1. 働くメンタルをとり戻す精神分析的ポッドキャスト
  2. 「いい親子関係」から抜け出る..
2024-11-01 40:43

「いい親子関係」から抜け出るための「転移」【1081】

「時間さえあればなんでもできる」わけではない。
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サマリー

今回は、精神分析における「転移」について掘り下げ、愛情や理解が仕事や人間関係に与える影響を探ります。また、転移が恋愛にどのように関わるかについて考察します。このエピソードでは、親子関係における転移のメカニズムを考え、無自覚な感情の交流が引き起こす問題を探ります。また、時間に対する教育的な圧力とその影響にも言及します。親に対する依存や甘えと独立心の相互関係が探求され、特に子供がどのようにこれらの感情を抱えるかについての洞察が示されています。さらに、親からの期待や価値観が自己の人生に与える影響についても触れ、独立を目指す子供たちが直面する葛藤が描かれます。理想化と脱価値化の概念を通じて、親子関係の閉塞感を解消する方法を探求します。

精神分析と転移
おはようございます。 働くメンタルを取り戻す精神分析的ポッドキャスト、第1081回をお送りします。
ついに11月になりましたね。11月1日、金曜日、朝の7時19分です。
まあ、あのね、ノースリーウェイズという、
J.松崎さんとのポッドキャスト収録でも申し上げましたが、ついにワールドシリーズも終わってしまいまして、日本シリーズも残すところ、引き分けがあるかもしれませんが、
常識的には最大あと2000、横浜スタジアムで、つまりこれで福岡ソフトバンク・フォークスはですね、
ペイペイドームでの動画上げはできなくなった、ということになりましたね。
いやー、全然想像できない展開ですね、やっぱりね。昨日のドジャーズの試合、ドジャーズ・ヤンキースの試合も全然想像のつかない展開だったんで、
ほとんど見てたわけだけど、何が起こるかわかんないですね、やっぱりね。野球も、人生もそうですけどね。
で、このホットキャスト、精神分析的と、前も言いましたけど、的がついてるということはあれですか、精神分析ではないぞという。
これはあれなんですよ。どうでもいいことかもしれませんが、文章を書くときにこの的とか感を、
だから、クラドノ・ケイゾーさんがやっていらっしゃる書き上げ塾で仰ってた通りですね、性・感・的・可ですね。
可は時にしょうがないとしてもですね、性・感・的は、絶対使わないっていうのは難しいんですけど、ちょっと不自然になる場合もあるからですね。
そもそも、兵の後ろに的つけるとか、やばいだろっていう感じなんでね、なんとか的・性とかね、なんとか性・的とかね。
なんだかわかんなくなるじゃないですか。的つけたり性をつけるということは、そのアリューだよっていう話になってしまいますからね、みたいなものですよね。
みたいなものであることを言いたいっていう場合に使うものだと思うんですよ。みたいなものってことは、つまりそれじゃないってことですから。
関係を関係性と、なぜ僕らは言うようになったのかってことですよね。関係性って何ですか。不安・感とかね。不安がすでに感覚ですからね。
不安に感をつけるというのは、つまり安心感とかもそうですが、安心とか不安で言い切らないと、おかしな何かになってしまうので。
ということ。だから、性・心分析、的と僕がわざわざ言うってことは、性・心分析じゃないよと言ってるわけですよ。
これがもう本当、性・心分析・性とかね、そういう、まあそういうことなんだけれども。
性・的とかいうのを的とっちゃってもね、性ではないような気がする。だからセクシャルなやつね。
性・的って言ったとき、これはちょっと難しいよなっていうのは、言語化も、化を取るわけにはいかない。ただし言語に直すとか言葉に直すということはできますよね。
言語化というのではなく、これも、あのー、かき上げ塾やってるわけじゃないんだけど、
性感的化を使ってるときは、もう少しこう、ひらがな使えないかって考えるっていうことが良さ、良かろうと思うわけですね。
その方が自然でしょうねっていう。ありますけどね、言語化じゃないとおかしいっていう、あるいはこの雰囲気としてね、急に何か言葉に直すとか、
なんか急に、あのー、大和言葉っぽくするのは奇妙に感じられる文脈というのはありますか。そうでないならば、わざわざというかこの、
なるべく、塾語では漢字塾語でない方が良いでしょうと。結局こう、中国語っぽくなってしまいますから。雰囲気的にですね。
えー、いい加減にして切り上げまして、まああの、今日はちょっと、ややそれでも精神分析に寄った話にしたいと思っているんですよ。
とはいえ、最近タスク修道の話とかしてないから、少しはしようかなと思う。でも精神分析的ポッドゲストがいてて、もはや、
仕事の字が出てきにくくなってきつつある、まあ働くメンタルを取り戻すなんだけどね。
えーと、精神分析の、やっぱり最もそれらしくする言葉として、一つは投影というのが僕はあると思う。無意識でもいいんですけども、本当にいくつか。
転移の現象
間違いなくこれらの言葉は相性がいいよねっていう。ナルシシズムもそうなんですけどね。
あれナルシストというこう、人口にやや間違った形で解釈したものがあるので、ナルシストかっていうね、ナルシシストなんだけど、まあでもそんなこと言ってもしょうがないんで、ナルシストはもうナルシストですよね。
間違おうとなんだろうと、それが定着すればそういうもん、どっちにしたってカタカナでドイツ語なの、英語なの、完全に発音することは不可能なんで。
ただまああれはもともとは精神分析用語だし、ボーダーボーダー言いますけど、ボーダーだって間違いなく精神分析から僕は発生したと思うんですけれども、
まあ定義、そして投影、無意識、まあ無意識はちょっとね、無意識はさすがに1000倍特許というのは難しいかもしれないと思うんですよ。
全意識ならもうこれは間違いなく精神分析用語なんですよね。使わないですから普通の最近、一般的には全意識なんでね。
コンテナーはちょっとね、逆にあまり知られてなさすぎるという感じがします。
全意は本当に精神分析以外ではまず使わないし、大抵の人は多分この言葉を使ったら違う意味を取ると思うんですけれどもね、精神分析らしい用語だとは思います。
で、先日天意覚書という本が、山月邦博さんの本が出たんで、早速買って読んでいて、あれ?と思ったんですよ。
このタイトルって何なわけ?って思ったんですよね。ていうかこのタイトルの本を私が読んでるっておかしくない?って思ったわけですよ。
天意覚書って、松木さんでなければそんな本が出せるとはとても思えないし、松木さんだとしてもそんな本を買う人がそういるとも思えない。
天意覚書ってもう売る気ゼロじゃないですか。で、僕は思っちゃうんだけど、天意覚書っていう本を自分が買って読んでる。
しかもこんなに高いのに。ていうか高いと感じるんですよね、僕は。
この不思議さですよね。この不思議さは精神分析的だなぁと思うと同時に、私がやっぱり読めもしない本を買うというね、癖が多分一生が射つくんだろうなっていうふうに思うわけです。
これはね、なんですよ。釣りをしない人がヘラブナ釣りの極意みたいな本を持ってるみたいな感じなんですよね。
でもそういう本読みっているんですよ、世の中に。海外旅行に行きもしないくせに、海外旅行なんかこう絶対お得ななんとかみたいなのも平気で読んじゃう。
本を読むことが先走っていくために、いるかいらないか、読む必要があるかないかっていうことがほぼどうでもよくなっていくっていう現象ですよね。
ちっちゃな子が難しい本を背伸びして読むのの、その、さらに、ただ背伸びしているだけではなく、いろいろ訳あって、私訳あって読んでるんで一応ね、ただ背伸びしているわけじゃないんで、僕はもう今更この背伸びしても別に誰かが褒めてくれるわけじゃないんで、ただそういうことと無関係にこういう本は選ばないってことだと思うんですよね、やっぱりね。
でもビオンは選びませんからね、背伸びしても。ビオンを直接読むということになってくると、相当覚悟を決めて、相当選別して、でないともう、買っただけお金をドブに捨てる羽目になるんで、本当に。
いずれそうで無くなりたいとは思ってるんですけど、僕にはやっぱりビオンは少なくとも、読んでて面白いとは決して感じられないんで、役術のこともあるとは思うんですよ、海外の本の場合。やっぱりよっぽど役を徹底しないと、なんて言えばいいのか、特に精神分析みたいなものって困るなぁとは思うんですね。
で、転移を覚え書きですよ。転移。転移は私は精神分析的な人間として扱いたくないというのがあるんだけど、とはいえ転移っていうのは実際に扱ってしまうものであって、扱おうと思ったから扱えるとか、そういう意識と意志でなんとかできないから精神分析なわけですよね。
気がつくと転移っていうのは始まってしまっているっていうのが転移であって、多分。意図して転移を引き起こすとかね、構造設定でそうすることができるって本はあるにせよですね。構造設定でもなんにもなってないのにそれが起きちゃうみたいなのを止められない場合は止められないですよね。
引き起こせないってことはそういうことですよね。自分で引き起こせないということは自分で止めることもできないんですよ。
だからあとはもうこれはですね、やっぱり私がいつもこの番組でも申し上げている通り、知っておくしかないよな、そういうことはと思うんですよ。
だって自分で作り出せない、従って自分でコントロールできず、自分で止めることもできないものは知っておくしかないじゃないですか。
運転してて時々思うんですけどね、ハイドロプレーニング現象、水膜現象って言いますよね。危ないやつですよね。雨の日に飛ばしているとですね、タイヤと道路の間に水膜ができて、つまり若干水に浮いている状態になるわけですよ。
当然危ないですよね。ブレーキ、制動が効きにくくなるわけですよ。でもこれも起きるんですよ。
そして気づいていないケースもいっぱいありますよね。前の車の水膜が起きている時には同じ速度で動かしている、同じような性能の私の車も、もちろん起きているに決まっているわけですよね。
で、もうそれ起きちゃってるじゃないですか。起きちゃった後で気づいているわけじゃないですか。これまで長く走っていたらずっと起きてたってことですよね。
こういうのはもう知っておくしかないですよね。絶対に起こさないとか、起こしたらすぐに車止めるってわけにはいかないケースが普通なんで、やっぱりこれはもう知っておくしかない。
転移の重要性
もっと知っておくしかないのにあれですよ、あれ。煽り運転とかもそうだし、いろいろ知っておくしかないことってあるわけですよね。
自分が好きでそれを引き起こすわけじゃないものは、知らないより知っている方がマシだみたいな世界で、私はそういうアプローチとして精神分析が一番知っておくに値すると思っているという言い方もできるだろう。
で、転移というのはですね、転移性恋愛が一番わかりやすい。それが起きるとか起きたらどうするじゃなくて、起きるだろうなそんなことはってことですよね。
一つの部屋で、男女じゃなくても本当は起きるんだけど、とりあえず男女で、どっちが男でもいいわけですよ。分析家でもクライアントがでも。
前に戸畑海斗さんも書いてましたけど、やっぱりこれは自然に起きるよなっていうので、一番ありそうなことが女性が分析家やってて、カウンセラーでもいいですよね。
来ている男性がその女性を口説き出す。起きますよ絶対に。セックハラだとか何とか言ったって無駄だなって感じが。まず2人しかそこにいない。
話は全部、コンコンと聞いてくれる。そういう経験が少ない人がやってくる。
ということですよね。だからL優勢になってKがそっちのけになるわけですよ。なぜ私たちはここにいるのかという
ノーインクがですね、もうどうでもよくなっていくわけですよね。知るということ、把握するということ、理解するということはそっちのけになっていって、愛のようなものがどんどん優勢になっていく。
転移が起きるわけですよね。これは別に精神分析じゃなくても絶対起きるだろうし、何なら転移が起きなきゃ恋愛なんてこの世から大半が消滅していくんではないかと思うぐらい起きると思うんですよ。
起きてるし、そこら中で。それをただ転移とは呼ばず、それを恋愛と言うすぎない。だから本当の恋じゃないとかなんとかいう話をよくどちらかというと女の子向けのコミックではその本当の気持ちじゃないとか本当の愛じゃないとか一生懸命言ってますけど、あれはそういうことを指してますよね。
それを言っていったら本当のってどれぐらい残るんだろう。全く残んないんじゃないかと僕はよく思うんだけど、そんなほど言うと怒られるかもしれませんけれども。
まあまあ、でもそういうふうに思いますね。だから転移から始まるはずだと思うんですよ。その転移って何なのっていうのはもうどうでもいいことかもなーって思うんですよね。
転移のメカニズム
大事なの起きちゃうってことの方であって、もちろん考えていく必要はあるんだけど、それどっから来たのかということは考えていく必要があるんだけど、でも起きちゃったっていうことの方が遥かに対応しなければならない問題であって、
どうして起きてしまったかっていうのが、対応の一つのアプローチでしかなくて、どうして転移が起きるんでしょうっていうメカニズムをいくら知っててもですね、起きてしまうっていうことの方がよっぽど問題だと思うんですね。
恋愛だけじゃないんでね、ものすごい憎しみ合う転移とかそういうことがいくらもあるわけじゃないですか。
しかもそれがお互いが無自覚にあるから、憎ってるという自覚すらお互いがなく、非常に礼儀正しくあっていて、心の奥底のほぼ気づいてないところで水準で憎しみ合うみたいなことが進行するから、危ないから正式じゃなきゃダメだとか訓練積んでなきゃダメだって言うわけですよね。
だからそのことを知っておくってことが、例えば私と妻の間でも起きてるわけですよ。ちょっちゅう。お互いしかもあんまり意識することもなくですね、だから突然に見えるんだ。突然喧嘩が起こるみたいな感じが発生するわけですよね。
これは転移なんだと思うんですよ。転移性恋愛なのかわかりませんけど、とにかく転移であることは確実だと思うんですよね。
どっちが持ち込んだものであるにせよ、あるいは両方が持ち込んでいるケースもあるでしょう。それは人間関係って言うんじゃないのって言われるかもしれませんが、それは人間関係と言ってもいいんでしょうけれどもね。
なんでこんなことを一生懸命言ってるかというと、もしかするとですよね、僕はちょっと今までそうは思ってなかったんだけど、もしかすると人間が出会った瞬間に転移って起きてる可能性もあるので、今日はちょっとややこしいこと喋ってますよ。
いつもよりは噛み砕いてないんですよ。ただ、もしかすると人間出会った瞬間に転移って起きてるかもしれないなって僕は最近強くを意識するようになってきて、そうすると今までの質問を受けたりしたのも全部力動的に見直していくっていう作業も結構大事かなぁとは思うんですよ。
松木さんの本とかをずっと読んでるとそういう気持ちにさせられていくんですね。これは試行実験ですけどね。リアルにはそんなこといちいち考えませんが、例えばですよね、昔タスクカフェ等で、タスクシュートの話、久しぶりになった。タスクシュートで記録つけられませんって言われることがあったわけですよね。
これ普通に考えるとタスクシュートでつぶさに記録つけるのは大変だから、そういう現象があったかもですね。そういう現象が何か客観的で記録をつけられないという現象が起こるんだぜみたいな感じがするじゃないですか。そう聞いてますよね。そうなんですよね。タスクシュートって1分単位めんどくさいですよね。
これはつまり誰が誰に喋っていてもそういう私の困りごとがあるんですよっていう風に話を聞いているつもりでいるわけですよ。それが普通でしょうと思われるかもしれない。それのどこがおかしいのか。でも定義的に聞くとなると話は違ってくる。
この人は私に文句を言ってるんだと捉える。他の人に対してはこれ言わないんじゃないかと考える。この人と私の関係だからこそこのセリフは出てくる。これが定義ですよ。だって恋愛関係ってまさにそういうもんですよね。
その人と私はあんまり経験ないけど付き合っている人だからこそ出てくるセリフ。それをそこら中で全部に言ってたらおかしいわけですよ。客観的事実じゃないわけですよね。あなたが好きですっていうのはその人にしか言わないわけでしょう。その時には少なくとも。同時多発的にそこら中で言っていたら奇妙なもんですよね。
だからこのように考えるのが定義なわけですよ。この2者だからこそこの話、こういう気持ち、こういう感覚が登場すると。アスクシュートについての質問だって同じじゃないかって考えるんですよね。なぜならば記録ができないんですよ、佐々木さんってセリフを他の人に向かって出すだろうか。大橋さんには出すかもしれないけど、それにしたってこの関係は限られてる感じがするんですよ。
これは定義なんではないかって考えてみるわけですよ。そうするとこれを考えてみるだけですよ。治療を始めると精神分析始める。だからなんですよ。治療具っていうのに意味があるっていうふうに僕は思うのであって、これを扱うとか精神分析やり始めますよみたいな話は全然別の話。
ただこれを何かこうね、最近よくやってるんですけどね、チャットルームあるじゃないですか。AmazonとかAppleとかでも困ったことがありませんかみたいな。向こうに人がいないやつですよ。あれを見ると僕がどうしても納得がいかない気持ちになるのは、なんかそのですね、データベースみたいな質問を入れると応答が出てくる。
つまりその質問はFAQだからここを見てよってことなのかもしれないけど。僕はですね、質問のすべからく定義が起きると最近信じるので。いや、人間味がないとか世の中で言うのはそういうことなんだけど、ただ僕が言いたいのはそういうことだけでもないんですよね。人間味がないなら我慢できるんですよ。
そうじゃなくて、なんかこうね、答えてもらってる気が全くしない答えというのは、なかなか採用するのが人間の心理には抵抗感がある気がする。だけど忙しいし、人件費が無駄だからっていうのはわかります。だから僕もあれを使うし、それでことを解決させようとするんだけど、なんかその時にはすごく僕の方で協力してるな、自分Amazonに協力してるなって感じがするんですよね。
でも答えてくれないんだなっていうことなんですよね。この気持ちはこの気持ちで別途扱わなければいけないなって思うんですよ。人間はやっぱり情報を引き出したいだけじゃないんで、そういう時は絶対に頼りたいっていう気持ちがあるはずなんで。
つまりですね、定義って結局人間関係ってことですよね。だからここで僕はよく感じるのが、独立というのと依存ってことなんですよ。依存してると言いたいのではないんですよ。関係してると言いたいだけなんですよ。文句を言ってくるって面白いじゃないですか。
AIに向かって文句って言わないと思うんですよ、本質的には。それはいろんな解釈があると思うんだけど、基本的にはやっぱり文句を言う相手は人間だと思うんですね。人が文句を言う相手は。ここはもう思い切って言っちゃいますが、親だってことだと思うんですよ。だから面白いなって思うんですよね。
例えば、北海道から来ましたみたいな方が結構時々いらっしゃるわけですよ。私のセミナーとかに。本当にありがたいなと思う一方で、北海道からわざわざいらして記録が取れませんと私に告げるっていうのはね、すごい不思議な現象じゃないですか。ある意味では。
もちろんこう、会ってみたかったとか話してみたかったとおっしゃっていただくわけですが、そういう価値が私にあるんだろうかと思いながら、ややいぶかしく思いながら伺うわけですが、ただ言ってることは記録が取れないって感じがしますよね。
で、そういうふうにおっしゃるぐらいの方だったら、言葉遣いも丁寧だし、もう本当に佐々木さんは全然悪くないみたいなことをおっしゃりながら、僕に文句ばっかり言って、まあ僕にじゃないんだけど、タスクシュートへの不満をずっとおっしゃってるっていうことが起こるんですよ、実際に。しばしば体験する。
これはやっぱり親に何か文句、すっごい極端なこと言ってしまえば積み木崩し感があるみたいなね。お前うるせえんだよみたいな。記録記録うるせえんだよみたいなね。記録なんか取れっこねえだろみたいなこと言われながら殴られているみたいな。そうは感じません。感じなかったけど。
時間への圧力
すっごい極端なこと言えばこういうことなんじゃないかなと思う。表向きどれほど丁寧でも、どんなにそこに不思議な現象があるとしても、いや不思議な現象があるからこそね、そういうことなんではないでしょうかって感じを抱くことが、もう精神分析なんて全然意識していなかった頃からその不思議さにはあったんですよね。
だってそこに行ってどんなに記録をつけるのが面倒くさいです無理です無駄ですということをどんなに言ったって、時代は1ミリも前進はさせられないわけですよね私には。せいぜいじゃあ写真を撮りましょうとかそこまで無理をしなくてもとか、まあありきたりなことしか言えないわけですよね。
だって記録を取ることからの効果の話をしているのであって、これを記録を取らずに同じ効果を得るっていう方法を僕は持ってなかった時代の話なわけですから。今でも持っているのか疑わしいですか。当時は全く持ってなかった時代なんで。記録を取ることがスタートだったわけですよ。
端的には言えませんが、別の言い方をすると、もうこう、ここにお病ですみたいな話に、とにかく血糖値を下げましょう。そのためにも糖分を減らしましょうっていう話に対して糖分を減らせねえんだよみたいな話なわけですよ。他の方法を考えろみたいなね。
で、インシュリンチューシャーは知らない時代にそういうことを言われても、手の打ちようがないわけじゃないですか。僕が知ってるのは記録を取るということだったと。それに対して記録は取れないということを訴えにいらしていると。それもわざわざエルロハルバーですね。2泊とか3泊してでも私に直接だと思うんですよね。メールで言うこともできますからね。記録が取れないと。
しかも面白いことにその話って、時間が欲しいっていうところから来てるわけですよ。こんなに時間をかけて、このようなことをする。そういう人は全然悪くないんです。ただ私がいけないんです。記録が取れないんです。これにどういう意味があったのか。変異。というふうに僕は考えるのが、やはり一番納得がいく答えなんですよね。
納得がいかないわけです。他の考え方とか、他の解説。それが例えば報酬による学習行動だって。全然わからない。何かがわかった気がしない。変異である。佐々木は母親なんだと。そして母親に言いたいことがいっぱいあるんですよ、私。これが一番しっくりくる。
お母さんに言えばいいんじゃないかと思うんだけど。その行為が無自覚に行われているのでね。お母さんに言ってやりたいことがいっぱいある。中でも一番その人が言いたいことは何だろう。時間さえあれば何でもできると思わないでよってことじゃないですか。もっと勉強しなさいって言うんじゃないですか。
私、極力避けるように避けるようにしてるんですけど、社会圧みたいなもんなんでね。娘を学校に入れて中学高校ともなってくると忙しいわけですよ。ちょっとした新学校みたいなところでも実に忙しくさせる。子供を英語を何時間もさせて単語いっぱい覚えさせて。
絶対値の数式の二乗を不統合で同行するっていうのもやらせて。古文のずぬぬぬなんとかかんとかっていう助動詞もなんでそうするのかということはともかく覚えさせて。もちろん漢字でしょ。読んだほうがいい本とか。
もうビリビリですよね。部活にも行って朝5時半とかに起きて夜12時までなんかしてなきゃならない。その間、友達付き合いもあれば、反流のアイドルをチェックするとか、打ち残しないけどあるわけですよ。
実にたくさんのことをすることがいいことだということになっている。で、時間を作って勉強しろって親は言う。僕は言わないですけど。時間があれば何でもできるんだからというこの万能感ですよね。万能空想ですよ。これがもう強烈に押し込んでいるわけですよ。
ちょっと頭が回る男女の思春期の子はみんなこれをされてる感じがするんですよね。ものすごいねじ込まれてますよね。時間を使えと。時間を最大活用しろと。時間さえあればお前何にでもなれるんだぞっていう。
大谷翔平にでも藤井壮太にでも何でもなれるんだぞっていう、囲碁のすごい強くて、頭が良くて、ちょっと可愛い女の子にもなれるし、バイオリンも弾けるし、何でもできるんですよ。時間があればねって。これに対するクレームなんじゃないですかね。時間があれば何でも私にできると思うなよってことじゃないですか。
親子関係の依存と独立
それがつまり、親に対する依存であり甘えであり独立心なんじゃないかと思うんですよね。こういうのって全部一緒にくるじゃないですか。独立心だから甘えるのはおかしいとか、独立心なんだから依存するのはおかしいっていうのはおかしいですよね。独立心だからこそ甘えるわけじゃないですか。甘えているから独立したいわけじゃないですか。
この辺って私は普通だと思うんですよ。別にこれを知るのに人間心理の奥深いところを知る必要とか全然ないと思うんですよ。自分がやろうとした時のことを考えれば一目瞭然だと思うんですよね。親子元から離れて家出てえよみたいに思ってる子ってめっちゃ甘えてるじゃないですか。これが分からないってことは僕は考えられないんですよ。これだったら小学生だって分かると思う。
信田くん家出してたけど、家出するというのはですね、お母さんのことが嫌えてお母さんと一生顔を合わせたくないってことではないんですよ。信田くんが家出するのは当然お母さんにべったりだから家出したいわけですよね。その過剰なまでの支配下に置かれている状態を脱さなかったらやっていけないじゃないですか。
永遠に赤ちゃんで、永遠にお母さんが若いままならばそれでいいでしょうけど、うちの母もそうですけども、頭にお花咲いちゃってますから、あのお母さんにべったり頼って、お母さんごめんご飯も全部作って、お金も年収1000万分全部稼いできて、それ全部僕に頂戴ねって言ったってくれないじゃないですか。
そんなことできないですよね。もう80になろうとしていて、僕の言ってた四ツ矢大塚っていうのが三ツ矢になっちゃってるようなお母さんにそんなことは期待できないですよね。つまりお母さんにべったりだったとしてもですよ。おむつまで変えてもらっていたとしてもですよ。お腹空いたらおっぱいに吸い付けばいいという状況だったとしても、その状況は永遠に続かないわけだから。
やっぱりのび太くんがロビンソン・クルーソーになろうと無理に無理を重ねたような、そういう気持ちになる必要は、この気持ちは両方同時に出てこなければならないわけですよ。
家にいて完全に依存させてもらう。お金も学費も食費ももちろん高熱費も全て依存させてもらいたいという気持ちと、同時に全部自分でやりたいという気持ちが両方ある時期があるわけじゃないですか。この時期が長いんですよ。
そして僕らは大人になったって少々弱気になれば、この時期を引っ張るんだと思うんですよね。上昇的に。引きずるんだと思うんですよ。この時期の感覚を。引きずってると思いますね。当然。だから、時間があればできるでしょうっていうこの教えは親の教えなんですよ。
別にタスクシュート協会がこれを言ってるわけじゃないです。時間的に豊かさがどうのこうのとか、時間的な充実感がどうのこうのっていうのは、タスクシュート協会が発明したものじゃないじゃないですか。僕が発明したものでも大橋さんが発明したものでもない。これみんなそういうこと言ってるじゃないですか。
昔からね、時間があれば何でもできるぞっていうね。時間をうまく使えと。時間を有効活用して良かと金を手に入れろっていう幸せと言ってますよね。これは親が言ってることであり、社会が言ってることであり、つまりエディフスなんですよ。価値観なんですよね。
押し付けられてくるものなわけですよ。独立を現代の社会でやるってことは、これを手に入れるってことを大筋意味するはずです。一方でそんなの無理だよってことがあるわけで、しかもそれさえやれば本当に全てがうまくいくのかっていうね。つまりこれは親が言ってる通りにすればそもそも自分幸せになれるのかという問いなんです。
で、この問いは当然ですよね。ごく妥当な問いです。うちの母が言ってる通りにすれば人生うまくいくのかというとそんなことあるはずがないようです。そんなことあるわけないじゃないですか。そんな親はいませんよね。いるっていう風に考えるように仕向けるところがあるし、それを相当優秀な人でも信じちゃうところがあるんだけど、それが真実でないっていうのはどっかで絶対気づくはずです。
まあ30代には遅くとも気づくでしょう。親がよほど問題があった人の場合、残念ながら10代になる前にこれに気づいちゃうんで、それはそれで後々過去を残しますが、そういうケースもいっぱいありますけど、逆に親がよほどしっかりしてたって40前には気づきますよ。
うちの親は相当しっかりしてる方だったけど、30になる前には僕はそれには十分気づいてたから、やたら彼女を作るのに焦ったわけですよ。やっぱりそうなりますよね。この母親の言う通りにしたら結婚なんて絶対できないだろうなって感じがしたんですよ。
わかってないんだよ、うちの母には。そういうことがどういうことなのか。男の子がそういうところでどう頑張らなければいけないのか、うちの母には何にもわかってなかったわけですよ。気がついたら上手い人と結婚できるみたいな世界に。なぜならお宮に結婚してたし、そんなにいろんなこと知ってる人ではないですしね。
他のそういうことが全て私はわかってるのよみたいな顔はしますけど、それは顔なわけですよ。もちろんそうなんです。大体はデタラメな教えなわけですよ。時間があれば何でもできるとか、いい学校出ておけば何でもできるとか、大体そういう、どっかで聞いてきたようなのを自分の頭の中で適当に捏造して、相手が子供だと思ってるからガンガン押し付けてくるわけですよ。
で、どれほどこれが完璧だったとしても、もうだから難しくなるんですよ。親が完璧だとね。多分親がブッダですとか本当困ると思うんですよね。本当困るじゃないですか。自立できなくなりますよね。自立は全て間違ったことになっちゃうんで。相手が完璧だと。親がアインシュタインですとか困ると思うんですよね。アインシュタインは抜けたところが。だから親がウィニコットの言うのは正しいんですよ。
親が失敗してくれないと子供はたまったもんじゃないわけですよね。だから親が子供に精神分析しちゃいけないんですよ。精神分析の師祖であるフロイトは、自分の娘になったフロイトに精神分析やっちゃったんですけど、とんでもないことなわけですよ。そんなことされたら本当に自立しようがなくなってしまう。
親が何でもわかってるっていう状態ほど危険なものはないとも言えるわけですよ。だって自分、親が何でもわかってるなら、親の言う通りに人生は親のコピーになるしかないじゃないですか。何でもわかってるんだから、それ以外の選択は全て間違いだってことを先にわかった上でやらないといけない。人間はそういうことできないんで。これは100%間違ってる。ダメな方法だ。これをやろうってことはできないようにできてるんで。
そうは考えないですよね、普通は。親は何もわかってないから俺が自分で考えた通りにやるんだというふうに間違った行動を取る必要があるわけじゃないですか。それが自立っていうところに含まれる何かですよね。
失敗と自立の重要性
これが僕に思うにですね、お前間違ってるぞっていうふうに突きつけられるという瞬間なんだと思うんです。これは非常にいいことだと思うんですよね。記録なんか取れませんよ佐々木さんって言われるってことはすごいいいことなんですよ。言われる僕にとってじゃなくて言ってる人にとってですよ。
言ってる人にはその時間さえあれば何でもこれは僕の一つの解釈ですけど時間さえあれば何でもできると思わないでくださいよという怒りが僕に向けられているわけ。この怒りはもろんおそらく社会か母親かお父さんに向けられた怒りなんですよ。
小さい頃に漢字の100回とか書かされるじゃないですか、我々みんな。何のためにそんなことさせられてるのって思うことが絶対あるはずなんですよ。思う必要があると思う。そこをあまりにも素直にあまりにも綺麗にコピーしたものを100回ずつ書いて何の疑問も持たないっていうのはやばいと思うんですよ。やっぱり。
親がどれほどちゃんとした人であったとしても、ああよかった、あなた偉いねっていう人であったとしてもですね。それだけじゃ生きてはいけないんだから。それだけで生きていけるんだったら僕は漢字100回ずつ書いて生きていきますから。漢字100回書きましたから100万円くださいって言って生きていきますから。無理でしょそういうことは。なんかやっぱりそこには疑問を持たなければいけないと思うんですよね。
つーか持ちますよね、はっきり言って。この怒りがですね、不意に転移されるわけ。これをトランスファー、変異と言うんだと思うんですよね。
母さんがやっぱりこう、母さんと私、あなたで生きていきましょうみたいな。私ね、昔ほんとそういうのをね、何故か二人、何でだ、あれは何でだったんだ。本来それは大変プライベートなものだと聞かされたんだよね。無理やりある意味聞かされたんだよ。
なんかある先生がね、うちの娘の先生だったと思うんですけど、あのね、私は息子と二人三脚でずっとやってきたんですよみたいなのを、なんか僕にそれを聞かせるの文脈上おかしいだろうと思いながら聞いてたんだけど、なのに今の息子はどうしてもって言ってその息子さんいくつぐらいなんだろうかって思ったときに、確か大学出てたような気がするんです。
ずっと二人三脚厳しいなみたいな。厳しいじゃないですか、そんなのは。そのお母さん確かによくできる優秀な人だったけど、優秀だと余計厳しいわけですよ。優秀じゃなければね、たわごとだと思って完璧にスルーするってことも割と難しくないんだけど、こと優秀だったりすると、お金稼いでます、ここまでちゃんとやってきてくれましたみたいなのだと、いくらか参考にしなきゃなってことになっちゃうじゃないですか。いくらか参考にするってのが難しいんですよ。
だからそういう二人三脚でやっていると何が起こるか、まず絶対忙しくなりますよね。どうしたって頭で考える、やったほうがいいことを全部やる。これはよくタスク管理で出てくる非常にありがちなテーマですけれども、やったほうがいいことを全部やるなんていうことは24時間の中じゃ絶対無理なんですよ。240時間ぐらいはないと。
そういう体力がそもそもないんで、だからぐったりしてくるわけですよ。めちゃくちゃ急いで走り回っているのに差したる成果も出ない。それは成果なんか出ないんですよ。成果が出るセットじゃないんで。やったほうがいいことセットなんて、やったほうがいいように見えることセットなんて。教養もつけて、なんとかして筋トレもしてみたいな、それは幸せになるセットではないわけですから。
親がそう思ってはいるかもしれないけど、どっちかというと親にとって足りないものセットだったりしかねないんで、その通りにやったからって別に幸せになれるわけでも、人生充実するわけでも、時間的に豊かになるわけでもないわけですよ。
ただ、やっといたほうがいいことは全部やってる気がするんだけど、ヘトヘトにつかれている上に全部はできていなくて、なんか不十分な気がするって感覚は残る気がするんですよね。だから怒りが湧くわけじゃないですか。その怒りを、時間の記録を全部つければうまくいくとか言ってるやつがいるぞっていう感じになって、こいつ許せねえって感じになるときには、親をそこにオーバーラップしてるわけで、トランスファーしてるわけで、転移してるんで、
だから、そのやりとりが始まる。この人を選ぶっていうのはですね、選んでる。僕はやっぱ思うんですよ。選ばれたと言っても、この場合はいいかもしれない。そのときに、まあ僕は無理ですけど、そのときにうまいこと失敗できれば多分最高なんでしょうね。
ミニコットの言う失敗っていうのは、こういうときに生きてくるんだと思うんですよね。どんな失敗でもいいんですよ。説教しちゃう失敗とか、答えられない失敗とか、とにかく失敗しないことには、ここでまた成功してしまうと、また絡め取られますよね。うまい、もっとうまいやり方あるのかもしれないけど、素人としてまずやるべきは失敗なんだと思う。
親子関係の解消
なんだ、沢木さん大したことないわみたいな。これは理想化と脱価値化なんだけど、でもまあ、うまいこといけばですね、ここで親の閉塞感というもの、私と二輪三脚みたいな足についた紐をうまいことほどくことができる、その手伝いができるかもしれないわけですよ。
私がうまいこと失敗できれば、もちろんもうこういうのは意図的にはできないんで、失敗というのは意図的にするものじゃないんで、無意識にするものなんで、思わずイラッとして説教しちゃうとか、そんなこと僕に言われても困りますよとか言っちゃうと、あ、こいつ親としてなってないわというふうに無意識に気づかれるってことが大事なんですよ、きっと。
こいつの言う通りにしてたって無駄だわ。これこそがまさに自立じゃないですか。私自分で考えなきゃ。うまいこといけばそうなる。かもしれん。
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