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2022-05-30 32:23

【607GMV】「大事な人」から大事にされない?

母親は評価者ではない
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おはようございます、グッドモーニングボイスです。
今、私と60分対話するというサービスを5月から始めておりまして、意外と好評、意外とというか、誰に私にとって意外なんだけど、好評で、
5月はすぐいっぱいになりまして、6月分は8用意してあるんですけど、すでに残り4となりました。
6月分ですからね、まだ6月になってないんで。
この6月分というのは、6月30日までならばいつでも有効という意味なので、5月中に使っていただいてもいいですが、
もう5月って多分今日と明日しかないんですよね。
そういう感じの1時間で6000円と。
これ1時間という時間にも一定の意味はあるので、延長しても延長料金取るとかはないんですけれども、
2時間に延長してほしいって言ったら別ですよ。
10分とかだったらないんですけれども、カウンセリングじゃないですからね、コーチングでもなくて、そういうものではないんですよ。
対話の中で何か引っかかることがあったら、よく使い方をするならば一緒に解きほぐしていきましょうみたいな感じなんですね。
一緒に解きほぐすだけならば、そこら辺の人とでもやれるじゃないかって思えるかもしれなくて、
それはそうなのかもしれなくて、そうしていただいたらいいんですよ。
ところがですね、カウンセリングは専門家なのか素人なのかみたいな話がカウンセラーになろうとしている人は必ずよくぶつかる話なんですが、
一見素人でもできそうなことを誰にでもできる人というのはもう全然素人じゃないんですね。
そこら辺の人と話をして解決するようなことをわざわざカウンセリングしなくてもいいじゃないっていう考え方っていうのはその通りなんですよ。
そこら辺の人というのが自分の肉親だったり家族だったりするということがあって、しかもそれができるという人は実は恵まれている人なんですね。
あるいは恵まれた状況にあるんですよ。
その話をそもそも家族にはできないんですっていうケースはものすごくたくさんあって、
家族にできない話を家族以外の人にできるかっていうとこれはもういきなり難しくなるんですね。
そして例えば精神障害とか、あるいはそこまでもいかないにしてもヒステリーみたいなものに対しては、
専門家よりも素人、いわゆる素人っていうのかな、専門家でない普通の人の方が普通は偏見があるはずなんですね。
この偏見を取るというのがすでに一つの訓練なので、
そうなってくると黙って話を聞いているだけだったら誰にでもできるはずではないんですよ。
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黙って話を聞くというのは、ある種の人の話を黙って聞いていられるというのは、
訓練を叩き込まれているおかげでできることであって、
それがですね、生まれ流れにして誰とでも必ずできますっていうんだったら、
その人はもう最初からカウンセラーとして生まれついていると言ってもいいぐらいなんですね。
といったのが含み込まれでの対話っていう話になります。
どういう話でもそこら辺の人とできるかというとそんなことはないですよね。
つまり相手が聞いてくれるかどうかっていうのは、
ひとえにその人との関係性にかかってしまうんですよ。
カウンセラーという人たちが訓練されているというのは、
ひとえにその人間関係にかかっていないところにあるんですね。
だから料金を取ることは大事だったりするんです。
料金ってすごい大事な意味があるんです。時間設定も大事なんですけどね。
お金払った瞬間にその関係は実は第三者であったということに戻っていくことができますから。
これが戻れなくなるということは、つまりそれは家族になっちゃうということになりかねませんから。
家族になったらできる話を赤の他人として、
それが成立するんだったらそれって家族ですよね。
疑似的な意味であれば。
今日はそういうお話をしたいと思いますが、
ここで勝手に僕が考えている、勝手に答えているお悩み相談みたいなものは、
そうなっているケースとそうなっていないケースはありますが、
お悩み相談みたいなものは誰に向かっているものでもありませんが、
私のに対してそれを出すべきという、
この言い方おかしいな。
私のに対して出してほしいという場合には、
そのサービスをご利用いただければいいかなと。
そういうサービスです。
これもちょくちょくお知らせしていこうと思っています。
私がこれが続けられる限りにおいてですね。
コロナということも多分関係があったんだと思います。
普通は言うのはリアルや対面であるものですが、
今はリアルや対面であることが必ずしもいいわけじゃない状況なんで、
だいぶ緩和されてきましたけどね。
でも永遠に対話してしゃべるときに、
マスク越しだとかアクリル越しだというよりは、
ある意味オンラインの方がいい面もあると思うんですよ。
オンラインでカウンセリングできるのかという議論もすでにあって、
私最近読んでいる本が、
オンラインアナリシス、つまりオンラインでやる精神分析の本というのも出ているんです。
Zoomとか最新の危機的な話とカウンセリングにおける難しさみたいな話があって、
これは私が昔盛んに言っていたライブハック心理学、
テーマそのものに近いなと。
カウンセリングよりですけどね、話は。
しかもものすごく専門的ですし。
つまりそういう話になってきているなとは思います。
先日というか昨日かな、
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Twitterでちょっと言及いただいているんですよ。
第590回のグッドモーニングボイスだからつい最近ですね。
人にどう思われるかが気にならなくなる方法というのでしゃべったらしいんですけど、
これに言及していただいて、
自分の良くない面をダークな面で書かれているんですが、
出してしまって大事な人に惹かれたんじゃないかと自己嫌悪していたときに
これを聞いてお役に立てたと。
よかったと思ったんですが。
大事な人に惹かれたんじゃないかというこの話。
今日はこれを話したいと思うんですね。
結論だけから言っちゃうと、
ポイントは大事な人に惹かれたかどうかを問題にするということは、
私たちの神経症的な部分なんですね。
これはごく当然の態度だということになると思います。
ごく当然の態度ですし、
今の、それこそ最近かな、
一つの兆候として大事な人とそうでない人を分けるんですね。
分けるというのはとても大事ですね。
とても大事というのは分けるというこの態度が
全てを欠するところがあるわけですよ。
つまりこの番組で言う良いおっぱい、悪いおっぱいになっていくんですね。
この言葉が分かりにくいという話もあるので、
良いお母さんを悪いお母さんにしておきましょう。
良いお母さんと悪いお母さんは同一人物ですよね。
大事な人と大事じゃない人は同一人物じゃないんだけど、
私たちの世界ではですね、
大事な人と大事じゃない人とか、
大事な会社とそうでない会社とかいうことをやり始めているときは、
この問題が始まっていると考えてほぼ間違いないというか、
多分絶対に正しいというか、
正しいっていうのは変だな。
そういうあたりをつけておいて間違いはないと思うんですね。
つまり良い○○、悪い○○の○○は同じものである場合、
これは私たちの勝手な、勝手なと言っていいと思うんだけれども、
都合なんですよ。
それはよしよしで語るべきところではないんですね。
ここによしよしを持ち込んじゃうのも現代的な潮流なんですが、
ここによしよしを私たちは持ち込まずにはいられないというところがあって、
しかも今の世の中はそれが良いことだということになってきたので、
とっても僕らはそれで苦しむことにもなるんですね。
良い○○、悪い○○は良いお母さん、悪いお母さんにしておきましょう。
これがカウンセリングの基本とは言わないまでも、
やっぱりフロイトが考えたベースは一つにはこれがあると思うんです。
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弟子のメラニー・クラインが言ったことではありますけど、
全く同じことをやっているんですね。
それはですね、また話が飛んでるように聞こえるでしょうけど、
いないいないバーなんですよ。
あれドイツにもあるみたいなんですよ。
言葉を忘れちゃったんですけど、いないいないバーなんですね。
カウンセリングって、いる時といない時というものを
両方ともクライアントさんは扱えるようになるのを一つのゴールにしているはずです。
だから集結がすごく問題になります。
集結って合わなくなるってことじゃないですか。
何度も言ってますが、精神分析の方がお母さんだとして、
通っている人が赤ちゃんだとします。乳児だとしましょう。
そうするとお母さんがいなくなる。
ということはつまり一人立ちができるという話ですよね。
ここで大事な人が出てくるんですよ。
間違いなくうまくいっているカウンセリングはみんな、
カウンセラーは大事な人になってしまうんですね。
必ずこういうことで悩みます。
必ずじゃないかもしれないけど、悩む人いっぱいいます。
カウンセラーが気を悪くしたんじゃないか。
これ大事なポイントですよね。
カウンセラーが気を悪くしたんじゃないかというのは、
間違いなくクライアントさんのイリュージョンなんだけど、
クライアントさんはそう思えなくなるぐらい濃密に関わっていってしまう。
つまりカウンセラーにここで気を悪くして、
あなたの治療はもう引き受けませんなんてことを言われたら、
自分は生きていけなくなるというイリュージョンを持つわけです。
これは当然定義ですよね。
精神分析の用語でいうところの定義です。
親子関係じゃないのに親子関係が始まっちゃってるわけだから。
そして今は定義を利用する、精神分析では利用するケースが多いと思うんで、
全部が全部同じことを言うわけじゃないだろうけど、
精神分析家の方が突き放すということは十分あり得ます。
来たくないなら来なくてもいいですよという。
これを言うか言わないかっていうのはすごい重要な問題なんですが、
言うケースはあるでしょう。
土居武夫さんの精神分析の、あっちは専門書ですけれども、
ケースを扱った事例でこのようなことを言ったという話は何度も出てきます。
それが失敗だったかもしれないという風に精神分析家の方でも考えます。
でも私の本音のようなものだったみたいな言い方もします。
これはとても大事ですよね。
本音ではないんですが、本音のように言う、
つまりあれは土居武夫さんは激だっていう言い方をしますけど、
まあ激でもいいし、何でもいいんですよ。ごっこ遊びでもいいんですよ。
とにかくそこでそういうことをやる、やり取りをしてみる。
つまりお母さんにあなたはうちの家に帰ってこなくてもいいのよとか言われると、
子供ガーンとなる。
このガーンとなるということに、でも耐えられるようにならないと困りますよね。
耐えられるようになるということは、つまり大事な人に惹かれてもOKなんですよ。
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こういうふうに思えるようにならないと、
やっぱりずっとカウンセラーのところにいなきゃならなくなります。
つまり集結できなくなるわけですね。
集結ってすごい大事なことですよね。
そうじゃないと永遠にそこに通ってなきゃならなくなります。
で、いいお母さんと悪いお母さんというふうにまず用事を考える。
これが一番用事的な思考なわけですよ。
優しくしてくれるからいいお母さん。
怒るからダメなお母さん。
両者は別々のものじゃないんだけど、最初はもう用事だから。
別々のものとして扱う。
悪いお母さんのときは徹底的に攻撃する。
用事の攻撃ですから大したことはないんですけど、
とにかく用事側としては真剣に攻撃する。
でもこれは大人になっても僕らやりますよね。
ここでですね、よく持ち出す手法として、
例えば口を聞かないとかね。
あるいは大事にしてくれないなら出て行くと言うとかね。
これ子供が親に言っても不思議のないセリフですよね。
最近読んだ漫画で離婚がテーマになってるんですけど、
やっぱりなぜ私をもっと大事にしなかったんだって。
これは非常にいいお母さん、悪いお母さんですよね。
夫がお母さん役になってるようにも見えるっていう意味ですけれども、
私を大事にしないから私は腹を立てたんだってことですよね。
つまりそれはあなたが悪いお母さんになったらこの縁を切るんだって話ですよね。
いいお母さんなら切らないんだっていうことですよね。
つまり同一人物の二面性の中で白と黒に分けて、
白に対しては白い私、黒に対しては黒い私を出すわけですよ。
つまりそれが極端になるとホワイトとブラックになるわけですよ。
イヴ・ホワイトとイヴ・ブラックになるわけですね。
この間の間を繋ぐ同一人物なんだし、
自分は同一の人間として対応してるんだけれども、
非常に極端に触れた場合はもう記憶が繋がらない方が便利だというわけで、
自分を多重人格に切り替えますよ。
これで困るのは自分じゃないですか。100%自分ですよね。
あなたが大事にしないから出ていくって言ってる時には、
相手が困るだろうっていう含みがあるんだけど、
自分が困るわけですよ。少なくとも帰りまで行っちゃったら自分が困りますよね。
本当はどこまで行こうと行くまいって、
ただですね、自分が困るんだけれども、
この話、自分が困るか相手が困るかって話を追求し始めると、
どっちかっていうと社会問題に引っ張られていってしまうわけです。
あるいは善悪の問題になっちゃうんですよね。
相手が悪いのか私が悪いのかって話になるじゃないですか。
普通は世の中ではそうしておくんです、この問題は。
良いお母さん、悪いお母さん、悪いお母さんになった悪いのは
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客観的に見て悪いのかなっていう話になりやすいんですよ。
この問題はそうしたくないから、カウンセリングっていうものはあるんです。
ここでグッドバイブスって言いたくなったんだけど、
今日はカウンセリングの方にしておきます。
どっちでも同じ話をすることになるんですが。
つまり私が態度を変えるのは相手次第だという
この状態から抜け出したいわけです。
だから相手が大事な人であるかどうかは問題じゃなくなっていかないと困るわけです。
相手が良い人か悪い人か、あるいは大事な人かどうでもいい人なのか、
あるいは価値のある人なのかない人なのか、
あるいは良心的な人なのかサイコパスっぽいのかは関係ないんです。
こういう話をすると現代的じゃないじゃないですか。
この言い方をしている奴は考え方が私と合わないって必ず言われると思うんです。
私の本がそう言われたわけですよね。
この考え方はでも私は絶対に我々には必要だと思うんですよ。
それは入陣っぽいようでは、生きていく上で非常に不都合だと言ってもいいと思うんですけれども、
とにかく相手次第で私の状態が変貌するっていうのを脱したいわけですね。
少なくとも自分は脱したいし、脱さないでこの状態に留め置かれているせいで困っている人がいっぱいいるのに、
ここに善悪を持ってきちゃうと私たちはこの状態のままにならなくなるわけですよ。
相手が良い人か悪い人か、まずそれを決めなきゃならないってことになるわけですね。
相手が良い人か悪い人かって言っても、相手には二面性があると。
私を大事にすればあなたは良い人だって話をしているんだから、大事にしないにも程があるってわけじゃないですか。
つまりこれは程度問題だって話をしている。
程度が行き過ぎている、これは世論的に見ても誰が見ても行き過ぎているのかどうかっていう議論を始めているわけですよ。
誰が見ても行き過ぎているんだから別れてもいいでしょうという、別れることが正当かどうかって話をしているに持ってっているわけですね。
ここに持ってくということは、私は相手次第では苦しまなければならないということを引き受けなきゃならないんですよ。
この部分が今時の世の中の議論ではすっかり抜け落ちているということを私はグッドバイブスに気づかされて、
そういえば同じ話をフロイトがしていたってことを思い出したわけです。
今のようなことを淀みなくもう一回言えるかというと自信がないんですけど、将来そんなことは忘れそうなんですけどね。
でもこう考えたことは間違いないんですよ、私は。
この話はどこかで聞いたことがあったと。
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精神分析で聞いたんだということを思い出したんですよ。
精神分析は全く同じ話をひとすらしていたんですよ。
例えばドラという女の子でヒステリーですね。
うまくいっていないんですけど、フロイトのドラのカウンセリングは、精神分析は。
でもあそこに書いてあることはまさにそういうことで、
あの辺からこの理論が確立していく感じなんですよ。
転移とかヒステリーとか、そういうものがすごくフロイトが考えながら考えながら、
たぶん私はわかりませんが、今時のカウンセラーから見ると、
実に素人くさくそれこそフロイトはいろんな目に見える失敗を重ねているんだと思うんですけど、
でもやっぱりあれを最初に教科書的に売り上げていったところはすごいと思うんですよね。
今読んだってよくわからんと思ってしまうわけですから。
でもこういうことなんだと思うんですよ。
私たちすぐそうなるじゃないですか。
自分の師匠みたいな人ってとかくそういうふうに扱いがちですよね。
私に対していい指導をしてくれてる時はその教えなりをすごく守りたいんだけど、
ちょっと嫌なことを言われると、この師匠ダメだってなるじゃないですか。
師匠変わってないわけですよね。
なのに私たちは自分の態度を変えてしまう。
この時に自分の態度を変えるのが正当なのかどうかっていう議論はする必要がある時もあるのかもしれませんが、
そしてするんですけど私たちは。
でもこの議論をしている限りは私たちは苦しみ続けるはずなんですよ。
人には私に良くするという義務だけで生きてる人は誰もいないわけなので、
だからその人が冷たくしたのかどうかとか、
私がその人に対して失礼なことを言ってしまったのかどうかとかを問題にしてはまずいと思うんですね。
ところがこれを問題にすることこそが人間関係だっていうふうに今の世の中なってるので、
私たちはこの苦しみからずっとこの苦しみを、
人間関係というのはこの苦しみとの戦いとこの苦しみをいかに生み出さないかのテクニックであるみたいになってるんですよ。
だから大変なんだと思うんですね。
私の態度は相手にとって好ましかっただろうかどうなんだろう?
既読するを続けているのはあの時ああ言ったからかもしれないとか、
ここのコメントが気に入らなかったのかもしれない。
全部これですよね。
相手が良いお母さんなのか良くないお母さんなのになったのかっていう議論を頭の中で延々してるんですよ。
お母さんの機嫌を見てるわけですよ。
だから私は本の中で顔色を伺うっていうのをキーワードにしたんですね。
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顔色を伺うというのはつまり、
自分の心理的な平成は相手次第で決定されるって言ってるんですよ。
これを相手次第で決定される一番最初の一番原始的なところに、
つまり良いお母さんと悪いお母さんがいたわけですね。
もうちょっとエリプスコンプレックスに寄せて言うと、
その悪いお母さんというのはお父さんのところに行っちゃうお母さんなんですよ。
私のことだけを愛してくれないお母さんなんですよ。
あるいは妹の面倒を見始めてるお母さんなんですよ。
しょうがないというふうに我々はすぐ考えることができますが、
そのように幼児は考えることができないわけですよ。
お父さんとイチャイチャするお母さんというのは気に入らないわけですよ。
私のことをもっと気にかけろ、さっき言ったじゃないですか。
私をもっと大事にしてくれないから私は別れるのだっていうこの意見は、
大人の意見だけれども極めて情緒的に
一番最初にそういうことを考えたことがあったんじゃないでしょうかってところまで探っていくと、
フロイトに言わせればですけどね、ゼロ歳児の時ですよねっていうことになるわけですよ。
お母さんは私のことだけを面倒を見てくれればいいのに、
なぜなら母親は一体だから。
ミルクを飲ませたりおむつを取り替えたり、
とにかく私が困った時は常に何かやってくれなきゃいけないのに、
なぜお父さんの方が好きだみたいな態度になっちゃうのか。
とても傷つくって話が一番最初に人生で経験した時は多分ここにあったでしょうと。
良いと悪いを分けましたよねと。
相手は同じ人間なんだけどこの部分は良い部分、そっちの部分は嫌な部分って分けましたよねと。
これを思い出してるんじゃないでしょうかとか、
あるいはこの問題をまだあなたは解決できてないんじゃないんでしょうかっていう話をしてるわけですね。
それと同じことをもう一回ここでやってみましょうというのがカウンセリングだったと思うんですね。
精神分析とか。
もう一回ここで母子関係が一体だった頃に戻ってみましょうと。
あなたのことは何でも私が面倒を見てあげますよ。
お母さんになってあげますよって精神分析の人は言うわけですよ。
だからすっかりこの種の問題で本当に困ってる人はすっかりお母さんのように精神分析を扱い始めるわけですが、
いや料金はもらいます。話が違うじゃんってことになるわけですよ。
あなたお母さんなんだから料金取っちゃダメじゃないですかと。
そういう傷つき方を必ずもう一回思い出すことになります。
それどころか精神分析やってる人はもしかすると、
もう夏になったんでこれから沖縄に旅行行くんで来週はなしですとか言ってくる。
お母さんともあろうものがミルクをくれる機会を無視して来週なしですというとんでもない話を言ったわけですね。
24:07
その時にこの種の傷つきで苦しみやすい人はこう考えるわけです。
あの先生は沖縄に旅行しに行くとか言ってるけど毎年行ってるんだろうかと。
もしかして今年だけなんじゃないんだろうかと。
それは自分がですね、自分のケアをあるいはカウンセリング、精神分析なりをするのが
あの先生嫌になっちゃったんじゃないんだろうかと。
私が連想でいろんなことを喋ってすごくこうみっともないところを晒したから
あの先生は嫌になってしまって旅行に行くとか言い出したんじゃないんだろうかという風に考えるんですね。
これはもう全くいろんな場面でしょっちゅう僕らがやらかしてしまう失敗ですよね。
これをやってる最中はいつもこれをやってるってことに気づかないわけです。反復脅迫ですね。
いつもこれと同じパターンにハマってるってことをすっかり忘れて
あの先生は特にひどい人だから私を見捨てて沖縄なんかに遊びに行けるんだとかそういう風に考えるわけです。
ここが大事なんですよ。こういう風な設定をしてこういうことが起こることが確実な
言ってみれば実験室の中でそういうことを再現してみると。
起きましたと言った時にさあどういう風に対処しましょうかと。
これをできるようになれば多分他の人との関係の中でもできるようになると。
大事な人の前で失態をしたからあるいは大事な人がひどいことを言ったから
でその人の嫌な面が出たからその人とは縁を切るとかとても寂しくなるとか
そういったことはこれまでも何度も何度もその人の人生で襲ってきたはずの話なんですね。
最初は多分不安になる。突き放されるから。次に怒るというケースが多いと思います。
先週何度か出ましたけど自己肯定感が低い人がクレームを出す理由ですね。
ひどいじゃないですかと。
なぜ毎週毎週会う約束をしているのに沖縄に旅行なんかに行くんですか。
この種のセリフを他人が聞けばどう考えてもクレームに聞こえるんだけれども
言ってる本人は極めて真剣な状態にあるから絶対これはですね正当なものなんですよ。
つまりここであの先生のやってるやり方、カウンセリングの仕方は正しいのかそうじゃないのか
っていう議論が頭の中で沸き起こるわけです。
そして私たちの文化はこの議論をするべきだっていう方向に向いてるから
この種の問題で苦しむ人がそれこそ反復脅迫的に何度も何度も苦しめなければならないんですよ。
いてもいなくても大丈夫なはずなんですね。
27:03
そんな大事な人があるいはカウンセラー。カウンセラーはとても大事な人なので。
あるいは母親がですね。
この場合の母親は当然情緒的な意味での母親なんだけど
いてもいなくても大丈夫なはずなんですよ。
ところが赤者にとってはそうではない。
だから自分にとってもそうではない。
このだからがだからじゃなくなれば自体は収束するということになるんだけれども
多分そんなに簡単には収束しないでしょう。
そんなに簡単に収束しないということはですね
精神分析ってもともとというかどういうふうにやるかというと
今そんなにやってるかどうか知りませんが
週4回以上は会いに行く。
1回1回の要件もはっきり言って結構高い。
毎回毎回会いに行って毎回毎回話をして
デイドリーさんの本とかを読んでもそうなんだけど
全く何の進展もしているようには見られないまま
1ヶ月2ヶ月とひどい場合は1年と経つ。
何なのっていう話になるじゃないですか。
この何なのが今の文脈で言ってもすごい大事ですよね。
このような情緒の問題は言われれば構造指摘されれば
人は頭では分かっているということを平気で言えると思うんですよ。
そうやってクレームを出すのがおかしいとか
寂しくなるのが変だとか
先生にも先生の都合があるというのは頭では分かっているんだけど
情緒がついてこない。
このような問題を手っ取り早く解決しようとするという
発想がそもそも問題なんですよね。
たぶん現代でここに善悪をすぐ持ち込むのは
手っ取り早い決定というもの
手っ取り早い決着を見たいからだと思うんです。
ここでこそグッドバイブスで
倉園さんがよくおっしゃっていたわけですよ。
時間を帯状に見るんだと。
つまり時間の長さを測っても仕方がないと。
でも僕らはその価値観が全く逆の価値観を
幼稚園から大学卒業まで徹底的に仕込まれて
社会人になるとさらにそれを一層強化されるので
早ければ早いほどに少なくとも何の効果もないもので
一定以上の金額を取り1年も続くものは
はっきり言ってそれはもう詐欺だと。
実際そういう先もあるしね。
すごいこの辺難しいんですけれども。
でもよく考えてみてほしいというのは
多分カウンセリングの世界では
よく考えてみましょうということなんだと思うんですが
赤ちゃんがお母さんとの関係の中で
お父さんと仲良くしているだろう
他の兄弟に良くするだろうということで
悩むようになるのには数年は要しているはずですよね。
イヴ・ホワイトが発症したとされているのは
多分6歳です。
それもおそらく妹へ強い嫉妬で
ヒステリー性の乖離を発症している6歳ということは
30:02
お母さんとの関係は既に6年。
こういったものの中で少しずつ狂ってきたような
情緒上のもつれをほどくのに
2日や3日で話を聞いただけで
あるいは話をちょっとしてみただけで
それが解きほぐせると考えるのに
まあ無理があるわけですよ。
1年2年かかるというのは
この理屈を理解するのに
1年や2年かかるはずがないんですよ。
でもこの状況を理解するのには
結構な時間が必要
物作業みたいな話ですよね。
本当に自分を良くしてくれた
さっきの大事な人みたいな話になりますが
おじいちゃん何をなくしたっていうのに
1日や2日亡くなって
人間、寿命がくれば亡くなるんだからっていうので
簡単に納得できるくらいなら
苦労はない。
1年や2年ってことはあり得て
その年数を測る意味もほぼ全くないのに
現代人はそれを測るんですよね。
1年経てばこういう効果
2年経てばああいう効果みたいなものを
効果測定せずするっていうことが
どんな世界でも成り立つという風に
人は間違って教え込まれたので
1年経て何の神殿もないように見える
そういうヒステリーのような問題というのに
これ以上やっていられないと
人は思うはずなんですよ。
これもまた大事なんですよね。
これってつまり大事な人が大事じゃなくなってるじゃないですか。
これ以上やってられない。
これ以上母子関係を続けていられないという
意識が
いわゆる独り立ちにはある程度必要ですよね。
こういうものが全部あれには多分
含み込まれているし
だからこそ既読するについて
悶々と悩んだというぐらいでは
いかなる解決も見ないんですよ。
必ず私たちが行き着く思考の結末っていうのは
あなたがもっと私を大事にしてくれれば
というやつになっちゃうんですよ。
32:23

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