1. 佐々木正悟のライフハックからの精神分析
  2. 「自分がない」とは?【1199】
2025-06-09 45:32

「自分がない」とは?【1199】

「自分を待つ」のは誰が待つのか?
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サマリー

このエピソードでは、「自分がない」というテーマを通じて、自我の存在やその条件について深く考察されます。特にドイタキオの概念を用い、自分を待つ体験や主観的な存在について議論が展開されます。また、「自分がない」という感覚について探求し、神経症の背景や親子関係がどのように影響を与えるかが考察されます。主体性の欠如が人々に与える心理的な影響や、それに対処する方法についても述べられています。さらに、主体性や自己の存在感について深く探求され、カウンセリングや参加者との関わりを通じて「自分がない」感覚がどのように影響を与えるかが語られます。このエピソードでは、「自分がない」という状態について語り、患者との関係性や主体性の重要性が強調されています。

自分の存在の探求
おはようございます。人生相談のための精神分析的ラジオ第1199回をお送りします。
あ、ついにここまで来ましたね。1199。次回1200回ですね。
6月9日月曜日7時57分です。
で、これは多分、多分というか絶対に明日の朝に配信したい。
つまり撮ってるのは月曜ですけど、配信は火曜日にしたい。もう今日の分は予約配信されましたからね。
ようやくこの形を一つ作れました。
なんかやっぱりね、撮ってもいいってすぐ出せないっていうのは、もやもやするってやつですかね。
あの、もやもやっていうのは違うんだけど、すっきりしませんね。それはあります。
慣れの問題もあると思うし、これは慣れた方がいいと思って頑張りますが、何ともすっきりしないのは確かだったりして、いろいろあります。
でですね、めでたく100日チャレンジ第11期のキックオフも、これを聞いてる方にとっては2日前の日曜、私にとっては昨日ですね、やりました。
そこで結構ややこしいことを喋ったんですけど、
まぁでも、あれをこれからは、そういうこと毎回言ってんな。でもまぁあれは何とかして頑張ってお伝えしていきたいと思うので、
今日もその補足をしたいと思うんですけど、
要は自分があるっていうような話なんですよね。
もうちょっと言うと、
これがやれてもやれなくても私は私である。
そこに何かこう、微動だにしない感じってのが必要だなって思うんですよ。
これがやれれば私はあるが、これがやれない私はいなくなった方がいいぐらいだっていうのをやめなきゃいけないっていう感じがするんですよね。
この私の存在に条件をつけるっていうこれをですね。
で、やっぱりこれを、昨日はそんなに深入りはできなかったんですけど当然。
体験談の重要性
何と言っても一番この話にまず最初にとっかかったのは、
ドイタキオさんだと思うんですよね。
甘えの構造のドイタキオさんが。
神経症患者さんの治療の転換点では、私自分というものが立ち現れてくる。
自分があるとかないとかいう言い方を我々しますけど、それなことなんですね。
自分がないっていうのは主体性がないとか、つまりすごく周りの言いなりになっちゃってるよねぐらいな、
接続的にはそういう感じで、通俗的にはですね、そういうことなんですけど。
それを精神分析的にちょっと深入りしてみようみたいな話が、
ドイタキオさんの甘えの構造でも結構徹底的にというか、
しぶとく語られてるというか、こういうことを一生懸命考えてますみたいな感じがあるんだけど。
そんなに分かりやすいかっていうとそんなことないわけです。
なんか分かったような分かんないような、
ドイさんはそういう感じに書かれることの多い方で、
これでいいんだろうなとかも思うんですけど、
なかなかああいう感じに書けないっていうのもありますよね。
ああいうふうに考えていくっていうのは、
簡単なようでそうではない。
上にこっとところどころ思わせられるんですよね。
なんかこう、すごく一文一文をハットさせられて面白いんだけど、
結局どういうことだったんだろうっていうのを独語感として残るんですね。
なんていうんだろう、きちっと整理はしないよっていう感じ。
でもなんかすっごいガシガシガシガシ飛行を進めていくっていうんですかね。
そういう感じがあるわけです。
私は3ヶ月チャレンジの体験の中で、
この自分があるないっていうのは割と最近にですね、
前の前とある程度は考えさせられることなんだけど、
最近にホームページをご覧いただくとわかるんですけど、
ほとんどの方は見たこともない3ヶ月チャレンジのホームページですね。
そのうちURLもきちんと整理したりしたいと思っているんだけど、
今のところはまだとりあえず荒削りでほぼラフをアップしちゃいましたみたいな状態のままなわけですが、
ここにですね、3ヶ月チャレンジ体験談という、これはもうメインなんですよね。
私にとってホームページのメインは体験談なわけです。
現在まだ3名の方だけの体験談なんですけど、
これをちょっとゆくゆくはもっと増やしていきたいというか、
増やしていかないことにはどうしようもないみたいなところがありまして、
これはでも運営側の都合なんでね。
何しろほら3ヶ月チャレンジで何やってるのか意味不明なんで、
体験された方というのの体験談を通してしかある意味PRできないよなって思うんですよ。
それにしてはここまでうまくやってるかなと自分でも思うんですけど、
何しろなかなか実態がつかめないと言いますか。
だから様々な体験談を通じて何とかこう、
だってある方にはすごくある方には刺さるかもしれないけど、
それだけでは十分じゃないわけじゃないですか。
いろいろな事情があっていろいろな方が集まっていらっしゃってるわけですから、
やっぱり少ないという状態ではですね、いかんと思うわけですよ。
いろいろな方に日々見ていっていただきたいっていうのは一応ありますからね。
そこでなんですけれども、
これからですね、この体験談の中から、
体験談の中で私がどれもすごく響いているんですよ。
どれもすごく響いてるんだけど、響いてるのは私なんでね。
私に響いただけではやっぱり十分ではなかろうということで、
当然これは外部向けのものなので、
外部の方に響いてほしいなと思いながら、
どれも響くんだけどでもやっぱり補足説明はいるかなみたいに思いながら、
補足説明をしたらでも伝わるものがあるんだろうかっていう、
そういうですね、どこまで言っても割とタスクシュートにもまつわる難しさだったなと思うんですよね。
この3ヶ月チャレンジというものを伝えることの難しさですね。
中に、ある体験談の中でですね、
自分を待つという表現が出てきたんですよね。
この方はその後、これを浄土を待つという言い方に、
だいぶ修正されたんですけど、修正じゃないんでね、これね。
今日はそのことを言いたいんですよ。
浄土を待つの方がわかるって感じがすると思うんですよね、私も。
自分を待つになると、だいぶ誰が何を待つんだみたいになりやすいと思うんです。
もちろん自分をなんですけど、
自分を待つんだとすると、主体は何なのって感じになりますよね。
自分がなのか。
自分が自分を待つになると、ここにちょっとスプリッティング的なものを感じ始めるということになるわけですね。
自分を待つことができるようになったっていうのが、
何でも言いますけど、ホームページに書いてありますからね。
私が捏造したわけじゃないんで。
そういう体験談をいただいて、私は非常に、
体験談はどれも運営者を非常に感動させるんですけれども、実は。
でもですね、ここでも運営者が感動していてもなっていうのがどうしてもあるんで、
それはそれでいいんですけどね、
私の活力になってるってところがあるんで。
アイデンティティの深淵
自分を待つっていう表現法に、
やっぱり私は非常にノイ・タケオさん的な何かを感じたわけですよ。
でも、それはどういう意味なんだろうって考え始めると、
多分ですね、私が感じる以上に一般的には困惑する部分もあると思うんですね。
すごく、これ以外の表現を取ると、もう違うものになってしまうんだけど、
でもこの表現を取ると、一般的には、
一般的には、何て言うんだろうな、
何を意味しているのかが分かるようで分からない。
例えば、自分がないっていう、あれ批判なんですけど、
それってどういう意味なのって多分問われると、
いや、それはつまり人に迎合しすぎるとかみたいになってしまうと思うんですよ。
何かよく分からないような、分かるような感じがするという。
難しい表現なんですよね、ある意味。
非常に普通に使われているにも関わらず、そういう表現ってありますけどね。
で、特に何でこれが一般的に分かりにくいかというと、
それは自分を待つという経験を、大概の人は持ってないからなんですね。
で、何で持ってないかというと、自分がなくなるという体験を、
大概の人は持ってないから。
つまり自分というのは、言葉が使えるようになった頃には、
自明にずっとあるものっていう感じがありまして、
この感じがですね、比喩的に自分がないは分からなくはないんだけど、
本当に自分がないみたいな、
自分を待たなければならないっていうような表現が指しているものが分かるほど、
自己剥奪感っていうものを、普通に多くの人はご存じない。
私もほぼ知らないっていうことがあるんですね。
これは、だから自分がないって言ったからといって、
自分が消えてなくなっちゃったみたいなこととはちょっと違うんで、
これがすごく厄介だなっていうか、
でもこれがすごく大事なんですけどね、
土居武夫さんが言いたかったことは間違いなくそういうことなんですよ。
自分が立ち現れるっていう表現を取るわけだから、
それは神経症の方は、少なくとも重症の方はですね、
自分がないっていう状態を知ってるわけですよね。
ただし、この自分がないっていう感じはですね、
自分があるときにしか掴めないんですよ。
自分がないのがその人にとって自明になっているときは、
自明なんて別に思わないわけですよ。
これもすごいややこしいんですよね。
つまりこういうことになるんですよ。
ずっと自分がある人は、自分がないってことがわからないんですよ。
でもずっと自分がない人も、自分がないってことがわからないんですよ。
だからこの話は伝わりにくいんですよね。
どっち側から発されたとしても、わかるようでわからない。
ある意味、瞬間的に立ち現れる何かなんですよね。
冷蔵庫を開けた途端に電気つくじゃないですか。
だから冷蔵庫の電気って閉めてるときは消えてるんだけれども、
今は知りませんけど、消えてると思うんですよね。
目で見る必要がないわけだから、閉まってるときは。
でも冷蔵庫の電気が消えてるところを見るっていうのは困難じゃないですか。
でもランプがつきにくくなってパチパチパチみたいになった瞬間、
つまりだんだん蛍光灯がダメになりそうになったときに、
開けてもすぐにつかなかったりするじゃないですか。
そのときに消えている電気が開ければつくんだなっていうのを我々は目撃できますよね。
こんな感じなんですよね、自分があるとか自分がないっていうのは。
自分が点滅しているような感じを持ったときに、
我々は自分ってこうやって立ち現れるんだという。
少し調子崩したときにでないと、なかなか健全な人にはわかりにくい話だし、
自分がないっていう状態を長い時間を占めてる人にしてみると、
自分があるっていう感じが立ち上ったときの瞬間を、
目撃っていうのも変なんだけど見ることはできないんで、
目撃したときにでもですね、
自分ってこういうふうにして現れるんだっていうことがわかったりする、
という体験のある程度意味だと思うんですよね、自分を待つというのは。
だからこのタイミングがうまくつかまれないと、
そのタイミングについて知ってる人でないと、
冷蔵庫の電気つくやつね、みたいなそういう瞬間のことを知ってる人でないと、
冷蔵庫って電気ついてるもんじゃんってことになっちゃうじゃないですか。
開けてるときはいつも電気ついてるから。
閉めると消えてるんだけどそれは見たことがないわけですよね。
この2つの状態は存在してるんだけれども、
この2つの状態を両方見るのは無理なわけですよ。
そういう感じがこの自分のあるなし問題には常にあるんですよね。
もうちょっとこの話を、これはあくまでも冷蔵庫の電気使った昼でしかないので、
もうちょっとこの話を進めていきたいわけなんですけど、
自分を待つっていう話を書いてくださった方は、
なんとすればいいんですかね、
分かるように伝えたいっていうのが私を困惑させているわけですね。
分かりやすい話なんだけれども、体験したほどのない人には分かりにくい話なんですよね、
今日やってるような話っていうのは。
これ100チャレでもこれをさらに一般化した話をしたために分かられたような、
なんていうのかな、アイデンティティよりも深いっていうか、
アイデンティティよりも深刻っていう感じなんですよね。
ちゃんと貢献していないとここにいてはダメだよって言われるのは確かに辛いことなんだけど、
これが生存全体に関わってきているような話なんですよ。
あるチームに属しているとか、あるエリート集団に属しているというような話だったら、
この阻害感とか排除感っていうのはあると思うんですよね。
ちゃんとお金稼ぎ出せない社員はいらないよみたいな。
でもそれは社員という状態を剥奪されるだけで、私を剥奪されるわけじゃないですよ。
そういうふうにアイデンティティを全部そのある組織にかけてしまうって方もいらっしゃるけど、
でもあくまでもそれは、あくまでもエリート集団から排除されるのであって、
人類として排除されるわけではないです。
自分がない感覚の探求
この人類としての排除感っていうものを残念ながら持ってしまうということは、
養育歴の問題もあるんだけど、だからここで社会問題化しやすいんですよ。
そういう育て方とかそういう物言いをするからいけないんだってことになるんだけど、
これがですね、ある種の神経症水準の人はとっても大事にちゃんと育てられたのにもっちゃうってことが起こるんです。
だからやっぱりこの自分のあるなし問題というのは、
結構一般的にあくまでもたまたま体験談に自分を待つことができるようになりましたっていうことを書いてくださったから、
その人がですね、この人にはその問題があったということがわかるわけなんですけど、
これはずっとセッションしてるとわかってくるんですけれども、
でもこれが書かない人にないわけじゃないんですよ。
だから書いていない、そして家も健全でしたみたいな場合、家が不健全だったっていう場合は特にですね、
この自分のあるなし問題っていうのは起こってるんだけれども、
でも意識したりそれがメインテーマに登ってくるかどうかはまた別の問題なんですね。
主体性の重要性
でもなんでこれが出てくるかっていうのはやっぱり考えていくとですね、
私たちが自分というものを持つということが、
なんていうんだろうな、
例えば精神分析では確かに扱われている事態なんだなってことはだんだんわかってくる。
ここがいいですよね。
私の臨床例も紹介したわけじゃないんですよ。
精神力動の話の中にはこれがあるってことを言いたいわけですよね、私としては。
別にこれを中核に意識しなければ精神分析なり精神力動的な支援はできないとかそういうことではないんだけれども、
そういう観点を取ることもできるっていう、
今日は難しいこと喋ってるな自分って思ってますけどね。
とにかくですね、この自分を待つことができるようになったっていう表現を取られたということは、
自分を待つことができない時があった。
それも結構あったっていう含意になりますよね。
これはこのように書かないまでもですね、
多くの人が実は3ヶ月チャレンジの体験者さんなんかもそうですし、
3ヶ月チャレンジの体験者さんなんかもそうですし、私自身もそうなんだけど、体験してるんですよ。
これはどういう時にそういう事態に立ち至るかというとですね、
やっぱりこうなんていうんですかね、
よくよくこれもね、だからこうこの問題のややこしさは主体性は大事だみたいな話、
なんか主体性っていう言葉を使ってしまえばそれは自明のものみたいに聞こえるじゃないですか。
現代の子供たちには主体性が足りないとか言うと、
なんか主体性っていうのはコップに水を継ぎ足しするような感じで、
増やしたり減らしたりできるみたいな自明のものとして、
だからこう主体性がっていうことを盛んにおっしゃる方が、
割と自己啓発とか、
そういう子育てとかそういうところではポンポン出てきちゃうわけですよ。
その主体性ってどうしてあなたはモテるようになったのっていう問いが僕はあると本当は思うんですよね。
失礼だから問えないけど、
あなたのその主体性が自明なのは何なのみたいなところってあると思うんですよ。
で、これは結構実はセンシティブな問題だなって思うんですよ。
なんかない人悪い人みたいに言うけれども、個人主義の世の中だからね、
これがないというのは好き好んでなかったわけでは絶対ないはずなんですよね。
もう少しセンシティブに言ってもいいんじゃないかと、
世の中ではある種のことは偉いセンシティブなんだけど、
こういうことはすごい暴力的だなと思う時が時々あったりするわけですね。
なんか簡単に主体性言うけど、
あなた恵まれてたんじゃないのっていう感じがしたくはないことがあるわけですよね。
で、これもPSDに、私はもうほぼその文脈で実は考えてるんですよ。
この自分を待てるようになったっていう方だけがこの問題にはまってるわけでは全然ないんですね。
PSに我々はみんななることがあるように、自分がなくなることはみんなあると思うんですね。
自己評価とコミュニティ
で、その時間が長く続いてしまうということもやっぱり割とみんなあることだと思うんですよ。
ただ、それがメインテーマになるかどうかはさっきも言った通り別の問題なんですね。
で、やっぱり一番ですね、精神分析で藤山直樹さんも書いてるんですけど、書いてるんですよ。
自分がない問題っていうのは結構彼は書いていて、必ずそれは東映同一化の文脈と絡んでるんですね。
私もあれはすごくそうだと思うんです。
定義でもなくはないんだけど、やっぱり東映同一化の問題なんですよ。
で、東映同一化の問題というのはですね、3ヶ月チャレンジやっててわかったんですけど、
個人セッションやった以上は絶対出てくるんですよ。
意識してればですけど、東映同一化が現れません。
健全だから現れないセッションもあるんですよなんてことはないんですよ、はっきり言って。
絶対やるし、毎回やるぐらいに思っといたほうがいいものなんです。
ってことは、必ず自分が春梨問題もそこに意識のするしないはともかくとして、実は絡んでるんですよ。
なんでかっていうと、東映同一化が膨大に起きるときは、既に自己剥奪は完全に起きるからですね。
これはすいません、いかにも抽象的な説明をガッとしてしまって、
お前自分で言ってることがわかってるかって言われると困るぐらいで、
ましてこの皆さんにお伝えしてるからといって、それで理解されると思っちゃいけないんですけど、
もう少し噛み砕いています。
先ほどの体験談を書いてくださった方がせっかく書いてくださったことなので、
ここでは確実に起きたことなので、
プライバシーに関わるところは一切省いて、何が起きたかだけをかいつまんでお話すると、
これを書かれた方は、やっぱり体験談にも書かれている通りですね、
自己抹消感というのか、自己剥奪感というのが厳しい方だったんですね。
つまり自分が、なんていうのかな、自分がないんじゃないんですよ。
主体性がないとかじゃなくて、主体性を剥奪された経験が多すぎるというか、
難しいんですよ。自分を荒しめられなかったみたいな、あえて言うならそういう表現になってしまうんですね。
無理やり可能な表現なんだけど。
でもこれは、何度も言いますが、しばしば我々には起きていることなんですよ。
自覚はしていないかもしれないけど。
これを伝えるのがどうしてこう難しいのかというと、冷蔵庫の電気問題だからなんですよ。
消えているときはあるんですよ。ただ消えているときは見えないからね。
で、ついているときばっかり見てるから、わからないんですよ。
あるときはあるし、ないときはないんだけど、このあるなしが点滅するという体験を経ないと、
なかなかこう自分があるのかないのかみたいなことそのものを認識しにくい構造があるわけですよね。
で、たまたまなんですけど、この方はそういうご家庭だったということと、
自己消滅感というのかな、自己消滅欲、欲でもないんだけど、
そういうこう、うーんとですね、
我々一般で、世の中一般で言われると、私なんかがいたら迷惑でしょうみたいな表現がもっと厳しいんですけど、
まあでも世の中一般ではこの種の言葉としてよく通ってるやつなんですね。
これだけだったらたぶん、3ヶ月チャレンジなんかに参加されないと思うんですよ。
私なんかがいたらお邪魔でしょうとかってよく言うじゃないですか。
まあこれは日本人の謙遜表現でもあるんで。
ややこしいんですけどね、ほんとにね。
あのー、早く帰ってくれみたいなのを遠回しに告げるみたいな話とにだり寄ったりなんですよ。
でもそれは社交的な話ですからね。
そんなことで深刻に悩んで3ヶ月チャレンジで7万7千払いますなってことにはならないじゃないですか。
だからもっと深刻な話なんですよ。
なんですが、我々がみんな知っているという水準で言うと、
えーと、私なんかがいてご迷惑じゃないでしょうかみたいな話なんですよ、これは。
ここから始まるんですね。
で、その時、私なんかがっていう風に、私っていうのを認識、認識っていうかな、
強く意識してるじゃないですか。
これをもう少し進行させると、えーと、あなた方っていうのが主体と切り替わってくるんですね。
あなた方にとって、私という子の存在はみたいな。
私が第1位に出てこず、第2位になってしまうんですね。
あなた方主体で見るっていう、そういう、なんて言うんだろう、ある種の習慣なんだと思うんですけれども、
当然自己評価が高くはないですよね。
しかし、さっき言った謙遜というのとは違うってことなんですよ。
私なんかがって言ってる時は、その人まだ自己の中心、なんていうか、意識の中心に私ってものがちゃんとあって、
その、なんていうのかな、関係調整のためにこれをあえて言ってるっていうニュアンスがあるんだけど、
本当に言ってる通り、文字通り、私がいては良くないっていうことになってくるっていう時には、
もう私っていうのがそこに中心選手としてはいないわけですね。
あなた方の世界からすると、この存在はみたいな感じなんですよ。
ちょっと、あえて言うと難しくなってくるんですけどね。
なんとなくイメージをあげます。
意識の中心があなた方になっちゃってるってことなんですよ。
こうして私という意識は、フェードアウトしていって、なくなっていくわけです。
ある種、空間とかコミュニティの中で私はいないんですよ。いなくはないんですよ。
いるんだけど、あなた方っていうのが意識の中心に、その人の意識の中心に来てしまっているために、
私っていう意識が中心にはおられなくなってるっていう感じなんですよ。
だけど、普通に考えると我々は、我々はっていうのも変ですが、
ごく一般的な人は、意識の中心に私がいるのは自明だぐらいに思ってるから、なかなかこれがわかんないですよ。
でも、精神病ではないんですよ。神経症の10度の水準でこれは起きるんですね。
例えば、手を洗うのがやめられないっていうのがあるじゃないですか。
意識の中心が手になってるじゃないですか。私ではなくて。
私としてはもう手は十分洗った。もういい。
これもあえて言うと変なんだけど、こうやって手洗いをやめられるわけでしょ。
意識の中心が私だから、手洗いをやめようと思った時にやめられるわけじゃないですか。
意識の中心が手になってしまったら、やめられないんですよ。
まだ汚れてるかもしれないっていう、この気が済まないって、これは野井武夫さんの表現なんだけどね。
気が済まないというこの気持ちに振り回される。振り回されるって言うじゃないですか。
私はもう振り回されてるわけだから、振り回されてるものっていうのは終焉じゃないですか。
周りを回っちゃってるわけですよ。
中心は手なんですね。手が汚れているというこの意識が中心にあって、私というのはもうないわけです。中心。
つまり私がないというのは、私が中心、意識の中心にいないってことなんだと思うんですよね。
だからこれを待つわけです。私が意識の中心にやってくるのを待つって感じなんだと思うんですよ。
で、それをするために、その話となんで東映ドイツ科学関係するんだって話になるんですけど、
これはもうね、この事例を使わないと説明できないから、本当は事例使いたくないんだけど、使いますと、
つまりですね、自分が意識の中心にないっていう方が3ヶ月チャレンジに参加しましたってときは、
引き寄せられるようにいらっしゃってるわけですよね。
こういうことは別におかしなことじゃないですよ。
主体性、主体性いう人にしてみれば、いやいや、そんなんじゃダメだろうと。主体的に入るか入らないかを決めろみたいな。
でも、そんなことがたやすく決められる人が、わざわざ3ヶ月チャレンジとか、精神分析でもいいですけど、心理臨床なんか受けに来ないじゃんって語ることがあるわけですよ。
それにさっきも言った通り、そもそもその主体性の根拠って何なのっていう感じがここまで言われるとしちゃいますよね。
なんでもかんでもそんなに主体が決めてると言い切れるものなんだろうかっていうような感じがするわけですよ。
とにかくなんであれ、3チャレに引き寄せられるように来たときは、まだその方にとって3チャレとは何かとか、私がなぜ3チャレを必要としているのかとかいう、そういうナラティブにはなってないと思うんですよ。
だから、主相は大事ですとか、あるんだけど精神分析で。精神分析ではふわっと始めちゃうかもしれないけど、これはなんか最近では河合駿さん時代の負の遺産だってことになってるみたいですけども。
でも、初めて見ると思うんですけども、主相とか雷壇竜とか三河童貴とかいろいろ言いますけど、それは大事なんていうのはわかるんですけど、大事なんですけどね結局。
だけれども、なんていうんだろうな、そんなに主体的ではないんですよ、私たちっていう存在は。
主体性の探求
私自身がそうでしたもん。カウンセリングっていうものを、私は都合、正式のものを3回やってるんだけど、いずれもん時もやっぱりふわっとしてますよ結構。
ふわっと。絶対この主相直すんだみたいなんだったら、はっきり言って体の病院に行っちゃうんですよね。
やっぱり心の理由っていうのは、ふわっとするんですよ。主相を大切にするからCBTで、しないのは力動的だみたいな議論っていうのは、すっごくなんかわからなくもないけれども、ものすっごくざっくりしてるなって思いますよね。
非正規の私から見ても、そんなはずは絶対ないなって思います。絶対わかってない気がするんですよね。ニードをニーズに変えられないっていうのがあるんですよ。
だから私は結構私私した人間だし、主体性とか意識してたし、若い時とかはですね。今思うとこの主体とか言ってるものの大半は母親だなって思うんだけども、だから私なんていないじゃんって感じがやっぱりするんですけれどもね。
でも私は結構私私してるわけですよ。でもそういう人間だって大船とか言った時もそうだったんだけど、結局佐々木さんってなんで来たの?みたいな感じになったことがあるんですよ。なるんですよ、そういうことってやっぱりね。
そんなに長いこと通ったわけじゃないけど。その時に私はふと、なんでここに来たんだっけ?ってなりましたもんやっぱり。私がないんですよ、結構ね。
で、これを下手にその人が私にこれを問うたということはですね、私は排除され理論を刺激されないってことを知ってるんだなってのは思ったんですよ。つまり、佐々木さんなんでここに来たんでしょうねっていうのが、お前帰れよには聞こえない人間なんですよ、私は決して、はっきり言って。やっぱりその辺は私があるタイプなんでしょうね。
これが向こう側様主体で考えると、この問いを発したということは私ここに来ちゃいけなかったんだ、これ結構ありますよね。で、これがですね、私を待つっていうぐらいの方になってくると、ことが深刻に響くわけです。どうしたって。
で、ここに東映同意使ってものが、転移でもいいんでしょうけど大規模に発生するわけですよね。そんなことを私は、こういうことを書かれるぐらいの方にはさすがに言わないですよ、絶対に。
なんでここに来たんでしょうねとか、そんなことは言わない。それはもう臨床感覚みたいなもんで、私は臨床やってないと言ってこの言葉を出すのは非常に卑怯なんですが、臨床感覚みたいなもんで、私の常識感覚でもいいですよ。
だって、ある種の参加が非常に厳しいところならば、排除の理論は自然働くじゃないですか。私行ってた中学校は一応エリート校とされてたんで、排除の理論は働きやすかったんですよね。
勉強しないんだったら辞めないよみたいな、学校いくらでもあるでしょみたいな、そういうノリってありますよ。お前なんでここに来たのって問いは、こういうニュアンスを帯びやすいんですよ。これは我々が実人生でよく知ってることですよ。
そういう参加動機を聞いてるのかもしれないんだけど、参加動機を聞くってことはニュートラルでは済まないんですよね。排除の理論がそこに働いている可能性っていうのを見てしまう。センシティブな人であればあるほど見てしまう。センシティブでなくたって、私みたいな人間だって一応意識はする。
だから、カウンセラーがこれを聞いたということは、私はここに来る気満々なんだなということは、バレバレって言えなくはないわけですよね。だけど一方でですね、私のように来る気満々な人間は別に、またそれを自明のものとできるようなタイプの人間は、これはだからタイプなんですけどね、実は、そしてある種の心理状態なんですけど、私はいろいろな理由でそこに行ってたんで、興味津々だった面もいっぱいありました。
一方でですね、ここから私は参加者チャレンジなんか思いっきりそうなんだけど、参加者さんはどんな参加者さんでも一人でも多い方が、でもこの言い方も微妙なんですよ。そうすると別に私じゃなくてもいいじゃんってことになりかねない。
これはね、こういうやり取りをしてると酷くひでくれてるように聞こえるかもしれないけど、そういうことではないんですよ。あくまでも主体の中心に私がいるのかいないのかって話であって、主体の中心があなただった場合には、あなたにとってこの存在は必要なのかどうなのかということが、ある意味こうなんていうのかな、
やっぱり推測されてしまうというのも変なんですけど、推測ではないんですよね、これはね。そういう意識状態にあるので、つまり私というものがここである理由はなくなるみたいな、そういう感じになるんですよ。
もうちょっとわかりやすく言うと東映ドイツが働くんで、引き止めたいっていう気持ちは当然起こりますよね。私はその運営者なんで、これは絶対ダメですよ、引き止めたいという、これは起こりますよ絶対に、全参加者さんに必ず起こります。
だって結局のところ中断というものは、私にとっていいことは何もないわけだし、ビジネスという意味でもいいことは何もないわけだし、あと中途半端感っていうのがやっぱりこういう風な修了の仕方をすると出るんで、でもこの中途半端感は生えなきゃいけないんですけど、絶対出るんで、いずれにしても。
全員が全員継続はしてくださらないから、そして何かやり残していることってあるもんなんで、中途半端感出るんですけど、これも結構厳しいんですよ。不思議と厳しいんですよ。いや別にいいじゃんって思われそうなんだけど、そうではないんですよね。
やっぱり運営、この種のものを運営しているとそうなるんだなっていう、100日チャレンジってないわけじゃないですからね。いやーなんかもうちょっと伝えられた気がするみたいなのが心に残りますもんね。心残りってやつですね。
3チャレンジだったら私が1人でやってるから、100日チャレンジと違って複数運営ではないわけですので、ものすごい残りますよね。ある種の方が辞めてしまうと。
なので引き止めたくなるじゃないですか。しかしですね、猛烈に引き止めれば残ってくれるかもしれないけど、こうなるとその人の主体性を奪ってるじゃないですか。
つまり私が強く望んだから残りましたってことになると、その人の主体性はないことになっちゃいますよね。
でも一方で、だからこれが東映同一化なんですけれども、いやもうわかった、しょうがない、しょうがないです、認められませんから、で辞めました。
その人の主体性ないじゃないですか。私から見ればよ。結局のところこれは手放したから辞めた感っていうのが出ますよね。
どっちも選べないわけですよ。どっちも選べないということは私に主体性はないことになりますよね。こういうふうにして東映同一化が進行するわけですよ。
でもここまで考えてみると、一体私の主体性って何なんだって。今度は私の話ね。佐々木の主体性って何なんだと。
ある方が、いやもう言ってもしょうがないと思う。これはいろんなニュアンスがありますよね。私に対するクレームでもあるし、攻撃でもあるし、要するに事故撤退的なことなのかもしれないし、なんかいろいろあるわけですよ。
単に続けられない様々な所持状があるのかもしれないですよね。まずでもこれを投げかけられれば、引き止めたくなりますよね。反射的にもなりますし、その他いろいろな理由でなりますね。
でも引き止めるという行為をするってことは、相手の主体性を剥奪することになります。で、引き止めないということは突き放すというような意味になってしまうから、やっぱり相手の突き放してるのは私ですから。
だから剥奪することになりますよね。どっちも選べなくなった時に私というものが意味をなくしますよね。私のすることは何もなくなります。つまり私が消滅していきますよね。
佐々木が消滅していきますよね。佐々木が消滅しないと、相手の主体によってこの関係が持続したことにならなくなるので、この関係の持続をするためには私は消滅するしかないんだけど、私が消滅するのはダメですよね。
私はここに居残んなきゃいけない。だから結局こうなるんですよ。私はここにいるが、主体性は発揮しないってことになるんですよ。
参加者との関係性
同じ状態になるんですよ。こうなって初めて自分を待つってことの意味が出てくるんですよ。これって自分を待ってるじゃないですか。自分はもうどこにもないんだけど、自分を待つことになるんですよ。
自分を待つってことは、この場合は相手を待つってことになるわけですよ。これはもう感覚なんですよね。今これで十分上手く伝えているぜってのは少しも思わないんですよ。
これが少なくとも藤山直樹さんが仰っていることはこれだなという、投影同一化を処理することができたときに自分というものが立ち現れる感覚が出てくるみたいな、そういう表現をされるわけですけど、これって流石にこなれた表現だなとは感じませんけれどもね。
でもこういうことだなと思うんですよね。だから主体性なんてこの場合はもうほぼないわけですよ。ただただ、だって他にしょうがないんで。相手の主体性を奪うっていうのは意味が全くないじゃないですか。
この3カ月チャレンジである意味働く心を取り戻すのがそうなんだけど、主体性が主体性を大事にしましょうねって言ってるようなもんなんですよね。別の言い方をするなら。これを奪ってここの関係を強引に継続したところで意味がないですよね。
だからこれに意味を持たせるということをしたければ、結局のところ私が現れるのを待つしかないんですよ。私としてもですね。私が主体性を発揮したんでは、結局のところ相手の主体性はないも同然のものになってしまうので、なりかねないということですよね。
この時に参加する主体性みたいなものが発揮されるかもしれないってこと。でもそれはもう私のコントロール下に一切ない状態がベストなわけです。私のコントロール下にあるってことは、つまりその人の主体性が発揮されたということにはならなくなってしまう。
これが東映同一化の処理なんですよ。つまりなんですけれども、私というものが脱中心化されている人は、ご家庭でそれが当然だったんですよね。これをいくらそういうご家庭で見ても相手の自己というものは見えてこないんですよ。相手の自己愛しか見えてこない。
その人は主体、その人の親御さんとかですね、ご両親とかお家族とか何でもいいんですけど、を見ていても自己というものは立ち現れてこないんですよ。自己というものはですね、反射であってはダメなんですよ。
つまり、私がここにいる苦痛だっていうのに、なんていうのかな、その人が例えばいて、他の人が苦痛だとする迷惑だとするじゃないですか。だから排除しようとする。それは事故じゃないですよ。結局のところ。単なる反応ですよ。
私ができたかどうかわかんないですけど、投影同一化を処理するということはですね、投影同一化に巻き込まれている間はできないことです。
だから投影同一化に巻き込まれないようにしないといけなくて、私が存在しない状態になって相手のことをただ引き止めようとする。これはだから反射なんですよ。
手を洗うのがやめられないのと同じで、気が済まないから引き止めようとしているだけなんですよ。神経症なんですよ。だからといって、もういい、わかった、勝手にしてほしいっていうことを思ってしまう。これも反射ですよね。
私が主体性を何にも発揮したことには実はなってないんですよね。相手の主体性を剥奪しただけで、どっちにも主体はないことになってるんですよ、この場合。
やっぱりこれは神経症気味なんですよ。単なる排除の理論に振り回されたに過ぎないわけです。
だから私がどっちも嫌だと思って、どっちの反応もしたくないと思ったときに初めて、つまりどっちも嫌だっていうのは私じゃないですか。
こうやって私というものがなんとかここに生き残るっていう表現が出てくるんだと思うんですよね。なんとか生き残る。東映・ドイツ科の外になんとか存在するっていうこと。
そうしないと、やめないでください、になってしまうと東映・ドイツ科のど真ん中ですから。
で、これじゃない方は分かりました、やめて結構です。これも東映・ドイツ科の結末ですから。私はいなくなってるんですよね。
この東映・ドイツ科の外には誰もいないっていう状態が生み出されてしまう。で、これは実はこの参加者さんだけに起きることではないんですよ。
ほぼ全ての参加者さんとの間に、始まりと終わりにおいては少なくとも必ずある程度起きることなんですよね。
毎度毎度これやってるってことになるわけです。毎度毎度私は、私が私であるためには何をどう言ったらいいのかとか、あるいは何をどう言わなきゃいいのかとか、いろんなことを考えなきゃいけないんですよ。
自己の存在感
とにかく私が私であるっていうのはそういうことだっていう。ある程度、できてるかわかりませんよ。
ある程度、実現するためにはこういうふうなことが言えなきゃダメだろう、あるいは言わずにおけなきゃダメだろうってことがあるわけですね。
結構相当めちゃくちゃしくじってると思うんですけど、引き止めちゃってることもないわけじゃないし、
突き放したことはさすがにないけど、なんかもうなんつーんだろうな、心の中では手放すしかないんだろうかみたいなのに負けそうになることはちょっちゅうありますからね。
なんかもう、なんだろう、もう無理。何が無理なのか。黙っているのも無理だが何かを話すのも無理だっていう、つらいってんじゃないんですよ。
二重拘束感の中で答えが見つからないって感じ。そう、答えが見つからないって感じ。
何か答えを見つけなきゃっていう、この感覚もいけないんだけど、これもやっぱり問えどいつかだと思うんですけどね。
でもなんか答えを見つけなければいけないんだけど、なんかもう答えが見つからない。
適当にここで口走ると、いかにも反射的な言葉が出てしまうっていう。
でも黙っているっていうのも、なんか考えあぐねてるだけのような気がする。
ミニコットが言いましたよね。私がずっと黙っていれば、患者は私が何もかも理解していると誤解するだろうと。
だから解釈をすることで的を外して失敗して、失敗することによって私は患者の気持ちの外にいるんだということを知らしめねばならないみたいなことを言いましたよね。
そういうことですね。そうしないと私の主体性なんてどこにもないこと、私の存在もないことになるじゃないですか。
相手の人の意識の中にいる私が全てになってしまいますよね。
そういう状態がその人を苦しめてきているわけだから、何とかしてその外にいることをお伝えしなきゃいけないわけですよ。
だけどその外にいることを伝えるというのは大体しくじるんですよ。しくじりなんですよね。
こういうロジックなんだと思うんですよね。
で、それを待つんですよ。これが自分を待つってことなんですね。
現れて主体的に何かできることを待つみたいな感じなんですよ。
できないんだけど。できないんだけれども待つっていうことなんですよね。
で、これは何度も何度も言ってますけれども、ほとんど全ての参加者さんの間で起きていること。
読みようによっては今のところ3名の方に書いていただいてるわけですけど、どこを読んでもこの話は出てきている。読みようによってはね。
だから何をやっても遠いドイツから起きるし、どこを行っても自分問題というのはそこに立ち現れているものなんです。
それはまあ僕は疑いの余地はないと思っているんですね。一応。できてるかは別ですよ。
巻き込まれて自分どこにもいないなっていう時もないわけではない。というか結構ある。
それはもう私がそれこそ未熟だからか非正義だからかっていうのはもうエクスキューズにもならないのかもしれない。
外人支援では絶対あることなんだよこれは。ないってことはおかしいんでロジカル的になりたたない。
1回目にはまあこういうことはなかったってことが仮にたまにあるにしても3回やれば絶対あります。
10回やればないんだったとしたら排除してるだけですよ。きっと。
というような話でして、うまく伝えられたという気はしません。気はしませんけれども、
このことを体験談として語られたということは私は何かやれたんだろうなっていうそういう一種の達成感というか、
こういうことができることはあるんですよっていうことが大概PRになると嬉しいですよね。
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