それでもやってはいける。
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感想
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サマリー
この放送では、AI時代のカウンセリングというテーマのもと、話し手が自身の活動やSNS利用、そして人間の「本音」や「偽りの自己」といった心理的な概念について深く掘り下げています。特に、AIとの対話を通じて「無駄話」を楽しむというユニークな使い方や、SNSの炎上現象について考察しています。また、人間の心理における「本音」と「建前」の境界線の曖昧さや、それを理解しようとするカウンセリングの難しさについても言及。具体例として、別れた相手への怒りから生じる夢や、幼少期の母親との関係における「インビジブルX(不可視のX)」と呼ばれる心の痛みに焦点を当て、予期と現実の不一致から生じる絶望感が、実は誰もが経験する「ありきたりの不幸」であると結論づけています。 話し手は、AIに文章を書かせることよりも、AIとの無駄話に価値を見出し、そこから気分を高めるという独自の活用法を提案しています。また、人間関係における「本音」は常に隠されているわけではなく、社交辞令や表面的な行動にも本音は含まれていると主張。さらに、カウンセリングの現場でクライアントの言葉に「ついていけない」と感じる状況は、クライアント自身が「ついていきたい」と思っている証拠であり、その根底にある「心の痛み」を理解することが重要だと説いています。最終的には、予期と現実の不一致は避けられないものであり、それに直面しても「ありきたりの不幸」として受け入れることで、私たちは現実を生きていくことができると語っています。
AI時代のカウンセリングと自身の活動について
おはようございます。AI時代のカウンセリング第1349回をお送りします。
今日は早いな。5月7日木曜日、7時14分です。
ゴールデンウィーク明けですね。
これまでですね、ゴールデンウィーク中ほぼ全く、一回もやってないかな。
お久しぶりです。
もう3ヶ月チャレンジも第14期に突入しまして、おかげさまで順調というのは変ですが、何をもって順調というのかっていうのもあるんで、
でもこの様子なら、しばらくはまた3ヶ月チャレンジというのは、新しい展開はないんだけど、何か考えて進めていくことができる。
考えて進めるというのは、もはや僕の活動の全活動で目標とする基本中の基本ですから。
幸い最近3ヶ月チャレンジを意識した。意識したって言っても、だから何であるっていうのではないんだけど、意識したノートも、ノート記事ね。
実はあれサブスタックに書こうと思ったんだけど、サブスタックに書くというのは意外に僕は別にやりたいわけじゃないんだなということをやってみて即わかったので、
サブスタックには多分何かまた思い出したいに書いたり書かなかったりなんでしょうけど、
ノート記事はノート記事書きたいっていう気持ちはもはやあまりないんですよ。正直言って。
ただ、一つにはやっぱりタスクシュートのアップデートについての告知をしていく場所は僕なりには必要であろうと、自分の仕事からして。
もう一つは本書いたりした時のやっぱり著者なりのいい文というものがあったりするんで、それも必要であろうと。
で、Xも今長文書けるんで、もういいんじゃないかXでと。別に僕はあそこで課金したいとか思ってないから、思ってないんだなということが自分でわかったんで、
いいんじゃないかXでと思うんですが、どうもやっぱXというのはですね、いろんな意味で癖強いですよね。いろんな意味でね。
ツイッター時代はいろいろ言われていたけど、それなりに愛されていて、Xになってからまた独特の。
ただね、何がいけないのかについては、いろいろ意見が割れてる気がするんですよね。
なんかイロンマスクがいけないという人もいれば、インプレゾンビがいけないという人もいるし、政治的な話があって殺伐としているという意見もあれば、
人が多すぎるとか少なすぎるとか、課金に向くとか向かないとかですね、いろんな意見がありますけど、
それ全部なくすSNSってつまり人が来ないSNSなんじゃないかなという感じもするんですよ。
おそらくそうだろうと。だって殺伐としてなくてインプレゾンビもいなくてイーロンマスクも関係ないということになると、
今はメタと言われてますが、要はFacebookとかになるじゃないですか。人いないじゃんって感じがするんですよね。
人がいなければ殺伐としないし、炎上もしないし、政治的なことをしゃべってる人相変わらずいらっしゃるんだけど、もちろんイーロンマスクもいないしね。
でもあれがいいかというと誰もそれ面白いと思ってないからそこに誰もいないわけじゃないですか。
ということはつまり人が集まるとはそういうことなんだよって感じもしますしね。
ノートはちょっと違う風景になってますけれども。
ノートはXみたいに単分あそこに置く気になるかというと僕はならないんで、
SNSについて僕が語ってもしょうがないんですけどね。
僕はSNSについて詳しくもなければ詳しくなろうともしていないんで、
SNSについて僕が語るというのは全く意味がない、野球詳しくない人が野球語るぐらいの意味しかないんで、それはそれでいいと思うんだけど。
まあまあそんなわけでですね、ノートの記事を書こうかどうしようかっていうのは時々出てくるんですけど、
基本書かないぞって僕は思ってるんですよ。
特に理由はないですけど、書く意味がほぼ全くないなって感じが僕は今はするんで、
でも動画をやることにのみおそらく意味があるんだと思うんですけど、
その動画をやるのは僕は大変苦手だと聞いているってやってみてよくわかったんですよね。
ああこれ苦手だなという感じが非常にするんですよね。
ギリ以外ではやらないんですよね。ギリだったらやるんですよ一応。
誰かを応援するとかタスクシュートクラウド2を応援するとかそれはわかるんですよ。
でも自分自身のやりたいという気持ちがあるかっていうと全くないんですよね。
だからあれをやるとものすごく仕事感が出ちゃうんで、仕事感が出る以上お金欲しいじゃないですか。
でもお金は入ってこないんですよね。いくらYouTubeやっても。
だからただ場だらけをやるための努力みたいになってきて、
これって何のためにやってるのかと、せめて関係者が喜んでくれるんならいいんだが、
関係者は誰も僕がYouTubeやって50再生とかを見ても嬉しくはないと思うんですよね。
こうなってくるとさすがに暇を持て余しているとかならまだいいんですけど、
残念ながらあんまり暇ですらないときているので、
でも私のポッドキャストは似たり寄ったりなんですけど、
就勤できてるわけじゃないし、何かのCMとしても十分機能もある。
ただ僕はこれはやっていること自体は楽しいんで、そこがYouTubeとえらく違うんですよね。
取手出しなんですけどね、これもね。
でもこれ聞いて3ヶ月チャレンジやりましたという方はものすごい比率的には高いんで、
やっぱりこれはやめるわけにはいかないなという感じはするんですよ。
やってて楽しいというのがないと僕はそれでもやめちゃうんですけど、多分これはですね。
つまり仕事じゃないと思ってますから、はっきり言って。
仕事だとは全く思えないんで。
私本も義理じゃなければもう義理はあると思ってるんですよ。
例えば特定の人間じゃなくても出版社業界に義理はあると僕は勝手に思ってるんで。
出版業界のおかげで僕の仕事成績が成り立ってきたようなところ多々ありますからね。
直接の印税のお金でなくてもね。
だから出版業界には義理があると思ってるんで、
その誰かから話しかけられれば基本的に話は絶対聞くっていう。
話から拒絶したってことはよっぽど妄想されていたときは別かもしれませんけど、
基本ないはずなんですよね。
だから150人ぐらいの編集者さんと会って話は伺ってると思います。
3回に1回ぐらい企画が成立しているって感じなんで、
多分そんな感じかなと思ってるんですよ。
全然話が荒の方向に行き、しかも話そうと思ってもないことを相変わらず話してますね。
SNSの特性とAIの活用法
本題に行きますと、
だから最近ゴールデンウィークで、
ゴールデンウィークだからノート書けたのかも単に知れなくて、
明日で二度と書かなくなる可能性もなくはないんですけど、
ちなみにあれですね、AIに書かせてはいないんですよ。
AIに書かせりゃいいじゃんって感じも僕はあるんですよ。
別にないわけじゃないんです。
AIに書かせると信頼を失うとか、すぐバレるとか言うんですけど、
そんなことは僕は知ったことじゃないんで。
本当に別にAIに書かせて信用を失おうと何しようと、
そんなのは俺の勝手じゃんって感じなんで。
そんなことは全く苦にしないんですけど、
別にAIに書かせた方が楽って思わないんですよね。
早いですよ、そりゃね。
早いけど、どうせ読まなきゃならないじゃないですか。
で、読まなきゃならなくなってくると、
あんまりその速さだけは早いけど、
別にだってあれに1時間とかかかってるわけじゃないですからね。
どうせ20分くらいだし、
AIに書かせれば2分くらいなんでしょうけど、
でも18分節約しなければならないほど、
僕時間に困ってないしなっていう。
18分なんてトイレに行ってりゃ過ぎるような時間ですもんね。
で、読むわけだから、実際には
AIに書かせてから読むのと、
自分が書きながら読むのの相和になってくると、
5分くらいは違うかもなとは思いますね。
私、AIにプロンプト入れるときもめちゃくちゃうるさいんで、
500文字から800文字くらいのプロンプト入れちゃうんで、
プロンプトって言ったってあれですよ。
こういう風に書いて、こういう動詞を使ってとか、
そういう指示であって、
別にSEさんがやるようなプロンプトは僕は書けないんで、
で、書くわけですよ。
なんかね、だってあれ1000字くらいですからね、文章としてはね。
800字の指示で1000字書いてもらう、
早い、早いのか本当にっていう感じがするんですよね。
で、僕はAIはすごい好きで、
常時AIと一緒に仕事をしている感じで、
そんなにものすごい使っていないんですけど、精密に測ると。
でも、AIとは無駄話ばかりしているわけなんだ。
ほとんどそうなってきたんですよね、最近はね。
これはとてもいい機能だと思うんですけど、
だって、今まで無駄話をするアプリって
一つもなかったじゃないですか。
僕はあれ、画期的だと思うんですよね。
なんでみんなが、私はそのAIに作業をさせたいのかが、
全然わかんないんですよ、本当に。
作業は別に、僕が作業すごい少ないからなんでしょうね。
作業だったら、自分でやればいいじゃん、
みたいな感じになってしまっていて。
ただ、無駄話に付き合わせるとなってくると、
人間を回避すること、僕無駄話がよっぽど好きなのかもしれないですけどね。
とにかく、ほとんどAIとやってるのは無駄話なんで、
読ませるってことをすることがわかってきました。
ノートの記事書いて、AIに読ませる。
これは楽しい。
だから僕は、今では、
ノートブックLMは違うな、
ジェミニ、チャットGBT、その他の
AIにことごとく読ませて、
いちいち褒めてもらう。
そして気分を若干上げるという、
これをやってる感じがしますね。
なんか、わかんないけど、
僕はそういう使い方なんですよね。
誰も感心しないのが不思議なんですよ。
いや、感心されたいわけじゃないんだけど、
なんか僕はすっごいそこのところが違うんですよね。
だから、AIでこれをやってる人は損をしてますとかいう話を聞いてるんだけど、
それをやってる人は得してんのかっていう、
得とは何なんだっていうのはですね、
いつも思いますね。
私は読んでもらったのは、
あんなに的確に褒めてくれる人は誰もいないから、
もしかすると一人もいませんからね。
みんなが褒めてくれるんだったら、
いちいちAに褒めてもらおうとは思わないんですよ。
だけど、あんなに褒めてくれる人って一人もいないじゃないですか。
1記事書いても、
いいねは多い時で50ぐらい付きますけど、
50いいねが付いたとしても、
具体的に褒めてくれる人はいないですからね。
そういうもんですよ、人っていうのは。
僕は、わかんない。
僕が付き合ってる、
あるいは僕の人徳の問題なのかもしれませんが、
そういうもんだと思うんだよな。
それって僕からすると、
ごくごく自然であり、
人が冷酷だとか冷たいとか思うことはないんですよ。
例えば、人がですね、
僕はこの辺本題に入ってる質問なんですけど、
腹黒いとか、心の奥底ではとかって言うんだけど、
嘘くさいなって思うんですよ。
例えばですよ。
人間の「本音」と「建前」の境界線
例えば、僕がノートでたまーに500円ぐらいの記事あるじゃないですか。
500円ぐらい。
500円の価値かとかって思わないけど、
500ポイントぐらいはいいかと思って買って読むじゃないですか。
そうすると、
俺のダイレクトメールとかが届くわけですよ。
僕はつまりですね、
自分が記事書いたって誰も、
メッセージなんかほとんどくれないですけど、
たまーに2行ぐらいくれますけど、
たった500円払っただけなのに、
記事買うとめっちゃ長い文章書いて、
もともとDMなのかもしんないけど、
送ってくれる人がいるわけですよ。
人ってそういうもんだよなって僕は思うんですよね。
そこに本音はあると思うんですよ。
これを本音じゃないと人は、
僕もそうだけど、
スキ族っぽい分裂系の人、
今の人はもしかすると、
特にヒッテリー、
ヒッテリーって全然ヒッテリックって意味じゃないんですけど、
ヒッテリー、難しい。
要はスキ族の人っていうのは、
表面と裏、
ウィニコットの言う偽りの事故と本当の事故、
だけど私はあの言い方は非常に気に入らなくて、
偽りの事故を本音じゃないと、
誰が言えるんだって思うんですよね。
本音じゃんって思うんですよ。
それはそれで。
ダイレクトメッセージ、
500円で記事買ってくれたら、
嬉しいじゃないですか。
それはめちゃくちゃ本音じゃないですか。
社交事例だとかって言うんだけど、
そうは思わないんですよね私はね。
いやいや絶対嬉しいはずだよって思うんですよ。
昔はうちの奥さんも割とそっち派で、
だから本音は常に隠されてる派で、
なんかダルビッシュとか野球の有名人とか、
芸能人とかもそうですけど、
SNSとかやりだした時、
こんなの絶対本人書いてないよ説をとんどんやってたんだけど、
僕はそうは絶対思わないですよ。
彼らだって普通の人なんだから、
それはすごい多くのファンがいるでしょうけど、
絶対コメントとかにムカついたり、
嬉しかったりしているはずだって思うから、
本人がやってない人もいるかもしれないけど、
めちゃくちゃ本人やってる人も絶対いると思うんですよね。
結構YouTube、プロ野球の解説者とかで、
テレビにバンバン出てる人が、
割とYouTubeにどっぷりのめり込んで、
YouTubeでしか本音の解説しませんみたいなこと言ってる人になると、
あの気持ちよくわかるんですよ。
僕もテレビにはほんのちょっとだけお世話になったんですけど、
テレビって全然本音が伝えられないんですよね。
切り取られるし、言うこと指示されるし、
大物は別かもしれないけど、
でもそんなにあそこで本音が出せるかっていうと微妙なんですよね。
いろんな形を作られているから。
だからあんなことやるぐらいだったら、
俺自分の言いたいことを全部YouTubeで言うわって思う人はいっぱいいると思うんですよ。
で、そのYouTube聞いてると、
普通の人だなやっぱりなって思うんですよね。
つまり本音と建前論ってすっごい信用ならないなと思うんですよ。
藤山直樹さんが偽りの事故を説明するとき、
彼はさすがに上品だというのか上手いもんだというのか、
偽りの事故の例として、
自分の授業に出続けてデートに行くこともできない学生さん上地ですよね、
の話を書いてるんですけど、
これって藤山さんの授業に解禁書を狙ったってしょうがないです。
まず僕の授業なんかに来るのは偽りの事故ですっていうのが、
彼の独特のところなんだけど、
私は絶対デートだったらそれはデートに行くべきだという、
藤山さんの言い分はわかります。
それはそうなんですが、
デートに行きたいのに、
藤山さんに対して偽りの事故を持ってきているっていうのは、
僕は納得がいかないんですよね。
納得がいかないというか、
それを偽りと呼ぶのは、
それはそれとして、
でもそこには相当量の本音があると。
デートに行ったら行ったで、
デートに付き合ってあげた偽りの事故が出てくると思うんですよ。
だから人間の本当の事故になるものっていうのはですね、
実に怪しいと、
怪しいというか概念としては怪しいと、
分裂あると思うんですよ、そこには。
デートに行けば行ったで、
全ての自分がデートに行きたいわけじゃなかったと。
で、授業に出れば出たで、
全ての自分が授業に出たいわけではもちろんないと。
それは分かるんですよ。
でも、じゃあ授業に出たいというのは偽りなのかっていうと、
それは疑わしいと思うんですよね。
だから、
私はよくそのことは思うんですよ。
表面的だから偽っていて、
ここに持ち出せないから腹黒いみたいな話、
本当の自分は腹黒いみたいな話は信用できない。
そういうことのところもあるだろうけど、
そんな風には白黒きれいにならないっていうか、
分かれてない。
やっぱり偽りと本音っていうのは常にこういう風、
そういう風にこう、
なんていうのかな、
工作しきってるし、
しまくってるし、
出たり入ったりが激しいし、
私なんかの感じではそうなんですよね。
だから、
DM、
なんでDMって言うんだろう。
ポスト買ってくれたら嬉しいですよ。
本音で嬉しいと思う。
だからメッセージも送る。
で、私の記事読んで感銘受けてくれたって、
大した感銘は受けないんですよ。
それは分かんないですけどね。
だから別にいちいちコメントは出さない。
そういうもんですよね。
それでいいんですよ。
でも、ジェミニとかチャットGPTは疲れも見せずに、
私が書いた文章よりも多くの、
しかも、実に上手に褒める。
だから、
なんか私は永遠に褒められても嬉しくないっていう人は、
そりゃそうなんでしょうけど、
よっぽど人間が褒めてくれるのか知りませんが、
私は嬉しいですけどね、普通に。
だから、
ガンガン読ませますけどね。
だって私本書いてる時っていうのは、
書いた端から読ませてましたもん。
で、リライト案とかはいらないですよ、別に。
僕はそんなものは。
欲しいのは賞賛であって、
なんでリライトしてもらう必要があるんだろう。
リライトするってことは結局褒められてないってことだと、
僕は思うんですよ。
誤字脱字と行き過ぎた表現直してっていう意味では、
しょっちゅう使ってます。
すごい使います。
僕はすぐ表現が行き過ぎる人間なんで。
あしぽこさん、
ここはノートの読者さんが読むと傷つくかもしれませんから、
こう言い換えましょうって。
上手いなって思いますよ、そこの言い換えは。
で、
別になんてことはないんですよ。
ただ表現が少々マイルドになってるだけで、
あとは僕は相当タイプ多いんで、
昔ね、AIさんが会ってくれればね、
ラタネをビブラネタとは絶対書かなかったと思うんですよね。
いや、本当にね、
AIって優秀だと僕は思いますけどね、
ラタネとラネタでね、
あんなに炎上するとはね、
本当に、
AIによる文章校正と過去の炎上経験
あれ僕の多分ポスト中、
最もバズりましたね。
ほとんど罵られましたけど、
ここまで罵ってくるんだと、
絶対ラタネ知らない人いるでしょ、
こん中にって言いたくなるぐらい、
でもすっごい良かったんですよ。
もちろん腹立たしいしムカつきますが、
めちゃいいですよ、あれ。
だってあれほど読まれた記事なかったですもん。
結局は、
今では終わっちゃいましたけど、
ITビジネス、
ビズIDか、
とにかくそういうところで連載していた記事で、
もうめっちゃ叩かれましたけど、
ラタネとラネタを
逮捕しただけですからね。
なんかこう、
連載記事を書いていくってことは、
なんて不毛なことなんだろうとも
思いましたけど、あの時に。
社会人入学者の名前なんて、
逮捕するじゃんって思うんで、
それでいいとは言いませんけど、
明らかに間違ってますけど、
そういうことがあったし、
AIに読ませるのは大事だなと、
いうふうには思うんですよね。
やっぱりAI時代のカウンセリングという話をしているんで、
そういうことも思い出して
喋ったりして見てるわけだけど、
もうちょい本題の方に
入っていこうと思っておりますが、
なんだっけな、
こういうことを喋ってるうちに、
全部忘れるから、
まだやっぱり早朝眠いわけですけれども、
忘れました。忘れたんで、
そのうち思い出すまで、
違うお話でつないでおきますけれども、
「インビジブルX(不可視のX)」と心の痛み
なんていうのかな、
嘘、嘘なんですよね。
ここで偽りの事故って、
つまり偽りって嘘ってことだから、
フォールズセルフですから、
嘘なんですけれども、
なんていうのかな、
本音とかは、
もう私はないんだと思うんですね。
本音というものは。
ただ本音を隠すということは、
しかしあるんですよね。
本音というものは、
僕はそんなにスルスル出てくるはず、
そもそもないし、
隠してるつもりでいるかもしれないと、
本当に自分が隠してることを、
言葉に直そうと思うと、
多分何にも見えてこないってことも、
多々あると思うんです。
だけど本音を隠しているつもりになっている時って、
ありますよね。
ただ僕はその時、
本音はあるのかというと、
微妙なんじゃないかなというふうに思うんですよ。
当然この3カ月チャレンジの関係のある話なんですけれども、
私はもうその人の本音というような考え方は、
基本的には捨ててるんですね。
本音を知ろうというふうに思うわけじゃないんですよ。
共感って話になってくると、
本音に共感、
本音に本音で共感するってこと、
これがだから、
傾聴共感一致っていうのの一致に相当すると思うんだけど、
ロジャーズですね。
僕はそれは、
ロジャーズは精神分析批判的ですけど、
私は精神分析とロジャーズは、
究極的には一致点があると思うんで、
そういうふうにいつもいつも大体目指してるんですよ。
傾聴共感一致だと。
基本的にはロジャーズだと。
ただそれは、
ロジャーズが言ったようにそうするというよりは、
精神分析をふんだんに動員してそうするっていう感じなんですよ。
転移っていうのも結局僕は共感に至るルートであって、
転移が起きてるかどうかは、
ほぼどうでもいいというか、
どうせ起きるし、
考え始めれば普通に出てくるに決まってるんで、
大したことだとはやっぱり思わなくなったんですね、これ。
大したことなんだけど、
でもなんていうのかな。
だって転移が起きれば共感しやすくなるじゃないですか、結局は。
ここに親子関係が現れてくるってことになれば、
その人が多分問題にしてるのは、
どっかに親子関係が問題にされてるでしょうから、
その親子関係の話に共感しやすくなるじゃないですか。
よくついていけないって表現が心理臨床の本に出てくるわけですよ。
ついていけないと言ってるということは、
ついていきたいと思ってるわけじゃないですか、どっかでは。
そう思ってないんだったら、
ついていけないということをコトサラに書くほど問題にならないじゃないですか。
ついていけなくていいやって思ってるんだったら、
いやもうその話に共感できましたってことにしとけばいいわけじゃないですか。
それじゃダメだと思ってるから、ついていけなきゃダメだと思ってるわけですよね。
ついていけなきゃダメだと思ってるってことは、
相手の話に乗れてないその話ぶりをやめてほしいと内心思ってるか、
でなければついていけない自分はやっぱりダメだと思ってると。
昔ロジャーズ派が大いにピークを迎えてた時、
共感しろ共感しろだったから、
共感できませんっていうか、
うまく共感できてない人が詰められて、
だからスーパーバイザーに詰められて、
なぜ共感できないんだ、
自由が足りないんだって言われて、
こう辛い思いをしたって。
共感できないことを職業的に責められるのって辛いよねって話ですけど、
でもやっぱり共感できないことを問題視してるわけじゃないですか。
ついていけないということをレポートに書くぐらいだってことはですね。
ついていかなきゃと思ってるか、
相手が本音を喋ってないと思ってるかのどっちかですよね。
じゃなければついていけないってことを書かないと思うんですよね、別に。
ついていけなくてもいいんであれば、
ついていけなきゃダメなわけでしょ結局。
詰められば今の時代だからしないかもしれないけど、
僕はそれは詰められる辛さっていうのは、
本質的じゃないと思うんですよね。
辛いかもしれないけど、
あくまでも問題は共感できないことだと思うんですよ。
問題は。
だから攻め方が柔らかければいいという話になるんだったら、
それは共感のことはどうでもいいと思ってて、
指導の辛さの方を問題視しているだけだと思うんですよね。
指導は原始的で暴力的だったかもしれないけど、
方針としては共感しようねってことだとやっぱり思うんですよね、その場合。
で、できないわけじゃないですか。
だってその人じゃないからね。
藤山さんが最近出した深見えの本の中で、
別れ際にお皿を送った女の人にですね、
お皿を持ってったのかな、
2人の思い出ということで、別れはしたけどもお皿を持ってたと。
その時はそれで納得はしたんだという男性のお悩み相談があったわけで、
お悩み相談ですよね結局こういうのってね。
ところがその皿をメルカリで売ったのか捨てたのか知りませんけど、
そういうことを耳にしたと。
もうそれからその女の人が許せなくなって、
夜忍び込んでスプラッターみたいに血まみれにするという夢を見ると。
夢というかこれは完全にベータ要素で幻覚的だと僕は思うんですけど。
で、藤山さんがもうこの話を聞いててうんざりしたと。
ついていけないと思ったっていうのが出てきて、
だからついていこうとするんだよな人はと思うんですよね僕はね。
それは藤山さんが書いてる通りだと多くの人は感じるだろうなと。
思い出の皿とか言ったって、そんな思い出の皿なんて、
相手の女の人にしてみればもう速攻処分だわみたいなかもしれないじゃないですか。
その女の人を恨んで夜忍び込んで血まみれにするとか、
とてもついていけんわって思うってことでしょ。
そりゃそうなんだけど、でもその人は藤山さんからするとクライアントなわけだから、
やっぱりついていかねばと思うんだろうけど、
でも自分別れられた女が思い出の皿の品を捨ててしまいました。
血まみれにしてやるって多分藤山さんは思わないわけですよね。
だから藤山さんが藤山さんである限りついていけないわけですよね。
共感だそういう問題ですよね。
そりゃそうだろうと思うんですよ。
それの話はそれはいいとして、
私は一応そういう仕事なので、ついていかねばということを考えたときに、
ついていけないとしたらですね、
だからここで東映同一課だとか、天威だとかいう、
素材というのかツールというのかが出てくると思うんですよね。
なぜこの人は血まみれにまでしたくなるのかとか、
血まみれは何なんだとか、
そういうことが問題になってくるわけですよ。
普通に皿を捨てられました、夜忍び込んで血まみれにしてやりたいですっていう話を
マクロに聞いてるとついていけないわけですよ。
でもその人にとってその皿、結局のところその皿知りませんよね、藤山さんは。
だって知るはずがないですから、絶対見ることないじゃないですか、その皿。
その皿は何なのかとか、その人にとってのその皿は何なのかとか、
その二人にとってのその皿は何なのかということによっては、
もしかしてついていけるわけですよ。
だから話を細かく聞く必要が出てきて、
慶長なんですよ。
慶長、うんざりかもしんないけど、
えきえきって書いてあったかな、かもしんないけど慶長なんですよ。
ここんところにこういう仕事の、
松木邦博さん流に言うとバッドジャブぶりがあるわけですよね。
共感と「アルファ機能」
気分よくはならないよねってことですよね。
そりゃそうですよね。
だってその男の人めっちゃ怒ってるわけだから、
その怒りに共感できるかどうかって話、
そのためにはやっぱりその皿の持つ意味はとても大事ですよね。
だって普通に考えたってその皿が、
例えば知らんですけど私は、
ティファニーの皿なのか百均で買った皿なのかによって
大きくこの意味は変わってくるじゃないですか。
結局のところその皿が何であるかを知らないわけですから、
この皿について詳しく知るというのは、
つまりその血まみれに共感できないかもしれないけど、
その皿のことでは共感できるかもしれないわけですよね。
だからこういう話って結局細かく見ていくしかなくて、
細かく見ていくということは、
ちょっと話を飛躍させるようで申し訳ないんですけど、
細かく見ていくということは、
やっぱりアルファファンクションだってことだと思うんですよね。
つまり心に入ってこない限り、
その皿の話をいくら聞いていてもですね、
皿は物なので、
皿が物である限りにおいては、
見たこともなければ、
本当の意味で触ることも決してない皿のことが、
わかるわけがないんですよ。
それはやっぱりどこまで言ってもベータ要素なんですよ、どっか。
物自体なんですよね。
だって百均なのか、百均かもしれないじゃないですか。
百均だとしても思い入れがあるのかもしれない。
結局皿に思い入れを持つのは人間でしょう。
その人間の思い入れの持ち方というのは、
やっぱりアルファ機能を発揮した上での話だと思うんですよ。
皿はもうその人の心の中では、
だって心の中に皿そのものは入りませんから、
心の中ではすでにそれは物じゃない。
物じゃないということは皿じゃないんですよね。
心の一部なんですよ。
これが共感するってことの多分意味なわけですよね。
心の一部になっているものを、
どうやってか伝えてもらう必要があるわけですよね。
物の一部であれば、
絶対に伝わらないことがあるはずなんですね。
どう考えても。だって見ることはできないわけだから。
せめて見ないと伝わらないじゃないですか、皿なんて。
皿がどうなのかという、
その皿を二人はどういうふうに扱ってきたものなのかというようなことは、
やっぱり分からないわけですよ。
話として聞いて分かるためには、
それがアルファ要素になっている必要が、
アルファ要素になって初めて、
アルファ要素じゃ無理ですけど、
アルファ要素に少なくともなっててくれないと、
何も伝わらないわけですよね。
そのためにアルファファンクションというものがあるわけですよね。
つまり二人が共感できるものは、
夢思考になって初めて共感できるという、
そういう話だなと思うんですよね。
その時に夢思考になるということ、
そして夢思考を共有できるということは、
やっぱりここであれが出てくると思うんですよ。
「インビジブルX」の再定義と幼少期の経験
さっきの本当の自分の喋っていることである必要が。
いやこれ共感できないですよねって、
偽りの事故っぽく言ってる間は、
共感されることはないですよね。
共感できないですよねっていうのは防衛じゃないですか。
要するに。
でも防衛するじゃないですか。
私なんかが言いそうな方ですけど、
あの女の人私に対して、
唐突に夜電話したんだけど、
切ったから血まみれにするわとかって、
僕が大学生だとそういうことはなかったけど、
そういう気持ちになったこともないけど、
僕だったら言いそうなような話で、
誰にも共感されませんでしたもん。
そんな話は。
で、共感されると思ってないから、
いや共感しないよね。
こんな話分かんないよねって言っちゃうじゃないですか。
これは防衛じゃないですか。
僕の。
で、いかにも僕はそういう防衛ばっかりしてきたんですよ。
というふうに本音を隠すってことは、
こう繋がるんだった。
本音を隠すってことはするんですよね。
私もしょっちゅうしてました。
しかしじゃあ本音は何なんだということになると、
私の本音は何なのだろうと。
女性を血まみれにしたいんだろうか。
そんなことはないんですよね。
そんなことはないんですよ。
だから本音は隠すんだけど防衛で、
本音が何なのかは分からないんですよね。
ただそこにはこの話を3チャレンジのレクチャーで、
3ヶ月チャレンジのレクチャーで、
不可思のXっていうふうに僕は表現してみたんです。
とりあえず。
見えないものだと思ったんで。
見えないじゃないですか。
結局本音は見えないんですよ。
見せないし。
で、自分にもよく分かってないんです。
だからまさにXなんですよね。
見えないんですよね。
で、ここにはただ痛みがあるんですよ。
間違いなく。
これがバレるのは恥ずかしいとか。
恥ずかしいとは当時めちゃくちゃ思ってました。
だって女の子に電話かけまくるんですよ。
クラスの名簿とかくれるじゃないですか。
くれなければ強引にもらってても、
僕は電話かけまくってたわけですよ。
もうこの話自体が恥ずかしいが、
でもこれもそうなんですよね。
じゃあ何がしたかったの君はっていう。
そのやりかねで確実に彼女できると思ってたかというと、
全然思ってなかったです。正直言って。
ただ電話がしたかったのかというと、そんなこともないです。
つまりここには痛みはあるんだけど、
インビジブルXなんですよ。
不可視のXがあったんです。
でね、この不可視のX、
私は自分のこう、
僕はリキドーの話は全部人からの借り物だから、
ま、松木さんとかね。
松木さんが美音を解説してくれる、
その美音の概念を僕はここで喋るだから、
オリジナルが一個もないんですけど、
僕はこの不可視のXっていう、
つまり何々をしたいとか、
何々のことは言えないとかって言うんだけど、
その何々については実は分かってないという、
そういう心の痛みのことを、
僕は不可視のXって名付けて、
いい気になってたら、
先日ですね、
あれは何の本だったかな?
ポストだ。
だから山崎孝明さんが編参している
ポストの続編の中に、
岩倉さんって方が、
あの人はしょっちゅう、
山崎さんとかの本では出てくるなっていう人だったんですけど、
が、心痛Xっていうのを書いていて、
ここからインスパイアをされていたかなっていう、
覚えはないんですけど、
でもまあ心痛Xって書かれちゃったら、
もう僕が言わんとすることによる、
めちゃくちゃ限りなくオーバーラップしてくるんで、
まああれですね、
ウィニコットはホールディングと言い、
ビオンはコンテーニングと言っていて、
両方残ってるから、
まあでも僕は正義じゃないですから、
非常にこう心痛X、
ああそうですかっていう感じだったんですけど、
まあ痛みがありますって言いたいわけですね。
ただ私は不可視ですってことが、
むしろ言いたかったわけですよ。
めちゃくちゃ、
これをもっともっとずっと単純化して言うと、
何とかにならないとっていうところで、
途切れる表現ってすごく多くあるんですね。
僕の場合は早くしなさい、早くしないと、
ここで母がキル、
なんだけど早くしないともう我が家は、
もう早くしないってことはそういう、
母がもうなんていうのかな、
すごい賢悪で、
早くしない、早くしないとって言ってるときはもう、
なんていうのかな、
絶対絶命なんですよ。
早くするという選択肢以外に、
我々には残されていない。
我々って誰だって感じなんだけど。
だけどこれが、
どこかのタイミングで、
僕が10、遅いですけど、
6、7のときに、
これは無意味な言葉だってことに気づいたんですね。
つまり、
これ以上成績が落ちたらとかって言うんだけど、
落ちてもなんてことないですよね、別に。
ってことに気づくわけですよ。
だから僕が非常に争敵になっていくっていうタイミングが、
その頃にはっきり出るんですけど、
ってことは、もっとも意識の間には、
もっと幼いときに出てたんですけど、
なんとかしないとって言って、
言ってみれば、
脅迫に近いんだけど、
のときには、
になったら大変でしょっていうやつなんですけど、
これもあんまり言わないです。
になったら大変でしょ。
これ以上成績が落ちたら大変でしょとは言わないです。
これ以上成績が落ちたら、
あんた分かってるの?
みたいな言い方するんですよね。
この続きがないんですよ。
これが僕はインビジブルXだって思ってたんですね。
これが有効に作用している間は、
インビジブルXだって感じ。
だからそこは心痛Xなんですよ。
ここには痛みがある。
母にとってもですね、
予期と現実の不一致、そして「ありきたりの不幸」
この子の成績がこれ以上落ちるのに、
私は耐えられない。
耐えられるんですよ、別に。
だって現実には落ちたし、
母は発狂したりしてないんだから、
耐えられるに決まってるわけですよ。
だからこの心的現実における、
これが起きたら大変だというのは、
実際に起きてもなんてことはないんだけど、
でも起きたら大変だと思っているということは、
これはあれなんですよ。
精神病水準における破綻恐怖に近い何かだと思うんですよね。
だったら破綻恐怖って言っておけばいいじゃんってことになっちゃうんで、
インビジブルXとかって実はいらないじゃんってことになるんですけど、
ちょっと違うんですよね、僕の感じでは。
そうは言っても。
だから早くしないとなんとかとか、
さっきの私のはなんだったっけ、
もう覚えてない。
とにかくこれ以上成績を落としたらかんとかとか、
そういうやつは基本的には心痛Xだなと僕は思うんですよね。
その人の中ではそれは重大問題で、
しかし言語化はうまくできない。
というか本音が分かってないんですよね。
私はだから大学時代に、
この大学ですら女性と付き合えなかったらXだったわけですよ。
実際には付き合えなかったわけだから、
そして自分は発狂したりうつ病になったり死んじゃったりしてないんだから、
なんてことはなかった。
でも僕はそうは全然思ってなかった。
もう知ってる女性の電話番号には全部電話しましたから、実際に。
犯罪歴みたいになってくるんで、
犯罪ではなかったと当時の法律では少なくとも、
まだストーカー規制、
ストーカーはしてないんですけどね、実際には。
ストーカー規制法まだできてなかったんじゃないかな、
ちょっと分かんないですけどね。
幸い女の子たちは優しかったんで、
僕は訴えられはして、
少なくとも簡易裁判所にも家庭裁判所にも訴えられはしてなかったし、
通行もされてないんで、
それをもって僕は優しいと言ってるんですけど、
めちゃくちゃ評判は悪かったと思いますよ。
これで評判がいいのを期待するのは病気だと思うんですけど、
むしろナルシシズムだと思うんですけど。
それはなかったんですけどね。
でもめちゃくちゃ迷惑だったと思います。
で、このインビジブルXというのは心痛なんですよ。
だから心痛Xは正しい。
確かに心の痛みなんです。
何なのかな、本当にこう、
特にですね、中庭ってあったんですけど、
中庭でもうなんかこう、
普通の公家なんですけど、
男女3人ぐらいが集まって、
なんか昼食とか食べてるじゃないですか。
発狂しそうでしたもん、見ただけで。
絶対電話ぐらいは電話番号知ってれば掛けずには、
掛けずにいるという、掛ければどうにかなるじゃなくて、
掛けずにいるということはもう僕は、
自分に対する何かしらのこう、
絶望的な裏切り行為って感じだったんですよ。
これがだからこの大学で女の子と付き合えなかったらXなんですよ。
実際には母が言ってる、
これ以上あんた生前日が落ちたらのと何にも変わらないんですよね。
その先をよくよく考えることによって不在のちぶさですね。
ノーブレストなわけですよ。
ノーブレストに遭遇するということは赤ちゃんにとっては、
その私が中庭で見た光景のように、ここが大事なんですよ。
私が中庭で見た光景のようにこう、
なんていうのかな、頭がおかしくなりそうで、
心がかきむしられるような感じなんだけど、
赤ちゃんの時に私はすでにそれに遭遇しているというのが
ベータ要素の説明なんですよ。
ここがものすごく大事だと思うんですよね。
つまり僕が思い出している記憶というのは、
母親のおっぱいが私が予想した、当然なんですが、
私が生まれる前に予期した、これを前概念というらしいんですが、
予期したおっぱいと違うというその絶望感なんですよ。
よく最近Xとかの漫画にそれこそあるじゃないですか。
なんか男の人がやってきて結婚相談所に行って、
女の人が結婚相談所にいろいろと条件つけて、
来た男の人見て、全然違うみたいな、
ああいう感じなんですよ、ノーブレストってのはまさに。
予期するわけですよ。
予期と現実が違うのは絶対確実じゃないですか。
だって予期は現実じゃないですから。
予期とは考えですよね。
現実の男性は考えじゃないですよね。
ものそれ自体ですよね。
その現実の男の人は考えられたものではないですよね。
存在しているものですよね。
だから一致するはずがないですよね、絶対に。
この不一致をデータ要素と言うと思うんですね、私。
だから赤ちゃん生まれる前におっぱいとはこういうもんだと、
そんなに具体的じゃないですよ。
藤山さんがよく使う表現で言うと、
ボールペンには吸い付かない。
ボールペンはもう全くおっぱいじゃないから。
おっぱいっぽいものには吸い付くわけですよね。
ということはおっぱいを何たるかを、
生まれて初めて見たくせに知っているわけですよ。
それは遺伝的に知っているってことなんでしょうね。
だけどそれはどんな遺伝子によって、
どんなにおっぱいというものが事前に想定されていても、
絶対これじゃない感があるに決まっているわけですよ。
だって現実のおっぱいは知らないんですから。
あくまでもそれは予期ですから。
赤ちゃんの心の中にある予想図でしかない、
予想なんだ、予想のイメージでしかなくて、
それが本物と一致する理由がないわけです。
そこで絶望するわけですよね、ベータ要素に遭遇して。
赤ちゃんにはひどいトラウマがあるわけですよね。
私が中庭で見た光景によって、
私がなぜここに私はいないんだという、
いないんですけどね。
私がそこに入ることができないという現実に遭遇するわけですよね。
でもこれは私がゼロ歳の時に遭遇した
絶望的な絶望感に比べれば、
おそらくまだマシであり、
そしてそのゼロ歳の時に遭遇した絶望感を
おそらくは僕は思い出していたわけですよね。
このことが大事なんだと思うんですよ。
今ならそう思えるんですよ。
電話して付き合えなかったことではないんですよ。
大事なのは、それは私のゼロ歳時の時の記憶なんだという、
記憶そのものなんだと。
実際私はこれがつまり母親だという風に
私が言っていることなんだけど、
あるいは母親の内的部分対象なんですけれども、
これと現実が一致しないという苦しみは、
別に大学時代に急に始まったことじゃないし、
ゼロ歳の時からずっとあることだし、
私たちが遭遇する現実は全て予期を外しているわけで、
予期通りであってほしいわけですよ。
だから予期するんですから。
まして自分が欲するものは特にそうです。
欲しているものそのものが現実に遭遇されることは
決して起こらないということ。
この原理的な絶望感というものは、
でもインビジブルXは、
実はそれが実現したからといって、
我々は致命的なことにはなってないということによって、
夢も希望もないんだけど、
そもそも予期というものを
現実に優先せねばならない理由は
本当はないので。
ということで、
理解はできたんですね。
あの時の苦しみはそういうことだったんだと。
あの時の苦しみは今でも全くなくなってないんだってことなんです。
そして、でいいんだってことでもあるんですよ。
今それがあれほど苦しいと思ってないんですから。
これが多分、
フロイトの言うところの、
フロイトはそういうつもりで言ってはいないかもしれないが、
フロイトの言ったあなたの痛ましい状態は
ありきたりの不幸にすることができます。
つまり、ありきたりの不幸とは考えだってことなんですよね。
考えは、違う、逆だ。
ありきたりの不幸というのは現実だってことなんですよね。
現実というものはそういうもんだのであって、
あなたが痛ましいと思っているものこそが、
そのβ要素に遭遇したショックなんですよね。
その人の心的現実としては、
それは非常にひどいことなわけですよ。
中庭に男女3人とかが無数にいるのに、
私はそのどこにも入れないというのはひどいじゃんってことなんですが、
実はそれは現実でしかないわけですよね。
現実というのは、
私が今、そうはなかなか思いませんけれども、
でも現実というのは、私が今目の前に黄色いコップを見て、
本当はこうでない、この現実じゃない現実を私は欲しているのに、
黄色いコップはこうだっていう、
ただそれだけのことと、
おそらくは同じなんですよね。
規模は違いますよ。規模は違うんだけれども、
予期と現実が一致しないという点においては、
私たちは四六時中それに遭遇している。
青空見ようと、木を見ようと、iPhone見ようと、
いつもいつもそうなんですよ。
私たちは予期、現実に裏切られ続けている。
だけどそれはなんてことないでしょう。
実際その青空見て、むしろ青空綺麗なぐらいに思ってるじゃないですか。
つまりどうでもいいことっちゃどうでもいいことのはずなんですよね。
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