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おはようございます。グッドモーニングバイブスです。 いきなり本題に入っちゃうんですけど、
この番組でも時々登場した、マイケル・バリントという人がいます。 マイケルじゃなかったらごめんなさい、エム・バリントであることは多分間違いないと思うんですけど、
この人がですね、 非常にわかりにくい
用語なんですが、この用語、 苦心の末で出てきたんでしょうね。
受け身的対象合い、または受動的対象合いという言い方があるんですよ。 一字合いっていうふうにこの人自身も、この人自身じゃない人なのかもしれないけど書いてあるので、
一字合いの方がまだ下だと思ってたんですが、 受け身的対象合いというのでもですね、フロイト用語的ですごく大事なんですよね。
なんていうのかな、この用語を考え出そうとした背景のことがわかってくると、
なんかですね、私精神分析って多分わかってはいないんですよ。 なぜならやったことがないから、これはもう百聞は一見にしかずな世界だと思うんですね。
読んでわかるものじゃないっていうことをあらゆる人が言うんですよ。 でも大概の人は精神分析を経験しようがないじゃないですか。
私もそうですけど。 そうすると読んでわかるというか、とはいえ本が書かれているわけだから、
私この辺ちょっと矛盾があると思うんですよね。 読んでわかるわけではないと本に書くっていうのはどうかとは思うんですよ。
もちろんそれは経験者なりが読むものなんだって言われればそうなんですけど、 でも一般の書棚にも置いてあったりしますからね。
だからしょうがないと僕はこの辺は思うんですね。 読む方も開き直って読むしかない。
分かってないんだろうけど、近づいていってるぐらいなつもりで読んで楽しむっていうのも変ですけど、
でも私のやってることって結局そういうことですからね。 分かってようと分かってまいと読んで分かったことに分かった気になってそのまま前へ進むと。
良くないのかもしれないんだけど他に方法がないですよね。 そんで受け身的対象愛というのがあるんですよ。
概念として。 対象愛ってそもそもわけ分かんないんですが、
僕の考えではですね、
そのように大体言われているところが何箇所かあるよなというところで、全部の文献とか読めないんで、対象愛をもって多分
フロイトはですね、人は成熟するんだ感を
醸し出している気がするんですね。 対象愛というのは
対象リミドと呼んだりもするんですけど、要は愛する対象が現実にあるっていう意味なんですね。
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これも ぐじゃぐじゃ説明すると分かりにくいんで、私で言えば娘が、妻もだけど、
娘が対象愛ですね。 対象愛が現実にあると
物事がスムーズに生き精神病的になりにくいというのは実感としてはとてもよく分かります。
自分が現実に機能しやすくなるんですよ。 これも専門用語的であれなんですけど、要はあれですよ。
子供のために頑張れるお父さんみたいなやつですよ。 これを言ってしまうと身も蓋もない感じもちょっとあって、ちょっと違うんですよね。
そうすると社会性みたいなのが、もちろん社会性なんだけど、要は
何も現実に頑張る、頑張るというのかな? 愛すべき対象が存在していない状態で、いろいろ
仕事しに行ったり朝早く起きたりするのは辛いじゃないですか。 それは対象愛があってもなくても辛いんだけど、あるとやれるんじゃないですか。
そういうのって
時々本当に結構辛かったりするわけで、例えば熱、今はダメですけどね、そういうこと。 熱が40度近くありますけど、お父さん頑張って会社に行きますみたいな。
そこには対象愛的なものがあったほうが話し早いわけですよね。
部分的対象愛という表現があるんですよ。 多分これはですね、私の、もうちょっと詳しく読み込めばきっとスッキリしてくるんだと思うんですけど、
概ね僕の中では一応整理はついてるんですけどね。 部分的対象愛というのは、私はフェテシズムと呼ばれているものと、フェテシズムであってるんですよね。
俗にフェチってやつですよ。 つまり対象愛っていうのは
おそらくは人とかに向かうべきものなんですよ。人間を愛するくらいな。 で、よくフロイトが言われるその、まあ批判がされるところでもある
リビド、リビドを性欲って訳すんですけど、多分なんですが、リビドは
これも変な用語になっちゃいますか。 愛欲ぐらいが正しいんじゃないかな。愛でもいいと思うんですよね。
正直言って、リブですからね結局ね。 生命愛欲求みたいな、そんな感じ。
これはまあ性欲と言ってもおかしくはないとは思うんですよ。なぜなら性欲って基本対象愛じゃないですか。
対象を愛するからね。 ところが子供の頃とか独特の性に対する独特のこう
感覚になっている人は、それがですね部分的に出ちゃうみたいな話があるんですね。
で部分対象愛とかって言うんですよ。 おっぱい大好きみたいな。おっぱいしか愛せませんみたいな。
だからあの良いおっぱい悪いおっぱいみたいな話 えっとつまりそこに固執してしまうっていう考え方を取ったんですね。
良いおっぱいはいいけど悪いおっぱいは嫌だみたいな。そういうこう、あの
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分離ですよね。一つの分離。部分対象愛っていうのも一つの分裂じゃないですか。
相手の全体を見てなくて部分だけに固執すると。 で子供の時はそういうのがよく起こるぞっていうことをすごく強調した人が
クラインという女の人だったんじゃないかなと思うんですね。 部分対象愛っていうのは私にはよくわかんないですけど
だんだんそれがこうじて靴とかね靴下とか なっていくわけじゃないですか。下着とか。それ
対象愛に違いはないですよね。現実にある対象を愛しているから。 そこにエネルギーが、このエネルギーが向かうって言い方するんですよ。
それは愛するってこととほとんど同じなんですけどエネルギーが向かっちゃう。 エネルギーが向かう先が下着ばっかりですっていう人もいるわけですよね。
下着フェチとかっていうやつですよね。 だんだんこれがすごくなってくるんですよ。
この下着とかおっぱいとかわかるじゃないですか。簡単ですよね。 これがですねわかんなくなる世界ってあるんですよ。
本人もわかりにくくなってくるんじゃないかと思うんですけど、例えばリンゴとか言って言う。 リンゴが美味しくて大好きとかじゃないですよ。
リンゴが性的対象みたいに見えてくるんですね。 リンゴを持っている金髪の女の人の手とかね。
だんだんなんか感じません?なんとか芸術みたいな世界に入っている気がするんですよね。
そういう絵は私見たことあるんですよ。女の人一切描かれてないんですよ。 よく考えてみると男か女かすらわかんないですね。
髪は金色でリンゴを持っている手なんですよ。 そういう主題のものがあったんですよね。
フェティってのはそういうもので部分対象愛って言うんですよね。
これだと一気にわかりにくくなるんですけど、もう一つ大事な用語に対象喪失って言葉があります。
これが鬱を生み出すっていう考え方なんですね。対象喪失っていうのは非常に簡単ですよね。
今回あの痛ましい事件があったので起訴されましたよね。 教兄の放課とか。
で、子供がそこで働いてたのにいきなり死んじゃった。 これが対象喪失ですよね。
つまり自分の愛している対象に向かってエネルギーが行ってるってことを私たちは普段あんまり意識していないことも多いんですよ。
僕みたいな親母派みたいなのは我が子大好きみたいなのが自覚の中にあるけど、そんなことはないケースもいっぱいあるじゃないですか。
例えばうちの母なんかは私が対象愛の対象になってるでしょうけど、私のことなんか考えちゃいないですよね。
遠くに住んでるし、生きているだろうみたいな。これが消えるということはほとんど100日のうち90日は一緒にいない人間なのに
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いるのといないのとじゃ全然違うという現象が対象喪失によって自覚されるんですよね。
これが欲打つというものを引き起こすんだっていうのが
フロイトの、フロイト派のですね、大きな潮流の中で言われていることだと思うんです。
だから多くの場合、
部分対象とかに部分対象愛、つまり手しか愛せませんみたいなケースに比べると欲打つという症状はですね、
正常の範疇だよねっていうのがよく私はフロイト派からは聞こえてきている気がするんですよ。
だって対象を喪失したら悲しくて起き上がれませんっていうのは正常ですよね。
非常に人間として普通じゃないですか。それはむしろそうでないと少し微妙化って感じがするようなところもあるじゃないですか。
そういう意味で対象喪失ということはですね、起これば起こりますよね。しかも起こり得ることだと思うんです。
だからね、例えばですけれども依存先を増やしましょうみたいな言い方あるじゃないですか。
私はあれも非常にこう、なんて言うんですかね、それは正しい一面、そういうことを簡単にできるなら苦労はないところがある。
だから娘大好きみたいなので一辺倒で、つまりあるんですよ、これはフロイトの考え方にも。
対象愛の対象がですね、一つに集中しすぎている状態は危険なわけですよね。
その娘に何かあったら大変なことになると思うんで、娘に対して当然過保護、過干渉みたいになっていくわけじゃないですか。
これがその対象愛が集中するという状態で、あんまりよろしくないからもっと他のものにもリミッドを向けましょうねみたいな。
会社の人とかにも少しはリミッドを向けるようにしましょう。
だいたい一層じゃなくなるケースはいっぱいありますよね。会社の同僚とかどうでもいいから、自分の子さえ良ければいいぐらいな勢いにどんどんなっていってはまっていくみたいな。
リミッドを向かう先が一個に一個にと集中していって、しかもその子が交通事故で死んだりするともう全く抜け殻みたいになっちゃう。
これが対象喪失の極端な形。愛する対象が現実のどこにもないという現実に生きなきゃいけない。
つまりこの辺が私はですね、すごく
多分精神分析とグッドバイブスに似たものを感じたんだと思うんですよね。
ちょっとだいぶ違うんですけれども実際には。ただ現実がどう見えるかというものがですね、
自分の主体的な選択によってずいぶん違ってくるってことは大変やっぱりフロイト派の言わんとするところにあると思うんですよ。
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対象愛というのはまさにそういうことで、これが
まあ単純に一見見えますが、これって全部心理的な話なので
非常にややこしい操作が生まれてくることはたくさんありますよね。
それがいろいろな精神症みたいな、神経症みたいなものをどんどん生み出していくんだと。
だって私たちは現実というものを特別対象愛にしているものとそうじゃないものとに分けているという自覚は別に持ってないわけですよ。
太陽大好きとか思っていて曇り空はあんまり好きじゃないとか思ってるのはある程度自覚しているにせよ
だいたい中立公平に見ている気でいるんですよね。ところが対象喪失みたいなことが起こると
そういうことは全然なくていきなり世の中はもうほとんど意味をなさないものになっちゃう。
すごく味気なくて、よく言うじゃないですか、砂を噛むような人生みたいな言い方をしますよね。
それはリビドウの向かう先がどこにもないですと。
で、もう一つですね、これもいろいろ用語が曖昧複雑作想していると僕は思うんですけど、
それでもこの辺の用語が分かってくるとだいぶ読んでいて意味がわかりやすくなってはくるんですよ。
で、対象愛の対象が自分自身になっちゃうというケースがあるんですね。
これはいろんなケースが多分あるんですけれども、要は対象喪失を引き起こしたりして、
私で言えば娘を失うと、何らかの形でね。
そうするとエネルギーの向かうべき先がなくなって欲物っぽくなる可能性もあるんだけど、
これを避けたいと生きていかなきゃならないですからね。
避けたいというケースの中で、例えば自分にそれが向かっちゃうというケースもあると。
自分大好きという、まあそれは自己愛と言われるんですけど、
私これ自己愛というのとはだいぶ違うような気がするんですよ。
フロイトがナルシシズムというのはこれだと思うんだけど、
特に後期のフロイト派の人たちがナルシシズムの病理みたいなのは、
後期でもないな、度割早い段階から言ってたのもこれだと思うんですけれども、
対象を喪失するとは限らないですよね。
とにかく何らかの理由で対象愛に向かいたいんだけど、向かえなかったと。
で、それが自分に向かっちゃっている、エネルギーが全部自分に向かっちゃっているというケースの中で、
ナルシシズムというのが出てくる。
で、そのナルシシズムというのが出るとですね、
自分は素晴らしいので、
まあそれによってすごく幸せっていう感じがするケースもあると思うんですけど、
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時もあると思うんですけど、
自分が素晴らしいのに、世の中はこんなクソだ、みたいになってすごく辛いっていうケースはよくあるんですよね、これが。
対象、リビドウが外に向かってないので、
つまり、グッドワイルス流に言うと、外部のものは一切愛せないので、
外部のものは恐ろしいか、
ろくでもないか、まあそれは同じことなんですが、
言うものにしか見えないわけですよね。エネルギーが全部自分に向かっているんで。
自分に向かうっていうのは、ちょっと自分に向かうだけだと、
イメージしにくくて、この辺が大変病理的でもあるんだけど、例えば自分の能力に向かうとかってよくありますよね。
これはかなり有能なんだけど、周りはバーばっかりで、会社に勤めていても辛い、
っていう人って現にちゃんといますよね。
フロミト的に言うと、リビドウ対象が自分になっているわけですね。
そうすると、つまり自己愛なので、自己愛だとすごく幸せそうなもんなんですけど、
搾取されてばっかりいるってことになるわけですよ。
上司はすごくアホなのに、なんかくだらない命令をしてくるし、
それを手伝ってもらうスタッフも馬鹿すぎて使えないから、
結局俺が全部やらなきゃならない、俺はすごいんだけどっていう辛さがあるわけですよ。
これはギャグ漫画っぽいんですけどね、こうやって喋ると。
結構これですごい怒っている人はいっぱいいますよね。
対象愛っていうのは自由自在にできるようで、そうではないってことですよね。
これはグッドワイブスでは、ここをなんとかする独特の心理努力というのかな、精神的努力。
これ努力じゃないんですけれども、本当は。
そういう考え方を提供してますけど、今日はその話じゃなくてですね、
この対象愛という考え方の中で、私が最後に非常に感心させられたのが、
途中お話しした受け身的対象愛という、これ今の話全体からして妙な用語だと思いません?
対象愛って能動的なものですよね。
私が誰かを愛する子供にリミードが向かう。
子供は外にいるわけだから当然、私が子供を愛する人が外の対象を愛している。
そこにエネルギーが向かっていっているわけじゃないですか。
受け身的なのに受動的なのに対象愛であるというのはどういう状態なのかと。
これ、詳しく説明しようとしても多分失敗するので、至って単純に説明しますと、
要するにですね、多分バリントは子供というのは正常なものだと考えたかったんだと思うんです。
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私、自分の子供を見ててそのことをよく思うんですよ。
フロイト派の考え方とかエリック・エリクソンとかの古典的な人々の考え方の中にはですね、
子供というのはどこか異常なものに見えてしまうような解釈を感じられる。
いいおっぱい、悪いおっぱいって部分対象愛じゃないですか。
おっぱいだけ見てますよね。
あれってでも成人がやると統合主張症に近いんですよ。分裂気味なんですよね。極めて。
あれがですね、子供はそう見てるって言われると納得しちゃいそうな気もするんだけど、
それはむしろですね、昨日一昨日からお話した、非常に虐待と関係があるんじゃないかなと思うんですよね。
親を部分的に愛するってのは、すごく虐待っていうことと関係しているような気がするんですよ。
自分の子を育ててて、何しろ育てたのは自分の子だけなので、詳しいこととか断定的なことは言えないんですけど、
なんかですね、娘はほとんどかなり最初のうちから親というものを全体的に認識できているような気がして仕方ないんですよ。
とはいえ、目もちゃんと見えてないのに全体的に認識って何よって話をされると困るんだけど、
そこでバリントという人がすっごい頑張って受動的対象愛、つまり親を対象として愛しているんだけど、
それは決して能動的に、普通に成人の大人が女性をリビドウの対象として愛するみたいな、
そういう全体性を持った認識の仕方はできていなくて、
なんとかふわっとして、そこで受動的にしているんだけど、でも全体として愛していますみたいな、そういうニュアンスを感じるんですよね。
で、私はこの方が自分の子育て経験からすればしっくりくるんですよ。
娘がいいおっぱい、悪いおっぱい、なんでもいいんですよ。
機嫌が良くてミルクをくれるお父さんと、機嫌が悪くて遊んでもくれないお父さんに分けているとか、
その考え方は、そういうことはあると思うんですよ。あると思うんだけど、それはそんなに頻繁に起こることなのかなと思うんですね。
むしろちょっとニムレクト気味の子供とか、そういう子を相手にしていると出てきそうかなというのがちょっと感じたり感じなかったりだわけですよね。
全体として受動的対象愛、受け身的対象愛というのは要するにそこで受け身になっているわけじゃないですか。
子供は何もできませんから、歩くこともできない、はいはいもできない時期ってあるわけですよね。
でも全体としては対象愛になっていると。この状態がですね、ドイタケオさんが甘えだと言ったのはすごい私はしっくりくるんですよ。
甘えとはそういう状態なんだと。対象愛としてちゃんと健全に愛せてるんだけど、そのことは完全に受動的で自分にはもちろん全く自覚できていない。
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大体そこに対象がいることすら本当はわかっているかどうかすらわかんない。子供は目つぶっていることが多いですからね。
でもまあ、そうはいっても親がいるのといないのと全然違うじゃないですか。
親がそこにいないっていうのは大事件ですよね。生後2日とか3日の子にとってみればね。
だから自分は大丈夫なんだと安心していられる状態というのは、つまり完全に甘えている状態であって、これが既定的に。
だから既定欠損という言葉が出てくるんだけど、これが既定的に私たちの人生にはずっとあってですね。
これをエリクソンとかアンナフロイトンが言うように、卒業する。この段階はもう卒業しましょうねっていう考え方をとってもいいと思うんですけど、
僕は卒業しないと思うんですよ。この状態はずっと続くと思うんです。
だってこの状態がなかったら寝てたりできないんですよ。危なっかしくって大人になったら。
結局寝てられるというのはこの状態と同じですよね。
自分は無力になって無防備になっても大丈夫という根拠のない信頼みたいなものがあるわけですよね。
ここが私はグッドバイブスと実はとても近いんだなと思ったんですよ。
元々そのことをすごく意識してはいたんですよ。
今みたいに込み入った説明をしないと精神分析の側からのアプローチだと同じようなところまで地平までたどり着けないんで、
なんとなく頭の中でギューってやってたんですけども、説明するとこんな感じなのかなというふうに思うんですね。
甘えというのはマイケル・ヴァリントの一次愛か、それと甘えは同じですよねということで
ドイさんとヴァリントさんはお互いやり取りしているような気がするんですけれども、
あったり喋ったりもしているのでそういう話があるんですけれども、
その辺を詳しく調べてみたいなとは思っておりますが、
要するにこの状態を自分たちは多分常にちゃんと言ってみれば一次愛が満たされた状態を持っていないと
グッドバイオスでいうところのおかしな行動になっちゃうと。
それがつまりドイさんが言うところの甘えが意識の上に出てきて
甘えさせてくれと要求してみたり、くれないと腹を立ててみたりすると。
これを日本語では甘ったれているとか、そういう言い方をするんだと。
だからこの状態は一次愛の甘えが満たされていない状態に、
時に起こるんだっていう話をしているんだと私は認識しているんですよ。
これは大変面白い発想だと思うんですよね。
特に怒っている人を見ているとそれを感じるんです。
怒っている人って甘えているんですよ。
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自分の怒りが通じると思っているわけじゃないですか。
それは私はある意味大変無防備な状態だと思うんですね。
さっきの寝ている赤ん坊と同じと言えば同じだと思うんですよ。
無力ですよね。
怒るってことはそれが相手に通じなければ無力だと思うんですよ。
お前それでいいと思っているのかみたいなことを僕に言って
いいと思っていますっていう100%私がそういう風であったら
相手は困ると思うんですよね。
怒りをエスカレートさせる以外はこれといったことができなくなってしまうじゃないですか。
それって怒りをエスカレートさせがちな子供がやることとよく似てますよね。
つまり怒るときというのはこの怒りで相手は何らかの形で
自分の思い通りに通じさせられるんだっていう
かなり一方的な独特の信用っていうのかな。
そういうようなものがないと怒れないと思うんですよね。
相手の方が強いとか相手100%無視するだろうとか
そういう見通しの下では怒れないと思うんですよ。
そういう意味では土井さんの言う通りだと思うんですよね。
甘えが満たされないとき人は怒る。
それは甘えが言ってみれば過剰に出ちゃった状態。
満たされていればもっと穏やかに伝えることができるのに
満たされていないものだから特殊な使い方をしようとして
概ねしくじる。そういうことなのではないだろうかと。
だから私たちはみんな甘えが満たされた状態で
生きているはずなんですよ。
これが満たされていない状態がずっと続いている人は
多分異常行動を繰り返すことになっちゃうので
満たされた状態でずっと生きているんだけど
時々ある種のバランスが狂って満たされなくなる。一時的に。
その時に一層甘えが出ちゃうと。
考えてみるとそういう気がするんですよね。
俺の時間を無駄にしやがってとか怒るのは
私は甘え以外の何者でもない気がするんですよ。
もちろん時間に遅れてきた方が謝るというのは
謝るんだけど、私でも謝るんだけど
例えば私がその約束の時間なり何なりに
ちゃんと来るという、ある意味勝手な見通しがあるわけじゃないですか。
私のいかなる事情にもよらず
そこに私は来ていて欲しいというのを
しかもそれがちゃんと満たされていないと激怒しちゃうみたいな。
非常に独特の子供っぽさがあると思うんですよね、そこには。
だからそれは甘えが満たされていたということを
失った時に初めて自覚されることで
だいたい駅に行けば電車がちゃんと時間通りに来るというのは
甘えだと思うんですよね。
日本くらいですからね、そんなにピシッと来るっていう国は。
まあまあアメリカ行ったらまず来ないと思うのが適切なんで
めったに時刻表通りに動いていないバスみたいなもので
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まずその時間には来ないと思うのがむしろ適切で
そういう意味では、ちゃんと私が行動できるためには
無意識に甘えていること、しかも自覚なくいけるのが一番いいわけですよ。
ただまあ人生は、人生というか現実は
当然というか私の心理がいけないんですよね。
私の心理はついこの甘えを拡大解釈をして
世の中は思い通りになっていないといけないような気が
だんだんしてきちゃうんですよね。
人工的な都市とかで暮らしているととかくそうなると思うんですけれども
例えばあれですよ、今日みたいな寒い日に暖房つけようとしたら
つかないと、すげえ腹が立つとか、すげえ動揺するとか
これを甘えと言うんだと私は思うんですよね。