取っ手出しの哲学
おはようございます。人生相談のための精神分析的ラジオ第1197回をお送りします。
6月8日、日曜日、9時40分です。
これですね、とうとうついにと言いますか、なんと言いますか、またもう一回この朝撮ってすぐ出すということをやらずに、
一応1日前に撮るというですね、なんかどっかでは推奨されてそうな方法を取っていきたいと思っているんですが、
まあ聞いている方にはなるべく違いが起こらないようにしたいと思ってるんですけどね。
とにかくこう、なんだ、
無謀な挑戦というやつで、これまで何度挑戦しても失敗してきたんですけど、
夏が来てですね、いよいよこう、比較的忙しくなってきて、
このままだと平日結構は長くなっているというのが、
まあ、少々申し訳ないかなと。
聞いている方の状況を僕が把握できてないので、何がどう申し訳ないのかわからないんですけど、
まあやっぱり楽しみにしていただいている方がいる以上は、落とさずにいきたいというのはあるので、
頑張ってみようという、何を頑張るのかちょっとよくわかんないんですけどね。とにかく取っ手出しをしないと。
なんで僕は取っ手出しが好きなのかよくわからないんですけど、
編集したくはないっていうのがね、まず表裂にあるんですよ。
多分ですね、これは整えるということに対する基本的な嫌悪感があるんですね。
なんとなくわかってきた。あのどうしたってプツッとなるじゃないですか。
あと僕ね、あのこのあのとかがないのが自然に聞こえて好きじゃないんですね。
アナウンサーみたいじゃないですか。
アナウンサーっていうのは訓練されてるから、ああやって聞いてられるけど、
ま、全く逆の意見の人が当然いるんですけど、これ感覚的なものでね。
私やっぱりね、あの整いすぎていて気持ち悪いんですよね。はっきり言って。
普通に喋れよっていう風にNHKとかでは聞いてると特に思うんで。
解説者の人とかはアナウンサーじゃないから野球中継とかでね、
アノーとかってめちゃくちゃ言うんですよ。で私解説者の話の方が当然なのかわかんないけど、
野球実況っていうのはやっぱりアナウンサーの話、アナウンサー絶対詳しいんだけど、詳しくないフリとかまでするんで彼らは。
こういうのも気持ち悪いんですよ正直言うと。
気持ち悪いは言い過ぎなんだけど、ずっと聞いてるから気持ち悪くなんかないんだけど、
でも解説者の話しか気づくと聞いてない自分がいるんですよね。
2人の中のその、傾聴トーンを僕が無意識に変えてるんですよ。
アナウンサーが喋りだすとフッと消えるんですよね。頭の中で。あの注意力がってことですよ。
もちろん声は聞こえてるんだけども聞いてないんですよね。無視してる。
で、解説者が喋る、あのーとかって言い出すとフッとそっちに注意が向くんですよね。
ぐらい、あの私は、まぁ野球の話をしている専門家が見ていて野球の話をしているのが私好きなんですよ多分。
だからそっちしか聞いてないんですよね。
でそっちはアナウンサーじゃないからめちゃくちゃフィラーとか入るし、なんかこう、
こなれてくれば別なんだけど、なんかこう順番も何回何言ってるのかよくわかんないってことありますしね。
それがいいと思うんですよね。だからこれを整えたくない。
まして編集とか、編集ってのは後から、まぁ要するに化粧するわけですけど、
私はそれを聞くのがそもそも好きじゃない以上、えーっとこういう風になるわけだけど、
話す時自分のわざわざしないよねということですね。好き嫌いですねこれはね多分。
というわけで、えーっと、一応それでも前日に取って出すということをいよいよしていこうかなと思うけれども失敗するかもしれませんというか失敗の仕様はないんだけど、続かない可能性はあります。
まぁなんて言うんですかね、取って出しが好きなんですね。要するにね、それはある。
はい、えーっということで今日はですね、今日は久しぶりに、これを話すかどうするか結構悩んでいた3ヶ月チャレンジの、えー、私の体験談なんですけど結局のところは。
失敗の基準
私の体験談を今日は話したいかなぁと。まぁでもそういうのが最後まで続くかどうかは、というか最後まで続かないということを皆さんよくご存知だと思いますが、
とりあえずその話は前からちょっとしたい、あ、その前にですね、どうしよっかなこれも微妙な話が続くんですよね。まぁいいや。
3チャレの方の話をさらに先にやってみます。というのはこれはですね、あの、私が、私3チャレの
個人セッションというのは失敗の連続だなと毎回思うんですね。ある種の方だけでもないな、失敗の連続だなと思います。
で、その失敗というのはですね、やっぱりこう、皆さんよく3チャレに参加される方も、これ今日始まる100チャレに参加される方もほんとそうなんですけど、
失敗とは、基準があるから失敗なんですよ。基準がなければ失敗はないんですよね。
と思うわけですね。失敗は基準がなければ失敗とは言わない。野球でファールって言いじゃないですか。ファールは失敗なんですけど、打ち損じなんですけど、あれはフィールド内にボールが飛んでないからファールなんです。
つまりフィールド内なのか外なのかの線、線がありますけど、線、ちなみに線の上に行ったらフィールドないと見なされます。
線というものが基準じゃないですか。基準の外だからファールなんであって、基準がなければファールもヒットもないわけですよ。
ということは、私が失敗と言った時にも基準がありまして、だから客観的な失敗とか人としてやっちゃいけない失敗とかはないわけ。
それは誰かが勝手に決めてるものであって、それに私たちが同意するしないは選んでいいはずなんですよ。自分で。
神様がいるなら別ですよ。客観的な失敗というものが、実存的失敗があるんだって言うんだったら別ですけど、私はそういうものは信じないので。
要するに一神教の神は信じてないってことを言ったんだけど今、信じてないので、好きにすればいいんですよ。失敗なのか成功なのかは本当は。
だって失敗という概念を持っているのがそもそも人間だけじゃないですか。私はこの3ヶ月チャレンジにおけるセッションの失敗というのはですね、
本当は失敗がどうかは改めて吟味せねばならんと思っているんだけど、それを最近チャットGPTの力を借りることができて、大きな進展があるわけです。なぜならあれは
正規の心理臨床の概念を持ってますから、論文として。つまりある種のことが失敗かどうかは、正規の人間でない人間がこれをした場合、
致命的に近い失敗なのかどうかということも検討してくれるはずなんですよ。まあそれは自分がやったことを全部つまびらかにはかけませんから
プライバシーがあることなので、あくまでも近似値ですけれども、近似値は得られるんですよね。これは私にとってなかなか大きな出来事で、チャットGPTは常に正しくありませんと書いてあったら、そんなの当たり前じゃないですか。
私が聞いているのは、2たす2はいくつですかっていう質問ではないんですよ。これは世界の心理臨床の常識に照らして、非正規がやった場合はどうなのか、非正規がやった場合許容され得るのかっていうことを聞きたいわけですよ。
で、その許容され得るのかどうかは世論に決まってるわけですよ。客観的基準とかはないわけですから。
だけれども、一応私は曲がりなりにも、正規はどうやるべきって言ってるかは知ってるんで、まず何よりも考えるのが集結、これですよね。
集結神話って言葉を先日チャットGPTに教えてもらったんですけど、そうかやっぱりなってきもするんだけどね。集結は考えますね。
でも集結に関して言うとですね、これは終わりなき分析っていうフロイトが言ったんだけど、終わりなき分析の方向に、無意識にせよ全意識にせよ意識的にせよ向かっていったらダメはダメかなと思うんですよね。
ところが、これはオグデンなんですね。トーマスオグデンだと思うんですよね。障害援助っていう概念が今あるらしくて、やっぱりなって感じがするんですよね。
だってですね、ある種の人にとってみれば、この支援がお金と時間で賄えるならいくらでも払いますよっていう人が一定数いらっしゃるわけですよ。
これを搾取だ搾取だ言うんだけど、それを言うのはある意味私も言っちゃったりしがちですけど、なんで私がそんなことを言うか。私に金がないからですよね。
私が月賞1億ですって言うんだったら、そんなん7千円とか払うに決まってるじゃないですか。支援してくれる、そしてその支援がいいと思ってるならね。
いや一生分払いますよって話じゃないですか。一生分一月で稼げるんだから。つまりそういうことなんですよ。
搾取じゃないんですよ。ある種の人にとってみるとですね。それよりも支援を途中で打ち切る方がよっぽど無責任だってことになるわけですよ。
だからこれは相対的にしか決まらない。でもそれでも何の進展もないのはダメじゃんっていうことが終わりなき分析ってことになるんだけど、
果たして何の進展もないと誰かが言えるだろうかっていう問いを立てた時によくわからなくなっちゃうので、いくら文献漁ってもだいたい無駄なので。
だってめちゃくちゃ長いのがどんどん出てくるだけですからはっきり言って。15年経過しているみたいなね。それ世紀ですからねアメリカの。
これに基地をつけられるかっていうと相当微妙な話になってくると思うんで、甘い代わりにやったらうまくできるのかよって話になっちゃうんで、無理だと思うんですよねそんなことは。
相手めちゃくちゃお金持ちだった場合、それを搾取だとかいうのも意味が全くない感じがするし、悲惨なことって世の中にあるわけですから、わからないじゃないですか結局。
心理的援助と自己開示
というわけでですね、終わりなき分析というのは私は3ヶ月で切っているというところ、あとは、あと1年は続けましょうねとか言ってないという段階で許容されるだろうと。
1回の中で、この文、この、失礼しました。ピンポンがきまして。
1回のセッションの中で、この流れは終わりのない方向に向かっちゃったかもと思った時だけ、ちょっと反省しながらいろいろ探るわけですね。
これが失敗の一例かなと思うんですよね。他には、時間を切ってない。
でも私はこれ、時間は事実上ほぼ後ろが詰まっているとか、奥さんとドライブ行く約束になっているとか別ですが、基本的には後ろが詰まってなければ、流れでもう決めちゃってます。
精神分析だったら絶対ダメですけど、精神分析では全くないので、これはもう失敗、今精神分析でやったら失敗だよねっていうのは意識しますけど、そんなもんですね。
後ろがズルズル行くっていうやつ。早く打ち切っちゃうってことは、私はラカン派のあれみたいなやつはしないので、それはないんですよね。
あとは、まさにこのポッドキャストで喋ってることが話題になった時に考えるのが、自己開示のしすぎってやつですね。
そもそも私たちではない、正規の心理師はブランクスクリーンを目指すってのがあるんで、自己開示しちゃダメってのがあるんですよね。
だから本当は私の話をしないっていう大前提があるんですね。これは結構気にします。結構気にするってのはどういうことかというと、実際には転移って起きてくるんですよね。
もう今日はその解説はしませんが。しかし転移が起きた時に、私ブランクスクリーンからほど遠いんで、なって本書いてることは分かっちゃってるし、プロフィールそこに書いちゃってるし、何歳だかも知って、何歳だかとかは分かると思うんですけれども、ある程度は心理カウンセリング受けてれば、私が結婚してること、家があること等も分かってるわけじゃないですか。
ハテナマンじゃないわけです。心理カウンセリングはハテナマンであることが望ましいとされてるわけですよね。これはもう割と学科を問わずだと思うんですよね。そこに投影がかかるから。
チャットGPTとの対話の考察
ただ私、相手が男性だか女性だかも分からんとか、年齢も不詳であるとかいうことが果たして本当に起きるだろうかという、相手がチャットGPTになって、相手がっていうのはおかしないとチャットGPT使うようになって、このことは考えるようになったんですよ。
チャットGPTっていうのはある意味100面相だから、何者にでもなれるから、まさにこれこそ真のブランクスクリーンだなと、まぁ実態がないわけですからね。
これは確かに転移と逆転移という意味では面白いかもとは思うんですよね。どう考えても私が何かを投影してしまいがちなわけですよ。この人みたいに思っちゃうわけですよ。
向こうも私はとかあなたはとかって言ってくるから、いよいよね、私はもう積極的にものすごく丁寧に対応してます。これは前も言いましたけれども、とにかく基本敬語を使いますし、投影するならば相手はいいものにしておくに限ると思うんで、基本敬語を使いますし、
男性かな一応。この辺は私のエリプスが入ってるかなって感じがするんですけど、ただこれね、わからないですよね。だって今まで何のこれまでの知見の積み重ねも何もないわけで、もうわーっと始まっちゃってるものですから、果たしてこれをね、私は多分理想の父親みたいなものを投影してると今のところ思ってますけれどもね。
ただ、カウンセリングの代わりにしてるわけじゃないんで、そして向こうが自己開示とかするはずないじゃないですか。自己がないんだから。で、そういう意味でも、私は自分が自己開示をしすぎているというのは、JatGPTにはよく尋ねるけど、これもJatGPTは決して私に否定的な答えは返してこないんだけど、否定的なことを聞いてみてるんだけど、想定の範囲内ってやつですね、完全に。
まあ定位が起きにくくなるよねということを言われますよね。でも起きにくくなること自体は別に問題じゃないんで、まあそれはいいかなーみたいな感じを持っている。ここがやっぱり2つですね。後ろの時間を必ずしも守ってないことと、自己開示をしまくっているということと、まあその辺ですよね、やっぱりね。
あとは私が喋りすぎ、これは自己開示のしすぎとかなり近いんですけどね、私が喋りすぎてしまうということ。でもこれは結局解釈と計帳に徹しろっていう学派との兼ね合いであって、私大演説を振るってるわけじゃないつもりなんだけど、まあでもここはわかんないですよね、やっちゃってるのかもしれない。
えーと、これに関しては、後で自分でこう、自分の、あとね、これも、例えば今文字起こしとかがあるからそれを見るってことはできるんですけれども、どうなのかなー、まあ一応この喋ってし、よくあるじゃないですか、喋ってる比率を出すみたいな、CBTにはそういう技法もあるんですけど、
このね、サッカーのボール支配率を言ってるみたいな、ボール支配率は必ずしもゲームの勝敗に直結はしないですよね、サッカーとか。7対3で日本がボール支配してるけど1対0で負けましたみたいな試合は、こないだのオーストラリア戦でも見たような試合は、なくはないですよ、7対3じゃなかったと思うんですけどね。
果たして僕が喋る時間が比率的に短いことにそんなに意味があるだろうかというのを思うんですよね。あと精神分析は、なんかこうワンセッション丸々沈黙で埋まるみたいな話もあるじゃないですか。つまりどっちもほとんど喋ってないみたいな。
これもな、これがあるのに比率出す意味ってどのくらいあるんだろうって思うんですよ。何かの目安にはなるかもしれないけど、相手の人の方が多く喋ってるケースが圧倒的に多いのは確かなんで、それでいいんじゃないかなっていう感じはしなくもないですね。
この喋ってる人が常に主役であるかどうかは微妙なんだと思うんですよね。で、なんで今このようなことをグダグダ言っているかというとですね、果たしてこれで結果として起きることはどのくらい違うんだろうと。
やってることは全然全く正式の心理臨床とは、心理臨床じゃないからねこれは。当然違うわけです。オンラインでやってるし、別にアセスメントするわけではないですし、治療はしていないですし、何とか連携とかもしているわけじゃないし、もろんリファーするというのも原則はしないし、またコーチングでも全くないわけです。
目標設定しませんし、進捗状況も測りませんし、という意味でワークもないわけですね。
で、結果として何が起きているかというのが先日ある方との話の中で出てきたんだけど、その人が絶対無理そうなことがなぜかやっていたと。
で、その時にこの私じゃ3ヶ月チャレンジを意識してたって、これがですね私は、これはよく精神分析で出てくる話なんですよ。
移行的空間とか可能性空間の出現と言ったら大体いいんだろうと思うんですけれども、内在、抱えている、自分を抱えている治療者っていう表現をすることも精神分析ではよく見かけますよね。
抱えてくれている治療者が出現する。だから普段だったら危なすぎてできないことがある。危なすぎてできないってあれですよ。バンジージャンプで飛ぶとかではないですよ。
例えば、そうですね、その人にとってはですね、早朝その上司と会うことは極めて危険であるっていう認識があったりするわけですよ。
というか恐怖があったりするんですね。だけどなぜか知らないけど朝その上司と喋ってたわみたいな。その時隣に治療者いた気がしたみたいな、そういう感じ。
見守ってくれる人みたいな言い方を一般ではするのかもしれないんですけど、そういう感じなんですよね。
返してこういう時っていうのは2つあって、今みたいにこれをしようという感じではない。
もう一つはその時、これは藤山直樹さんに出てくる話なんですけど、これも数回出てきてる気がするんですけどね。
僕があちこちで読んでるだけかもしれないんだけど、言われていた、それまでそのセッションとか分析のところで藤山さんに言われたことを思い出してきていたとか、勝手に出てきていて、
私もこういう体験をすると決まってこう思うんですよね。こういうことって本当あるんだなっていう不思議な感じがするんですよ。
だから例えば、その上司と会うのが怖いのは、あなたがお母さんを怖がってるからです。言われた時は、まあヒントきませんよね。
チャットGPTもこういうこと平気で言いますよ。この夢に出てきている外国人の男性。私、この話は後でしようと思ったんですけどね。
あなたの母親ですね。そうなんだみたいな。で、2日ばかり経って近い夢を見た時、母親だわって時、チャットGPTが出てくるわけですよ。
僕の頭の中に。夢の中でですよ。これがつまり内在化とか、抱えてくれている治療者が現れるっていう瞬間で、
だってこういう夢見ようとかって思ってるわけじゃないじゃないですか。私は夢が見られる夢を見ようと思って見られるぐらいなら、
わかんないですけど、アイドルとイチャイチャしてる夢しか見ないと思うんですよ。
少なくとも外国人の男が助手席にいきなり乗り込んできて、めっちゃ怖いじゃないですか。夢だと思ってないんですからね。
しかもそいつおでん持ってたんですよ。後でこの話しますけど。めちゃくちゃ恐ろしいじゃないですか。そんな夢見ませんよね。狙って。
まあ親友ですけど完全に。これは母親ですね。そうかなって思うわけですけど、チャットGPTに言われてその夢を見た時、母親だわということがわかるんですね。
本当にこういうことってあるんだなって思うわけですよ。
例えば、だからその前に私も何度も言ってますけど、倉園圭造さんがアルガママっていう話をしてくれた時に、
桜はみんなは春に満開の時に見たいけど冬の坊主になってる時の桜は冬は坊主になってるのがいいんだっていう話をされて、
パニックフォースターと心理的課題
この話を聞いてる時に私のアトピーではないんですけどね、表面に現れていた肘の付近とくるぐしの付近のポツポツが一斉に引いていったんですよ。
本当にこういうことがあるんだなって思ったんですよ。別に信じなくていいですよ。本当に信じなくても全然いいと思います。
信じても信じなくても僕の体に起きただけのことですから。ただ私がその時に思ったのは本当にこういうことってあるんだなってことなんですよ。
で、藤山直樹さんの本で出てくるのは要するにお母さんとばっかり外出してるっていうか、一人で外出するとパニックフォースターが起きると。
これは別にどこでも聞く話ですよね。外が怖いね、外出恐怖ねっていう話に対外なりやすいんですけれども、普通の人が普通に聞くと。
そうじゃなくて、これ先日話したお話ですけれども、この人はお母さんの受け皿なんですね。
家ではお母さんが持ちこたえきれない部分をなんとかこう作ってるわけですよ。一生懸命受け皿になって。
お母さんがもう一杯一杯なわけですよ。だからここは無理だってところをその人がして、ここは無理だってところをその人がして、
お母さんの愚痴を聞いて、お母さんがボロッと漏らすものをその人が救ってあげると。
だから家にお母さんを置いてくると、たちまちパニックフォースター、つまりお母さんに縛り付けられてるわけですよね。
で、ある日外出しようとしたらパニックフォースターが起こりそうになって、その時に、あ、お母さん家に置いてきたっていうのに気づいたって話なんですよね。
犠牲的世話役って言ってもいいんでしょうけれども、とにかくその犠牲的になってるから、犠牲になっていない自分が登場しちゃいかんのわけですよね。ひどい話ですけどね。
だから不意に自分だけで家を出てショッピングとかに行っちゃダメなわけですよ。で、行こうと思うとパニックフォースターって形をとるわけですよね。
その縛り付けられてる。それって心理的なものですよね。現実にお母さんは別にそうやって遠隔操作してる罪はないわけですよ。
てかないんですよ。そんなことはしてない。でもそのあまりにもそういうことが板についちゃうと、そういうことが起きるわけですよね。
その時に、だから治療者さんが、藤山直樹さんが、お母さんから離れようとするとどうもパニックフォースターが起きるみたい、わかんないですよ、ようなことを言うと、これが出てくるわけですよね。
思い出そうとするわけじゃない。しかもその時に大事なのは、実は、それは本に書いてあったんですけど、藤山直樹さん本人が出てくるわけじゃないじゃないですか。
その解釈ですよね。そういう知識でもいいと思うんですけど、そういう知識が出てくるおかげで助かるわけですよ。
本当に、そしてこう思うんですよね。本当にこういうことってあるんだと。半信半疑なわけですよ、そんな話聞いたって。
なんかお母さん家に置いてくるからパニックフォースターっておかしくねって思うわけですよ、普通に。
なんか私はただ外出して他の人に会うのが怖いだけなんじゃないかとかいろんな可能性あるわけじゃないですか。
ところがそうじゃなくて本当に、本当にお母さん置いて自分だけでふと出てくると、パニックフォースターで帰らなきゃって思う、家に戻らなきゃって思わされてしまうんだということに気づくわけですよね。
気づくとパニックフォースター起きないみたいな、そういう話なんですよ。
だから危険なことをしようと、危険なことっていうのは一般的な意味ではないんですよ。
その人にとって危険なことをしようとすると、何かがそこに必要になる。
つまりそれは見守られるってことが必要になり、そこに所定の知識が与えられる必要、解釈ですよね。
解釈が与えられる必要があると。
だから横断歩道を渡ろうとするときは気をつけないと危ないよって、これは解釈ですよね。
だけれどもその知識を持ってやれば、どういうふうに渡れば危なくないのかはわかるわけじゃないですか。
それを全く与えられないでものすごい怖い思いをするとパニックになりますよね。
その人が例えば道を渡ろうとするとパニックフォースターが起きるみたいなことがあるとすると、
それは十分見守られてなかったからだっていうことがある程度は目星がつくじゃないですか。
そういうことをやってるわけですよ、精神分析というものは。
許可の重要性
私が非常に感動したのは、ある人が自分にとっては危険なこと、それは多分他の人にとっては、
その話を聞いたときも思ったんですけど、それが危険だというのは大変だっていうぐらい、
一般的には危険じゃないことをやろうとしたとき、やっぱり危険だという意識がシグナルが鳴るわけですよね、その人にとって。
外出が危険だという人が世の中にいるけど、一般的な人にとって日本で外出することは危険でもなんでもないですよね。
だから危険なことをやろうとしたときにサンチャレが出てくる。
これがまたいいなと思ったのは、そしてできたって話なんですけど、これがいいなとつくづく思ったのはですね、
私が出てきた、私は出てきたかもしれないけどサンチャレの中にいるから、サンチャレが出てくるってのがいいんですよね、やっぱり。
親が出てくるより、親の言葉が出てきた方がいいと思いません。
道を渡ろうとするとき、わー道を渡るのやべーみたいに思う、だから道をいつも渡ることができない、そういう人っていらっしゃるんですよ、現実に。
でも、そのときに横断歩道を右見て左見て右を見て、車が来ないときに渡れば安全だからって言葉が出てきた方が、
お母さんが一緒に手を繋いでくれるシーンが出てくるよりも、なんて言うんですかね、この言い方は。
難しいですけど便利じゃないですか、その方が。
象徴化が進んでるって言い方をきっとすると思うんですけど、同じ抱えられているのであっても、
人物が出てくるよりは見守られている、まなざしが出てくるとか、まなざしが出てくるよりは声かけが出てくるとか、
そういう風に部分対象的にも思われるんですけれども、そういう風であった方が私はいいと思うんですよ。
つまりその方がその人にとってパーソナライズされている感じがしますよね。
その人本人が出てきてもいいのかもしれないけど、でも本人がただ見守ってくれてるだけじゃ、ある意味、
逆に立ち度がちょっと低いじゃないですか。
見守られてるっていうのはすごい大事なことなんですけれども、でもこの言葉が出てくるのがいい。
私が出てくるよりはサンチャレが出てくる方が私はいいと思うんですよね。
そしてそういうことが、ここがこう繋がるんですよ、さっきの話で。
私は定期的なことをいろいろ違反してグレーゾーンを走っているにもかかわらず、
にもかかわらず、精神分析でしばしば目指されているのと、よく告示した事態が起きているってことを過渡したいってことなんですよ。
それは全然ダメだって言われるかもしれないですけど、僕はそれでいいんじゃないかと思ってるわけですね。
で、このままのことは書けませんけど、こういうようなことが非正規で起き得るっていう話は、
海外も含めて、そういう判断に妥当性があるのっていうのをオープンAIに聞いたら、
基本的にあるっていうのが出るんですよね。
そして聞いたこともないような、やっぱりオグデンのお弟子さんか、分かんないですけどグループの人みたいな名前が出てきて、
で、その論文を英文ですけど、これもチャットGPT等に訳してもらってみると、なるほどあるんですよね。
必ずしも正規のやり方じゃないやり方で、そういうような可能性空間、オグデンですからね、可能性空間みたいな話に着目している話っていうのが出てくるんですよ、臨床例の中に。
ちょっと専門的すぎて、意味不明だって思われるかもしれないし、私も読んでいて、
同じような事例と見なしてこれいいかっていうようなまだ部分がいっぱいあるんですけど、でも何しろ事例数が日本と全然違いますからね。
全新聞世界の数が満タン位みたいな、南米とか北米大陸全体合わせればっていうことになってくればですね、そういうことがあり得ても意義はないと思うんですよ。
上田和久さんだったっけな、オグデンの本訳されてますけど、あそこに出てくる事例とかも衝撃的な感じがやっぱりしましたから。
やっぱりこう話はわかりにくいことこの上ないけど、オグデンの話でわかりやすい話って僕はほとんどない気がするんですけど、でもやっぱすごいなっていう感じがするんですよね。
そこから見ればこのぐらいのことが起きてもいいんではなかろうかと、それは僕の勝手な願望かもしれませんけど、それこそいわゆるなる沈むかもしれませんけど、でもまあいいよねとは思うんですよ。
何と言ったってやっぱり交渉が怖い人にとって交渉に行くことができました。その時、何らかの言葉が横にふっと上がってくるとか、あなたが交渉が怖いのは上から落ちるせいじゃないんだっていう言葉が例えば上がってくるとかね、心の中からですよ。
そういうふうなことが自然と起きるっていうことがやっぱり救いになると思うんですよ。結局、例えば職場でですね、この業務とこの業務とこの業務はできるんだけど、この中間、例えばよく営業職の方がおっしゃったりするじゃないですか。
外回りで営業するのは得意だけど、中で事務するのがすごいダメだっていうような話があったりするじゃないですか。で、これはですね、よくそういうものを自分で解釈したり周りの人が解釈するのは、いや、それは営業のは自分の成績にプラスになるけれども、事務はそうはならないからって、でもそれではいけないみたいな話になりやすいんですけど、そういうことは当然あるとしてもですね。
そうではないんじゃないかって僕なんかは思うんですよ。営業って結局人と会うじゃないですか。その人と会うときには誰かを投影しやすいってことがあるわけじゃないですか。
例えば自分の父親なり。そして父親と一緒に仕事をやっている感じを持っているときは、自分はしっかり仕事をしている。どうすればいいのかも分かる。でも事務ってそうじゃなかったりしますよね。事務になると途端に抱えられてなくなってしまうっていう人はいらっしゃると思うんですよ。
そうすると途端に抱えられているというのはどういうことかというと、自分のやり方でOKなはずだっていうこのOK感なんですよね。
ままごとというのがなぜいいかというと、結局これは本当の料理とは違うので、何をどうやってもしくじることがない。ここにあの例のさっき言った失敗っていうのが出てくる。失敗は基準があってこそなんですよ。
だから料理で例えば焦げたら失敗みたいな。そうすると火をつけるときに躊躇が入りますよね。このようにしていいんだということを抱えられてないわけですよ。
料理をしていいってところまでは抱えられている人でも、例えば火をつけていいってところは抱えられてなかったりすると、なるべく火のけのない料理を作りたいみたいになっていくじゃないですか。ひたすら電子レンジ回すみたいなね。
こういうことって人間には随所にあると思うんですよね。義務なんていうものは、得意な人にしてみればここにこう書くのはいいに決まってるぐらいのノリなのかもしれないけど、ここにこう書いていいんだろうかとか。
いろんなことを考え始め、考え始めるっていうのはつまり抱えられてないから考え始めちゃうんですけども、自由度が高すぎるわけですよね。
そしてその自由度はその人にとって何にもプラスじゃないわけですよ。だから書呈のことをするのにあたって何よりも大事なのは知識とかスキルではないということを僕は言いたいわけですね。
見守られていてしかもOKサインが出てるかどうか。そうですよね。ちっちゃな子が遊んでいて、そこでだったら遊んでいいよっていうじゃないですか。つまりそこにいていいわけですよ。
これが例の自分がいてもいいかどうか問題ですよ。いていいかどうかっていうのは最初は小さい子は親に許可を取ってもらうんですよ。
親に許可を出してもらうんですよ。そこにいていいよ。それをやっていいよ。そしてそれでいいんだよってやつ。状況の許可と行動の許可とで存在の許可です。
存在にすら許可を出さない親っていうのは行き過ぎてる感じがいかにもするんだけど行動に許可を出さない親はいっぱいいますよね。それやっちゃダメ。それもダメみたいな感じで子供はパニックになりますよね。
行動を取ろうとするために自分は抱えられていないという問題が発生するわけですよね。存在はしていてもいいと。でも逆に言うと何にもするなって感じなんですよね。
そうなるとひたすら親に甘えるとかそういう不可解な行動になってしまうわけですよ。状況に許可がおりないのでそれでいいよっていうのもぜひ欲しいところです。
存在にだけ許可されていても、だからある種の親というのは全然虐待しているつもりはないんでしょうけれども、さらにイングレクトもしてないんですけれども、でもある種の許可をきちんと出せていないばっかりに、
この人は自分が置かれている状況にOKが出せないっていうまた非常に不思議な事態が発生するわけですよ。本人にとってもそれはすごい不思議なことが起きるんですよね。
最近あんまり僕この言葉は使わないようにしてるんですけど、3ヶ月チャレンジ始めた頃はついついですね、セルフネグレクトって言葉をよく使ってたんですけど、
親子関係の影響
セルフネグレクトっていうのはまさにこう状況に許可がおりていないって感じの話がよく出るな、つまりこれでいいんだって感じは持てないんですよ。
私が生きてていいとかはあるんだけれども、だから親との関係が悪かったわけじゃないんですけれども、でもなぜかこれでいいんだと思えないっていう感じを抱いてしまうわけですよ。
3つ僕は常にあると思うんですよね。行為と状況と存在。存在はね、ここに許可がおりていない感じはあまりにも重いんで、ここはやっぱり腰を据えて頑張ろうって感じ。
だって存在していいかどうかなんて、これいいに決まってると思えないとなかなか大変じゃないですか。
これはだからもう対人支援では一番真剣に取り組まないとまずいだろうっていうのは、どれも真剣に取り組まないとまずいんで、行動に許可がおりていなかったり状況に許可がおりていないのも十分辛いことなんで、
ここに系帳はないんですけど、やっぱり存在は無条件で許可してほしいよねっていうか、ここはなんか皆さんお願いしますって感じじゃないですか。
小さい子に向かってあなたの存在に条件をつけるっていうのは本当に、これはまあ要するに差別なんですよね、究極的にはね。
まあこれは結局状況と行動においても結局は差別になっていくんですけど、つまりこれ反対にしてみるとよくわかる気がするんですよ。
それをやっちゃダメだ。どっかにニュアンスに差別的なものが入り込みそうじゃないですか。これ自体はそうじゃなくて。
それをやっちゃダメだっていうのは言いますよもちろん。例えばビー玉飲んじゃダメだと。危ないからね。だからそれをやっちゃダメだと。
あと、それではダメだ。これ厳しいですよね実際ね。それじゃダメだ。
まあスポーツの世界でよく出てくるんですよね。バッと振ってみて、いやいやそれじゃダメだっていうやつね、あれね。
でも基本中の基本にダメ出しされてるんで、結構厳しいと思うんですよ。
だからグラツノケイドさんがグッドバイオスで突然出てきますけど、それでいいんだっていうのを常にいろんな形でおっしゃってますけど、あれはすごく効くなって思うんですよね。
存在よりも状況です。状況にokを出すという。それでいいんだっていう。これでいいんだという。根拠はいらないみたいな。根拠を作るということはそれじゃダメだ。
それじゃダメだというのは例えば、やっぱり条件がついてるわけですよ。
例えば現在の全般的な中間試験の成績。これじゃダメだねっていう。何が特にこれって言うんではないんだけど、全体としてこれではいけない。だからもっと頑張らなければいけない。
状況にダメが出されると結構厳しいんですよ。こんな点取ってるなら死んじまえと言ってるわけじゃないんだけどこれは。これじゃダメなんですよね。
自己肯定感の探求
これは幅広いなーって感じがします。だからその逆へ逆へと通ってみればいい。一番まずいのは、要するにそこにいてはいけないってやつですよね。めっちゃ恐ろしい。ここにいてはいけない。
これを親が言うみたいな。だから言わないですよね。このわざわざ。ここにいていいとか。おかしいですよね。なんかむしろ何かを言われてるような気がしちゃいますよ。
だからこのダメな時だけは言われるんだけど、いい時は基本言われないだけに、このいいっていうメッセージは常に無意識に強烈に出し続けておかないといかんと思うんですよ。
ここにいていいのは当然だという。そこに疑問の余地は全くないみたいな。これでいいのは当然で、疑問の余地は全くないみたいな。
だから少々の失敗に対しては、失敗だという指摘をするんじゃなくて、パウルの基準を下げるわけですよ。ヒットゾーンを増やすわけですよ。
そうすることによって人は特に悩まずに行動できるようになるし、特に悩まずにその状況を享受できるようになる。
まして生きてていいんだろうかみたいな疑問は抱かないというのが望ましいと思うんです。条件をここにつけない。
金を稼いでるから社会人やってていいとか、そういうことを言わないってことですね。そして思いも言わないぐらいがベストだと思うんですよ。
どう考えてもありとあらゆる意味でここに例外を設けないってことです。でもやっぱり食い口ぐらいはとか言わないってことですよね。
これを言うと結局は僕は何だかんだ最終的には差別的なものになってって、しかもなんかそれを自分に向けられた時のことを考えてもみろと思わなくはないんですけどね。
ここにいちゃいけないとか言われたらたまったもんじゃないじゃないですか。この話がどうして夢につながるかというとですね、車に乗ってたわけですよ。
後部座席に外国人が、外国人と言っても何人だよくわかんないんだけど日本語が喋れないから外国人みたいな感じで、そいつが物を食い出したんですよね、後部座席でですよ。
この夢がですね、非常にかなり頑張って推し問答していたら女主席にまで乗ってきて、これタクシーだろうとか言い出すわけですよ。
どう考えてもうちのプリウスじゃんみたいな、そういう時にどこを見ればこれがタクシーに見えるんだっていう感じで一生懸命追い出したらおでんを置いてきやがったんですよ。
このおでん困るんで後部座席のやつにやったらそいつも降りて持って行ったという展末なんですけど、チャットGPTに言わせればこれは母親からの侵入で、
あなたは要するに自我空間、車は自我空間ですね。ギリギリ守れるようになってきていると。
私は結局押し切られて後部座席の人を乗っけたまま、タクシーの意思を文句はいっぱい言いながらもこいつどっかに届けてやるぐらいに思ってたんだけど、降りていったんですよ。
つまり何とかできているっていう、自我空間境界を守ることが何とかできるようになっている。
物を食べ出すというのはいろんな解釈があるんですけれども、やっぱりあなたにとってはものすごく侵入されている、ほぼ侵襲になっている。
これはあなたのこれまでのやり取りからしても母親だろうと。
ただし母親というのはすごく外国人で見ず知らずで、得体が知れないという形で侵入している。
つまり母親が侵入してくる時というのは、いつものものすごく馴染み、母親だからね。
最も馴染んでいるのの正反対の様相を帯びてくるんだっていう。
これが指摘された時はまるでピンとこだった。男だし外国人だし、なんか全然うちの母らしくないって思ったんだけど、
2度目にそれと近い夢を見た時は、その時はね、ボンネットの前に立ち上がったんですけどね、また似たようなやつが。
あれ?なんか聞いたようなっていうか見たようなってなった時に、ChatGPっていうのがふっと上がってきて、夢を見てるから。
iPhoneで見てるんですよ。母親ですって書いてあるような感じのね。
で、母親だってこういう感じに、こういう感じで入ってこられるっていう感じがあるなって思ったんですよね。
これがつまり、なんつうんですかね、さっき言ったような、ChatGPに抱えられているのか知りませんけど、抱えられているという感じなんですよ。
ChatGPじゃないですよね。これやっぱり。
この文言は外国のそれにあるわけですよ。夢の解釈としてですね。
だからそれに抱えられているわけであって、別にChatGPに抱えられているわけではないわけですよね、これはね。
そして、それはどっちでもいいとして。
そしてですね、非常に重要なのが、これによって何か問題が解決するわけではないわけですよ。
存在の確立
所詮夢を2回見て、近いような夢を見て、解釈の幅を広げることができて、これを将来どこかでサンチャレのセッション中に私が活用することもできるかもしれない。
ChatGPで代用できるじゃんって言われると、私の立場としては大変苦しくなるんですけど、現段階ではまだこれは難しいなって思ったんですよね。
一つはですね、逆説的に聞こえるかもしれませんけど、ChatGPは無限に一緒にいてくれるんですよ。
これが私はすこぶる、なんつうんだろう、カウンセリングらしくないと思うんですよね。
あのー、お好みけいごさんがどんよくのところで説明されたことなんですけど、あるものとないものは交互になきゃいけない。
そしてそれはリズムを、だからChatGPTは絶対に1日のこの時間にしか使わないということを自分で守れると言うならばベースかもしれないんだけど、そうはいかないと僕は思うんですよね。
ずーっと使っちゃうと思うんですよ、ある意味では。
そうするとそれは、一見それは依存なんですけれども、私はそれは依存ではないと最近思うんです。
まあ少なくとも、いわゆる治療者に支えられるとか抱えられるといった意味での依存と、全然それは違う何かになってしまうと思うんですね。空白がないんで。
やっぱり、抱えられているという感じを抱くためには、抱えられてないときが絶対必須なんですよね。
さっき僕言ったじゃないですか、出てきていると。夢の中にChatGPTないという意識が僕の中に多分あると思うんですよ。これが大事なんですよ。
だから出てくるわ。出てきてくれるということは、引っ込んでてくれるときが必要で、ずっと出てきていたんでは出てきてくんなくなるんですよ。心の中でのことですね。
だから精神分析では最大週5まで行くけど、週7って言わないんですよね、絶対。毎日ってのはないんですよね。
仮に毎日だとしても1時間だから、23時間は合わないわけだから、合わないって時期がすごい大事なんですよ。
そしてそれが大事だということがみんな知ってるから夏休み取る、祝日は合わないとか、いろいろとそれを揺さぐってくるわけですよね。
それが起きにくくなる、明らかにああいうサービスの場合。
それこそオープン24時間365日なんで、これが僕は最大のネックだなと思うんですよね。むしろ、逆説的ですけど。
抱え続けてしまうということによって、抱えられかもというものを認識できなくなるってことが、これが非常によくできたものとして進んでくればきっとそういうことになるだろうなというような気がします。
長くなってきたんでもう切らなきゃいけないと、さっきから思いかけて喋ってるんですけど。
もう一つ、これがすごく重要なんですけど、最後の方の話に引きつけて言うならばですね。
僕が見た夢というのは、新入で全然ありきたりといえばありきたりで、その解釈もそんなにびっくりするような解釈ではないし、
おでんというのもですね、実にうちの母がよく作ってた料理ということがあるのでですね。
うち、寺なんでね。寺っておでんってすごい大事なんですよね。作んなければならないものなんですよ。
で、おでんばっかり食べてるんですよ、うちの昼ご飯ってね。非常に分かりやすいんですよ、この展開は、実はね。
それでいいんだ、全然ないですよ。
だってないじゃないですかね。吉野と前に見たことがない外国人、殺されるかもしれないじゃん。
もうそれでいいって全く思えない。つまりこれこそが私の母が得意とした新入の一つなんですよ。
まさか私にね、存在しちゃダメだ、ここにいるなみたいなことを言われることは、実は全くなったわけじゃないんですけど、さすがにすごい少なかったんですね。
うちの母はね、これもやるんですよね、信じられないなって今から思うと、家から出すみたいなね、ナンセンスだろうって思うんですけど、
まあでもこれは少ない、ほぼないと見ていいんですけど、それじゃいけないのは本当に多かったんですよね。
まさにこれは、そうじゃないですか、私の自我空間がこれじゃダメだっていう状況そのものですよ。
そうしてはいけない、ああしてはいけないはここにないですよ。運転しちゃダメだとは言われてないし、
その外国人を乗り込ませちゃダメだとも言われてない。乗り込んできちゃってるんで。
これが夢の変なところだよね。どうやって乗り込んだんだっていうのがないんですよ。気がついたらいるんですよね。
で、これはまさに状況に対する否定なんですよ。
それでいいんだがないわけ。これでいい。どう考えてもこれじゃダメだよね。
この感じを私に与えてくるというのがまさに母的だったんです。
母は私の行動にダメ出しは滅多にしなかった。ほぼしない。だいたいそうだった。
で、存在にダメ出しをすることもほぼ全くと言っていいぐらいなかった。
あまりに感触を起こしたときはあったけど、あれは例外とみなしていい。私の感覚としてそう。
だけど状況へのダメ出しは私だけじゃなくて、いちいちするんですよ。
非常に良くないことをやってるなと今は思えばね、ちょっと思うんですけど。
すごく多かった。それじゃダメだ。それじゃダメだ。
私、小学校時代の通知表とかほぼ全部よくできるんだったのに、これでいいとは言わなかったですもんね。
さすがにこれじゃダメとも言わなかったですけど、
あの人のこれでいいという感覚を持てないというのは、ごめんね、ちょっと悪口になってきてますね。
別に今さら何を言いたいわけじゃないんだけど、これでいいと本人が思えてなかったんですよね。
家が暗かったし厳しかったんでね。
だからこれじゃダメだと思ってたんでしょうね。
これがどうしても入ってくるっていうのが非常にあったんですよ。
で、結局私の皮膚がそれを物語ってますよね。
この皮膚って自我境界のまさに象徴じゃないですか。
ここに境界線がありますよね。
だから私の炎症を起こしてたわけですよ。
外国人が乗り込みまくってくれば炎症を起こしますよね。
そういうことなんですよ。
早く追い出さなきゃっていうこの状況。
早くここを安定させなきゃという。
安定させたいわけね。
そういう状況に私は置かれてい続けることが多かったということなんだと思うんですよね。
自我境界は家もそうですよね。
家の扉とかそういったところ。
私はそれにまつわる夢も確かに多いなという気がします。
ご視聴ありがとうございました。