1. グッドモーニングボイス
  2. 藤山直樹3部作を読む【GMV 873】
2023-11-09 43:39

藤山直樹3部作を読む【GMV 873】

『精神分析という営み』『続・精神分析という営み』『精神分析という語らい』の三作です。

サマリー

藤山直樹3部作を読む【GMV 873】は、藤山直樹の本を読んでいる中で、藤山アナウンサーの精神分析産物学について考えながら、自身の悩みや問題について洞察していく話です。思春期の女の子の問題行動について考察し、その背後にある親子関係や罪悪感について探求します。藤山さんが行う親子面談で娘さんが衝撃の発言をすることで、親子の関係がさらに複雑化していく様子が描かれています。3ヶ月チャレンジでは、ナルシシズムについての藤山直樹の考えを読みながら話すことによって、自己評価や傲慢さ、不毛な話の繰り返しの問題を理解し、解決策を見つけることができます。ナルシシズムについての話は、ナルシシストとの関わりが不愉快な場合、自己愛の病理を考える余地があると語られています。

00:04
おはようございます、グッドモーニングボイスです。
11月8日、なんと今日2本目、水曜日の午後20時44分ですね。
20時44分に午後はいらないですね。
これは取っ手出しではなく、明日の朝にアップしようと。
すいません、多分これはですね、9日の朝にアップすることになるはずなんですけれども、
なんていうのかな、このところ、わりとちょいちょい忙しくてですね、
いろんなことを考え考え、あっちへ行ったりこっちへ行ったりしてやっているんですけれども、
明日の朝撮ることもできる気もするんですけどね。
思うところがあって、今日は朝撮って即座に実家に帰り、
今戻ってきたところで、お風呂入ったんだけど、そして出てからまたこれを撮ってると。
僕の頭の中では、このグッドモーニングボイス、
間に実家が挟まってまたグッドモーニングボイスみたいな、
そういうですね、わけの分かんない感じになってるんですけど、
この感じですね、今日その話をするんですけど、
藤山アナウンサーの、僕が勝手に、そういうのかもしれないけど本当に、
精神分析産物学の勝手に僕が名付けているものですね。
精神分析産物学の検証
ぐるぐる、だから3冊本を持って行って、電車の中で拾い読みしてたわけですね。
多分僕今悩んでるんですよね、ちょっとね。悩みだすとこれをやるんですよ。
悩んでる時はグッドワイブスで倉野野さんのセッション聞くんじゃないのかとか、
思われるかもしれませんが、それもするケースが多いんですよ。
でも並行してこれは絶対読むんですよね、私は。
これを読むことによって、何ていうのかな、何かの解決になるとかでは、
実はこの話微妙なんですけどね、ないんですよね。
僕が今悩んでるって言っても、悩みを解決したいとかいう悩みなわけじゃないんですよ。
まあやっぱりこれは中で言いますね。
本当におかげさまでまたちらほらと、チラッとなんですけどね、
19日のタスクシュートの対談について問い合わせをいただいたりいろいろあったので、
もう1回言っておきますが、倉野野さんと対談します。
これはテーマにタスクシュートが入ってきます。
もし当日ご参加いただけない場合、同額になりますけれども、
アーカイブも配信させていただくので、ご心配なくお申し込みいただければと。
当日来てもいらっしゃってもOK。
いらっしゃった方にはそもそもアーカイブ配信させていただくので、
いらっしゃった方は後で確認することもできる。
いらっしゃることができなくてもアーカイブ配信は見られます。
その場での質問というのは、その場にいらっしゃらなければできませんけれども、
対談内容はご覧いただくことができます。
そういうことでよろしくお願いします。
3部作、3部作って朝言っちゃったような気がするので覚えてませんけど、
朝ここのところ3日くらいかけて言っていたことは、
結構僕の中で全然ご挟んじゃっててですね。
やっぱね、この悩みって要するに、
これからノートとかをどうしていこうという悩みに近くてですね、
一心情の悩みみたいな話とはちょっと違うんですよね。
要はどうやることをいうふうにやっていきたいんだろう自分はってことなんだけど、
私はやっぱり最終的なところには、
大体いつもやってたところに落ち着くんですけど、最終的には大体ですね、
一番自分が深刻になってしまうあたりに着地するんですね。
これは良くも悪くもあるんですよ。
先に悪い点を言っておくと、やっぱりマーケティングに向かないなっていうことなんですね。
もっと一般受けする方向に浮上していけばいいんだけど、
どうしても僕は下に下にと沈んでいく癖があって、
人に言い出せるギリギリのところまで沈んでしまうんですね。
深みがあるとか言われることもあるんだけど、
深みは世の中にはいっぱいある人がいるんで、深切りはいいってもんじゃない気もするんでね。
そもそも深いのかっていうのも自分の中でありますが、
どっちかっていうとやっぱり表面的なところ、
この辺が良い塩梅なんだろうなってところをストーリーしてる雰囲気は心理的にあるんですよね。
良いと思ってやってるわけではないんですよ。
こうしないとモチベーションが続かないんですよ本当に。
あっという間に辞めてしまうような気が。
ていうかそもそも辞めてるんですよね。
つまりこのポッドキャストの中でも、
こういうのやります、ああいうのやりますって全然やらないじゃないですか。
それはもうやると言ったあたりで満足させられてしまっている欲望のために、
やるまでもなくなってしまってるというのがあるんですね。
結局何をしてきたかというのを最近この藤山さんの本をつぶさに読み直して、
分かってきたんですけど、何をしているのかというと、
結局は何言ってるんだろうこの人っていうような人たちの心理状態への洞察というのがね、
これがやっぱり精神分析なんですよね。
心理学って何だかんだ言っても社会心理学なんですよ。
統計学に近いんですね。
こういうことを何でもいいんですけれども、
例えばそうだな本当に何でもいいんですよこれは。
ファットだと思いつかないんですけど、
例えばコカコーラとペプシコーラの瓶で同じ飲み物だけ取り出して、
透明のコップで飲んだ場合と、ペプシです、コーラです、コカですって書いてある場合の、
ラベルをつけて飲んだ場合とでは判断の基準が逆転するみたいな、
こういう事件があったわけじゃないですよ。
今適当にデッチ上げたんだけど、これでも判断が逆転する人が多いであって、
ピタリと合わせられる人もいるわけですよね。
つまり統計学なんですよ、心理学というのは、多くの場合。
1対1みたいな心理学もあるんですけど、ほとんどない。
どうしても実験心理系の話っていうのは面白いけど、統計学なわけですね。
統計学だということになってくると、そこに洞察みたいなものはないわけじゃないんだけど、
そんなにやたら深い洞察はいらないわけですよ。
例えばこの話の中で、幼少期に虐待を受けた人はペプシとコカをきちんと食うわけできますとか、
っていう話は入ってこないんですよ。
あらゆる人、どんな人がやっても似たような結果になりそうな実験が、
やっぱり作為的に選ばれてきますからね、こういう実験の場合。
例えば有名な、心理実験をやるときには非常に人の興味を引きやすいスクループ効果ってありますよね。
字は黄色で書いてある赤とか、青色で書いてある黄色とか、そういうものを読ませるとですね、
どうしても我々は文字の色言ってくださいと言われても、文字の中身に先走ってしまう。
つまり字を読んじゃうわけですね。文字を読んでしまう。
色に着目しようとしても色は無視してしまう。
これは別に、なんていうんですかね、面白いのは思うんですよ、使いようによっては。
ただ、これはここを利用して、今なぜご飯を食べられなくなってるんでしょうとかいうこととあんまり関係ないですね。
つまり個人の問題なわけですよ。精神分析というものがつかもうとするのはですね。
個人の問題というのは、その人の心理的なストーリーとか、心理的な語り口とか言うまでもありませんけれども、
例えば最近眠れなくなったっていうのは会社で嫌なことがあったのか、特に何もないのか。
この2つは大きな違いがありますよね。
あるいは最近どうしても辞めたくて辞めたくてしょうがないんだけどコーヒーが辞められませんとかね。
で、そこを聞いていくと、例えば夫婦に激しい不仲とかいうのが見えてくるみたいな話っていうのは、
統計は全く取れませんよね、これは。非常に統計的ではない世界なわけです。
ただし、その人の世界の中ではある意味100%そういうことは起こってるわけですよね。
個人的な問題への洞察
不眠を訴えてずっと毎日毎日来て、トータルでは100万近いお金をカウンセリングにかけてるのに、実はその人は不眠ではありませんでした。
ということはあんまりないわけですよね。
だから、個人の心理学というのかな、精神分析は心理学ではないんですけれども、
そういう個人的な話というのは、個人的な話にこそ自分はやっぱり惹かれていくわけですね。
結局、統計的にこうやれば先送りはなくなるだろうということには、
どうしても僕は興味が続かないところがあって、
だから、課題というものを抱えている人と話し込んでいるうちに、
その課題はもう自分の課題みたいになっていくわけですね。
世の中一般ではそうは思われてないかもしれないし、多少の誤解もあると思うんですけど、
カウンセラーというのは説教師ではないんですよ。
あなたのこういう問題はこうこうこういうふうにするとうまく解決できますよって言って、
鮮やかに解決するっていうのはもう素晴らしいと思うんですけど、
それと精神分析は僕はなんだかちょっと違うような気がするんですね。
その辺のことが一番僕は読めるのが、精神分析の本というよりは精神分析のサンプルだなと思うんですね。
この話、どこに行くのかちょっと今のようにずるずるずるっとスタートすると分かりにくいと思うんで、
いきなり実例から行くんですけれども、
例えばパッと読むとですね、さっきの藤山さんのどれでもいいんですけれども、
例えば今朝も取り上げた俗精神分析の営みみたいなのを取り上げるとですね、
問題行動を起こしている少女みたいな話が出てくる。
思春期の女の子が登場するわけですね。
これは問題行動を起こしているわけだから、藤山先生がケアしたというか精神分析したというかセラピーをしたと、
そういうことになっているわけなんだけれども、
これはお母さんとの関係がこぐる難しいことになっている人なわけですよ。
で、こういうのを読むことによって、私は読むわけだけれども、電車の中でもしつこく読むんだけど、
読むことによって、私の問題と何も別にオーバーラップしているわけではないわけですよ。
私は思春期の女の子ではないし、今母親とややこしい関係を迎えているわけでもなんでもないし、
全然違うわけですね。
問題行動って言ったって外泊とか喫煙とかなんだけど、別に僕が今喫煙しても外泊しても何も問題行動だとは、
妻は怒り出すかもしれませんけど、基本的にそれは問題行動とは言わないわけですよね、私がやっても。
だからこの話と私の話は何にもオーバーラップするところはないんだけど、
これをしつこく読んでいくとですね、少しずつ確実に自分の問題というものに触れていくことになるんですね。
これをまず何というのかな、ある種の人にはお勧めしてみたいということなんですね。
私は結局ライフワークの界隈で精神分析を紹介するとか知ってほしいとかそういうことを言っているんですけど、
本当のところはそういう話ではなくて、読むってことで問題の解決はしないんですけれども、
問題の解決方向に足を向けることができる気がしているんですね。
そういう意味で僕はですね、やっぱり一番こういう話を読むならば精神分析の章例をきちんと書けているとなると、
精神分析の有用性
私の中ではですね、やっぱり藤山先生の本が一番そういうのが多いなと。
小井武雄さんの本にもそういうのがあるんだけど、もうだいぶ読みにくいんですよ。
数が多ければ多いほどいい部分があるんで、読みますけど、やっぱりこう、例えば手元にビヨンのそういうのもあるんですね。
ウォルフレット・ビヨン。
このビヨンのは翻訳ということもあって、一段と読みにくく、ほとんど意味がわからなくなっていくわけですね。
例えば、翻訳だとなぜ読みにくいかというと、代名詞が必要以上に日本語としては必要以上に出てくるんですよ。
彼は彼の友達の彼の元にみたいなことを書いて、一体彼とは誰なんだみたいになってしまうんですよ。
性格を汚さなきゃならないからああいう訳になるんでしょうけど、
日本語に直す以上もうちょっと何とかしてほしいんだけれども、原文にはひずとかひむとかがやたらあるんだろうなと。
考えざるを得ないんで、ここを省略する言語体系の我々とは根本的に何かが違うんで、すごい読んでてつらいんですよ。
そういう意味でやっぱり日本人の精神分析の人が書いている小例の本というのは、
それがよく書けているというかしっかり書かれている場合は、非常に僕にとっては有意義な感じがするんですね。
思春期の女の子の問題行動
例えばさっきの思春期の女の子の小例というものが非常に、東映ドイツかという言葉がやっぱり最終的なキーワードとしては出てくるんですけれども、
グッドワイブス、倉妻恵都さんのグッドワイブスでもおなじみの罪悪感というものが非常に暗躍しているんですね。
この問題行動を起こす女の子はですね、すっげえ問題児だというわけでは決してないんだけど、非常に深刻な部分があるなあって感じはさせられる人で、
要するに外泊とか喫煙とか表面的な問題は大したことないんですけれども、
例えば病棟の中でも、学校に行かずに病院にいるんですけど、すっごくきちんとした子のように振る舞うんですね。
外泊とかをしちゃうんし、喫煙とかもしちゃうんだけどきちんとした子のように振る舞っていて、
注意されれば割と従順に反応するんだけど、その後もくったりして何もしなく不機嫌にふざけ込む。
このままいくと結構めんどくさいことになりそうだなって感じがやっぱり随所にある話なんですよ。
この人、お母さんが、ネタバレってこともないと思うんで先に言ってしまうんですけれども、
お母さんがこの子を産むっていうことによって、自分の都合というものがこの子を産ませたんですね。
要するに結婚生活を何とか破綻させたくなくてこの子を産むんですよ。
こういうことをすると、親は必ず非常に手前勝手な話のようにも感じられるんですけれども、
必ず子供に対して罪悪感を持つんですね。非常に根深い罪悪感になってしまいますよね。
つまりこの子のためだという理由が全くないまま子供を産むから、完全に自分の、
しかもその自分の結婚生活を維持すると言っても全然ポジティブではないわけですよね。
放っておくと破綻して自分が捨てられてしまうという問題を防ぐために子を作る。
子を作ることによって、おいそれと夫は自分を捨てられなくなるだろうという、
この段階ですでに何かちょっとネガティブなのに、
これによって生まれてくる子供は全然自分が人生を楽しむためとか幸福に生きるためという
保証の部分からそれから欠けてるわけですよね、自分のせいに。
だからお母さんはこの子に対して非常に強い罪悪感を抱く。
人間というのは、この辺はグッドバイブスでおなじみですけれども不思議なもので、
相手に対して罪悪感を持っていると、この相手に対して非常に処罰的に当たるというか、
非常にネガティブな態度に出るんですよね。
これはよくあることですよね。我々も人間関係でおなじみだと思います。
相手に対してすまないなと思っていればいるほど、その相手に対しては良い態度が取れない。
良い態度を取ったとしてもすごく取ってつけたような態度になってしまって、
これが家族の間で起こると、その取ってつけた態度をずっと維持するのはほぼ不可能になって、
どうしても相手に対して罪悪感を持っている、自分の親なり子なりに罪悪感を持っていると、
その親なり子なりに対して少しでも悪いところを咎め立てしてやろうという、
すごく変な態度に出てしまうんですね。
ちょっとでもこの子がしくじったら、容赦なく罵声を浴びせるんですよね。
事実上、失責という調子で。
そうすると、なんとなく自分の罪悪感がごまかせるような感じがするんでしょうね。
これで親子関係がこじれなかったら、それこそ不思議なんですけど、
子供というのは、この辺はやっぱり僕はそれこそまたグッドバイブスなんですけど、
精神分析でも結局子供はけなげだという表現をよく取るので、生前説に立っている感じがするんですよね。
こういう風な戦で生み出され、こういう風な理不尽な扱いを受けても、
親子の関係と罪悪感
子供というのは結局のところ親によかれと思ってですね。
親がそういう理不尽に、どう考えても感覚的には理不尽な扱いを受けているんだけど、
お母さんはかわいそうだから、私頑張ろうみたいになるわけです。
でもこの頑張りはあまりにも無理なので、もともと無理なところから一段と無理なので、
頑張り続かないわけですよね。
頑張りすぎてしまって、お母さんの無気力などを受け止める能力は子供には原則ないわけですから、
基本的にお母さんのこの無限の無気力感と無限の罪悪感が結局のところ、
なんでお母さんの無気力になるかというと、
こうまでして頑張って子供を一人作っても、夫の愛情は全然綱に止まらないわけですよね。
夫はもう一段と冷淡になる。本当は離婚したいんだけど、
子供がいるからしょうがなく俺ここに行ってやるぜ的になってしまうんで、
お母さんはもう頑張った分だけ、ものすごく底抜けに無気力になってしまうわけですね。
そうすると、底抜けに無気力になっているお母さんを、
そんなにちっちゃい頃から女の子が支えていたのでは、
とてもじゃないけども、長続きはしませんよね。馬鹿馬鹿しくなってしまいますよね。
一生懸命お母さんの危険を取ろうとして、子供なりに頑張って、
学校でいいことがあっても、お母さんも目が虚ろだったりするわけじゃないですか。
よかったねみたいな感じで、あるいはそういう話をしても逆に失責されるみたいな感じで、
無気力が底抜けなわけです。永続してしまう。
子供が無気力になっていく。というのはこれはトエドイツカなわけですね、完全に。
押し込まれた罪悪感というものを引き受けてしまって、
もともと持たなくていい罪悪感を子供は持つことになる。
このお母さんとお子さんの親子面談という形を藤山さんが取るんですけれども、
親子面談の中で娘さんは爆弾発言を出すわけですよ。
お母さんは私を結婚生活を維持するために生んだんでしょって言うわけです。
こういうことが子供にはバレるんですよね。
お母さんはショックを受けると。びっくりしますよね、そんなことは。
だって私はあなたを、そういうことを言う親御さんもいるかもしれませんけど、
実は言わないんです、そういうことは。
私はあなたを結婚生活維持のために生んだのよとは言わないんです、さすがに。
言ってないだけに、なんでそんなことがバレちゃうんだろうということになるわけですよね。
で、結局こういう経緯を通して、これが精神分析の文脈で語られるんですけれども、
これ一体どうやって決着するのかなって思うではないですか。
私は絶対思ったわけですよ。だからミステリーなんですよ、やっぱりね。
これを読んでいて、頭が少々熱くなってきて読んでいるうちに、
そうか、なるほどこういうふうになっていくわけねっていう、
一連の流れが見えていくわけですね。
こういうところに人間関係のこじれとかややこしさとか、
世の中で一般に面倒くさいといって、大筋切り捨てられがちだったり、
スルーされがちだったりするのを、どこかで引き受けられていてですね、
その方法が知説だとか優れているとか問わず、どこかで誰かが引き受けていてですね、
自分がこの罪悪感なりを、要するに罪悪感というものは、
自分が持っているのはみんな辛いんで、無気力感もそうですが、
ひたすら人に投げ込む、特にこういうふうに激しく罪悪感のやり取りが行われているところでは、
思春期になると娘さんもですね、お母さんの罪悪感とか無気力感を一心に背負うのはまっぴらごめんなので、
投げ返すわけですよね。こうして些細なきっかけを使っては、
親子で激しくはなくても非常に非現な口論が頻繁に行われると。
藤山さんのアプローチ
これがやっぱり投げ合いなんですよね。
フラインは排出と呼びましたけれども、
だからこれを性的な部分というか、肉体的に最初フロイトカットというのはそういうふうに表現したんですよね。
今ではまずそうしないと思うんですけどね。
うんこを投げ合うという言い方をするわけですよ。
自分のところに入れておくのは嫌だから。
これは心理的なものを、身体的な比喩を使って、一応分かりやすくしているつもりでいる。
目に見えないよりは見えるほうが分かるだろうと。
これ言われても今の我々には分かりにくいですけどね、結局。
とりあえず排出し合うと。
こういうふうになる親子というのはよく分かりますよね。
これを藤山さんが引き受けると、今度はこっちに向かって投げられますよね。
藤山さんに向かって排出、排出になると。
ここで、でも藤山さんはお母さんとは違う態度になるわけですよ。
排出されて不愉快には当然なると思うんですよ。
無気力にもなっていくと思うんですね。
無気力というのはカウンセラーにはよくありがちな無気力で、
要するにいくら何を言って一生懸命頑張って何度も何度も面接しても一向に変わらないという態度で、
これは親に対して子どもがたる態度と全く同じなんですよ。
勉強しなさいと何度言われても、一向に成績が全く上がらずどんどん落ちる一方だと、
親が無気力になってきますよね。
この親の無気力というのは子どもの無気力を投影されていると、
排出されて押し込まれていると考えるわけですね。
事実そういうもんですよね。
そこには力が感じられます。
やっぱり不登校でも何でもいいんですけど、
学校行きなさいとか朝起きなさいとか一生懸命言っても、
いずれ全く無反応になると、親は完全に疲弊してしまう。
この疲弊こそが子どもが感じている無力感なわけですよ。
それの原因は知りませんけれども、
何回英語のテストをやっても赤点だよっていうのが、
すっかり無気力にさせたのかもしれないですしね。
だから映るわけですよ、そういう意味では。
藤山さんはこの場合カウンセラーなので、
その子の無気力というものがやっぱりどんどん投げ込まれる。
喫煙とかをいくら細かく注意しても、
一向に治らない、あるいは不機嫌になられるだけであると。
繰り返しそれをやられると、だんだん無気力になっていきますよね。
自分無力だなって感じがするじゃないですか。
そういう行動を改めさせましょうねって言われて、
親御さんなり、あるいは他の先生なりのところに紹介されてきたのに、
一向に改善させることができないという事態がずっと続くと、
だんだん無力になっていくわけですよね。
自分の力は及ばない感じがすると。
あるいは精神分析って役に立たないなという感じがするのでもいいのかもしれないけど、
そういうことが起こるはずなんですよ。
ここで、でもその人は投げ出さない。
これだけでも一つ違いますよね。
割と他の人は簡単に投げ出してしまっていたところを、
あるいは訳の分からない作戦で人生頑張ろうとする。
つまり、霊多になっていた夫を繋ぎ止めるために子供を産むみたいな、
非常に微妙な作戦を取るんだけども、
藤山さんはそうはしない。
そこで完全に無力化に苛まれそうになるんだけど、
同じことを一生懸命繰り返し言うみたいな、
これだけでも一つ違いますよね。
こういう多分営みを通じて、
人の心というのは動かされざるを得ない部分があるんですよ。
これは多分容易なことではないんですよ、しかし。
他の人がすっかり手を焼いてサジを投げて嫌になっちゃっているときにも、
同じように嫌な気持ちになるはずなのに、
同じような行動には出ないっていうあたりで、
だからこの人は見捨てないんだみたいなのを、
何らかの形でメッセージとして受け止めるようになるっていう、
修正浄土体験っていうような言葉もあるんですけれども、
そういった話なんですよね、きっと。
で、これを僕は読むっていうのの意義っていうんですかね、
皆さんにこれでお伝えしているつもりでいるわけですよ。
これをとにかく読むと。
それがどういう意味を持つのかとか、
修正浄土体験とか排出とかいう言葉がよくわからなくても、
とりあえずなんとなく、つまり先に精神分析を学ぶんじゃなくて、
症例から入っていって、とにかくこういう営みが行われているんだ、
この世のどこかでというのを知りながら、
しかもここには相当程度、
一般の世の中で流通している論理とかメソッドとは、
ずいぶん違った形の理屈でこういう行動が行われている。
例えば有名なPDCAみたいなのとは全然違うじゃないですか。
ナルシシズムの概念と読書の難しさ
この少女の行動を少しでも改善するべく問題のある行動に対して、
よくできたら報酬を与えてとかでは全くないやり方ですよね、これはね。
同じように無気力感を投げ込まれても、
同じようには行動しないように持ちこたえるとか、
ある種すごい地味ですし、
それでどういうことになるのかっていうのさえもよくわかりませんけれども、
でも何かそこには一定のロジックが働いているわけですよ。
フロイトを創始者としてめんめんいろんな人がいろんな形でやってきて、
知識もそれなりに記録して残されていた、
その転移とか逆転移とか、東映の五日とかもそうですけれども、
そういったいろんな知識があんまり世の中一般では聞かなく、
大学でも習わないようなロジックの下で実行されているわけですよね。
これを読む。
私が3ヶ月チャレンジというので実際にやっているのは、
そういうのを読む方もいらっしゃれば読む、
読むというところはスキップされるという方もいらっしゃるでしょうし、
逆に一気に一足飛びに精神分析を受けるという方も実はいらっしゃるんだけれども、
そういう方と一緒に私が理解したところをおしゃべりする。
これは実際分かりにくいというところがあれば、
とりあえず私なりの理解をおしゃべりする。
お伝えするとかいうのではなくてお話しする。
そういうことを繰り返していくうちに、
情緒に絡む、つまり最近になってつくづく言われている
人間関係のややこしさ、面倒くささというものに対して、
むしろ我々の知力を騒動員する方向をそっちに向ける。
別に何に向けたっていいわけじゃないですか。
頭なんてものはですね。
私はこれをそっちに向けるということをやっているのが
3ヶ月チャレンジだったりするわけですね。
だから分かんないわけですよ。
私に答えはないから。
私は精神分析家じゃないですしね。
分析は本読んでも分かんないって本に書いてありますから。
だからいいんだと思ったんですよ、最近。
これが分かるかどうかが問題じゃないなって気がしたんですよ。
問題はやっぱりことの本質は情緒にあって、
面倒くさいってそうじゃないですか。
人間関係なんて面倒くさいっていうのは
感情的な判決ですよね。
言ってみれば。
ここをこらえるっていう持ちこたえるっていうのが
精神分析でこんなに重視されているのであれば
結局自分らもやるべきことは同じだと思うんですね。
修正情報体験に自分を向かわせる。
どうしても無理だとなったら
カウンセリングなりを受ければいいってことになるじゃないですか。
そのためだとしても
これらを読んでおくっていうのは価値があると思うんですよね。
だってさっぱりこういうものの正体が分からないまま
受けられないと思うんですよ、やっぱり。
だからそういう意味でもなければ
これらの本が出ている意味も
ナンセンスなものになってしまうと思うので
いいと思うんですよ。
正しく理解するとかいうことでなくて。
これはそういうためのものじゃないんじゃないかな
というふうに思います。
どれだったっけな。
要するに三部作の中のですね。
精神分析という語らいかな。
さっきの営みとは違って
ちょっとタイトルがね。
お持ちでない人には
どれも曖昧に見えると思うんですけど
要するに3冊あって
精神分析という営みっていう
私の手元にあるのだと紺色の本があるんですよ。
属精神分析という営みという
これは白であるんですよ。
結構お高そうでかっこよさげな本。
もう一つ精神分析という語らいという本があって
これはちょっとグレーな感じなんですよね。
この第2章にですね
ナルシシズムの話が出てくるんですけれども
このナルシシズムの
藤山直樹さんのナルシシズムの
についてのなんていうんですかね
ちょっとした覚え書きみたいな
言い方を書かれてるんですけど
私これ読んで
ある種なるほどなと思うとともに
実に安心するところがあったんですね。
ナルシシズムって言葉は
カウンセリングでも心理学でも
一般用語にすらありますけどナルシシストだ
あれナルシシストですよ。
ナルシストではない。
で、ここで要するに
やっぱりわかんないんですよこれの定義が。
自己愛とかって訳されることもあるんだけど
そもそも自己愛でわかるかっていうこともあるじゃないですか。
自己愛ってどういうことなんだろう。
うぬぼれが強いって意味なんだろうかと。
で、自己愛の病理みたいなのもあるんですよね。
薄皮のナルシズムとか厚皮のナルシズムとか
そういう人格障害みたいなのでも出てくるんだけど
本当にいろんなところで出てきて定義はあるんですよ定義は。
なんか不愉快なやつだなってのはわかるんですよ。
こういうやついたらなんか実に感じ悪い感じがするなってのは
なんとなくわかるんだけど
他にはほぼ何もわかんない感じもするんですよね。
存在だとか傲慢だとか書いてあるんだけど
でも例えば
セラピーの中でこの人は
自己愛性の病理でって書いてあるんだけど
ナルシシズムと存在の問題
そんなに存在かこの人はっていう
なんか存在というよりはよくわかんないな。
ある種統合失調の人のよくわかんなさを
何か連想させるようなものを感じるけど
傲慢だとか存在だっていうそういうシーンは
よく出てくるんですけど
実際にその人を見るわけじゃないですからね本で読んでいて
よくわかんないなって感じだけが残るんですよ。
で、富山さんの本の中でナルシズムっていうのは要するに
病理だとか症状だというふうに捉えるよりは
その人を前にするとこういう気持ちになるよねっていう
捉え方をするべきだみたいなのが書いてあって
なんていうんですかね要するに
ある種一語一絵みたいな話なんですよこれはね。
やっぱりこれはつまりわかりにくい概念なんだな
っていうのがまずわかるわけですね一つは。
非常に面白い表現があって
もともとナルシスですよね
要するにギリシャ神話に出てくる
自分の姿を見てわーすげー美しいと思って
井戸かなんかに溺れてしまう
このでもナルシスさんがですね
うのぼれが強いってのはおかしいだろうっていうような意味で書いてあるんですよ
なぜかというと彼は本当にものすごく美しいんだから
そうですよねなんかこの辺非常に
あれっと思うところなんだけど
ナルシストってあの俗にもう
詞が一個足りないやつで言われてるのって
要するにある意味アホなくせに
自分は天才だと思ってるみたいなノリじゃないですか
でもナルシスさんはめちゃくちゃかっこいいんですよ本当に
だから俺めちゃくちゃかっこいいって思ってるのは正しいんですよ
これすごい大事ですよね
彼は現実系統の能力が低いわけじゃないんですよ
そういう専門用語的に言うと
現実の客観性はちゃんと持ってるわけです
誰が見てもかっこいい自分をかっこいいと思う
これ逆だったら問題があるじゃないですか
誰が見てもめっちゃかっこいいのに
俺すげー不細工だと思って悶々としているっていうのは
おかしいじゃないですか
そういうのに近い人って世の中にいますけどね
めちゃくちゃ優秀なのに私は本当に無能でみたいな
よくわからない独特の自己評価の低さで悶々としている人って
本当にいるんですけれども
あれですよ心の中では自分かなりできるなと思ってるんだけど
なんか叩かれそうだから私はすごい無能だということに
思い込もうと頑張っている
いわゆる自己肯定感問題がちょっとこれは違うと思うんですよ
一方でナルシスさんはめっちゃかっこいい人なんですよ
その人がめっちゃ自分かっこいいと思ってるってことは
妥当な判断なのであって
そのこと自体が問題なわけじゃないんですよ
でも彼は現実の自分の姿というものを知らないうちは
一撃としていたのに
見た瞬間にボレボレとして死んじゃうっていう
この実に独特の何かがあるわけですよね
このいつは僕はナルシスムってそういうことだろうなって
思うんだけども
うぬぼれが強いとか存在だとか選ぶってる
というのはある意味ではこれも
星山さんがその本の中に書いてるんですけど
語呂いの中で書いてるんですけど
二次的な問題なんですよね
エバっていて傲慢で嫌なやつだっていうのは他人から見ると
問題かもしれないけど
二次的な問題だということなんですよ
第一次的には自分の能力というものが
すっごい高かったとしても
そのことにボレボレとするっていうのは
どっかおかしくなってるよっていう話なんだと思うんですよね
つまり自分という世界から全く出られなくなってしまう
っていうのが
ナルシシズムっていうのが問題を引き起こすとすると
そういう時に起こるんじゃないかっていう話が
多分あるんですよ
そしてそこにあるのはですね
ナルシシズムと不毛な話の繰り返し
それって要するに
なんつうんですかね
未来が全くないというか
発展性が全くない
私のポッドキャストがしばしばそうなるんだけど
同じ話をぐるぐるしちゃうでしょ
で文章
裏園圭三さんとは
Good Vibesのほかに書き上げ塾やってるんで
ぜひお願いしますっていうのをここで挟んでおきますが
書き上げ塾でよく裏園さんがお話になる
一つに文章が展開していかないっていう話が出てくるんですよね
同じことをぐるぐるぐるぐる書いちゃうわけですよ
そういう書き手って現実にいますよ
プロの作家さんでもいますよ
この章結局前へ進まなかったなみたいな章を書いちゃう
ああいう問題が僕は
ナルシシズムの問題ってところに
含まれている感じがするんですよね
つまりなんか知らないんだけど壁に突き当たって
この人と話してるといつも同じ話が
しかもこれといった結論も出ないままだなっていう話になっちゃう方っていますよね
僕もあんまり人のことは言えないんですけど
僕は非常に自己愛的な問題抱えてるんだろうなって思うんですけどね自分で
つまりどうしてそうなっちゃうんだかよくわかんないんだけど
これ話がポジティブとは限らないんですよ
ネガティブな場合でもそういうケースってすごくあるんですよね
だからナルシシズムの問題ってのは僕は
ある種のすっごい傷つきやすさに対する問題
これって存在の反対側にあるじゃないですか
私が少しでも傷ついちゃダメなんだっていうのは
ある意味ものすごく傲慢じゃないですか
おかしいですよねそれっていうのは
私のことを誰かがほんの少しでも批判していたら
もう私は生きていけないみたいになるのって
本来的におかしいですよね
その人が優秀であってもおかしいし
優秀であればむしろなおのことおかしいような気がするんですよね
優秀だからこそだっていうことになるのかもしれないけど
この辺に自分の姿の美しさに気づいたとたん死んじゃうという話との
なんか関連性が見えてくる感じがするんですけど
こういうのが僕はですね精神分析の本を読んでいく
リアルにそういう人が登場するってことですよ
ナルシシズムな人ってのは
その人は確かに傲慢だったりもするんだけど
そういうことよりもこの人と話していると
すっごく多分またその話なのっていう話が長く続いて
前回と全く同じようなところに着地してしまう
それが精神分析ですからね
毎日のように繰り返されるわけですよ
不毛だなって感じが付き合う方は本当にしますよね
この不毛感を抱えて生きていくことの辛さってのを
ナルシシズムの人ってのは持ってるんだろうなっていう話が
ナルシシストの関わり
藤山さんの働いに出てくるわけですよ
これを症例とともに読むとですね
そうだこういう感じってあるわっていうのに突き当たるんですよね
こういう感じ抱くことって確かにあるわみたいな
ある意味シンバシの飲み会でもあるわみたいな
シンバシの飲み会に出たことないですけどね
あるんじゃないかなって感じがするんですよ
こういうところに僕が
3ヶ月チャレンジでも何でもいいんですけれども
セミナーでもいいんですけれども
この質問に答えてこう言っている話って
こういう堂々巡りのぐるぐる感みたいなのがあるなみたいな
その中でなんとなくこの話をされていると
不愉快な気持ちになるなみたいな
自己愛の人と接すると
多分そういうのにいや往々なく投げ込まれるんだけど
そこまで厳しくない場合
私の場合大体そこまで厳しい目には合わないわけですけれども
ある意味親と話していたりしても
そういうことが起こったりしますよね
なんかこう父なんかが私に対してはそうなところがあるんだけど
妙に上から目線でやっぱり親って来るじゃないですか
にもかかわらずそこに妙にネガティブなものが含まれている
上から目線なのになんか父親自身はそれによって
すごい俺偉くて気持ちいいわみたいなのではなくて
むしろ逆な感じになっているとき
この話を延々しているとお互いが妙に不愉快になってくるみたいな
自己愛の病理
そういう堂々巡りみたいなものに巻き込まれたとき
このナルシシズムっていうもの
つまり冬山さんがそう書いてるんですけどね
ナルシシズムっていうのは関係性の中
関係の中で現れてくるものなんだっていう
これは私はすごくなんというか
ホッとする感じがするんですよね
自己愛の病理ですって言われたときの
自己愛の幅広さを考えると
それじゃさっぱりはないんですよ
あの人はめちゃめちゃエバってますみたいな
そういう病気なんですみたいな話をされても
これってそれだけだったらすごく浅いんじゃないですか
そういう話では全然ないんだろうなって感じが
やっぱりするんですよね
自己愛って言われてるときの自己愛の
症例で出てくる人っていうのは
一番目につくのは存在差とかではないんですよね
なんかこう孤独な感じと不毛な感じと
この人とカウンセラーであろうとなかろうと
この人とやっていくっていうのは
辛いことだろうなっていう
その辛い感じが意識される
そしてそれが自分の中にも見出せる感じがする
ってのがやっぱり大事だと思うんですよね
そういうのを知るために
心理学っていうのよりも
はるかに人間心理ってものを感じさせられるのが
精神分析と人間心理
精神分析の本なんですよ
これはもうなんか理解するとか
ナルシシズムというものを定義として理解するとか
いった話では全くないんじゃないかという風に思うわけです
ありがとうございます
43:39

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