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おはようございます、グッドモーニングボイスです。
7月の第2週から、7月9日に1ヶ月集中コースをグラゾノさんとやる予定です。
9日にやるのは、オンラインセミナーです。
そこから1ヶ月、コミュニティを中心にサポートをします。
要は、1ヶ月かけて何かをやり遂げましょうというか、先送りしていたことを月間作りましょうという話です。
何でもいいです。
お持ち込みいただくものは、とにかくご自身がやりたいと思っていたことです。
ビジネスではなくても結構です。
1ヶ月で掃除をしたり、たまり始めた確定申告をどうにかしたり、まだ7月ですけどね。
その辺の自分がやってないこと、あれでもいいですよね。
私も結構最初そうだったんだけど、人間ドッグ行きたいとか、
歯医者の検診にここ10年以上行ってないんだけど行きたいとか、でもまあいいかなと思います。
そういったやつですね。
あとダイエットとかですかね。
あるいは仕事でもいいんですよ。
今月で書き切ってしまいたいとか。
そういう意味で1月で2人サポートだからお一人方2万円ということにしてあるんですけど、
そんなに高くはないかなというふうに。
桁時には大きいんですけど、1ヶ月で本の目処をつけるとかなら高くはないかなという感じを持っています。
私だったらピンチのときはそういうのに入ってもし書けるなら安いもんだという感じで、
ピンチだってことは立て込んでるはずなので、その後本書き上げればお金入ってくるじゃないですか。
そういうような計算をちょっとしてみました。
片付けてもお金は入ってこないんだけど、片付けたいとかは業者に頼むこともあるじゃないですか。
そうすると多分2万円じゃ効かないと思うんですよ。
2万円で効くぐらいのケースもあると思うんですけど、やっぱりすごい状態になっていると2万円じゃ効かないと思うので、
そういう意味でも自分でやれるならいいかなと。問題はやれるかどうかですよね、本日の話は。
その辺は私と倉園さんでやりますという話です。
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どうやるかということなんですが、いろいろあるんですけどね。
まず私は最近ようやくこのGood Vibesで言っていたところの疲れないというのが上がってきた感じがするんですね。
これも割と前から別に疲れようと疲れないと関係ないと思っていたんですが、
最近になってようやく、例えば夜の10時でも原稿を書こうと思えば何にも苦労なく書ける。
通常は朝の11時に書いているんだけど、午前中と夜と夕方では一時気分は違うんですけど、
原稿の進み具合には何ら変化はないんですよ。
これは例えば書き上げ塾で5時間やった後でも書けるようになったんですね。
昔は書き上げ塾とかじゃなくても、セミナーで3時間やった後に本を書けるかというと絶対書けない感じだったんですよ。
それが何の苦労もなく書けるようになって、
つくづくこういうのを身につければ、掃除とか確定申告とかは十分何の苦労もないなと思うんだけど、
それは私の場合であって、こういうのが大変だという話は、
大変というかできませんと、3月になってますという話は随所で聞きますね。
それは何て言えばいいんですかね、私の考えでは強化してるんですよ。
強化というのは強く分けるです。つまり行動を強化しているんですよ。
行動を強化するうちに正確になったと思われてしまうんですね。
この辺から厄介なんですよ。
この辺を何とかするというのが基本的な考え方にあるというか、あった方がいいんじゃないんだろうかと。
タスク習得を私やってて思うんだけど、このタスクの前に来ると気が重くなるとかいうやつはおかしいと思うんですよね。
それは勝手に自分で気を重くしているだけなんだけれども、
でも我々はそれをやっちゃう生き物なんですよね。
税務的な作業をするってなると途端にその作業の負荷というよりは、
心理的に嫌悪するんですよね。
つまりそれをしなくなればいいんですけれども、
するかしないかの選択を迫って自分にしまった時に、
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する・しないの選択をした上で、しないという選択を取ると強化されていくんですね。
この強化が大きな問題なんだなと言ったことをここ2、3年で学んできたなと思うわけです。
よくあるんですよ。タスク習得では記録が取れません。
面白いんですよ。そういう性格なんですっていうのを私は何回聞いたかわからないんですよね。
これ、つまりこれはご本人にそういうつもりはないんですけれども、
勝ったって感じなんですよ。勝っちゃってるんですよね、その方。勝ち負けの勝ちですよ。
勝っちゃうんですよ。これで佐々木に勝っちゃうんですよ。
こうすることによってその人の現実というものが形成されていくんですね。
この番組ではしばしば話題にする変な質問をしてバカだと思われたくないというのも同じなんですよ。
それに対して私なりが反論するとするじゃないですか。バカだと思われてもいいじゃないですかと。
良くないということを私に言って、要は言いまかすことができるわけですよ。
佐々木に勝てるんですよ。そうするとその人の性格は一段と強化されるんですよ。
ここで言うところの強化なんですよね。強化師なんだけど、行動科学的に言うと強化なんですよ。
つまり選択の余地はないというか、ゼロという結果は得られないんですね。
負けるか勝つかになってしまう。負けるか勝つかになってしまうと負けなければいけないんだけど、
負けるのは嫌だから、勝ちたいから人はどんなことであっても、自分に有害なことであっても勝ってしまうんですよ。
勝つと嬉しいからその現実が強化されてしまうんですよね。
このからくりを解かないとこの種の言葉から解放されるようにならない気がするんですよね。
タスクシュートで記録を取るのは性格的に無理なんです。
これはこれだけ取り出せばただの言葉なんだけど、それは実現してしまうんですよね。
という性格であるからタスクシュートの記録は取れないという現実が自分のものになるんですよ。
そのために洋橋さんなりにこの言い分で押し通せれば、
こんなに強いことはないじゃないですか。
相手はタスクシュートの開発者なのに、
このような私のような性格の人間ではこのツールは使えないんだということを実証してみせることができるわけですよ。
つまり勝てるわけですよ。
そうすることでその人は一段とタスクシュートの記録を取り損ねる方向に邁進してしまうんですね。
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こういうことが起こっているんですよ、私たちは。
虫が嫌いとか、歯医者が嫌とかも全部これなんですよ、多分。
生まれついてそうだったとは考えられないので、
これをあまり良くないやり方で証明してみせたのがJ.B.ワトゾンですよ。
アルバート坊やが白いものを恐れるようになっちゃったわけですね。
あれは全く無理だったんですよ。
アルバート坊やが白いものを恐れるようになっちゃったわけですね。
あれは全くああやればああなるに決まってるんだけど、
そういう性格を形成することは十分可能で、
生まれつきの性格がそうだとか言ったわけじゃないんで、
やろうと思えばこれを逆戻しにする、私がやったのはそういうことなんですけど、
これを巻き戻していけばいいんですよ。
要はこういうことを口に一切しないということです。
そして選択を突きつけられた時には必ず逆張りに行くと。
例えば僕が原稿書くの気が重いとすると、
その瞬間に選択を突きつけられてしまったので、
もうどっちかしか選べないんですね。
この原稿に対してニュートラルな態度を保つということはできないんですよ。
嫌だと思ってやらなければ、そういう現実に向かってしまうんですね。
以降ますます原稿は嫌になっていくはずなんですよ。
逆にそれをやって気分よく終わらせることができると、そっちに向かえるんですよ。
どっちかしか選べない状態ってのがあって、
だから私はタスクシュートでプランを立てちゃダメだと思うんですね。
特にこういうことを性格っていう問題にしちゃいそうだと思ったら、
絶対これをやるべきじゃないと思うんですよ。
自分に突きつける機会は減らせば減らすほどいいはず。
増やせば増やすほど勝っちゃうじゃないですか。
勝っちゃったらもうアウドなんですよ。
一方、より嫌いな方向に自分を向かわせてしまうので、
以降もう一回同じ問題に直面した時は、
さらに厳しい選択を背負われることになる。
この選択がどんどんエスカレートした先に神経症があるんですよ。
これはもう確実だと思うんですよね。
どんな神経症にせよですね。
だから本当に辛いんですって言うじゃないですか。
なぜガスの元栓を止めるのに100回とか確認しちゃうのが本当に辛いんですって言うでしょう。
これが言うのは当然なんですけどね、ここに問題があるわけですよね。
これを言ってしまったらまたそこで選択を突きつけられてるわけです。
私はもう本当にこれに耐えられないんです。
どうしても戻っちゃうんですって誰かに訴えて、
ああそうですかお気の毒ですねって言われたらもう勝っちゃうじゃないですか。
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この瞬間に一段強化されるんですよ。
こういうのをやめないと面倒なことになりますよ、どうしてもね。
だけどある線から先は厳しいので、そこでカウンセラーが登場してくるわけですよね。
そこでお金を払うっていう、新しい現実を作り出すために現実を動かすしかないんですよね。
ただで見てくれてもいいっていう話を昔かわいかよ先生もしょっちゅうされたみたいなんですが、
こういう心の苦しみだから、ただで見てしまうと必ずその人は訴えにかかるじゃないですか。
その時に現実を一歩も動かさないでカウンセラーに向かってひたすらブチってそれを聞いてもらったら、
現実が強化される一方ですよね。
一向に自分が引き返していくというか、
これは結局引き返せるのは自分一人なんで、他の人は引き返させることは絶対できないんですよ。
首に縄をつけてガスの元線の方に行かせないってことはできるんだけど、
心の問題なんで、行きたいというふうに思って行かなきゃダメだって思っている限りは、戻ったことにはならないんですよね。
恐竜神経症はわかりやすい例なんだけど、これはあらゆる神経症でやっぱり出てくるものなんですよね。
この番組でもおなじみの、平気で嘘をつく人たちの最初に出てくる人がまさにそれ。
それを訴えるわけですよね。
私は弱い性格なんだと。これがダメですよね。
今の話の筋からしてもこれがダメじゃないですか。
私は弱い性格なんだって、この人たぶんあちらこちらで言ってる。
あちらこちらで言って、ああなるほどなんて言われた瞬間に勝っちゃうわけですよ。
そうするとその人は弱い性格に向かって日々邁進し続けてるわけですよ。
弱くなる一方ですよね、これだと。
どうにもならない。
だから何だっけ。
カシを渡れなくなったわけですね。
力強を渡るというのが、
力強を渡っている最中に崩落するという想像をしちゃうので、
力強を渡らなくていいようにうんと迂回して、
2時間余計に家に帰らないと。
もう完全に神経症なんですけれども、
そういう事態に陥っていて、
カムセラの先生に言うわけですよ。
なんとかしてくださいって。
なんとかしてくださいって。
そういう事態に陥っていて、
カムセラの先生に言うわけですよ。
なんとかしてください。
橋を渡っても大丈夫だと言ってください。
このやり方がいかに無理かと。
橋を渡っても大丈夫だと言われるという選択は、
つまり自分が弱いという方向に一歩向かうんじゃないですか。
だから橋を渡っても大丈夫だと先生が受け合ってくれるという方法では、
絶対この問題解決しないわけですよね。
畳から見れば、特に専門家が見れば、
これはあまりにも明らかなんですが、
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本人にはどうしても理解できないわけです。
先生が一言言ってくれさえすれば、
多分橋が渡れるようになるのに、
どうして言ってくれないんだというわけですよ。
でも、このやりとりはマシなんですよ。
ただ止まって話を聞いてもらったり、
うなずいてもらったりするよりは、
まだ惜しいものとしているという段階では勝てていないですからね。
これが非常に大事なんですよ。
私はそのことを知識である程度知っていたということもあったのと、
直感的になんとなくということもあって、
なんとか頑張ってはいたんですよね。
タスクカフェとか、タスクセラピーとか、
その他諸々でですね、目の前で訴えられるわけですよね。
エクセルのこのごちゃごちゃした表を見るだけでも、
自分は発達障害の怪我があるからね。
非常に目がチラチラして、無理なんだと。
だから私にはどうしてもタスクシュートは無理なんだと、
切々と訴えられるわけですよ、目の前で。
割と遠くからいらっしゃった方とかにね、
切々といかにそれが無理で、
無理なツールをあなたは私に使えと言っているかということを訴えている。
なじいているわけですよね、言ってみれば。
ここで納得してしまうとですね、
そういう話に納得する人はいっぱいいると思いますよ、周りに。
でも私まで納得しちゃうと、
その現実がその人にとって紛れもない現実になっていくじゃないですか。
あなたはそういう人なんだからしょうがないですね、
っていうのは実に簡単なことなんだけど、
私にとっては持ち出し何にもないんですけど、
相手の人にしてみればですね、
そうだ、やっぱりそうなんだってことに絶対なるんですよね。
確信してしまいますよね、絶対私には無理なんだと。
まあそれでも構わないですけれども、
ただ、僕からすればそんな現実はないはずなんですよ。
まあこれはですね、専門領域に踏み込みかねないので、
いやそんなこともあるんだって言われるかもしれないんですけど、
私はそこでやっぱり同意したくないんですよね。
そんな現実があるっていうことにしてしまうと、
その人がいざ使いたくなったりした時に、
相当のハードルになると思うんですよね。
ここでのやり取りっていうのは結局、
その人が自分にとってはこういうものは無理だという、
小さな安心感をちょっと確保するという程度のことでしかないので、
つまり破傷だっても大丈夫だと先生が受け合ってくれるという、
レベルの話でしかないので、
どうせまたもう一度同じような問題にぶつかるに決まっていると思うんですよね。
自分を弱くするということは、
いろんな現実に適応できないという方向に、
ここにストイックなものが差し込まれてくるような気がするから嫌なんですよね。
そしてその話に、こういう話はどうしてもなりがちなんだけど、
私はそうじゃないんです。
私からすると、根性を出してタスクシュートに立ち向かえと言いたいわけではなくて、
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別に使わなくても見なくても全然構わないと思うんだけど、
生まれつきの性格とか、何かの神経的な何かという、
決定的な何か法則みたいな、
その人が生まれる前から、生まれつきというのはそういう話になってしまうんですよね。
生まれる前から何か遺伝的な、運命的なものによって決定されている事象によって、
タスクシュートというものに自分は立ち向かえないとか、取り扱えないという風に運命づけられていると。
そういう先に決まっているものの上を、ただ自分は歩いていくしかないんだという観点を、
観点というのかな、そういう自分が生まれる前から、
そういう現実の上を生きていかない方がいいんじゃないのかなって思うわけです。
これはあれなんですよね。
サルトルが実存主義といったのを説明した時の話なんですよ。
実存が先か、本質が先かって話なんですよ。
サルトルは、人は本質によって決められたものではないってことを繰り返し言ってるんですけど、
ナイフの製造業者は、ナイフを作る時に頭の中にナイフがあって、
そのナイフというものを実際に作り出す。
だから本質が先行しているようなもんだけど、
人間というのは、人間とはこういうものとして設計されて、
それによって人間というものがこの世に生み出されるわけじゃない。
あれは神を否定してるんですけど、こういう人間とは、
こういう本質が先行しないと言いたいわけですよ。
人間は生まれた時から自分の本質というものはなくて、
だから実存が先行するって言うんですけど、
生まれた時には本質というものはなくて、
その本質に沿って生きているわけじゃないと。
この逆を平気で言うっていうのはやっぱり、
僕はどうかしてないかなって思うんですよね。
どんな些細なことで当たっても、
つまりそれって自由を失うじゃないですか。
要するに私たちは、
火の基線を100回も確認したり、
20キロも離れたところから迂回して帰るのが嫌で、
陸橋を渡りたいのは自由にやりたいからですよね。
そんなことするの嫌じゃないですか。
だから困ってカウンセラーのところに行くわけですよね。
タスクシュートだって使わない。
自分で自由に選びたいと思うんですよ。
なんかその運命づけられた何かのせいで、
自分はそれを使うということか、
生来許されていないんですっていうのを、
受け入れたくはない本音のところでは、
と感じるんですよね、私は。
だからどれほど面と向かって訴えられて、
これは世の中で気のせいなのかじゃなくて、
自分が自分が自分の中で
発達障害というものがあって、
そういうものになった、なった、あるいはなっている、
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そういう性質のものは遺伝的、または脳神経科学的に、
そういう性質のものは、この種のものは扱えないんだということに
決定されているから、
もっと優しいものに現実にしたほうがいいでしょう、
という話なのかもしれないんですよ。
だからこの話がストイックになるのは、
なんか僕は変だと思うんですよ。
歯が弱いお年寄りのために、
柔らかいせんべいが大事だった、必要だというのは
分からないわけではないです。
でもそれはストイックな話じゃないじゃないですか。
このように硬いせんべいがあったらダメだということになったら、
やっぱりそれは変だと思うんですよね。
私は生まれつき硬いせんべいは食べられないんですという人が、
食べないのはいいと思うんだけれども、
この範囲は極力狭くしておいたほうがいいと思うんですよ。
そうしないと不自由ですからね、どう考えても。
どんどんどんどん柔らかいせんべいのほうに向かなければ、
世の中には厳しすぎるというのは、
ある意味そうなのかもしれないんですけれども、
なんかですね、やっぱり小骨を全部ピンセットで抜いていくような、
抜いておいてからお魚を出すというのはですね、
時々お祝いでやるという話だと思うんですよね。
やっぱり自分で取れるようになったほうが便利だと思うんですよ。
で、なんていうんですかね。
で、これはやっぱりストイシーズムじゃないと思うんですよね。
本当にそういうのがあるないという議論は、
その専門領域でやっときゃいいとは思うんです。
あったし生涯にしても。
だけれども、ああいう非常にグレーゾーンの多そうなものに
自分をコミットさせるときはですね、
それによってこういう不自由というのは、
かなりの範囲に広がっていっちゃうというのは、
意識してもいいんじゃないかと思うんですよね。
どこからが思い込みで、どこからが現実なのかというのは、
そして思い込みの中で、
そして思い込みの領域というのは、思い込んでいる以上に広いと。
それがだから神経症の始まりだし、
フロイトに言わせれば人はそもそも神経症になる生き物なんだけど、
そうかもしれないですけどね。
でも結構ですね、この関係は狭められるんですよ。
意識的に逆張り逆張りになればですね、
そうすると大変だという話があるとは思うんです。
だから大変だと思ったところで、
無理しなくても全然いいと思うんですけれども、
最初からですね、という○○だから、
という○○な現実には適応できないということを
決めてしまわないほうがいいと思うし、
ましてそれをですね、決定付けるために
キーになりそうな人間を説得してまわるみたいなのは、
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やっぱりやめたほうがいいと思うんですよ。
これに同意しないのはですね、
私なんかはそうだと思ってるんだけど、
全部が全部ポジショントークじゃないんですよ。
これ、同意するのは僕からすると簡単ですよ。
そういうそうか、そういう病気なら当然ですよっていうのは、
実に簡単なんですよ。
どっちにしても、僕に別にそれほど利益、
金銭的利益の話も絡むから一層話が複雑になっていくんですけど、
まあでも私にしてみれば、
一人のユーザーが増えるか増えないかに、
そこまで全生活がかかってるとは思わないんですよ。
ただ僕はこれでパッとそこに同意しちゃうのは、
実に気持ち悪いんですよね。
絶対、大体かなり不誠実だと思いますしね。
自分はそう思ってないのに、
そういうのに簡単に同意しちゃうというのは、
自分だってもっともっとどうしようもない話ですけど、
静電気ってやつで結構悩んだんですよ。
手袋はめてないと金毛のもの触れないとか、
私金毛ガジェット好きだから困るわけですよ。
アメリカ行った時は本当困ったんです。
湿度低いんでバチバチくるわけですね。
あれの時に、静電気だから大学行けないんですとか、
静電気だからアメリカにいられないんですってことになったら、
結局日本に帰ってくることになっちゃうじゃないですか。
何とか頑張りたいところもあるじゃないですか。
簡単なことではないんだけれども、
こういう時にキーとなる人がみんな同意してくれて、
最後に何が残るかというと、
ものすごく不自由で行動半径が狭められた自分がそこにポンと残る。
ただそれだけになってしまうんですよね。
やっぱりそれを手に入れたいっていうことは、
人は本当のところないんじゃないかなって思いますね。