます。
多分絶対間に合う。
で、ここが逆算した方が間に合うという議論は、
私はちょっとわからないんですね。
トイレに行くのも同じですよ。
漏らすかどうかって話ですよね。
トイレが間に合わないっていうのは、
逆算した方が漏らさないっていうのは、
僕は全然納得できないんですよね。
そんなことをしているんだったら、
一刻も早くトイレに駆け込むべきだと思うんですよ。
この観点を本を書く場合もずらさないという話なんですね。
これは私がしていることは。
つまり、一刻も早くトイレに駆け込むっていう事態は、
私としては避けたいので、
特に最近は年を取ってきたので、
そんなことをそんな時まで引っ張ってたら、
本当に間に合わない事態を招きかけないと最近思っていますので、
おかしな話になってきていますが、
逆算している場合じゃないですよと思うんですけどね。
無意識が逆算しているかどうかは知りませんよ。
でも、例えば新橋の駅に行った時とか、
私はそこは結構トイレで困ったことが昔あったので、
トイレの場所はよくしっかり記憶に刻むようにしているんですね。
その時に新橋に行ったら、
臭いがあろうとなかろうとトイレに行くことにしているんですよ。
これも。
もうほとんど習慣のようになっています。
こういうのは習慣のようになっていますね。
つまり、何を言っているかというと、
私は掻き上げ塾というのを倉園圭三さんとやっていて、
必ず新橋の駅を通るんですよ、最近は。
ここで必ずどういう状況であろうと、
基本的に改札を出る前にトイレを済ませるということにしているんですよ。
たったそれだけのことなんです。
ここに計画とか逆算とかいう話を持ち込む必要は、
さらさらないと僕は思うんですよね。
これも計画だと言われればそうなのかもしれませんけれども、
そういう意識はないということですね。
そこを厳密に考える必要性を認められないというか、
見込めるってほどじゃないんですよね。
そんなに何かを意識に残らせる気にもならないぐらいな感じ。
そういうふうにしておいてください。
あと、新橋の駅を通ったら、
天気によって選ぶご飯を食べる場所を3カ所探しているんですよ。
ここはしかも自分一人だけで食べることにしているんです。
なぜかというと、時間が安定しないんでね、私は最近。
絶対にこの時間には新橋の駅に着くぞみたいにしていないので、
早く済ませたいときと、時間をかけても大丈夫なときと、
選ぶ店を変えて、こういうことをするじゃないですか。
これも偽善でする必要って僕は認めがたいんですよ。
そこまで厳密な話じゃない。
いつかやりたいことリスト
いざとなったら食べずに済ませてもいいわけですから。
そんな感じです。
今の話と基本的にはあまり変わらないんだけど、
いつかやりたいことという話は、
まず大前提として、やりたいことなんですよねってことがあるわけですよ。
今ちょっとパッと浮かんできたのが、しょうがないピアノの練習なんで、
僕は絶対に別にしたいと自分が思っていないことをサンプルにあげるのが嫌なんですけどね。
なぜかなおにピアノの練習がよぎっちゃったから、したいわけですよね。
僕はピアノ嫌いで、昔子供の頃無理やり習わせられたとは言えないんだけど、
ちっちゃい子の親はハメるような真似をしますよね。
母が私にピアノを習わせたんだけど、
私、習いたいって言っちゃったんですよ。
あんたが習いたいって言ったんでしょって言うじゃないですか。
昔の親ってそういうことを言ったんですけど、
あれは母が習いたかったわけですよ。
私はそれなりにちっちゃい頃は、
わりと外に駆けずり回る少年だったんですよ。
イメージできないかもしれませんけど。
全然ピアノとか全く弾きたいことはなくて、
怒られてばっかりで、すっごいやめたかったんですよ。
やめられた時、ものすごい嬉しかった記憶があるんですよね。
小学4年の時やめたんですけど。
バイエルがやっと終わって、
弾けるようになったとは全く言えないし、
今でもピアノを弾きたいと思うことは全然ないって。
これを3通りあげたらよくないんだけど、
いつかやりたいことがピアノを弾くことだとしましょう。
弾きたいわけですよね。
弾けばいいわけですよ。
いつかやりたいことリストとかに載せてないで。
これはなぜそうするかというと、
弾く暇がないからじゃないですか。
いつかやりたいことリストに載せるのは、
つまりエブリデイの中に入らないっていう話を
タスクシュートとやりたいこと
なさっているわけですよね。
これ結局。
そのはずなんですよね。
じゃなければ弾けばいい話なんですよ。
あるいは弾きたいんだけど、
練習するのがめんどくさいという気持ちが、
これ葛藤なんだけど、
あるわけですね。
その時にタスクシュートが役に立つのかと言われればですね。
これは、
なんつうんですかね。
即座に役に立つかどうかという話になった場合、
書けばそれをやるのかという話になった場合はですね。
やってみなくちゃわからないんですよ。
毎日毎日リストにピアノを弾くってあるのに、
全く弾かないのだとすると、
それは絶対にやることになってないってことなんですよ。
絶対にやることと、
この世の中には絶対にやることと、
絶対にやらないことに分かれがちなんですね。
その間っていうものを、
多くの人はかなり多いものだと意識されているようなんだけど、
ここがタスクシュートをやってみると分かることなんですよ。
絶対にやることと絶対にやらないことの間は、
ある度かもしれないけれども、
ほとんど見えないレベルになっているんですね。
ここを、
タスクシュート、
界隈というべきなのか、
境界というべきなのか分かりませんが、
僕は言いたいんですね。
この間の線は、
ほぼゼロですよというふうに認めてしまうと、
楽になれるというのが僕が言うことなんだけど、
僕はこの部分ではラディカルな方なんですよ。
この部分でもう少しマイルドな人、
つまり私は大橋哲夫さんは、
この部分では僕よりはマイルドだと思うんだけど、
この間は、
小さいけれども、
一応ありますよぐらいな話をしているんですよ。
でも、ここが広くないというのは、
タスクシュートをやっている人はみんな知っていることなんですね。
絶対その人がやることと、
絶対その人がやらないことの境界、
その間の、
干渉地帯みたいなもの、
ここを隙間時間という世の中では呼んでいて、
広いと思われているんですね。
ここは、僕は無い。
無いに等しいと思うんですね。
言い方なんですよ。
無いに等しいというか、
とても狭いけどあるというか。
僕はそこは、
その人その人にもよるし、
ものすっごく狭い人と、
ものすっごく、
ものすっごく狭い人と、
狭いながらも一応認められる人。
ほぼ無い人に分かれるんだけど、
分かれないんですよ。
そこはグラデーションなんだけど、
多分タスクシュートユーザーなら一致してるんですよ。
この境界を変えられるかどうか、
変えるためにどの程度タスクシュートが役に立つかということなんです。
この境界をいつまで経っても変えないのであれば、
タスクシュートってあんまり役に立たないんですよ、
最終的にはですね。
長い目で見ればっていうことなんですね。
ここで僕が言いたいのは、
即座に役立つ部分は別にいろんなところにあります。
ただ、いつかやりたいことっていうのは結局、
その人は毎日やりたいんですけど、
毎日はやれないと言ってるんですよ。
でも、私はその認識は多分間違ってると思ってるんですね。
毎日乗せてるからといって、
毎日やりたいわけではないんですね。
でも、毎日やりたいわけでもない、
義務でもないことは、
多分毎日できないんですよ。
つまり全然やれないんですね。
そうなるはずなんだと僕は思うんだけど、
ここが納得できないっていうお話をされているんですよ。
そこを納得してくださいという私に怒りが向くんですよ。
これもしょうがないだと僕は思っているんですね、正直。
やる方法を提示しろって言われてるのかもしれないけど、
まずそれは方法ではできないという話をしたいだけなんですよ。
ここの認識を変えないと、
タスクシュートを悩む人たち
それができるようには決してならないと思います。
なぜならば、この間が広いと思いますから、
絶対やることと絶対やらないことの間に、
たくさんのやることがあると思っていらっしゃるので、
そこのところ、そこはたくさんは絶対ないんですよ。
多くて20分、1日に。
僕はでもそれの20分を1つのことに当てられる人は幸せだと思うので、
この20分を7つのことぐらいに当てようとすると、
1つ3分になる。
この辺がJマスザキさんがおっしゃるところの、
1分でもいいから着手しろなんですね。
20分を1分ずつなら20個当てられるじゃないですか。
実際にはそういうことはできませんけどね。
1分ちょうどでやめるということができないし、
20分毎日取るのも至難の技なんですよ。
特にタスクシュートに手を出すぐらい忙しい人にとってはこれは難しいし、
タスクシュートに手を出すぐらい暇な人、
これはね、言い方が矛盾しているようなんだけれども、
全然、まあそうですね、いわゆる引きこもっている人に近いかな。
時間いくらでもあると周りの人は思うじゃないですか。
でもそんなことはありえないんですよ。
思っている人はですね、やることがいっぱいあるんです。
例えば一日の中で何度も寝なくちゃならないとか、
もちろん食事もしなければならない。
その間、ながらで何かするはずなんですよね。
食事の時、食事だけする人って少ないと思うんですよ。
スマホを見ながらしますよね。
孤独な時は特にそうです。
そうするとスマホに使う時間がかなりあるはずなんですよ。
やめればいいじゃんって簡単におっしゃる方もいるんだけど、
そうはいかないんですよね、これは。
依存に近い何かなので、
簡単にやめられるものではないです。
だからスマホの時間も当然たくさんあります。
この種の方にとっては、
それらの行為に罪悪感が若干にせよ、あるいは多大にあるので、
記録に残したくないという問題が別途あるはずなんですよね。
スマホにどのくらいの時間を使っているのかを
正確に記録に残すことには内心の抵抗が厳しいので、
多分ほとんど記録に残らないでしょう。
でもやっている時間はもっと長いという意識はあるでしょう。
そしてそれは無意識にも同じような抵抗と
同じような反逆みたいなものがあるんですよ、本人にとっては。
タスクシュートと人間関係
だから必ずタスクシュートに記録を残すのって
簡単なはずなんだけど、
とても難しいという表現を取ったり、
面倒くさくてやってられないという言葉に直ったりするはずです。
こういうことは全て何ら難しい話ではないのですよね。
これは、ある意味自明の話に近い、
極めて明らかで誰がやってもそうなるだろうなという
感じの柄でしかないのですよね、これは。
申し訳ないんだけれども。
私の肉親もそうなんですよ。
私がタスクシュートの話をしても、
怒りが返ってくるだけなんですよ。
でもたまにはします。
ある種の揺さぶりをかける意味があってですね。
絶対腹を立てます。
そんなのはただのスケジュールだと必ずおっしゃるんですよね。
そのスケジュールにいいダクダクとしている
お前のような人間とは違うんだと。
でもこれはとっても機嫌がいい時の話ですよ、
ここまで言ってくれるのはね。
大概の時は物とか投げられる可能性も否定はできない。
タスクシュートとやりたいことリスト
こんなことをすればですね。
相手の機嫌を見て、
何か怒りに満ちた言葉が返ってきたら、
今日は調子いいなということで
安心できるということなんですよ。
これで物が投げられるような時は
僕はそこまで浮かずじゃないんでね。
こんな話はしない。
もっともっと穏やかでマイルドで
向こうの木にいるような話をします。
だから怒るっていうのは最もだと思うんですね。
やっぱりこう、なんていうんですかね。
この業界の用語では、精神分析の用語では
侵入になる、侵襲になっちゃうんですよね。
侵入ですけどね。
親対象の侵入を許さないっていう意識が強いので
入ってこられたら絶対に投げ返すぞっていう意識があるので
こうなるんですよ。
でもこれは我々みんなに多少はあるんです。
そこまでアグレッシブなね、
ドラマチックなことをしないから普通の人は。
まあそういうのもやってもいいけど
ぐらいな防御で済むんですよ。
実にこう、柔らかくやる。
だけども、結局このいつかやりたいことに対して
僕らカットを抱えてるわけじゃないですか。
やりたいことはやりたいんだけども
時間がない、面倒くさい、腰が重い、うんぬんという
どこかに原因、悪い原因はどこかにある。
時間がないのであれば
人にいろんなことを押し付けてくる外側にあるし
つまり外に罪があるわけですよ。
倉園さんが普通に使われる言葉で言えば
外側に罪を置くか、それとも
腰が重い、面倒くさいだと内側に罪を置きますよね。
どちらも処罰の対象になってしまうんですね。
そうするとストレスになりますよね。
自分がやりたいと思うことを思い浮かべるだけで
ストレスになる。
だから忘れはしないんだけれども
いつでも引っ張り出せるリストというところに
置いておきたいという心理が働くんです。
僕はそういうふうに見ているんですね、この問題を。
だからタスクシュートで空き時間を作るかどうかの問題には
還元できないと思うんですよ。
タスクシュートで記録を残すというのは
多くの人はもっと罪の意識を持たないで済む
スマートな感じにしたいんですね。
ほら、この7時45分から8時6分までの間が空いているじゃないですか。
隙間時間じゃないですか。
この時間何もしていないじゃないですか。
やりたいことの優先度と未来予測について
だからここにピアノの練習というものを入れれば
誰も外側に時間を足りなくさせる悪い上司とかを置くこともなく
面倒くさがる私という内側の原因に罪悪感を持つこともなく
つまり誰を処罰することもなく
ここで私のやりたいことがすっきりできるじゃないですか
という形にしたいのはよくわかるんですよ。
この話をまずするべきなのかもしれません。
ただ、そうは絶対ならないですね。
残念ながら。そうは絶対ならない。
なぜならばその何もしない時間というものは存在しないので
必ずその時間何かをしているんですね。
ここもね、ぼーっとしているというのは何もしていないんじゃないかと言われるんだけど
人は20分もの間、ただ断続的にぼーっとはしないので
そういう記録は残らないんですね。
そんなにきれいな形では。
で、何かやっぱりするわけですよ。
私で言えばね、20分という時間を使って目高に餌をやる。
雨戸を開ける。
娘が帰ったのぞというLINEが来たら
それに対して行ってらっしゃいというスタンプを押す。
そういうことをしているうちにトイレに行きたくなるし
歯も磨くじゃないですか。磨くのね、私は。
で、そして外にあるシソの葉っぱなどバジルの葉っぱなどを取って洗ってくるというのをやれば
20分なんて突破しますよね。
これを全部やらないでその代わりにピアノを弾くってことになればですね
強烈な意思力を要求されます。必ずね。
そうしないと、例えばお前なんで葉っぱ取ってこないんだと後で奥さんが言うとか
歯をそこで磨いていなかったために後で虫歯になって歯削られるとか
あるいは娘にスタンプを送らなかったということで後でなんかもじょもじょ怒るとか
そもそもトイレに行きたいというのは我慢できないとかいっぱい起こります。
これらを横に、脇によかすわけにはいかないんですね。
で、潰さに見ればなんですが、一つ一つ細かく見ていけば
どの時間も必ず絶対やることで、僕の考えではですよ
絶対やることで埋まってるんですよ。その葉っぱを取るのもスタンプを押すのも
トイレに行くのはまさにトイレに行くのと全く同じように避けられないんですね。
私がこの空間とこの人間関係と私の中の相性関係ですよ。
私の中の長寿がによると、そういうことは奥さんにはしてあげなさいねと
私の中の母親対象は言ってくる。これらと一線を交えてまでですね
いつかやりたいことを優先するべき理由を僕は持ってないんです。
そしてどんな瞬間も持ってないんですよ。
ここに納得がいかないという話になるんだけれども
ここでやっぱり僕らはですね、一人では生きてないっていう言い方ができる。
もう一つ言うならば、本当にそれらに優先するべき私っていうものが
心の中にガチッとあるのかっていうと、僕にはないように感じられるんですね。
結局そのいつかやりたいことというのは、ここでもう話は戻っていくんですけど
昨日あるいは一昨日、ないし1ヶ月前の私なる人がやりたいと思ったことじゃないですか
そのような私はもうここにはいないんですよ。その瞬間その瞬間にはいないんですよね。
トイレに行きたい時はトイレに行きたい私しかいないんですよ。
そのピアノを弾きたい私とかはその時にはもういないんです。
だから弾きたいって本当に思ったらその瞬間に弾くしかないんですよ。
でもそれが条件、状況、環境なりがそれに適切に設置されてないというならば
多分それはその時にやるべきことではないんでしょうね。
そういうふうに考えていくと、え、だったらいつできるんですかって話になるんですけど
それはわからないんですよ。タスクシュートにそんなことを書くことはできない。
なぜなら未来を読む機会ではないか。
だから計画によってあるいは記録によって未来を見ましょうっていう話をされる人もいるんだけど
僕はそんなことができるとはななかだ思えないんですね。
今日の天気も昨日の天気もそうでしたけど
国家がある意味石をかけてね、気象衛星飛ばしたりしてみても
天気ひとつ当てられないのに未来の予測はできないと思うんですよ。
やっぱり僕の見た限りですね、おととい元半島であんなに大きな地震が起きるぞっていうのを
時間ぴったりで予測できた人っていないように見えるんですよね。いないんですよおそらく。
でもあれが起きるということによって、昨日の土砂災害もそうですけれども
人生の設計自体が変化してしまっているじゃないですか、多くの人にとって。
その当事者であればですね、私たちの身の回りでも必ずあれに相当することは
もう5分後に起きてもおかしくはないんですよね。
僕らは未来に読めると思ってちゃダメだと思うんですよ。
未来を読んだ上で計画を立てるというふうに考えていたのでは、
多分その計画は永遠に立つことはないと思うんですね。
だからいつかやりたいことはいつできるのかという問いには答えられる人がいないと思うんです。
時間削減によるピアノ練習の優先度
答えてもそれはデトラメだと思うんですよ。
だからそうやって詰めて詰めて考えていくとですね、最終的にどういう結末が待っているかというと
僕は2つしかないなと思っているんですね。
1つは起床直後、そして会社に行くなり学校に行くなり何か送るなり
約束の時間に間に合わせるなりするという時間まで
全部絶対しなきゃならないことってその間にありますよね。
必ずパジャマのまま会いに行くことはできないんだから
服着替える時間とか本当に絶対にしなきゃならないというか絶対にしちゃうことですよ。
しなきゃならないうんぬん言われなくたってしちゃうことがあるはずです。
その時間さっぴりた上で起きた時間
多分僕はそれはギリギリまで寝ている時間に人はなるはずだと思うんだけど
そこを押してまでピアノの練習をしたいっていうならそこに感激ができる可能性はあります。
つまりそれは睡眠時間削ってるってことですよ。
これを朝にやるか夜にやるかのどっちかになると思います。
タスクシュートと思考の誤り
ただしこれを1週間も続けると寝ている方を優先してしまう可能性がほとんどの人にとってないです。
そうするとつまりそれはいつかやりたいことリストに行くしかなくなるわけです。
それはタスクシュートのリスト上には載んない項目になる。
載ったところでただ消えていく項目になるんですよ。
でここの感激がでもねそうはいっても1分はあるでしょっていうならあるんですよ1分は。
1分練習すれば気分が晴れるっていうならそうすればいいんじゃないかなと思うんですね。
私はここに何を見るかはもうその人その人だと思います。
絶対やることと絶対やらないことの間に僕は何もないような気がするし
何もないと思っているのが私は楽なんですね。
私としてはこの間にあるはずだって思うほうが
少しであってもあるはずだって思うのは結構大変だと思ってます。
1分ならありますよ。
だけど私はないという風に1分だって言うんであれば
1分あるっていう風に言うかほぼないっていうか
全くないって言えるかどうかわからないんでその時その時で違いますからね。
この2点目がもう一つですよ。
エブリデイの繰り返しと自由
エブリデイっていう繰り返し本当はおかしいってことです。
だって食事だって抜くことできるじゃないですか。
トイレはさすがに抜けませんけどね。
睡眠も抜こうと思えば抜ける。
僕はできたことが一生涯に当たってまだないんですけど
寝ちゃってない日って、徹夜できた日ってないんですよ僕は。
いつか寝てるんですね。
だから抜けないんですよ僕は睡眠はね。
お風呂も僕はほぼこの10何年から20年に当たって抜いたことないですね。
僕はお風呂抜くことができない人間なんだなと思うんですよ。
人はそうは言わないと思います。
それを入んなきゃいいじゃんって言われるかもしれませんけどね。
私はダメなんですね。
お風呂入んないってことができない人間なんだなって思っておいた方が正解だと思うんですよ。
10何年も毎日入ってたんだろうが。
やりたいことと環境
そういうことなんですよ。
でもエブリデイって本当はおかしいんです。
本当は毎日繰り返すことはトイレぐらいしかないと私は思いますね。
そういう時に僕はやっぱり戦争の特集とかを見るんですよ。
人はどこまで何かの自由を奪われた時
何をどこまで削っていくんだろうということに興味がある。
絶対やることっていうのは最終的には何に行き着くんだろうかなっていうのはよく考えるんです。
ものすごくあれですね。
カメラ撮るので絶食しろって言われた時
トイレの回数は激減するっていうことが分かりました。
物入れないので。
そういうことは起こるんだけれども
それでもやっぱりなくすことのできないことってあります。
そしてそうやって食べることもできず
したがってトイレに行く回数もなくなっていき
睡眠時間まで減らしていったとすると
何が増えていくかというと
意外なことにスマホを見る時間も増えたりするんですよ。
このスマホを見る時間は
そんなことする引き場があったらピアノを弾けばいいじゃんと言っても
僕は無理だと思うんですよね。
食事を削り睡眠時間も削り
毎日風呂に入っていたような人間が風呂にも入らずに
ピアノを弾く気になるかというと
そうはならないんですよ。
だからタルシュのやりたいことがやりたいと思ってやれないということも含めて
いつかやりたいことの中にピアノがあるっていう自体は
いいことなんですよ。弾けなくても。
私は今そういう感じのところを意識しているんです。
例えば今私本の原稿書いてないんだけど
本の原稿書きたいなと思っていることはいいことなんですよ。
思ってられる状況に生きているわけだから。
もしそうじゃないとすると
たぶん私本を書きたいなんて思えなくなっていくんですね。
そういうことっていくらもあり得ることなんです。
だからいつかやりたいことリストを持っているということ自体は
全然否定するような話ではないんですね。
いつかやりたいと思っていることがあって
しかもそれは毎日できてませんってのは
いいことなんですよきっと。
そういう環境の中で生きていられているっていう意味になってるんです。
そのために、つまりピアノを弾きたいと思うためには
一定の人間関係とかある種の状況とか
ある種の環境というものが欠かせないと思うんですね。
そういうものを持っているからこそ
そういう願望を抱いていられるんですよ。
ある種の人がいなくなっただけで
もうその願望は消えてしまうということってよくあります。
実際に。
私の経験ではあります。
昔付き合っていたこの人がいたから
これをしていたみたいなことってあるじゃないですか。
極端に言うと、例えば極端に言うと
ごくごく簡単なところでも
うちの奥さんなんて
私と結婚しなければ千葉ロッテなんて
興味持ってないですよ。
大谷翔平に興味持っていると思うんだけれども
興味の持ち方は違うと思うんですよね。
そういうことってありますよね。
だからいつかやりたいことが
やりたいというふうに思えているというだけで
それはだいぶいいことなんだと思うんですよ。
大変ある意味恵まれていて
幸せなことだと思うし
それができるかできないかは
ここがやっぱり納得されないかもしれませんが
できるかできないかは
大した問題ではないんじゃないかって思うんですよ。