2021-12-20 39:27

【GMV 517】甘えられないと自分がなくなる

自分がないとコミュニケーションしなくなる
00:05
おはようございます、グッドモーニングバイブスです。
昨日ですね、かき揚げ塾の第4期が終了しました。
5期からは、これは昨日初めて倉須野さんが来期からやりますって言ったアイディアなんですが、
かき揚げ塾参加中にも各時間を設けると長いんですよ。
かき揚げ塾って1回あたりがだいたい4時間ぐらいに最大でなるので、
3時間の回もあるんですけど、とにかく短くはないのに2時間半の回もあるのか。
2時間半から3時間半、何にしても結構な時間になりますので、
その間に30分だけ描きながら、描き終わったらその場でライブで赤入れみたいなやつをやるというお話なんですね。
第5期を通じてこれをやるかどうかは多分わからないし、
まだやったことのない新しい試みではありますけれども、
多分これをやることによって描き始められるということがまずあります。
それと最悪でも6回描くタイミングを設けられるということもあって、
これは私が前々から描き上げ塾では言うんだけど、
実はどうでもいいからとにかく描こうという、
とにかく描くというのは雑に描くのはダメなんですけど、
ダメというかその雑に描くと後直しが大変極まりたいことになって、
描いた時間の倍以上かかっちゃっていまいちなんですが、
でも描かないと手の入れようもないわけですよね。
今日その話も少しするかなと思うんだけれども、
とにかく描くという機会を持つことだと、増やすというよりは持つという感じなんですけどね。
それをしていくことでその描くというものになぜかストップがかかってしまうという、
あらゆる余計な要素、それは全部イリュージョンなので、
それにリアリティを与えないということですね。
ということのためにやります。
それが来週から早々に始まってしまうので、来週日曜日から。
ぜひ何か描き上げたいという方は、一定の質を担保して描き上げたいという、
03:01
なかなか欲求が高い方、志が高い方はご参加いただけるといいかなと思いました。
あとですね、ぶっちゃけ相談の方の数がですね、
昨日も一ついただいて、
途切れはしないという状態が依然としてなんとか命脈を保っている感がありますが、
あそこにパッと投げてみるというだけでは解消されないよなと思われるかもしれませんけれども、
これはもう今日のテーマなんですけどね。
甘えられるような、
甘えと自分というのはテーマとしてあるんですよ。
富田卿さんが甘えの構造の中で自分がないという話、
私はそこが一番、あの本の中で重要なポイントだと思っておりまして、
自分がないというのが、日本人はそういう表現をとるじゃないですか。
あの人は自分がないって。
僕らはそれがなぜか分かるんですよ。
なぜか分かるんだけど、それはどういう意味なのかというと、
例えばそれをイギリス人などにどういう意味なんですかって聞かれたら、
多分それを英語で説明するのは著しく混乱か、ほぼできないと思うんですよね。
それっぽいことは言えるんですよ。
英語の問題じゃないですよ。
英語の問題じゃなくて、自分がないという言葉の意味が分からないという人に、
果たしてこのことを説明できるだろうかと考えると、
私ということを精神分析のこともありながら、
アメリカで留学したからいつもこういう問題で悩むんだなっていうことを思い知ったというか、
思い知ったんですね。
例えば教授に恥について聞かれると答えられないことばっかりなんですよ。
シェイムとかシャイとかいう言葉を尽くしても、
なんか届かないものを感じるんですよね。
そういう経験から自分がないっていうのは、
よく分からない表現で、
甘えの構造の中にあったんですよね。
イギリス人で日本語も話せて、
日本語を聞かせたのかな、なんかそういうような人がですね、
ずっと英語で喋ってたんだけど、突然、
そういえばこの子はあまり甘えませんでしたってところだけを日本語で喋ったと。
そしてまた英語に戻ってその子の話をし始める。
で、同意さんが、どうしてさっきあそこだけ日本語で話したんですかって聞いてみたら、
あれは英語では話せませんって言ったという。
これはすごく象徴的なんですよね。
甘えというのは多分英語にはないんでしょうね。
で、何の話をしているかというと、
06:01
つまり甘えられないと物は欠けないということなんですよ。
これはですね、甘えられないと自分がなくなるということとも近くて、
自分がない人は物は欠けないと思うんですね。
この辺って今の時代ではですね、甘えという概念が結構揺らいできているんで、
多分ですね、甘えられないと自分がなくなるというのは、
日本語としても通じにくくなってきているだろうなと思うんですよ。
甘えは悪いこと。
で、自分がないことも悪いことだとすると、自分があることがいいことってことになっていますよね。
そうすると甘えないほど自分があるからいけるんじゃないかと思われるんですけど、
こういうところで引っかかるはずだと私は思うんですよね。
えーと、日本人なんでここを互換でいけるんじゃないかと、
これをいちいち定義し始める方がよっぽどややこしくなっていくので、
その、書けないという人は甘えられないんですけれども、
甘えられないということはつまり、自分は甘えてないぞと思っているんですね。
で、自分が甘えてないと思うとですね、
えーと、つまり自分がなくなっていくんですよ。
そういうことを土井さんは書いていて、
えーと、これはですね、感覚的にしかわからない感じの書き方なんですよね。
非常にわかりやすくロジカルに書かれている感じが、
非常にわかりやすくロジカルに書かれているかというと、
そんなことは全くないんですよ。
でもあれがあれほど読まれたということはきっと、
あれでわかるっていうふうに思って書いたんだろうし、
やっぱり私たちはあれでわかるんですよね。
まあまあそういう感じで、来週の日曜からスタートしますので、
こういう話をするかどうかわかりませんけれども、
えーと、でも、何か書いていらっしゃる方は、
もし参加されないにしてもですね、
人に甘えるっていうものをゼロにしようとすると、
書けなくなりますよっていうのは、
何となくインプットしておいていただいてもいいんじゃないかと思います。
なんでこのことが私たちにはわかるんだろうというのが、
ある意味とっても不思議でですね、
私、かわいろうかがお本、かわいろうかがおというのも、
甘えるということと自分がないということ、
もっと自分がないって話を強調しなければいけなかったと思ったんですが、
すっごい混乱した感じになったので、
結局、割とバッサリ削除した部分があるんですね。
これ未だに、何か説明しだすとハマるんですよ。
でも、確かにわかっていることなんですね。
えーと、出版記念セミナーを、
倉園さんがフューチャリングしてくださって、
えーと、やったんですね。
その時に、霧人三家という、
あの漫画すごい良いと私は思っているんですが、
手塚治虫さんの作品で、
だんだん顔がですね、
狼になっていくという病気の、
モンモ病とかいう、
架空の病気ですけどね、
えーと、
モチーフにしたテーマで、
えーと、この中に出てくる、
浦部っていう先生がですね、
お医者さんなんですけど、
めちゃくちゃいいんですよ。
09:00
私、この浦部を読むために、
あの本を何回も読んでいるんですよ。
あの人は、
だんだんこう、
神経衰弱になって、
精神症が重度になっていって、
最後は精神症に自殺する、
という展開なんですが、
えーと、彼は別に、
何人にもなるわけじゃないんですよ。
えーと、彼は、
将来も大体約束されているし、
あの、ライバルは病気になっちゃうしね、
ライバルは霧人さんなんですけど、
ライバルは病気になって、
どっか行っちゃうし、
えーと、彼の人生って、
基本的に何にも問題はないはずなのに、
どんどんどんどん追い詰められていくのは、
彼の方なんですよ。
で、
すっごいこう、イリュージョンというものを、
イリュージョンがどうやって精神を、
こう、壊していくのかというのを、
あれほど、
あの、理解しやすいのは、
私は、漫画と小説と映画を通じても、
あれが一番なんじゃないかと思うぐらい、
えーと、
何て言うんですかね、
手塚治虫さんって何なんだろう、
って思うんですが、
的確に、こう、壊れていく様子が、
えーと、描き出されている感じがあるんですね。
で、
えーと、彼は自分がないんですよ。
で、
あのー、
一番象徴的なのが、
もう一番最初の方のシーンで出てくるんですけど、
えーと、ライバルのね、あのー、
霧人さんがラーメンを頼む時に、
食堂に行って、大声でラーメンと言う。
そうすると、
浦部さんが続いて、
じゃあ、俺もラーメンと言う。
たったこれだけなんですけど、
ここにもう自分の無さが、
現れてますよね。
この人たちは日本人だから、
あれを、自分がないって言えるんですよ。
すぐ直感的に分かる。
自分がないとはどういうことで、
こうこうこうですと、大学の授業とか受ける必要は一切ない。
あれで、
あ、この人は自分がないなって言えるんですよ。
これを、えー、
多分アメリカ人に言うと、
自己主張とかいう話になっちゃうと思うんですよ。
全然違うと思うんですよね、私は。
ここで、霧人さんは、
霧人さんは自分がある人だから、
健全なんですよね。
彼がモンモン表になっていくんですけど、
えーと、
彼はラーメンって言った時に、
自己主張してるわけでも、
何でもないですよね。
ただ、食堂で注文してるだけですよね。
自己主張ができない人が、
えーと、
食堂に行ってラーメン頼めないかというと、
そんなことは全然ないですよね。
自己主張できない人なんて、
アメリカ人の基準に照らし合わせて、
自己主張できない人なんて、
日本人には多分いっぱいいます。
これは誤解ですけどね。
でも、そういう人がじゃあ、
食堂行ってラーメンって言えないかと言ったら、
みんな言えるじゃないですか。
つまり、自己主張ができないということと、
自分がないということは、
イコールじゃないんですよ。
関係はあると思うんですよ。
しかも、浦部さんは、
自己主張はできるんですよ。
彼はすごい優秀なお医者さんで、
自分の意見も発表できるし、
12:00
レポートにもまとめられる。
シャイだとかいう話ではないんですよ。
だから、
自分はそういう病気にはまっていくんだけれども、
それは恥ずかしいとか、
内向的ではあるにしても、
自主張ができないとか、
そういうことでは、
さらさらないんですね。
彼はブログとかでも、
クズ男だって、
みんなに書かれてしまってるんですけど、
そういうふうに見えるんですが、
私はそうは全く見えないんですよね。
彼に酷い目に合わされる、
南アフリカの人かな、
白人女性が、
その人も病にかかるんですが、
彼は立派なお医者さんでしたって言うんですけど、
まさにそうだと思うんですよね。
あの人と深く関わった人は、
あの人は立派だと感じると思うんですよ。
でも、明らかにクズっぽいんですよ。
こういうこと、
こういう人っているようなと、
僕はよく思って、
あの本よく読んでたんですけれども、
自分がないっていうのが、
一番中心の彼の課題だなって感じはするんですね。
で、
なんで自分がないんだろうって思うと、
いろいろ考えるんですけれども、
だからこうやって、
こういうふうには書けないんですよね。
いろいろ考えつつ書く。
なかなかそういうわけにはいかないんですよね。
一定の結論があるにしても、
それをビジネス書の中で伝わるように書く。
よくビジネス書について、
いろんなことが言われてるんですけど、
私はビジネス書って非常にいいジャンルだと思うんです。
日本では、
必要なジャンルなんだろうと思うんですよ。
いきなり、
精神分析の本、
とかに行かないじゃないですか。
なかなかそういうわけにはいかないと思うんですよね。
で、いろんな本がビジネス書の中で出てますけど、
ちょいちょいいろんな話がその中に入ってきていて、
書者、結局書いてる人はいろんなこと知ってたりしますから、
その中に出てきているのを追っていくと、
どこにでも行けるんですよ、割と。
ビジネス書が入り口になって。
で、これは完全に余談でしたけれども、
えっと、
HSPの人とかがよく、
他の人が怒られているのを見ると、
自分も怒られているような気持ちになって悲しい。
これは、ある意味自分がない難しさですよね。
自分と他人の区別がつかなくなってしまっていますよね、まず。
で、畳で見ていてもですね、
全くそういうことを気にしないという人もいるじゃないですか。
隣の人が怒られていると、私が別に怒られているわけじゃない。
でも、この態度もあまり行き過ぎるとあれですよね。
自分がありすぎるとは言わないですけども、
なんとなくそういうものを感じさせますよね。
でも、隣の人が怒られているからって、
もう自分の仕事が全く手につかなくなってしまうというのは、
なんとなく行き過ぎの感じがありますよね。
こう考えると、自分というのは、
肉体で境界線を持っているわけでは全然ないですよね。
15:01
明らかに心理的なものです。
つまり、自分という領域を心の中で指している部分があって、
だからこれは自己認識とかという話とも違うんですよ。
私の肉体を指して鏡を見て、
これは私ですというのが自己認識の実験で、
よくチンパンジーのおでこにバッテンとかつけてやるんですけども、
あれで私だってことがチンパンジーは分かっているかと。
ちなみに、たぶん猫とか鏡を見ても分かっていない気がします。
魚は全く分かっていないですね。
鏡に映った魚の姿を見て、たぶん見ていないでしょうね。
そうすると、私たちはこれが自分だって気づくのに、
2歳であれば十分ですが、
2歳の子が自分があるかというと疑わしいというか、たぶんないです。
いわゆる私たちが言う、日本語で言うところの自分があるというのに、
2歳児が相当するかというと、たぶん相当しないですね。
4歳児でも私が育てた感じでは、全然相当しない気がします。
あるほうな気がしましたけどね、自分の子は。
でも、自分があるというのとは違います。
つまり、自分のことを名前で呼べるとか、
そういうのは関係あるんですけど、
自分のことを名前で呼べるとか、
鏡を見てこれが自分だとわかるとか、
そういったことは、もろもろは関係あるにしても、
いわゆる自分があるないの議論とは関係ないような気が、
異なる話であると思うんですね、自己認識は。
だから、自己認識とか自己主張とか、
内向的とか外向的とか、
そういったことでは説明がつかないんだと思うんですよ、
この自分がないというやつは。
でも、自分がないという概念はとても大事で、
浦部さんが、浦部さんは気の毒なケースではあるけれども、
漫画ですけどね、
徐々に徐々に神経症が進行していくと、
精神障害だとか、狂ったとか、誰も言ってないんですよ。
中度の神経症といって、すごい性格だなって思うんですよね。
こういう性格の表現は小説でも少ないような気がするんですよ。
中度の神経症って感じが、いかにもするんですよ。
自分がない病気ってのは、究極的には多分統合失調症であって、
神経症水準って言うんですけど、
神経症水準っていうのは、精神病ではないよっていう言い方なんですけど、
どっちが重いって言うのは無理だと思うんですけどね。
ただ、ボーダーラインというものを境目に、
ボーダーラインですから、境界線ですから、
それよりも精神病、精神障害、
それよりも精神病、あるいはそうでなければ神経症。
つまり、私たちはみんな神経症気味になることはありますけど、
例えば、脅迫神経症みたいになることはあるじゃないですか。
不安神経症とか、対人恐怖症とか、このなんとか症ってついて、
まあ普通の人でもそういうことはあるよね的なのが、
少し重くなったみたいなのが神経症水準、ノイローゼですね。
18:02
こういう言い方をするときに、自分が無くなっていく感じってあると思うんですよ。
例えば、私は静電気恐怖症があまりに進行したとき、
自分が無いなって感じがしたんですよね。
だって自分としては絶対にこの車に乗んなきゃいけないと思ってるわけですよ。
自分としては絶対にドアを開けなきゃならないって知ってるわけですよ。
自分としてはこのビリッとしたのがちょっと来たぐらいで手に怪我はしない、
何にも致命的な問題は起こらないってことも知ってるんですよ。
なのに開けられないんですよ。触ることができなくなる。
これは何なんだって感じなんですよね。
痛いのが怖いっていう話だけでは進まないんですよ。
私、歯医者さんに行けるんですから、痛いさだけで比較をするのでは無意味なんですね。
でも怖いっていうのはあって、
そしてそれは痛いっていうことと関係なくはなくて、
自分が無いっていうのが一番近い感じとしては、
つまり自分がもう何かをコントロールしきれなくなってしまっている何かがあるわけですね。
こういうことと関係があると思うんですよ。
隣の人が怒られているというのは、そこで境界線というのかな、
一つ引けばいいわけですよね。
この人が怒られているのであって、私が怒られているのではない。
自分が怒られているのではない。
あるいは、彼はラーメンが食べたいが、自分は蕎麦が食べたいとかね。
こういうのが自然とあるはずですよね。
それが無いんですよね、どういうわけか。
あるいは無くてもいいと思っちゃってるわけですよ。
怒られている人を見て、
怒られている人を見て、その人に同情して、
あんなに酷く怒ることはないのにって言う人がいるじゃないですか。
HSPっぽさがあると思うんですけど、
あれは酷いよねと言ってみたら、その怒られた人がケロッとして、
いやもうしょうがないでしょうって言ってたら、
なんかHSPの人は腹を立てたりするじゃないですか。
せっかく私が同情しているのに、あれは酷い怒り方だし、
酷いと認定されるべきだっていう主張ってあるじゃないですか、世の中には。
こういうことってよく見かけるんですよ。
不思議な感じがするんだけれども、
他人の面倒を見ちゃってるっていうふうに、
私は内心でちょっと呼ぶんですよね。
勝手に人の世話をやる。
それは、それ自体が悪いことではないんで、
話がちょっと難しいんですけれども、
人が頼んでいないことを勝手に頼まれたことにしてしまう。
これはですね、
僕には自分の領域が拡大しているように見えるんですね。
拡大しているというのはつまり、
本来はこの領域より外に出ている。
この領域を肉体とイコールだというふうには言えないと思うし、
そういうふうに決めても意味ないと思うんですね。
21:00
この領域は肉体じゃないと思うんですよね。
何かある精神領域というのは、
何かある精神領域みたいなものであって、
肉体じゃないと思うんですよ。
で、私より外の部分に責任があることってありますよね。
例えばうちの子が、
5階のベランダから落ちようとしているとき、
これは明らかに私に責任があるじゃないですか。
こういうときに、いや、あの子は私じゃないからっていうのは、
相当どうかしていると思うんですよ。
つまり、自分の領域っていうのは自明じゃないし、
状況によって変化するんですよね。
だから難しいんですよ。
自分があるっていう人は、
かっこたる自分の領域を決めているわけではないんですね。
感覚的にわかるっていう話であって、
この感覚的にわかるっていうのはですね、
欲求と関係がある。
あるいはもうちょっと言ってしまうと、
欲望と関係があると思うんですね。
自分の欲望だとみなして、
その結果に責任が十分負えますっていうのが、
多分自分なんじゃないかなと。
これは一つですよ。
一面です。定義じゃないです。
一面としてそういうことがあるかなと。
だから人の部分についてまで、
この人かわいそうだからそんなに怒らないでくださいってところまで言うんであれば、
その結果についての責任も十分負えるっていうレベルでない場合、
勝手にただ同情だけしてしまった場合、
これ話がですね、
何かがきつく責められているように聞こえるかもしれませんが、
そういう意味ではないんですよ。
これは私たちにとって、
自己領域とか自分の責任の領域が
あやふやであることを言いたいんですね、僕は。
例えばラーメンっていうのは、
欲求じゃないですか。
ラーメンが食べたいと。
で、ラーメンを自分が食べて、
おいしく食べ、おいしくいただくということは、
結果についてまでの責任が十分負えますよね。
この部分について他人に負ってもらう必要は別にないですよね。
他人がラーメンと言ったから、
私はラーメンを食べましたって言うほど、
これ難しいことじゃないですよね。
当人が責任を十分負えますよね。
こういう領域についてのことなのに、
他人に何かを依存したり、
他人に欲求の根拠を依頼したりするっていうことが、
自分を失くしていく一つのきっかけというのかな。
そういうものになっていくと思うんですよね。
だからあのシーンがさらっと挿入されてたわけですよ。
そういうのが天才だなと思うんですけどね、
哲川さんって人は。
さらっと挿入されていて、
じゃあ俺もラーメンなんですよ。
彼は多分自分の欲求というものに責任を置いたくないという気持ちが、
常にどっかにあって、
自分の欲求というものに責任を負わないということは、
こういうラーメンとかの時は何の問題も起こしませんけれども、
24:01
起こす時があるわけですよね。
例えば彼は性欲が多いんですけどね、
やっぱりその辺フロイトだなと思うんですけど、
浦部さんはキリストさんの彼女を取っちゃうんですよ。
このシーンは重要ですね。
じゃあ浦部さんはその女の人と、
そうまでしてくっつきたかったのかというと、
非常に曖昧なんですよね。
この辺がクズだってみんなに言われてるんですけど、
そうなんでしょうけれども、
すごく私はこれはそうだろうなという気がするんですよ。
この人は自分の欲求に責任を負えないんですよ。
どちらかというと自分の欲求は自分の欲求だと思いたくはないんですよ。
僕らの時代には、時代というのかな、
僕らの中にはそういう事情ってあると思うんですよね。
ここまでやったら確かにクズだって言われるでしょうし、
犯罪ですが、でもこういう事情ってあると思うんですよ。
例えばなんですけど、自分に食欲がなかったらいいのにと思ってる人は
結構いっぱいいるんじゃないかって私は思うんですね。
これっておかしなことではないと思うんですよ。
例えば引きこもりみたいな話が、
引きこもりというのはいわゆる部屋から出てこない話ではなくて、
グッドバイブス的に言うウィニコットが言うところの引きこもりっていう、
チタの壁を築いて自分というものの領域を確立して、
確立してというか定義して比較的狭くしておいて、
僕はこういう人はいっぱい知ってる気がするんですけれどもね、
自分が十二分にできることをやるんではなくて、
自分が七分目の力でもできることだけで過ごしていきたいっていう風に感じてる人って
いっぱいいる気がしますね。
これはつまり欲求ってものは責任を負わなきゃならないシチュエーションが出てくるじゃないですか。
さっきの寝とるじゃないですけれども、
あれはすごく象徴的な表現にならざるを得ないから、
多分手塚さんはあそこに挿入したんだと二度出てくるんですよ、それに近いシーンが。
彼は自分の性欲には責任が全く負えないんですね。
というか無いものにしているぐらいの勢いがあります。
そういうことってあるじゃないですか。
言い寄ったり言い寄られたりするということは責任を負うことになってしまいますよね。
できれば異性なんて好きになりたくないっていう欲求ってのはあると思うんですよ。
この延長戦の中にできれば食欲は持ちたくないってところまで生きうる人もいると思うんですね。
人と友達になるってのも同じですよね。
それどころか人と関係すること自体がそうじゃないですか。
私から関係したいって言ってしまったら、
あんたそう言ったんだから責任取ってくださいねってことになるじゃないですか。
27:00
だったら常に受動的できたほうがいいじゃないですか。
あなたがそれを求めるんだから私はやりますけれども、
私がやりたいわけじゃないんですよっていう一つのスタイルですよね。
このほうがかっこいいみたいに思われている部分も結構あるじゃないですか。
仕事の依頼を受ける時でもそうですよね。
社会力になって取りに行くのはみっともないみたいなのって、
日本の文化にもしっかりとあるし、多分これどこにでも割とあると思うんですよ。
だからアメリカ人が自己主張とか言い出すんですよね。
そうではないと思うんですよ、これは。
そうではなくて、人に甘えたくないという気持ちの表れだと思うんですね。
人に甘えるということは、その人に支配されるということだと。
この問題はずっとあると思います。
つまり自立の問題ってやつなんだけれども、
ホールディング、抱え込みっていうのもあるんですよね。
ホールディング、抱え込みってメリコットが言いましたね。
結局のところ、これは幼児の話はアレゴリーであって比喩なんですけれども、
要するにお母さんに依存していると。
甘えていると。
恥ずかしくもなんともないうちは自分がないわけですよ。
後になってみて、あの時はまだ自分がなかったんだなと気づくと。
で、そこには少し恥ずかしさがありますよね。
つまり恥ずかしさを感じるということは、甘えがあったということと、
自分がなかったことに気づいてくるってことだと思うんですよね。
で、自分がないと、そして甘えるということはとても悪いことで恥ずかしいことだという意識が強い人、
うらべさんのような人は、ラーメンって言いたくないんですよ。
ラーメンって言いたくないんですよ。
じゃあ俺もラーメンなんですよ。
このスタイルを貫き通したいんですね。
そうすると、例えば本を書くとかの時に、
とかく出てくるんですけど、こういう話は。
本を出したいんですっていうのは恥ずかしいじゃないですか。
なんか有力な人に、私も本を書いてみたいんでちょっとお願いできませんかっていうのは嫌なんですよ。
みっともないわけです。
そうじゃなくて、先生ぜひ書いてくださいっていう態度だけで生きていたわけですよ。
そうすると、自分の欲求ってなければないほど都合がいいわけですよね。
私はこれがつまり、うらべさんが生きてきた基本的なスタイルだったために、
特に性的欲求みたいな問題が発生した時に、
著しい問題になっちゃうと思うんです。
これはもうアプローチされる人っていますよ、もちろん。
すごいかっこいいとかそういうのはありますが、
大体そうじゃないからアプローチするシーンって出てきちゃいますよね。
でもそれはみっともないわけですよね、言ってしまえば。
そこには絶対に甘えがあるじゃないですか。
ということはつまり、自分というものがあるためには甘えないということはできないじゃないですか。
30:05
たぶん私が思うにですけれども、ここを認めたくないんですよね。
自分があるということは、人に全く甘えないことだけありたいんですよ。
自分とは人に全く甘えない存在でいたいんだということだと思うんですよ。
ということはですね、人とは全然関わらないというのが普通一番結論としていいですよね。
もちろん向こうからやってくるのはいいんでしょうけれども、
そうは言ったって向こうからやってきた相手に対して、
ああしたりこうしたり、少なくとも私たちは服着なきゃならないですよね。
だけどこういうことって、つまり相手も服着なきゃならないわけですよ。
つまり相手が少しでも負担に感じることは、全て相手の迷惑になり得る。
相手が少しでも負担を感じることをこちらが求めるということは、
つまり自分の依存というものが、相手をネガティブな気持ちにするということを
押し進めてどんどん行けばですね、引きこもるしかないと思うんですね。
第二に、引きこもるということが例えばある種のケースにおいては、
ひたすら親に負担してもらう。
つまりですね、全く甘えることをしないで自分があるということは
両立しないはずなんだと思うんですね。
ただこれは今のは経済的な話だけに絞りましたけれども、
たぶんラーメンといったときにラーメンを食べられるということは
結局そこには依存があるので、私たちがその依存をゼロにするということは
コミュニケートをしないということになると思うんですよ。
緩膜症ってありますよね。言葉が一切出てこない。
あれ、私がこの話の最初の掻き上げ塾のときに
甘えられないということは自分がないことで、自分がないということは
つまり物は掛けなくなるはずだっていうのはこういう話で、
私たちはコミュニケーションする相手に甘えないということはあり得ないと思うんですね。
コミュニケーションをする必要って甘えが全然ないならば、たぶんないんですよ。
ゲームの中にいてお金がふんだんにあって、ひたすらAmazonからロボットが物を運んできて、
でもこの物もダメですよね。自分で作ってないですからね。
やっぱり誰かに甘えてはいるんですよ。お金払ってるって言うんでしょうけどね。
まあそうだとしてお金を払ってるからどんどん物を運んできてくれる。
コミュニケーションする必要は一切ないですよね、人とは。
ここまで来たのは21世紀に入ってからの話だから、
これ以前には多分甘えられない人は自分がなかったんですよ。
私たちはそういう冗長の世界に生きているので、
本来的に言うとコミュニケーションを一切取らない人に自分はないはずなんですよ。
じゃあ俺もラーメンが小声で書かれてたのはすごい大事だと思うんですね。
33:03
キリヒトさんは大声でラーメンって言うんですよ。
つまり自分の欲求ってものは結果を伴いますよね。
100%自分の欲求が自分一人で満たせるってあれば、
外部に向かって働きかける必要って一切ないはずですよね。
外部に向かって働きかけてるということは甘えているってことじゃないですか。
つまりコミュニケートするってことは甘えているってことですよね。
そうしないと自分の欲求って満たせないわけですよね、私たちは。
これが気に食わないってことだと僕は思うんですね。
甘えは許されないというのと甘えは許したくないというの。
その上でしかも自分はあるということになってくると、
実はとっても逆説的なんですけど、ものすごく誰かに甘えることになるはずなんですよ。
そこはもう例外的な存在として良しとする。
例えば恋人とかすごい仲の良い恋人とか、
でも大体の場合これをやれる相手は限られてくるので、
大体の場合というか少なかった場合、
その恋人はめちゃくちゃ殴られるとかそういう悲惨なことが起こるんですね。
コミュニケートを極力ゼロにしつつ、
自分の欲求は自分のものとして完全に満たしつつ、
しかも人に全く甘えないということになってくると、
ある特定の人へにかかる負担は絶大なものになります。
これが多分依存先をたくさん持っていた方が良いというのを
ある種のカウンセラーの人が言うんだと思うんですね。
私はそれよりは、人は誰にでもある程度は甘えるものだと言っておいた方が、
なんて言うんですかね、
グッドバイブスってグラドーンさんが言う言葉を使うと、
グラデーションになって良いと思うんですよ。
依存先をたくさん持つみたいな、
同じことだとは思うんですけれども、
感じになってくると、
ひどくデータベースから依存できる人を探そうみたいな、
これのやり方の問題はさっきと同じで、
その人たちへの負担が増えるんですよ。
本来なくて良かったはずのレベルのものまで。
つまりラーメンを頼むときですらも、
ライバルに依存する。
そのライバルの女の子は寝とるくせに。
そういうことが起きているはずだったと思うんですね。
私たちの人生の中では。
あれほどあからさまには起きませんけれども、
多分起きるんだと思うんですよ。
どうしたって。
そういうのがみっともないからっていうことをしていると、
多分2人とか3人の人だけに甘えることにして、
その3人の中にはやたら殴られたり、
理不尽なことを言われたりし続けるっていう人の存在を
必要とするんだと思う。
それがゼロになってしまうと、
多分浦部さんがそうであるみたいな、
神経症が進行していくっていう形になるのかなと。
なぜならば、やっぱり甘えすには生きていられないから。
36:00
甘えないと自分が無くなっていくからなんですね。
その人は多分甘えないまま生きることはできるんでしょうけれども、
それはちょうど3歳時下の子が、
自分が全く甘えていると気づかずに、
母親を完全に環境扱いにしている。
これはいいんですよ。母子関係だから。
この形をそっくりそのまま、
どんな成人と当てはめようとしても無理なんですね。
それは無理ですよ。
なぜならば、一人の成人というのは、
自分で自分を甘えさせられる領域がもっと遥かに大きいはずで、
ここを完全に他人に委ねてしまったら、
ものすごい負担になりますよね。
しかも浦部さんみたいに、
社会的地位があり、極めて優秀で、
やっていることも複雑だということになると、
余計にそうなんですよ。
その部分の負担は大きくなるはずなので、
逆じゃないんですよね。
3歳児とかは優秀じゃないから、
母親に100%に近い依存ということを可能にするんです。
自分で何でもできるような人が、
ある種のことを徹底的に他人に委ねてしまったら、
その他人は委ねられる量が半端なくなって、
溜まったものじゃないわけですよ。
だから多分、カウンセリングというところに相談しに行くと。
あの時代、つまりキリスト参加が書かれていた頃には、
そういうものがまだまだメジャーじゃなかったので、
どこにもカウンセラーが出てこないんですよ。
当然浦部さんは、
特価そういうところに行かないとおかしいだろうという流れなんだけど、
いないんですね。
でもああいうことは、昔の時代、1960、70年代には、
多分普通にあったんだと思うんですね。
だから周りの人が、ある意味、
彼の犯罪の被害者になってしまうんだけども、
でも彼は優秀かつ立派な人なんですよ。
これが自分がないってことの問題かなというふうに思います。
その人は、つまり自分で面倒を見切れる領域というものを知らないんですね。
そしてなぜか他人の面倒を見てしまったり、
自分の面倒は見ないのに、
他人の面倒を見てしまったり、
あるいは自分が面倒を見るべき相手の面倒は全然見ないとか、
そういうふうになっていて、
自分がありすぎるようで、自分がなさすぎるようで、
とにかく自分の領域というものを誤解しているんだと思うんです。
そしてそれはある程度は、私たちみんなに言えることだと思うんですよね。
結局自分の領域というのは、昨日と今日とでは違うし、
午前中と午後とでは違うんですよ。
そして関わる人によって変わるんですよ。
常に揺らいでいるんですね。
だからここが私ですって言った線はすぐそうでなくなっていく。
しかも、これは倉園さんのグッドバイブスですが、
恐れと不安とイリュージョンで、
自分が全く見えなくなる。
この時自分がなくなるんですけれども、
そういうことも頻繁に起こるんで見失うんですよね、結局。
考えてみれば人間だけですから、
自分などという概念を振り回して理解した気になっているのは、
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それぐらい難しい問題でもあるので、
でも、私たちはこれがでもできるんですよ。
直感的にすぐ分かる。
多分キリスト参加を読まれた方は、
倉園さんには自分がないという言葉ですぐ理解できると思う。
これを書けたから手塚さんはすごいんですけどね。
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