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おはようございます、グッドモーニングボイスです。
6月13日、木曜日、16時32分です。
第1記念すべき999回が、このようにダラダラっとですね、何の必然性もなく、しかも夕方に撮っているという。
なぜ10、11、12の3連休も平日にもらっちゃったかというと、何の特別な理由もなく、ただただ忙しかったからなんですね。
この無計画さが、いかにもこのグッドモーニングボイスらしさと、私には思えて仕方がないんですけど、
この1000回も何の必然性もなく、すごいダラッと始まっちゃいそうな気がしてます。
ただ、1000回を皮切りに、少しまた何かをいじろうかなと思ったりはしています。
何かをいじっても、つまりいじると言っても中身じゃなくて外身ですね。
時間帯をモーニングに限定しないで済むようにするとか、休日はショートを届けるとか、様々なことを考えたりしています。
ちなみに今日何が忙しかったかというと、今日は人間ドックってやつですね。
まだその余波が残っていて、イカメラ飲んだんですけれども、これは自分飲めるようになったなと思いますね。
前回に比べると悲惨さがなくなりました。
ちょっと悲惨でしたけれども、前ほど悲惨ではなかった。
というわけで、イカメラを飲んで、なんかもうよだれと涙が洪水のように出て、
今はだいぶその時の麻酔も切れて、ようやく仕事ができるようになって、真っ先にポッドキャストを撮っている。
で、999回と。
一番の目玉は多分イカメラを飲んだことくらい、話のテーマがまだ頭の中にもやっとしていて、
頭がもやもやするんですよ。
よくわからない状態になっておりますが、気を取り直してですね、
いつものようにひたすら精神分析を考えていれば、頭もすっきりしてくるんではないかという、
よくわからないことを考えながら始めます。
さてですね、一応お知らせを先にしましょう。
無計画ながらなりにも知らせることはあるというね。
6月23日にタスクシュート手帳術の会といったものを開催します。
これは私はですね、プロデュースした手帳がありまして、
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その日にそのプロデュースした手帳を私がプロデュースする手帳をするっていうのも不思議なんですけど、
プロデュースじゃないな。
私も管理をしたある新しい手帳のいろんなところにコラムっぽいものを書いたので、
その手帳を持ってまいりますので、リアルな人にだけはこれを触れていただけると。
だから何だって言われると大変困るんですけれども、
とりあえずその現なまをおそらく持っていくことができるんじゃないか。
これが23日の渋谷で開催するタスクシュート手帳術の会。
29日には全書籍のイベントをやり、
さらには100日チャレンジ第9期のキックオフをやりますので、
この9期はもう間もなく多分締め切っちゃうんじゃないかと思うので、
9期にご参加したいという方はぜひ入れておいてくださいという感じですね。
合わせて7月中になると思うんですけど、
私の新刊がDAIWA書房さんから出ます。
トゥードゥリストは捨てていい。
捨てていいだな。捨てなさいじゃない。
私命令形使いたくないんでね。
トゥードゥリストは捨てていいというタイトルで出します。
こちらは7月中になると思いますし、
まださすがにAmazonの予約サイトはできてないんじゃないかと思いますので、
出来次第お伝えしていきたいと思っております。
今日もこの書房をやってたんですよ。
書房ですからね。
このタイミングでなお書房かって感じかもしれないんですけど、
こっちも特刊工事的に頑張っていて、
人間ドックの最中も書房読んでました。
猛烈にやってるみたいじゃないですか。
別にそういうわけじゃなくて、
ただただ無計画にそうなってるというだけなんですけども、
結構ね、人間ドックって待つんでね、
余裕があるんですよね。
待ち時間がある。
その間にちょっとね、
今いい時代なんで、
iPad miniを使ってPDFで書入れをしていくことができると。
本当にそんなんじゃチチとして進まないんだけど、
最後の最後の最後なので、
書房の最後ですね。
頑張っております。
仕事頑張る人なのか、
どっちでもいいような人なのか、
僕は分からないところが自分も割れながらあるなと思いますね。
仕事熱心なのか、
全然やる気ないのか、
分かんないですよね。
これじゃ他人か。
僕もよく分かんなくなってきましたね。
昔はやる気ないと思ってたんですけど、
そうでもないんじゃないかって思えてくるんですけど、
でもやる気があるのかって言われると、
どこからやる気があるのかっていうのがね、
全く私は頭が体育関係的にできてないので、
本当にないんですよ。
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ちゃんとやるというのとか、
計画通りやるとか、
粛々とやるとかかな。
全くないんですね、実はね。
この全くないっていうのもどうかと思うレベルなんだけど、
多分これはね、
何かあったんだと思うんですよね、今思うと。
最近ちょっとカウンセリングの話をしたりしているうちに、
私も何かあったんだろうな、
子供の頃とかにっていうか、
何かあったんだと思うんですよね、今思うと。
考えてみるとあったんですけどね、
その辺の話もお祝い交えながら、
一戦会を迎えたらまた、
新しい柄だけ新しくしようと、
アイコン変えるとかね、
そういうことを考えたりしております。
それで、
ついでにもう一つ申し上げておくと、
この番組はですね、
3ヶ月チャレンジに誘導したいという気持ちはありますね。
3ヶ月チャレンジは、
私は3ヶ月チャレンジの中で、
3ヶ月チャレンジの中で、
私とはまた別のちょっと顔を持っていて、
いずれはね、
交互していけたらいいなとは思っているんですけど、
100日チャレンジとか、
その他諸々の中でですね、
私の、
何て言うんですかね、
個別セッションを中心とした、
精神力道の話をやっていくと、
それなりの人数が集まっていただいているし、
その中で、
その中で、
その中で、
その中で、
それなりにそういう話が盛り上がっている、
それなりにそういう話が盛り上がっている、
それなりにそういう話が盛り上がっている、
日本でも珍しいコミュニティかと思うんですけれども、
日本でも珍しいコミュニティかと思うんですけれども、
これを私は、
一つのライフワークと、
していけるのではないかと、
最近思うようになりまして。
だから今までですね、
今日も、
なかなかちょっと話さずに来た。
ということはつまり、
グダグダ会になるぞっていう暗示味、
予告みたいなところありますが、今日はその話をしたいと思うんですね。
何の話をしたいのかというと、浴室状態。
俗に世の中では宇宙と言われているものがこの中に入っているだろうと、逆かもしれないね。
宇宙の中にこの浴室状態が一部入っているのかもしれません。
これをフロイドがどう捉えていて、精神分析ではどういう話になっていて、
それが私たち、今、令和で働く人間にはどう絡むかということを、
先ほど人間特区にカメラを受けながらつらつら考えてみたりしたわけですよ。
ずっとこのところ考えているテーマなんですね。
それで、それなりに自分なりの結論が出ていて、
そういう意味では不在論からそんなにすごい進展しているわけじゃなくて、
しかもこの話、なんで知らなかったかというと、
対象層質とか、層局はいけないけど、
例えば良いおっぱい、悪いおっぱいということならば、
いや、俺関係ないしって思って聞いてられるじゃないですか。
ところがこれが物となってきますと、
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今の世の中ではこれほど普通に人工に解釈しちゃっているので、
まちまち捉え方の違いというのが鮮明になってしまって、
そこでフロイドの捉え方なんて、今さらお呼びじゃないよって思われているだろうなと思ってしまって、
話しにくいんですね、やっぱりね。
だからフロイドの論文の中では抜群にこのテーマに直結しているのは、
ヒアイとメランコリという有名な、少なくとも精神分析界隈では有名な論文があるわけですよ。
私も何度か読んでいるわけですが、今の世の中、なんだかんだこうは捉えられていないというか、
もちろんこれ、鬱の話としてヒアイとメランコリは間違いなく鬱というものの話をしているよなっていうのはわかるわけですけれども、
まあやっぱりこっちじゃないわけですよね。
三関係交鬱剤とかそういったものが認知行動療法とセットで提供されている現代において、
ヒアイとメランコリのような、言ってみれば心理、心と考え方みたいな、
これは決して心構えの話をしているわけでは全然ないんですけど、
この番組を聞いている方はお分かりの通り精神分析なんですよ、完全にフロイドのアプローチを。
やっぱりこれはね、現代ではどうかなと。
非常に難しいポジション、ポイントに差し掛かりつつあるなと思いながら私は読んでいるわけですよ。
何が難しいポイントなのかと、そもそもお前関係なくないかって言われるとますます難しいポイントに差し掛かりつつあるわけですよ。
とりあえずフロイドの考え方というのも、すごく特徴的なポイントがポイント付いているので、
その話をしていきたいと思っていますけれどもね。
導入が難しいんだな。
フロイドもすごく書いてますけど、自己挑発的な言動というのを耳にするじゃないですか。
これはうつの人にはよく出てくるけれども、関係なく出てきますよね。
非常に自分に厳しいことをおっしゃる。
抑鬱気質が精神病水準にいくと、
例えばプーチンがウクライナを攻めているのも私のせいだみたいな話になっていって、
妄想というものとリンクしてくるところまであるんですけど、
そこまでは全然自分と関係ないなと大抵の人は思うと思うんですね。
でも、明らかにその件で自分を攻めなくていいでしょうということで攻めているという意味においては、
こういう話をよくしてますけど、この番組では。
それは妄想的と言ってもいいじゃないですか。
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ただこれを妄想と言われたで非常に苦しいということになるので、
妄想という指摘すらなかなか困難である。
イリュージョンと言ってもいいんですけど、
何と言ってもやっぱりそんなことは言われたくないと言いつつ自分をガンガン攻めていく。
なんとかならないのかなとお医者さんなりカウンセラーなりは思うんじゃないかと思うわけですね。
心配になりますしね。
で、例えば学校行けてない自分が何もかも悪いんですっていう話をしている人がいたとして、
子供だったりしますよね、学校だから、不登校なわけですが、
何もかも悪いのかと思いますよね、やっぱり。
だって別に、学校に行きたくないと思っている人は世の中にいっぱいいるわけですし、
私だってずいぶん思いましたしね。
その行きたくない全原因が自分にあったとは思いませんから、
心の弱さがうんたらかんたらって話は、
まあ、よくないとされてるけど100歩譲って、
私に関しては受け入れてもいいですけど、心強い方じゃないですか。
しかし、成績が悪かったことも大いに関係してますが、
成績が悪いのもお前のせいだろって言われるやそうなんですけどね、
これでも公立小学校に行った時は成績が抜群に良い方だったわけだから、
いったい環境次第で成績などというものが変わるわけでして、
それは常識じゃないですか。
この辺がですね、しかし、
例えばうちの母にはなかなか通じなくなってしまうわけですね。
多分やっぱり低い点を見るとパニックを起こすんでしょうね。
ここに低い点を見るとパニックを起こすって何なんだろうな、
という興味が湧いてきますよね。
高い点の私であってほしいってことじゃないですか。
ここに母親の愛情というものの独特な、なんていうんですかね、
なぜ独特かというと、
隣の男の子が低い点にとってもうちの母は全然苦しまないじゃないですか。
当たり前だって思われるかもしれないけど、
ここは大事なポイントなんですよね。
愛すればこそってやつなわけですよ。
愛すればこそ母は苦しむ。
では、会社に行ってミスりましたと。苦しいですと。
でも自分が悪かったんですと。
あっさりおっしゃる方がいる。
見てみるより良いって考え方もあるんだと思うんですけど、
何もかも自分が悪かったんですってことになって苦しむ。
これは自分自身を愛すればこその発言ですよね。
よく似てますよね。
どうしたってやっぱり自分のことは大好きだから。
他の人がミスしていればですね、
多分いやそんな気にすんだよって言えるんですよね。
面白いと思うんですよ、これは。
愛していなければそんなに苦しまずに済むわけですよ。
そうですよね。
うちの母も同僚に簡単に慰められるけど、
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自分だと苦しんじゃう人もやってることは同じなんです。
愛している者が傷ついたから何かを責めてしまう。
ちょっとグッドバイブスをここで持ち出すならば、
罪と罰を見てしまう。
でもその罪を見るというのは、
愛と関係があるんですよね、こうして見ると。
そして愛してもいない人の点だと、
0点とかでも別に0点取ったって将来困らないしみたいな、
平気でうちの母も言える。
意外に正気を保てる。
優しい。面白いですよね。
愛してないと優しい。
ところが私だと愛されてるもんだから、
あの33点とかを英語で取ると、
あんたはやってみろよっていうぐらい、
3点も取れないからさっていうテストなんだけど、
もうなんか食事抜くみたいな勢いになってしまう。
なぜなら私のことが好きだ。
面白いですよね。
母は苦しい。
まあ私も苦しいんだけどね。
兵庫ってのはこういうことと関係があると、
私はやっぱり思うんですよね。
そしてそのことを、
なんて言ったらいいんですかね、
現代ではさほど問題にしない。
うつは問題であるけれど、
そうじゃないかなと思うんですよ。
うつ病ですってときに、
愛問題になりますかね。
なってますかね。
私はフロイドの論文を読めば、
そこかしこに愛が出てくるけど、
ここがフロイドの論文の
嫌われてるところだと思うんですよ。
やはり現代は、
どうしたら学校に行けるようになるか、
その認知の歪みを、
それはいいんですよ。
それがいけないって言ってるわけじゃないです。
ただ認知の歪みを修正しましょう。
合わせて好うつ薬を飲みましょう。
愛出てきませんね。
明らかに自分を責める、
人を責める、
あるいは自分の子供を責めるってときには、
私は愛が猛威を振るってると思うんですけど、
猛威を振るってるって言い方、
ちょっと愛と合わないんですけど、
この際そういう言い方をちょっとしておきますね。
思うのに、
そして私は、
全部ではないかもしれないけど、
一部のうつと愛は深く関わってると思うのに、
愛出てこない。
フロイドの論文は嫌われる。
なぜなら愛が大量に出てくる。
どういうことなんでしょうね。
一番もっとわかりやすいところで、
ペットロスってあるじゃないですか。
あれ間違いなく愛ですよね。
ペットを愛してなければ、
ペットロスになるはずないですよね。
私はやっぱり、
私の知ってる人にも、
猫ちゃんとか、
そうそう今日猫を、
ずっと人間ドッグの、
謎が、
目の前が猫なんですよ。
心を慰めて、
慰めるためなんでしょうね。
こういうことを言うと、
猫愛好家の人に、
白い目で見られるかもしれないけど、
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僕は猫の映像が、
60インチの大画面で、
愛らしく映ってても、
全然眠くなるだけなんですよね。
別に嫌いじゃないんだけど、
ここ猫そんなね、
猫とこうね、
あのー、
なんていうんですかね、
優しい音楽が、
こう、
なんていうか、
木琴かなんかで流れてるようなのを、
聞いたからと言って、
やっぱりカメラ厳しいなー、
みたいなことしか考えられないんですけれども、
猫好きの人には、
そうではないのかもしれない。
まだ犬の方がいいんだよな、
って感じがしておる、
しておったわけですけども、
まあでもね、
あれすごい大好きだっていう人から、
それこそ愛している人からすると、
まあいなくなったら辛いですよね。
そして、
うん。
私がちゃんと世話しなかったからだ、
あって、
自分を責め出すじゃないですか。
ここをフロイトは書いてるわけですよ。
なぜ自分を責めるんだってことですよ。
猫の寿命が人の寿命ほど長くはないのは、
みんな知っている。
つまり現実原則ですよね。
現実には現実の原則があり、
えー、
愛と憎しみの快楽原則。
快楽原則ってのは、
愛と憎しみの世界です。
だけでは、
この世の中には成り立ってない。
愛していれば、
愛していれば、
猫は亀並みに長く生きてくれるってことは、
起こらない。
残念ながらね。
もちろん、
そりゃあ、
あのー、
平和の空気を、
いろいろしたり、
健康に良いものを食べてれば、
猫だって絶対に長生きするとは思うんですよ。
でも、
亀が長生きするってほどには、
なかなかいかない。
あのー、
この世にはですね、
食われない限りって意味ですけど、
えー、
どっちだっけなー、
ベニクラゲ?
あー、
よくわかんないんですけど、
そういう生物がいて、
不老不死。
不老じゃないかもしれないけど、
不死なんですよ。
長生きする動物ってのはいるんだけど、
まあそれはやっぱり、
水との均衡が、
均衡度が高いとか、
そういうことなんでしょうけどね。
まあそういう、
不死の生物もいるらしいんですけど、
不死で生物って何よって、
ただし食われちゃうけどね。
あのー、
そういうこともあるらしいんですが、
いやもう、
人だの猫だのは、
そうはいかないですよね、
やっぱりね。
なぜ全原因が自分にあると言い出すのか。
なぜ懲罰の対象が自分になるのか。
そして、
えー、
自分を、
なんていうのかね、
罰する。
私この話を、
えーと、
聞いたとき、
いろんなもう話ありますよ、
それは。
原因について私は、
えーと、
なんていうのかな、
それが原因だとは、
共感できないけれど、
共感というか、
同意できないんですけれども、
原因じゃないと思ってますから、
あのー、
例えばプーチンがウクライナ攻めたのは、
あなたのせいじゃないですからね、
っていう、
そういう話はまだしたことはありませんけれども、
例えば、
えー、
そのー、
職場に行かれません、
それは、
えー、
少なくとも職場にいくらかの原因は、
責任があるに違いなくて、
本人の心の持ちようだけでは決まらない話、
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じゃないですか。
これはなぜ起きるんだろうということについて、
ヒアリとメランコリーには、
非常に有名な一説が、
有名なのかな、
ここの、
まあとりあえずちょっとね、
引用というものも、
ポッドキャストでやってみようという、
これも999回あたりを、
あの、
起点にした試みなんだと思ってください。
あのですね、
面白いんですよ。
あのー、
この辺からでいいかな。
しかし自我の中で、
自我っていうのは自分ぐらいですよ、
ここではね。
自我の中でリビドーは勝手に使われるのではなく、
捨てた対象と自我とを、
同一するために使われる。
はい、
えー、
分かりにくいですよね。
でもこれです。
全員に簡単な話ですよ。
猫、
猫ちゃんは捨てた対象です。
いや、
可愛らしい。
あんまりね、
真剣にやると辛くなるからやめよう。
適当に考えていてください。
私だったら昔で言えば、
私を、
まあ、
ふったっていうか、
えー、
話しかけた途端に、
そっぽ向いた女の子でもいいんだけど、
捨てた対象とはそういうことです。
私を捨てた対象ですよ。
いや、
でも猫がなくなったのは捨てたんじゃないじゃんって言われるかもしれませんが、
この場合に捨てたは、
えーと、
意図的にとか、
そうでないというのは関係なく、
私からも、
とにかく、
去っていってしまったら捨てた対象なんですね。
で、
リビドーは愛です。
だから、
自我と、
猫ちゃんが、
同一し、
同一かだと僕は思うんだけど、
まあ、
これね、
元の言葉を日本語だと同一しでも同一かでもいいんで、
えー、
するために使われるんですよ。
そうですよね。
そうじゃないですか。
えー、
最愛の子供、
最愛の娘、
えー、
何なら理想でもいいですよ。
うん。
大日本帝国とかね。
まあ、
共産主義でもいいですよ。
私と一体なんだっていうのって、
言うじゃないですか。
言ってしまいますよね、
人はね。
そのために愛を使いますよね。
リビドーは、
捨てた対象と自我と、
同一しするために使われる。
対象の亡霊は、
亡霊はって言ってますからね、
フロイトはね。
対象はすでに亡くなってしまったんですよ。
対象の現実にある部分までって意味ですね。
心の中には対象が残っちゃってるけど、
現実の対象はもう亡くなってしまった。
亡霊は、
自我に移り、
移るんですよ。
そうですよね。
夢見たりしません?
亡くなった方の夢、
亡くなった理想の夢、
ルイは亡くなってしまった。
そうだな。
何でもいいんです。
ヘッドの夢でも。
ヘッドの夢は見ないかな。
対象の亡霊は自我に移り、
その自我がある特別な判定によって、
対象として、
つまり捨てられた対象として現れる。
要するに自分の心の中で、
対象が現れてしまうわけです。
イメージするじゃないですか。
漫画の中でもよく、
のび太くんだってドラえもんいなくなってから、
ドラえもんの空想を捨てたりするじゃないですか。
捨てたんですよ、ドラえもん。
24:01
ドラえもんはのび太くんを捨てたわけじゃないっていうのは、
この場合はなし。
ドラえもんは未来の世界に帰ってたんですよ、
六巻の最後でね。
テントウムシコミックの六巻の最後だったかな。
だから捨てたんですよ。
でものび太くんの心の中にはドラえもんが残る。
そして亡霊として現れる。
で、こうして対象の喪失は自我の喪失に変わる。
ここが、
フロイトが言ってるポイントの中でも最大級だと思うんですよね。
対象喪失というか、自我の喪失なのか。
本当は対象を失ったって言わない。
本人はそう思ってるんだろうけど、
対象喪失って言うぐらいだから。
本当は猫が去ったんではない。
猫が亡くなったんではないし、
ドラえもんが亡くなったんでもない。
ドラえもんは目の前からいなくなってるんだけど、
お友達がいなくなったわけでも、
恋人が去ってったわけでもないんですよ。
自分が失われたんですよ。
だから、このカラクリを説明してるわけですよ。
対象が自我の一部に取って変わってしまう。
同一化しちゃったからね。
よく言うじゃないですか。
私とあなたは一緒みたいな。
永遠に引き裂かれないみたいな。
その一体感っていうものが、
恋愛とかでは最高級とされるじゃないですか。
もう二人は二人で一つ。
私と私の理想は一つ。
会社に入っても、
この会社で私はもうやっていくんだみたいな。
一体化していくわけですよ。
会社との一体感みたいなことも言うじゃないですか。
ということは、自我と対象が一部でしょうけどね。
一体化したんですよ。
だから夢にも見るわけですね。
すでにその対象は目の前にいなくても、
心の中にはもう住み着いている。
化けたっていうこと。
だから亡霊って言葉をプロイトが使ったんですよ。
心の一部はその対象と化してしまう。
これが喪失というもの。
つまり自分自身が喪失される。
非常に苦しいんですよ。
自分自身の一部がなくなっちゃうわけですから。
しかも愛している自分が。
自我とその愛する者との格好は、
自己批判。
自我との間の分裂になる。
これだと思うんですよね。私は。
いつかしか去っていったんだから、
去っていったものを批判すればいいわけですよ。
ドラえもんは伸び田くんを、伸び田くんはドラえもんを批判すればいいわけですよ。
なぜ置いていった。
まだ静香ちゃんと結婚もしてないのに。
言って批判すればいいわけですよ。
なのに私たちは往々にして、
これは正常なんだけど、ある一部分正常なんだけど、
こうはしないんですよ。
長寿がなんだと思うんですけど、長寿が自己批判を始めてしまう。
つまり去ったこの苦しみを作ったのはお前だと言って自分を責める。
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去った苦しみを作ったのは去った存在の方のはずです。
もちろん亡くなってしまった猫ちゃんに罪はないかもしれないが、
しかし去って苦しいんだったらば、
その責任はやっぱり去ったものに来すべきであって、
去らせてしまったものに来そうとすると、
ひたすら自分を責めることになりません。
これ恋愛でよくあるパターンですよね。
去った恋人を責めとけばいいじゃないですか。
あるいは、私があの時に暴言を吐いたからと言って自分を責め出しますよね。
これは何をやっているか。自己分裂なんですよ。
とフロイトは言っている。
僕はここが最大のポイントだと思うんですね。
いつしか本当は元々は去った対象を憎んでいたはずなんだ。
対象が去った責任は自分にあるという表現を。
つまり去った存在との一体感というものにそこに寄っているというのかな。
寄っていると言ってはいすぎか。
では、一体化するほど愛し合っているという空想に生きているにしましょう。
そういうことをやってますよね。
私と彼女が本当に仲良く思い浮かべるとかやりません?
失恋した後。
この手紙を何度も読み返す。
涙ながらに読み返すみたいな。
ドラえもんの思い出の場所は永遠にそのままにしておくみたいな。
つまり心の中で二人がまだ素晴らしい関係を満喫していた頃をそのままそっくりとっておく。
温存とかって言ったりするんですけど温存しておく。
そしてそういうふうに心の一部を一部の部分で改編して、改築でもいいですよ。
ここは私と彼女の永遠の思い出の場所なんだから心にとっておく。
これをやるのはもちろんその時のとても心地よい素晴らしい瞬間を味わい、何度も味わう、リピートするだと思うんですよね。
でもここに苦しみはあるので、もちろん実際にはそれは現実じゃないから苦しみはある。
そのために長寿が自分を攻撃していく。
なぜこれほど素晴らしい関係、なぜこれほど素晴らしい恋愛関係をお前は壊したんだって言って、
恋人を責めたいという気持ちを自分を責めるという形式に切り替える。
この時、自分は晒せてしまったダメな自分と、それを罰する超自我的な自分に分裂するんですよね。
自己分裂とフロイトは書いているわけですよ。
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つまり自我とその愛する者との葛藤は、自己批判と自我との間の分裂になる。
自己批判、つまり超自我的なことをやるわけです。
お前があの時もちゃんと世話しておけば、こうはならなかったとか、
お前があの時もっと頑張っていれば、この会社でもっと理想的な結末を迎えることができた、
転職しちゃったけど、何でもいいんですよね。
お前がもっとちゃんと扱っておけばiPhone壊れなかったとかね。
それはiPhoneと自分が同一化して、iPhoneを壊した私とそれを批判する私に分裂していく。
苦しみはこの分裂が保存されてしまうところにある。
なぜ保存されるか。
それは愛する者とのいい間柄という思い出を永久保存してしまったからなわけですよ。
その思い出が忘れられない。
これを忘れたら生きていけない。
この思い出がまるで現実のようにありありと浮かべれば浮かべるほど、現実がそうでないということを思い知らされて苦しみ。
この苦しみを自分自身が作り出したんだといって、長寿がである自分が自分を責めるという構図をここでロイトは描いているんだと思う。
悲哀とメランコリー。
これがですね、私はないなって思うんですよね。
今時の愚痴の説明には全然ない。
でも聞いていると必ずこの種の苦しみ、愚痴じゃなくても、よっぷつ的に苦しんでいる方の自己分裂を伺っていると、
ロイトも書いているんですけれども、この事態を詳細に詳細に聞き込んでいくとみたいなことを書いているんだけど、
同じような結論なんですよね。
必ず喪失している対象があり、その対象との間のユートピアみたいな時間があり。
ハネムーンだな。
そういう時間があり。
その思い出に浸っている。
だからそれを壊した自分を許せなくて自分が責めるというこの構図は常にある。
これの問題は何の問題かというと、
一つは万能空想ですよね。
例えば私と母でもいいんだけど、なぜ私は、母はしょうごくんがそんなにいい点を取って、
そんなにいい子で、そんなに素晴らしい息子であって欲しいか。
ハネムーンの時期があったんですよ。
彼女と私の間におそらく2、3歳の頃。
ああいい子だいい子だっていう時代があったわけ。
この子といれば楽しい。
こういう時期を一瞬でも過ごしてしまうと、
まあ一瞬なんかではないかなり長時間過ごしてしまうと、
そこにユートピアを作っちゃうんで、
この子とこういう風に暮らしていけたら私は万能だっていう万能空想を作っちゃうんですね。
で、この万能空想で人生の穴のみを乗り越えていこうぐらいに思ってるから、
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これが失われた時の怒りがでかい。
私と私別でもすると、母は多分抑鬱的になるんでしょうけど、
私が悪い点を取るぐらいの失い方の場合は、
抑鬱的になるのは嫌なんで、人間は。
こいつにいい点を取らせようということで、長時間私に向かってバリバリ攻撃してくるわけですよ。
その攻撃がなかなかすごかったわけですよね、もはや。
こんな33点なんて、頭のおかしの人間に誰も取らんぐらいな勢いになるわけですよ。
自分その文章一文も読めなくてもそうなる。
さらにちょっと正気をかいているわけ。
この怒りを自分に向けたら、鬱っぽくなりますよね。
つまり対象喪失というのは、対象だと思っているものと、
一体化した時の自分の素晴らしさだし、
こんな息子と一緒で、言ってて自分で笑っちゃうんですけど、
最高だわ、みたいな、そういう母親感にどっぷり浸ってしまう瞬間を持って、
この万能空想を取っておく。
思い出のようにですね、思い出ですよね。
取っておこうとするから、それを失いかけそうになった時に、
その原因になるものを処罰して、
懲罰して、徹底的にやり込めたくなって仕方がなくなる。
これが愛と憎しみの苦しみだと思うんですよ。
で、忘れたらいいのにってあるじゃないですか。
それはもちろん、失恋の苦しみとか、ベッドロスの苦しみを忘れろと他人。
こうが難しいんですよね。他人のホイホイは言えないけど。
結局は、そうやって永久保存する苦しみに浸るよりはですね、
やっぱり新しい人生っていう、割と浅い言葉もあるわけですけど、
でもあれはなんだかんだ正しいということなんですよ。
フロイトが言った通りですよね。
あなたは今痛ましい状態にあるけど、
あなたの苦しみをありきたりの不幸に変えていく。
お手伝いをしましょうってことですよ。
ありきたりなんですよ。しょうがないですよね。
失恋なんてありきたりじゃないですか。
全てはそういうものです。
ベッドは人より長生きは普通しないので、
息子はだいたいろくでもない点を取ってくるようになるんですよ。
ありきたりなんですよ。その種の苦しみなどというものは。
でも、なかなかそうはいかない。
なぜならそれは万能空想に浸っているからではないか。
って考えていくといいんじゃないかっていうのが僕は、
やっぱりこのフロイト流の精神力道の人気ないかもしれないけれども、
粘り強くやっていく一つの方針なんだと思うんですよね。
ここには忘れないにしても、
思い出に少し変えていってですね、
記憶を思い出化していく。
こうやって、なんとなくああいういい時代もあったよなという
しみじみとした感じに恋愛だったら恋愛を持っていけばいいと思うんですね。
36:02
あの時に戻りたい。
ああじゃないともう私生きていけないみたいになって、
万能空想をがっちりと保持したままだと、
絶対自分の長寿が自分を責めまくってくるじゃないですか。
この2つですよね。
自分の長寿が自分を責めるにいいように責める。
100%お前の責任だみたいにしてしまう。
この100%感、これは結局長寿がの万能空想なんだけど、
100%それは回避できる過去だったって言ってるわけですけど、
そんなことはあり得ないんですよね。回避できなかったわけだから。
ドラえもんが変える責任はのび太くんにはないわけですよ。
あの漫画でのび太くんは欲ず責任になってないのが不思議なぐらいだったんだけれども、
僕ならなるなって思うんだけどね。
自分を責めちゃう。
こういうふうに僕がもっと頑張っていれば、
ドラえもん変えらなかったんじゃないだろうかって絶対考え始めるんですよ。
ああなると人間。
じゃないとやたら倒し責になってしまう。
もう全責任は未来の世界にあるから、
未来の世界を破壊しようみたいな。
あり得ない妄想を持つ人になっちゃったりするんで。
この2つどっちにしても幸せじゃない結末ですよね。
ここをどうにかしようと思ったら、
やっぱりこの、やりとメランコリーなわけですよね。
物作業ということになるわけ。
その第一歩は、両方同時に僕が来ると思うんだけれども、
万能空想の手前。
あの人とのあの時間は、そこまで最高のものだったはずはない。
だから詳細に思い出す必要がおそらくあると思うんですよ。
もう一つは、自己分裂をやめる。
この万能空想を保持すると、
絶対避けられない自己懲罰が回っているので、
この2つの分裂をやめる。
つまりですね、話はもっとシンプルなことです。
ドラえもんが去った。
信田君のことを去った。
そのドラえもんが去らなければならない状況は、
つらい、苦しい。
だからその責任を責める。
で、まだいいんですよ。
それを自分を2つに分けて、
全責任はこの自分にある。
だからこの自分は許せないんだと言って、
自分で自分を責め続ける。
この構図にしてしまうと、
記憶は思い出に変わることもできなければ、
いわゆる染みリミットを消化していくこともできず、
ひたすら懲罰だけを受け続けなければならない。
この分裂形態に変える必要は本来ないんですよ。
それは事実ではないので。
これは不思議なぐらい欲打つ的な気分に浸っているときって、
事実だと思うんですよ。
そしてそれが最も良心的な方法。
生辞が良心の罪って言うんだけれども、
この最も良心的な方法。
良心の不安でしたね。
良い心。
だと思ってしまうんですよね。
全責任は私にある。
でもそれは全く事実に反するわけです。
事実に反するから事故分裂が起きてるわけですよ。
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事故って二つに分かれてないじゃないですか。
超自我的な事故が過去にしでかした私を責めるってのは、
一見いかにももっともらしいけど、
完全にそれは心の中の、いわゆるイメージの産物ですよね。
人間の心が象徴を使って、過去と未来、過去と現在を分け、
過去の私と現在の私を分け、
過去のしでかした私と現在の超自我の私に分け、
そうしてこの二つに分けたイメージを使って抜進行しているわけですよ。
これは完全に空想の世界の出来事であって、
現実ではないはずなんですよね。
だから現実というものに沿っていく限り、
やっぱり分かれたということの責任は、
少なくとも一方だけに100%あるなんてことはないはずで、
それが何別であろうとないはずで、
したがって超自我の出番はないんです。
そしてどのような思い出であれ、
この思い出こそが全人生を追うべきであるということの、
つまり万能な思い出ってのはないわけですよ。
ただ、こんな話をしても空々しく聞こえるんですよ。
冷いとメランコリーという時間においてはですね。
だから私たちは物作業というものを必要としていて、
でも結局物作業でやることは、
この万能空想を手放す。
超自我による事故、分裂と事故攻撃をやめる。
事故懲罰かな。をやめると。
それがやめられるような観点を探していくというのに尽きると。
言った話だと思います。
第999回はですね。
でもなんか今ずっと喋ってて、これは銀河鉄道3-9の、
銀河鉄道の夜でもいいんだけど。
少し思い出します。
こうやって無理矢理繋げて終わりにしよう。
だって見えてると別れる。寂しいじゃないですか。
最終巻の星の鉄路だけが、
なぜか木でできているような宇宙空間を走れる銀河鉄道に乗ってですね、
帰ってくる。一人で帰ってくるんですよ彼はね。
まさにあれは物作業が終わったと。
しみじみとリアリストになった星の鉄路の姿なんじゃないですかね。
なんかまとまった。嬉しい。