1. グッドモーニングボイス
  2. 万能空想をめぐる【GMV 1000】
2024-06-14 41:31

万能空想をめぐる【GMV 1000】

やっと1000回に到達しました!

サマリー

グッドモーニングボイスは、1000回を迎え、視聴者数も上昇しています。イベントや出版物のお知らせを行いながら、鬱の症状や後悔の問題についても語られています。万能空想について考察され、ナルシシズムとの関連性が探られています。空想と現実の乖離についても議論されています。空想で生きようとする難しさについても考えられています。空想は現実とは異なる制約のない世界であり、人間関係や欲望的な状態とも絡み合っています。私たちは現実の把握力を持ち、万能空想から抜け出す必要があります。エディプスコンプレックスから抜け出すためには、人間が通過することのできる三角関係が鍵となります。現実原則に基づきつつ、快楽原則を満たそうとする私たちのあり方が話題となっています。

グッドモーニングボイス1000回
おはようございます。グッドモーニングボイスです。
6月14日、金曜日、朝8時31分です。
ついに本日めでたく1000回を迎えました。グッドモーニングボイス1000回です。
皆さんは大変ながら、本日までお聞きいただいた方、中には1000回聞いたぞって方もいらっしゃるという話をいただいたことがありまして、大変ありがたいと思います。
私だってですね、果たして1000回喋った以上聞いているんですが、自分1000回も聞いたという感じがしないんですよ。
変なこと言うようですけれども、そうなんですよ。
なので、1000回、結構やってればいくんですけれどもね、もちろん。
実際に毎日に近くやってきている時もあったので、3年、ないしせいぜい4年でいくんですよね。
毎日やってさえいればといったところで、でも1000回というのは4桁ですよね。
5桁いくのかな。5桁いくには何日必要なんですかね。300日やったとしても30年はかかりますね。
30年で9000回だから、難しそうですね。これはね。
1万回いくのかわかりませんけれども、とりあえず4桁はきました。
その割にね、最近まだじわっと視聴者、これだんだんわかってきたんですけど、平均視聴者数をとってもあんまり意味がなくて、
週のね、トータルで見ると少しトレンドが見えてくるんですよ。
あんまり見てないんですけれどもね。週の再生回数を見ると、確かにじわっと上がってきていて、
そうは言いましても、例えば理事のね、一緒に仕事してるJ松崎さんのボイシーに比べますと、
多分10分の1いってるかどうかぐらいな、彼はそれでも全然ダメだとは全く言ってないんだけれども、
もっと伸ばさねばいかんと思っていらっしゃると思うんですが、
私なんかはそうかと思って、この10倍いってさらに上を目指さなきゃダメかと思うと、
それは一線回よりもはるかに途方もない感じがしてしまうんですが、
やってることがね、このボイシーに、ボイシーじゃない、音声配信に関してはすごく彼と今、
私とやってることは異なっておりますので、一緒に仕事をして、すっとく一緒に仕事をしているとはいえですね、
ここの部分はすごく違いますので、横軸には競争してることにはならないようだとは思うんですけれども、
ぼちぼち2線回を目指して、この1線回と2線回って到達感が全く違うのが面白いですよね。
1線回は結構到達感があるんだけど、2線となってくるともはや通過点みたいな感じがして、
努力量は全く同じなんだけどね、不思議な感じがします。
まあまあそんなことは色々言いましたけど、基本良くて、いつもと今日も内容は変わりません。
1線回だったからといって999回だからといって、
昨日特別ゲストを呼ぶとか、松本レイジさんをお呼びするとかできませんからね、
そういうことはスパッと諦めて独自の線を突っ走ろうと思っております。
イベントや出版物のお知らせ
さて、いつも通りですね、もうお知らせをさせてください。
えっとですね、23日に手帳術の関与、タスク集と手帳術の関与をやります。
これは多分おいおい集まっていただいて、最終的には10名は突破して、
20名もうまくすれば突破するんではないかと思っております。
ウェルボンさんというところから私が関与させてもらっている手帳もちょっと生のやつを持っていって、
それはAmazonでもすでに入手できるものなので、
Jさんと私がコラムをつけていて、どういうレイアウトにするかも多少我々が関わっているといった手帳です。
現生の手帳、現生おかしいな。
現物の手帳が持っていきますんで、リアルでその後、懇親会行ったりカフェ行ったりしましょう。
こんな感じです。
29日は電子書籍、こちらは天老院カフェというところでやる電子書籍出版のためのイベントです。
私は何を喋るかというと、文の書き方を喋ります。
この番組でもライターさんと作家は違うと、
私はあの中でなんとなくふと口にしたピッチャーとキャッチャーのような違いだと、
全然違うんだけど、そういうアレゴリーはおかしいんだけど、
でもピッチャー投げる人、キャッチャー受ける人ですね。
こういうぐらい違うんだっていう、あれは意味なんですね。
どっちの方が目立っちゃうかというと、それはピッチャーの方が目立つんだけど、
でもキャッチャー抜きでピッチャーできませんからね。
壁に向かって投げることになるんで、要するにプレーとしての野球は成り立たない。
だからピッチャーとキャッチャーのようには、そういうアレゴリーではないんだけど、
でもそのぐらいは違いますよっていうお話をしてみたんだけど、
それにまつわる話になるかな。
作家というものはどういうことをして、
おそらく私もライターというような仕事を少しだけやったことがあって、
これは私には無理だっていうことが分かって、今はやらなくなった。
ブロガーっていうのは非常に何とも言えないんですよ。
私の中では作家のようなブロガーとライターのようなブロガーさんがいらっしゃいます。
その両者は全然違いますけれども、だからといってどっちもブロガーでありますからね。
そういう職業が今あるというところがすごい良い時代だと思います。
そんな話をできるかわかりませんけれども、そんな感じで話させてもらおうかなと思います。
つまり本を書くというのは、長いとか一冊は大変だとかいろいろあると思うんですけど、
そんなことはぶっちゃけてしまうとほとんど全く問題ではないってことです。
でもこれが私にはっきりわかるようになってきたのは、多分30冊ぐらい書いた後なんですよ。
でもこれは一冊書く前からわかるのは無理かもしれないけど、知っててもいいことだと思いますので、
余すところなくお伝えしたい。
本の書き方っていうのかな、本の作り方、それはどういうことになっていくのかってことですね。
そしてセルフパブリッシングをKDPでするというのは、いろんな意味でハードルが実は高いよっていうお話も少しさせてもらおうと思います。
出すハードルだけは低いですけどね、企画通さなくていいから出版社に。
でもそれ以外の点ではある意味非常にハードルが高いです。
その理由も合わせてお伝えできればいいかなと思いますね。
そしてもう一つお知らせをしたいと思うんですけれども、
7月7日七夕の日にタスクシュートジャーニー第6回をやります。
これは古川たけしさんという、今では各迷走で有名な方をお招きして、
第6回目のタスクシュートジャーニーを開催しようと思っております。
これはですね、もともと古川さんはすごく私と恋にしていただいていまして、
タスクシュートも結構使っていらっしゃった時期もあったんですよ。
だいぶ昔のことになってしまうんだけど、今お使いかどうかは私も知らないんですけどね。
そんなわけで、彼とJさんと対談すると叶えたんだけど、
非常にスムーズだったんじゃないかといろんなところで。
各迷走の話も、もともと筆記療法、
ダイアリーを書くことによって日記療法みたいな言い方をする方もいらっしゃるんだけど、
そういった考え方もありますので、精神分析とは少し違う考え方だろうな、だなとは思っているんだけど、
そういう考え方もあります。
あとですね、今外を開けていてかつ換気扇があってうるさいなと私は思うんだけど、
これ皆さんお聞き苦しければ本当申し訳ないんですが、
締め切ってやると絶対熱中症になる今気温なんで、ここはちょっとご勘弁ください。
なんとか皆様の方で聞いていただければ。
1000回も言っていながらまだこういう状況というのがね、
これもいかにも自分的だと思うんですが、
今後、改善できればしていきたいとは思っております。
鬱の問題と後悔
そんな感じですね。
ダスクシュートジャーニー第6回、7月7日七夕の日に出します。
と言ったところで早速ですが本題に入っていきましょう。
本題とは何かと。
昨日ね、お話ししました。
鬱の、鬱と言ってしまいましょう。
つまりこういうことです。
私たちは何かを失うと鬱っぽくなります。
これは欲鬱症が出るぐらいな感じでもいいと思います。
これがある意味非常にこじれるというのですかね。
こう袋小路にはまり非常に厳しい状態になっていくと、
鬱という症状、病状と言われるものと関係していく、
発生していく、その起点になるかなというのはそんなおかしくない。
失うということです。
大切なものですよ。
何でもかんでも失えばみんながどんどん鬱になったら困るので、
何か非常に大事なもの。
この場合の大事なものは人とは限らない。
ただ人を取り巻く状況であることが多いとは思いますね。
恋人が私は一番わかりやすいとは思う。
私別ももろもありますが、話がどんどんシリアスになっちゃいますからね、
この種の話はね。
意外と忘れちゃいけないのが理念ってやつなんですよ。
例えばこの会社に来れば素晴らしいキャリアが送れるはずだったのにとかね、
あるいはこの人と結婚すれば本当に幸せになれると思っていたのにとか、
この何とかなのに、つまりものすごい強い後悔で取り返しがつかないとご本人が思っていらっしゃる。
取り返しはつくんですが、つかないと思っていらっしゃる。
変で人は鬱になりやすい。
私は誰も傷つかないという理由でドラえもんの第6巻をよく引き合いに出すんですけど、
実はあれね、のび太くん全然欲打つっぽくなってないんで、
藤甲塩さんがのび太くんをとても愛していたからそういうことになってるんですけど、
普通だったらなっちゃうと思うんですけど、対象喪失に。
のび太くんはもうなんかこうすごい悟ったような境地に入っちゃうので、
鬱っぽさが全くあの作品では出てこないんですけど、
私はあれが鬱にやっぱ引き起こす。
だってドラえもんを失ったらそれは鬱になるよねって思うわけです。
まさにドラえもんというのは万能空想の産物ですからね、完全にね。
で、今万能空想と言いましたけど、
最大の問題は、鬱的な感覚というのはですね、後悔なんですよ。
後悔というのは、つまり自己分裂なんですね。
自分で自分を責める、これが後悔。
つまり、本当は失われたものが失われたというその状況ないしは、
その失って去っていった対象に行き通ればいいわけですよ。
ドラえもん帰りやがって、許せないよねってこれでいいんですよ。
そりゃそうですよ。
あるいは、だからここで難しくなる。
愛する人が去っていった、許せないよねっていいと思うんだけど、
我々は臨機というのか、そういったもの、
つまりこれはエリプスコンプレックスから来るものなんですよ、実はね。
ドロイトってこういうふうに、実はアジラプシュラがつながっていて、
大したお方なんですよね、結局ね。
なんでここで自分を責め出すかというと、
自己分割をするからです。
ここの自己分割こそがまさにキーワードなんで、
ここにワンクッション置きます。
つまり、あの恋人が去っていったのは、
でも私が悪かったからって考え、
ここで私を出していく。
私があの時、もっと優しくしておけばよかったって、
あの先日、夜がつかむでもやってましたけども、
人はこれを他人に望むんでね。
ここを望んだからといって、こういう申請は出てきません。
欲打つポジションですね。
望むんで、でも人は欲打つポジションを学べって、
他人に期待してしまうじゃないですか。
もっともんやり持てよってことですよね。
だから優しくしておけばよかったっていうふうに人は考える。
ここで私たちは自己を二つに分けていくっていう、
その瞬間がやってくるわけですよ。
昔は良かった。
あの人と一緒にいたときは幸せだった。
あの頃の私に戻りたいって言って、
あの頃の私を作り出してしまう。
そしてそのあの頃の私はすでに、
言ってみれば愛する対象と一体化してるんですね。
ここが大事です。
つまりそれは自我の一部だってことです。
自我ってのは自分です。
自我ってのは自分です。
自分の一部はすでに対象と一体になってしまう。
万能空想と自我の一体化
皆さまがですね、
そうですね、とにかく愛する対象を思い浮かべてください。
この瞬間にもう皆さまは、
実は自分の一部を愛する対象と一体化させてます。
そうでなかったら、
オカルトになっちゃいます。
自分の一部が本当に何か別のものになったら、
例えばのび太くんの一部がドラえもんになっちゃったら、
それはおかしいです。
でものび太くんの一部がドラえもんになっちゃったら、
それはおかしいです。
でものび太くんの心の一部にドラえもんを作り出すということは、
つまりのび太くんの心の一部はドラえもんになったってことです。
これが自我の一部が対象と一体化するってことなんですよ。
この時、これが一番良かったんだって考え始める。
万能空想ですね。
人生とはこうあるべきだったんだと考え始める。
自分の一部を会社の理念と一体化させて、
そういう会社で働いている私というものを空想する。
そうすれば人生は最高のものだったのにって考える。
これが万能空想ですよね、きっと。
あるいは、私はあの恋人と一緒に結婚して、
ああいう家庭を。
この家庭の空想まで全部自分の心を使ってますからね。
自分の心を何ていうのかな、
心を粘土細工みたいにしてっていうのかな。
どんどんそれを使ってあっという間に形作っていくわけですよ。
夢とはまさにそういうもんだと思うんですね。
その幸せというコンセプト、概念ですね。
幸せという概念を物語化したような夢を見るわけです。
もちろん意識を持って夢を見るんですよ。
ファクチュームってやつですね。
ウォルター・ミティのヒメラルタル生活っていう
心理学では必ず出てくる短編小説があるんですけど、
ミティは夢の中ではかっこいい男なわけですよ。
現実には奥さんにやだらこをなじられてるんだけど、
夢の中ではかっこいい男なんですよ。
という空想に生きる。
つまりそれは夢の中のかっこいい男っていうものと
自分を一体化させているわけですね。
ここに自己分裂があるわけです。
かっこいい男のはずなんだけど、現実は違うっていう。
2者いる。
そしてここに超自我が現れてきやすいわけですよね。
これはもう分かりきったことですよね。
なぜお前は今、その素敵な彼女と本当にいることはできないんだ。
なぜその愛者の理念といったものを
その愛者の理念と一体になった素晴らしいキャリアを
本当は詰めていないんだ。
なんとかだったのに本当はなぜ違うっていう風にして
超自我的な自我がもう一人出てくる。
つまり素晴らしい私っていう幸せな夢を見ているところに
怒鳴り込んでくる超自我的な私がいて
本当はそうなってないよなお前って言って攻撃する。
そして現実に直面してみると
本当はそうなっていないっていうことで
ものすごく落ち込む。
これが打つっていうように展開していくんじゃないかなと。
それが書かれている論文が
昨日お話しした気合いとメランコリーってやつですね。
んでそろそろ私ちょっとね
もうちょっとしたら一旦中断しなければならないので
話を進めていきますけれども
ここまでが昨日お話しした話です。
大事なのはですね
対象を直接憎むのではなく
対象と一緒にいられなくなった自分自身という
何かこうかわいそうな私
でも幸せだった私っていうものを
ここに一つ作り出して
その対象と一体化になれそうだったんだけど
慣れていないと言って攻め立てる超自我の私。
この2つ批判する私と批判される私。
万能空想とナルシシズム
で批判される私は夢の中では幸せなんだけど
現実では惨めだっていうこういう構造を作り出して
つまり夢の中の私と現実的で批判的な私っていう
この分割を作り出すことによって
現実そのものから乖離してしまってるってことなんですよ。
ここのポイントは。
いやそれ実装でしょって言うかもしれないけど
実装だろうかどうだろうかは関係ないってことなんですよ。
これは心の中で起きていることであって
現実に起きていることはそういうことじゃないんですよ。
現実に間違いなく言えること
絶対ここだけは確実に言えることは
責任がどうであろうと原因が何であろうと
批判がどれほど真っ当に見えようと確実に言えること
私は1人しかいないってこと。
これに反して
これをこの物的な空想状態を
現実だ実装だって言い張るためには
間違いなく1つ間違ってる点があります。
私が2人いるってことですよ。
でもそれは過去の私と現在の私という意味で
2人いるじゃないですかって言うんだったら
過去は存在しませんと
こういう言い方ができますね。
つまり現実ではないってことです。
あくまでもそれは空想です。
頭の中心の中で作り出した劇ですよね。物語。
あるコンセプトを含んでます。
それはもっと幸せになれるはずだったのに
という概念を含んでます。
一言で言えばですね
もっと私の人生は万能的なものであるはずだったのに
そうではないっていう
この一文で表せる物語が
各々の1人1人の心の中で
もちろん欲望的な時のって話ですけど
欲望的な時の人の心の中で
80億なら80億の物語が展開しています。
1つとして全く同じではないはずなんで
私たちはみんなある意味では
万能的な夢という物語を生きて
生きていこうと従っています。
でですね
ここから先に
この話なんかに似てるなっていうか
万能空想万能空想言ってますからね
既にこれまで出てきた話と実はよく似てるんですよね。
この辺が私は精神分析の体系
完全に体系だっていないんだけど
非常によくある意味
繋がりのある理論だなって思うんですね。
つまりこれはナルシシズムの話と似てますよね。
ここが面白いと思うんですよ私は。
ナルシシズムと
うつが似てるところがあるって
大事な話ですよね。
私はすごく大事だと思うんですね。
ナルシシズムの人っていうのの態度は
ある意味傲慢で尊大で
他人を軽く見ていてけっていう感じで
なんかやたらエバってるんだけど
自分のことにしか関心がなくて
ちょっと扱いにくいなって周りの人に
思われがちだってされてます。
DSMを読むと分かります。
自己愛性
人格障害とか自己愛性というキーワードで
DSMを弾いてみると
そういう一連の特徴が書かれてます。
これとうつって全然関係なさい。
うつっていうのはもっと自己懲罰的で
反省ばかりしていて
全部私が悪いんです。
ドラえもんがいなくなったのは僕のせいなんです。
恋人が去っていったのは僕が悪かったんです。
全然尊大でもなければ傲慢でもなくて
ナルシシスティックではない感じがする。
むしろ非常に自己懲罰的で
自分に無知を打ってキャリアに失敗したときに
私が力不足でスキルもなくバカでみたいな
そういうタイプの話ですよ。
だから非常に聞いていて痛々しい話なんですよね。
奥さんがいなくなったのも全部私が悪い。
家事もやってないし育児もやんなかった。
本当に無能な夫なんでダメなんで
死んだ方がいいんで
存在しているだけでもなんとかかんとか
生きていてごめんなさいみたいなことを言っている人と
ナルシシズムが近いんですよ。構造上ね。
どこが違うんだろうって考えたんですね。
先日喋りながら。
昨日喋りながらです。
999回を喋りながら
似たところがあるって思ったんです。
これは万能空想に
彫り込まれている点でよく似ている。
結局ナルシシストはなぜナルシシストでいられるか。
万能空想に浸っているからなんですよ。
いいもんねっていうやつです。
これあのいわゆるローゼンフェルドの
総敵防衛と似てくるんですけども
このナルシシズムに総敵防衛はある意味
付き物なんじゃないかって私は思うんですよね。
その辺ちょっと本当はもう少し
さらに緻密にお話ししていかなければ
いけないと思うんですけれども
まだ私は非常にそこら辺
錯綜しているというか
非常にいろんな材料があるんで
うまく整理つけてまだ話せないんですね。
そこは申し訳ないんだけど
私にはナルシシズムというものと
総敵防衛は近い関係に
非常に近い関係にあると思いまして
万能空想に浸っていると
本能と空想の関係
僕にはドラえもんがいるもんね
っていうことなんですよ、これは。
ノミダ君は
ドラえもんがいなくなったら
抑鬱的かもしれないけど
いる間は結構エバってるじゃないですか。
なぜならドラえもんがいるから。
これは空想なんだけど
本当の世界でやるとですね
この空想がでも
実現する可能性は十分あるんだって
無理やりでも信じ込もうとする態度と
その可能性はもう一切
失われてしまったんだと
悲哀に満ちた態度とか
この二つを分けているに
過ぎないのではないかと
だからある意味
根っこに近いものがあるんじゃないか
こういう言い方をすると
抑鬱的な人に怒られるかもしれないんですけれども
私はそうではないと思うんですね
これは万能空想をやっている
例えばそのさっき言った
オルタミティの秘められている生活の
オルタミティは
惨めでカッコ悪いかもしれないけど
あれは我々の姿だと思うんですよ
みんなやってるじゃないですか
だから我々は多分に
ナルシシストであるし
多分に抑鬱的でもあるんだろう
ただ何とか上手いことやって
バランスを取っていたり
万能空想がのさばりすぎないように
気をつけているのと
もはや気をつける余裕はないのとの
せいぜいその程度であってですね
ここに私は質的な差は
何もないんじゃないかと思うんです
全ての人においてですね
こういうことを言うとまた
人類に対して絶望的な感じが
するのかもしれませんけど
私はそうは思わないんですよね
人間がこういう空想というものを
Sですね
本能と空想を結びつけてしまった
非常に簡単に言えばですね
それこそクリスマスイブとなれば
やっぱり私大学生だった頃にはですね
それは一番かわいそうな
かわいい感じの女の子と
いい関係になって
夜ホテルに行くのが
一番いいに決まってると思っちゃうわけですよ
そうすれば天下取ったも
当然だぐらいに思うんですけど
織田信長とかに寄せれば
全然その関係もないって
言われると思うんですが
つまり万能空想しますよね
これは性欲が物語の形を
取ったに過ぎないわけですよ
しますよこれは普通に
別にウォルター・ミティーでなくても
佐々木賞吾でなくても
誰だってしますよこういうことはね
ごく普通です
多分人間としては
でもこれをやるから
生物としては難しい立場に
立たされるわけです
だって空想のセックスは
栄養失調になってしまう
だから我々の人生が難しいのは
本能と空想が
非常に近い位置にいて
この点をメラニ・クラインという人が
徹底的に割破していって
ここを徹底的に詰めていったんですけれども
本能と空想が
あまりにも近い位置にいるために
現実と空想の関係
空想で生きていこうとしてしまう
というところに
我々の難しさがあるんですよ
万能空想というのはですね
現実味を帯びてくるんですよね
例えば
おくまん長者になるんだ
今の時代だったら
デイトレードをすれば
俺の人生万能なんじゃないの
って考え始めるわけですよ
こうして現実が脱価値化ってんですけど
現実って無価値なものに思えてきます
汗水垂らしてって
よく言うけど汗水じゃないと思うんですけどね
長い電車に乗って
内臓を圧迫されて
みんなの口臭の中に埋もれながら
ひーひーひー言いながら
会社に行きですね
私も行ってたんですよ
その先に行ったら
よくわからないおじさんに
よくわからないことで問い詰められる
こういう現実に生きていかずとも
クーラーの聞いた部屋で
画面7台ぐらい使って
トレードして
1日に知りませんよ
1日に5万でも10万でも稼げば
しかもそれは指先一つで稼げるじゃん
っていうこういう空想を始めてしまったら
現実の価値が非常に低いものに感じられて
来るじゃないですか
この態度がつまり現実いらないよね
俺にはっていうのが
ナルシシズムってことなんですよね
でこのナルシシズムってのは
つまり万能的な自分と
一体化している態度なんだけども
これをやって
あり得ないぐらい借金してしまいました
もうダメだっていうことになりました
つまり私の万能空想は永遠に失われた
あの時
明日のあのなんとか通信ってやつに
手を出さなければ
自分を批判して来るじゃないですか
長寿がが
これが欲打つ的な状態
つまりナルシシズムと欲打つ的な状態
っていうのは裏表に近い関係にあると思うんですよね
でここにですね
人間関係が絡んできう
例えばでもそのね
やっとこう
会社に行ってよく分からないおじさんに
詰めてこられる
でもその会社にやっと拾ってもらったのは
このよく分からないおじさんのおかげだった
とかいうことが現実にはあったりするんですよね
だから
事態ははなはだややこしくなってくるわけですよ
いやでも俺には
デイトレードがあるもんねと思って
でそのデイトレードで失敗した時に
そのおじさんにも悪態をついて
会社を辞めてしまった
なぜお前そんなことしたんだと言って
長寿がが責めてくる
つまり人間関係と
万能空想と現実とか
こういう風に入り乱れてくるのが
抑鬱ポジションとエディプスコンプレックス
現実の人生ですよね
ドラえもんほど単純じゃないってことなんですよ
これ故にある時には
ナルシスティックに振る舞っていて
急に抑鬱的になっていくっていうことも
別に何にも不思議な話ではなくなってくる話
話っていうのかな
そういう風な構造を持ってるわけなんですよね
ここに我々の何て言うんですかね
難しさがあるような気がするんです
はい
何がどう難しいかというと
まず
まず
まず
万能空想というか
空想って何でもできるじゃないですか
何でもできるのに
現実だと思っているわけですよ
何でもありのほうが
現実ではないですよね
現実というものは
現実的な制約というものがあるので
何でもは起こらない
何でも起きるのは
オカルトになってしまう
だから万能空想の中には
どうやって
どうやって
どうやって
どこか非常にオカルト的なものが
あるわけですよ
例えばタイムマシンが使える
タイムマシンは使えないんだけど
PDCAができる
この2つが
どのぐらい現実的な制約の中で動かせているか
っていうのが
空想と現実的である
っていうのを分けるわけですね
なぜこういう話を
いきなりしだしたというと
あの時○○だったのに
っていうのが
リアルに
返しがつくと思えているか
いないかが
その人の欲打つ的な症状
欲打つ的な気持ちに
火をつけるかつけないかを
多分決定的に見つけてくるだろう
決定的に何だろうな
影響してくると思うんですね
あの時
もっと優しくしておけばよかった
とか言った時に
じゃあ次そうしよう
軽く考えられる人は
少なくとも欲打つ的になる理由はない
と思うんですよね
その分
現実の価値は低下している
可能性が高いし
あの去っていった奴は
どうせ大した奴じゃなかったし
とかもっといい人と
めぐり合うためのステップだった
とかいくらでも考えようと思えば
考えられるわけですよ
でもあの人と別れたということが
もう致命的に取り返しがつかない
と思うと
今度は欲打つ的になりますよね
でどっちのケースにおいても
どんなにそれが
現実的に思えて
リアル
空想ではないと
信じられるように思えたとしてもですね
やっぱりそれは空想なんですよ
どれほどそんなことが
本当らしく思えても
あれほど素晴らしい人がいないとか
これはワンステップに過ぎないというのは
どれほど妥当に思えてもですね
大きなそこに
現実の要素が
つまり自分が2人いるっていう
例のやつが
だからアナルシシズムであろうとも
どっちかというと
欲打つ的な人の方が
はっきりと自己懲罰的な人の方がですね
分裂は起きているんですよね
つまり超自我的な私と
それに責められる私に
完全に二分されている
でも
万能空想に浸っている
という時って
大体において
何かの過去
大使はその過去の可能性というものを
未来に全く同じ事態を想定してしまってるんで
その人と
寸分違わぬ素晴らしいんだけれども
もっと素晴らしい人と
俺は次には巡り会えるというような
空想しているはずだから
その時に私たちは
やっぱり自分を
2つに分けているんです
前回は失敗したが
今度は同じ失敗は繰り返さないぞという意味で
過去の私と現在の私と
もしかするとその私というのは
ブラッシュアップされたっていうような意味で
未来を向いているわけですよね
そういうようなやり方を
やりたいなと
オルタミティはまさに
そういうやり方をしていたんで
だから彼は抑圧的にならずに済むんですよ
現実がどれほど惨めであってもですね
というのは多分
彼は現実には惨めではないという風に
自分を見なせている何かを
持ってるんでしょうね
それは多分
空想的なものなんだろうけど
でも彼ははっきり言ってるんで
空想であるっていうような
彼が言ってるのではないかもしれないけど
作者は言ってる感じの作品なんですよね
だから空想で本人の
現実に直面するのを
なんて言うんですかね
避けることができているわけです
珍しくないことじゃないですかこれ
本能と空想が
むしろ接近していればですね
このようなことをしない人の方が
不思議なぐらいな気が
私なんかはするんですよ
現実がよっぽど上手くいっているんだな
ともかくとして
現実というのは常に
さっきも言いましたが
制約がありますので
いつでもどこでも
上手くいくなという人はいないのである
したがって
本能と空想を
結びつけることができるなら
それに手を出さないでいる方が
はるかに難しいことのような気がします
空想は先も言いました通り
何でもできます
何でもできるということは
自分にいくらでも都合よく
書き換えることができるわけですよ
現実を
それが実際に
不可能なんだというのを
思い知ってしまうと
今度は抑圧的になっていくので
それを思い知らずにおり
しかも
現実はままならないというのであればですね
むしろ万能空想に浸らないというのが
おかしいんじゃないかぐらいに
思えてきもするわけですよ
現実の把握力と万能空想
この万能空想の対象になりやすいのが
おそらく異性愛が一つ
つまりそれは
母親を連想させる
ケースによっては
私がこの番組でも
しばしば申し上げているとおり
女性にとって
母親が万能であるというのが
どこまでも強まると
同性愛である可能性も
否定はできないと思います
どちらが良い悪いとかは関係ないですね
次に金銭
これはデイトレーダーです
さっき言った
あとはそうですね
最近で言うとガジェットかな
ガジェットが素晴らしいものに
対象的になれる
今度からVRというものが
ここに加わってくるので
いよいよすごいことになってきてますよね
万能空想を
現実に
仮想現実として見せてくれる
万能空想を仮想現実として
現実的に見せてくれる
言ってるだけでも
頭がこんがらがってきそうですけど
そういうことも起こり得る時代なわけですよ
すごい時代だと思いますね
だからあるわけです
万能空想化しやすい対象
というものはですね
そうですね
この我々の課題の中で
何が
この袋工事から
つまり万能空想の袋工事から
抜け出させてくれるのかというと
フロイトに寄せると
エディフスコンプレックスなんですよ
こういうふうに繋がってきて
エディフスコンプレックス
に直面した子供は
万能空想でまず
お父さんをやっつけますよね
お母さんを独り占めするために
邪魔なやつあいつだということで
お父さん牢屋に閉じ込める
ありますよね
今でもね
いろんな病理の中で
お父さんとお母さん
特定の部屋に閉じ込め
この家は俺のものだと
やるという
そういう
私の知っている例にも
あるんですけどね
お父さん牢屋に閉じ込める
全然不思議なことではない
それもアジャセよりは
よっぽどマシですよね
アジャセ王女は
お父さんを亡き者にしちゃってますからね
この牢屋に閉じ込める
という話なんですけれども
これをやるときに
初めて抑鬱ポジションの
可能性に触れることが
できるわけですよ
いやいや待てよと
そもそもお母さんは
俺のものなのか
お父さんのものだったのではないのか
ここに取り返しのつかない
過去というものがあるわけですよ
これが現実なんですよ
だから現実は万能空想より
価値がある
だって万能空想している私を
作り出したカップルが
つまり両親だ
この両親というカップルを
肯定しないと
自分の万能空想も全否定する
という話になるんですよ
現実的な把握力というものが
要求されますよ
この把握力を持ちいないならば
多分このような発想はないので
そんなことで悩むことはなくなり
お父さんを牢屋に
意気揚々として閉じ込めることもできてしまう
こういう話が
エディフスコンプレックスと三角関係
エディフスコンプレックスなんだろう
と思うんですね
だからエディフスコンプレックスに
直面するというのは
少なくともこのナルシシズムの
万能空想の黒工事から
抜け出すために
人間が通過することのできる
一つの鍵になるわけですよ
この三角関係は絶対存在するんで
父親母親私という三角関係はね
仮にお父さんもお母さんも
すでにいませんという人で
あったとしても
かつてはいたわけだから
何らかの形で絶対に
だからこの三角関係は
どんな人でも必ず通るので
ここに欲打つポジションの入り口を
どんな人類も見出すことが
できるんだというのが
多分フロイトの発想
だと思いますね
ただこの場合
欲打つになってしまう
お父さんとお母さんは
OKですということになると
私がお母さんを自分のものに
できませんという欲打つ
というふうに引っかかってくる
で次に
でもそもそもお母さんって
現実原則と快楽原則
万能かっていう問いが
立つはずなんですよ
こういうふうにして現実的に
現実の価値というものを
貶めることなく
多分現実的に生きていく上では
必要だよね
っていう話をしているんだ
と思うんですね
いや面白くもなんともないじゃ
っていう反論が
よくなされるわけですけど
ありとあらゆる形で
その面白くもなんともない
という感覚自体が
万能空想と現実を比較する
という間違いから
起こっている価値判断だ
っていう話なんですよね
結局現実を立つ価値観
というのは
理想というものと比較するから
そうなるんだって
その理想というものはないのであって
ここが大事なんですよね
ないものとあるものを比較して
ないもののほうが偉いんだっていう
言い張ろうとするので
この事態はそもそも起きていたわけです
なぜないものが
現実にあるものよりも
価値が高いと思えるのか
それは本能に由来しているからなんですね
理想の空想というものが
万能空想は
万能空想というものの
無意識的な空想っていう風に
クラインは言ったんですけど
それなんですよ
私の本能を完璧な形で
満たしてくれるものが万能空想
だからこれが
現実よりもいいもので
しかもリアルに存在するもので
空想がリアルに存在するって
おかしいんだけど
リアルに実在するもので
あってほしいと
願っているわけですね
私の本能に基づくものが
科学というのは
ひたすら現実に使えるものだと
科学的であるためには
現実原則に則る以外の方法はない
それはそうですよね
だから実験というものをするわけですよ
これとこれを混ぜればこうなるはずだって
いくら空想してもダメで
ならないんですよ
だから何度も何度も実験しろ
再現性を持たせろと
科学は言って厳しいわけですね
現実原則に基づけと
とにかく現実原則に基づかなかったら
アルカリ性のものは
上機器機関車も動かない
車もブレーキが効かない
倒れてしまう
だから科学者というのは
リアリストでなきゃいけないわけですよ
それは当たり前ですよね
今の話からすると
オルタミティなんかより
科学者っていうのは
本当に偉いって思うかもしれませんけど
一つ非常に私たちが
忘れていることがあると思うんですよ
その時に
松木さんは容赦なく書いてたんですけど
しかし二次
自分の一次ナルシズムを
というのかな
快楽原則を満たそうとするんだ
っていうふうに書くんですよ
原爆を見れば一発でわかる
っていうふうに書くわけですね
つまり快楽原則における
悪いものは破壊してしまえ
というあれを
あれほど完璧に作り出してるものは
ないわけじゃないですか
悪いものボタン一発で
みんな爆破みたいな
これはまさに
二歳児一歳児が夢見る空想なんですよ
人は
これをやるから
壮的望遠になって
人は孤独になるんだけど
まさにこれは
現実原則を追求した上で
快楽原則の快楽を
完全な形で
充足させようとする
そういう人間らしい
あり方の一つなんですね
私たちは
二次過程に行きますよね
要するに現実原則に基づいて
生きるんだけれども
その一つ
快楽原則が背景にあるわけです
そうですよね
思いっきり現実的になって
トレードして
お金をがっぷり稼いで
何をするかというと
自分の本能的な満足を
完全に満たそうとするわけじゃないですか
そういうからくりになってますよね
っていうお話なんですね
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