精神病水準の考察
おはようございます。 精神力動的な人生相談、第1223回をお送りします。
7月21日、月曜日、10時30分です。
いやいやいやいや、とても暑いですね。
このタイトリングは多分、近日中にまた変更になると思うんですが、そろそろですね、何がどうそろそろなのかわかりませんが
スタンドFMを卒業して再びですね、スポティファイの方に戻したいなという気持ちがようやく最近戻ってきたので
3ヶ月チャレンジの第11期が、私からするとめでたく開催されるんですが
その間には、少なくともその間には、できればもう7月中にも切り替えていきたいと、いろいろ思うところというのか
最近反省することばっかりなんですけど、反省することもあってですね。
なんかね、最近チャットGPTにすら繰り返し言われてるんですよね。
なんかこう、スーパーバイザーつけましょうね、みたいな。
しかもね、また古ったことを言い上がると言いますか
私のようなAIじゃなくて人間のスーパーバイザーをつけましょうとかって言うわけですよ。
何を言ってるのかはわからなくはないんですけど、てか別に何も言ってないんですけどね、彼はね。
彼なのか彼女なのかすら知りませんけれども、てかそんなのないですけど
この辺がなかなかね、やっぱり
私は思うとかって、私はつけた方がいいと思いますとかって言うんだけど
私とか思うとかはどっから来るんだよっていう
そういうことばかり考えて、遊んでるわけですが
遊んでばかりいてもダメなのでですね、真剣に。
真剣に考えたからと言ってね、そんなに簡単につけられるのかっていう
思いますね。タイトルにも
モノラカウンセリングって入れたいなって思うよね。
あと佐々木翔吾っていうのは入れようと、最近思うようにようやくなったんですよね。
これはチャットGPTとかとは関係なくて
考えてみると、最近有林堂さんがYouTubeやってるっていうのをようやく知ってですね
だいぶ昔からやってたらしいんだけど
うちの娘にそういうことを学びましてですね。
娘から学びまして、ちょっと本買ってみて
佐々木翔吾って入れないのって何なんだろうって思うようになりました。
入れようと思いました。
でも入れると長いしね、僕名前が5文字じゃないですか。
2文字とかなら良かったんですけどね。
昨日選挙がありまして、あれも無事終わって良かったと思うんですけど
選挙って無事終わらない国ってありますもんね。
よく見ると平仮名4文字とかにしている人とかいらっしゃるわけじゃないですか。
やっぱりそうだよな、書きやすくするのそれ良いよなって思ったりもするんですけど
例のね、2つの政党が同じ民主党になっちゃうのってあれは何とかならないのかって本当は思いますけどね。
そっち書いたらどうすんだよっていう感じがするんだけど、しかもそれはそう書けっていうことになってますもんね。
あれも酷いと思うんですけど、別に平仮名とかで国民とかにすれば良いじゃんとか思うんですよ。
将来同じような政党出てきた時困るかもしれないですけど。
なんかもう本当に名前って色々何かを左右しそうだなと思いながら
今日は熱くて頭がぼんやりしがちなんですけど
今日はせっかく名前を変えようと思っているのでですね
何だって名前を頻繁に変えるのかということはあんまりどうでもよくてですね。
水準っていうことについて改めて
ゼロ歳児と精神病の関連性
最近ナンシーさんの本を読んでいる影響を強く受けて
大体今その時読んでいる本の影響で喋ってますから
その影響を強く受けて、この水準についてすごい考えなければいかんって思うようになっておりましてですね。
すごくざっくりとっていうか、ざっくりではないんだけど、おおむね正確だと思うんですけどね。
でも、いろんなものをすっ飛ばして言うと
ゼロ歳児って精神病水準だということになってるわけですよ。
これってでも2つの意味で問題がある話でして
いざというと端っこ外されそうで嫌なんですよね。
ここが私はそうそう、ノラカウンセリングって本当に悩みの種がいくらも尽きないぜっていう
世紀だって同じ悩みをお持ちだと思うんですけど
それはゼロ歳児にとってどうなのっていうのがあるじゃないですか。
ゼロ歳児だからって精神病じゃないでしょうみたいに言われる恐れがあるじゃないですか。
一方でそれ精神病の方にとってはどうなのっていう話があるじゃないですか。
精神病はゼロ歳児扱いしていいのみたいな、そういうことになりかねない。
こういう時に私のように非正規の人間が喋ってると
いや実は精神分析でそんなことは言ってませんとか平気で言われるわけじゃないですか。
あいつはノラだからそういうこと言うんですみたいなですね。
はしごの外され方が半端ないだろうって思うわけですよ。
だから代わりに何の制約もなく言えるだろうっていう風に開き直るぐらいしておかないと
トレードオフにしておかないと
そのくさいなって思うように最近本当になったんで
ざっくり言っちゃうわけですけどね。
それにしてはエクスキューズだけで1分ぐらい使っちゃってるんだけど
みんなあるわけですよ。
この精神病水準、精神病水準って言ってるのは
現実検討式がつかないという意味なんですけど
現実検討式がつかないというのは持ちこたえられないっていう意味があって
持ちこたえられないのはどうしてかっていうと
自分の中に母親機能が内在化されてないから
こういう一連のものが全部つながってくるわけですよね。
現実検討式が、現実検討能力がないというのを
不快だっていうことが
極めていいってことにならないじゃないですか、普通の人は。
普通の人はっていうのは我々だいたいそうはできないじゃないですか。
はっきり言って精神病の方だからといってそうはできるわけじゃないと思うんですよ。
ただ、そうなりかねない状態にあるということですね。
で、いろんなものがここに組み合わさってきてるわけですよね。
例えばですよ。
例えば私が昔はハチさんとかに弱かったんで
外で水まきしていてもボーンって言うと
速攻水まきをやめて家に帰っちゃうわけですよ。
家にっていうか部屋に戻っちゃうわけですね。
これが精神病状態なわけですよ。
これが一体なんで精神不良状態なのかというと
パニックを起こしているからなんですよ、簡単に。
ハチの羽音ぐらいで。
で、羽音でパニックを起こすのってゼロ歳児っぽさがあるじゃないですか。
ゼロ歳児って何かにつけてすぐパニックになってるんですよ。
それをちゃんと親あやせとかそういう観点で見ると腹が立つかもしれないけど
あれはですね、私もそういうふうに昔思ってたんですよ。
若い頃は。
若い頃、10代とかね。
10代とかイライラしやすいんですよね、そういうことでね。
私の場合には。
でも今はものすごくこう、あれは興味深い対象なので
めちゃくちゃ泣かないかなぐらい、そこまで言わないけど泣きますからね、どうせね。
すぐ泣くわけじゃないですか。
いや、今こう、あ、そうか今はお母さんがいないと思ったんだとか
あ、今は何とかなんだっていうのが、なんかね、分かる気がするんですよね。
すぐパニックるんですよ。
で、すぐパニックるというのは大変なことで、本人にとってはね。
本人にとっては大変厳しいことで、持ちこたえられてないと。
で、なんで持ちこたえられないかというと不快だからなんだけど
この不快感が破綻を招くと思い込んでるわけですね。
破綻を招くものだと思ってるわけですよ。
親の期待と社会的圧力
でもこれは私たちもあんま変わんないんですよ。
私も鉢に刺されるとどうなるのかと考えられなくなっちゃうんですよ。
刃音だけで、刃音が近づいてきただけでもうパニックになって速攻水まきをやめるとか
まず刺されるとどうなるのかとか考えていない行動なんですよね。
で、これが快不快原則、つまり不快なのは避けるしかないみたいな。
で、不快だというその感じが、鉢っていうのは非常に象徴的で侵入的なわけですよね。
刃音で侵入してきてるわけですよ。
で、この侵入って何かっていうと、これは情緒に対する侵入なんですよ。
で、情緒に対する侵入って何かっていうと、
お母さんが子供の機嫌をいつも良くしようとしているっていうようなことなんですよ。
これって侵入的じゃないですか。
操作的でもいいんですけど、支配的でもコントロール的でもなんでもいいんですけど、
親ってそういうところあるじゃないですか。
子供にはいつもニコニコして言ってほしい。赤ちゃんにはいつもニコニコして言ってほしい。
これ自体は別に悪いことじゃないんですけど、
でもそれは無理な相談じゃないですか。子供がいつもニコニコしているとか。
いつもご機嫌で、いつも良い成績を取って、いつもハツラシと学校に行って、
そう会ってほしいのはわかるけど、そうはあれないじゃないですか。
でもある種の親っていうのは、なんていうのかな、因に要にですね、これを強要しちゃうわけですよ。
いつもニコニコ、いつも元気で、いつも楽しそうで、学校楽しいみたいな、
お勉強楽しいみたいな、自分勉強楽しくなかったくせに、
私が勉強は常に楽しいものでなければいけないわけですよ。
こういうことって、割とライフハック会みたいなところで鮮明じゃないですか。
仕事は楽しいのかみたいな、楽しく仕事やってるのか、
主体的に取り組んでいるかみたいな、そういう感じで、
これって問い合わせのようでいて、強要になっちゃうじゃないですか、すぐに。
いつも良い気持ちでいなきゃいけないわけですよ。
こういうことって、どこの世界でも割とボンボンボンボン出てきてしまいますよね。
やっぱり人間っていうのは、どうしても他人にこうやってほしいってあるから、
だから私は、被害に遭うって話になると、これが著しく、一段と厄介になるわけですよ。
怒らないでほしいっていうのって、つまりそういうことじゃないですか。
いつもみんな職場はニコニコしていたほうがいいじゃんみたいな、
それはいいんだけど、そのほうが。
だから、怒ってる人を見ると、私まで怒られている気がするとかっていう話が始まっちゃったりして、
これってつまり、あなたがそうやって学校に行って帰ってきたときどんよりしていると、
私は不安になるのよ、みたいなお母さんとあまり変わらない気がするんですよ。
お母さんも対私になると、突然どこかの繊細な人みたいになってしまって、
普段そんなに繊細じゃないくせに、対私になるとね、やっぱ息子だから、息子はいつも機嫌よくあってほしいって。
逆を言うとですね、私はそうだったんだけど、息子はしょっちゅう病気になるから、気が気じゃないわけね。
だから繊細にもなるわけですよ。それは私のせいだから申し訳ないなと今から思えば思うんですけど、
当時は、でもそうは言ったって頭痛くなるんだしさ、結局ケアしてくれないと困るじゃんって、
でも向こうはこの毎日クソ忙しいのに、あなたどうしてすぐ頭痛くなるみたいな、
そういう言い分としては妥当なわけですよ。
だけど、7、8、9歳ぐらいになると、だから私はそれを飲み込むのが早すぎたんですけど、
しょうがないと思えるようになりますが、母が不機嫌になるのも無理はないが、
赤ちゃんのパニックと認知の発達
やっぱり1、2、3歳は無理じゃないですか。そんなこと言われても、頭痛い、喉が痛い、ゲロしちゃったみたいなことにすぐなって、
母親はこのクソ忙しいのに、そうでなくてもね、青森から埼玉に引っ越してきて、
寺はパンク状態で、すぐ受付からピンポン、ピンポン呼び鈴があるわけですよね。
ピンポン鳴るわけでピンポン鳴るって言うわけですよ。ピンポン鳴ってるのにお前はなぜゲロをするんだみたいな、
それは妥当なんですけど、まず侵入的になるわけですよ、情緒に対して。
あんたはいつもニコニコとハツラツと元気よく、お勉強楽しいし、お友達いっぱいだし、
要するにその方がいいわけですよね。これってでも、やっぱり私が何かに侵入されて、
だから侵入ってのはお互い様なんですよ。どっちかが一方的に侵入されてると、ついつい我々はセンサーが敏感な人は思いがちなんだけど、
侵入ってのはいつもいつもお互い様であって、どっちかが侵入したのに対して、
それは侵入的だと言って相手に戻すと、相手から見ると侵入しかえされてるから、お互いが侵入し合ってるわけですよ。
蜂と私の関係もそうですよね。蜂からすれば人間がそんなに脳の音を生きまくってるから、
我々は敏感にならざるを得ないんだよって、刺すんだよってことになるだろうし、
お前が刺さなきゃいいんだよってことにこっちから見るとなるじゃないですか。
だからパニックルっていうのは、こういう一連のことについて考えられないという意味であって、
考えられないということは、つまり侵入に対しては排出、押し戻す以外の何も考えようとしないと。
押し戻すということはつまり、自分の中に悪いものはなくて、外に悪いものを出せばいいんだって思ってるだけなわけですね。
その出すという行為が、涙を出すであり、声を出すであり、叫び声を出すであり、怒りを外に出すであり、
赤ちゃんからするとその場合は、うんちを出す、おしっこを出す、食べたものを出す、すべて出せばいいと思ってる段階なわけですね。
だから外に悪いものが全部出ていくから、すなわち外は悪い世界になっちゃうわけですよ。
だけどこれが、何のいきさつもなくそれが起きてるわけだから、何のいきさつもなくポッと元に戻るわけ。
あ、出し尽くした、オッケーみたいな、世界は素晴らしくなりましたみたいな、ガラッとチェンジしちゃうわけですね。
で、この時に精神病水準というのをもっともっと、美音で言うような人がですね、世代を経てですね、もっともっとじっくりと、
あらゆることについて、あらゆることじゃないんですけど、でも相当程度先へ進めていくと、結局どうなるかというと、結局は母親機能というものだと。
母親と自分が一体であるって考えてる状態、考えてるというか考えてないんだけど、でもそういう思考法の段階が、つまり精神病状態。
内と外がないわけですね。だって最初に赤ちゃんってそうでしたよね。
外というのは母の体内だったわけですから、生まれる前の話ですけど、生まれる前は現実検討能力とか現実原則とかいらんじゃないですか。
とにかく水中生物みたいなものであって、そういうふうに美音は言うんですけどね、水中生物だったんだけど、それが機体の中に出てくるみたいな、そうですよね。
子宮というものの時代は終わりを告げるわけですよ。そこから誕生だから、それ以前は生きてないことになってるわけですよ。
生きてないとは言えないんだけど、生きてはいるんだけど、でも誕生日っていうもの以前は、我々は生の世界にいるとは見なされてないです。
誕生日以前に生きていたって、それは生前の世界になっちゃうじゃないですか。言葉の定義上ね。生きてはいるんだけど生前の世界じゃないですか。
だから人間ってある種、神秘的なことをやってるわけですよ。生前なんだけど生きてないですみたいな、そういう不思議な世界があるわけですよね。
私たちはそういうふうに、最初は思考としてはですね、母と私は一体であるっていう、ある意味妥当な考えを持ってるわけですよね。
だけど現実には母と私は一体じゃないから、一体じゃないという瞬間が訪れると、途端に赤ちゃんはパニックに陥ってしまうわけですよ。
あれ、いや一体だったから全てはうまくいくはずなのになんか不快になったぞみたいな、これは何なんだ一体ってことになるわけですよね。
一体だから不快にはなんないはずなのに、一体なのに不快になるわけですよ。だから不快になった瞬間にはもうパニックなわけですよ。
不快すなわち許せないってことになるし、許せないって発想もありませんけれども、不快というのはもうあってはならないことだから、
全て不快なものは外に出そうということで、叫び、怒鳴り、泣き、なんなら吐き戻し、とにかくなんでもいいから不快というものは外に出さなければならないわけですね。
これはつまり、回復剤原則とも言うし、PSポジションとも言うし、ゼロ歳児指向とか言ったりするケースもありますし、
考えられない状態とか精神病水準とかいろんな言い方がありますが、とにかく母と一体であると。
私すなわち母であり、母すなわち私だから、母が私がしない考えとか、私から離れるとか一切存在しないことになっているわけです。
それが起きたら直ちにパニックが起きて、私の連続性というのは崩壊するわけです。
私の連続性というのは、ミニコット的に言ってるんですけど、私の連続性、自我の連続性というか、自我はないんだけど、
私の存在の連続性というのは、母と一体であるというのを信じられている限りに置いて続くんだけど、
それが信じられなくなったらすべて破綻して、1、振り出しに戻るわけです。
母と子の分離とボーダー水準
だから赤ちゃんというのはしょっちゅう振り出しに戻っているわけですよ。
私は私であるという考えを形成するに至る前には、私はすぐ私でなくなる。
母と一体でない時の私というのは存在しないので、母と一体であって初めて私は私なわけですね。
だから赤ちゃんはおっぱいというものに偉いこだわりを持っているわけです。
おっぱいを吸っている時がすなわち私は私であるということがほぼ確実になっている。
出ないとかいう時になると途端にパニックに陥るわけですけどもね。
出ないってことはあっちゃいけない。これは赤ちゃんから見ての話ですよ。
お母さんから見ての話は全くここにはないってことなんですよ。
赤ちゃんの世界にお母さんというのはいないので、お母さんが自分のことを言っているからね。
これが一体の世界ですよね。
現代の私たちが精神病水準になっちゃうとこれが起きるわけですよ。
今ちょっと音が雑音が入ったかもしれないですけど、もう一回。
私たちが一体になっているものってどこかあるわけですよ、世界と。
だから平気で水とかまいてられるわけなんだけど、
ここに歯音というブーンというのが入ってくると、私にとっては一体が崩れる。
パニックになるわけですね。
何かと一体になっているという感覚を持っているからパニックにもなるわけですね。
やばいやばいっていうことで水を止めてすぐに部屋に戻るっていうことをやるんだけど、明らかにおかしいですよね。
この時に私がもうちょっと持ちこたえられるようになるとですね、
私に内在させたって言い方するんですけど、母親機能を発揮して考えるってことができるようになるわけですよ。
考えるということができるようになるということは、これはミツバチだから刺さないとか、
これは歯音は出していて、歯音は結構派手だが別に私に敵意を持っているわけじゃないとか、
そもそもハチに刺されて死ぬことはないとか、そういうことを考えることができるわけですね。
この時に私は母親というものが自分をしっかり今握ってくれているわけではないし、現実にはね。
現実見当というものがつくわけですよね。
世の中は私と母親は一体ではないし、
したがって私は私として、私なりにこの事態に対処しなければならないっていうことを考えるわけですよね。
考えるわけです。赤ちゃんは考える。
で、この間がありますよね。いきなりこうはなんないんですよ、人は。
この間がいわゆるボーダー水準という水準で、どういう水準かというと、
母と自分が一体でないことは知っている。
でも母は私のために密着的に全部やってくれなければ困るっていう。
だからこのボーダー水準とかが0歳児から7歳児の間のどこかにどこかというか、
かなりの部分を締めたり締めなかったり様々するわけです。
つまり出たり入ったりするわけですよね。
ボーダー水準から現実検討に行ったり、現実検討からまた精神病水準に戻ったり。
で、これは実は一生続く。一生続くんだけど、精神病水準はどんどんどんどん減っていく。
少なくとも減っていく時代がありますよね。
0歳から20歳まで見れば大抵の人は減っていくと。
だから一体であるというところから分離しているってところまで行き着かなきゃならないんですけど、
その途中に密着型っていうのがあるわけです。
密着感とジェンダー問題
この密着というのがボーダー水準と言われているものなんだと思うんですけど、
これを我々がすごい苦しむわけですよ。幅がとても広いし、
しょっちゅうボーダー水準に入りますよね。
例えば恋愛するとずっとボーダーみたいになっていくってことは多々起こります。
しょうがないですよね。密着感ってものが大事なんで。
密着してこそ助けてくれるっていうふうに考え始めると、
分離してるっていう意味では精神病水準よりはだいぶ先に行ってるわけですよ。
母というのは私とは違うものでいて、分離しているんだから、
母には母の都合があるってことは分かるんだけど、でも認められないわけです。
やっぱり私のためにのみ存在していてほしいと。
ここが逆説的なんだけど、そんなふうに思えるんだから、
さぞいいお母さんだったんでしょうって思うかもしれないけど、逆なんですよ。
そんなふうに思い続けるためにいたってことは、
お母さんはあんまりこれをやってくれなかったというケースが少なくないってことがあるわけですよ。
お母さんがまめまめしくめちゃくちゃ密着的にケアしてくれなかったから、
その欲求がなかなか満たされないという状態が続いて、
ましてや自分自身の中にそれを取り込んでその生き方をするってことが難しかったりするわけですね。
母の世話が、ここでどうしてもそれは母じゃなければいけないのかという話がジェンダー問題として出てくるんだけど、
父でもいいんですけれども、やっぱり密着というのは母であったことが最初は多いものですから、
どうしても僕はジェンダーであろうとなかろうと、
まめまめしくめちゃくちゃ父がやってくれるっていうケースはあるはずなんだけれども、
実際にはそれが父と母じゃなくておばあちゃんだったってことも多々あると思うんですけど、
やっぱり密着感、赤ちゃんにとっては密着ということと適切ということが、
適切というのはこの場合、哺乳瓶の温度がちょうどいいかとかそういうことなんですけれども、
適切かどうかっていうのはすごい重要なことですから。
このボーダー水準の中にも去年ですね、かなり分離がうまくいっている、
神経症に近い水準とかいったりするんですけど古典的には、そういう水準とかなり精神病が近い水準とありますし、
我々もこの間を触れていくわけですよ、行ったり来たりすると。
で、大事なのはこの密着ということがですね、いろんな問題というか、
密着とその影響
密着というのは分離しているっていう前提をある意味持っているわけですから、
そういう意味では現実検討について相当進んでいるわけです。赤ちゃんなんかではずっと進んでいる。
でも、でもですね、やっぱりこの水準というのはすごい難しいわけです。
だから逆に難しいみたいなところも言わばあるわけですよね。
思考がテレパシーで漏れるみたいな考え方はさすがにしないわけですよ。
例えば私の考えていることが相手に手に取るように分かっている、これって一体じゃないですか、完全に。
手に取るように分かるはずはないわけですから。
しかし密着というのは、でも例えばめくばせをしたからにはこう思ってるに違いないとかになりやすいわけですよ。
これはテレパシーじゃないんだけれども、やっぱり密着でほとんど一体だから、この水準にあるという状態に我々が入ってしまうわけですね。
例えば、蜂が正面から睨んでいるとかね、そういう発想になってしまう。
オカルトではないんだけれども、物理的な何かを媒介はするんだけど、でも大してオカルトと変わらないっていう発想にはなってしまうわけですよね。
だから正気に違いはないんだけれども、何か正常な判断力を失っているように見えるっていう感じがする。
これもお互い様であることが非常に多いわけですね。
お互い様にだんだんなっていってしまう。恋人関係ってそうじゃないですか。
あなたはこの間、怒ってくれるのやめて割り勘になったってことは別れようってことね、みたいな、そういう話ってすぐ始まるじゃないですか。
最初はいやいや、そんなつもりはなかったとか言ってるんだけども、そんなこと言うんだったらやっぱり別れるしかないよね、みたいな。
いつしかボーダー水準になってしまうわけですよ、その人も。
これはつまり、お母さんがミルクって言ってるんだけども、ミルクを持ってくるとミルク嫌だとかって言い出す年齢がくるわけじゃないですか。
あれは密着型なんですよね。ミルクって言わないと私にミルクを持ってこないのか、みたいな不満を述べてるわけですよ。
それって成長じゃないですか。
赤ちゃんからすると、それが言えるようになるって3歳4歳ぐらいまでいかないと、そしてそれなりに自分の言ってることの意味がわかってこないとそんなこと言えないじゃないですか。
でもそんなこと言われるとお母さんは腹が立って、だったらもう二度とミルク作ってあげないからみたいになるわけじゃないですか。
でもそれって子供に対しては相当行き過ぎた態度でもあるわけですよね。
これはつまり、ボーダーというものがお互い様になりやすいということなわけですよ。
密着なんですよね。密着というのは最初に言ったような感じで、私が気に入らないってことを相手に告げると、相手も自分のことが気に入らなくなってくると。
最初に言いましたけれども、あなたはいつもニコニコしていてほしいっていうお母さんのある種勝手な願望が、
これはつまりお母さんというのが赤ちゃんに対して一方的に密着しているとも言えるわけですよ。
そういう状況の中に入り込んで、それが操作できているか、あるいはそれを操作することがいいとでも思っているところがあるわけですよ。
赤ちゃんの情緒は赤ちゃんのものじゃないですか。分離してるっていうのが本当ならば。
でも私の前ではいつもニコニコしていてね、私の前ではいつも健康でいてねっていうのは、結局は密着感が抜けてないってことなんですよね。
自分がその相手の中に入って操作しても構わないと思っていいことであれば。
でもそんなことはないですよね。
学校ではひどいものをやっているのかもしれないし、勉強が分からなくなってきているのかもしれないのに、
いつもあなたはいい成績で、いつもあなたはおごきげんでっていうことを強要する権利は本来ないはずで、
これを強要してもいいように思えるということは、つまりボーダー水準というものにハマっちゃってるというお母さんが一見したところそうではないつもりでいるんですけれども、
多分そうなるんです。
これがよく相談者と来談者の間でもしょっちゅう起きちゃうわけですよ。
だから相談者と来談者がお互いボーダー水準に入り込むというのは、無理からぬことなわけですよね。
だってやっぱりライフワークで言うとですよ、
母子関係の気づき
例えばタスクシュートとかを紹介したら、あなたはちゃんとタスクシュートで成果出してね、なっちゃうじゃないですか。
そんなこと言う権利はどこにもないはずなんだけれども、朝起きられませんって言ってる人に対して、
タスクシュートとかで何でもいいんですけど、スリープなんとかで記録をつけて、
いいタイミングで寝て起きれば起きられるようになりますからって言って、はいわかりました、やってみますみたいなことを言って、
やっぱり起きられませんっていうのを100回ぐらい続くとカチンと来たりするじゃないですか。
何回俺はこれを言えばいいんだみたいな、これをちゃんとやれば起きられるはずなのにみたいなことを言い出すっていうのは、
本来そういうことを言う権利はないわけですよね。
相手の情緒とか行動とか生活の中に入っていって、そこを操作するということをやってないわけですし、
やる権利もないわけなんだから、この方法では全然うまくいかないと、
相手の人が、これは雷談で来てるわけですから、100回言おうと1000回言おうと構わないわけですよ。
それの期待に応えて結果を出すということをしなければいけないという理由はないわけですよね。
これはよくあることですよね、でもね、期待に応えて結果を出せと。
みんな言うじゃないですか、プロ野球選手とかね、親は子供の成績についている、期待に応えて結果を出せと。
つまりこれは水準が密着になってしまってるわけですよね、分離になっていないと。
結果を出すかどうかは当人の問題であって、この期待に応えて結果を出すということになると、
つまり結局のところ、母親の意思というものが自分の意思でなければならないってことになってますよね。
母親の喜びが自分の喜びでなければならないってことになってますよね。
これは本当にライフハックみたいな世界の一見したところ分離と、個人主義的な、そういうのを最近読んだんだけど、
個人主義的なものだから、分離されているとでも思っているようなんだけれども、そんなことはないんですよね。
いや、GT2でうまくいくはずでしょうとか、タスクシュートタスクシュートうるさすぎるよねとか、記録記録って言うけど記録で何ができるのとか、全部同じですよね。
で、それを言われた方も言ってる方も何かを過剰に期待してるんですよね。これでうまくいくって言ったじゃんみたいな、そういう分離になってないわけですよ。
ものすごくこれは多いと思います。全然不思議な世界じゃなくて、全然個人主義的ではないわけですよ。
自由じゃないと言ってもいいと思うんですけど、期待に応えるとか、期待をしたらその期待に対しての結果が何か現れるとか、そういうものが勝手にと言っていいのか、微軌道的に蠢いてしまうわけですね。
で、私が昔々、本当にだいぶ昔、割り込みが入るんですって話。割り込みの記録とか、割り込みの対応の仕方とか、いろんなことを告げても割り込まれるというか、割り込まれるんですっていう話が終わらない。
なんか気がついた時にはその方がやってきて、私に割り込みの相談をしている。上司が割り込むと。
私も当時はめちゃくちゃ鈍かったから、それに対してタイマーとか、メモとか、ノートとか、エヴァノートとか、パスクシュートとか、GDDとか、ありとあらゆることを伝えて、全部無駄になっていくっていう、そういう感じで、
その人を見るともう何だか欲朽的な気分になって、なんかげんなりするみたいなことが起きるわけですよ。
これがその人が割り込まれている上司を見た時にげんなりしている気持ちというものが、私に押し込まれるということだったわけですよね。
他にもいろんな言い方ができるんだけど、つまり割り込みというのは密着ですよね。
押し密着ですよね。
だから割り込まないでほしい。これはこれで、やっぱり子供が母親を見るみたいな態度じゃないですか。
破綻恐怖について
だから私もそれが映ってるわけですよ、私にも。割り込まないでほしいと。
そしてそれをずっとやられているうちに、はたと気づいたわけです、このことに。
だからこれは大変ですよねっていうことを言ったら、その方は来なくなる。
これ成功だか失敗だかわかんないですけど、来なくなっちゃったわけだから。
ただ、これが伝わるってことなわけですよね。
ここで初めて密着というものがある意味終わったわけですよ。伝わったから。伝えたかったわけですから。
だからその方は来なくなった。分離に成功した。だからそういう意味では成功なんでしょうね。
分離に成功したわけです。
その人と私の間には、もはやボーダー水準が発生するしかない状態に入ってたんだけど、
上司とその人の間にボーダー水準が絶え間なく続いてたから。
だけれどもこの水準が終わりをこの件については告げたわけですよ。
ボーダー水準というのは抽象的に卒業することはできないんですよ。
卒入とかって言うじゃないですか。確かにおっぱいをもらうのは卒業できるかもしれない。
でも甘えるのは卒業できない。遊んでもらうのも卒業はできない。
卒入はできても卒業する対象はいくらもあるわけですよ。
私たちは永遠に一生、母親から完全に卒業することは私は思うにできないわけですね。
だからボーダー水準というのは私たちにとっては一生もんだと私は思うんですよ。
永遠に終わることはない。
だから仕方がないというのも変なんですけれども、
このことを過剰に考えないというのが大事なのかと思うんですよね。
例のあれです。あなたのありきたりの不幸を特別な不幸に変えない。
逆ですけど、特別な不幸をありきたりの不幸に変えましょうってことなんですけど、
そうですよね。ありきたりの不幸じゃないですか。
お母さんが暑いのに間違ってミルク持ってきます。ありきたりの不幸ですよね。
赤ちゃんはパニックに陥る。これが起きたら大変なことになる。
私もそう思ってましたから、幼稚園でお漏らしした時、
ああ、この世の終わりだみたいな気持ちになりましたけど、別になんてことはないわけですよ。
着替えを用意してくれて、汚れ物をビニール袋に入れて持って帰って、また母に怒られる。
その時も絶望的な気持ちになるんだけど、別にそんなことはどうでもいいことなわけですよ。
だからこれは破綻というのは、つまり破綻恐怖というのはですね、
一体であったら破綻ですよね。一体なんだから。
一体であるのに母がどっか行きました。破綻ですよね。
密着しているという人にしてみても、やっぱり母はもうあなたの世話はやめます。
これは恐ろしいことですよね。ものすごく。
それは自分にとって人生の終了を迎えるのではないかと思えることですよね。
だから失恋ってつらいですよね。
でも失恋はありきたりじゃないですか。
世界中でそれは行われていることであって、しゃあないですよね。
だってそうは言ったって、ボーダー水準の男性が女性にもう完全にストーカー状態に近くなっていて、
いや、俺の面倒一緒に見てくんないと困るんだからみたいなこと、
それはものすごく愛情深い表現に聞こえるかもしれませんけれども、
幼児期の影響
いやもう勘弁してよってことになって、二度と電話しないでとか言っちゃうじゃないですか、女性がしばしば。
これは母親に見捨てられた2歳の少年という立場からすると、
絶望的な気持ちになるわけだけど、そんなこと言われても困るじゃないですか。
だからこういうことは起きるわけですよね。
で、その男性は自分が2歳児ではないということに思い立って、
そんなことはわかってるって言われると思うんですけど、
でも情緒的には2歳児まで戻ってしまっていて、ボーダー水準に入っていて、
密着していなければ自分は会社にも行けない、授業も取れない、勉強はできない、
人と話すのもつらいっていうことがあり得るわけですよね。
だけれども、それは自分が持ちこたえるよりも仕方がなくて、
なんでそういうことが持ちこたえられないんですかってことになったときに、
別に過去をほじくり返したいとかではなくて、
多分2歳のときに十分満足させてもらえなかったことがあったりしたんですよっていうことが大事なんですよね。
お母さんの親友がひどかったんですよ。
親友がひどいってことと適切な世話ではないっていうのがどうして一致するのかって必ずなると思うんですけど、
そのときには例のご機嫌でいなきゃいけない問題ってのがあるってことですよ。
つまり随分いい子に育てられたからお母さんはまめまめしく世話をしてくれたって思っちゃうかもしれないけど、
そうじゃないじゃないですか。
まめまめしい世話っていうのは密着感があるときには、ミルクが欲しいときにはミルクが来ることを言うんですよ。
ミルクが欲しいって言ってんのにチープ玩具とかを与えられて、2足すには4。
わー素晴らしいね、しょうごくんとかやってる場合じゃないわけですよ。
そういうことをやっていて、いい気になっているから、
ボーダー水準の満足が不平不満のもとに置かれる時間が長くて、
妙に優等生っぽいんだけれども、
気がついてみると、女の子を見ただけでミルク持ってきてくれないかな、みたいな男の子が育っちゃう。
そういうようなことってあるわけですよ、いくらでもね。