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2024-04-26 52:45

脳内シミュレーションは有害【GMV971】

防衛するなら世界は悪いものになっていく。
00:04
おはようございます、グッドモーニングボイスです。
4月26日金曜日の朝、7時18分ですね。
微妙にいつもより、そんなこと気にしてる人は誰もいないと思うんだけど、7、8分遅いはずなんですよ。
これにはね、非常に単純なわけがありまして、今大谷翔平の打席を見てたんですよ。
今日は、ドジャーズ先発、山本義信で、元オリックスのエースですね。
6回無視点で交番して、1対0で勝ってるんで、勝ち投手の権利持ってるわけですが、
さっきの回危なくて変わったピッチャーがですね、2塁にランナーを置いて、ほぼ同点っていうシーンがあったんですね。
同点になっちゃうと山本の価値は消えるんですよ。
同点に一度でもなるとね。勝利投手の権利ってやつなんですけど、
試合がそのまま勝って終わると、山本に1勝プラスされると。
これがもう、1勝って結局、給料で何千万と違って聞かれない、
何千万はいいですけど、でも1千万ぐらい違うんじゃないかなと思う時があるので、大事なわけですが。
まあこれで別に、たぶん後ろのピッチャーが同点とかに追いつかれても、
査定ちゃんとある程度はされると思うんですけどね。無視点だったし今日の山本は。
スプリットがすごい良かったんですよね。
で、大谷。大谷、要するに追加点が欲しいわけです。
1対0っていうのはメジャーリーグではやばい。すぐいつでも簡単にひっくり返されるんで、
それが4対0ぐらいになってると、4対3になっても山本の価値は消えないんですよ。
この辺が野球の考え方なんですね。
で、ノアと二塁で大谷というシーンでですね。
サードショーフライだったんですけど、要するに点入ってないんですけど、まだ打ってない。
ここで見るのやめてこっちに移ってる。
それが今なんですね。
もうちょい伸びてればポテンヒットで、
たぶんあそこからすると二塁ランナーが一番バッターなんでね。
瞬速なんで帰ってくるんですけどね。
2対0になれば一発くらっても山本の価値は消えない。
どうなるかわかんないですけどね。
気になりながら気にはしないで、ポッドキャストに入っているわけです。
で、7分遅かったと。そういうことですね。
全然気にする人はいないと思うんですけどね。
たびたび申し上げてる通り、4月30日までは3ヶ月チャレンジ。
もう名称を変更しようと今回決意しました。
今日にも変えてやるぞみたいな。
まだ確定はしてないんですけど、
やっぱり仕事のメンタルを整えるための3ヶ月、
03:05
チャレンジでもいいかもしれないけど、
仕事のメンタルをなんとかっていうのは入れて、
3ヶ月コースとか3ヶ月講座とかでもいいかなという感じを
ちょっと持ちました。
持ちましたというか、大体そういうふうにしようと。
告知文も変えて、いろいろ変えていこうと。
やっぱり原稿に首っぴきになりすぎてるなと思ってですね。
昨日手帳、これね、5月19日第1回のですね、
前回はもうベータ回なんで、
第1回のタスクシュート手帳セミナーを開催します。
これはもうハイブリッドでオンラインオフラインどっちもあります。
オフラインの方はやっぱりカンダの、
ちょっとカンダだったと思いますけれども、
会場抑えましたのでこちら。
オンラインの方はもう普通通りZoomという形を取るので、
それを昨日告知させてもらったわけですね。
やっぱりこれやっていかないと、
一つのことばっかりやろうと頑張っててもどうせやんないんでね。
どうせマリオやったりするんで、
マリオあれなんですよ。
クリア後のゲームがめちゃくちゃ難易度高くて面白くてですね。
結構これも首引きなんですね。
色々最近あるなぁと思うんですけれども、
忙しい割にはゲームにも結構な時間を投入するという。
あるあるですね。あるあるなんですよこういうのはね。
で、なんだろうな。
手帳のセミナーやります。
これも3,500円なので、
よろしければぜひご参加いただきたいかなと思います。
会場の方はそんなにたくさんの募集人数はかけてませんけど、
まずいっぱいにはならないかなっていう。
分かんないけどね。
なかなかこう今やっぱオフラインの時代ではないので。
でも手帳なのでやっぱりですね。
完全オンラインっていうのはなんかちょっとやっぱり
僕の中ではぴったりこないんで。
もちろん会場ゼロになればちょっと考えてみると
ちょっと考えますけどね。
そんな感じであります。
3ヶ月チャレンジの方は今月いっぱい募集かけますので。
よろしければぜひお願いします。
どうしようかな。
1名様かな。
残り1枠をさせていただきたいかなと思っております。
これゼロだとですね。
別にゼロになっちゃうというわけではないので。
継続についてもね。
これからはちゃんと書いていこうというふうに思いました。
3ヶ月でいいっていう方もいらっしゃれば。
やっぱりもう9ヶ月ぐらいかけたいという方も
当然いらっしゃるぐらいの内容なので。
別にここ最初は3ヶ月っていう。
1ヶ月お試しコースも用意しましたしね。
これで大体いいんじゃないかなと思うようになったので。
06:00
その辺も合わせてもう少しガッツリ書いていければいいかなと。
ここでしゃべるのは簡単なんでね。
告知するとなるといろいろあるので。
いろいろ思っちゃうわけですけどもね。
とりあえずこちらでまずお話ししておこうと思いました。
本題に入りますとこれも971回目なんですね。
971という数字には何にも興味が湧かないんですが
972となると僕は9で割れるなとかいうまたどうでもいいことを考え始め
しかも9で割ると108だからもうだいぶ割れるなみたいな。
972というのはつまり約数多いなとそういうことを
なぜかそういうことを考えたがるんだな自分は。
なんでなんですかね。
頭がそういうものにある種の報酬を感じるんでしょうね。
それはまあいいんですけど全然全くどうでもあまりにもどうでもいいんですけど
そうは言ってもあと27回でスリーナインが来るなと。
なんか最近スリーナイン付いてますがこれからしばらくはこの話続く気がします。
やっぱり数字は何か頭が反応するんですね。
ずっと今週は東映ドイツ課が話題に結局なってきたと思うわけです。
ずっと接触障害の松木さんの本を読んでいることが最大の理由ですが
これを本当に認知の問題、認知の問題はありますよもちろんね。
認知なんだから、知覚もしてるし認識もしてるし解釈も入ってますからね。
でも大事なのはそこじゃないってことですね。
認知行動療法でいうところの認知、つまりそこには認知心理学がベースにあるんだけど
コグニティブサイコロジーなわけですけれども、これはもちろんありますが
この東映ドイツ課という問題はですね、全然その文脈とはだいぶ違うんですよ。
外に影響を間違いなく汚していくっていうところが大事なんですよ。
なんか個別の人たちが個別の意識を持って動いているというこの
グッドバイブスで蔵野圭祥さんに言わせればバラバラ意識のですね
これはアメリカの科学の見方を社会科学に導入したいという考え方から来ているのであって
それはそれでいいんですよ、別にいいんですけど
これだけになっちゃうと絶対説明できていないことがあるわけです。
特に一番説明できていないものの最たるの中に感主観性って問題があるんですよ。
二者、特に二者はね、もちろん二者以上の普通人は交わっているケースが多いんで
実際二者っていうことばかりじゃないんだけど、少なくともそこに二者がいて
09:04
密室に近い状況だったときは、個別の一人一人の主観について
どうのこうの考えていても割としょうがない感じなんですよね。
だからカウンセリングは感主観的なんですよ、やっぱり解釈としては。
この感主観的というのが僕らは、そういう考え方はですね、
学校で大して全然扱ってこなかったから、感主観性というのは哲学用語ですからね。
オカルト用語じゃないんでね、ちゃんとあるわけですよ、そういうものは。
僕は絶対ちゃんとあると思うんですよね、そりゃ。
だって、それこそウィニコットの名言ですけど、あれは常識といえば常識で
一人でいる赤ん坊などいないってのは本当にそうで、
赤ちゃんの心というものは母親の心なわけですよ。
これがまたね、フェミニズムから攻撃されるというめっちゃくちゃややこしい話が出てくるから
話がもう本当に、別にそこで抱っこしてるのはお父さんでもいいわけですよ。
お兄ちゃんとかあるじゃないですか。
ずっとお兄ちゃんが抱っこしてるっていうのはそれはそれで社会問題ですけど、そうではなくあるんですよ、そういうものはね。
赤ちゃんの心はお母さんの心ですというのがですね、僕らなかなか教育効果なんだろうな、一つは。
わからなくなってきてるんですよね。
それは母親に牛耳られてるとかね、なんかよくわからない理屈がそこで飛び出してきちゃうわけですが、
そういうことでは全くないということですね。
心というのは、私の心ですって言って、なんていうんですかね、
なんていうんだろう、そこから先に一歩も入っていけてないというのはおかしいと思う。
中でもやっぱり今日、投影という話をする以上、絶対必要な変性というやつを考えないわけにはいかないわけですよ。
変性が母親だからといって、それは私の心じゃないんですみたいにならないわけですよ。
私というのは、個別、具体的で1個の、ここにある1つの私という顔をした肉体そのものなんですみたいな、
そこから先に進めなくなるじゃないですか、それを言ってしまうと。
そうすると私は全く分割できない何かみたいに、分割も観察も分析も何もできなくなりますよね。
私で止まっちゃってるから。
その私というのはどういう構成なんだと言ったときに、母親っていうのが出てきて、
この母親が実母とイコールであるって考えるのは、すごいナンセンスじゃないですか。
そんなことがあるはずがないよね。
心の中に実体としての母親が入ってるなんて。
これは間違いなく対象と呼んでるんだけど、イメージっていうのかな。
そういう構成要素ですよっていう話ですね。
しょうがないですよ。
だから牛乳というところには乳糖とかが入ってるわけですよ。
いやいや、牛乳は牛乳でしょっていうのをそれに対して言うっていうのは、議論が噛み合ってない。
それと同じで、私は私ですって言って、ここからそれは牛乳は牛乳ですっていうのと同じで、
12:02
いやそうじゃなくて脂質っていうものがねっていう話をしたときに、
いや牛乳は牛乳ですっていう、それがそれ以上分割しないところなんですよ。
そこから先には進んでないと。
だから私がやりたくないのは私がやりたくないんだっていうのは、
3ヶ月チャレンジ的に言うと、すごくここから先に進まなければならないっていう事情があるんですね。
ところが僕らはこれが苦手なんですよ。
これが苦手。
まず投影同一化っていうのはですね、
ちょっと昨日あたり、良い投影同一化をするかそれともしないかみたいな話をしたんだけど、
ああいう、なんていうのかな、贅沢な話をしている場合ではないんですね本当。
贅沢な話っていうのはどういうことかというと、
まず悪い投影同一化をどうするかって話、ここで全て終わるんですよね。
ほんごいここで長引くし、ここができればここから先は気楽なもんなわけですよ。
だから私の話に反応していただいて、
昨日も結構3ヶ月チャレンジのグループセッションでしゃべったんですけど、
4月30日時目の現行の締め切りなどというのはですね、
これ編集さん聞いてたらごめんなさいね。
全然ね、深刻な話じゃないんですよ。
これはもう贅沢な悩みって、悩んでないんで僕はそもそも。
面白いからしゃべってるっていう一面があるのと、
もう一つは、みんなこれを誤解してると僕は思ってるからしゃべってる。
つまりこれを悪い投影同一化をやり始めると、
いたずらに深刻になっていくわけですよ。
それをやめてしまった後の話なんて、
はっきり言って面白くもなんともないのでね。
それがやめられるんだったら悩まないはずなんですよ、このレベルでは。
でもそれをやめるのが難しいよねというところで、
もう皆さんに、もちろんここが一番ディスカッションというのかな、
議論のポイントになるわけです。
ポイントは2つあって、
1つはまず第一に投影同一化というものが認められないというポイント。
つまりそれは事実なんだと。
これは事実では全くないんだけど、でも事実なんだと思っている。
これが1つ。
だからそれは事実なんですよ。
投影同一化にしないでくださいっていう議論ね。
もう1つが事実じゃないのが分かったとはいえ、
どうすればいいんですか。
これが2つ目の議論ですね。
この2つがクリアされればその後なんてことはないわけですね。
なんていうのかな。
例えて言うなら何にどう例えるかは難しいんだけど、
ずっともう中の調子悪くて下痢でみたいな、すいませんねこれもね。
ずっとそれなんだけど、最近成長剤飲んですごい良くなっていましたけど、
今日の昼も成長剤飲んだ方がいいですかねぐらいな、
そこはもう大した悩みじゃない、はっきり言って。
15:02
一応効くみたいなレベルじゃないですか。
問題なのはその一番ひどいときですよね。
一番ひどいときってのが、
投影同一化なのが事実だとしか思えないって言ってるときなんですね。
そうだな、どうしようかな。
私にしておこうか。
私のイメージって私にはよく分かってないから、
こういうときに不要意に大橋さんと、
大橋哲夫さんですけどね、
タスクシュートの引き引っ張り出してきて、
彼に申し訳ないなと思うんで、
誰ですか、J。
そうだな。
今回は編集さんに登場してもらいますが、
編集さん全然悪くないし、
これ聞いてると傷つくと申し訳ないなと思うんですよ。
でも編集さんにしておこう。
めんどくさいからね。
どうせサンプルなんで、
何編集でも構わないんでね。
具体的な方が分かりやすいんですけどね、こういうのはね。
編集さんにしますね。
つまり、今まさにそうだったんだけど、
こういうことを4月30日の締め切りなんてどうでもいいんですよっていうのを言うと、
編集さんが傷つくじゃないですかとかね、
辛い思いをするじゃないですかって言ってるこの編集さんというのは、
実にしてないということなんですよ。
いや本当に聞いてるかもしれないじゃんっていう、
そういうことを言い出すという、
まさにそのことがこの東映同一化というものを誤解している最大の理由、
最大のポイントなんですね。
まず私の心にいますよ、編集さんね。
これを内的対象と呼ぶんですよ、専門用語でね。
内的ですね、私の中にいて、対象なんですよ。
それは外にはいないよってことですよ、間違いなくね。
まず大体私はこの編集さんの締め切りに乗っていた、
僕イマジネーションの能力低いんでね、
ほとんど顔なんか思い浮かんでないんですけど、
一応おぼろけに、今すっげー頑張って無理やりシルエット作り出してるんだけど、
顔は正面顔なんですよ。
分かります?後ろは見えない。
全くないんですよ、後ろなんてもの。
テレビの画面に後ろの姿が映ってない時はないように。
ないんですよ。私の心の中には後ろがない。
でも本物の編集さんには後ろ姿はあるよね、多分。
後ろ姿がない人っていないですよね。
だからこれが内的対象というのを、
もう少し厳密に6文字熟語にしちゃうと、内的部分対象というわけですよ。
部分だから。部分ということは、そのような存在は実在しているはずがないんですね。
部分だけで人は生きていけないんでね、
18:01
俺前姿しかないからみたいな、そんな人はいないでしょ。
幽霊ってだいたい部分対象なんですよ。
それが非常に大きな、足がないとかって言うじゃないですか。
あれは足がないんじゃなくて、足まで想像できてないってことだと僕は思うんですよね。
つまり足歩いてトコトコ歩いてるともう幽霊じゃなくなっちゃうわけですよ。
幽霊とは内的部分対象だからこそ足がないわけですよ。
いいおっぱいだのをやたら言ってるのは、
お母さんを全体像としてまだ結べない赤ちゃんから見ると、
おっぱいしか見えてないから内的部分対象としてのちぶさっていう言い方をするんですね。
そこしかないってことですよ。そこしかない人いないじゃないですか。
作り物のおっぱいとかあるけど、そういうことじゃなくてね。
そこしかない人はいないってことですね。
これがめちゃくちゃ大事なんですね。
私たちはこの内的対象というやつを外に置く。
外に投影する。投影はいいですよね。
プロジェクターですよプロジェクター。
こういう像を本物の上にかぶせる。
かぶせるっていうか置くっていうか投げかけるっていうか、
とにかく映写するわけです。
映写いいね。映写なんですよこれは。
映写すると、
例えば私の中の内的対象としての編集さんを外に見ちゃうわけですよ。
外に見ちゃう。
ここを認知系の人が言うのは認知の歪みでしょう。
それは誤解でしょうっていうことを言うんだけど、誤解なんだけどもちろん。
誤解に決まってるんだけど、そこは大事じゃない。
これをやると外の世界が転用していくよっていう、
これが投影同一化なんですよ。
その私が投げかけたものになっていくんだよ相手はと。
ここがオカルトチックに聞こえてきて、
いやー対象関係とか精神分析とか、
頭おかしいよねみたいになりやすいんだけど、
僕はここは全然頭おかしくないと思うんだね。
これほど間違いなく私たちが日々やりまくっている、
しかもかなり良くないことはないと思うんですよね。
仏教で言ってることもイコールじゃないんだけど、
ものすっごくこれに近いなって思う部分はいっぱいありますよ。
とにかくこれが、
まあ仏教は単純に投影同一化とか言わずに、
幻影だ幻影だ幻影だってやたら言うんだけど、
幻影だと言うんだけど、
それ幻だから、まさに幻なんですよ。
だって映写だから幻に決まってるじゃないですか。
これが現実だって言い張ってしまうんですね。
この投影同一化のこのカラクリというものに、
僕らみんなハマってるんだけど、
子供なんてのはまさにハマってるわけですけど、
事実だって言うわけですよ。
だから私が4月30日のね、
この締め切りなんて気にしてませんとか、
あれはもう関係ないですよとか言うのを聞いていたら、
聞いてるのは内的対象ね。
聞いていたら研修さんは嫌な気持ちになるよね。
それは事実でしょうっていう議論を始めちゃうわけですよ。
で、例えば私とそういうことを言っても、
私は一歩も譲らないからここは。
21:00
いずれ諦めるのかもしれないけど、
でも事実だろって内心では思っちゃうじゃないですか。
これぐらいこの事実感に、
なんて言えばいいのかな。
事実だと信じている気持ちは強いということです。
つまり私たちはこれほどまでに、
自分の心の外に出られてないってことですよ。
ここを全カウンセリングとは言いませんが、
少なくとも力動的なカウンセリングが間違いなく、
ここをすっごい問題視してるんですよ。
だから現実との遭遇とか、
外との対抗とか、
現実に出会うこととか、
他者がそこにいるとか、
内的対象を破壊した時に、
これはウィニコットですけどね、
破壊しても外在する現実は破壊されないとか、
そういうことを一生懸命ありとあらゆる、
なんて言うんですかねこれはね。
プラネタリウムってあるじゃないですか。
僕ら思い込みますよね。
宇宙だわみたいな星空だって。
消えるでしょ。
消えてもプラネタリウムの外形の、
白いスクリーンは残るじゃないですか。
あれが外であって、
映し出された星空は原影ですよね。
あれが映写です。
私たちはあれを見て過ごしてるってことなんですよ。
で、あれを見て過ごしてしまうと、
それにだんだんなってくっていう、
ここがね、プラネタリウムとはちょっと違って、
プラネタリウムでいくら星空を映しても、
あのドームは絶対星空にはならないけど、
私たちの人間関係はこれを人も絶やすく、
実現していってしまうわけです。
共鳴・同一化において。
だけど、あの、
例えばだから目の前のね、
だから編集さんを私がもう本当ひどいやつだって思っていると、
彼女はだんだんひどくなっていくというね。
これは起こるんですよ。
だけれども、プラネタリウムだとこれは起きないんでね。
だけど人間関係ではこれが起きるんです。
そしてそれだけではなく、
この巻き込んでいて、
その編集さんの情緒さんとか、
この編集者丸ごと、出版社丸ごとを、
悪いものに変えていく力があるんですよ、私たちには。
力というべきなのか、
そういう作用というべきなのか。
そういうことが起きますから、
ますます現実っぽく見えてしまって、
ほらやっぱり現実だったじゃないですか。
そうではなく、あなたがその現実を作っちゃったんですよと。
ただ3つを見るだけでは飽きたらず、
そういうふうにしちゃってるんですよと。
という話なんですよ、これはね。
これは私が例にわざわざこれを出したのは、
要するにここまでわかれば、
私はこういうことはしないということです。
だからこの編集さんが悪いとは、
もう欠片ほども思っていないわけですよ。
だってそういうふうに欠片でも思うのが、
ものすごくこの件では私に不利益をもたらすに決まってるんで、
相互に不利益をめちゃくちゃにもたらすんで、
24:00
辞める。辞めるだけでもう全てはハッピーなんですよ。
これを辞められたとどうするかなんて話はさっき言った通り、
辞められたってところまでに行き着くのに、
非常にエネルギー使うんで、
辞めた後のことなんかいいわけですよ、どうでも。
辞めてしまえば何もかも上手くいくぐらいに思っとけば、
いいわけですよ。
でも、本当に編集さんは、
私のそれは推測かもしれないけれども、
編集さんは実際に悪い気持ちになりますよ、
っていう議論が続くんですよね、ここでね。
続けたくなっちゃう。
それは外に出られてない、
もうここはもうこういう平行線を、
あとはいかにその人の人間関係ですね、
やり合ってる相手との人間関係において、
何をどのように喋るかということが問われているだけであって、
あるいは喋らないかということが問われているだけであって、
この議論をどこまで続けていても、
ある意味虚しいと。
虚しいっていうのかな、
でもずっと虚しくても続けるという考え方もある。
沈黙するという考え方もある。
それこそ物思いに吹ける、
どう言ったらわかっていただけるかなと考えるという考え方もある。
とにかく考えるわけです。
そしてですね、この中で、
今編集さんと私って2社だけど、
その編集さんは気分が良いしてますよっていう、
第3社引っ張り出してきてますね。
この人との関係においても東映ドイツ化が起きてるってことですよね。
起きてますよね間違いなく。
いやこの人もほんと議論好きだなとか鬱陶しいなとか、
僕が思うと相手の人はそうなっていくんですよ。
だからこういうふうに思うのはやめて、
いやここが難しく聞こえると思うんですけどね、
いやそのように思うのは最もだよなと、
共感する必要があるわけです。
これが共感ってことなんですよ。
編集さんの顔色を伺っちゃうよねとか、
気分が良いするの怖いよねとか、
あなたがそう思うのはよく分かる。
いかにあとはそれを分かっていけるかってことなんですよ。
分かっていくんだけれども、
でもそれはやっぱり東映ドイツ化なんですよっていうところは譲らない。
そういうふうにしていくってのはどういうことかというと、
この議論をしている人というものの関係性が、
関係性に悪い東映をやっぱりしないという話なんですね。
この関係性でおいても、
必ずこの東映ドイツ化をやめると僕だったら言いたいんだけれども、
いずれにしてもそういうことはいずれやむだろうと思っておくっていうか、
思っていくっていうふうにしていかないと、
やっぱり悪くなっていっちゃうわけですね。
はい、一時的に途切れたと思うんですけど、
いいところで途切れた気がします。
27:00
今ゴミ捨ててきたんですけどね。
この東映ドイツ化っていうのはとにかく対象を映写してる。
そのことに僕らはまず施策必要があるわけです。
その2人いるってことですよ、2人。
2人っていうのも変な言い方だけど、
この場合編集さんというのは実態として彼女は私の外にいる。
彼でもいいんだよ。
でも、私がここで言及したり、
こここういうことがあったみたいな話をしている、
これは私の中に。
私の中にいる人について何を言おうと何をしようと、
相手の人は傷つかない。
非常に重要なんですね。
相手の人が絶対に傷つかないというこの点をひっくり返して考えると、
どれほど相手の人が私の内的対象について、
ああでもない、こうでもないと言ったり思ったりしたとしても、
私は傷つくはずがない。
当然ですよ。
だって実態がないもの。
後姿すらないものに対して攻撃をいくらしたところで、
傷つかないじゃないですか。
それは私とは別物ですよね。
私の対象というものを持っていらっしゃる方は、
これを聞いている方の中にももちろんいらっしゃるとは思うんだけど、
その人たちが何をそれについてしゃべったり、議論したり文句を言ったり、
クレームを出したとしても、私は傷つかない。
それは私はそれらの外にいるからなんですよ。
これを信じていなかったら、
カウンセリングって多分絶対できないと僕は思うんですよね。
ああでもない、こうでもないと思われることなんて、
カウンセリングやってたら山のようにあるわけじゃないですか。
その度に本当に傷ついてたら死んじゃうと思うんですよ。
そうは絶対にならないんですよ。
だから訓練ってものがいるってことになるんだけど、
その訓練って何をしてるかというと、
結局は内的対象と外在する存在というものを分けるっていう訓練に尽きるんじゃないかなと思うんですね。
最終的には。
私はここでもう一つの議論。
この議論終わらないと思うんですけども、
どうしても私には内的対象イコール外在だと思っちゃいますという議論ね。
2人いるというのが信じられませんと。
仮に2人いるにしたって私の推測は正しいでしょうみたいなね。
その推測の正しさはここでは議論の対象になってないということを納得されなければならないんだけど、
納得されないんですけどね。
推測が100%正しかったとしても内的対象と外在は違う。
だから内的対象をいくら傷つけても外在するものは傷つかない。
内的対象がどれほど嫌な顔をしても外的対象がそう思ってるとは限らない。
外的対象じゃないね。
実在する人がそう思ってるとは限らない。
30:01
多分実在する人はそうは思ってないでしょう。
ただそこを議論するのは本当にナンセンスの極みなのでやんない。
それはだからうちのテレビの大谷翔平を壊すと大谷翔平が傷つくみたいな話をしているぐらいそういうことはあり得ない。
これを見ることが、やあ対象、僕は君を破壊したよというわけのわからない言葉で読んだことがあるんだけれどもね、
なんだそりゃって思ったんですけどね。
でも対象が破壊されても母親は破壊されていないっていう、
このことに一つのショックを受けて赤ちゃんは育っていく。
これを、だから僕ら経てるはずなんですよ間違いなくね。
絶対あるじゃないですか。
お母さん憎くなったことなんて。
妄想の中でお母さんをやっつけたり、いろいろやったことがあったと思うんですよ。
でもそういうことをすると赤ちゃんは必ず、
いやお母さんダメにしちゃった、自分生きていけないかもみたいにそうは思わないんだけど、
そういうような恐怖に苛まれるんだけど翌朝いるとお母さんは全然ピンピンしてると。
ああよかったということで、これで人は空想と知覚の区別を始めるという話を多分彼はしてるんだと。
そこには冗長的な何か一段階乗り越えてるポイントがあるはずだってことなんですよ。
それぐらい人間の大脳というのは夢を非常に精密に現実そっくりに、
というか現実の認識の仕方と基本同じだから、夢と現実の区別がつかなくなる。
でもそれをとことんやっちゃったら妄想じゃないですか。だから幻覚になっちゃうじゃないですか。
だからそこを区別するという能力を人は成長のどこかの段階で獲得しなければいけない。
それも極めて早い段階で獲得すると。
これがですねしばしば機能不全に陥ってるってことを内力大将と東映ドイツ科の話はしてるんですね。
しかも単に認識の問題だけでは済まずしつこいようですけども、
これは現実というものを歪めていくというか、現実というものにインフルエンスを強く与えていってしまうので、
例えば、いやもうこの編集さんのために私はまともな原稿は書けないとかになる。
そうするとまともでない原稿を出して、そこでまたひと悶着起きたりして、
よくわからない本が出来上がっていくってことが現実に起きていくわけですよ。
こういうことが嫌だから内力大将というものを東映し、
その東映ドイツ科というものの猛威を振るわないようにしましょうねっていうのがこの議論の2つ目の段階ですね。
どうすればそういうことができるのか。
自分はどうしても東映ドイツ科なのかもしれないけどしちゃうんですよっていうのが第2段階ですね。
ここまで来るだけでも結構大変だと思うんですけど、
ここまで来た時には今度はまず2人いるっていうこの事実を基本的には即座に思い出そうってことですよね。
33:05
やっちゃうのはしょうがないんですよ。
いわゆるPSポジションとDポジションで、ポジションなんでね。
東映ドイツ科に盛大にやるポジションについちゃってる時と、
まさに野球のポジションのようにそこに入っちゃってる時というのはもう気づくのすごい難しいんで。
必ず出るんですよ。私たちは正気である人は必ずそこから出てる時がある。
その時にまたやっちゃったなと思ったら、その時に今度はやんないようにしようって思うっていうのが大事なんですよ。
だからここは非常に真剣に考えておく必要がある。
これを事後性って呼んだりするんだけど、とにかく後から気づくことの方が多いんで、後で気づいたら修正する。
非常に単純に言うと、外にいる人は傷ついてないし、外にいる人はちゃんとやってくれるというふうに思った。
この私の内的対象を東映すると30日に締め切りだとか、それを過ぎるとああだとかこうだとか、そういうものを考え始める。
それは私の内的対象の世界なんですよ。東映している世界、東映しようとしている世界なんですね。
この東映しようとしている世界で考えるようなことは一切現実には起こらない。
僕の経験で起きた試しが一度もない。
この私が東映しようとしている通りの現実が、私が何にも関与しないのに自動的に進行したことは一回もない。
だからそういうことを、でもこれもやっぱり事後ですよね。
という経験があるから、内的対象を東映するのはやめましょうって話にしかならないんですよね、どっちにしても。
だからやっちゃうということはかつてもあったし、今後も起きるんだけれども、それに気づいたらやめるという話ですね。
そして内的対象というものが、何で私たちが東映し、しかも統一化させていくのかというと、
これが変な話なんですけどね、実にその内的対象をどこかで怖がってるからなんですね。
私が母を怖がったことがあるなんて当たり前の話ですけどね、母だけではない。
この内的対象にはその編集さんによく似た、かつて出会ったことがある人とか、この人にいじめられたとかね、
本当に言い始めるとしょうもないことに聞こえるんですけれども、まさにそういうことなんですよ、でも。
そんなことがかつてあった。
だからその内的対象とのやり合い、やり取り、やり合いですね。
これを我々は時々こういう言葉で聞きますね、脳内シミュレーションとかって言います。
つまりその編集さんにこう言っておいたら、決め切りをもっと長くしてもらえるんじゃないかとか、
こういうふうにしておいたらその編集さんの考えが変わるんじゃないかとかいうシミュレーションをすると。
このシミュレーションは最悪ですよね、この話の中で考えても。
36:01
このシミュレーションが最悪なのは、最悪という言い方はよくないんだけど、
このシミュレーションこそまさに東映同一化の始まりだと思うんですよ。
でもこれで何をしてるつもりかというと、私たちは自分をこれで守れると思ってるんですね。
これは予防になってる。
つまり防衛なんですよ。
防衛規制なんですよ。
防衛は防衛であるというのは、アンナフロイトの自我心理学ではもうおなじみの話です。
防衛は防衛なんですよ。
自分を守るためにこれをやる。
こういうふうに、締め切りの伸ばしてもらうのが一番わかりやすいですよね、今回。
こういうふうにやって、こういう話とこういう話とこれを持っていけば、4月30日の締めが5月30日になるんじゃないだろうかと。
じゃあ今度これを持っていくと、完全に現実と幻想を混同しちゃってますよね。
まるで頭の中の編集さんが、現実の編集さんと同じ存在であるかのような扱い方を始めてますよね。
私たちは脳にこのように絶大な信頼を置いた時に、信頼というか、なんていうんですかね。
まあでも信頼性か、そういうもんですよね。
脳にこれほどの絶大な信用を置いた時に、しくじるんですよ。
赤ちゃんのような時代に舞い戻ってるわけです。
お母さんにこう言ってこう言って、こう言えばお母さん機嫌直してくれるんじゃないかなっていうのと、
全く同種の誤りを犯しているわけですね。
これをまた育てられ方の問題にしてほしいとは僕は思わないんですよ。
わかりますよ。お母さんの機嫌を取り続けていたから、私はそういうふうになっちゃったんです。
育てられたんですっていうやつね。
これはこれであり得る話だと思うんですけれども、そういうことを一回言ってても、
この話は最終的な決着というか最終的な解決までほど遠い。
脳内シミュレーションと称してみたり、
要するにご機嫌取りでも顔色おかがでもなんでもいいんですけれども、
そういうふうに自分の内的対象との対話にかまけている限り、
かまける時間を増やせば増やすほど、
自体をより悪化させていく。
自分を遠いドイツ化を、より自分を遠いドイツ化する方向へと不実に仕向けていく。
明らかに自分の脳内で喋っていることは、自分でも知っているくせに脳内シミュレーションと言っているぐらいですから。
しかもシミュレーションと言っているぐらいですからね。
現実でないってことはわかってるわけじゃないですか。
現実でない以上、どれほどその現実のコピーだと信じようとしても、
所詮はコピーなわけですよ。
しかも実態がない、後ろ姿もない。
後ろ姿を作ってるって言われればそうかもしれないけど、声もない。
声も作ってるって言われればそうかもしれませんけどね。
でもどれほど精密に成功に作っても、
精密に作り成功に作れば作るほど自体を悪くしていくんです。
防衛だってことを忘れてはいけないんですね。
防衛だということはそのコピーは必ず悪意を持っているはずです。
この悪意が私たちの現実を悪化させていくものなんですよ。
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そのコピーとシミュレーションするということは、
結局のところ自体を今より良くしようとしてるわけじゃないですか。
ということは自体は今悪くなってるってことじゃないですか。
少なからずそのコピー元の編集さんのせいで悪くなっているっていう考えがあるから、
これ以上そのダメージを大きくしないために、
防衛を使って防衛しようっていう話をしているわけですよね。
これは自画心理学でも対象関係論でも全く同じ話が出てきます。
これをこの夢から一歩も出られなくなった人の一つの型が白外妄想と呼ばれるものです。
ここまで言ってしまうと精神病水準と呼ばれてしまうわけですね。
我々は精神病水準も持ってますけどね、もちろん。
ただつまりこれは少なくとも臨床心理的にはこれは正気じゃないんですよ、すでに。
これが外界にうごめき始めてしまったら正気をすでにかき始めて、
正気、狂気っていうのも非常に難しいんですよね。
脳内シミュレーションであるということを忘れ始めたら正気を失いかけているという話になっていくってことです。
ただこれはグラデーションありますからね。
どこまでもグラデーションの話ですから、あくまでもね。
脳内シミュレーションなのか、それを外に投影しているのか、現実だと信じ込んでいるのか、
ファクチュームを見ているのかは一時違うんだけれども繋がってるってことです。
ただどっちにしてもこれをやっていいことは本当はないっていうのは、
僕は多分アンナフロイト派でもクライン派でも一致している見解だと思っているんですけれども、
いずれにしても防衛が素晴らしいっていうのは聞いたことがあまりないので、
防衛に成功するのがいいことだっていうケースはありますよ。
防衛しないと非常にまずいことになってしまうっていうケースにおいて防衛は必要だっていうのはわかります。
だけど普通に現状に生きていけるのにどんどん防衛しましょうっていうのは聞いたことがない。
防衛っていうのは攻撃されてるって話ですから。
心理学における攻撃とは心理攻撃なので、
一つたりとも実態の伴った攻撃はないっていう前提がありますからね。
あれですよ、締め切りを突破してしまって編集者に殴るけど防衛を受けるって言うんだったら話は全然別です。
これはね、そういうことをやってると本当に殴られたりもするんだよっていうことまで言い出しちゃう人が、
これがまさに幻覚そのものに近いと僕は妄想か、悪害妄想だと思うんだけど、
でもそこまで言うんならタスクシュートに記録してください。
殴られた回数ちゃんと書いといてくださいと。何時何分にどこでどう殴られたのか。
実態化あるのかないのかはものすごく違うじゃないですか。
殴られるかもしれませんよというのと殴られましたというのが全く違うんですよ。
殴られたとしてもって僕は思うんだけど、ここはもう一旦置いといて、
何か言われるかもしれない、これが脳内シミュレーションですよね。
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でもそれは言われるかもしれないのと言われたのと全然違うんですよ。
言われもしないうちから言われるかもしれない、その言われる可能性は93.3%ですとか言うのは、
内的対象の話をしてるんですよ。自分自身と喋っちゃっているわけですよね結局。
この場合の自分自身というのは自分が作り上げた編集さんの内的対象と会話をしてるっていうもちろん意味ですよ。
それはでも自分自身との会話ですよ。いくら自分自身と会話したって結構ですよ。
いくら自分自身に文句を言って、文句を言われて喧嘩したって構わない。
それは右手と左手で殴り合ってるのと同じことだから。
実体に損傷を与える可能性はゼロでしょ。これをひっくり返せばいいんですよ。
自分に損傷が与えられる可能性はゼロなんですよ。
どれほど自分の内的対象がいろんな人の脳内でシミュレーションされて痛い目を見たとしても、
みんながでも恐れてるのはこれじゃないですか。
人は本音では私のことを何たらかんたらとかって言ってるのはこれじゃないですか。
しみきりを突破すると相手の人は何たらかんたらとか言ってるのもこれじゃないですか。
自分が脳内シミュレーションですら傷つけられるのは怖いって話をしてるわけですよね。
心理戦ってそういう話だと思うんですよ。実体ともなってないわけですからね。
だからこれを、でもこれを心理戦でやっているつもりになってるうちに、外に出していってしまうんですよ。
だから外に排泄するって言う、排出じゃないですよ。
メラニ・クライアンこれを排泄って呼ぶんですよ。
うんこ投げるって言ってるんですよ。うんこ投げるから相手は汚くなるんですよ。
つまり認識だけの問題では済まないよっていうのはそういう表現を取る。
こういう表現を取ったばっかりにまだフロイト頭おかしいって言われちゃうんですけど、
みんなでもこの生々しさを伝えたいわけですよ。
心理戦やってるつもりなんだけど、なぜか現実を動かしてしまうっていうこの事実をですね。
だから排出と彼女たちは、最近排出っていう表現を取ってる分析家の人もいますけどね、読んだ限りでは。
でも排泄って言うんですよ。排泄って言うと強いよなと。
赤ちゃんがうんこ漏らしちゃうことを言ってるんですけどね。
で、かわいはやを書いてたんですよね、昔ね。赤ちゃんがうちの子供がうんこ投げるんです。どうしたらいいんでしょうって。
つまりそういうことなんですよね。排泄というものを実際に赤ちゃんはやるわけですよ、手を使う。
でもそれは心理的な話なんですよ。だからそんなの大したことじゃないんだっていうふうにかわいはやほが相手に言うと。
でもそうやって赤ちゃんが投げなくなると、先生素晴らしいってことになっちゃって、
ついうっかり自分が素晴らしいと信じ込んでしまって、いい気になってるとえらい目にあう。
彼はそういうような書き方するんだけど、これ完全に東洋ドイツ科の話をしてるんですよね。
つまりかわいはやおさんはプラインじゃなくてユング派の人ですけれども、ユングの精神力堂でもこの話はちゃんとそこら中に出てきてるってことですよ。
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彼は多分最初スクールカウンセリング的な話でこれ書いてるんだと思うんですけどね。
何が言いたいかというと、そこら中にこれはあって、見る人が見ればそこら中でやっていて、
とにかくこれをやめるっていう話にカウンセラーはあらゆる場所で、多分今日もこの瞬間にも不信していらっしゃる。
で、我々はカウンセリングに通ってないんなら、これやめようぜって話ですよ。
これをただただやめさえすれば、脳内シミュレーションも一切やめれば、多分やめようとした瞬間に感じることがある。
怖いって思うんですよ。
私も昔そうでした。奥さんとこれから話す。
こう話して、ああ話して、でもそういうふうに言うとこの人こういうふうに怒るだろうなという脳内シミュレーションがあたかも、あたかもね。
昨日も言いましたけど、あずいふですね。あたかも私の役に立つよ。
こう言っておけば、そうだ、こう言えば奥さんの機嫌が害さないで済むんだ、みたいに思って害してたわけですよ。
この脳内シミュレーションに失敗してたんではなく、この脳内シミュレーションをするという行為が、
うちの奥さんに対する私の不信感そのものであって、
この不信感はあらゆる言動中に必ず相手に影響を与えずにおかない。
私の心の中にいる、私を昔いじめたそこら辺のおばさんとかね、そういう人のプロジェクションをうちの奥さんにやる。
だいたい破綻迷惑じゃないですか、これってものすごく。
うちの奥さんと何の関係もない意地の悪いおばさんとかね、意地悪おばさんみたいなね、そういう人だという想定のもとでやり取りするんですよ。
だから相手が危惧を害するのは当たり前なんですね。
もうここはですね、どっか一旦思い切ってやめるしかない以上のような件を全部踏まえて、
いずれにしても内的対処を相手にプロジェクトしてみたところで、いいことがあるはずがない。
だからそれは頭の中でいくらやっていてもいいことがやっぱりあるはずはないと思って、
怖いんだけどやめていきなり本番だけにするっていうせめて癖をつけるとですね。
つまり脳内の内的対処をあれこれいじっていじってというか操作して劇場版をやって、
そしてやるとだいたい害している結果はいいものにはなんないっていう風に多分思えればですね。
そして害罪するものは自分の脳内にあるものが100%違って必ず一致したケースは一回もないはずだっていうのを、
私はそのためにタスクシュートって結構使えると思ってるんですよね。
時間と順番が狂ってくる。
どれほどシミュレーションを完璧にしておいたつもりでもやっぱり狂ってくるってことは、
内的対処の世界というものは全然現実通りじゃないっていう、
当たり前だと思うんだけれども僕らはそれを逆が当たり前だと思ってますからね。
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思ってなければ脳内シミュレーションなんてしないと思うんですよ。
役に全然立たないことを絶対的に確信していれば多分やめちゃうと思うんですよね。
で、私はやめちゃったんですよ。
役に立たないことを絶対的に確信したんで、
やめると単に恐ろしいことが起きないというだけではなくて、
想像以上に事態は好転していくっていう、
なぜ好転するかまで僕が理解する必要はないんだってことがわかるんですよね。
つまりこういういいことが起こったらいいなと思うようなことの以上に
いいことが普通に自然に進行していくんで、
多分最終的に一番私たちが引っかかってくるのはここなんだと思うんですよね。
自分のコントロールしもしないいいことは信用ならないって思ってるんですよ。
それだけ脳のコントロール力という、
実は全く当てになってないものを僕らはずっと当てにして生きているんだろうと思いますね。
そうやってやってきても、非常にそれによる不利益をこむってきても、
死んだり破産したりしてないんだから、
それはそれで大したもんだっていう考え方もなくはないと思うんですけれども、
ただこれのリスクはですね、
少なからずいろんな人を巻き込んで、
自分をものすごく嫌な思いをさせるということだけは、
踏まえておいてもいいと思うんですよね。
どうしてそうなるかというと、最初の想定がそうだからなんですよ、結局。
世の中はそんなにいいところではなく、
自分にとって結構嫌な目に合わせるところだって想定があって、
しかもそれ信じてるわけじゃないですか。
信じてるからそういう想定の元シミュレーションをするわけじゃないですか。
この信念がそれほど生きていく上で、
心地よいものをする理由はないはずなんですよ。
なんでそれがそこまで信用できる自分の信念になったのかというと、
多分、過去の戦いにそれの原因があるんですよ。
そしてその過去の戦いは、実際にそれに近いことが種とれ起きたとしてもですね、
誤解に満ちてると思うんですよね。
例えば、おっぱいを飲もうとしたのにお母さんがくれなかった。
そういうことあるじゃないですか。
それはすごい嫌な思い出になるでしょう。
赤ちゃんにしてみれば。
もう覚えてないんですけどね。覚えてないんですけど。
そういうことが私たちの信念を形成していくんだけど、
この信念は、事実そんなことはなかったと赤ちゃんには言えない。
事実あったわ。
でもあったとしても、この信念を持って、
例えば50のおじさんが、
ある編集さんと出版社さんと一緒に仕事をするために、
この信念、役に立つかどうか。
これは別の話ですよね。
赤ちゃんは嘘をつかれたわけでも騙されたわけでもないけれど、
確かに飲みたいと思った時におっぱいなかったんだよなとか、
あるいは左のおっぱいでは悪かったんだよねって。
それはその時の赤ちゃんにとっては、
すごい絶望的な話なんですよ。
だから私たちが、
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それこそ今月一杯に書いてくださいというのは無理があるっていう風に思っても、
そういう締め切りを設定されましたなどという絶望とは比較にならないほど、
ひどいと赤ちゃんの時の私は思ったんですよ。
でもその信念、今それを使って仕事をするような信念かという、
でもその信念は決して妄想じゃないよね。
そう赤ちゃんが思うのは事実、思って仕方がないことなんですよ。
我々はそういう目に多分会ってきている。
小学校、中学校、高校、大学で会ってきている。
いちいちその度に、世の中は宛にならない、
ひどい人がいっぱいいるという信念を作って、
この想定の下でやっている脳内シミュレーションが役に立つとでも思って、
投影して、同一化させて、ひどい人をいっぱい、
ひどいというか殴る蹴るをしてくるという意味ではないんだけど、
そこまでひどくはないんだけど、
いろんな意味で心理戦を仕掛けてきて、
心を消耗させるというのが今回私が書いている本のテーマで、
私はこの本は必ず出るということを知っているし、
かなり良い流れになってきているという感覚があるんですよ。
あとはもういいんですよ。
あとはもういいんです。これ以上はいらないんですよ。
いかなるシミュレーションもここから先せず、
何の投影もしなければですね、多分全てはうまくいくんですよ。
そのプロセスの中で、
切り切りが何日に設定されたかということは、
少しも重要じゃないじゃないですか。
全く重要じゃないですよね。
これが重要だと思うのは、
左のおっぱいが出なかったときの赤ちゃんの気持ちで、
世界を計ろうとするからなんだと思うんですよね。
そういうことはあり得るだと思うんですよ。
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