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おはようございます、グッドモーニングボイスです。
5月5日日曜日、子供の日ですね。20時53分です。
相変わらず、夜なんですけどね。
連休中は時間はめちゃくちゃということで、もういいかなと思ってやってます。
今日はそもそも日曜ですしね。祝日やるかやらないかも適当になってしまったので、
やる日はやるし、やらない日はやらないぐらいな感じですね。
今日はお知らせいいかなと。
現在まだ、ベータ版を境界内というか、
つまりタスクシュートクラウド2ベータ版というのがですね、
Jマスタキさんのほうからアナウンスがあったんですけど、
まだかなり限定的な公開で、だけれどもここまでくればですね、
バグ報告から対応して正式公開になるまでも、
一応カウントダウンが始まったのではないかなと思っています。
カウントダウンといってもどのくらいになるのか、
私、開発のほうはわからないので、しばらくかかるのかもしれませんけれども、
でもとりあえず、私ももう使い始めております。
今日はその話をするかどうか、少しは入ってくるかなと思うんですけどね。
あとは特に、5月の19日に会長セミナーをやりますので、日曜日ですね。
これはちょうど2週間後の日曜日となります。
そちらもよろしければご参加いただければ幸いです。
合わせて26日、3週間後の日曜日に、
クラウドのけいぞうさんとのGood Vibesけるタスク集のセミナーをやります。
こちらはオンラインオンリーですので、
それもチェックしていただいていけるとありがたいです。
今日あたりから少しまた方向性を少し修正して、
そんなことを言えば毎回そうだとも言えるんですけれども、
こういう適当に今までのようにただただしゃべるという回もあると思うんですけど、
今日は一応ある種の方向性を持ってお話したいと思うんですが、
要はですね、私これからもう網羅的に行くっていうのをついつい私は望んじゃうんだけど、
網羅的に行けるはずのないところで網羅的に行こうとしても無駄なので、
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すごい偏りを丸出しにしていきたいなと思うように、
これも前々から思ってはいたんですけど、
ついつい僕は正確的に多分できもしないことをやろうとしがちなので、
それをやめようと思ったわけですね。
要するに何が言いたいかというとですね、
当然この番組を中心にと言っても他ではほぼ無料の情報発信的なことはしないので、
たまにはやると思うんですけど、
基本しないと思いますので、
ここで何をしているかというとですね、
もう3つだなと思うようになったんですね。
精神分析とグッドファイブスとタスクシュートを紹介して、
なるべくそれを広めていくというのが私の仕事の東西ですね、やること。
なんでその3つなのかというのは、
もうあんまり考えないことにしようと。
とにかくこの3つなのであるという、そういうことですね。
網羅的でないというのは、いろんなものを比較した上でそうしているんだという話ではないということですね。
例えばなぜGTDではないのかとか、
なぜCBTでは、つまり認知行動療法ではないのかとか、
考えるからめんどくさくなるのであって、
考えないことにしましょうということです。
それについて考えるというのは、他に任せようということですね。
3カ月チャレンジはどうなのかという話はあると思うんですけど、
3カ月チャレンジはこの3つを勧める私に、
しかし直接話を聞きたいという人は3チャレしかないはずということですよ。
僕は精神分析はやってない。
グッドファイブスも倉園慶三さんの事故啓発的な何かですね。
今のところこの世で倉園慶三さんにしかできないですからね、セッションとか。
タスクシュートはもうこれは教会に行ってください。
あるいは100日チャレンジに参加してくださいということですね。
私に何かを聞きたいという場合は3カ月チャレンジしかないですよということですね。
今日は精神分析の方から行こうと思うんですけど、
そういう意味では何も変わらないんですけどね普段と。
だけど今日は精神分析というものを知っておき、機会があったら受けるということをお勧めすると。
機会はおそらくないんですが、そこが変わってるよねこの日本においてはと思うんですけどね。
精神分析というものは多分日本と中国ぐらいしか、韓国も精神分析って言うんですかね。
そのぐらいしか言わないと思うんですよ。
サイコアナライティックですね。
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それは精神分析ですけど確かに。
でもサイコと精神はイコールじゃないですしね。
精神分析という漢字のものを受けるのは、漢字っていわゆる漢の国の漢字ね。
要するに漢字圏の漢字ですよ。
精神分析というものを受けるとすると、日本と中国しかないと思うんですけど、
その日本で精神分析を受けるのは非常に難しいと。
世界にこれはないんじゃないかということが起こりかねないといった話なんですね。
受けるにも何にも知らなきゃ受けられないので。
だから私のここでの役割は、
要はこれを皆さんに知ってもらうと。
こういうものは存在するんですよという話を知ってもらうと。
で、余裕があったら受けてもらう。
で、思ったんですよ。
知るためにどうしたらいいんだろう。
これからですね、ここでURLを紹介。
URLとか本とか、何でもいいんですけど、動画とかを紹介した場合には、
ノートの方にも、何を紹介したよってことだけは書いておこう。
ゴリョゴさんという方がですね、こういうので、スクラップボックスかな。
暮らしたさん、暮らしたただのりさんもね、やってると思うんですけれども、なさってると思いますが、
私もそういうのを真似して、
あんまりこう、網羅的にそれこそ体系だってやるのは、
私どうせ続かないんで、そんなことをしてもですね。
適当にやろうと思った次第です。
それでですね、まず、
精神分析というものを私がやっぱり一番簡単に理解するには、
最近では山崎孝明さんの聞き手がね、言論のやつの第2回、
隅本健一さんというのかな、書き聞き手の、
フロイドット・ラカンだけじゃない現場の精神分析っていうタイトルの動画があるんですよ。
めちゃくちゃ長い動画。これを見れば分かるはず。
これ見て分からないとなってくると、
かなり分かるのは今のところ難しいと私は思います。
で、分かる分からないは頭の良し悪しではないような気がするんですよね。
こういう考え方に納得がいくかどうかだと思います。
一言では言えないんだけど、無理やり一言で言うと、
この番組ではお伝えしたことがあるんですけど、精神分析というのは、
ジグモンとフロイドットが開発したカウンセリングの技法を、
組織でできるようにしていった過程です。
世界でおそらく最初の組織だったカウンセリング技法だと思いますね。
だからフロイドット心理学とか言わないわけですよ。
フロイドット・カウンセリング・ニューモンとかも言わないわけですよ。
あくまでも精神分析というんですね。彼がそう名付けたからですね。
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フロイドットじゃなくてもできるってところがミソです。
さっき言いましたけど、ウッドバイオスは今の段階ではクラゾン・ケイゾーさんじゃなきゃできないです。
ここに違いがありますね。
技法を並称していくシステムを作ったってことですね。
だからそういうシステムの名前でもあり、技法の名前でもあるんですよ。
きっとそういうものだろうと私は思いますね。
だから長く歴史的な話も出てくるし、
100年前のカウンセリング技法だから特殊なところもいっぱいあるしで分かりにくいと。
ついでに言うと人生経験みたいなものも必要になってくるわけですね。
私もこれがなぜ分からなかったのかというと、
一つにやっぱり、10代じゃ分からないところがあるんですよ。
なぜなら結婚した経験とかが必要で、結婚生活を送った経験とか、
やっぱり会社で働いた経験とかがあると分かりやすいところがあるんですけど、
分かりにくいんですよ。そういうものが一切ない場合には。
どうして人はそんなことで悩んじゃうのかみたいなのが分からないとですね、
いろいろと分からない話があるわけですよ。
ただそんなことが分かっても分からない話はあります。
例えば結局ウィンの上流階級が夫が浮気してると奥さんがどう悩むのかって、
結局僕にはそんなことは分からないわけじゃないですか。
私ウィンの上流階級の生活は一切知らないので分からないですよ、そんなものは。
だからウィンの上流社会向けに作られたカウンセリング技法だってことも忘れちゃいけないと思うんですね。
そういうことをいろいろとひっくるめて考えていくためには、
結局歴史の話まで出てきてしまうわけですよ。
そういうこともあって、いよいよ難しいわけですね。
じゃあ現代人向けにはどうなってんのっていうと、現代人向けにはポストってものがですね、
さっき紹介した山崎孝明さんという方が編集された本に出てくるんですけど、
精神分析的サポーティブセラミってどういうことやって話なんだけど、
そもそもこういう精神分析期限の支持的心理療法とかいう説明的で長い言葉が、
何故出てきているのかということも理解する必要が出てきてしまうんですよ。
非常にややこしいんですね。
だから私、ポストの本を読むと、今何が行われているのか分かっていいと思うんですけど、
ポストの本を読むにはやっぱり精神分析がある程度、
用語の最低限でもこのぐらいのことは分かってないと分からんみたいなところがあってですね、
これがもう鶏が先か卵が先か的な話になってしまうんですよね。
例えば野球のルール全く分からないという人に、
野球のルールを教えていった方が野球が分かり良くなるか、
それともテレビを眺めておいて、テレビ眺めているとですね、
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野球のルールよりもまずどれがストライクでどれがボールかということばっかりが目に入っていくと思うんですね。
基本的に野球って全体が映ってないじゃないですか。
ピッチャーとバッターばっかり映ってるじゃないですか、キャッチャーと。
あの人何やってんのっていうのを先に聞いた方がルールの説明なんか聞くよりも、
分かりがいいってことってあるじゃないですか。
これ野球分かってる人には何の話してるか分かると思うんですけど、
どっちの説明から行った方がいいでしょうかって話に近いところからですね、
歴史の話で行くのがいいのか、臨床自体の話で行くのがいいのか、
用語解説から入るのがいいのかって、
どこから入っても結構めんどくさいわけですよ、話がでかいから。
そんな話をなぜ私がしているのかを今回話しているわけなんですけど、
なぜしているのかというとですね、私はやっぱりこれが分からないで、
人は我々はですね、カウンセリングを受けるっていう気にまずならないなと思ったんですよ。
結局私だってそうなんだけど、受けるためにやっぱりこれを知る必要が結果としてあったなと。
だからアメリカでも受けたことは受けたんだけど、
アメリカで受けた時にはですね、結局私カウンセリングを受けているっていう自覚はなかったんですよ。
悩んでるっていう意識がなかったから。
で、悩みっていうのがそうなんですけど、
悩みって結局どの悩みについて話すかって問題が実はあるはずなんですね。
例えば大学受験で悩んでる人は、
勉強ができないことについて人に相談したいのか、
それとも英語ができないことについて人に相談したいのか、
または勉強したくないことについてそもそも相談したいのか、
あるいは大学行ってどうするのかっていう実は自分の葛藤があるって話をしたいのか、
分かってないとできないじゃないですか。
このことを僕がやっぱりすごく意識するようになったのが、
うつぱんを読んで以来なんですよ。
うつぱんさんは結局すぐに一番必要としている時にですね、
なかなか正式のカウンセリングにつながることができなかったんですよ。
あれほど必要とされている方のお話であるにも関わらず、
まずそれができないところから話始まっているんだけど、
できなくて当たり前だろうなって思うんですね、なかなか。
っていうのはそもそも自分がどこに相談すればいいか分からないのではないだろうかっていう問題があって、
それ分かっている方がいいなと、うつぱんさんがって意味じゃなくて、
私たちがという意味です。
分かっていた方がなぜいいかというと、いざという時役に立つからなんですね。
精神分析というものをとにかく知っておくだけで、
自分の悩みのどこに焦点を当てればいいのかというのが、
少し分かってくるのですね、私の考えではね。
そもそもこれを知らないと、
例えばカウンセリングには認知行動療法というものがあります、
精神分析的指示的療法というものがあります、
などということを言われてもですね、何のことやら分からないんですよ、多分。
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だから、ポストの本を読むというのはすごく僕はいい方法だなと思う一方で、
ポストの本だってやっぱりこうなんていうんですかね、
なぜポストなのかみたいな話があるわけですよね。
ポストにするべきなのか、それとも精神分析的な、精神力動的な心理療法の方がいいのかって、
これは専門家の人が読むべき話であって、
ユーザーがそれについて読んでも、なんだかよく分かんないと思うんですね。
いきなりそんなことを言われちゃってもですね。
どうしてそもそもそんなことが話題になっているのかが分からないじゃないですか。
私なんか多分、つい最近までそんなことは分からなかったです。
ポストがいいのか、力動的な心理療法がいいのかっていうのは、
どういう意味なんだろうって感じがするんですよ。
それってユーザーが知らなくてもいいことなような気もするんですよ。
でも、それを知らないで、どっちが行われるのかっていうのを相手の人に任せるとしてですね。
相手の人はその両方を選択肢にそもそも置いているのかどうか分からないじゃないですか。
そんな考え方がそもそも必要なんだろうかっていうのがそもそも分からないじゃないですか。
これがですね、僕は非常に不思議な状態だなって思うんですよね。
患者さんというかユーザー側の立場からしてもやっぱり、
これも前に少しちらっと話しましたけど、これから私が行くべきところなのは
自備科なのか会社なのかは分かるじゃないですか。
これが分からないってことは考えられないですよね。
このレベルのことも知らないほうがいいのか知ってるほうがいいのかが分からないんですよ。
精神世界の悩みについて言うと。
そこが問題だろうなって思うんですよね。
その状態ではかかるほど勇気にそもそもならないんじゃないかなって私は思うんです。
うつばんさんの本を読んだときに、やっぱりそれだけの問題ではないように
あの本を読むと思うんですけど、でもその問題はあの中にあるよなとは思ったんですよ。
どこに相談していいのかがそもそも分からないというときには
とりあえず電話しまくるんだけど繋がらないみたいなね。
繋がらないっていうのは電話がっていう意味じゃないですよ。
どこに繋がっていいのかがあまりにも曖昧すぎて
結局のところ自分は結果としては繋がれなかった。
でもなんでなのかがよく分からなかったみたいなことが起きちゃうわけですよ。
だから私はですね、とりあえずちょっと時間としては長いんですけど
この山崎さんの動画、言論のやつですね。
見てみましょうと。
でもこれを見る暇がないということであればですね、
たぶん同じくらいの時間はかかっちゃうんですけど
集中後期精神分析かな、藤山直樹さんのですね。
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いろいろ読んでみて、これが一番分かりよかったかどうかは
これを一番最初に読んだわけでは必ずしもない私にははっきりしないんですが
でもこれかなーみたいに思うんです。
これ読んだからといってですね、精神分析が分かるというのとは違います。
でも精神分析というものがこの世にあるってことは分かります。
これも変な話してるように思われると思うんですけれども
精神分析がこの世にあるってことを僕らはなかなか信じられないんじゃないかなと思うんです。
見たことないですよね。
しかも受けてるって人も知らないですよね。
先日TwitterXでね、その人口はガウンセラーの人口ですよ。
精神分析やってる人の人口じゃなくて、なぎなたやってる人と同数ぐらいだって。
ガウンセラーはなぎなたと同数なんだって、僕は先日も話したと思うんですけど
衝撃的な気がしたんですよ。
なぎなたやってる人って身近にいなくないですか。
私はいないですね。なぎなたやってる人って知り合いに一人もいないです。
つまりこういう状況なんですよ。
知り合いにお医者さんっていますよね、多分ね、皆さん。
このぐらいにならないとダメじゃないですか。
今のは精神分析家の数じゃないですよ。
精神分析家の数はなぎなたより絶対少ないですよ、圧倒的に。
真理ガウンセラーの数ですよ。
本当なのかわかんないですけどね、僕にはね。
でもガウンセラーの数がなぎなたやってる人と同数とかはまずいんじゃないのかなって感じがちょっとするんですね。
本当じゃないかもしれませんけど。
でも多分分析家の数は間違いなくなぎなたより少ないと思うんですよね。
それじゃ見つからないですよね、はっきり言って。
で、この世の中で本当にそれが行われているんだろうかと。
日本語圏でって意味で。だって日本語でやりとりしたいじゃないですか。
悩みを英語で僕ら話せないじゃないですか。
僕これ大きな問題だったんですよ、アメリカ行った時の。
CBT、いわゆる認知行動両方にしても英語じゃ僕じゃやりとりができない。
あなたの悩みを自由に話してください。
いや無理、英語ではってことに。もうここでつまずくんですよ。
悩みを人に伝えるっていうのは、我々が簡単に思うほどは簡単では全然ないんですね。
まずそれをやってるって人がどこにいるかを知らなきゃいけない。
次にその人のところに、これがハードルとても高いと思うんですけど、悩みを相談しに行く気にならなきゃいけない。
で、最後に自分の悩みを何に悩んでるかをこう伝えれば何とかなるだろうっていう当たりがつくぐらいにはまとめられるようになってなきゃいけない。
そしてその時にそこまでやりきるだけのエネルギーが備わってないと無理。
だから私は言ってるっていうか、ここではそういう話をしているわけですね。
元気なうちに少なくとも存在していて何をしそうなところなのかを知っておきましょうと。
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しかも僕の中ではそれでもいざ通いに行くんでなければ無駄な知識になるじゃないですかってことが精神分析はないと僕は思ってるんですね。
だから伝えてるんですね。
皆さんつまり精神分析について知っておくということは知った瞬間から僕は役に立つと思うんですよ。
後日グッドバイブスの話もしますけど、さらに後日タスクシュートの話もしますけど、この3つは僕が何がいいって使い始めた初日から役に立ち始めるっていうところがいいと思っているんですね。
結局悩みの根底に親子問題がある、家族問題があるって大事なポイントなんですよ。
なぜなら家族と親のいない人はいない。
全く100%家族にも親にも何の問題も全くなくて、でも悩みが、しかも個別具体的で実務的じゃない悩みが漠然と自分を捉えて離さないんですというケースは私には想像がつかないんです。
私が最近すごいこういう話をしている、そしていろいろ人のお話を伺ったり自分の悩み相談をしているうちに分かってきたのは、うちはいっぱい問題があったんだなってことを忘れてたってことなんですよ。
私は自分自身ほぼ問題ない家だとなぜか思い込んでたんですね。別にそう思わされてたわけじゃないですよ。
私は100歩譲って、そういう本も読んでるし買ってもいるから、100歩譲ってうちの親は毒親と言われる可能性があるだろうかと存分に検討してみたんですね。
でもないんですよ。でも、だから問題がなかったわけじゃないですよ。だから私はこの毒親っていう表現が好きになれない。
十分役に立たないケースがあるなっていうのが気に入らないんですよ。僕の中では。
親を毒誘惑にする割には漏れるなっていう。毒親とは言い難いんだけど問題はある家はいっぱいあると思うんですね。
私は親に感謝してるっていう表現嫌いなんで、尊敬してるっていうのもリスペクトしてるっていうのも嫌なんで、リスペクトも尊敬もさほど感謝もしてるとは言い切れないかもしれないが、
逆説のがんになってるのかなこれ。かき焼き中だから気になるんですけどね。言えないけれどもですね。けれどもって言い換えても変わらないんだけど、親には問題はあるんですよ。はっきり言って。
私が精神病になっててもおかしい。
精神病にはなってないと思いますが、神経症が非常にこみ入ってたり、あるいはパーソナリティ障害を抱え込む可能性は十分ありました。あるいは抱え込んでた時期があったかもしれません。
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それはあり得ると思うんですよ。その原因ではないけど、非常に強いファクターに親はいます。でも、親に罪はない。しょうがない、あれは。ああいう育て方になる。少なくとも、なるのはそんなに異常なことじゃないです。
ただ、だからといって、神経症と無縁でいられるほど良い育て方はできてない。しょうがない、それは。と思うんですね。
こういうことを理解するために、私はですね、行動療法では正直物足りないんですよ。というか、私はこういうことを理解したがりなんですね。行動療法でもいいと言えなくはないんですね。
つまり、認知の歪みって言葉をどうしても私はですね、どっちにしても、つまりその歪んでるのが良いとか悪いとか責任は社会にあるとか個人にあるという話とはまた別に、歪みということを私はやっぱり根本的にどうしても納得できないんですね。
歪んでない認知はないと僕は思ってしまうんで、そこは正直単なるこだわりかもしれないんですけどね。余計なこだわりかもしれない。言葉に無駄にこだわってるだけかもしれないですよ。認知コード療法の先生方だって、僕と全く同じような意見の人はいっぱいいるだろうなって思うんですよ。
ただ、私は、何て言うのかな、適正な認知というものは何とも言えず嘘臭く感じるからしょうがないですね。これはね、もう性格ですからね。僕の認知は歪んでると思うんだけど、僕は。でも認知の歪みというものはこの世にないと思うんですよ。
そしてとにかく、認知コード療法であれ、その理論であれですね、私、それこそ内佐の認知心理学とかもすごく好きですし、原書でも2、3冊は読んでるんですよ。別にだからなんだってわけじゃないですよ。ただ読んでるんですよ。
でもやっぱり、12分にそれで満足できたかというと、程遠かったんですね。面白かったけど、12分に満足はできなかったんですね。やっぱり私は、なんだかんだ、マーフィニコ・クラインのところまではどうせ言ってただろうなって思いますね。ここにきてようやく納得感のある話が聞けてるなって感じがするんですよ。
やっぱりナルシシズムって自己愛と関係ないんだなっていうところまで来ないと僕は納得できない人間なんですよ。ナルシシズムはナルシシズムだってあって、自己愛とは関係ないんですよね、別に。自己愛という表現自体が多分間違ってると思いますね。そういう話聞くまでは結局納得できない人間なんですね、私は。
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だからここにきてようやく対象関係という、主観性という話になって、そうだよね、みんな主観の世界にいるよねという話を聞いて納得するわけですよ。それは正しいとか間違ってるとかいう話とは違うんですよ。
だから私が例えばある状況で精神病的になるというのは、その人とその時だけの話なんですよ。その人とその時だけ精神病状態になっちゃうと。だけど過言を残すしがちじゃないですか。でもこの話聞くとだいぶ過言残さずに済むじゃないですか。ある人となぜかあの時だけ酔っ払って掴み合いの喧嘩しないまでも罵り合っちゃったと。
でもその人との関係ってだいたい過言を残しがちじゃないですか。でもそれって私はくだらないことだなって思うんですよ。ある人にすっげえ悪口言われて腹が立ったからすっごい言い返しましたみたいなことが3年前にあったとするじゃないですか。だいたい絶縁しちゃいますよね。
特に学生時代とかだとついつい絶縁しちゃったりしますよね。その後すぐ仲良くなったりもするんだけど。僕はその絶縁ってすっごい意味ないなっていつも思うんですよね。だって人間そういうもんだと思うんですよ。やっぱり行き違いがあって。
売り言葉に買い言葉的になってね。ついついいろんなことを罵って、何でもいいこといっぱい言っちゃって、なんかすっごい気まずくなって、その時別れて以来も喋ってませんみたいなことになるんだけど。でも後から考えてみると、でもあの時酒入ってたしなーみたいな感じってあるじゃないですか。問題なのはその時うまくスパッと関係修復できる人もいるんだけど。
僕の場合どうしてもこういう性格なんて引っ張っちゃうんだけれども、無駄なことやってるなと思ってるわけですよ。絶対その時にしか、その時たまたまそういう風になっちゃうってことは人間の頭の構造からしてしょうがないので、いたずらに傷つき合うことないのになって思うんですよね。やっぱりね。なんかどうでもいいことにこだわってしまうんだなーって思うわけです。
その時の説明として、なんかそういう人に心の中になんかね、うちなる優先思想があるんだみたいなことを考え出すのはいよいよドツボにはまるんで、それよりもはるかにですね、感主観的なんだよっていう話の方が僕はわかりやすくていいと思うんですよ。
つまり人は精神病水準になることはあるんだし、たまたま巡り合わせが悪くてですね、その時対照関係的にお互いが悪いおっぱいをお互いにぶつけ合ってしまって、お互いが被害妄想に囚われてしまって、でPSポジションでやりあっちゃうんですよ。
これは絶対いいと思うんですよね。すっごいありそうなことだし、実際しょっちゅうあった気がするんです。という風に精神分析っていうのはある観点から見るとすっごい役に立つんですよ。
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シンバシで飲んでる時に思わず喧嘩しちゃいましたみたいな説明をする時にはすっごいこれはいいと僕は思うんですね。その上これこれを詰めてやっていくとですね、時間かかるけど時間をかけてやっていくと、いろんなそれこそ普通に直そうとすると相当難しい話になるパーソナリティディスオーダーみたいなやつ。
人格障害ってやつですよね。俗に人格障害とされてしまっているようなやつ。人格障害という話も同じだと思うんですよ。
単独で客観的にあの人は脅迫性人格障害という人ですなっていう人はいないと思うんですよね。この考えの方がはるかに人に優しいってこともあるんだけど、何よりもやっぱり納得感があるんですよ。私としては。
だってその人全然困らないっていう人いますもん。そういう人と一緒にいても。例えばその人とめちゃくちゃ仲のいい親友は、その人と同じなんですよ。脅迫的な部分は出るんだけど、でも親友だからOKっていうことはあるわけじゃないです。その場合その人は人格障害じゃないんですよ。
単なる親友なんですよ。でもその人は会社に行くと人格障害が出てしまう。これはやっぱり相手にもその原因も責任もあるとは言えないにしても、やっぱり相手次第であることに違いはないんですよ。関係性の中で生じてくる出来事だって考えるのがいいと思うんですよ。
実際そうだと思いますしね。だからその診断というのがアセスメント、ここから難しくなるわけですよね。結局アセスメント大事ですよって言われる。大事なんですよアセスメントは。なぜならば診察もなく治療に入るっていうのは倫理的にやばいですからね。
そしてこれを許していると、アセスメントなしで、それこそ資格もなしで、どんどんこういう知識だけでやっていくってことができるようになってしまうのを許すと、悪用するっていう人は登場するんで。実際にあなた恐怖症ですみたいなことを言って、それは声明判断でこういう名前だからいけないんだけど名前を変えてあげる、そのいい名前を教えるために100万円払ってくださいみたいな。
でもこれはその人がそう信じてないわけじゃなかったりもするんで、いよいよややこしいわけなんですよ。これを治すって言ってる人がですね、それを信じているっていうケースもあるし、しかももっと言うと、そうして名字変えてもらったらすっげー人生良くなったんだよってことが起こるんですよ、現実にはね。
だから簡単ではないんです。簡単ではないんだけど、私はその、なぜ声明判断でも治ることがあるのかまで含めて、実は精神分析を追っていくとわかってくるんですよ。ここがいいなって思うんですよね。
いやそれはインチキでしょうって言って済ませてもいいんですよ、別に。そうしていけないわけではないんだけれども、私はそれでだいたい納得できない人間なんですよ。ネチっこいんですよ、そういうところが。だから自分はやっぱりそういうのを含めてですね、インチキだろうなとは思うけど、どうして治ることもあるんだろうってこともやっぱり説明されたい人間としては一番ここに深入りしてくれるのは、僕は分析だと思うんですよね。
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この回だったかな、第2回の言論の時に山崎さんがおっしゃっていたのが、第1回かもしれない。これ第2回第1回の順で見るのが正解だと私は思います。第1回第2回の順で見るのではなくて、逆に第2回第1回の順で見るのが正解だと思いますが、どっちかで、
彼がですね、野の医者と自分たちの分けるのは要するに資格を持っているかどうかだけだ、みたいなことをおっしゃっていたのが、やっぱりそこまで言い切るっていうのはすごいけど、そういうことだなって思うんですよね。
そしてレンタルお母さんとかとは一緒に、ホストとかとは一緒にされたくないと自分は思ってるけど、本当に一緒じゃないのかと言われると、一緒じゃないとは言い切れないみたいなことまでおっしゃってたな、そういうことなんだと思うんですよね。非常にこれは先まで言ってんなとは僕は思うんですよ。でも難しい話です、はっきり言って。
これもやっぱりユーザーの側が、同じような知識までは行く必要全然ないと思うんだけれども、ミニマムな知識までは持っておかないと、同じことが、物理的な医療ではあり得ないですから。
隣のおじさんに虫歯を、葉っぱだけで治してもらいましたって、無理なんで、そういうことはですね。でも心理療法だと怒り得てしまう。それはなぜなのかっていうことを、自分である程度説明できる人の数が多ければ多いほど、私は自体はベターになっていくだろうと思うんですよ。
コロナワクチンを代わりに打ってもらいましたって、ヤバいじゃないですか、素人に打ってもらいましたって。絶対あり得ないと思うんですよ。でも心理療法はあり得るんですよ。
将来動画なんかを見ると、すっごいそれを感じるんですよ。フロイト説教おじさんくさくないこれって感じがするんですよ。でもしょうがないわけですよ。
だって他の、今のように敬長に徹するとか、そういう本が売ってなかった時代ですから、もっと遥かに以前の時代ですから、単なる説教ばっかりしてしゃダメですとか、そもそも介入って言葉すらないと思うんですよね。
介入のしすぎはいけませんとかね、転移ってのがあるんですって、転移なんて言葉、フロイトがその後で開発した言葉ですから、それ以前に転移って言葉自体がないわけじゃないですか。
だからそういう状況で、結局人生相談なのか心理療法なのか説教おじさんなのかわからんですっていうケースは、新聞説の創始者がやっちゃっていても別に不思議はないわけですよ。
明らかにあれはすっごい、説教おじさんだとしてもそうだと思ってみてもすごい洗練されてるけど、でも結局ドーラが辞めちゃった理由ってのは、フロイトはそれを転移の解釈、ミスというようなことでその後まとめているし、その観点はすごいんだと思うんですけど、
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いやでも単に説教されるのは嫌だったからじゃないのって思ったって別にいいわけじゃないですか。ダメっていう理由はないと思うんですよね。
だけどそういうふうに考えたのではしょうがないので、将来ドーラのケースってのはどういう意味があるのかっていうのも、結局精神分析という枠組みから見ると、見るとってことなんですよ、これは。
理解しやすい。精神分析という枠組みから見るとっていう考え方がそもそも何を意味しているのかを知るために、精神分析という枠組みが何であるかを知る必要ってあるんだと思うんですよね。
たとえ認知行動療法とその後のいろんなカウンセリングが、これは精神分析への批判精神から出てきたものだと思うんですけど、そんな2年も3年もよくわかんない箱庭療法みたいなことをやってたり演劇療法みたいなことをやっているんじゃなくて、
直接介入して、しかもそれも上手にやればですね、時間短縮して、しかも社会適応の方に迎えるんじゃないのかっていう、ある意味ではポストって言われているものも、そういうある種の批判精神から来ているものは批判ではないんだけど、
っていう感じがするんですよね。でもそれだって批判されている元が何で批判されているのかを知らないとわかんないじゃないですか。ある程度CBTは批判、精神分析批判から来ているものなんだということがわかればですね、意外にそっくりの技法を使う理由もわかってくると思うんですよ。
例えば対面であるとか、時間区切るとか、完全に同じでは全くないんだけれども、でも非常に似たところがあるわけですよね。批判的でありながら似ているのは、批判的であるから似てるっていう面もあると思うんですけど、批判的でありながら似てるのはなぜなのかっていうのも、分析の方をわかんないとわかんないと思うんですよ、結局。
で、どっちの方を受けたいのかっていうのを知ってる方が本当はいいと思うんですね。そこまで知らなくてもいいと言われればそれまでなんですけれどもね。私はCBTでやりたいんですっていうのか、私はCBTじゃない方でやりたいんですっていうのってやっぱり要求していい話だと思いますし、それって私は本当は物理的な世界でもある程度要求していいんじゃないかっていつも思ってるんですよね。
歯って絶対むし歯になったら削んなきゃいけないわけっていうのってなくないですか、皆さん。私絶対あるんですけどね。削られてから調子が良くなっている歯なんて一つもないんで、削らずに済む方法ないのかって思うことはいっぱいあります。
インプラントとかだったら選択の余地あるじゃないですか。なのに結局のところ削る以外の方法ってあまりないような顔をしてガンガン削っていっちゃうっていうことは起こるんだけど、僕は後からですね、これ削らずに済ませられなかったのかな、僕痛くなって削られたって歯は一つもないんですよ。
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これ会社さんが聞いてるかどうかわかりませんし、聞かれていたらナンセンスだって思われるかもしれませんけれども、やっぱりできれば削られたくないじゃないですか。
まして今の混沌とした日本の心理カウンセリングの現実を考えてみるとですね、いくつかは知っておいていくつか選択ができるっていうのが、それは非常に簡単ではないことではありますけれども望ましいと思うんですよね。
そのためには、もうこれどうにもならないんですってなってから大概の方は心理療法なんて受けられると思うんですけど、前の方がいいと本当は思うんですよ。
どうにもならない。どうしようもない。家から出るのも難しいってなってからだと現に通うことも難しくなってしまいますので、少なくとも何が自分に選べるのかは知っておいて損はないと思うんですよね。
ただそれって結局のところ役に立たない知識かもしれないので、新聞説がそれだったらいいような気がするんです。
それはなぜかというと、話が元に戻るんですけど、人事とか面接の時にも間違いなく知っておくだけで役に立つことがあるからです。
これはもう力動的な話ですよね。この時に面接官に私たちは大概何かしら言葉だけでも知っておくと損がないのが投影です。
親を投影しているのは限らなくても、面接官に間違いなく誰かを投影しています。
つまり、私対面接官っていう関係は、私対面接官じゃない誰かっていう可能性がすっごいあるんですよ。
人は人に嫌われたくないってよく言うじゃないですか。顔色伺うとか嫌われるのが嫌だと。
誰に嫌われたくないかって、一番嫌われたくないのは自分なんですよ。
人は間違いなく自分には嫌われたくないんですよね。
自分に嫌われるようなことをしたくない。だから、自分が誰かに投影しているその人に嫌われたくないとでも思っている。
私の場合は、何度もこの番組に行ってますが、母ですが、それは私の心の中ででっち上げた母です。
私が心の中ででっち上げた母というのは私のことですよ。
私が母に嫌われたくないと思っているこの現状は、実は私が私に嫌われたくないっていうのは何も変わらない。
これをナルシズムって言うんだと思うんですよね。
だから私は女性に嫌われるのが恐れやすいわけですよ。
男に母を投影するよりは女の人に母を投影する方がやりやすいし分かりやすいじゃないですか。
だから私は女性に嫌われたくないと思ってるんだけど、実はそうじゃない。
自分で自分に嫌われたくないだけなんですよ。
自分で自分に嫌われてしまうと、非常に物事を進めるのが難しくなるので、
何やるにも自分に疑いを差し挟みながらやらなきゃならないから、先送りとかが起きやすくなるんですよ。
仕事術にはこういう風に絡めているのが私の現実なんですけれども、
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そういうのを理解する上でも損にはならないと思うんですよね。
でも以上まで言っても、そうは言っても言論の6時間も聞くのは大変ですよね。
なのでこれを聞いてそれの代わりにしていただくっていうのもいいと思うんだけれども、
私のこれは体系だった話とか網羅的な説明とかをするのは手に余るということが最近つくつく上がってきたので、
ノートを使って客注を加えてはおきますけれども、
今後もこういうような極めて断片的な説明に終始します。
でもそれはですね、しょうがないと思ってください。
野球の解説だってバッチリわかるようにはなかなかできないじゃないですか。
テレビ見ながらわからない人にはですね、2回目以降、当たって当たらなかったり、
立っていてストライクいい球が来た時に打てなかったら三振ということで、
このアウトが3つになると交代しますみたいな、そういう説明だけで終わっちゃうじゃないですか。
あのスタンドまでボール飛んでったらホームランですよとかね。
そういう説明で終わると思うんですよ。
そんなに細かなところまで全部説明するっていう風にはならないと思うんですよ。
で、残念ながら精神分析というのはこの断片的な説明でわかる部分がすごい少ない世界ではあるんですが、
でも断片的な説明以外はやっぱりないだろうなという風に思って、
自分はこういう説明に終始していくということになるだろう。
何よりも当座、私が一番言いたいのは語彙の5日ですよね。
力度がかかっていきますということです。
2者そこにいればですね、私は相手のことをただ見るのは絶対できなくて、
多分絶対っておかしいんですけど、でもできなくてですね、
ここに私と例えば編集さんがいれば、私が思う編集さんというイメージに沿って相手の人はなってしまう。
だから私が相手の編集さんは良い人だなと、
この人は本当に優しいなと思うとその人は優しくなっていっちゃうんですよ。
これが特に無意識で思っているほうが強く作用してしまうんですね。
この編集さんはすごく難しいことを言いそうだなと思うと難しいことを言い出すんですよ。
こういうことがあるから相手の本質を知るとか、
本当に相手が思っていることを知ろうとするってことの意味ってすっごい少ないという話だと思うんですね。
それを最も凄く臨床を中心に取り扱っていくのが精神分析という考え方なんだと思うんですよね。
思うところで相手に対する働きかけをしているんだぞと。
特にこの働きかけを猛烈にやる人は多くの場合、社会生活を営む上で非常にハンディキャップが大きい。
なぜならば、私は人に酷い目に合わされるんだ合わされるんだと思っている人は、
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いろんな人に酷い目に合わされていくからなんですよね。
酷い目に、その人を酷い目に合わせるように人が動いていってしまうから。
そしてこの問題は非常に難しいですよね。
じゃあそれでいじめられるのは、いじめる方が悪いのか、いじめられる方が悪いみたいになっちゃうじゃんってことになるから、
それは良くないですよね。モラルハザードなんで。
そこを取り除いて考えていくってことを実際にしなきゃいけないんですよ。
しかもそれをやりながら、でもその人がそういうことを招き寄せるという能力を人が本当に持っているのはおそらく本当なんで、
それを本当だと思っているのが精神分析なので、それをやらないようにというのかな。
それを自分で避けられるようにするのも、役に立つなら絶対やった方がいいことではありますよね。
社会問題はそれはそれとして。
っていうような話なんですよね。
だから、最近よくTwitterでも話題になってますけど、
社会正義の問題をどうするんだみたいな話があるんですよ。
で、それはまあそうなんだと思うんですよね。しょうがないことだと思います。
でも、そうは言っても自分が被害を招くのを減らすことができるんだら減らしてほうがいいじゃん。
もう少し社会問題的にマイルドな話で言うと、
血を見るのが怖い人はなぜかホラー映画を見に行ってしまうという病理が確かにあるってことなんです。
これはもう社会問題ではないじゃないですか。
ホラーを全敗にすればいいんだって考え方もあるかもしれないけど、
だとしてもその人はわざわざ理科室に行って人体とか血を見てそして倒れちゃうんですよ。
そういうのは私本当に見たことがあるんですよ。
動画でですけど。非常に不思議な現象なんですけれども。
でもあるんですよ、そういうことって。
血をこの世の中からなくすことはできないって。
だから無視恐怖症の人がわざわざ虫見に行くわけですよ。
そういうことってでも現実にね。
だからそれはもう社会問題ではなくて、
その人の問題というのもまたちょっと違うんだけれども、
でもその人を生きやすくする方法があるならばそれは無駄ではないと思う。
そういうことを含めての話が全部入っていく。
それが僕は精神分析というものだろうと思っています。
こういうことをどういう本には最低でも書いてあるかというのをURL後でノートに貼っておきますというのを、
今日からやろうかなと。続けばいいんですけどね。