1. 佐々木正悟のライフハックからの精神分析
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2025-06-09 33:40

相談を「傾聴」するだけで何が起きるのか?【1198】

消耗したり疲れたりしている場合ではない。
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サマリー

このエピソードでは、ナルシシズムと自己愛についての議論が展開され、聞き手が自分の内面と向き合う重要性が語られます。ナラティブにおいて、自己を理解し、他者の反応についての誤解に気づくことが強調されています。また、相談を通じて相手の苦しみや感情を理解し、責任を共有することの重要性についても語られています。特に、傾聴のプロセスがどのように他者との共感を築くのか、そして個々の経験が他人にはどのように伝わりきらないのかを考察します。傾聴を通じて、心理的な苦しみを抱える人々と向き合うことの重要性が伝えられます。傾聴は他者の孤独を癒す手段であり、そのプロセスには深い理解と共感が求められます。

自己愛とナルシシズムの理解
おはようございます。人生相談の精神分析的ラジオ、第1198回をお送りします。
6月8日、日曜日、21時26分です。 朝ですね、いとも簡単に予約投稿というものができずに終わってしまったために、夜も撮っていると。
なんなら今日はですね、100日チャレンジ第11期のキックオフというのをやったために、30分さっき喋ったばっかりで、
今日30分単位の喋りがこれで3回目という感じになって、1日中喋り通している感じになっているわけですけれども、
まあまあ相変わらず間の抜けたことをやってるんで、しゃーないなって感じで。 これは明日の朝用なんですけど、果たしてうまくいくんだろうかっていうのを
今喋って思ってます。 これですね、3ヶ月チャレンジのPRを兼ね、時々今まで繰り返していたように100日チャレンジの告知も兼ね、
いろんなものを兼ねてですね、全部なんでもかんでもポッドキャストにぶっこんでる割には、 聞いていただいている方が
短続的に二桁の状況というのが、 これで大丈夫なのか将来と思わなくはないんですけど、
その割にですね、3ヶ月チャレンジはおかげさまで機能を追うごとに、 ビジネスとして一応機能するようになってきておりますんで、ここはもう一歩頑張るところかなと、
思いながらこれを撮ったりしているわけですね。 ノートを書くとかやってもいいのかもなんですけど、
ノートを書いて、さっきも書こうかなと思ってたんですけどね、やっぱりこう、 ノートを書くとどうなるっていうのがよくわからなくなってきたので、
書くとなると結構ね、なんで書くっていうのは難しいんですかね。 喋ることに比べると私にとって書くことはかなり厄介だなっていうのも、
さっき書こうとして思ったんで、まあやめました。 相変わらず喋ろうと。
まあこれだって、今の時代ですね、ごめんなさい。 今の時代は、
あれですよね、勝手に文字起こしをして勝手にAIが要約してくれるんです。 別に喋っとけば書いてもいるようなもんじゃんって思わなくもないんですけど、
まああれ、ちょっとやっぱ書き言葉とは全然違うなぁと思うんですよね。
はい。 まあそういうわけで、
今考えているのがですね、 ナルシシスティックな状態。
そういったものについて考えています。 あの、自己愛という名前、やっぱりよろしくなくて、
最近ほんとよろしくないなと思ってるんですよね。 まず少なくともナルシシズムに愛がないんで、
どういう愛にせよ、自己愛と言ってしまったら愛があることになってしまうんで、 その中にね、ないんですよね。
感情の内面化と帰結
だから、まあ難しい言葉になってしまうなぁと思って。 ナルシシズムってのは、まあ一人芝居ですよね、はっきり言って。
なんかこう、赤ちゃんが指をしゃぶりをするっていうのはまさにナルシシスティックな態度だと思うんですよ。
つまり、あれおっぱいだと思って、おっぱいだと思おうとしてっていう感じ。 だからなんかこう、一人芝居って感じなんですよね。
自己完結感が強くて、自分で自分を笑わせるみたいな。 自分で自分を怒らせるみたいな。
それがナルシシスティックってことだと思うんですね。 自覚がなければないほど、例えば赤ちゃんがもし自分の親指をしゃぶってて、
これ本当におっぱいだわって思ったら、ちょっと危ないじゃないですか。 つまりこれが害罪かなんですけど、我々はこれをしますよね、結構。
例えば、そうだな、 一生懸命
プレゼンの練習をしていると。 で、観客役も自分でやってて
っていう人は多分いっぱいいると思うんですよ。 いやーまだもうちょっとだなーって、観客になったかのように言うわけじゃないですか。
例えば録音した自分のを見ながら、まあこれもうちょっとだなーみたいな。 主観が客観化してますよね。つまり、害罪かですよね。
幻の徴収に向かって喋ってるんだけど、その幻の徴収って自分じゃないですか。 自分が作り出した徴収じゃないですか。
だからやっぱり自分じゃないですか。 夢の中でウォーサーをしている時とよく似ていると思うんですよね。
つまり想像力をたくましくするってのは、特に自意識過剰な方向に向けて想像力をたくましくする時に、我々はナルシシスティックになるんだと思うんですよね。
このどこにも事故はないって感じがない感じがするんですけどね。
この時にですね、私最近思ったわけでは全くないんだけど、 時々私が母親からの侵入で屈辱感を感じていたみたいなことを言ってるじゃないですか。
この感じってつまりですね、 侵入された者は屈辱感を感じると私は信じてしまうわけですよ。
だから侵入すると相手は屈辱感を感じるであろうというふうに信じているわけですよ。
そうすると、例えば私がナルシシスティックな夢を見た場合、誰かに侵入した時、相手は羞恥の表情を見せるだろうってことになりますよね。
話がすごい飛んでるようなんだけど、こうなるはずですよね。 現に私は性的にこうなりやすいから、私の性的な刺激ってのは常に羞恥ってものが絡むわけですよ。
つまり性的な関係ってすごく侵入を伴いやすいじゃないですか、お互いに。
で、侵入されるのは恥ずかしい。侵入しても恥ずかしい。 だからやたらと恥ずかしがる世界になってしまうわけですよ。
侵入して恥ずかしいっていうのは、だいたいうちの場合は特に父母の教育によるものが大きいんですよ。
むやみに人に侵入するものではないという、そういう特に長子である、長男である私にはその種のメッセージが因に要に語られてきたたんですね。
人に向かってやたらと侵入的であることを非常に私は恥ずかしく感じるようになって、だから人前で歌を歌ったりもできないんですよ。
カラオケ行ったりするのが苦手なのはそういうことになるんです。 私にしてみると私の歌を人に聞かせるって侵入に相当する行為なんですよ。
したがって私自身恥ずかしいってことが起きると。恥ずかしげもなくそういうことをやる奴は恥ずかしいっていう共感性周知みたいな話ですけど、
そういう概念がうちの特に母には強いところがありましたんで、こういうのってですね結構余計なお世話でちっともそう思わない人も結構いるもんだから、
みんながそう思ってるはずだって思うのはすごくある意味その人のナルシシズムってものをよく露呈していると思うんですけれども、
私もそうなるところが、まあ私はなるべくそこはね分離するように訓練してできていたりもするんですけど、
で、わーっと今喋ってみましたけど、ここで僕が一番最近なすべきことが何かって考えると、自分の周知心を持ちこたえることだなって思うんですよ。
分離してしまわない。外在化とか行動化とか身体化とかそういうことをしないってことなんですよ。
もちろん否認もしない。で、そうすると恥ずかしさってものがこう残りますよね。
こう自分の心にグッと圧力をかけてきているように残る。これが力動ってもんだと思うんですよ。なんか力を持ってるんですよ。
なんかこれを持ってられないぞみたいな。離せみたいな感じ。手放せみたいな感じ。
だけど持つわけですよ。ここでグッと。これがコンテインするとかホールディングするとか持ちこたえると言っている、包むでも支えるでもでもいいんですけど。
抱えるだけ。抱えるでいいんですけどね。こうグーッと抱えてる感じになる。やっぱり恥ずかしいんで、例えば身体化で顔を赤くしたりしたくなっちゃうわけですよ。
こういうことがだんだんわかってくるんですよね。持ちこたえようとして初めて。
例えば恥ずかしくて叫び出したくなる。あれは行動化ですよ。あんまり僕は叫び出したくはなりませんけど。
で、これが一番楽になるのが何かっていうと外在化なんですよ。
ファンザでも見るのが一番手取り早いわけ。だから見たくなるんですよ。これって不思議なことですよ。
侵入する側に立つってのはそういうことなんです。侵入する側に立てば侵入されることはないわけじゃないですか。
で、侵入すると相手はどう反応するかっていうと、私は相手は羞恥を感じると勝手に思っちゃうわけです。
なぜなら私は侵入されると羞恥を感じるから。これで二重の投影が起きるわけですよ。
侵入したから相手は恥ずかしがる。で、もう一つは私が侵入するという行為を恥ずかしい行為だと思ってるからそれを投影する。
二重に投影することになるわけですよ。ここまで来るとファンザを見ずに済むんですよ。
で、私はそういうことを3ヶ月チャレンジとかこのポッドキャストを通じて人に伝えてきてる。
これが周知と自己愛の関係ばかりではないからこういうことって。
殴られれば相手は痛がるとかそういう感じなんだけど、だって痛がらない人だっているかもしれないじゃないですか。
だから痛がるというふうに勝手に想定して、私が殴ったから相手が痛がったという空想するのは自己愛的ですよね。
苦しみの保持と自己成長
自己貫徹的だと。結局それは自分の自分を殴っているようなものなわけですよ。
だから痛がるわけですよ。私は痛がるから。
私は痛がるからっていう論法は本当はおかしいわけですよね、本当は。
どっかおかしい。本当はどうなるかを想像しちゃいけないんですよね。
だって相手がどうなるかを私が事前に理解するわけにはいかないからですよね。
だからナルシシズムって実にいろんな形を取るわけですよ。
すごくマズキスティックなナルシシズムもあるし、勝手にどこかで私が言ったことが炎上してしまうんじゃないかという心配するというナルシシズムもあるわけですよ。
すべてそれは想像の世界。想像して自己貫徹して、きっとバカにされるから、きっと相手は私のことを嫌がるからとかいう理由でしない。
貫徹してしまいます。何かをする。そうすると相手はどういう反応を取るか。
私にはわかっている。手に取るようにわかる。それはもう客観である。
どう考えても主観なのにそれは客観だというふうに言うってことは決めつけですよね。
この種の決めつけが自分の行動を縛る。そうすると貫徹してしまうわけですよ。
これは幼児の指しゃぶりと基本的に変わらないわけだと思うんですよ。
ここで持ちこたえるということをするとどうなるか。
心配だとか、きっと嫌われるに違いないとか、自分の行為はバカにされるとか、笑われるとか。
全部それを自分の心の中に留める。外在化せず、進退化せず、行動化しないで、しかも否認もしない。
苦しさというもの、周知の苦しさみたいなもの、笑われる苦しみみたいなものをこの胸の心の中にぐっと置いておくわけですね。
それが持ちこたえるという。苦しみを引き受けるとしか言いようがないですね。
でも苦しいんです。これは一体何のためにするのか。それをすると何が起きるのか。何か良いことがあるのか。
私の場合は身体が健康になるという意味で少し良いことが起きたんだけれども、これが私が3ヶ月チャレンジで私の側の立場としてやれる、ほとんど唯一のことだろうなと思うんですね。
つまり、逆転医ですけれども、相手の方から持ち込まれるものを私がここで持ちこたえる。
これをすると何が起きるのかなっていうのも、私にも上手いこと説明はできないんですよ。
とにかく相手の、多くの場合は欲打つ感なんですけれども、持ちこたえる。
何でもいいんですよ。うまくいきませんということであれば何でもいい。とにかく進展がない。
これを進展がないという状態が投げ込まれてくるわけですね。進展がないですよと。
佐々木さん進展ないんです。佐々木さんが悪い、今では言わないまでも結局のところ進展がないというのは誰が悪いにせよ私が悪いと私は思ってしまうじゃないですか。
これが投影ですけど、これを持ちこたえる。進展ないなと。
で、この方は進展がないから結局はいなくなるだろうな。
これって非常に私にとって苦痛なんで二重に苦痛ですよね。
ビジネスが成り立ってない。能力が二重に苦痛なわけですよ。
これを身体化せず、行動化せず、否認せず、だからある面では口にしてもいいんですよね。
口にしてもいい。つまり私が無能だということなんだなというのを口にしてもいい。
これはこれで苦しいんで。そうすると何が起きるかというと、
第一にこの苦しみを持ちこたえるというか、ホールドしたり抱え込むことによって、少なくとも半分は自分の持ち出しですよね。
自分が苦しんで、もっと有能でありたいとか、自己愛の傷つきですよね。
何かもっと解釈とかできるといいのかもしれないとか、ブリーフセラピーを勉強した方がいいのかもしれないとか、
相談と共感の重要性
そういう行動化に走りそうになる自分を持ちこたえるということをやっていると、もう半分、少なくとも全部自分が感じることじゃないので、
もう半分は投げ込まれたもの、つまり私が無能だと思われているという相手が思っていることですよね。
私と対峙しているその参加者さんが思っている。
結局、サンチャレって役に立たないなと。
それを言わないにしても伝わってくるわけで、伝わってきたときに大事なのは、
サンチャレは役に立たないとか、佐々木が有能でないというのはあくまでも表面的な話ですよね。
もう一段奥がありますね。もう一段奥は何かというと、どうすればいいのかという気持ちがありますよね。
他に行くってことも考えられるけど、他に行けば、例えば正規の心理臨床を受ければ話が展開するのかというと、
そうとは限らない。そもそも正規の心理臨床に行きたいかというと、そうでもないということが絶対あるじゃないですか。
サンチャレに来ていらっしゃるんだと。
のみならず、他に誰かに相談すればうまくいくのか、自分がめちゃくちゃ努力すればうまくいくのか、それはわからないですよ。
つまり、心の奥底にはどうすりゃいいんだっていうのがあるはずなんですよ。
それが伝わってきます。
だから、私がこの私の無能力感というものを追って追って追って追っていくとですね、
だからポルティングしないと始まらないんですけど、追っていくと、
その方のどうすればいいのかっていう、ある意味、
御法にくれた感じみたいなものっていうのを、私が実感することになるんですよ。
こいつを持ちこたえるんですね。
これを抱えるということが、つまり、安定論で責任を共有するって言ったらいいかな。
結局、人の人生においてどうすればいいのか、わからないことをどうにかしなければならないのは、
結局その人が引っかぶることになるじゃないか。
これを私が少なくとも何パーセントかにせよ、私も引っかぶるということをすることによって、
責任が共有されるんですよ。
この体験が大事なんではないかと最近思うんですよ。
個人の体験と孤独感
自分自身のことを考えていて、いくつか思い当たることがあるわけです。
例えばアトピーがそう。
結局アトピーの苦しみっていうのは、誰が何と言うと私が引っかぶるんですよ。
父は社会派だったから、ステロイド剤の使いすぎというものがなってないんだ。
お前、そういうのを文章に書いたらどうだ。
文章に書いて、世の中に対して反省を流して、何ならありえないけど賠償金まで取れたって、私のアトピーは直んないんですよ。
結局父はいい気なもんなんですよ。
こういう怒りも含めて、結局私が引っかぶるしかないわけですよ。
例えば大学病院に行って、3時間も4時間も待たされて挙句、父の言うところのステロイド剤の強めのやつをバンバンこうやってもらって、
しかも血液検査されたらダニがいたとか言われて、母が怒りだすということも引っかぶるのは私なわけじゃないですか。
こういうことを経験していくうちに、本当に人に向かって自分の苦しみを共有してもらうってことは、
実際相当経験として多くはないなってのを実感しなければならないわけですね。
別に周りの人に悪意があるわけじゃないんだけど、これは結構難しいことなんだなってことなんですよね。
一人一人はみんなナルシシズムの世界にある目に生きている。
父は社会問題だとこれをしたい。
母はダニのことなんて言われたくないという気持ちでいっぱいだ。
大学の先生はアトピーなんて治せないんだから、ステロイド剤を投与するより他ない。
別にそこに悪意があるわけじゃない。私が何時間待つか、そんなことは関係ない。
その大学病院にいっぱい患者さんが来てるんだからしょうがない。
こうしてですね、どこへ行ってもどこへ行ってもですね、必ずしも自分の苦しみというものは、
そもそもまともに受け止められている気すらしなくなっていくっていう経験をするわけですね。
私が3桁も4桁も女性に声をかけようとしていたっていう話も同じようなもんですよ。
どこに行ってもですね、自分がモテないとか言っても酒でも飲めよとか、友達には言われる。
時々女の子の友達が親切な人が話聞いてくれるようでも、事実上1分分も聞いてはもらえないんですよ、そんな話は。
母にしても無駄だし、父にしても無駄だし、妹と話をしても無駄なんですよ。
人はそのような話に興味は持たない。他人の苦しみといったようなものに実質的な興味はほとんど持たない。
男性ならば、解決できない悩みというものを共有してみても、解決できないと思われるのはオチだから。
そんなことに過半したくないわけです。別に悪意はない。そこに。
だから、実際のところ相談を受けた悩みや、悩みとか、自分が実際のところ何を望んでいるのか分かりもしないということをですね、
いくらかでも共有できるという状態まで持っていくのがそもそも大変難しいんですよ、実は。
結局、田崎さんにしてみれば他人事だっていうのは確かですか。
だから、どうやってもこうやっても共有できないっていう。
でも、いらっしゃってる以上その人を孤独なままで突き放すだけでいかないじゃないですかっていうこの気分が、
どの程度本当らしく自分と相手の人に、どの程度リアリティと言えばいいのか、
誠実性っていうしか他にないんですけどね。あまりいい言葉だとは思わないんですけど。
嘘ではないですっていうことなんだけど、でも嘘ではなくて意味はないでしょうっていうのがどこまでもつきまとう話なはずなんですよ。
つまりそこのところを何とかしようとできるかどうかっていうのがまず第一関門なんだなっていうことですよね。
そのためにはどうしても、これがだから世の中で言われているところのそれとは違うのかもしれないけど、
精神力動的なルートを使うことによって得る共感なんだ。
共感できるかどうか。別に私同情でも共感でもすることはたまらないと思うんですよ。
この場合、理解・同情・共感はすべて同じような意味になってくる。
すべて事後に起きることですよ。
理解は必ずしも事後ではないですけど、共感はおそらく事後だと思うんですよ。
目指すわけではないんだけど、結局のところ目指すしかないような。
消去法でそこに行き着くしかないような。東映同一課でもいいんですけれども、そういった何かなんですよ。
なぜならば、共感しても意味がないっていう気持ちを共感しなければならないって感じだからですね。
共感されてもしょうがないっていうぐらいのところまで行っている絶望感を共感しようっていう話に近いんで、
似たような体験が自分の中にところがあるんですよね。
私の場合あるっていうふうに最初私は思っていて、そうじゃないんだなって最近思うようになったんです。
これは誰でもあるはずだ。なぜならば人に理解されなかった気分っていうのは、どんな人でも持っているはずだからなんですよ。
必ずしも最近思うんですよ。幸だけじゃないな。幸福な気持ちすらも人と分かち合ってないっていう部分っていっぱいありまして。
だからアイソレーションなんですよ。孤立してるんですよ。
この絶対的孤立感みたいなものが自分が持っていることに気づけばですね、相手の気持ちが分かるっていうのとは違うんだけれども、
誰にも分かられないという気持ちは分かるわけです。
それは多分苦しい経験をしたとか絶望的な経験をしたとは限らないってことなんですよ。
ものすごく幸せな絶望みたいなのもないわけではないような気がするんですよ、最近は。
例えば他人事ってそうじゃないですか。この苦しみがあなたには絶対分からない。
それだけあなたは幸せですっていうのは実に寂しい話ですよね。
相手が真剣に話してくれているのであれば特にです。
この苦しみは味わったことのないあなたには決して分かりません。
分かろうと本気で思ったら自分が幸せであるということは寂しいことですよ。
そういった寂しさ、隔たりがどこまでも乗り越えようがないんだって感じ。
この感じを自分はしかし持っている。
つまり決して分からないということによって分かることってあるんですよ。
っていうような話だと思うんです。
これが第一関門に来ていると思うんですよ。
これは傾聴がないと思うんですよ。
重いとか軽いとか、苦しみが本質的だとか表層的だとか、そういった話ではないと思うんですよ。
どこまでいっても個人的な体験は相手には伝わりきらないっていうのに過ぎないわけですから。
だからスクスクっていう話がありましたけど、
傾聴の限界と理解
不自由あまりなく育ってきたからむしろ分からないことがあるっていうのが壁になるわけじゃないですか。
私は別に不自由なく育ってきたって言い切れるかどうか、これも大変微妙なところではあるんですけれども、
そういうふうに言われればそうかもしれないわけですし、
いろんな意味がある、いろんな側面がそこにもあると思うんですけど、そういったことかな。
そういうような乗り越えがたさみたいなものを持っているわけですね。
これを自分が持っているというふうに気づくことによって、
相手の人の不通なり、不能なり、お悩みなり、ニードなりが究極的には理解できない。
だからどんなニーズを返してもニードには触れきれないっていうのは、
満足させることは、満足させきることは、100%の満足を与えるなんてことはできっこない。
Good enoughっていうのは、だから私はよく思うんですけれども、残菌線だなって思うんですよ。
どこまでもどこまでも近づくってことは思考していけば望めばできるのかもしれないけど、
交わることだけはできないっていうような感じ。
その感じが何点ですかね。
投影同意使ってものの感じではあるし、転移ってものの感じ。
転移ってそういうことですよ。
現実じゃないわけですから、どこか。
転移性恋愛は非現実なもののように扱わなければいけないんですから、フロイトによると。
どう考えてもそうだと思いますし。
そのような自然な人工的な設定を作り出したからこそ発生した恋愛感情というものは、つまり本当の恋愛感情じゃないわけじゃない。
でもそれは本当の恋愛感情なんですよ、感情としては。
本当の恋愛感情と感情としてどこにも違いはない。
ただ由来が違うってことですよ。
それは恋愛として扱っていい、由来を持ってない、正しい、本質的に本物である恋愛感情です。
つまり、どこか本物ではない本物なんですよね。
そういうことだと。
で、これを可能にするのが唯一のっていうわけじゃないのかもしれないけど、これを可能にする、私にできる唯一のことは、頑張って本当に持ちこたえるということなんですよ。
行動化しない、身体化しない、手放さない、否認しない、心で抱える。
で、これをやることによって、なんていうのかな、完全に分かることはないけれど、分かろうとし続けることができる。
持ちこたえている間だけ、これが分かろうとし続ける方向を向き続けることができる。
身体化してしまったら、それはそれで苦しいけど、身体化してしまったら、相手の苦しみが私の身体症状になるだけじゃないですか。
だから、消耗するとか疲れるっていう話を私は、正規の心理師、心理職の方とか、非正規の大臣の方、援助職の方とかに消耗するんじゃないかって言われたとき、消耗するっていうのはやっぱり、
言わんとすることはわかりますよ。消耗するんじゃないか。やっぱり消耗するっていうのは失礼な話だと思うんですよね。消耗するというのは、やっぱり参加者に失礼だと思うんですよ。
お前が消耗するっていうのはナンセンスだろうって感じです。だって私だって、例えば、アトピーになってですね、大学病院の先生に行って、身体中赤くて、血、所々吹いて大変なんですよっていうのを見た人が、
いや、こういうのを見ると私辛くなるんだって言われれば、そりゃそうかもしれないけど、なんていうのかな、そりゃないでしょうって感じがするじゃないですか。
そっちは、私の病気で1ミリも苦しくないはずだっていうところがある。消耗を勝手にしてんじゃねえよっていう感じですよね。それと全く変わらないと思うんですよ。
傾聴の重要性
心理的な苦しみを伝えられて、何回も何回も聞かせられてるから、先が消耗する。そりゃあおかしいでしょうって思うんですよ。嘘。
それはつまり、結局消耗してる場合じゃないだろうってことですよ。身体科ってのも同じことだと思うし、行動科だってある意味同じことです。
それだけ苦しみを受け止めてるっていう誠実性なのかもしれないけど、苦しいからといって私が例えば泣くとかね、そりゃおかしいと思うんですよ。
後の話であればそういうことも起こるのかもしれないけど、お前が泣いててどうするよっていう話ですよね。
だからそこは難しいところはあるかもしれないんだけど、極力自分は平静でなきゃ変だろうと思うんですよね。
まず一番簡単に言って、解決できれば一番いいわけですよ。そういう意味でも平静でいるのがいいと思うんですよね。
つまり何か上手いことを私がたまたま解決策を考えついて、こうやってやったら解決するんじゃないでしょうか。
単純アドバイスであって心理臨床でも定義でも何もないんですけど、それがでもベストですよね。上手くいくことがそれでできるのであれば。
だいたいそうはいかないですけど。当事者がどことん考え抜いて発砲塞がりだと言ってるのも、私がいきなりいい解決案が思いつきましたなんてそんなに上手くはいかないわけですよ。
だから悩むわけですよ。でも私が悩んでたってしょうがないわけですよ。
だから私この消耗するっていうことはナンセンスだろうってやっぱり思うんですよね。消耗もするかもしれませんけれども、言わずにすることはわかりますけれども。
私が消耗している場合ではないんですよね。つまり消耗しないわけですよ。
だからこそ身体化とか行動化とか私の消耗とかそういうことが起きるということは既にどっかエネルギーがおかしなところに逃げてっちゃってるわけで、
全エネルギーを極力無理ですけど、でも理想としてはですよ、全エネルギーを私の心に封じるべきなんですよ。
こうした時にのみ初めて何かがちゃんとした方向を向いているということができるのではないか。
もちろん現実には無理ですよ。それができたらパーフェクトですけど、パーフェクトってことはありえないからグッドイナフなんですけど、ただ方針としてはそうだよねってことですよね。
だから傾聴共感っていうのは全く方針としては正しいと思うんですよ。方針でしかないんだけれども、傾聴ができますとか共感できますとかそうすればうまくいきますとかそういうことではないと思うんですけれども、
でも方針としてはこれしかないなっていう感じがしますよ。だから心で抱えるというのは、そうしてもらえると相手の人にとっては嬉しいとかそういう話でもないんですよ。
もちろんそういう感情が相手の人に湧いて悪いわけではないし、そうであったらいいと思うんですけれども、私が抱え込むことによって相手の方にとって救いになるとかそういうことではないと思うんですよね。
ただ、抱え込んで他に逃がさないっていうことぐらいはできないと、これしかある意味確実にできることがないと言えばないんで、
孤独の癒し
そのことに理解しようと頑張るみたいな話、月井さんの方の表現を借りると一心不乱に話を聞くってことになる。なんてことはないよねって言われればそうなんですけれども、
でもこれが意外と、意外とですよ。意外と私の経験では滅多に起きないっていう。それだけ我々はナルシシスティックに生きてしまう。
で、この次に僕が思うことは、そのように生きることはしかし、私はとても寂しいことだって思うんですよ。
だから私はこの仕事が、松木さんは逆説的にこれはバッドジョブ、思わしくない仕事だって言うんですけれども、私はそうは思わないんですよね。
これしか我々の孤独を癒す方法はないんじゃないかとむしろ思うんですよね。孤独っていうか寂しさですよ。
ナルシシスティックに生きるってとても寂しいことですよ。赤ちゃんが指をしゃぶって、おっぱいを知っているその自分の気持ちを何とか紛らわそうとする。
これはとても切実な話じゃないですか。お腹も少しですね。指からおっぱいは出てこないわけですから。寂しい。
そういう寂しさを我々は根源的に抱え込みやすい生き物なので、一心不乱に話を聞き、共感に至るまで何とか心に持ちこたえるっていうのは、
唯一私たちが孤独でなくなるような方法というかルートなのであって、それが仕事になっている自分っていうのは結構幸せなことなんではないかとも思うわけですけどね。
ご視聴ありがとうございました。
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