00:05
おはようございます、グッドモーニングボイスです。
4月の27日土曜日、夜の21時12分ですね。また、おはようございますとは関係のない時間に収録しています。
これは少し短めに、今日は切り上げたいと思っております。
4月も終わろうとしていて、私からすると3ヶ月チャレンジの第6期間スタートするというのが何よりもニュースなので、まだ3日ありますからね。
ちょっとうるさいようで申し訳ないんですけど、ぜひ5月の1ヶ月お試しコースだけでもお試しいただけると大変嬉しいです。
短めに済ますので、もうこれだけにしておきますけれども、
明日ね、書き上げ塾があるんですよ。
これも第10期になるのかな?10期ってすごいな。
10期ってことはもう5年もやってるってことになりますからね。
次回第11期の募集もいずれすると思いますので、そちらもぜひご参加ご検討いただけると大変ありがたいです。
これはですね、私自身はこれを習うようになったから文章を書く方向性がはっきりしたと言っても過言ではないので、
つまりそんなことは関係なく本を出せるわけですけれども、
まあでもあった方がいいと僕は思うのでね。
これはもう別にないから恥ずかしいとかいうことは、
まあ世間一般にはあった方がいいのかもしれないけど、
僕は別にそんなことはないような気がするんですよ。
知らないですよ、こんなことはですね。
なぜなら習わないでね。
し、一応文章を書けるようになるんで、
喋れるようになるようにですね、コミュニケーションというのはそういうところもありますから。
書き上げ塾はいいと思いますので、ぜひ参加検討いただけるとありがたいと思います。
別にこれもね、高いとは思えないんですよね。
そんなに3ヶ月チャレンジと値段的に実は変わらないんじゃないかと。
倍にして講師が2人になれば、もうこのぐらいになっちゃうんですよね、というぐらいなもんです。
今日は何の話をしようと思っているかというと、
ここまでずっと最近、今週してきた話の延長、ずっとそうですけどね。
いろんなお話がありますけれども、
でも二軸なんですよね。
私が今一生懸命喋ってるのは、つまり精神分析と言われているものはだんだん分かってきたんですよ。
それでも、僕がここで何喋ってるのか、なぜ分かりにくかったのかを喋ってるんだってことがね、
03:03
ついに分かってきたんですよね。
これをどこかで書いてもいいかなと思いますね。
精神分析って僕、最初にはかわいはやおさんの、ユング派のかわいはやおさんのお話も、
昔は聞きとして読んでて、あれは意味が分かるなと思ってたんですけど、
半分だけ意味が分かって、後の半分はほぼ誤解だったんですね。
ていうか、よく分かってないまま読めちゃうところが彼のすごいところなんですね。
でも、フロイト、特にフロイトはさっぱり分からなかったんですよ。
はっきり言ってさっぱり。
それに和をかけて分からないのがグラインという人の本で、
たまたま僕はそれ読んでたんだけど、
本当にさっぱり分からないゆえに分からないってどういうことだよってぐらい分からなかったんですよね。
これが、よくよく考えてみると、
日本語書いてあるわけだから、もとは日本語じゃないとしてもですね、
そんなものはいっぱいあるわけですよね、世の中に。
なんで他のは分かる気がしたのに、あれはさっぱり分からなかったのかということが、
最近ようやく分かってきた。
要するに、私は今までなんか不意に分かるようになって面白くなったってところあったんですけど、
それにしても分かんなさすぎてないっていう。
僕たぶん最初に読み判断を読んだのは高校生の時なんですけど、
それからなんだかんだと言ってもですね、
たぶん15だと仮にしても、
25までは全然分かってなかった。
35までもよく分かってなかった。
40、どういうこと?
25、35。
20年ぐらい分かってないんですよ。
それっておかしいじゃないですか。
なんかこう、もっと遥かに分かりにくそうなものもこの世の中にあるじゃないですか。
例えば行列のケイリー・ハミルトンの法則とか、
あれよく分かんないものだと僕は思うんですよ。
分かるって人には分かるらしいんですけど、
僕はあれは全然、何のためにああいうことをやってるのかは、
高校で数学をやってた時、ずっとよく分からずやってました。
問題は解けるんだけど、やってることの意味はよく分からなかったわけですね。
でも、それとは全然違った意味で精神分析は分かってなかったんですよね。
でも、なんで分かってなかったのかも分かってなかったんですよ。
それは割と最近までそうで、
僕この番組で一生懸命精神分析とはこういう感じの話ですを喋ってるつもりでいたんだけど、
違うなって思うようになったんですよね、最近。
精神分析の人にこの種の話をしても多分あんまり取り合ってくれない気がするんですね。
それはなんでなのかも最近少し分かってきたんですけど、
彼らはこういう話には多分ほとんど興味ないんですよ。
精神分析をするってことと、この理論の概論をつかむことは、
する人にとっては大事なんだけど、
される人にとってはさほど大事じゃないんですよ。
でも、される人は何をされるのかは知りたいじゃないですか。
例えば、結局、歯医者さんに行って何されてるのかって、
痛い目にあったとしてもよく分かんないんですよ。
06:00
今、麻酔打たれてるんだなぐらい分かってもですね、
結局よく分かんないじゃないですか、あれ。
何やってんのか、歯石取ってんのかとかね。
今、水。あれ、水だって知らない人も結構いますから。
あれ水だよってお伝えすると、
結構安心して知的取りとかいける人もいらっしゃるんですよ。
だから何されてるのかって分かんないんですよ。
でも分かんなくてもいいじゃないですか。
歯医者さん的にはとにかくこういったノリじゃないですか。
でも分かりたいじゃないですか、される方は。
そういうことってあると思うんですよ。
精神分析もそういう意味で、受けに行く人は分かりたいのかもしれないけど、
そもそも受けに行く人ってほとんどいないから、
誰も一人分かろうとしないっていう、この不思議なね。
これが僕がよく思うところの精神分析については2つあって、
1つは中身で何をするか分からない。
2つ目は、それを取り巻く状況もよく分からない。
そういうものって流行らないと思うんですけど、
しかも流行らなくていいって話になってくると、
これはもう存在しないものになっていくと思うんですけどね。
最近その辺がちょっと変わってきて、
だから僕は山崎隆一さんはそういう状態よろしくないっていうことで、
本音も多分そうでしょ、カネの場合は。
本音でそう思っていらっしゃって、精神分析のある引き方っていう本を書かれたわけですけど、
あの本の中には中身についてあんまり書いてないですよね。
あくまでも取り巻く状況について、2つ話をしなきゃいけないんですよ。
つまり1つは中で何してるか、これが分からない。
2つ目はそれを取り巻く状況もさっぱり分からない。
それを取り巻く状況について話している人と書かれている人と、
その中身について書いてある本っていうのと、2種類あるわけですね。
で、私が喋ってるのはそのどっちでもないんですよ。
中身について私は知らないから喋れない。
それを取り巻く状況についてはますます知らないから一切喋れない。
でもそれを取り巻く状況についての本を紹介することができるっていうのが1つでしょう。
これがだから山崎さんの本ぐらいしかでもないんですよね。
取り巻く状況について他に分かりやすく書かれている本なんて、
僕が知る限り一切ないです。
あの2本の状況ですね。
で、中身についても僕はよく分かってるわけじゃないから、
よく喋ってるつもりでいて、実はそこほど喋ってないですよ。
ここで僕が喋ってることってのは、これはもう間違いなく言えることなんだけど、
私はなぜあれが分からなかったか。
これについて喋るためにはある程度は分かる必要があるじゃないですか。
僕はこれを話す必要があるし、これこそが実は精神分析について
ド素人でも喋れる最大の有意義なポイントだと思うんですよ。
これだけは分かってる人にはあんまり喋んない気がするんですね。
仕事の外の話だし、喋って得になることもほとんどないので。
僕もないんですけどね、別にね。
でも一応僕はこれを喋る人がいないとやっぱり
09:00
これ流行らないんじゃないかなって最近は少し思うようになりました。
本当のところは分からないですけどね、これについてはね。
ただ私がなぜ分からなかったのかだけは分かってきました。
私がここで喋っていることのほとんど全部は
なぜ精神分析は私には分かりにくかったのかについてなんですね。
これは喋っていいだろうと。
これを私が喋る権利がなかったら、本当に関わる意味全くないですよ。
私が精神分析がなぜ分からなかったのかというのは
えーとですね。
これはですね、結局言葉で話せる以前の話を
言葉で話そうとしても難しすぎるからなんですね。
で、言葉で話す以前、私は
言葉って心を用いないと実は喋れないじゃないですか。
AIはそうしないんだけど、
AIはだから僕は言葉を喋ってるのかどうか疑わしいと思うんですよね。
喋ってるように見えますけどね。
喋りたいとは思ってないわけじゃないですか。
何かを伝えたいというのもないわけですよね。
だからあれは問い合わせがないと答えが出てこないんだと思うんですよ。
でも私たちって違いますよね。
私たちは問い合わせがなくても一応ほらほらこの
まさにこのポッドキャストがそうなんですよ。
問い合わせもないのに僕はベラベラ喋ってるじゃないですか。
これは自分の中の対話があるからですね。
例えばなんで精神分析が私分からなかったんでしょうという問いがあるわけですよ。
それに対する答えはさらっとは出てこない。
まして精神分析が分かってないときには出てこないんですよ。
いやわけ分かんないからな。
そうしか言えないじゃないですか。
なんかペニスばっかり出てくるんですけどみたいな話になっちゃうんですよ。
とりあえず喋れるほどのことはないわけですよね。
でも分かってくると分からなかった理由が分かってくるわけですよ。
でそれが非常にやっぱり新鮮なんですよね。
自分の心のことだから。
自分の心のことが書いてあったにもかかわらず一つにはそれが認められなかったから。
いや私の心の中にはペニスとおっぱいばっかりあるわけじゃないしな。
幼稚園児じゃないんだから幼稚園児ってそういうの好きですよね。
なんでなんですかねっていうのが一つ。
幼稚園児がみんなこういうのが好きだとすると精神分析は結構正しいってことなんですよ。
精神分析というものはおっぱいとペニスばっかり出てくるんですよ話の中に。
でそれは幼児の心と関係があるんだと言ってるわけですよ。
そしてそのような時の言葉って無茶苦茶じゃないですか。
幼児って意味不明のことを連発しますよね。
あの時心の状態どうなってるんだっていう話は語りようがないですよ。
で私はあらゆる意味で正しいと思いませんけど、
12:03
フロイトが幼児期見望というのをものすごく問題にしたのは夢分析を読むと出てきます。
なんで私たちは2歳以前の記憶が全然ないのか。
言葉が操れないから。
彼が言ったことはやっぱ正しいと思うんですよね。
言葉が操れるようになる以後にエディプス期というものが関係してくるんだと。
まあエディプスコンプレックスですね。
関係してくるんだと。
この話も多すぎ正しいと思うんですよ。
つまり言葉で何かが語られているってことはエディプスを超えているぞってことになるわけですよね。
フロイト的には。
で私はエディプス期以前の話には第一に興味が持てなかった。
で第二にちょっと気持ち悪かった。
そして第三に結局よくわからなかった。
この3つがあったから精神分析の話はさっぱりわからなかったわけですよね。
いやもうおっぱい欲しいと別に思わないしな。
ていうか今ついついたら気色悪いじゃんっていう。
でも私はそこで止まっちゃってたんですね。
なんで気色悪いのっていう問いが発生してなかったんですよ。
誰も聞いてくんなかったしね。
でなんで気色が悪いのかっていうのは結論っていうのかな。
私の中での一つの結論として。
だからこれは私の中での結論だから必ずしも精神分析科の人がこの話をしても興味を示してはくんないわけですね。
精神分析の場で話せば興味を示してくれるんですよ。
この違いが職業人としての彼らの一つは倫理になるんだろうな。
もう一つは本当に多分興味が持てないんでしょうねっていうことなんですね。
で例えばなんでおっぱいを私が今母親のに吸い付こうと。
母親のにですよ。
好きな人のとかではなくてね。
そうするとなんで気色悪いんだろうって考える。
それが禁じられているからですって答えは
良い線一点だと思うんですよ。
今ならね。
これがわからなかったんですよ。
いや気色悪いって止まってたんですよ。
思考停止なんですね。
そこで思考が停止している。
なぜ停止しているのかという問いがなかったんですよ。
今はあるわけです。
というかフロイトは通ったんだと思うんですよ。
なぜ気色悪い。
なぜそこで思考は止まるの。
で通っていくと思考以前ってものが始まるわけですよねそこに。
思考以前にそれが始まり
思考以後には気持ちが悪い
禁止されたという風に感じるとすると
じゃああなたその思考が止まる
思考が止まる
なんていうのかな。
逆から見ると
そのまさに言葉が発する瞬間に禁じられたんじゃないですかっていう
一つの答えらしきものが見えてくるじゃないですか。
不思議ですけどね。
あなたが言葉でものを考えられるようになり
それ以降の記憶がおぼろえながらあり
3歳児から4歳児以降のね
自意識ってものが物心とか言ったりしますけど
芽生えたりする
その直前に禁止されたんじゃないの
15:00
っていうヒントが出てくるわけですよ。
これが精神分析の始まりとは言わないまでも
一つの重要なファクターになっているのは間違いない。
誰が禁止したんだ。
誰がそれを禁止したんだと。
なぜ禁止したんだと。
なぜ気色悪いんだと。
次から次へと問いが始まるじゃないですか。
私がそれについて考えるのは気持ち悪いんですけどって言ったときに
なぜそれについて考えるのが気持ち悪いんだと。
なぜそういう欲望が禁止されたんだと。
それが禁止される直前までは
ものを考えられなかったんだ。どうしてなんだと。
次から次へと浮かび上がってくる話があるわけですよ。
3歳から4歳のはざかりきに
突然何かを思って何かを望んで
それが禁止されるような出来事があって
なかったと思うんだけどね。
禁止されざるを得ないような何かがあって
つまり息子と母親が男女の中になっては
まずいような何かがあって
そのことを意識できるようになったちょうどその頃に
それが禁止された。なぜでしょう。
っていうそういう話。
これは僕はなるほどなって思いますね。やっぱりね。
そしてその時禁止されてしまったがゆえに
ヒカルゲンジの物語がそうじゃないですか。
あれもっと小切れになってますけどね。
ヒカルゲンジは禁止されて隔てられてしまいますよ。
だってお父さん天皇陛下だもんね。
それはそうですよね。
天皇陛下の愛人に手を出しちゃって
まずいだろうっていう。
一本違うとそこで殺されちゃいかねませんよね。
だからですよね。
だけどヒカルゲンジはそれに固着しちゃったじゃないですか。
フロイト流に言うとあれ固着ですよね完全に。
フジツボに彼は固着してしまいましたよね。
そこにいつまでも留まってしまうと。
だからフェテシズムみたいなものって
そういうところから来るんですよ。
あの時あの人ああいう格好してたよねみたいな。
そういう話だという風に捉えていくわけですよね。
フロイトっていう人はね。
だけどそれはヒカルゲンジの話の中で
ヒカルゲンジは完全にそれに
自意識の上に乗っけてましたけど
でも彼の無意識に近いところもありましたよね。
彼はフジツボそっくりの人を次から次へと求めていって
最後の最後はかなり頓珍感な人にまで向かっていきますよね。
女三宮っていう人ね。
フジツボっぽいかもしれないっていうね。
もうあんたその当時で言うとほとんど老人に近い状態なのに
フジツボっぽいかもしれないっていうたったそれだけの理由で
そんな年が離れた人のところに行っちゃいますか
っていうところに行っちゃいましたよね。
そういう話ですよねあれはね。
すっごい恐ろしく欲がけてるなという。
その固着で彼はあんなにドンキホーテみたいになってるんだけど
実は彼全然ドンキホーテになりたい人ではないように見えますよね。
たった一人が欲しいっていうタイプで
しかもそれ手に入れてるのに固着が止まってないという。
つまり僕はあれすごいよくある話だと思うんですよ。
18:01
ギャンブルにしてもどんなものの依存にしても
手に入れても続くじゃないですか。
普通に考えればおかしいじゃないですか。
フジツボとの関係が禁じられましたと。
それはわかる。
フジツボとの関係が禁じられたんだけど
彼はそれを乗り越えて行っちゃいますよね。
殺されてもいいから行くぞみたいな。
あの辺の狂気ぶりがPSポジションをよく表してると思うんですよ。
全然欲打つポジションに彼は留まることができない。
あの人それなりに出世して立派な人になってるんだけれども
思いっきりPSポジションになって
ほとんど狂気の世界に踏み込んでいくわけですよね。
殺されてもいいんだみたいな。
全然殺されちゃまずいだろそんなことでって思うんだけど
彼はそれは全然いいわけですよ。
だから人気があるんでしょうね。
だけどもとにかく欲打つポジションに彼は留まれる人ではないわけですよ。
全然彼は欲打つ的になかなかならないですもんね。
元気いっぱいですもんね。
非常に想的なものを感じられる。
その想的っていうのは彼のマニックなものを
どうしても思わさざるを得ないですよね。
だから読者もめちゃくちゃ書き立てられるんだろうと思うんですけれども。
で、そういう風にしていって
しかし狂気の果てに結ばれるわけですよ。
だからそこで満足できていいはずだと思う。
僕もあそこでいやここで達成だけされるだろうと思うんだけど
彼はそこで満足できずにさらにその後も進展していく。
でも大抵そうですよね。ギャンブルする人も。
いやたまにいるじゃないですか。勝ち越した。
そこで終われそうなもんじゃないですか。
そんなにやばい目に合いそうになって
でも勝ち越して大金ゲットしたんだから
そこで達成してよしよしということで
ギャンブルから足をきれいに洗うみたいに
そうはいかないんですよね。
その金全部失うまでやるって話の方が大抵普通ですよ。
あれ非常に固着ってものをよく表していると思うんですよね。
そしてそれはやっぱりなぜそうなるのかというと
意識で止めることができないから。
つまり言葉で言って止まる領域にないからだと思うんですよね。
言葉ではいやもう藤坪を手に入れたんだからそこで満足しましょうと。
とりあえず行くの。危険だし。
飲食買いますからみたいな。
言葉ではこう言えるじゃないですか。
でも俺は行くみたいな。
そうなってくるとその欲望っていうのは多分
意識でコントロールできる外にあるわけですよ。
っていうのは無意識にあるって言ったらいいと思うんですよ。
なぜ無意識にあるのかって言ったら
それは2、3歳児の頃の欲望とか
そういう風に自分が言葉として認識できる以前のものとしてあるからだと。
で、私はそういうことがよくわからなかったわけですよ。
でも今はこの精神分析というものをやっていくとですね。
自分の幼少時の頃のことをめちゃくちゃよく思い出すようになるんですよね。
そしてその中にはですね非常にこう
21:01
あ、あの時俺危なかったなみたいなのが出てくるんですよ。
で、その時の親との関係。
親はその時何というだろう。
例えば自分がすごい危ない目に会いましたみたいな時。
あるいは自分が非常に嫌な目に会いましたみたいな時。
かつあげされたとかね。
あるんですよ、僕にはそういう経験が。
かつあげされたとかいう幼少期の体験を思い出した時。
親はその時私に何を言ったかと。
そういうのが私にとって対人関係の中ではね。
すごく強い影響を持つんだってことを思い知らせてくるんですね。
だってあの親が嫌嫌をかつあげされてそれは大変だったねって言ってくれるのと
お前何やってんだと。
ボクシングジム行けっていうのと全然違うじゃないですか。
それまでの親が優しくても厳しくても違うじゃないですか。
こういう体験に対してどういう態度を取ったかによって
私がそれをどういうものとして捉えるかは大きく変わるじゃないですか。
私は大きく変わったんですよ、確かに。
それが私のつまり対人関係というものを形作っていく。
今だとですね、ちゃんちゃらおかしいわけですよ。
父親とか、私にとってはすっごい父親っていうのは
強そうで偉そうだったんですけど、
強くも偉くも偉いんだけどね結構ね、組織の中では。
強くはないんですよ彼は、別に全然。
これをボクはすごく誤解していた。
つまり私は父親が強いと思ってたから
父親が怖いものだと思っていて
その父親を投影する相手は大抵怖かったんだけど
つまりお父さんぽい人を怖がるっていう習慣がついちゃったんですけど
ここにさっきの女三宮にまで足を踏み込んでいく
手を出してしまう光源氏の固着と
全く同じようなものがあるわけですね。
彼は女三宮に藤坪宮を見ちゃうわけじゃないですか。
これは固着であり投影であり、そして投影同一化であるわけですけども
でもなかなかね、女三宮は藤坪のようにならない。
で、藤坪のようにならないから
ああいう悲劇が起こるわけですよ。
なんか他の男とくっついてしまって
ついには黒い衣を着てね、髪を下ろして出家しちゃうと
実はそっくりですよね、やってることがね。
実は。
そしてなんだか知らないけど
趣のある女性になるとかわけわかんないこと言ってんだけど
投影同一化っていうのは
あの辺すごく上手に書かれていてびっくりするんですけれどもね
こういうようなことが
これがこの分析解釈が正しいかどうかわからないですよ。
でもこういうようなことを書き立てられているうちに
例えばこれが投影同一化なんだ
なるほどこの話ってよく書けてるんだなっていう話を
わかってくると
フロイトがなんでわからなかったのかがわかってくるんですよ、私に。
私こういうことに興味がなかったんですね。
でも興味が持ててくると
興味に向こうするようにして
私の無意識を思い出させてくれるんですよ。
私は父親が強いと思い込んでいた。
あいつ全然強くねーのに強いと思い込んでた。
24:01
だからいつまで経っても父親というものと喧嘩しても勝てないと思い込んでいた。
非常にナンセンスなわけですよ。
今あのじいさんを見ていると
いやこいつ一発蹴ったら死んじゃうでしょみたいな
別に蹴って殺してやりたいとか思ったことは一回もないんだけど
でも一発蹴ったらもう骨ぼきっといっちゃうよねっていう
弱々しいじいちゃんなわけですよ。
そういうことがわかってくると
あ、なるほど。この誤解を私は他人にもしてたんだと。
この誤解を自分の特に父親っぽい
なんかちょっと若干威勢がいい子男みたいなのに
いちいち投影して
いちいちそういう人が怖いと思っていて
思っていると相手は強い人として振る舞い始める。
これが投影ドイツカーですよね。たぶん。
で、こういう話に精神分析をやったり
カウンセリングをやっている人が興味を持たないのは当然で
これは完全に私の主観的世界の話をしているに過ぎないからなんですね。
そして私がこの主観的世界を
こういうふうに見るのは当たり前なんだと思えるようになってくると
なぜフロイトが私にはさっぱり理解できなかったのかってのが
すごくよくわかるんですよ。
それは他人の話だったからなんですね。
だって他の人がですね
自分のお父さんのせいでお母さんと関係できない。
興味ないんですよ。そんな話に。
よっぽどうまく書かれないと。
紫シュウは書いてくれるように書いてくれる。
あれですら、うわぁかわいそうに紫の上かわいそうだなとは思ったり
して私は歓喜を余ったりしたけど
基本他人事でしたからね。
だって全然私と似てませんもん。
あのヒカルゲンジとかめっちゃモテてたしね。
だから他人事なんですよ。
どうしてもどこまで行っても他人事なんです。
引きつけて考えられるようになるためには
よっぽど引きつけて考えるだけのフレームワークを
用意してくれるっていうことが信じられないと無理ですよね。
ようやくこの歳になって
分かってきたことがいろいろ出てくるのは
人生経験が増えてくるからっていうのが一つと
どれほど人生の世界が違っていても
あんなめっちゃモテるやつと
私のようにめっちゃモテないやつは
全く似てないと思っちゃうんだけど
そんなことはないんですよね。
彼にとってのサイキックリアリティは
結局彼の人生を固着に満ちたものにする。
あれめちゃくちゃ美容によっては大変ですよね。
彼は別に鈍器奉典になり、さっきも言いましたが
なりたかったわけでは全然なくて
彼はただ、要するに幼少期だった光源氏が
結びたかった人と永遠に結ばれない話なんですよね。
ただしそれは真的現実の上での事実であって
実際には彼は結ばれてるし
何ら不自由のないところまで
彼だから漫画の中の話ですけど
どっかで言ってましたよね
原文にもあるんだろうと思うんですけど
どうして私は幸福になれなかったんだ
幸福になれていいはずの人生だったのに
あれは非常に精神分析的ですよね。
27:00
ああいう話は精神分析では
必ずと言っていいくらい出てきます。
境遇的には何も不自由ないのに
幸せではないとか
幸せを全く感じられないとか
フロイトの言葉、ビオンの言葉なのかあれは
フロイトの言葉でもあると思うんですけど
私はあれは名言だと思うんですが
あなたの不幸というものを
ありきたりの不幸に変える
要するに取り返しのつかない不幸だと
本人は思い込んでいるものがあるわけですよ。
フジツボのミアと結ばれなかったとかね
それ以外のことは
もうどうでもよくなってしまうんですよね。
天皇に準ずるところまで行けたとか
愛人何人もいるとか
そういうあの時代の人間として
圧倒的に恵まれていて
他の人の不幸より
全然彼の不幸ってどうでもよさそうなんだけど
ヒカルゲイ人にとってはそうじゃないわけですよね。
あの不幸一つでもうたくさんなわけです。
で、後のことから
いくら何を得ようとも
幸せになれなかったという
そういう結論になってしまうほど
ひどいんです。
ああいう人こそ精神分析受ければいいんですよ。
ってことが分かってくると
精神分析って
なるほど、だから俺には分からなかったんだ
ってことが分かってくるってことなんですね。
私も自分の不幸を
他のあらゆる不幸より不幸だと思ったんだけど
何のことはないんですよ。
父親との確執なんてなかったんだけども
父親に絶対かなわないと思い込んでた。
どうでもいい。
他の人から見ると
滑稽極まりない不幸が
自分にとってはなかなか重大な意味を持ち
それゆえに就職活動はできないわ。
会社に勤めることもできないわで
結局早く一生をニートで過ごしそうになるほど
致命的なものにしそうになったんです。
それはただ父親が私に対して
多分父親の権威みたいなものを示して
粘り腐りなかっただけ。
すっごいしょうもないじゃないですか。
このしょうもなさで一歩間違うと
人生を全部ダメにしかねない
っていうところまで来ちゃうんですよね。
だから
あなたの取り返しのつかないレベルの不幸を
ありきたりの不幸に変えるというのが
精神分析だってのは
とってもいい話だと私は思う。
いやこれはむしろどうでもいいことだよね
ということになればですね
たちまち会社には勤められるし
引き込み辞めることもできるし
多分普通に生活することが
簡単にできてしまうわけですよ。
私はこの話を仕事術に持ち込みたいんですよね。
ゆえに
サンチャルやってるわけですね。
ここのところは話を展開させてもらってるわけだけれども
幸せを用意するとか
影響するっていうよりは
こっちの方が実態に近いと思います。
カウンセリングってものはですね
その不幸は
不幸かもしれないけど致命的ではないということ。
その不幸というものを
30:00
あなたにとって致命的にしてるのは
サイキックリアリティに過ぎないってことですよね。
非常に矛盾した言葉です。
何度も言いますけど。
だって心的なものは現実じゃないじゃないですか。
イリュージョンが現実だって言ってるようなもんなんで
幻想現実みたいな、そういう言葉ですよね。
このサイキックリアリティ。
でも人間はサイキックリアリティがリアルだと思い込む生き物なんですよ。
その分正気を欠いてるわけです。
みんなその分多少は
頭がどうかしているわけですよ。
なぜなら頭がでかすぎるからですね。
頭の中で暮らしているから
サイキックリアリティ、心的現実が
現実だと思うんですよ。
だから私はバカだと思われてるんじゃないかとか
私は嘲笑われてるんじゃないかとか
そういうことが気になり始めると
どことん気になってしょうがなくなったりするわけですね。
あるいは食べることは悪いことだと
そういうサイキックリアリティを信じ込むのですね。
食べさえしなければ私は痩せてきれいになって
人生は多分勝手に素晴らしい男性が寄ってきてくれて
勝手に素晴らしく上手くいって
今やってすごく大変な因数分解とかも
一切勉強しなくても大丈夫になるだろう
そういう話になっていって
だから食欲が生まれたら
それは全部もう腐ったものだから
腐ったものさえ自分は食べさせてやればいいんだ
みたいになっちゃうという
そういうところまで行きかねないわけですよ。
それもまたサイキックリアリティですよね。
そんな現実はないんで。
で、他人のだとこれがすごく変に見えるわけですよ。
他人がそういう風に食欲を扱っていて
ろくでもないものばっかり食べてるんで
あの人本当になんかわけわかんないことやってんな
みたいに見えるんだけれども
自分が閉じまりしているかどうかを
3回も6回も確認するのは全然おかしくない
だって泥棒に入られたらたまんないじゃん
っていうことになる。
これは多分食事のことで困ってる女の子から見ると
あの人頭おかしいんじゃないかってことになる。
これが他の人から見ると
サイキックリアリティに動かされている人っていうのは
正気を完全に欠いてるんだけど
自分の目でも自分の主観では
これは少しもおかしなことではないんですね。
だから他の人が笑ってるんじゃないかと思うから
外に出られないとか
他の人にバカにされるかもしれないと思って
ツイートもままならないっていうのも
他のあらゆる人から見ると
全くのところ
腐ったものばっかり食べるのと
同じくらい行動としてはおかしいのですけれども
おかしくは見えない。
このことを何らかの意味でですね
お互いにお互いで確認する必要が
たとえカウンセラーと言えどもあるから
訓練分析ってものがあるんですよね。
訓練分析というのは
訓練のために実はやってるわけじゃないってことですね。
多分スーパーワイズは永遠につくんじゃないかなって
私は思います。
システム上
これを我々は主観なんで
33:01
主観だけでは多分外に完全には出られない
ジャクソンのようにならないと
一切は空ですみたいな
あそこまで行って初めて
客観と主観がほぼ一致するっていう状態に
入れるんでしょうけど
普通はそうはならないわけですよね。
この客観と主観の一致って言い方は
すごい間違ってますけどね。
デカルト以来の西洋哲学の間違いですよね。
客観と主観の不一致と一致っていうこの考え方。
私たちはサイキックリアリティに生きていると
だから固着もあるし
投影もするし
したがって投影ドイツ化もすると
投影ドイツ化が一番問題ではありますよね。
作った通りに現実を作っていってしまうのに
思い込んだ通りの現実というものを
出現させていってしまうという形を取るので
食事は悪だっていうことにして
他の人にも過食だって言わせるようにして
お医者さんまで過食ですからって言わせるようにして
薬を飲み始めて
食欲というものが悪だっていう世界を出現させるわけです。
私もそういうことをしてきたわけですよ。
だからお父さんが怖いんです。
だからかつあげされました。
だってかつあげしてきた大人はお父さんみたいでした。
と言ったらお父さんが
お前ボクシングジム行けってことを言うわけですよ。
完全に投影ドイツ化で
創作した世界が出来上がっていくわけですよ。
お前がお父さんを怯えるのがいけないんだって
怯えさせてるお父さんが言うわけです。
完全に投作なの。
創作の世界。
私は幸いにもそんなボクシングジムとか行かずに住んだわけだし
行くのに強い抵抗を
当時強い抵抗というのはサボタージュという形で出たんだけれども
示すことができて
その分私は正気を保っていられたんですよね。
その話どっかおかしいと
幼な心に思ったわけですよ。
ほんと行かなくてよかったと思うんですよね。
行ってボクシングが得意になってたら
その分も私は正気を返すと思う。
こういうことってのが分かりにくいんですよ。
分かる人には簡単に分かるのかもしれないんだけど
非常に分かりにくいと私は思うんですよね。
ある程度健全な家に育とうと
かなり不健全な家に育とうと
サイキックリアリティが本人を取り込んでしまうというのは
多分免れ得ないことなんではないかなと
最近思うように間違いなくなりました。
だから私は最近どっちにしても
だからこそカウンセラーとか分析家
他のいろんな何たらカウンセラーの人も
みんないかにも興味を持ちそうな話に
全然興味を持たないのには
十分わけがあるとは思います。
やっぱり親が本当に困った人で
っていうのはよく分かるんだけど
親が全く困った人でないとしても
あまり変わらない事態は
割と簡単に進行するっていうのが
現実なんですよね。
この環境が問題なのか心理が問題なのかっていうのは
多分永遠に平行線をたどるんですけど
心因なのか環境因なのかって話
36:02
でもやっぱりどうしてもですね
人間にとって大問題でかいんで
環境はすこぶる問題あるんだけれども
例えば子どもに食べさせないで
栄養失調になるとか本当に問題があるんだけど
でも十分な栄養を与えられているにもかかわらず
心的現実が狂っていくというのは
残念ながらいくらでも起こりうる話なのでですね
うちはだから私は何度も言ってるんですけれども
親は健全だったんですよ。非常にね。
私は虐待されたとか
親がどう考えてもPSポジションが長すぎたとかは
思わないんですけど
そうは言ってもいろんな形で今のようにしてですね
幼少期の子を掘っていって掘っていって掘っていくと
ザクザクザクザク出てくるんですよ
いやー親の処置はいちいちおかしかったなと
でもしょうがないんですよ。だって20代ですもん
あの時のうちの親を。私だったら20代だったら
もっとダメだったな。絶対思いますけどね
だからあれでいいんですし
あれが平均レベルを遥かに上回っていいんですが
ダメなんですよ
これを環境院なのか心院なのかっていう
意味がない感じがやっぱするんですよね
だからどうしたって
親の処置が正しければ
もっとベターになったと思うんだけれども
とはいえ多分その可能性はほぼ皆無だったんで
やっぱり自分で何とかするよりは良くないんですよ
これを言うと自己責任論みたいに聞こえるんだけど
僕は多分そういうことではないような気がするんですよ
これは自分で何とかするしかない感じがしますよね
自分の心の問題として捉えるより他ないなという
それにしちゃひどい目に合うじゃないか
って言われればそうなんだけど
でもそんなこと言ってるとやっぱり反出生主義になってしまうような気がする
産まなければいいっていうような
育てなければいい。間違うんだったらみたいな
間違いまくるのは良くないでしょうって言うのかもしれないけど
間違いまくりますよね
そしてどれほど間違いが多いとしても
一応大人にはなることが
なぜかできますし
これがミニコットの言った話で
評判悪いっちゃ評判悪いんですけれども
どんな人でも母親にはなれますってやつね
どんな人でも父親にはなれますってのとよく似てるんですよね
一方でサイキックリアリティは
めちゃくちゃなものに大体なっていくものなんです
だって子供のサイキックリアリティなんで
全く私のサイキックリアリティはめちゃくちゃだったんですよ
だから思い出したくないんですよ
だからフロイトの本を読むと多くの人は
なんとなく不愉快になり非常に分かりにくい
という話ができるようになるために
ある程度理解する必要があるってことを
言っているっていうそういう話ですね