週5の実現と精神分析の難しさ
おはようございます。人生相談のための精神分析的ラジオ第1166回をお送りします。4月11日金曜日8時7分です。
ようやく今週は、週5がですね、実現できまして、まずはめでたい。
週5結構やっぱり、なんだかんだ途中抜け出したくなるというのもおかしいですけど、週5だったと思うんですけどね、私の認識に間違いがなければ。
私の中では週5をやってるつもりでおります。いや久しぶりにでもちゃんとできてよかったって感じがして、もう1回飛ばしたか?
あのもしかすると1回飛んだかもしれないんだけど土日やってたんで、もしかしたら2回飛ばしたかもしれませんけど、
今週土日どっちかやったような気がするんで、週5なんじゃないかと思っておりますけど、週4だったら別に謝ることはないんで謝りませんが、週4かもね、と思いました今。
はい、えーとですね、なんだっけ。
週5なんですけれども、これを毎週やっていこうと思っているわけですが、多分できるだろうとも思ってるんですけどね。
できないかもしれないけど、でもできなくはないだろうと。
ただこれってやっぱり、ただ私はここで1人で喋りまくってるだけで、何ら難しいことはやってないんだけど、これやっぱり精神分析の難しさというものの、軽く一旦には触れられるなと思うんですよね。
だってこれやるだけでも簡単じゃないのに、どっかにわざわざ出かけて行って、時間きっちりにして、人が聞いていて、
しかも場合によっては介入もされるという状況で、お金も払ってやるとは、これは大変だと思いますね。
エクスキューズの重要性
はい、まあそれの、あのー、ア系というか、簡易系というか、そう言ってはいけないんだけどそう言っちゃう系というのをやっていこうと思っているのが3ヶ月チャレンジの来期からなわけですね。
で、そのー、力動系というのは、まあユングとフロイトを足したような感じの、あの辺のことを言ってるわけですが、
まあ私はやっぱりさっきもね、新台湾という大きな表紙に見出しのついた、あのニューズウィークの日本版を読んでですね、
あのー、つくづくこうフロイトに対するアンチテーゼンが、フロイトからの潮流でもあるんですけども、生まれたわけですよね、結局。
まあもっと手っ取り早くやれないのか、もっとお金かからずできないのか、もっと早く終わらせられないのか、
あるいはもっとその意味不明の言動やめろよと、様々あるわけですね。
そもそもスーパーバイザーとかいるとか、まあいるんだろうなぁと思いつつ、なしでやってる私は何なんだって感じもしますけれども、
私は心理臨床じゃないですからねっていう、このエクスキューズは強烈なんですよ。
もう一つ、実は大事なエクスキューズがあって、私正規じゃないですからねっていうね、これも非常に大事なエクスキューズだなって最近思う。
まあ所詮エクスキューズとも言えますけれども、正規じゃないということを言っておけば、言っておけばというか事実、正規じゃないんだけど、
正規であるからこそ従わねばならないルールがある。
まあこれがエリフスですけれども、では正規でないならば自分のルールでやっていられるという、こういうことですよ。
結局ルールはあるんですけど、そこが人間社会なんですけどね。
人間は本能から隔てられてしまってますから、あの勢いで核ミサイルとか使うともう全てがご破産になってしまうんで、
このことを知っているから人間というのは、ルールというものを自分の上に置く。
ただしみんなの上にも置こうとするっていうね、ここになんか悲劇の始まりみたいなものがあるわけですよ。
心理療法のアプローチと限界
で、まあでもこれはいかにも合理的に思うのは人間ならではのことであって、こんなもの合理性も何もないと普通は思う。
まあそういうことをヘルマンヘッセは狼から見たらお笑い草だっての荒野の狼っていう本で書いてるわけですが、
あの
まあこの辺のことについて藤山直樹さんが体験生成の枠組みとか言ったわけですよね。
人というのはルールに弱いってことですよね。
ルールという体験をするようにできていて、ルールというのは意味があるんだと思うように作られている。
そういう体験生成の枠組みを持って生まれてくるから、ルールなんて知らんっていう人、ルールなんて知ったこっちゃねえっていう人が、
えーと気がつくとなんかこう、あのね、バイクの集団をまとめてこの俺のルールに従えと言い始めると。
そこに何の矛盾も感じないという傾向がまあ人間にはあるわけですよね。
気がつくとお父さんごっこをやってしまうという感じがあるわけです。
これやらないでね、あの長くインドの歴史とかを見ているとなかなか大変なことが起きるんで、
これなしには人間はやっぱりなかなかやっていけないんだよなというのはありますけれどもね。
で、えーっと、まあそういうような話をしてみたりしてみなかったりするわけですよ。
3ヶ月チャレンジというところでは。で、やりたいことは何なのかというのでも、まあ大きな目で見ればやっぱりアンチ精神分析なんですよ。
何がどうアンチなのかというと、同じことをせずに同じような成果を得ようとしているものは後から出てきたらすべからくアンチなんですよ。
つまり私は日コード療法もそういうふうに見てるんですね。アンチ精神分析であると。
合理的に話を進めたいとか、性的な話をせずに済ませたいとか、無意識とかいったものは扱いたくないとか、もっと行動を見ていきたいとか言うからアンチ精神分析なわけですよ。
それらは精神分析で一切否定されている発想ですからね。早く終わらせようとかね。この期限切らないですから。
切った事例もあるんだけど、だからあれはフロイトの症例の中では非常に誤大症例の一つですけれども、非常に例外的であり独特であり、日コード療法的なことが導入された瞬間なわけですね。
そういうものもフロイトは試して見てきているということになると思うんですよ。
私の3ヶ月チャレンジは何しろ最初から3ヶ月と期限を切っちゃってるんで、この瞬間からも精神分析では全くないわけですね。
どれほど力動的な発想を使おうと分析という名には値しない。なぜならば3ヶ月で終わる分析。少なくとも最初から3ヶ月で終えるつもりのある分析とかそんなものはないから。
もちろん曜日を毎週固定してないし、時間はなるべくお互い守るようにしようねというのはありますが、最初から料金3ヶ月分先に頂いてしまう。
いずれも分析的ではない。分析はその都度その都度払うんで。私精神分析的心理療法だから全然いいんですけど、自分が受けた時に
クレジットで払うこれはどうなの?って思ったんですよね。クレジット、うんこ感少ないですよね。お金はうんこですからね、力動の世界では。
やっぱりうんこを裸のまま渡すってところにその力動的な意味っていうものが見えるはずで、これカードになっちゃうとなんかちょっと小切れっぽすぎない?みたいに思って、何回か聞こうか聞く前から考えたんだけど、ついにその時は聞かなかったんですけど。
クレジット、まあでも僕はクレジットでしか絶対払いたくないと思ったから、クレジットで払わせてくださいと言ったのは私だから聞かなかったんですけど、クレジットありなのかって自分でクレジットにしておきながら思いましたね。
だいたいクレジットって借り入れしてるわけじゃないですか。向こうにお金は渡るんだけど、僕の懐はその瞬間は痛まないんですよね。
お腹が痛まないんですよ。うんこ出したら痛んでもおかしくないわけじゃないですか。
で、出ませんって時ももうあるわけじゃないですか。出なかったら来るなってことになるわけですけどね。
この辺のやり取りが、だから藤山直樹さんがね、あっちこっちで書かれてますけど、封筒に入れんなよっていうわけですよね。封筒に入れちゃダメでしょと。
で、松木さんがそれを受けて、それは当然封筒に入れたくなるでしょ。うんこなんだから。あれは下品なものなんだから。だから封筒に入れちゃダメなんですよとあっさり言ってのけていて、
この2人の関係ってなかなか不思議だよなって、いつもああいうのを読む瞬間思うんですよね。
あのいろんなところに随所にですね、あの2人の、そんな多くないんですけど対談見ると、なんかこう仲が良いんだか良くなくはないんだろうけど良くないんだかみたいな、そういう仲が良いとか悪いとかそういう問題じゃないんでしょうけれども、
非常にこう、うーんって感じがしますよね。うーんって感じがする瞬間が何回も出てくるという対談なんですよ。まあ余談ですけど。
で、問題はいっぱいあるんだけど、一つの問題は、でもなんで認知行動に私はちゃんと向かわないのかと、ちゃんとっていうのも変ですけどね。
正規になって認知行動療法をやるように少なくとも学んでいったらいいじゃんっていう話もなくはないんじゃないかなと、ないんですけども、はや3ヶ月チャレンジの中にはそういう声は一切。
誰もこれを求めてこないっていうのもすごいなって思うんですけどね。僕の回だから当然なのかもしれないけど、これはやっぱり驚くべきことなのかもしれないんですよね。
先々月ぐらい、もっと前、私、アツさんという方の夫婦関係学ラジオ、ポトキャストでやられていて、そのほか幅広く活動されていて、男性はですね、男性はですね、女性もと言ってもいいんですが、
とりあえず男性は、夫婦関係のことで真剣に悩んだら一旦ああいうところに、アツさんのところにお話しさせてもらったらいいかなと思うんですよ。
基本的に無料だったような、こういうことを適当に言って、将来有料になった時の場合困るんで無料とは言いませんが、でも無料でイベントとかもされてますんでね。
大事なことはですね、このお話が、例えばね、アツさんは別に精神力度ではないんですよ。でも近くなっていくに違いないなって思うんですよ。僕が話した体験からすでにそう思うんですよ。
私もそのアツさんに、夫婦関係について、だって夫婦関係の専門家だから、ちょっと無理してても夫婦関係の話をまず、悩みがないわけでは全然ないわけですからね。
お話ししたんですけど、まあ2つあるなと。1つは伝わりにくいな、実にということは感じました。
で、そもそも1回で同行するってことはできないと思うんですが、大体の人は1回で同行したくなるじゃないですか。だから、えーと、なんだっけ、大抵の面接は1回で終わるんだみたいな、そういう本もありますし買って読んだんだけど、なんかこうお金惜しかったなという毒語感が残りましたが、でもまああれは大事な話なんですよね。
インテークで終わってしまうんですよっていう、私は3ヶ月チャレンジやっててそんなこともないんだけどなって感じもするんですけど、まあ正規でもない人間がそんなことを言うのもあれなんで、インテークもしてるわけじゃないですしね。
ただ、ただですね、あの1回で終わらないというのは分かっていただかないと多分ダメだろうと。本読んで解決するはずがないということもやっぱり分かっていただかなければダメだろうと。
私もアツさんにお話しして、やっぱりこれの話の続きが翌日できるのと、もうできないのとじゃ全然話が違うなって感じはしますよね。
で、あのアツさんが先日以来、メールマガジンとか、ポッドキャストで誰かが何とかしてくれると思ってるうちはダメなんですよ、みたいなことを書かれていたりおっしゃってたりして、
この感じをそもそもしかし人に伝えられるものだろうかっていうのが、まず私の中には大きな問題意識として始まってくるんですよ。
人間関係の難しさ
私は人が何とかしてほしいと思ってたんだけれども、今でもどっかで思ってますけどね、思ってるんだけど、これを自覚したりそれを人に伝えたり言われた上でそれを自覚したりできるようになるためにはそもそも何がいるんだろうかねっていうのが悩みの種なんですよね。
これが伝わらない。簡単に言うと難しいってことなんですけど、簡単に言っちゃうと、めちゃくちゃ簡単に言っちゃうと、やっぱり私も相談を受けるようになって、LINE、そもそも自分がそういうことを言ってたよなと思うんですよ、倉園圭三さんにグッドバイブスの。
いや難しいんですよと。さすがに難しくはないんですよって。上手いんで、倉園さんはその間といいね、言うことといい、呼吸といい、上手いんで、これがやっぱ対面のいいところなんです。それでも1回じゃ無理だったと思うんですよね。何回か言って難しいんだってことを言ったんですよね。これはもう不意に出たんですよ。難しいなどと言えば、倉園さんに難しいをそのまま受け止めてもらえるはずはないっていうことぐらいは。
私はやっぱりグッドバイブスを読んで、彼と話していれば分かるんですよ。難しいですよねとは絶対彼は言わないんですよ。そんなことは分かっているのに出たんですよ。これが大事なんですよね。つまりこれはほとんど無意識から来てるんですよ。全意識じゃないんですよ。私は昭和48年生まれだって、これが全意識。思い出そうとして思い出してますよね。
倉園さんに、ここで難しいと言おうって思って持ってきちゃうのが、これが全意識から持ってきたんですよ。無意識から来るものってそうではないんですよね。いやいや難しいんですよ、倉園さんって言っちゃうんですよね。これが大事なんですよ。無意識から来てるから。そんなことを言うつもりはなかったっていうのが口をついて出てくるわけ。
で、そんなことを言ったって難しいですよね。それは分かりますとは言わないってことは分かってたはずなのに、この思考が入る前に口から飛び出した。これがものすごく大事だと僕は思ってるんですね。こうして初めて私がどれほど自分が難しいとこのことを考えているかが感じているからな。分かるんですよね。難しいからこそ人に何とかしてほしくなるわけですよ。
いやいや倉園さん家に来て奥さんに言ってやってくださいよグッドワイプスって言いたくなるわけですよ。つまり難しい。でも倉園さんならできるだろうって思ってる。これがあつさんの言うところの人が何とかしてくれると思ってるうちはダメだってことなんだけど、そう思いたくなるぐらい絶望してるってことなんですね。
この絶望感をまず誰かが捉えることをしなければ、なかなか進展させるのは非常に困難だと思います。私は夫婦関係学や夫婦関係を修正するという仕事をメインでやってるわけではないし、夫婦関係こそを修正するんだみたいにそういう最終目標を置いてないから、
この過程で事態が悪化しようと、大喧嘩が起きようと、離婚に至ってしまおうと、それはそれでオッケーなんだと今では思えるようになったんですね。今では。ここまで来るのに結構かかりました。それとグッドワイプスは別に両立するっていうのも今ではわかります。これはね、やっぱり時間がかかりました。私には。
私はこの発想はやっぱり力動的だと思っています。この発想を取らないのが認知行動両方的だと思うんですね。まあ、カイソがそうだから。第3世代である今の認知行動両方は、第1世代が行動両方的、第2世代は認知両方的、第3世代になってこのアクセプタンスだの、マインドフルネスだの、スキーマだのと言い出したと。
急速に精神分析に近づいてきたと思うわけですが、この発想を持つようになるということは結局ここに行き着くなって思うんですよ。時間切ろうと、週1回に設定しようと、なんであろうとですね。ただ私はやっぱりそうすればそうするほど力動を参照しなければならなくなる。
だからアンチテーゼなのに、そこに帰っていかなければならなくなるという、こういう運動の一環なんだと。私はどんどんどんどん力動寄りになってるわけですけど、最初の方はこんなに寄ってちゃよくないでしょうと思っていて、どっか認知行動両方的なものっていいなぁみたいに思ってたんだけど、最近はもうどんどんどんどん力動に寄ってってるんですよ。
昔はこんな寄ってちゃいけないと思うぐらい、つまりピッタリだと思ってたのに全然そうじゃないことに気づいて、まだまだ遠い道のりがあるみたいに思って、力動へ力動へと寄ってるんですよ。でも完全に同じものにはなれないから決してね。だからなんかその矛盾した近似値みたいなものがどんどんどんどん、あのあれですよ、反比例のグラフみたいなもんで、どんどんどんどん接戦になっていきそうなんだけど絶対接することはできないみたいな、そういうことを意識していれば、
当面はいいんじゃないかなっていうのが今の私の感じるところなんですね。で、まあその夫婦関係の話をしたかったわけじゃないからこういう話、どっちが脱線なんだって思われるかもしれませんが、
結局、まあ今日の今朝かな、ポッドキャストでアツさんがおっしゃってた通り、怖いんですよね。怖いということが怖いんですよ。怖いということが怖いって言っててもしょうがないんだけど、
例えば怖いってことがあるってことですね。で、抑鬱不安みたいなものを捉えてみてもいいんですけど、まあ例えば奥さんが口聞いてくれないところにしゃべってって完璧に無視されるのは怖いですよね。
だから怖いからできませんではダメなんだって話なんだけれども、ではなぜ怖いのか。これが1ですね。なぜ怖いのか。
認知行動と力動的アプローチ
2に、怖がってるのは誰なのか。この問いが僕はやっぱり立てなければどうしようもないと思うし、この問いを最も立てやすいのが精神力動的な考え方だと思ってるんですよ。
自明のように思うかもしれませんが、考え始めるといかにこれが自明でないかというのがわかってくるんですよ。
だからここから昨日もお話ししたような合議性で自分はできているっていう感じが出てくるんです。
仮に合議性ってのが理解しがたい、捉えがたい、私が長寿がなりに同一化してしまうんだって言うんなら、それはそれでもいいと思うんですよ。
もうどっちみちここは思考の及ぼすことだけで、ことは済まない。
この2つは大きな違いがあると僕は思いますが、でも対象関係のどれかの対象に私がなってしまうんだよっていう、どっちでも同じです、ある意味では。
同じようなもんです、こういう場合にはですね。何をあなたは恐れているのかなんだけど、何をじゃないな。
何をあなたは恐れているかなんだけど、そのあなたってのは誰なんだってことがそもそも、誰が誰を恐れているのか。
自明じゃんって思うんですよね、私たちは。私という夫が妻を恐れている、これは嘘なんです。
嘘である場合がおそらく多いと僕は思いますね。例えば私の場合は全然そうではない。この話を、あの
ホットキャストの中で私はアツさんとしてますね。夫婦関係学のコラボ会を聞いていただくと分かるけど、私はしてます。
私はそれが言いたかったんですよ。私は奥さんが怖いわけではない。
それはもう明らかなんですよ。じゃぶったらなんで問題なんだよって言われるかもしれないけど、問題は問題なんですよ。
なぜなら怖いような気がしているから。この怖いような気がしていることと怖いことはイコールでは結べないというのが、僕は少なくとも力動的だと思うんですよね。
私が怖いのは母なんですよ。 母を怖がっている私というのは今ここにいる私ではないです。
母を怖がっている私は、そうですね、少なくとも3歳の頃はものすごく怖がってたと思います。ものすごくね。
5歳の頃もやはりものすごく怖がってたでしょう。こんなに怖がらせるというのは問題だと思いますね。でもこのことを言いたいわけではないんですけどね。
5歳のあんたはどこにいるんだ。私の心の中の対象関係としているんですよ。 こういうことを
非常に簡単に、簡単では決してないけど、少なくともこういうことについて言及でき、検討でき、文献があり知見が溜まっている一番ある世界が精神力動なんですよね。精神分析なんですよ。
これを早期不適応スキーマとかに持っていかれてしまうと思考みたいな、思考の枠組みみたいになってしまう。
そういう言い方をしてもいいのかもしれない。第3世代の認知行動療法がやってるみたいにですね、そういう考え方をとってもいいのかもしれない。
これはナラティブなんですみたいな言い方をしてもいいのかもしれないんだけど、でもものすごく捉えがたくなるなとは思うんですよ。
これは思考だけではないような感じがそもそもすごくする。ブルブル震えてる私は思考ではなく、思考という感じはしないんですよ。
対象関係なんですよ。誰かと誰かの関係性というもの、関係というものが私の心の中に、なんていうんですかね、その力関係を持ってしまっているんですね。
で、例えば、もう一つ何を恐れているのかと言われると、私が起こることを恐れているんです。
私が起こることっていうのは何を言いたいのかわかんない感じもするんだけど、やっぱり私が起こることによって関係が破壊される。
で、その関係を破壊する、起こる人は誰なのか。私の母なんですよ。ただしさっきの私が母に怒られることが怖い母では今度はなくて、
私の父というものを両有してしまっている私の母なんですね。両性固有的な私の母なんですよ。つまりエリプスなんですよ。父親なんですよ。
母なんだけど父親なんですよ。これがそんな女とは別れてしまえというようなことを言い出すんですよ。ちょっと言い方違うけどね。
いつまでそういうことをやってるんだみたいな言い方なんですよね、どっちかというと。もうちょっと違うんですけどね、本当に。
らしさがあるんですよね。母や父が言っていた言葉。でも私ははっきりは思い出せない。はっきり思い出さなきゃなと思ってるんですけどはっきりは思い出せない。
ここにさらにいろんな意味があるんだけれども、私の場合はですね、先日夢に見たんでよくわかるんですけど、いじめっ子が出てくるんですよ。
で私はこのいじめっ子を頼りにしてしまうんですよ。いやもうこんなことやってらんないじゃん、家出ようぜみたいなノリですよね。
ヤンキーみたいな感じ。ヤンキーとはちょっと違うんだけどね。でこれはローゼンフェルドの言うところの病理構造体を作っていくわけですよ。
そいつはなんかなんかの頭みたいな。で僕は自己対象としてはそいつについて行っちゃうんですよ。家を出てしまう。これが相的防衛なんですよ。
これが離婚の構図なんですよ、私の中では。これを伝えるのは難しい。
そして、この状態を私が実際に奥さんに不意ってやられるとか怒られるという時に、この構造に近いものが私の感情を形成し、怖いになってしまうんですよね。
でこの怖いは結局今のようなナラティブを一言にまとめて凝縮したような感情なので、なのでとは言えないな。
でもまあそういう一まとめにすると怖いが一番近い感情だということになるんですね。なので奥さんに言うのは怖い。
でこれに対して何をあなたは恐れているのかという問いもいいんだけど、僕はそれではもう不十分だなって思うんですよね。
誰かに返すとなると、このぐらいの構造を持っているものに対して何をあなたが恐れているのかでは済まされないなって思っちゃう。
どうしても僕がそれを問おうとすると、問いとして口をついてしまうこともあるんだけどしまったと思いますね正直。
何をあなたは恐れているんでしょうって問いを出してしまうと、あなたというのは誰のつもりなんだ俺はっていうのかね。
スーパーバイザーの役割
でここであなたと言ってる私はそもそも誰なんだってこれが対象関係で出てこさせることのできる発想ですよ。発想が大事だと思うんですよね。
私は誰であなたと言っているこのあなたと言っている相手は誰のことを指しているのかと思った時に、もうばらけてくるんですよ。
私のなんちゅう心の中でというべきなのか頭の中で。でこのばらけてくるには回を重ねる必要があるし、ただ回を重ねてきてばらけるということは回を重ねればばらけるんだという想定がかかってくるから、
初回の人にはそこってしまいがちですけど、そこは私の未熟さなんですよ。
あなたは何を恐れているのかというのは、今の問いだったらナンセンスじゃないですか。私がそれを聞かれた場合、その聞く人が無能力だとか知識が足りんとは思いませんか。当然だなと思うんだけど一方で答えられないっていうのはあるんです。
私が恐れているのは私の母であり、恐れている時の私とは5歳児だった以前の私であり特に。
5歳児だった時の以前の私の時に父親も兼任していた私の母のファルスがあって、みたいな話になっていくわけですよ。ファルスを備えた母がいて、
それは父であり、その父はこのようないざこざみたいなものにいつまでも付き合っていないぞというルールを持っていて、というような構造があるわけですよ。
で、そんな家やってられないから飛び出せそうでと言っている、なんかこういじめっこのヤンキー崩れみたいなやつがいて、そいつのことを私は嫌いなんだけど、こういう時には頼りにしてくっついて出ていきたくなっちゃって離婚したくなる。
わかんないですよ、これを言われても。わかる人にはわかると思うんですが、わかってもらえる感じってあんまりしません。
だから難しいということになるんですよ。そんなことやってないでっていう学派の人はいっぱいいらっしゃると思うし、それはそれで私は納得します。
ただし、私は心の底ではこれをやってるっていうことを知ってるから、やっぱりこの話をもうちょっと付き合ってもらいたいっていうふうに思うでしょうね。
コミュニケーションの困難
と思う人が3ヶ月チャレンジ向きなんじゃないかとも思うんですよ。ただこれを最初に自覚していただくのは結構難しいんですよ。
内的対処関係というのは今回だけじゃないんですよね。本当はこの力道は動きを含む、行動を含むんですよ。
ドクトペンを書いた高階良子さんの内的対処関係の世界は赤い沼なんですよ。
血緑になっちゃってるんですよ。
例えば山田玲司って人が最近言論にも出てましたけど、ビーバージンっていうですね、私の悩みみたいなものをまっしぐらに取り上げてくれていた現代的な漫画家。
まあ今で言うと現代的はもっと先行っちゃってるけど、まあでも現代的な漫画家。彼のキャラクターっていうのはいつも内面の国会をやってるんですね。
特に男女がエッチできるかどうかみたいなところがある恋愛漫画なんで、もうここでエッチしちゃおうよみたいな、いやいやまだ早いでしょみたいなそういう内面の議論を展開してるんですよ。
まあモテない男がやりそうなことです。すごいモテなくて困ってるわけですけどね。
でもこの内面の議論って、これはこれで内的対処関係だけど、まあまあまだまだマイルドじゃないですか。
高階良子さんの世界に比べるとめちゃくちゃマイルドだと思うんですよね。
内面の対処の人たちは言い合ってるだけなんですよ。
比較的臆病な私とか比較的強気な私とか、そういうなんか良い活動と悪い活動のレベルを出てないんです。
でも高階良子さんの内的対処は岸坊人になって子供食い荒らしてるわけですよ。
で、お父さん役みたいな男の子は、まあそれがだいたいヒーローなんですけれども、だから少女はそれに恋してるんだけど、どう考えてもあれファサコンのお父さんなんで性的な雰囲気が全くしないわけね。
ペニスなさそうってことですよ、簡単に言ってしまえば。
あったところで立ちそうにはない。正義感だけやたら強いんだけど。
つまり少女の夢なんですよね。で、この男の子がどうやったって無理そうなんだけどその悪気を倒してくれるわけですよ。
でもこれはもう話し合いの余地は全然ないですよね。
いやいやその子供食べちゃダメだからさみたいな、そういうノリはないわけですよ。
で、私は精神力道というのは遥かに高階さんが正しいと思う。正しくはないけど、精神力道という時に言ってる力とはこういうもんだと思ってるんですよね。
対話の中から主体が現れるですが、その対話はもうしばしば成り立たなくなり、ほとんどこう直接コミュニケーションなんですよ。
つまり殴る、刺すみたいな、そういう世界になって走るみたいなね、直接コミュニケーションなんですよ。
ある種のコミュニケーションなんでしょうけど心の中で起きてることだから、会話にはなってないわけですね。
対話とはとても言えない。これを何とか対話に持っていこうぜって話なんですよ。
最初からビーバージンの山田レジさんが書くように、最初から議論してるんだったらだいぶ、だからあれは悪くて神経症水準だと思うんですよね。
精神病水準というのは、やっぱり悪気が空を飛びながら子供の心臓に噛みついて、それを飲み込み血だらけにするというような赤い沼な世界なわけですよ。
それがカゴメカゴメの歌に合わせて、なんか日本的な単調の雰囲気で、とても恐ろしくて薄暗い。
それが高階良子さんの内的対照関係の世界なんだなって、私は子供心にも思ったんですよ。
母は怒ってるが、夜帰れなくなってる私に怒ってるが、来てくれるもんなやっぱりってどっかで思ったんですよ。
高階さんってもしかすると来てくれないお母さんだったのかもとよぎったんですよ。
僕が多分9歳か10歳の時なんですよね。
それが内的対照とかもちろん知ってるはずがないんで、そんなことは一瞬ちらっと考えただけなんだけど、どうしたってやっぱりあれは自分のお母さんを指してるようには見えますよね。
ヒーロー、ヒロインは自分自身ですよね。
それはもう少女漫画読んでるとよくわかるんですけれども、つまりお父さんとお母さんの関係書いてますよね。
ヒーローはお父さんで、悪鬼がお母さんですよね。
だからなんか悪鬼を倒した後、わーよかっためでたいにはならないです。
なんかすごい寂しい、悲しいって感じがする。
これは完全に欲打つ状態ですよね。
つまり母を傷つけて壊してしまったってことですよね。
もともと壊れたような登場の仕方をしてますけれども、全然ハッピーエンド感が全くどこにもないわけですよ。
それがどうしてあの時にタイミングで書かれたのかは、ドクトフェン読んでるとよくわかるんですけれども、やっとこれが書けたぜみたいなノリがあって。
しかもそれが大いに受けたんで、高階さんはそこで完全に一息つけたと思うんですけれどもね。
お金も、つまり現実、二次過程として機能している上に、一次過程の課題も作品に消化させて、これを消化というんだと思うんですよ、フロイトは。
変換してるわけですね。
まあいい話なんですよ。
ただし話自体がいい話なわけではないんですが、これに比べるとやっぱり内面でディスカッションしてるというのは、もちろん現代的とも言えますけれども、まあその人がいかに正常であるかという心の中でディスカッションし、まとまったものを私として採用すると、行動として採用すると。
だけれども、それすら難しさは出てくるわけです。
だって同じ人がいつも勝つわけじゃないし、同じ人がいつも勝っても困りますからね。
こういうことは伝えるのに難しさがあるとやはり私は思うし、それを伺っている私にとってもやっぱり、結局のところ、これを分かるのは簡単じゃないと。
最近、時々口にすることもあるんだけど、気持ちは分かると思ってるけど、共感できているかどうかとなると、そうではないように、多分共感できているとは言えないみたいな言い方を3ヶ月チャレンジではさせてもらうことがあるんですね。
やっぱりこれは形状共感、自己一致の一致ってすごい大事で、一致してない共感をしたふりをするっていうことが、こういうシチュエーションではいかにもまずい。
現実世界ではやむを得ないからそういうことはしますけど、それは偽りの事故ですが、やっぱりこれはそういうふうに言うしかない。
恐怖と支援の必要性
ただ、分かる気がするっていうのも嘘ではないので、共感ができていないというのは結局、東映同一化というもので同一化されることだけでは共感にはならないと思うんですよね。
やっぱり殴られれば、いやー殴りたかったんだね、分かるよってのは分かります、それは。殴られるんだから。
あるいは、別に私のことが嫌いなわけでもないのに、もうなんか本当だめですよね、こんなことじゃすだきさんも、みたいなことを言われたと仮にしたとき、
いやもう明らかにこの絶望感と怒りが伝わってはくるんだけど、共感できてるかってなると、私も同じぐらい怒ってないといけないことになると思うんですよ。
共感なんで、同じ感なんで。そこまでいけてないなって感じはするんですよ。だから、いやそういう気持ちはよく分かるってのに留まって、これは分かってないってことなんですよ、要するに。
で、ここは難しいよなと。ここで私は誰かに共感してほしくなるんですよ。だからスーパーバイザーというものがいたらいいんでしょうねと。
でも一方で、ここで私は共感してほしいっていう、これこそまさに防衛同一化じゃないですか。私は誰にも共感されない課題を抱えている、悩みを抱えている。
ここで戻ってくるんですよ。さっきのアツさんの、私なりの悩みでいうと。奥さんが怖い。そしてこれは誰にも伝わらない。
確かに、人頼みであってはいけない。人頼みであるというのはつまり万能空想だってことですよ。アツさんなら何とかしてくれるだろう、どのさんなら何とかしてくれるだろうとか。
それって私の穴真ん中で勝手に作り出した、アツさんとかどのさんとか、なんでもいいんですけど、藤山直樹とかフロイドとかなんでもいいんですけど本当に、松木邦博とかね、の本に書いてあるんじゃないかと。
奥さんに、こう言えば大変だったんだねと言えば、相手は急に和らいてくれるとかは思いませんよ、もはや。
でもなんか、それこそ私のことなので、ここには奥さんの万能空想があって、万能空想とはこういうものだから。
30日かけてこういうアプローチをすることによって二次家庭に入ってもらうことができてみたいなことが書いてあれば、私だったら、いやこれは素晴らしいって思いますよね。
つまりそこに万能感をいただきます。
そういう万能感を捨てなきゃなんないと。
一旦抑圧状態に入るしかないと。
怖い。しかも自分で何とかしなきゃなんない。しかも自分では何ともできない。
ここまで来なきゃいけないと思うんですよね。
このところに、僕は認知高度は知りませんが、ポジティブ心理学とは切れるって思うんですよ。
何とかできるとは思えないってところまで来なきゃダメだと、私は思うんですよね。
だって怖いんだから。バンジージャンプしろよ。絶対大丈夫だから、死ぬことないんだからって高所恐怖症の人に言って落としたら、もうそれ犯罪ですよね。
落ちて死なないにしても。つまり怖いんですよ。
怖いということは死ぬってことではないんですよね。
事故るということでも怪我するということでもない。怖いのは怖い。
で、その怖さは人には理解できない。
恐れの理解
バンジージャンプで飛べる人が足に紐くっついてるのになんで怖いのってことになってしまう。
それは多少スリルはあるけどさ。しょうがないじゃんそれは。それが楽しいんじゃんって人に。
高所恐怖症の人の気持ちは分からない。
だから怖いと言ってる人も人の怖さにはえらい鈍感だったりはします。
よね。私奥さん怖いのに。いやいや大丈夫だよ。だって一緒に住んでるんでしょうとかさらっとうちの親父とかは言う。
でもうちの親父は時間を失うことを、あの年であんなに暇なのに、まだなおめちゃくちゃ恐れてる。
先日私が一緒に行ったうなぎ屋で、うなぎこねぇなぁとか言ってる。
あんたうなぎこなくてなんか困るか。腹減っては来たけどさ、いいじゃんちょうどいいぐらいじゃん。
いやだってここでぼーっとしててもしょうがないだろ。実に愚かですよね。
79歳でやることなんにもなくて、うちの父の唯一の格好のつく趣味としての初動は、家族は煙たいもの以外の何物でもない。
いい加減やめてくんないかなと明らかに同居している家族は。
しかも一人は娘は父親のことに対して嫌悪感の塊みたいなもの。あれ、思春期の嫌悪感とかじゃないですよ。そういうんじゃないんだけど。
悪い父親対象以外の何物でもなくなっちゃってるから、字を書く。ふざけんな状態なんですよ。
もうなんか反思にいつか火付け出すんじゃないかなと、私なんか危惧してるわけなんですけど。
だからやめるようにそれとなく言ってるんですけど、一向にやめる気配はなく。
でもその字だって別に書かなくても全然いいわけですよ。書くことを望んでるのは彼の師匠ぐらいなもんで、その師匠だって80ぐらいですからもっと上か。
とにかくですね、人が恐れるというのに合理的な理由は何もいらないということですよね。
うちの父は私が奥さんを恐れているのを一度1ミリも共感しませんが、私も父が一刻も早くウナギが来てくれないと、もうクレーム入れてやるという気持ちには1ミリも共感できないです。
そういうもんです。人の恐れというのはね。だから難しい。理解しようという気をよっぽど真剣に持ってもなお無理。
スーパーバイザーの役割
だからスーパーバイザーが欲しくなる。いやーあのクライアントさんは本当、クライアントさんじゃないけど、私で言えば3ヶ月チャレンジのユーザーさんは、
という時にすでにスーパーバイザーがついてくれる可能性はゼロになるわけですけど、誰かがいてくれるならば、いくら話をして聞いても何にもうまくいきません。
何にもうまくいかないというのは進展がないという意味ではないんですけど、とにかくなんかこううまくいってる気がしないんです。私、アホなことにやってるような気しかしません。非正規だし。
正規の人はどうせこのバカと思ってるんじゃないかとか思っちゃうし、みたいな。これも恐れなんですけどね。
順金コンプレックスなんですけど結局は。で、スーパーバイザーの人がなんかその場合はみたいなことを言ってくれると助かるような気がしてるんだけど、これが万能空想なんですよ。
だし、そんなことで助かるはずがないんですよね。で、結局みんな同じこと言ってるわけじゃないですか。この構図を説明したいわけで、私は3チャレンジの大変さを訴えたいわけで、
全然私は3チャレが大変だとは、なぜならば共感できてないとすら言えちゃうんで、ある場合にはですね。最初から言えるとは言いませんけども、ある場合には言えるんで。
そこまで大変ではないのが実態なんだけど、まあ大変だという言い方を、こういうことなんですよね。ここにも多重決定的な重層的な話があるんですよ。大変では全くないんだけど、とても大変なんですよ。
私の中のどの対象がこれを口にするかによって話ががらりと変わるんです。これは自己矛盾なのかもしれないけど、そういう言い方をするならば対象関係というのは矛盾した関係を内包してるんですよ。だから対象関係が分裂するんですよ。
長字がの言うこととSの言うことは絶対同じにはならない。Sは長字がだったりもするんですけどね。とにかく対象関係は一筋縄で行くんだったら、そもそも対象関係になってないと思うんで、対象関係は一筋縄ではいかない。
し、やっぱり最初の問いに戻るんですよね。あなたとは誰なんですか。恐れてるのは誰なんですか。誰が誰を恐れていて、何が起きるということを恐れていて、その何かを起こすのは誰なのか。この誰かは全員違うんですよ。僕の考えでは。僕の考えじゃないけど。違うはずなんですよ。
だってほら、キシボジンとそれを倒すヒーローとそれによって守られるヒロインの立場って一致しないじゃないですか。でもあれは同一人物の心の中にいる対象なんですよ。キシボジンに言わせたり、男の人に言わせたり、私自身、女の子が私自身だと思ってる私自身に言わせるのとでは、三者三様の言葉が返ってくるに決まっているわけですよ。
あの途中に理解のない村人たちみたいなの出てきますけど、あれだって心の中の登場人物ですから。つまり自分自身です。村人たちの言い分もまた全然違うじゃないですか。だから3ヶ月チャレンジやってます。いや、あれはもう生き甲斐でライフワークで全然疲れません。
という私も、私ではないんだけど、合議によってこの発言をする私もいれば、いやもう一刻も早くやめたいですとか言ってる私もいないわけじゃないのかもしれないんですよ。しかも、いやいや、もっと時間もきっちり守って古典的な力道の方に寄せればいいんだよとか言ってるなんか古典的長寺がみたいなやつも出てくるわけですよ。
出てくる時には。で、それに対してちょっと税のこと考えようみたいな。つまりそういうもんだってことですよ。収入と税のこと考えようねと。あの、そろそろ高校にも入学したし、なんか電子辞書買えとかわけわかんないこと言ってくるしね。
なんでこのAI前世の時代に5万円近くする電子辞書を買わねばならんのかという。で、事業中には絶対スマホ出すな。電子辞書を出せっていう。なんかそれに意味があると思ってる指導を。でもあれで十分物分りのいい学校ですからね。あれより物分りのいい学校、県内で探すのはかなり難しいですから。そんなもんなんですけども。しょうがないんですけどね。お前ら電子辞書の。
何だろう。代理人かよぐらいに言いたくなるぐらい、生徒全員で電子辞書を持たせるということは、その収入はどこに行くと思ってるんだぞって思うんですけど。まあいいんですけどね。まあこういう長寺家的な私もいるわけですよ。でも今のはちょっと破壊工作員的な、あの総的防衛みたいな言い回しでもありまして。そういうのいるんですよ。どうしたって。いなくなるはずない。
3ヶ月チャレンジをやってるんだから、1枚岩で3ヶ月チャレンジに邁進しようでっていう対象だけで私の心が構成されてればいいのかもしれないけど、これほど危うい話はないです。だってそういう対象が何か壁に当たったら一切対応できなくなるじゃないですか。
多分私は蒸発とかしちゃうんですよ。そういう人間だとすると。私の心の中では3ヶ月チャレンジが命みたいな対象しかいません。そんなことありえないけど。そうなってしまったら、新職を忘れて3チャレンジみたいな人になっちゃったら、その3チャレンジがわずかにちょっとでもつまずいたら、極端に言うと一人でも途中でいなくなったら、もうなんか佐々木昇吾さんがいなくなりましたみたいになるわけですよ。絶対そうなりますよ。
内的対象関係のダイナミズム
だから一枚岩って絶対ダメなんですよ。心の中が一枚岩になってる。ないけどそんなことは。心の中がナチズムみたいになってるのは本当に良くないと思うんですよね。ところがそうした方がいいっていう風に考えてしまう時があるから厄介なんですよね。
そういう対象関係の力動的なダイナミズムというものに、私たちは一生付き合っていく難しさを抱えていると。この難しさを私たちは他人に他人にと思っていきたくなると。そこに万能空想があって、その通りで人が何とかしてくれると思ってるうちはダメで。
つまりこの内的対象関係を持て余してこれも何とかしてくれよと。ところがこの話それ自体がそもそも数字にくいというこれを何とかしてくれのこれって一体何なんだと。これを説明できるようになった時にはもうずいぶん話は進んでるんですよ。
もし仮にこれがこの説明なら自分の心はかなり納得できるなというのを納得してくれたり理解してくれるつまりこれは観点なんですよ。情緒的な発達みたいな話をしちゃいたがるんですけど私も実際に情緒的な発達みたいなものあると思うんだけどそれは後からくっついてくるものであって。
情緒そのものを発達させるための何か慰めとか励ましとか成長のトレーニングとか心理教育とかをやってるわけではさらさらないような気がするんですね。やっぱりここに来てようやく美音が頂点といった意味が感じられるんですよね。
人は違う頂点に立っているってことなんですよ。時々それを重ね合わせたりずらしたりしてみて自分が異なる頂点に飛び移ることができたなら話が一気に変わるんですよね。全く違って見える。奥さんが怖い。なんでっていうふうに突然なるんですよ。
私の内的対象関係が変わるから。だって私は母は怖くないし、ご祭児でもないしなと。これがさらっと言えるようになる。でもまた元に戻る。卒業するわけじゃない。なぜならこれは頂点に過ぎないから。
この言ったコンステレーションに過ぎないから。しし座に見えた者がカニ座に見え始めるが当然は起こり得る。そういうことって起こるじゃないですか。生し得って。おばあさんに見えたり若い女の人に見えるのはどっちかが卒業されることはないですよね。今おばあさんに見えてるわ。もう若い女に見えることはないわ。なんてことはないですよね。
翌日見てみたら若い女にしか見えないわってことになるじゃないですか。うさぎと鳥か。うさぎに見えたり鳥に見えたりはしますよね。ちなみにどっちかにしか見えませんよね。うさぎにも鳥にも同時に見えるってことはないですよね。これが私たちが統合されてる理由でもありますよね。
とにかく私たちがうさぎにしか見えないと言っている人にいやこれは鳥にも見える見方があるんですよっていくら言っても基本は無駄で、だってうさぎにしか見えないじゃんとしか言えないんです。説明できないんですよ。なぜ鳥に見えないのかは説明できないんですよ。そこに難しさがある。
でそのパターンに話を聞いて、鳥に見える方法を何とか伝えようとしている人自身もハマってしまう。そしたらスーパーバイザーがいるみたいな話になります。でも私が最近思うのは、いやいや私にとってのスーパーバイザーは3ヶ月シャレンジ全体なのかもなぁとは時々。これは最初の頃から時々言ってるんですけど。
そんな考え方は、精神分析では絶対認められないと思うんですけど、でも私は時々これはそんなにおかしくはないはずだとは思ってたりします。