2022-05-26 31:47

【605GMV】どうして自分に自信がないという人がクレームをつけるのか?

隣の乗客の鼻を啜る音にイライラしちゃいますか?
00:05
おはようございます、グッドモーニングボイスです。
6月4日に、たじばなたけしさんとノーセカンドライフというブログで有名になった方だと、私はそういう認識でいるんですが、
時間管理術と情報発信に関するクロストークというものをやります。
今の段階で、私が喋りたいなと思っているのは、時間管理の方は言わずもがなでスクシュートなんですが、
特に言ってほとんどいないんですが、割り込みと言われているテーマについてから入ろうかなと思っています。
長期計画のプロジェクトを進行させていく中で、ちょいちょいいろんなものが入りますよね。
その間に、グッドモーニングボイスもそうですけれども、その他様々なものが間でやっていかなければならない。
こういう観点を取るから、話がおかしくなっていくんじゃないかなと思うようになったんですよ。
長期計画は依頼の中では例外的な存在であって、こういうものをやっている中で毎日いろんなリピートをやるというふうに、
今までずっと考えられてきていた気がするんですが、
どっちにしても同じだと言われるかもしれませんが、最終的には逆で、
最近私はこういう観点を全く持っていないなと思ったんですよ。
毎日やっていることの一つとして、長期計画のこともやる、リピートタスクもあるという感じのほうが、
私の感覚にぴったりくるなと。
この観点をなぜ持てないかというと、長期計画だけは締め切りが今日や明日ではないからなんですよね。
ただそれだけなんですよ。
だからいつもこれに間に合わせるのを最優先させなければいけないというふうに考えて、
時間的、技術的リソースというものをどう分配するかという話になるからカツカツになっていく感じがするんですよ。
この観点も人と働いている以上、時々やったらいいと思うんですけど、
こればっかり気にしているという話になりがちなんですよ。
それはおかしいと思うんですよ、最近。
そんなふうに僕はやってないんですね。
03:00
そんなに遠くに締め切りがあるものを、遠くに締め切りがあるからこそ足りなくなって不安になるという話なんですが、
はっきり言って足りなくなる人はいつも足りなくなっているような気がしますし、
足りている人はだいたい足りているんですよ。
なんでこうなるんだろうと思った時にカツカツになるような逆算をしなきゃいいじゃないかと。
この話をうまくできればいいなと思っています。
もう一つの情報発信に関しては、
これがまさに一応情報発信なんだけど、
これは人それぞれだと思いますが、
私は今、自分のプロフィールを発信する。
自己発信って僕が言っているものの一環ですが、
自分のプロフィールを発信すればそれで一言足りるんじゃないかなと思います。
それは情報として見てくれる人にとっては情報だし、私のプロフィールが情報だということですね。
そうじゃない人にとっては、
たぶん全く意味がないからだから情報って話になるんだと思うんですよ。有益な情報。
でも有益な情報というのは、発信者が有益だと思っている情報なので、
それ自体私はプロフィールと判断するんですよ。
例えばこのポッドキャストの撮る手順とかが有益な情報だという人もいるでしょうけれども、
そんなことを言えばですね、私が何をやっていたっていうプロフィールも、
必ずセミナーでは、例えば研修とかで最初に言ってくださいって言われるんですよ。
私はそれを最初に言うほど価値があると思っていなかった時期が長くてですね、
なんでこれを最初にそんなに言うことを真剣に主張されているんだろう、不思議だって思っていたんですけれども、
そういう話もしていました。
これ情報なんですよね、つまり。
受け手にとって価値があるかどうかは受け手が決めるものだという言い方をするならば、
基本的にはまとまりのある意味があってまとまりのある内容は何でも情報だと思うんですよ。
そうすると情報発信だから有益で、そうじゃないものは有益じゃないという理屈は全然成り立たないだろうと。
昨日ロッテは負けましたけど、それはなぜかというと、
小島っていうピッチャーがいいピッチングするんだけれども、
これで0勝5敗なのかな、勝てないんですよね。
勝てないピッチャーっていうのは、いいピッチングを最初はしてるんだけれども、
そのうちやはりどこかで力尽きてくるのか、
いいピッチングもできなくなって本当に勝てなくなるという傾向があって、
今年は結構厳しい年になっているんですが、
このような情報はですね、いらない人にとっては全くいらないじゃないですか。
今聞いててめちゃくちゃ退屈だなと思ってた人はいると思うんですよ。
でも劣機とした情報でこれへの注目度はですね、
少なくともこの千葉ロッテマリンズみたいに必ずしも人気球団でなくても、
私の精神分析の情報よりははるかに欲してる人の数は多いわけですよ。
06:02
だから情報発信などといっていて、
ライフハック出してるとかタスクシュート出してるというのは、
その時点で世の中の情報価値から見ると高いわけじゃないんですよね。
そういう考え方を考えてみるとですね、
情報ならば価値があるというのは相当汚くさい主張で、
その情報に価値があると思っているのは、
基本出している人間だけだと思うべきだと思うんですよ、今のような時代は。
それにもかかわらず、
なぜかその情報を欲する人というのは一定数以上いると。
今、私がちらちら追っているログシークという情報について
熱く語っている一派がありまして、
大変私はああいう話が好きなんですけど、
あれが有益な情報だというのはどうやって決めるのかという話なんですよね。
多分ロッテの情報よりもはるかに情報価値が
人間の数×動くお金で言ったら低いですよ。
私はロッテの情報だってジャイアンツの情報とかに比べると全然低いと思いますし、
こういう観点で情報発信ってできないと思うんですよね。
という話をちょっとしようかなと思っています。
それで、今日はそういう話ではやっぱりなくて、
ちょっと考えたんですけれども、先日ですね、
これはもう私は明らかな話であったんですけれども、
あとは話すアプローチ次第だなと思っているんですが、
自己肯定感が低いというふうに感じていらっしゃる方は、
非常にいろんなものに対して批判的であると。
これが当人にとっては至って自然なことなのに、
他人から見るとなかなかなくて、
自分自身にとっては、
自分に自信がないと言いながら、
人を批判しているわけなので、
自信がない割には攻撃的だなと他人は思ってしまう。
これはもう他人の観点からすると明らかなと思うんですね。
でも私もこれ昔から不思議だとは思っていたんですよ。
なぜなら批判される側だから。
セミナーやるなり、本書くなりして、
極めて厳しく言ってくる方は、
対して私は自己肯定感が低いというのがセットでついてくるんですよね。
そして現にお会いして話をしてみたりしたこともあるんですよ。
そういう経験を持つとますますその感を強くして、
この人はこの自信のなさの感じは仮面なのか、
それともこの自信のなさが素であり、
この自信のなさゆえに批判的なのか、
そして結論としては後者だなと。
つまりこの自信のなさゆえに批判的なんだなと。
他人から見れば本人にはそのつもりはないんだということがわかったわけですよ。
09:03
これはあちこちで言われていることなので、
あえてこの番組で言うほどのことでもありませんけれども、
この番組にはこの番組なりのコンテクストがあるじゃないですか。
甘えだの、ニードなの、そういったドイツ課だのね。
そういった観点で見ると、
だいたいやっぱりそういうふうに説明はつくんだなというのを
今日はお話ししたいなと思いまして考えておいたんですね。
珍しく考えておいたんですよ。
考えておくとだいたいいい結果は生まないんですが。
だいぶ前のことなのでもう時効だと思ってですね、
もし万が一これを聞いている方が、
それはその事例を出されちゃうんだという、
思い当たることがあったらですね、
自己自分のことじゃないものだと思ってください。
もう数年前のことですから。
私は別にもう気にしていないんで、
この話をするときどんな事例、どんな事例出しても、
私たちに批判が向いている話だから、
いい話にならないんですよある意味。
でもそういう事例がつくってもいいんですが、
つくったとしてもですね、
結局誰かの心当たりがあっちゃう時もあるじゃないですか。
つくり話なのに。
それ私のことだと思って誤解されてしまう人もいると思うんですよ。
だからこれは誰のことでもないと思ってください。
セミナーでやっててですね、
意外だったからやっぱり覚えているんだけれども、
ドアの近くに座られた方がいらっしゃったんですね。
ほんとだいぶ昔です。
今ではあの会場でセミナーをやることは全くなくなりました。
そのドアをですね、開閉する音がものすごく鬱陶しかったという、
お叱りのクレームをいただいたんですね。
大変その方は自己肯定感が低いということを、
別の参加同期の中で訴えられていたんですけど、
なおその我々、私結構心理学系やってたから、
そういう話もちょいちょいいただいていたにせよ。
その話ってタスクシュートでしたからやっぱり。
自信がないかどうかってそれほど重要な参加同期じゃなかったと思うんですよ。
でも自信がないことが大事で、
しかもドアの開閉について運営側に厳しく問い正すと、
読めるというかそういう訴えがあったように感じたわけですね。
これが私には意外だったわけです、当時としては。
まずその自信のなさと内容の不一致感があったわけですよね。
自信がないという割には厳しいだと。
ただ一方で、そして同時にドアの開閉というものって、
その日も確かに音するんだけれども、
それだけドアに近いところに座ってしまったら、
それはまあそういうふうに思うかもしれませんが、
12:01
仕方ないよねと思ったんですけど、当時はその程度だったんですよ。
でも今思うと違うなと思いまして、
違うなというのは今言った通りなんですけど内容としては、
この自己肯定感が低いということはニードなんだということがよくわかるんですよね。
自己肯定感が低いということは不愉快だということじゃないですか。
通常自分でいるわけですから人は。
自分が自分であることに不快感を感じるということですよね。
それを言ってみれば、自己肯定感が低いってあまりにも抽象的で、
実は何を弱んとされているのか分かりにくいんですが、
自分が自分であることを肯定できないということは、
つまり自分は自分でなくなりたいという意味ですよね。
ここからはちょっとややこしいんですけれども、
自分が自分でなくなりたいとき、人は他人になりたいんですよ。
これが同一化に走りやすい私たちの心理を作り出すものなんですね。
ちょっとややこしいですね。
私たちは他人に会うとある程度は同一化したいんですね。
それが集団となってくると、
この同調圧力と言われているものはこれなんだと思うんですね。
私は先日も言った通り、
藤畑海斗さんのオンライン講義を見たんですよ。
そしてほぼ確信したんですよ。
おそらく霊長類というのはそういう生き物なんですよ。
同一化したいというほぼ本能的な欲求を持っているんですね。
これを仮定しないと、この日の話は見えてこない気がするんです。
群れ対私である群れ、群れ、集団、社会、村、対私といったときに、
この関係がニュートラルであると仮定してしまうと、
一体何のために同一化なんてしたいんだよということになるでしょう。
そうじゃないんですよね。
もう同一化したいというのは空気を吸いたいみたいな本質的な欲求の一つであって、
だから同一化に向かってしまうんですよ。
それをとどめるとか、自己の個人的な独立精神が足りないとか、
そういった話ではないと思うんですね。
あるいはあえてわざわざ独立精神が足りないとか、
個人主義でなさすぎるとか、日本人はとか、
そういうことを言い出すということは、
これが社会性というものに向かいたいというのが本能だと言っているようなものだと思うんですね。
あえて頑張って拒否しない限り、
そんな独立精神というものをそこまで強く打ち立てられないんだと思うんです。
それがシンパンジーの甘噛みという話にはよくよく表れていると思うんです。
わざわざ手を差し出して、腕とか手とか引きちぎられる恐れがあるのに、
そういう恐れがあるにもかかわらず甘く噛んでもらうということで、
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相手に受け入れられていることを物理的に証拠立てたいわけじゃないですか。
何のメリットもないじゃないですか、そんなの。
まさにそれは本能的な欲求ですよね。
ご飯を食べたいのとほぼ変わらないレベルの気持ちなんだと思うんですよ。
我々も多分そうなんですよ。甘噛みとかはしないにしてもね。
受け入れられていないと思うと大変なんですね。
だからどうしても私たちが他人が面倒くさいと思うのは、
他人に近づいていただけで私はそっちに同一化したくなるという気持ちが、
多少は働くせいだと思うんです。
ここで、いやいやいやこいつに同一化するなんてとんでもないからって思うわけでしょ。
人を軽蔑するとか小バカにするってそういうことじゃないですか。
面倒くさいと思う人に同一化したいと思う理由はないですよね。
だけども本能的には同一化したくなってしまう。
そこを引き留めなければならない自分の精神的な苦労が面倒くさいんですよね。
人が喋ってると、例えば今で言えばそうだな、今で言わなくてもいいんですけど、
少し前で言えば政治的な話とかだったらそうですよね。
だから政治の話って嫌われるんですよ。
稲葉さんという方が国会のルールっていう本を電子書籍で書いたので、
今度見ていただきたいんですが、あそこにも書かれてます。
政治の話をすると稲葉隆一さんなら、政治の話をするというのは面倒くさがられると。
それは自分と違う政治的な主張とか、あるいは自分と同じようなのでも同行して、
つまり温度差ってやつですが、同行していると思われるのを小裸に喋っている人に、
つい同一化しそうになる自分ってのは必ずいて、これは本能的なものとして、
いやいやこいつに同一化するわけにいかないよと、
いわば犬がそっちに行きそうになるのは首に岩をつけてぐいぐい引き戻そうとする。
これが面倒くさいんですよ。
だから多分同一化というものが自然と働く以上、対人関係案は面倒くさくなる可能性を秘めると。
そしてここで自己肯定感という問題が出てくるんですよね。
ぐいぐいと犬が行こうとするのを引き留めると。
引き留めるのはいいんだけど、どこに引き留めますかっていうことですよね。
これが先日言ったやつです。どこに引き留めるって自分に引き留めるに決まってるんですよ。
ところが自己肯定感が低いという人はこの力が弱いわけですよね。
ついつい引っ張られそうになっちゃうんですと言ってるんですよ。
このついつい引っ張られそうになるけど絶対にここに行きたくないぞって思う人は、
ここでの苦労が大きいですよね。
人は人で自分は自分だと言える人っていうのは、
このグッと行きそうになるのを引き留める力が強いんですよ。
なぜなら自分が自分に同一化しているから、
人に同一化してしまいそうだという力よりも、
自分が自分である、あり続けるという方が良いだから。
これが自己肯定感が高いという意味ですから。
18:00
低いということは、そんなに好きでも尊敬してるわけでもない他人にも
どんどんなってしまいそうになりますと、
つまり自分がなくなりやすいですって言ってるわけですよね。
ここでですね、自己肯定感が低い人とクレームの問題というのが出てくると思います。
すっごいややこしいアプローチの説明じゃないですか。
でも私は多分こういう説明の仕方をする前に自分で納得できないから、
こういう説明が好きなんでしょうね。
自分が自分であるということが容易であればですね、
戸がバタンバタンとやたらと横で閉まるのはそれは不愉快ですよ。
だけれども、その不愉快さがあったとしてもですね、
自分が自分であるという方に、
自分が自分であるという方から同一化というものがどんどんいかずに済むという人は、
不愉快なだけで済むんですよ。
ところが、つい同一化してしまいそうだとか、
あるいはもともと自分が自分であるのは嫌だから、不愉快だから、
他人になってしまいたいという願望を密かに通常抱いている方はですね、
強く期待します。
セミナーなりに行ったら、私に同一化ができるかどうかを強く期待する。
その時はおそらく大橋哲夫さんも一緒にやっていたので、
大橋さんに俺はなれるだろうかと、強く期待します。
あるいはそういうふうに期待してみたにもかかわらず、いやいやなれないと。
こいつらは平気で聴衆をドアがバタバタというところに座らせて、
セミナーをするような連中だから、
私はこの人たちになるわけにはいかないんだって思うはずなんですよね。
こうして批判というものを繰り出さずにはいられない気持ちというのが
作り出されるんだと思います。
この人たちになりたいんだけども、なるわけにはいかないと。
そこで、同一化してしまうという程度が強いんですよね。
強いというのは、後に何にも残れないという意味です。
簡単に言うと、さっきの比喩で言うと、犬の縄を離しちゃった状態になっちゃうんですよね。
普通の集団なりセミナーなりで自分が受け入れられているという感じを持つ人というのは、
いわばこの縄が伸びていく感じなんですよ。
自分が自分なんだけれども、一定程度の同一化を果たせる。
これが現実的ですよね。
だって私や大橋さんには慣れないわけですから、慣れてしまったら怖いじゃないですか。
その人本当にいなくなっちゃいましたみたいな。
その本当にいなくなってしまうのが乖離であるだろうし、
統合失調の位置形態なんだと思うんですけども、
普通そこまではまあいかないにせよですね。
やっぱり程度の差はあるわけですよ。
21:01
縄を離してしまうぐらい同一化を求めている人は、
まずその同一化への希望を完全に満たすわけにはいきません。
当然のことです。
子供はウルトラマンになることはできない。
なったと思い込むことはできても、なることはできないです。
忍者とかにもなれないです。
忍者になりたがる人は世界中に子供がいっぱいいるみたいなんだけど、
やっぱり忍者にはなれないわけですよ。
大人になったとしてもこの種の問題というのは常にあって、
だから自己肯定感が低いという人が
信仰宗教に狙われやすいというのは当然のことなんですよ。
教祖様になりなさいって話するわけですよね。
本当になりたいと思うわけですよ。
自分が自分でいることは嫌だから。
なるべく他人になってしまいたいと思う人は、
そしてそれは永遠に果たされることはないので、
そういった宗教が一定程度の力を持つということは可能なわけですよね。
ずっとなろうなろうと頑張るんだけど、なりきれないと。
そしてそこまで行く手前のところにある方にしてみるとですね、
不満が続出するわけですよ。
なれないところは全部不満ですよ、ある意味。
だから私の考えでちょっと納得がいかない。
こいつはフロイトなんかが好きだ、ここはダメみたいな。
そこにクレームが出るはずだと思うんですね。
強く自分が左先なりになるというわけにはいかないにしても、
ほぼ左先になったぐらいに思えるというところまで持っていったら、
さらに自分は気分が楽になるだろうと思われている人にしてみれば、
ということは逆に言うと、そこにノイズがあっちゃいけないわけです。
自分にとって完璧に望ましい。
だって自分が自分であるのが不愉快なんだから、
愉快になるということが目標であるならばですね、
やっぱりそこにノイズはゼロであればあるほどいいわけですよね。
相手になりきるということを考えたときに、
ここはダメだ、そこもダメだというのは耐え難いものがありますよね。
そういうところがいっぱいあります、残念ながら。
対外外して、人間、私なんか特にそうですけど、
不十分なところがいっぱいあるので、
まして相手の方の価値観からしてみるとですね、
その価値観はご両親なんだけど多くの場合、
それは当然やっぱりなりきれないわけですよね。
ミニゴッドが言った人間というのは究極的には孤独なものです。
そういうことを言っているんですけれども、
そういうことをややこしい言い方をするから分かりにくくなるんだけれども、
でもこの話、ややこしいですからね。
我々はある程度、面と向かったり所属している集団に染まりますが、
つまり染まるわけです。
同一化します。
例えば私はある程度、日本人というものに同一化しているわけですよ。
24:02
それが何を意味するのかよく分かんないんですけれども、
しかし、この人は日本人以外の何者でもない人間だという人はいないんですよ。
そういうことはできないんですよね。
だから同一化というのは、
どこか必ず欲求不満な部分を残すはずであって、
そこに我々は同一化しきれない、つまり甘えきれない部分というものが
自覚されなきゃいけないというのが、
現実的な状況です。
自覚されなきゃいけないというのが、
現実的な甘えという話になってくるんですよね。
ドリタケオさんが言うところの、
現実的に甘えられるようになれば、
人は自立できるという言い方になるんだと思うんです。
それはつまり、いろんなところでいろんな同一化をするんだけれども、
そのとき自分がなくなっちゃったり、
完全に見失っちゃったりはしないと、
そしてまた見失いそうになったという不快感で、
爆発しそうになったりもしない、
こっちが問題なんですよ、ほとんどの場合。
自分を完全に見失うということは、ほぼないことだから、
どちらかというと、見失いそうだとなったときに、
こんなやつに同一化するわけにいかないといったときに、
強く絶望して怒りを誰かにぶつけるとか、
そういうことになるわけですよね。
戸がバタバタ言う、放置している、運営側。
運営側と、グッドバイブス流に言うならば、
運営側とその人がここで分離されたわけです。
この分離を強く打ち出さないわけにいかないわけですよ。
運営側、私たちのセミナーの運営側というものに一体化するべく、
そういうふうに思っていないですよ、来る前は。
でも、そういう期待感が極めて強くある。
そうして、セミナーにやってきて、
強い期待を持ってやってきて、
ついにここに私というものを、
どういうんですかね、
同一化させて、
この嫌な、現在あるがままの自分という、
到底肯定するわけにはいかない、しょうもない、
なぜそういうふうに思われたのかわかりませんが、
そういうふうに思った、肯定できない私というものを脱却して、
同一化する対象というものを探し求めに行ったにもかかわらず、
戸がバタバタ言うのを平気で放置している。
結局それはですね、
今日もダメだったかという気持ちを生むわけじゃないですか。
その失望感は大変強い行き通りになるし、
またここさえ何とかしてくれれば、
もしかすると私はこの運営側とも、
同一化できたのかもしれないという、
そういう独特の後悔を残しますよね。
これはやっぱり一言言っておかなければいけないだろう、
という話になるわけです。
だから自信がないということと、
一見したところ他人に厳しいということは、
十分に両立するんです。
これはでも他人から見た場合です。
この人の勝手に言われば今の話、少しも厳しくないんですよね。
27:01
少しも厳しくないと思うんですよ。
自分自身であるということはとても辛いんだと、
そういう多分過去もあったわけですよ。
必ずしもその人のせいじゃなかったわけです。
そして遠バタバタさせることを何とか言うことくらいは、
誰に言われなくてもできそうなものだというのも、
そんなにおかしな話ではない。
何よりも大事なのは、これさえなければ、
私は今日のセミナーで本当に楽になることができたはずだ、
という後悔があるわけです。
そしてセミナーって残念ながら、残念ではないな。
セミナーとはそういうものですよね。
つまり、あなたはこれに来るととてもいいことがありますから、
ぜひ来てくださいって言ってみれば、そういう告知をしますよね。
だってそういう告知しないセミナーっておかしいですよね。
だからそういうことを歌っておきながら、
私はそういう満足が得られなかったし、
その満足を得るために必要とされそうなことは、
些細なことだったんだ。
だからむしろあれって言わなければいけないという話なんですよ。
運営側にしてみればですね、
運営側というものがあるとしたら、
そういう些細なことは実はいっぱいあるから、
全部をその人のために完璧に叩きつぶしておいて、
スイートルームを用意するみたいなことは当然無理なんですが、
当然無理だという現実があちらこちらにあるわけです。
非常に単純な話をするならば、
今のような構図を、
精神分析でやることですけれども、
自覚してもらえればうまくいくんですよ。
ということはこれを自覚するまでは、
大変な不快感というものを、
必ず精神分析とかの世界ではですね、
たぶん1度や2度では済まない、
100度、200度経験する、
その中でだんだんわかってくるわけですよね。
この犬の手綱をパッと離したとしても、
決して自分は理想的な他者というものになることはできない。
これ言葉で言うだけならば、
誰でもすぐわかっちゃうんじゃないですか。
つまりこれを言葉で言われれば、
すぐ納得できるならば、
精神分析で1回で終わっちゃうんですよね。
これ言って告げてやればいいじゃんって思われるかもしれないですけど、
これはよっぽどうまく告げたとしても、
無理なんですよ。
一番ベースにあるのは、
自分が受け入れられていないという不快感、
それは自分で自分を受け入れていないという事情によるんだけれども、
その不快感がベースに、つまりニードがあるんですよ。
ニーズが必要なんですよ。
提供されるニーズがですね。
ところがその提供されるニーズっていうのは、
自分でしか提供できないんですよ。
手綱を離さずにいるという、
これが自分が自分であること、
これが自分が自分である部分がどこかに必ずあるという、
それを最後の取り出しにするんですね。
これをやれれば、
30:00
つまりこれがその人にとって必須のニーズであって、
手綱を自分が握ってるっていう自覚を持つっていうのは、
その人にとって一番不愉快なところから出発してるじゃないですか。
自己肯定感がないんだから、
自己を肯定できないわけですから、
手綱を最後まで握りしめて、
自分が自分であるというのは、
自己を肯定するっていうことですから、
ここのところの矛盾が、
いろんなところに行った時に、
些細な不快感というものに、
いちいち引っかかる、
大きな理由というか、
唯一の原因になっているわけです。
私も若い頃、よく不思議に思いました。
例えば、電車の中で横のおじさんがずっと鼻をすってて、
めちゃくちゃイライラするとかね、
あれはそれなんですよ。
そうは思えないですよね。
鼻をすするのをやめてくれればいいのにって、
つい思っちゃうじゃないですか。
これがクレームですよね。
言ったことはないですよ、私も。
一応、これでも。
ただ、それは同じことなんだという意味です。
これは全く気にならなくなっていいはずのことなんですよ。
自己が十分肯定できていれば。
でも、そういう結論になりにくいですよね。
そうは思えない。
私もそうは思いませんでした。
自己を十分肯定できていれば、
鼻をすするおじさんのことが気にならなくなるはずだ。
という理屈に至れるようになるには、
やっぱり20代ではちょっと難しい。
30代でもほぼ無理で。
今に至っているわけだから。
しかも、今それが確実にできているかというと、
なおまだ難しいところがあるから、
50代かなという不思議なんですけどね。
この程度のことがといえば、
その程度のことなんだけれども。
31:47

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