ラジオと旅行の話
おはようございます。人生相談のための精神分析的ラジオ、第1158回をお送りします。
はい、間が空きました。3月29日、土曜日ですね。土曜日の10時21分です。
まあ久しぶりに長期休暇ってやつをいただきまして、まあまあ別に下手ってたとか弱ってたとか、インフルエンザにかかったとかでは全くなくて、すこぶる元気でした。
ただ、旅行に行ってただけです。なので、今日は久しぶりに土曜日、明日もできれば日曜日を収録しようかなと思っております。
併せてですね、ほとんど病気かなと思うんですけど、ラジオ名を変えたいなと思っています。
まあこれはね、本当に変えなくてもいいようなもんなんだけど、でもまあ変えようかなと思っております。
ここ1週間旅行してきた間中、ずっと野の医者は笑うを読んでいたんですね、東方カイトさんの。
で、3ヶ月チャレンジも5月から第10期ということで、中身をほとんどいじらないんだけど、外見は大幅リニューアルというか、
まあその10期に大幅リニューアルをするといいということを100日チャレンジで学んだのでやろうみたいな、ほとんど極めて形式的な話なんですが、
まあとはいえ、毎期毎期重ねるごとにですね、私もなんかこう、
まあ、松木先生ってすごいなって思う。松木邦博さんってすごい人だなと、あの回を追うごとに感じるわけですが、
あの、こう、なんていうのかな、松木さんと藤山直樹さんを行ったり来たりしてるんですよ、私は本の中でですね、本の中でどちらもお会いしたことはないし、
一生会うことはないんじゃないかという気がするんですけど、とにかくこう、ピンポンのようにこの2人の本を書いてあること同じなんですけど、雰囲気がまるで違うんですよね、不思議なんですよね。
最近その辺が少しわかってきたんですけど、なんでそういう違いが生まれるのかという。これはほぼ趣味でして、今回もあの松木さんの精神分析、なんだっけ、
とにかく分析用語辞典みたいなやつも持ってって、それも結構読みながらですね、これを読んでいて、あの、藤畑さんってやっぱり偉いなと思うのは、藤畑さんの「野の医者は笑う」を読みながら、この分析用語辞典を、
あの、長字画とか出てくる度にですね、そんなに意味ありげにやってるわけじゃないと思ってたんですけど、長期だったんで、そういう暇なこともやってみたんですよ。
長字画というのは、松木さんの辞典ではどうなってるかと。ちゃんとそって書いてあるんですよね、野の医者は笑うは。あそこまでしなくてもいいような気もするんですけど、なんていうのかな、あの、
エンタメをしながら学べるという意味では、すごいちゃんとしたものというのも不思議なんですけど、読んだ感じちゃんとしている部分はほとんどないんですけど、あの、すごい面白い読み物なんですよ。
あれは私だったらですね、まあ余計なお世話ですけど、新臨床心理師、もし目指すんだったら、あれずっと読んでるだろうなというような本ですね。
いろいろとこう臨床心理の駆け出しの頃に出てくる悩みっていうのは、集約されて出てきているような、それが沖縄を舞台にした、
3ヶ月チャレンジの考え方
まあ自己啓発であり、スピであり、野の医者の世界なわけですけどね。あれあれって言われてもできないと思うんですよね。
じゃあお前は何なんだって言われると大変困るんですけど、いや私はすっごくまた私で、まあ私らしくやってるんだなって。ライフハックってでもある意味、
ちょっとやっぱりすごい独自路線なんだなっていう感じがしますね。 あの、エアイアンもするとスピであっても別にいいわけじゃないですか、ライフハックなんて。
こういう言い方をすると怒り出す人いっぱいいらっしゃるかもしれないけど、でもライフハックにはスピ感全くないですよね。
もうなんか何かといえばITアプリを探し出してくるというのがエヴァノートだとか言ってくる、その先がちょっと
ある種自己啓発的でありスピ感出せるんですけど、まあないですよね。 なんか超自然的なものがそこには何もないっていう感じですよね。
でも、じゃあ臨床心理臨床化っていうと全くそうでもないし、 自己啓発化っていうと別に何かを啓発してもいないんですよね、ライフハックそれ自体は。
これでよく1ジャンルを今まで形成してきたなっていう感じがしますね。 やっぱりそれをさせるのが野の医者は笑うの本でしたね。
面白い言葉が出てくるんですよね、野の医者は笑うには。 もうすでに本題に入りつつありますが、要するに10期になるにつれてですね、
私野の医者なのは定義上野の医者になっちゃうと思うんですけども、正規じゃないですからね。 一方でやることはすごく正規に寄せたがるというこの路線をどうやって維持しつつ成果を上げていくか
というのが成果が上がっているとしたらですけどね、 成果を上げていくかというのが常に私に突きつけられるであろう課題だと。 だから野の医者はやっぱり結構、あれは大変良い本ですね。
あの本なかったら私はこの仕事やっぱりしてたと思うんですけど、 安心してできてたかって安心しきってるわけじゃないけど、安心してできてたかというとすごい難しいところあっただろうなという感じがします。
結局どれをとっても参考資料じゃないですか。 私がやってることを先駆けてやってくださっている人はいないわけですから、いないと思うんだよな。
だからしょうがないんですよね。 だからどれをやっても参考にしかならなくて、精神分析の本読んでも参考にしかならなくて、ロジャーズの本読んでも、
ロジャーズの本とかは薄いんで結構しょっちゅう読むんですけど、参考なんですよね。 一番ある意味参考にしてるかもしれないんですけれどもね。
でも彼は、ロジャーズって人は、ある意味転生の人のような気がするんですよ。 あれでまた雷談社中心、雷談社中心療法って名前からしても既に非常に説明的ですよね。
雷談社中心じゃない療法ってなんだよって感じもするし、クライアントセンタードセラピーってやつね。 あんまり意味のない名称だなって感じ。人間中心主義とか人間主義的とかね。
なんか説明的であり、かつ何の説明にもなっていない説明みたいな、そういう感じがしなくもないんですけど、でも非常にある意味、素人を引き寄せますよね、当然。
だって人間中心にやろうと思ってる人ならできるんでしょって感じが。 だから僕、野の医者ってある意味すごく善意の人だと思うんですよ。
松木さんの本とかでは善意の人が徹底的にストイックに批判されているんですけど、まあでもああいう批判っていうのは、それはそれとして入れておいて、今日はこういう話、毎日こういう話ですね。
なぜこういう話を外に向けてしなければならないのかというと、うちに向けてはしなくていいからなんですよね、ある意味では。
既に私のを受け入れてくださってる人にしてみれば、受け入れるか切り捨てるかのどっちかだと思うんですよね。体験されてるわけだから。洗脳でもされてない限り。
で、私の手法って洗脳性は低いと思うんですよ。ゼロだとは言いませんけど、低いと思うんですよ。別に何かを、
既に述べている通り、何のゴール設定も目標設定も進捗調査も一切していない、アセスメントもないという、つまり何もないわけですよね、ここにはね。
だから、辞められない理由とかを特に持っていらっしゃらないと思うんですよね。辞められない理由があるとすると、唯一役に立ってる、何らかの形で、でもどう役に立ってるかのチェックを私自身がしてないわけですから、
ご本人でしていただくより他はなくて、ご本人でされていて役に立たないと思ったら、捨てるのにそんなに惜しいもんではないと思うんですよ。
だから、捨てたいと思えば捨てられる。この私の3ヶ月チャレンジ、これは私は正規でもそう遜色ないというか、正規になってもこのやり方は通ると思っているやり方の一つとして、
私自身は継続を促さない原則として、誰にも全く一回も促さないようにするって言うほど絶対厳密的に促さないっていうことを、
なんかそれだと何かこう、そういうルールがまるで有効であるかのようになっちゃうんで、そうは思わないんですけど、でもまあ原則を促さないが、
続けたいと思う人が長く続けるほどいいっていうのが私の3ヶ月チャレンジの考え方の一つなんですよ。
で、これは別に正規の人だと、正規になったとしてもこのやり方で通るはずだと。
だから来期も続けましょうねとは一切言わないし、原則そこはユーザーさんが選んでいただくより他ないと思うんですよね。
契約に近いものだと思う。契約書化はしてませんけど。これもまた私は正規とは違うぞっていうね。
僕に何の資格もないのに、僕が契約を書くことに意味があるとは思えないんですよね。
契約はしないし、なんならですね、なんならってこともないんですけど、
あのやった人が全く役に立たなかったぜっていうことをブログに延々書いていただいても一向に構わないと思うんですよ。
まあ一向に構わなくはないんだけど、原則構わないと思うんですよね。結局これは、あの口コミってやつは取り方なんでね。
その、なんていうんだろうな、そこが潔いとかそういう話になるのかもしれないんですけど、そういうことではないと思うんですよ。
あの、ブリーフセラピーってものがありますけど、話があっちゃこちゃ飛んでますけど、まあ今日はそういう回ですね。
何しろ1週間開けましたから、言いたいことは山ほどあるわけですね。
あのあれですよ、だから長くかかってるじゃないですか、分析なんてなんだかんだ言ったって5年とか平気で言い出すわけですよね。
5年とかかかるっていうことはですね、極論5年は最終的な効果を見ないかもしれないっていうことなんですよね。
インフォームドコンセントも何もあったもんじゃない世界だと思うんですよ、精神分析とかは特に。
これに対する指定3ヶ月っていかにも短いじゃないですか。
ちなみに取ってる金額は精神分析の方が高いぐらいだと思うんで、1回あたり、週に2回受けてくださる方には1回あたり4、5千円になってるはずなんで、セッションの回数だけで割ればね。
私はセッションの回数で金額割るのは自分の中ではナンセンスだと思ってるんで、えーとそういうことではないんだけど、
でもまあ目安としてそうされることはあると思うんですよ。
で、1回あたり4、5千円、高くても6千円っていう数字は精神分析だったら破格だと思うんですよね。
まあ1万円は突破すると思うんで、1回あたりのセッション。
それ5年とかですからね。
しかも人によっては週4回でしょ。
週4回って本当に辛気狼のようなものって誰かがおっしゃってたんですけど、これは言い得てみようだなと。
本当にそれどっかで行われてるんかねって、行われてると思うんですけどね。
するんですが、滅多に行われてはいないっていうのは確かだと。
辛気狼のようなものの週の4回でなくても、週に2回でも、1万円で結構じゃないですか。
週に2回なら毎週2万円で、えーと4週で8万円で、これ毎月ですからね。
まあだから年間で100万円だとしても、5年で500万かかるわけですよね。
3ヶ月チャレンジってのは、まあ3ヶ月で最大10万円ぐらいで、一定の結果を出しましょうぐらいのノリがありますから、
やっぱり一応ビジネスコンサルなんでね。
そうなってくると、もう僕はここに洗脳だの、搾取だのを考えてもしょうがないなと。
だからそんなこと誰でも考えつくじゃないですか。
はっきり言って、継続してほしいとか、フィットネスジムとかでやってるやつですよね、ある意味ね。
初回入会金を取るのもそうですし、なるべく継続するように継続するように促してくるじゃないですか。
そんなこと誰でも考えつくじゃないですか。
あの、十分知的にやりとりしなければならない、この3ヶ月チャレンジみたいな発想もガラッと変えますから、
慣種慣性とか言っちゃうわけですから、僕慣種慣性以外の言葉がないかなと一生懸命、
慣種慣性って僕、原子力学聞いた時もすっごい苦手で、何言ってんだかよくわかんない言葉だなと思ったんですよ。
でも他にいい言葉ないんで、慣種慣性になっちゃうんですよね。
CBTと精神分析の比較
で、まあ慣種慣性でいいと思うんだけど、そんな言葉を使ってやりとりしようとしているところにですね、
そんな子供騙しの方法で削除できっこないと思うんですよね。
子供騙しみたいな方法かもしれないんですけどね。
でもまあ、だとしてもそんなに簡単にうまくやれるぐらいだったら、
違う方法の方がいいと思うんですよ、絶対に。
これだったら本当誰でも考えつきますもんね。
だからそういう方法ではなしにですね、これを継続してやりたいと思っていただくためには、
もう相当本格的な方法以外はちょっとなかなか望めないと思うんですよ。
で、その本格的って言ったら、世界ではCBTと相場が決まってるわけですよ。
CBTというのはそもそも認知行動良好ですね。
何から来たかっていうと、アンチ精神分析から来てると、やっぱり私はそういうふうに考えてるんですよ。
最初のハーファーの物言いからしても、エリスの物言いからしても、間違いなくアンチ精神分析だろうこれ。
まあ自我心理学の方ですけどね。
だからどっちかしかないと思うんですよね、極端に言うと。
CBTを選ばないんなら精神力道だっていう感じがするんです。
まあロジャーズってありますけれども、あれはどっちかというと基本姿勢の話に近いと思うんです。
基本姿勢だっていけるところあるんで、かなりいけるんだよっていう考え方に近いと思うんですよ。
もうとことん雷弾車両を中心で行くんだみたいな。
あの人がそうですよね。
もう一人いましたよね。
ダメだ、忘れた。
あの、ロジャーズじゃない方。
あ、いいや。
とにかくそういうことだと思う。
なんかミスズ処方とかからよく出てるような感じですよ。
だけどあれも、力道とはまた別の意味で、取り尽くしまがないというか、すごい捉えどころがないじゃないですか。
共感、敬重とかって。
敬重とか共感は、そりゃするだろうって思うじゃないですか。
意外としないんだけど。
だけど、しようとするはずじゃないですか。
常識的にある程度。
このある程度を相当程度やれっていうのがロジャーズだし、松木さんもそういうふうに書いてるし。
とにかくあの、お前ら聞いてないからみたいな、言ってみればそういうことですよね。
あの北山治さんも書いてましたよね。
基本的に話聞いてないからみたいな、そういうことですよ。
だから話聞けってことなんですよね。
ノート取ったりせず話聞けってのはそういうことなんですよね。
話覚えとけってことじゃないんですよね。
話聞けってことなんだと思うんですよ。
これはでも、聞け以上のことって言えないから。
昔ほら、よくロジャーズの話でね。
結構悲惨な話で、クライアントが良くならないのはお前が聞いてないからだっていうことで。
聞いてないからだ聞いてないからだってめちゃくちゃ責められて、他にできないからそうなっちゃうわけじゃないですか。
結局聞いてないからかもしんないけども、何か善意の人が多いわけですよ。
野良さんだけじゃなくてね。
正規の人も善意の人が多いから、先輩からさ、お前は聞いてないんだ聞いてないんだって言われるやつ。
なんかもう悲しくなるじゃないですか。
多分泣いたりもすると思うんだよね。
だから結局のところそういうことになっちゃうわけですよね。
なんかサディズムみたいになっていくわけですよ。
なんかロジャーズって一見優しそうな世界なんだけど、
めっちゃそこで行われてることが、なんかしばきまくることになっちゃうわけですよね。
私はそれは、ご面孔を塗りたいので聞こうと思いますけれども、
自分が聞いてるかどうかなどというものを先輩とかに聞いてほしいとは思わない。
それだったら目の前にいる相談者さんに聞けばいいと思うんですよね。
私が聞けてるかどうか。
それは私がアンケート調査をするとかじゃないんですよ。
それだとさっきの進捗チェックみたいになっていくんで、そうじゃないと思うんですよね。
聞いてるか聞かれてるかどうかっていうのは、見えてくると思うんですよ、ある程度。
ただ、結局これは超短期間では無理だと思う。
1回で聞いてるかどうかを判定しろって言われても困ると思うんですよね、お互いに。
ここも結構厳しい言葉があって、
分析とかカウンセリングの世界でも強制関係とか強依存とか書かれるんだけど、
僕はでもね、これ難しい話をしてるしすぎないのも大事だと思うんですよね。
強依存とか強制ってのはある程度あるはずだって思うんです。
私なんかはね、機質かもしれないけど、
そんなだって5年とかかかったりするわけじゃないですか、1年とか2年とか、精神分析とかも。
ある程度強依存的な雰囲気っていうのが全くないんだとすると、
それはすっごいストイックにやっている松木さんのような方ではそうなのかもしれないけど、
僕は強制とか強依存っていうのは違うことを意味してるっていうのは分かるんですが、分かるつもりなんですが、
でも家族っていうのも結局強制とか強依存みたいなところ。
だって全ての家族が健全になってるわけがないっていうか、
半数ぐらいは不健全な家族構成だったりしても別に不思議じゃないと思うんですよね。
私んちはすごく健全だった方だと思うけど、病的なところもいっぱいありました。
何にしろ子供2人とも心身症みたいな病気になってますからね、
兄弟もう1人はもっと厳しい病気になってるわけですよ。
親がすっごい悪かったかっていうとそんなことはなかったし、
すげー貧困だったかってそんなこともなかったし、
だから健全な家庭とか言っても強制も強依存も支配関係も過干渉も過保護も一切ないみたいなのって、
どういう家なんだろうなって感じが私はしちゃうんですよね。
グッドイナフで十分じゃんという感じが。
なんかねこれここにはやっぱりいきなりグッドバイブス出しますけど、
いきなりグッドバイブスですけど、なんかねこうおかしな損得感をここに持ち込むんですよね。
私の人生を返してみたいな。
そんなことを言い出せば私だって40数年間おそらく母親院に近い部分から来る心身症、
アトピー中心に患ってきたわけですが、別にそんなことどうでもいいと思うんですよね。
もうそうじゃなかったら今が50年間とかはないと思うんですよ。
ここの感覚なんだよね。
なんか50年間をもっといい人生が過ごせたみたいな誤解をするから、
あの突然損得感情がそこに生まれて私の人生を返せみたいな話になるのかもしれないんですけど、
もっと厳しい目に遭えばそういうふうに考えるのかもしれないし、
私の兄弟もそういうこと言うんですけど盛んに。
なんか聞いてて釈然としないんですよね私としてはね。
これが聞いてないってことなんですよ。
松木さんに言わせると。
でも私は憎しんは無理だと思ってるんで正直。
憎しんのカウンセリングって本当無理なんで。
なぜならばなんかいろんな経験がありすぎてですね。
だってもう私が4歳の時向こうなんか1歳とか2歳とかそういう人じゃないですか。
そういう頃からの付き合いってカウンセリングに向かないんですよ絶対に。
と思いますね。
だからフロイトがあんなフロイトの精神分析できたっていうのは、
とても普通の神経とは僕には思えないんですけれども。
なんか常識的にそんなことを避けるだろうって感じがするんですよね。
だってさ、お父さんが他の女の人と愛人が作っていて、
私はそういうお父さんに殺意を抱くんですって、
実のお父さんに向かって言っちゃうわけじゃないですか。
言っちゃったりしかねないわけですよね。
言ってないと思うんだけど。
そんなことができるかっていう。
だからそこまで聞けないじゃんっていう感じ。
そこまで言えないと思いますし。
だから兄弟は難しいなと思うんですが。
ただ、うちの兄弟でいい話をしていて、
私もなるべく聞こうと。
とにかく傾聴しようというか、
とにかくロジェリアンのようになって聞いてるんだけど、
聞いていても、そうかなーっていうのがやっぱり多すぎるんですよね。
確かにそうなんだけど、
でもそれはまあそう見えると言えばそうなんですけどねっていうのが、
なんかもう100分ぐらい続くわけですよ。
確かにそうですけれども、
でも別にそんなこと言ってたってっていう感じになりやすいんだよね。
これが参加者さん、ユーザーさん、
3ヶ月チャレンジの参加者さんならそうは感じないんですよね。
家族関係の課題
これがまたもっと入り込もうっていう意欲を持てるんですよ。
兄弟って本当独特だなって思いますね。
何なんだろうな、これは。
ちょっと難しいですね。
母親とかもそうですね。
わだかまりは私の方にはもうないんだけど、
でもやっぱり傾聴とかやってられないなって感じがどっかしてますよね。
母親の話っていうのはね。
した方がいいのかもしれないんだけど、
父親の話は結構できるんですよ。
やっぱりこの辺がね、
エディフス三角が簡単に三角形が描けるかどうかって大きいなって思うんですよね。
母親は結構あれですからね。
二者関係に安易に入ってきますからね。
安易に。
本人は安易じゃないのかもしれないけどね。
三角形が気づきにくいんですよね。
この二人の関係で、
それこそ扇望にはならないんだけど、
お前はいいものいっぱい持ってるからなみたいな感じで、
向こうは良いもの良いもの、
良くないもの良くないものみたいな世界になりやすいんですよね。
シンデレラの世界ですよ。
あれはやっぱりね。
母が年老いるってそういうことなんですね。
親子関係が逆転してるんだけど、
シンデレラの世界なんですよね。
本当に。
シンデレラって結局、
お母さん殺しちゃったと思っちゃってるわけじゃないですか。
知らんけど。
多分そうなんですよね。
お母さん殺しちゃったんですよね。
何をやったのかっていうと、
多分おっぱいにかじりついたとかなんだと思うんですよ。
でもお母さんはすごく優しかったのに、
死んでしまいました。
とても悲しいです。
抑鬱的になりました。
そしたら悪いお母さんがやってきました。
しかも兄弟連れてますみたいな。
これ完全に、
私が思うにシンデレラの成長物語だと思うんですよ。
4歳ぐらいになったシンデレラが、
え、私だけじゃないの子供みたいなね。
兄弟とかUSがいるんだみたいな。
そしてお母さんは掃除しろとか言い出すんだみたいな。
本当にひどいお母さんだけど、
どうしてそうなっちゃったのかというと、
私が殺しちゃったからなんだみたいな。
抑鬱ポジションですよね。
だから、
やっちゃうじゃないですか。
恋愛とかでもすぐ、
もうお前なんか別れてやるみたいなことを平気で言うじゃないですか。
それって要するに、
殺してるのとは違うけど、
亡き者にしてるわけですよね。
俺にとっていいことしかしないはずだったのに、
悪いことをするから、
なんかお前はもういなくなれみたいなことを言って、
いなくなるとびっくりするわけですよ。
なんでいなくなったんだろうみたいな。
そういうことを、
子供は経験しているっていう話だと思うんですよね。
そして代わりに付き合ってみた、
日常のトラブルからの成長
女性がとんでもなくひどいやつでみたいな、
急に悪いママ母みたいな彼女ができちゃいました。
どうしましょうみたいな。
で、そいつは他にも男作ってるみたいですみたいな。
でもそんなことは当たり前じゃないですか。
当たり前じゃないかもしれないけど、
まあでもそういうことはあり得ますよね、十分に。
だって自分がそうしたんじゃんみたいな。
だから自分がそうしたんじゃかもしれないっていうふうに
考えつくっていうのは大きな成長で、
シンデレラはついにそこには至ってないわけですよ。
自分がやったのかもしれない。
お母さんは実はママ母なんじゃなくて、
単に同じお母さんなのかもしれない。
私が怒らせたのかもしれないっていうふうに
考えられないわけですよね、まだね。
勝手に外の世界が入れ替わっていくわけですよ。
これが妄想分裂ポジションですよね。
こういうことっていうのはでも、
日常茶飯事だと私は思うんですよね。
これに名前がないのが良くないよねっていう感じがするんですよ。
いや俺そんなバカじゃないしみたいに思うかもしれないんだけど、
そうかなーって思うんですよね。
僕はそんなバカですね。
だから、あんだけ彼女彼女言っていた人間のくせに
付き合った彼女を振るうみたいなことをするわけですよ。
どんなバカだよって感じがするじゃないですか。
そんなバカなんですよ。
だから赤ちゃんってそうじゃないですか。
お母さんがいいことしてくれる間はすごくいいけど、
今回も旅行行ったんで空港中に赤ちゃんがいて、
空港中で赤ちゃんが大混乱に陥ってるわけですよ。
さっきまでいいお母さんだったのに
もうママ母になってるみたいなこと言って、
ギャーギャー喚いてるわけですけど、
そりゃそうっすよね。
だってそうなりますもんね、どうしたってね。
暑くなったり寒くなったりお腹空いたりするわけだから。
全部お母さんのせいですから。
しょうがないですよね、それはね。
自分のせいじゃないんで、自分とかいないんで。
だから考えつかないわけですよね、そんなことね。
ついにシンデレラは考えつかなかったんだと思うんですよね。
で、王子様探しとかに行っちゃうわけですよ。
多々あることですよね、多分。
僕が思うに多々あることだと思うんですよ。
人生うまくいかない、大学落ちた、
彼氏でも作ろうみたいに。
で、この彼氏が私の人生を良くしてくれる。
大学は良くしてくれなかったけど、
彼氏は良くしてくれる。
そういう人って大学に受かってもやるじゃないですか。
受かったんだけど、2年ぐらいで学校行くのやめて、
この学校、私の人生良くしてくんないな、
私のこと良くしてくんないなと思って、
なんかそこら辺の男のところに行って、
この人に私の人生良くしてもらおうってするって、
不思議な話だとは僕は全然思わない。
なんかそれが出来の悪い人の話ですみたいなことを
言い出す人がいて不思議なんですよ。
いや、みんなそんなに出来良いかっていう感じがするんで、
私はそうは出来ないなって思うんですよ。
この人生観は至って全うだと思うし、
みんなするじゃないですか。
しかもそこそこそれで上手くいく人だっているじゃないですか。
上手くいかないこともありますけど、
なんか付き合ってみたら、
なんか男は馬券ばっかり買ってますみたいなことありますけど、
しょうがないじゃないですか、それは。
たまたまそうなんですよ。
あの、嫌だったら馬券買わない男のところに行けば
また良いわけじゃないですか。
分かんないけど。
そういうことだと思うんですよね。
なんかそこに無理のある理屈を入れるよりは、
このシンデレラストーリーを考えておいた方が、
我々の情緒には、僕はね、
思うにすごくしっくりくるんですよ、こっちの方が。
だからこれを頭に一旦入れて、慶長ですよね。
その人にとってはシンデレラストーリーなのか、
白雪姫ストーリーなのかは知りませんけれども、
あるんですよ、そういう原型みたいな体験が。
間違いなく。
赤ちゃんの頃とかっていうのはやっぱり、
あの、空港中で絶望している赤ちゃんがいましたけど、
つまりそういうことで、我々はそんな大層な、
あの松木さん書いてましたね、まさに書いてました。
今回読んでいた本の中にも出てくるんですけども、
そんなね、死にたくなるほどの絶望とか、
私人生経験浅いし、
臨時昇進医師になりたての人って、
大学院卒しばらくしてすぐですからね。
あの、そんな経験はないです。
会社潰れてすごい大変な目にあってっていうふうに
思うかもしれないけど、あるんだと。
何であるかというと、我々は赤ん坊の頃に
そういう体験をしてるから、
どんなに恵まれてる人でもおそらくしていると。
会社が潰れて、夜逃げしなきゃなんないというのにも
匹敵するほど恐ろしい目にあってる。
例えばお母さんがいなくなるとか、
しばらく料理にかまけていて自分の相手してくれないとか、
そういうことですよ。
そういうことで赤ちゃんは絶望するんですよ。
空港中で絶望してたんですよ。
だって絶望するじゃないですか。
分かんないわけだから、
その後どうしてくれるのかなってことは。
だから絶望するし、トラウマにもなる。
そういう経験はみんなしてるはずだと、
覚えてないかもしれないけど。
そういうことなんだと思うんですよね。
だからああいう話に戻っていく必要があるんですよ。
僕らは初体験じゃないんですよ。
なんかものすごい絶望とかそういったもの。
多分昔みんなしてるんですよ。
多かれ少なかれ。
それを恨みに思うかどうかは、
またその人のパーソナリティもあるし、
その後の展開もあると思うんだけれども、
心理臨床における口頭無形
恨みに思っても別に不思議はないわけじゃないですか。
羨望しようと嫉妬しようと不思議はないわけですよね。
そういうことを、
何て言うんですかね。
そういうふうな観点を使って、
話の波長を追っていくみたいな、
そういうことだと思うんですね。
で、なんだっけ。
野野医者が笑うの話に戻すんですけど、
いきなりですけど、
面白いことが書いてあったというのは、
彼は傍天つきで問いを立てるんですよね。
大肌さんが。
野野医者の治療というのは、
なぜあんなに高等無形なのに、
効果がしばしば発揮されるのかと。
みるみる一点集中の無視点クリニックでは、
統合視聴症が良くなっちゃったりしてるわけですよね。
私の兄弟も是非行ってほしいと思ったりしかねないわけですけど、
だって5年とかかかるはずのものが、
しかも慣慨とか言って、
勘違いしないことになってるのに、
なんかみるみる一点集中とか言って、
あの5番目のおばあさんが悪いことをしているから、
今あなたは調子が悪いけど、
あの祖先の霊にお饅頭をお供えしなさい、
みたいなことを言われると治るみたいな。
わけわからん。
これが実は時々効果を発揮しちゃうという。
なぜなんだっていうふうに、
傍天さんが書いてるんだけど、
私は逆だと思うんですよ。
これをいつも僕は考えながら、
3ヶ月チャレンジも立てた時はすごく考えたんですよ。
逆だと思うんですよ、やっぱり。
むしろ、どうして正規の世界では、
正規の心理臨床は、
その口頭無形さが全くないにもかかわらず、
効果がしばしばあるのか、
こう問うべきだと思うんですよね。
しかも、それだけでなく、
なぜそれで人が来ると思うのかっていうのも、
合わせて問いただしたいと思うんですよ。
つまり、なんていうのかな。
普通の医療ならば、口頭無形じゃないけれども、
人はそこに行って効果がある。
でもそれは、効果があるということになってるからそうなのであって、
人はですね、効果があるのかどうか、
まだ不明だった時代に、身体医療についてですね、
口頭無形さの全くない方法に、
口頭無形さを感じなかったとは、
とても思わないんですよね。
だって、下界とか切っちゃうわけじゃないですか。
エノジナイとかですよ。
切って治すとかって、
めちゃくちゃ口頭無形じゃないですか。
治るから行くんであって、
それは口頭無形じゃないから、
行くわけじゃないんですよね。
で、問題なのは心理臨床の場合、
治るという保証をしてくれるわけでもないのに、
例えば話をひたすら5年聞くとか、
めちゃくちゃ口頭無形だと思うんですよね、ある意味。
で、口頭無形さがここに全くないということは、
人はそこに行く動機が全然得られないんじゃないかと思うんですよ。
むしろ、だって普通に考えればですね、
この現代の身体医療全盛の時代に、
薬とかも放物剤とかもある、
この時代にですね、
めちゃくちゃ調子悪いとなって、
まず人に話をしに行こうとは思わない、
考えつかないぐらいに考えつかないんじゃないかと思うんですよね。
カウンセリング受けましょうなんて考えないと思うんですよ、全く。
口頭無形の方法というのは次に来るものなんですよ。
でも医者に行ってもどこも悪くないとか言うし、
そもそもどこも悪くないような気がするし、
でもめちゃくちゃ調子悪いとか、
全く起き上がる気がしないとかなった時に、
次に我々と考えるのは、
むしろ口頭無形の方法じゃないですかね。
めちゃくちゃ冷たい水を浴びるとか、
あるいは30分間サウナに行って、
熱っ端には知らんけど、
青いでもらうとか、
なんかもうこの際それがもう少し行って、
ラベンダーの香りを家中にいっぱいにするとか、
もうちょっと行って、
ライフハックと日常の工夫
まぁ何でもいいんですけれども、
まぁあれですよね、
そろそろこう、
なんかこうパワーストーンをつけるとかね、
そういう方向になりません?
僕は普通に考えてそうなると思うんですよ、むしろ。
口頭無形じゃないと、
もう効果が発揮されないんじゃないかって感じが、
してくると思うんですよね。
えっとリンゴだけ食べるとかさ、
いろいろありますけど、
なんか急に20キロ走り始めるとか、
どんなに痩せても食わずに走り続けるとか、
なんかこう水だけ何リットルも飲むとか、
そういう方法になってくると思うんですよ。
口頭無形な方法に、
口頭無形でもない方法に頼るわけがないじゃんっていう、
この話多分昔したな、
なんか今喋ってて思い出してきた。
多分大昔の自分の、
あのポッドキャストには違った言い方で喋ってると思うんですね。
で私ライフハックのこと思うんですよ。
しばしばこういうとき、
やっぱりあのね、
どんな小さなことでも思いついたら全部紙に書いて、
ミニングノートでも何とかノートでもいいんですけど、
書いて、しかもそれをエワーノートにして、
なんかここに、
高等部系の考え方
コセンスみたいなやり方ですけど、
キーワードにタグをつけて、
そういうものを10万ノートぐらい集めて、
何かこう、
価格結合させたら、
私に対する新しい答えが出るんじゃないかって、
永遠にみんなが期待してるのは多分そういうことじゃないですかね。
これ高等部系じゃないですか、十分。
普通、まず、
毎分毎分ノートに何か書かないじゃないですか、
思念みたいなもの。
なんか思念ノートみたいなのを10万ノートぐらい集めて、
やってる人はいらっしゃると思うんですよ。
ただ、それが高等部系じゃないかというと、
めちゃくちゃ高等部系だと僕は思うんですよね。
そこから、なんかこう価格結合とか起きないじゃないですか。
なんか期待とか混ぜてるわけじゃないんで、
ノートは混ざんないし、混ざんないからいいんでね。
だからそういうのがキーワードでリンクしていって、
ライフハックですらそうこうなんですよ。
星降れないみたいなところあるんですよ。
その途中経過にはないかもしれないけど、
最終結果に期待してるところにはあると思うんですよね。
ここに答えが浮かび上がってくるぞみたいな、
そういう、なんかこう、
EイコールMC事情みたいなやつ。
そういうのが不意にこう上がってくるんではないだろうか、
みたいな、そういう期待をしてるんじゃないかと思うんですよ。
一体ないんですよ、心理臨床ってのは。
あなたの話を聞きましょう、みたいな。
私が全力をで傾聴しますから、どうぞ話してください。
どうぞ、みたいな。
これをずっと続けましょう。
この高等部系じゃなさに、
何を期待しろというのかと、
もうすでに相当絶望的な状況にある人たちに向かってですね、
まあ本人の絶望なんだけど、
もうなんか体どこも悪くないけど、
あと100日寝ても取れなさそうな疲れで、
おもしのようにかかってますと。
パワーストーンとかにしたいところですよね。
ここで話をしろとか言われて、
話をして、しかもその話を全部聞けば、
あなたの鬱が治るわけではありませんとかいう、
極めて地道で真っ当な人に向かって、
しかも人の良さそうな人に向かってね、
なんか急に歌とか歌いだしたり、
魔術とか唱えてくれないわけですよ。
シャクラとか知らんけど、
石とかもくれないんです。
何もくれないんですよ、物とかもね。
やってくれる。
日誌行動の場合はワークがあるのかもしれないけど、
普通に何もないんです。
ホームワークも何もない。
とにかくそこに行って、1時間話をするだけ。
で、それなりの高い料金を支払いするだけ。
なんか何一つ良くなる感じしないじゃないですか。
だから私は、むしろこっちが問いだと思うんですよね。
この地道で何の高等無形さもない方法が、
なんで効果があり、
かつそれをやってれば人が来るなんて思うのか。
占いとカウンセリングの違い
なんかね、X見てると、
なんでタロット占いとかには人が行ってお金払うのに、
我々のところには来ないんだって。
そりゃ来ないよなって思うんですよ。
だってあっちには何か見たこともないような、
不思議な絵の描いてあるタロットに、
悪魔の逆位置とか、
もっともらしいことを言ってくれるわけじゃないですか。
なんか聞いたこともないような、
そして結構ヤバそうなね。
なんか顔をベールとか覆ってたりするわけですよね。
で、なんかこう悪魔の逆位置とか、
なんかこうなんとかの塔の崩壊とかって言うわけですよね。
で、リバースがどうしたこうしたっていう話をするんですよ。
そして極めつけは次ですよね。
当たる。
実はあれ当たるからなんだって、
私なんかよく思うんですけど。
当たるっていう。
当たるんですよ。
当たるからとかはないんですよ。
当たるんですよ。
心理臨床何もないじゃないですか。
治せるとすら言わない。
あなたの気持ちが軽くなるかもしれませんとかって、
そんなことならば、
軽くなるかもしれないっていう程度のことならば、
水風呂とかに浸かるよっていう、
水風呂に浸かっても、
あまり体に良くないだけじゃないかと思うんで、
実は心理臨床に行ったらいいと思いますけど、
私は実際のところ、
人々がそう考える理由は、
はっきり言ってあんまりないよなって思いますね。
やっぱり、
のど医者は笑うのを見ていても思ったんですけど、
読んでいても思ったんですが、
そこそこ何かに訴えてくるはずなんですよ。
ああいったものっていうのは。
訴えない方法なんですよね。
心理臨床というのは。
訴えないんだから、
こないですよね。
普通に考えれば。
やっぱりそのタロットにも絶望しないと、
みたいなそういうところがありますよ。
なぜタロットに来る人が、
私のところに来るはずだっていう考え方に、
なりうるかなと思いながら、
3ヶ月チャレンジを私は考えているわけですよ。
なりうるべきだとは言わないまでも、
なりうると思うんですよ。
ある意味もう一つの問題は、
人が占いかカウンセリングかだと思っているような、
思ってないと思うんですけど、
そういう構図が見えるっていうのが不思議なんですよ。
そうじゃないと思うんですよね。
カウンセリングに来るような人は、
絶対占いにも行ったことがある人が多いと思う。
全員じゃないと思うけど、
ベンズは被る部分が大きいと思うんですよね。
行かない人はどっちにも行かないと思うんですよ。
そんなのは口頭無形だっていう人は、
動機づけの重要性
幸福剤を飲みに行くと思うんですよ。
だから、どっちかになるはずだっていう理屈が、
成り立たないと思いますよね。
両方同じようなもんだと捉えられているっていう方が、
だったら神秘的なカードが見えた方が、
人は来ると思うんですよ。
ライフックだってそのことは十分意識してたから、
コセンスとかエヴァーノートとかタスクシュートとか、
ポモドーロもトマトのタイマーとか、
必ず物を介在させていたわけですよ。
バレットジャーナンとかね。
本来はあれは、本来はってことはないんだけど、
自己啓発であれば、
もしかすると何にもいらないのかもしれないんだけど、
それだとやっぱり心理現象と同じ立場に自分を置いちゃうんですよ。
何の口頭無形さもないわけですよ。
何で開始時刻と終了時刻をポチポチやってれば、
時間の使い方が上手くなるのかという問いには、
一応の答えはありますけれども、
でも問題なのはそこの口頭無形さが、
実は大事だってことなんですよ。
多分、全く口頭無形さがない。
時間を大事に使いましょうとかね。
全然何にもないじゃないですか。
そんなんで効果がある感じしないし、
何よりもそれでは動機づけが得られない。
この動機づけを与える方法を考案しているのが、
野々井社の様々な方法論で、
あれもやっぱりみんなが考えつきそうなことなんですよ。
色のついた水とか、壺を踏むとか、
青年月日とか、
苗字の画数とか、考えつきそうなものはおおよそ、
全部行われているわけですよ。
これでダメだとカウンセリングってものが、
いよいよ浮かび上がってくるんじゃないかなと。
何やってもダメでしたっていう、
そもそもどうして自分こんなにダメなんでしょう、
みたいな話を誰かに聞いてほしくなってくるっていう、
フェーズが浮かび上がってくるんではないかな、
という感じがするんですよ。
ここまで来ないと、
やっぱりただただ話を相談しに行くっていう、
そういう動機づけには、
思い至らないと言いますか、
その前に思い至るっていう人は、
やっぱり耐性力がかなり高い上に、
かなり知的なんだと思うんですよね。
ただ耐性力がかなり高くて知的な人は、
現代だったらまず物質に行きますよね。
行動を変える、行動記録をつけて、
自分の行動を分析する、
そして薬を飲んだり。
やっぱりカウンセリングっていう発想には、
なかなかなりにくいと思うんですよ。
これは現代的だと僕は思うんですよね。
これを前日のイベント山崎孝明さんという方が、
いやそれはライフハック的な人だっていう、
どっちも僕は同じようなもんだと思ってるってことなんですけれども。
でまぁ、
なんか幕下立ててるうちに40分経っちゃったわけですけど、
あの、
これだけの一応、
なんていうんですかね、
背景みたいなものを僕らは、
もうみんな背負ってると私は思いますんで、
その上で考えたことが、つまり、
行動の掲載がない、
のの医者ってものはないんだろうかということが一つなんですね。
それだったらもう精神分析でいいじゃんなんですが、
なんですが、
そもそも精神分析って、
そこら辺ではそんなに、
タロットカードよりも見かけない世界でしか、
タロットカードだってそんなにポンポン見かけるわけじゃないんだけどね。
でも見かけられない、一つに。
そして精神分析的心理療法とかいう、
学派的な事情というものも背景に抱え込んでいる。
そしてそれはのの医者並みにっていうか、
のの医者よりも高いって考えた時にですね、
私たちはこのそこまで行かなくていいからっていうニーズがそこに生まれうるというか、
僕の中に生まれてたということですね。
ニーズなんですよ。
これはニードではなくて。
ニードな場合もありますけれども、
つまりその人は何か動機は持っていて、
持っていらっしゃっていて、
で、ただ病気なわけじゃないと思っている。
おそらく病気なわけじゃないケースもたくさんある。
そんなに何よりも本格的に、
ロジャーズ並みの形状というものを必ずしも求められているわけではなくて、
どっちかっていうと、
自分の気質体許せば、
水晶玉とかパワーストーンでもいいんだけどな、
っていう気持ちがどっかにある。
ただ自分は受け付けられないという、
いろいろな教育を受けちゃったしね。
受け付けられないという、
なんかみるみる一点集中とか、
祖先供養とか言われても困ると。
結局でもあれって、
説得的な文化的長寿画の説得的な何かなんですよね。
途中で又吉博士みたいな名前の、
どうせ偽名なんじゃないかと思うんだけど、
出てくるんですけど、
あの全部が全部ミラクルとか、
法とかで片付けられていて、
そこがやっぱり自分のような臨床心理師には、
どうもあれだなっていうふうに、
東方さん書いてるんだけど、
全部が全部そうなようにも見えないんですよ。
例えばその又吉博士って人は、
最初臨床心理師だったっていうだけあって、
エリプスコンプレックスなんですよね。
いちいち見ていくもの。
僕はむしろ何でもかんでもエリプスに変えていくっていうところに、
この人の、分かんないですけどね、
占いと希望の関係
その本読んだ限りでは、
ミソがあって、
何でもかんでもエリプスにしちゃうわけですよ。
だから例えば多くの場合結局、
なんで悩むかっていうと、
当たるよっていう占い師のところに、
なんで行くかっていうと、
希望が欲しいんですよね。
大丈夫、いつかお子さんは学校行くようになりますから、
っていうのが当たるよってところに行きたいわけですよね。
だから当たるってことに大きな意味があるわけじゃないですか。
で、現にそうなることは起こると思うんですよ。
だって当たるよって言われている人が、
大丈夫です、今不登校で3年経ってる。
でもこのタロットカード見る限り、
来年には出てくるって言われると、
めちゃくちゃ子供、お子さんに対する態度は変わると思うんですよ。
それを言われて信じられれば、
その又吉博士って人は博士っていうだけあって、
もっとこれがエリプスっぽいわけですよね。
お父さん、お父さん、
結局のところ不登校が問題ってどういうことかっていうと、
お父さんの言うこと聞けってことじゃないですか。
お母さんかもしれないけど、
結局そういうことじゃないですか。
学校行きたくないっていうか、
行かないっていうか、こもっちゃったっていう子に対して、
問題だって言うんだったらば、
私は学校に行くべきだと思ってるってことですよね。
つまり子供に向かって一時的に、
お父さんの言うこと聞けって言いたいわけですよね。
お父さんの言うこと聞けって言っておきながら、
又吉博士は言うわけですよ。
なんであなたは祖先の礼を敬わないのか。
これって僕は、
親子関係の複雑さ
なんかミラクルでもなんでもないような気がするんですよね。
祖先の礼を敬わないのかっていうのは、
あなたは息子にお父さんの言うことを聞けと言いながら、
自分はお父さんの言うことを聞かなくていいとでも思ってるのかってことじゃないですか。
三角形は上があるわけじゃないですか。
だから祖先の礼を敬うようになったら、
子供が学校行くようになりましたって話は、
聞くと口頭無形な感じもするし、
そう行くかよって思うんだけれども、
でもあり得ない話ではないような気もするんですよね。
つまりお父さんのナルシシズムが強すぎますよってことに聞こえるんですよ、これは。
ある意味ではそうは言わないかもしれないし、
それは僕がただ力度に被れてるだけかもしんないけど、
分析にね、被れてるだけかもしんないけど、
つまりはそういう話をしていると、
聞く人は絶対聞くよなーって感じもしなくはないと思ったわけですね。
だからこう考えるうちにですね、
三ヶ月チャレンジは、
いやだったら祖先の崇拝じゃなくてもよくない?
って思う私がいるわけですよ。
祖先の礼を敬うのはいいですが、それは非いいですが、
でもだったらそれを言うだけであれば、
それを伝えるだけであれば、
あの口頭無形さってむしろいらなくない?
だけれども、
いるって人には響かないでしょうね、
私のような言い方では。
で、それは審議臨床の世界でも同じだろうなと思うんですよ。
だからこれはマジョリティに向かおうとするならば、
よほどの仕掛けがいると思う。
その仕掛けがないとは言いませんが、
なんで占い師と僕は比較するべきではないと思うんですけどね。
なぜかというと占いとか、
そういう口頭無形さというのは、
マジョリティに向けるための仕掛けだと思うんですよ。
やっぱりそれって一つの技術じゃないですか。
つまり一輪車で綱渡りするというのは相当の技術じゃないですか。
それは松木さんが書く書かれるように、
一心不乱で一期一会の形状にたどり着くには、
生優しいものではないってのはわかるんですよ。
生優しいものではないと思うんですよ。
でも一輪車で綱渡りするのって結構生優しいものじゃないじゃないですか。
このサーカスってのはファンとサーカスって言いますが、
サーカスってのはやっぱりマジョリティに向ける時には、
一つのなんていうんですかね、
必須の技術だったと思うんですよね。
今はちょっと違うかもしれないんですけども、
私は今はちょっと違うかもしれないという方に賭けてるわけですが、
ラインハックってそうだと思うんですよね。
少なくとも一輪車で綱渡りするほどのインパクトないじゃないですか、
タスクシュートにしても。
あんなに細かくて凄そうに見えても、
まあ例えばモレスキンのノートとかにしてもそうですけれども、
でもやっぱり象が玉乗りするのもインパクトに比べると薄いと思うんですよ。
ただしインパクトとはまた別に直接自分に関係してくるなっていう印象は全然違うと思うんですよ。
象がいくら玉乗りしてるのがすごくったって自分と何の関係もないわけですよね。
自分と関係があるからもう少し地味なものでもいけるんじゃないかっていう話であって、
そうすると私はタロットカードとか祖先の霊を敬うよりも、
もっと自分に直結した話っていうものがあるんじゃないだろうかと。
でそれの多分究極形にですね、傾聴されるっていう体験があるんですよ。
個人の体験としてこれはまあ心理臨床の正規の方の、
まあ私はどっちかというとやっぱりそれを推したいとは思っているんで、
その来日いろいろ難しいところとか、
あの正規だからと言って有効なのかどうか議論みたいなのはずっと今後も続くと思うんですけれども、
でもやっぱりAIも出てきましたしね。
いよいよ心理臨床の世界を推したくなる理由というのは、
条件は整いつつあるという感じが私はむしろしているんですよね。
それがCBTであれスキーマ両方であれなんであれですね。
傾聴は絶対必要なんで。
で問題なのは、いかにサーカスを廃しても成立できるかっていうところにあると思うんですよ。
でサーカスを廃するためには、
少なくともやってる人は何を自分がやっているかについて自信持ってないと難しいと思うし、
でどうして自信が持てないのかというと一つは長くかかるっていうのと、
実際のところは何が効果があるのかというものがなおもって、
少なくとも廃者の治療さん、廃者の治療ほどははっきりしてないからだっていうのはそうだと思うんですけど、
心理臨床の未来
でもですね、そこに人が来て話をしたいというニーズっていうのは絶対にもうなくなることはやっぱないんです。
私は将来の野の医者がいなくなることは絶対ないと今は思って、
もうほぼ野の医者は笑うで確信してるし、
ハロットがこの世から消えた方がいいとすらもう思わないんですよ全然。
水晶玉にせよパワーストーンにせよ。
ただ、さっきも言いましたけれども、渡吉博士のような方のですね、結局何を伝えようとしているのかというと、
なんだかんだ言っても、これ不思議に逆説的なんですけどね、ダスオカルトなんですよね。
オカルトまっしぐらなものを振りまいておいてなんだって思われるんだけど、私はこれダスオカルトだと思うんですよ。
我々人間というのはナルシジウムとオカルトがセットなんですよね。
気がつくとガスコンロの火がついており、気がつくとなぜかドアが何回も閉めているのに開いちゃうし、
気がつくと自分がそこにいるだけで場の空気を悪くする。
場の空気を悪くするってオカルトじゃないですか。
このオカルトをどうやって配置するかにかかってると思うんですよ。
気がつくと子供は実質に引きこもりっぽく、引きこもってしまって学校に行かなくなるという、
それはてこでも動かないというオカルトに近いと思うんですよね。
そしてそれはてこでも動かさなければいけないという思い込みもまたオカルトに近いと思うんですよ。
だから面白い問いが立っちゃったわけですよね。
かわい早尾さんの話に出てくるような。
ボタン一つで月までロケットを運べるのに、1キロ先の学校まで息子を行かせられないのはどういうことだっていう、
これはオカルト感を感じるんですよね。
人間のパワーは絶大なのに何でこんな簡単なこともできないんだって言いたげだけど、
それが簡単じゃないから困ってるわけですよね。
実はボタン一つで月までロケット運ぶ方が簡単なんですよ。
それができるっていう意味において。
なんで私たちは結局そういう祖先崇拝をして、
子供が学校行くようになったとか部屋から出てきたっていうのはすごいミラクルのように見えるかもしれないけど、
実は僕らはそういうことが起こりにくいような生き方をしているから、
祖先の霊を敬わないとかね。
敬わなくてもいいんだけど、敬わなくたって自由だろうってことを言ってきたわけじゃないですか、我々は。
だから敬わないっていうのはどういうことかっていうと、
文化的な長寿がの言うことなんてクソくらいだってことですよね。
こんなこと知ったことじゃないと。
だけれども自分の言うことは子供に聞いてほしいとか、奥さんに聞いてほしいとかは言い出すんですよね。
これはナルシシズムですよね。
っていう話っていうのが、つまりオカルトじゃないところなんですよ。
だけどこれだってオカルトだって言われればそういうことになっていくじゃないですか。
そんなものどこにあるんだって言われると困るわけですよ。
オカルトじゃないというのは結局は、それはそこらへんにありふれた出来事として起こり得ることだよねという、
ミラクルってそうじゃないってことですよね。
だからみんな像の玉乗りを見たくなるわけだし、当たる占い師のところに行きたくなるわけですよね。
日常では起きないことが見える人でなければ、
この私のもうどうしようもなくなった意味不明な苦しみを解くことはできないからだって感じがするってことなんですよ。
そういう意味で多くの人にとって、抗鬱剤というのは、その機条を知っている人に含めてなおですね、
なんか魔術的な力みたいなもんだと思うんですよね。
飲むと鬱が治るみたいな。飲むと元気になれるみたいな。
そういう感じで抗鬱剤じゃないですけど、製薬会社のお薬ってそういう感じでCMしてるじゃないですか。
シュワーみたいな感じで、なんか超自然的な力がそこで働くみたいな感じで、
なんかウイルスとかも変な顔とか持っちゃってるし、それがバシュバシュバシュって消えていくじゃないですか。
ああいうこと絶対起きないじゃないですか。オカルトそのものですよね、あんなものは。
僕らはやっぱりオカルトを保守するというのは非日常を保守するってことだし、
それは日常の力ではもうどうにもならないっていう告白だと思うんですけど、
実はそれはすごく日常のありふれている出来事だっていうことを教えてもらうというか、
見えるように、元にはなんか見えなくなるようにしちゃったものを見えるようにしてもらうっていうのが、
ある意味心理相談みたいなもんだと思いますよね。
だからそれはオカルトじゃないんですよ。
だけどオカルトじゃないものに頼れない心理状態にある人に、
オカルトじゃないものを勧めるというのは動機づけとして弱くなる。
だからあんまり大多数の方面に向かっていくことはできないだろうって3カ月チャレンジはやっぱり少数性なんですよ。