00:05
おはようございます。精神力動的な人生相談、第1222回をお送りします。
7月18日、金曜日、8時7分です。
あのですね、もしかするとサーって音が聞こえてしまうかもしれないんですけど、もう結構風邪をですね、あちこちから自分に吹きかけていて、しょうがないんでですね、
ここはしばらく容赦していただきたい。しばらくというのは、たぶんここ1ヶ月半以上ってことになっちゃうんですけど、何しろですね、クーラーがないところでやるのはこの形しかないなという状態。
あと、何か考えついたらやりますけど、本当にもういっぱいいっぱいなんで、これでご容赦いただきたいと思います。
何しろ暑いんですよ、とにかくですね。まだそれでもここの空間28.6度ぐらいなんで、なんとかなってるんですが、ここが30度超えたらちょっとここでは撮れないかなみたいな。
もうちょっとですね、夏のうちだけでも夜撮りに一向する可能性はあります。
今撮って今出すっていうのが一応のスタイルなんですけど、もういっぱいいっぱいになりつつありますので、しょうがないと思っていただければ幸いです。
境界性と自己愛の混乱
はい、でですね、今私はついさっきですね、昨日もお伝えしたナンシー・マフィリアムズさんのパーソナリティ障害の精神…
ダメだ、タイトル出てこないので、分厚い本を読んでいたんですけど、その中のですね、自己愛性パーソナリティ障害の項目を読んで、やっぱりよくわからんと思ったんですよ。
やっぱりというのはですね、たぶんこの項目は私にはしっくりこないだろうなと思ったんですね。
もちろんそこに書かれていることは、普通に自己愛あるあるといえばそうなんですけど、でもですね、自己愛あるあるの奨励主義みたいなのから描写されていても、それは最もだと思うんだけど、しっくりこないんですよね。
やっぱり彼女のナンシーさんの本は抜群にいいのはですね、ボーダーのことが、しかもそれは水準として書かれていることなんですよ。
私は、これはよく思うことなんですけど、正規の人は別ですよ。正規の人は一旦全スルーとして、全スルーというのもあれですけど、いわゆる非正規の、野良カウンセラーでもいいんですけど、の人がボーダーという言葉を使ってないことの方が多いんですけどね。
ボーダーという言い方をしていないならば、HSPとか発達障害という言葉をどう扱っているのかについて、よくよく吟味するというのが、その人の一つの、この言葉は良くないと思うんですけどね、資金積的な何かになると思うんですよね。
ボーダーと自己愛だなって私は思うんですよ。この2つの言葉は本当に困ったほどはね、特にボーダーの方は使い方が尻滅裂。カンバーグという偉い人がですね、私カンバーグの本も全部読み直さなきゃだなと思ってはいるんですけど、今さすがにちょっとナンシーさんの本だけでも分厚いし、まだ松木さんの本の中でも読んでないのがいっぱいあるんで、
ちょっと松木くんひろさんの、ちょっと今手が出せないんですけれども、ババレイコさんの本を読んで、昔カンバーグの本を読んだのをちょいちょい読み直してお茶を濁してしまっているんですけれども、ボーダーという言葉は本当、言葉の整理はさすがにですね、私の中で一応ついてるのはカンバーグさんがつけて、ババレイコさんがそれをがっちりわかりやすくしてくれたのをただ僕が読んで納得したというだけなんですけれども、
でもボーダーって本当に困った言葉なんですよ。ボーダーって要するに境界性人格障害とか、境界性パーソナリティ障害とか、そして境界例とか言われているものなんですけど、つまり水準の話でもあるわけですね、ボーダーというのは。
境界線水準っていう、何の境界線かというと、これももう古い話なんですけど、精神病と神経症の境界線と言いたいわけですよね。どっち、なんて言うんですかね、ここに一線あるよっていう非常にもう昔の概念なんですよ。
それはしょうがないとして、昔だから。問題なのは、というような人もいるよね、みたいになってるんですよ。水準の話だったはずなのに、性格の話みたいになってるんですよ。水準の性格っておかしいだろうって。そうすると精神病という性格とか神経症という性格があることになっちゃうじゃないですか。
でもこれがありそうに見えるんですよね。ありそうに見えるおかげで、境界性パーソナリティっていうパーソナリティと境界線という水準とか、つまり水準で言うと横に分けていく感じじゃないですか。線ってだいたい水平線で横に引いていくじゃないですか、人間。
ウェブデザインにも水平線ってあるじゃないですか。ちょっと名前忘れましたけど、これがボーダーラインじゃないですか。横に線引かれてます。そうするとパーソナリティって縦じゃないですか。いろんなパーソナリティ、性格の水準と性格があるわけじゃないですか。そうすると横軸と縦軸になるじゃないですか。
つまり、例えば、判定はいいんですかね。抑鬱パーソナリティの精神病水準、ボーダーライン水準、神経症水準。要するに精神病水準の抑鬱な人、ボーダーライン水準の抑鬱な人、神経症水準の抑鬱な人っているはずですよね。
そういう意味では、精神病水準のシゾイドの人、これはもうシゾイドって明らかに精神病から神経症まであるパーソナリティなんで、神経症水準のシゾイドの人、ボーダーライン水準のシゾイドの人って、これはあると思うんですよね。
ところが、ここまでは、こういう話だったらとても分かりやすいんですよ。分かりやすくなかったものだけど、要するに縦軸にいろんな性格があるわけですよ。10個ぐらいだったかな。
要するに、例えばパラノイドとか脅迫性とか自己愛とか、そういう性格があるわけですよ。縁起性とか抑鬱性とか回避性とか。
横軸に精神病、ボーダーラインと神経症っていう横軸に水平線に、綺麗に分ければ、こんなに綺麗に分かれるとはとても思えませんが、一旦綺麗に人間分かりやすくするのも大事なんで、綺麗に分けるとこうなるっていう話。
横軸に境界線があるのに、縦軸にも境界性パーソナリティってあるんですよ。そしたらわけわからなくなるじゃないですか。それってどっちの話をしてるのってことにどうしたってなるじゃないですか。どっちかの名前変えるべきだったんだけど、同じ名前なんですよ。
何でもいいじゃないですか。じゃあ、いわゆるボーダーラインっていうものがあり、ボーダーラインパーソナリティってものがあったら、じゃあ、ボーダーラインパーソナリティの神経症水準っていうのはどういうことになるんだみたいに、大混乱するじゃないですか。
何のカウンセリングだったとしても、カップルカウンセリングだろうと、スクールカウンセラーであろうとですね。
スクールカウンセラーの人がそんな話をするかどうか知りませんが、そもそもスクールカウンセラー、非正規いないか。
だから非正規の占い師は良くないな。占い師は良くない。
なんかこう、どっかで聞いたことがあるんだけど、よく考えてみると聞いたことがないぞっていう心理師さんみたいな。
なんかよくわかんないんだけど、適当に言うと批判になっちゃうんで、ちょっと今造語を作り出したいんですけど、作り出せる気がしないんでやめますな。
なんかこう〇〇〇超心理師みたいな人がいたとしてですね、その名称がうさぐさいかどうかはあんまり考える必要ないと思うんですよね、私は。
問題なのはその人がボーダーという言葉をどういうつもりで使っていて、
例えばナルシシスティックって言ったときに、そもそもこのナルシシスと言えるかナルシスと言うかの意味をナルシストって言うじゃないですか。
ナルシシストって言うべきなのかナルシストって言うべきなのかで悩むんですけれども、
まあ所詮日本語のカタカナに直してしまうと元々の言葉の意味ってあんまりないからですね。
どっちでもいいんですけど別に。あれナルキシソスですよね、ギリシャ神話だったら。
ここにベースがあったわけですよ。そんなことは知らなくても別にいいと思うんですけど、
でもナルシストって言ってしまったときにその人がなんか自己愛で自分大好きでなんかちょっと自分に惚れ込んでいる頭の少し変な人みたいに扱っているかどうかの水準ってあると思うんですよね。
まあ難しい話になってしまうんですけどどうしても。
逆転移の影響
つまりそれは何が言いたいかというとですね、これが私が今日言いたいことなんですけれども、
どうしても私たちは、例えば転移逆転移みたいな話をしたときも、
どうしても私たちは訓練を受けているわけでもないのに何か逆転移って言ったときには患者のせいにしてるんですよ。
患者というか参加者というかユーザーというかクライアントというか何でもいいんですけど、来団者でもいいんですけどのせいにしてるんですよ。
この人がナルシシストだから私はイライラするんだみたいな。ここをメラニ・クラインがものすごく今しめたわけですよね。
お前が勝手にイライラしてるのは相手のせいにすんなよっていう言い方をしてるわけですよ、彼女は。
そうすると逆転移というものはほとんど使えなくなるので、だから彼女は逆転移ってことに非常に批判的だったんだと思うんですけど、
でもこの姿勢っていうのは、訓練受けた人はここで禅するわけ。訓練受けてるんだからまあよしとしようと。
だけど訓練を受けてるわけでもない非正規の人は、まあ非正規の人は僕は訓練を受けてないものと一応考えてるわけですけど、僕受けてないからね。
訓練を受けてない私たちのような非正規の人間は逆転移っていうものをどう扱うかは、逆転移は起きるんでどっちにしても。
たとえ相手が持ち込んでるものであろうと、私が勝手にイライラしてるんであろうと、起きることは起きるんですね。
ここが大事だと僕は思うんですけど、逆転移が起きたっていう時に一番起こるのがボーダーと自己愛だと。
私はまあ結局欲打つでも起きますし何でも起きるんですけどね。
でも欲打つとか脅迫症の傾向があるだけって、オブセッションがあるだけっていうなら、ある意味それは独立した事象に見えたとして、そういうふうに扱っても一応大丈夫なんですよ。
ここが僕は自我心理学をはじめとして、特に一般的にカウンセリングって言ってる時にやらないように気をつけてるとは思いますよ。
でも正規であったとしても、一般正規はスルーして、非正規の人はこれをどうしても少年診断主義を読むと、自分というものをニュートラルにして無色透明にしてしまってですね、
自分が影響を受けているからその人がそう見えているっていう観点を落としやすいんですよ。
私はもう自分でもこの失敗はすげーするって思うんですよね。すごいするんですよ。ついつい相手のせいにする。だから私アセスメントしないっていうことにしているわけですね。
下手にアセスメントしちゃうと、相手にこのレッテル割りをすることが良くない、良いって話とは、これは僕はちょっと違うと思うんですよ。
レッテルがいけないって話なら僕らみんなできるじゃないですか。
でも、貼らないとわけわかんなくなりますよね。私がよく心身症の皮膚病なんだけどって言ってからアトピーデスみたいな言い方をしてますけど、
これはアトピーデスって言っといた方が便利なことは確実に便利だし、こういうのは全部いちいちですね、レッテル割りが嫌だからと言って、
扁桃腺が腫れたっていうのも、いやこれは扁桃腺が腫れたラベルはいけないから喉がなんとか菌に侵された可能性があってうんたらかんたら言っていても、
そのように長くなりますよね話がね。そうでなくても長い話をこれからしようとしている時に、こんなことやってたらラチが開かないっていう感じになってくるんで、
だからこのラベルがいけないのではなくてですね、いけないのはいけなくはないんだけど、あんまり良くない。
自分が特定の影響を受けやすい、例えばある人はナルシシストに対して全く腹が立たないっていう現象が起きるんですね。
そういう人っているんですよ。一方でシゾイドの人を見るとめちゃくちゃ腹が立つと、逆もあるわけです、当然。
だからナルシシストの人と相対していると大抵の人は非常にイライラするか落ち込んでくるかするはずなんだけれども、
例えばですよ、抑鬱の人を見るとイライラするって人とすごく気の毒になるって人と完全にこれは分かれる、
まあ完全には分からない、いろんなパターンあるけど、この2パターンはあるわけですよ。で、この2パターンって違うじゃないですか。
抑鬱症の人を前にしたら逆転移としてこういうことが起きますって、そういうようなことがまた物の本には書いてあるわけですよ。
こういうことが起きがちですよと。でも起きがちなのとそれが起きることは違うじゃないですか。
逆転移って絶対に鑑定に使われてしまうので、その人が何であるのかという鑑定に絶対に使われてしまう。診断でもいいですけど。
診断に使われてしまうので、だからこの逆転移っていうものはニュートラルな人だと自分を考えていればいるほどおかしなことが起こるはずなんですよね。
だけど我々は自分がニュートラルに感じられるものだから、自分が病理だって思う人っていうのはよっぽどなんだと思うんですよね。
自己のニュートラル感
よっぽど病的なところがあるんだろう、私よっぽど病的なところがあるから自分がニュートラルだとは信じられないわけだけど、普通そうじゃないと思うんですよ。
僕でさえ健康になった時にはニュートラル感を持ちますからね。やっぱりこんなに病理がひどかったところがある人間でも健康感を持っちゃいますから、健康感を持つとニュートラル感を持っちゃうんで。
だからフロイトも言いましたけど中立であれみたいな。中立であれるわけがないと思うんですよね。全然中立じゃないわけですよ。
どう考えても中立な人なんて僕は出会ったこともない、一度もないですよね。
この人って健全でバランス取れてるな、一人もいない。
だから自分が、なのにですよ、一人も自分が何人に逃げ合ってきたと思ってるんだっていう感じなのに、これだけ会ってきてニュートラルで健全でこの人の物の見方バランス取れてるなって人がいないのに、自分はそうであるなんて考えられないじゃないですか。
で、私は明らかに偏ってるんで、自分の経歴から考えても偏ってるし、心身症もすごいひどかったですしね。精神病水準にひどい心身症だったんで。
と思えばですよ。だってあの、なんて言えばいいのかな、もうなんかこう、大学時代なんて、嫌なことがあったら酒飲んではマスターベーションして、酒飲んではマスターベーションしてましたからね。
本当に正気とはとても思えないっていうか、ちょっと明らかに半分気が狂ってたと、一般的な言葉を使うならね、自分は間違いなくそう思うんですよ。
ああいう経歴を持っていて、どうこうどう押せばニュートラルなんだと。だからニュートラルじゃないわけですよ。
でもニュートラルな感じを持ってしまうし、結局アセスメントってニュートラルであるからできるっていう意味があるわけじゃないですか。
ここの矛盾が困るわけですよ。
アセスメントっぽいことを一切しないということになってくるとですね、取り付く暇もないわけですよ。
自分がわからないような話が始まったときに、何をどういうふうに考えればいいのかわからなくなるので、
私はですけど、ボーダーとアナルシシズムっていうのはもう、どうしたって、後は欲打つ傾向ってやつですけど、欲打つはでもですね、
何点だろう、その人を独立した欲打つ者と見ても、そんなに大外しはしないんですよね。
だったら、例えば毎日毎日、毎回毎回鍵は3回ずつ確認し戻りますっていう人って、
私の逆転医がどうであれ、私が見ていようと見ていないと、その人の行動を見ることになって、
この人が脅迫的な成功があるなっていうのは、目で見て確認できるじゃないですか。
話を聞いていてもそれってわかるじゃないですか。
つまり、あんなにそこのところに対象関係みたいな話を持ち込まなくてもいけるっていうところがあるわけですよね。
だから直せるって話じゃないですよ。
この診断が大幅に外れるってことは、私の偏見のせいで、この脅迫性を見逃すってことがあんまり起きにくいわけですよ。
例えば今、選挙の真っ最中ですけど、私が極右、ちょっとやめておこう。
右派だとすると、この人の脅迫性は脅迫性に見えないが、リベラルだと脅迫性に見えるってことは起きないってことですよ。
でも、相手の人が、例えば抑鬱症の場合、右っぽい人、右っぽい人がマッチョだとしよう。
マッチョっぽい人が見るとですね、「いやいや、ちょっとそれは心が弱すぎない?」みたいに見えるかもしれないけど、
リベラルの人を見ると、「いやもう世の中ひどいからそうなってもしょうがないよね。」変わるじゃないですか、見え方が。
だから、一般的にメンタルの話をした時に、逆転がどういうふうに起きるのかは、その人の性格とか価値観の偏りによって揺れるんですよね。
で、一番僕が揺れやすいなと思うのが、発達型とかHSPというふうに言われているもの。
それが特にボーダー水準に入ってきた時っていう言い方をして許されるのかどうかは知りませんけど、
でも私はまあ、これは今のような世の中である以上、こういう言い方を力道側はしなければならないのではないだろうかとは、
僕も力道側ではあると思って、非正規だけど。だから、こういう言い方はできるだろうと思ってるんですよ。
ちょっとわかりにくい話だったかもしれませんが、水準なんでボーダーラインっていうのはあくまでも。
で、多分僕はHSPとか発達性はね、パーソナリティに近いものとみなされている。
繊細さんとかって言うじゃないですか。繊細って性格ですよね、ある意味。
だから繊細な性質を持っているっていうことと、その水準がどこにあるのかっていうことを掛け合わせるってことは考え方としてあり得ると思うんですよね。
ボーダーラインと精神的偏り
で、その時にその人が、非正規なりのカウンセラーさんが何を見るのかっていう、
そこにボーダーラインっぽさを見た時にそれをどう扱うのかっていうのは、すこぶる興味深いところだとは思うんですよ、私はね。
そこを見ていけば、その人をどのぐらい信用していいのかを自分なりには判断できると思うんですよ。
他の人がどの程度その人を信用するかは判断できないけど、
自分なりにはその人のことをどの程度信用していいのかっていうのは、ある程度はわかると思うんですよね。
その、やっぱり一番見る価値の高いポイントが、自己愛とボーダーラインをどう扱うかっていう。
しかも自己愛とボーダーラインでかぶってくるんで、かぶってくると僕は思うんで、
簡単に話は進まないんですけど。
で、多分今日のこの番組のタイトルにするんではないかと思っているんだけど、
また19分のタイミングだからわかりませんが、
私はですね、最近気がつくと、この朝の早朝の時間に松木さんの本をなりを読み、
ナンシンマクレームズさんの分厚い本を読んでいるうちに気づいたことなんですけどね。
朝のこの時間帯に松木邦博さんの本を読んで、
昼のセッションとかを、その一日の最初のセッションとかをする、
初めの頃の前に、直前じゃないんですけど前に、
藤山直樹さんの本を読んでいることが多いなということに気づいたんですよ。
で、なんでなんだろうって考えてたんですけど、
結局僕は、
自語にしか松木先生の本って先生言っちゃってますけど、
自語じゃないとよくわかって、十分意味を持たないなって感じがするんですよね。
事前に読むといいような本もあるんだけど、それはエッセイっぽい本なんですよ。
何が言いたいかというと、
例えば藤山直樹さんがこれはよく書かれていること、時々書かれていることなんですけど、
事故愛の人っていうものの、事故愛というものの判断は、
彼はそもそも事故愛ってこともあんまりついてませんけど、
事故愛っていうものの判定は、
自分はその人に対してどんな感情を抱くかだっていう言い方をされてるんです。
症例診断主義では全くない感じがするんですよ。
この人は存在であるとか、自分の空想の世界から人を見下しているとか、
そういう症例的なもの、つまり客観的に事故愛みたいな人って、
いるのかいないのか知らんみたいなニュアンスがあるんですよ。
すごく現象学的っていうのかな。
でも、事故愛の人との運と愛に対していると、
自分はこういう気分にさせられるっていう、
こういう気分にさせられると、
この人は事故愛なんではないだろうかという感覚がきざすみたいな、そういう言い方をするんですよ。
私は、実際に人と接触しているとき、これ以外に何にも頼れるものがない感じってするんですよ。
だから、構造を見るとか、ボーダー水準について考えるとかいうことをしながら、
人の話って聞けないんですよね。
人の話を、松木さんの言葉を借りると、一心不乱に聞いていると、
そんなことは全部すっとむんで。
で、すっとんだ時に出てくるものっていうのは、でも何かっていうと、
私の情緒的な揺さぶられ方なんですよ。
あるんですよ、やっぱり。
事故愛という人の、特に事故愛パーソナリティと呼ばれている人っていうの、
いう人と愛に対していると、
なんというか、東畑海人さんが書いていた表現を借りるのは、
自分はこう、何て言うんですかね、
自分がここにいるということは無視されているみたいな。
でも、自分が無視されているわけじゃないんですよね。
理論的枠組みの重要性
すごく事故愛の感じっていうのが、
この事故愛の感じって、ちなみに3ヶ月チャレンジの参加者さんとかではないんですよね、私の。
パッと思い込むのは、むしろ派遣社員時代の上司とかなんですよ。
パッと思い込むのは。
なんかね、むしろ社会的適応が高かったりするんですよね。
あるいは、セミナーに来てくださった方の中で、
すごい困らされるっていう経験をしたときに、パッと思い込むんですよ。
そういう感じなんですよね。
なんかこう、セッション何度も受けるっていう。
だから、そこら辺が私は対象関係としての、
私が対象化してるんだろうか、そもそもその人たちにっていうような関係の人の方が、
だからですね、レッテルバリアになりやすいんですよ。
あの上司本当無視だよね、みたいな言い方になりやすいと思うんだけど。
でも、それはやっぱり私が受けるインパクトであって、
他の人がそう受けてるかどうかは分からなくていいと思うんですよね。
ここが対象関係なんですよ。
客観的診断基準みたいなものは大事なんだと思うんですけど、すいません。
客観的な診断基準みたいなものですね。
でもそういうものって、このセッション中はハナハナ使いにくいなと思うんですよね。
チェックボックスとかチェックしたりすればいいんでしょうけれども、
良いのかどうか分からないじゃないですか。
それは相手の人もやまるかもしれないですしね。
だから、そうじゃないなって感じがします。
だからナルシシズム、ナルシシスティックっていうのって、
自己愛っていうのは、例えばゼロ歳児自己愛みたいな、
すっごく現象的なところに戻るってことになってるわけですよね。
でも一方で、これにすごい矛盾する感覚があるんですよ。
自己愛の人の、いつも相対してる時に私が感じる感じは、
藤山直樹さんが感じてる感じと似てなくはないんですけど、やっぱり似てなくて。
何が言いたいかというと、私やっぱりですね、小バカにされてるって感じが、
ネリフスコンプレックスみたいなものを刺激されてる気がするんですよね。
競争相手にさせられていて、しかもどっちかというと勝てそうにない。
だから上司なんですよ。
これ非常に大事なポイントなんですよね。
私が、例えば派遣社員時代、派遣社員だったから、
ああいう感じを抱いたのではなかろうか。
藤山直樹さんが言う通り、これは対象関係にあるから、
そういう感じを抱いてしまうのではないだろうか。
あの、まあありえないことですが、
例えば、あの会社で私がオーナーをやっていたら、
あの上司のような人に対して、果たして彼がナルシシスティックであることを気にしただろうかと思うと、
私の性格から言っても全く気になってないだろうなと思うんですよね。
つまり、ナルシシズムというものは体験なんだ。
ナルシシスとか、というのは体験なんだっていうのがすごく大事なんですよね。
これはパーソナリティをチェック項目75当てはまるから、こう、そういう性格なんです。
そういう性格ってことになると、その人は他の人と言おうといまいとそういう性格の人が
こう来て歩いてることになるじゃないですか。
しかし、対象関係ってそういう考え方じゃない気がするんですよ。
赤ちゃんはお母さんをめちゃくちゃ当てにしていますと、
だからその赤ちゃんはナルシシスティックな状態にあると言えるわけですよね。
言えるというのか、フロイト流に言うと一時ナルシシズムの状態にあるわけですよね。
クライン流に言うと一時ナルシシズムっていうのはないから、ナルシシズムは全て二次だから、
そういう一時ナルシシズムみたいなものは認められてない感じなんですけど、
一時ナルシシズムってものがあるとすると、
それって赤ちゃんがナルシシズムだっていうのを一番敏感に感じ取るのはその母親じゃないですか、当然。
自分が当てにされてるわけだから。
このどっかですごく当てにされておきながら、その人の存在は頭から無視されている。
私はですね、これちょっとあんまり良くないと、
フェミニズムの人には非常に面白くない話だと思うんですけど、
私はこれが良いと思ってるわけじゃないから言っちゃいますけど、
やたらとおっぱいが大好きな男の人っているじゃないですか。
私はあれはつまりナルシシズムだと思うんですね。
その人って女性の身体をすっごく当てにしてるんだけど、
女性そのものというものが目に入ってない。
そこまで言うのはちょっと行き過ぎかもしれませんけど、
つまり女性が部分対象と化してますよね。
全体対象としての女性にあんまり興味がないですよね。
赤ちゃんってまさにそういう状態じゃないですか。
赤ちゃんしばしばおっぱいはお母さんだと思ってるんで、
大きさからしてしょうがないんだけど、
おっぱいぐらいしか大きさがないっていう状態の赤ちゃんもいるわけなので、
そういうふうになってくると全体はそもそも見えないから見えないんですよ。
ナルシシズムと人間関係
赤ちゃんって最初弱視に近い状態で生まれてくるんで、見えないからしょうがないんですよね。
だから一時ナルシシズムに罪はないわけですよ。
もうそういうものがあったとしてですね。
もっともだから、暗いに寄せると一時ナルシシズムはないんですけど、
だからその、なんだっけな、これ藤尾直樹さんが書いていて、
そうかそういうことを言えるかって思って考えさせられたこととして、
健康なナルシシズムだとはフロイトも言ってないと、
健全なナルシシズムって言い方はしているけどみたいな言い方があって、
とにかくナルシシズムってのは健康ではないんだっていう、そういう話なんですよね。
つまり、おっぱいが大好きな男の人って、僕はでもこの比は大変大事だと思うんですよ。
なんかこう、それってすっごくおっぱいは大事にしてるわけじゃないですか。
ある意味すごく欲しいわ。だけど女性は必ずしも欲しくないみたいな、
あんまりこれが極端になるとすごい嫌な感じになるけど、
これがものすごくマイルドになればそれほど嫌な感じはしない可能性はあると思うんですよ。
で、ここから飛躍するようなんだけど、私は全く同じ話をしている人が、
言われると侵害かもしれませんけれども、
人の目線はやたらと気にしているけど、その人は人の目しか気にしてないっていう人っているじゃないですか。
私、これとおっぱいが欲しい男と大して変わらないというか、基本同じだろうと。
目が部分対象と化してる感じがしますよね。
つまり、ある意味ではすごくその人は他人の目線を怯えたり気にしたりしているようでありながらも、
しかしそれって、人を観客扱いしてますよね。
で、我々は観客じゃないですよね、っていうことなんですよ。
自己愛の影響
友達であれ、上司であれ、あるいはカウンセラーであれ、
戸畑海人さんはそれをうまいこと、私あれは疑惑化しているんだと思うんですけれども、
離婚していった奥さんのことがあって以来、やや欲打つ気味に塞ぎ込んでいるっていう人が来たときに、
iPodかな、AirPodsかな、AirPodsを忘れていったみたいな話が書いてあって、
それは自己愛として扱われているんですけど、その男の人は。
観客にさせられているような気がすると。
帰るときになると耳をAirPodsの音で塞いで、来るときもそうで、
外界の音は一切シャットアウトするっていう、そういう人の話が出てくるんですね。
これを自己愛として書いてるんですけど、
ただ私はですね、ここに、その自己愛の人っていうのは、水準として病理と言い切れるかと。
オーダーライン水準、精神病水準では明らかにないんで、成功者であり、
その辺があれなんですよ、成功もしているし、うまくやっていて、適応もいいわけですよ。
ただ何かがうまくいかないみたいな話なんですよね。
こうなりやすいんだと思うんですよ、こういう話って。
で、ボーダーでもなく精神病水準でもないとなると、事実上健常に近いじゃないですか。
しかもその人が社会的に成功していれば、誰もそのことで口挟む理由ないじゃないですか。
AirPodsして人に会う直前まで音楽聴いてる人なんて、この世にザラといますから、
別にそんなことどうでもいいわけじゃないですか。
ただ、その人と話をしていると、何かよくわからないんだけれども、
セッションと対処関係
自分が言ってみればないがしろにされている気がするわけですよ。
このないがしろにされている感じがするというのは、
その人は意図的にやってるわけじゃないと思うんですけど、
奥さんに例えば仕事上のうまくいった話を冒頭と語るみたいなね、
奥さんはいらなくなるんですよ。耳だけあればいいことになって。
さっきの話と似てくるんですよね。部分対象と化してくるわけですよ。
カウンセラーも同じなんですよ。カウンセラーって話聞くでしょ。
傾聴するじゃないですか。気がつくと、ひたすら話を聞かされる側に立っているっていうことから、
何かに気づくわけですよ。これが逆転位っていうもんだと思うんですよね。
東和さんも書いてましたけど、ひたすら自慢話を聞かされていて、自分は無視されてる。
でもこれっておかしいじゃないですか。聞かされてるってことは無視はされてないってことじゃないですか。
相手のことはすっごい気にしてるわけですよね。
私はこれと、めちゃくちゃプレゼンの練習をする人がかぶるんですよ。
めちゃくちゃプレゼンの練習をする人って、ものすごく人を頼りにしていて、人を大事にしていて、そういう人すらいるじゃないですか。
お客様のためになら、徹夜しても練習します。
お客様に喜んでいただくためならば、一言一句間違いなく言える。
そうでなければ失礼でしょうみたいな、そういうある種のプレゼン指導みたいなのがあるじゃないですか。
でもそれってお客様を人間だと思ってない感じもするじゃないですか。
こういう独特の、適用はいいし、別にそれが問題を引き起こさない限り何の問題もないんだけど、
でもそこに他者はいなくなっていくような現象って起きると思うんですよ。
対象関係の世界でそういうのが扱えるっていうのが大きいなと思うんですよ。
つまりこういうナルシシスティックな状態とボーダーライン水準みたいなのが被ってきた時に、
その人は結構、なんかよくわけわからんけどものすごく大変だみたいなことが起きるんだけど、でもなんかよくわからん。
これをただ診断しようとすると、すごい難しいことが起きると思うんですよね。
でもこれを対象関係の中の逆転で捉えると間違いなく感じるものがあると思うんですよ。
この人私のことをすごい気にかけてくれるというが、完璧にスルーしてねえかっていうそういう感じを抱く。
そしてそのことから、戸畑さんはそういうことを書きませんけど、藤山直樹さんは割とはっきりと、すごく軽蔑したくなるみたいな。
これはつまり僕は藤山先生のパーソナリティも関係なくはないと僕は思うんですよね。
だからここにその人が何を持ち込むかは関係あると思うんだけれども、
自分のことがわかっていれば十分いいという話なのかと思うんですけどね。
ただこの逆転位っていうのはこういう危うさもあるわけですよね。やっぱりニュートラルじゃないんで。
戸畑さんはわかんないですよ。本音はわかんないんですけど、軽蔑はしないのかもしれないけど、でもなんか嫌な感じがする。
藤山さんを軽蔑したくなるみたいな。ここら辺に僕はエリプスの、エリプスコンプレックスの水準の違いをなんとなく感じるんですけどもね。
自分もやっぱりどちらかというと抑鬱っぽくなってくる気がするんですよ、そういう時に。
多分奥さんたちが、たちがなんですけどね。
その戸畑さんの本の中で出てきたのは、奥さんたちが去っていったのは、結局ずーっと観客にされていることの虚しさなんだみたいな、そういうことを書いていて。
これが対処関係だなと。
つまりそれって、その人の自己愛が病気だとかなんとか、離婚なんて世の中にいくらでもあるわけですから、離婚は病気じゃないじゃないですか、全然。
いいんですよ、全然。だけれども奥さんに去られてつらい、しかもその理由がよくわからない。
別になんかこうね、DVしていたとか、十分な生活費渡さなかったとか、毎日ファシンコに行ってましたとか、そういうことじゃないわけだから。
で、割と良好だった感じがするんだけれども、なお去っていかれたみたいな話があって、しかもそれがつらいという話があるのに、あるのにですよ。
戸畑さんのようなカンセラーの前に行くと、仕事上の成功の話ばっかりし始めるっていうのは、やっぱり何かがおかしいわけですよね。
おかしくないんだけど別に。おかしくないんだけどおかしいわけですよ。
こんなに一生懸命仕事して、こんなに成功してるんだけど、なんか女の人はいなくなっちゃうんですよみたいな、そういう話なんだと思うんですよね。
とりあえず通じる話じゃないですか。でもこれが毎回毎回毎回続くとなってくると、話は違ってきますよね。わからないですけど。
私はこの、こういう、戸畑さんの本ではないんですが、こういうような話を事前に、事前というのはつまりセッションが始まる1日の始まりには読みたくなるんですよ。
こういうアプローチじゃないとつかめないんですよね、何にも。結局モデルケースとか馬場玲子さんが書いてくださっているような綺麗な図は、あれを参照しながら人の話聞くわけにはいかないんですね。
縦の分別と横の分別みたいな、ああいうものを構造みたいなものを念頭に置きながら、この人は相的になっているんじゃないだろうかみたいなことをやっていると、相手の話を無視することになる。そんなにキャパシティ良くないんですよね。
一方で相手の話をがっつり心にどんどんどんどん入れていくと、完全にモデルみたいなものはずっと飛んでいくんですよ。全く相入れるものではないんですよね。
コンセプトと夢思考のずれみたいな感じですけれども。
だからですね、そうやるんだけれども、これって後々、僕が非正規のせいなのか、ここはもう訓練次第で変わってくるのかは知りませんけれども、後々不安になるわけですよ。
いやなんか、ある意味では世間話を聞いただけだった。だってそうですよね。ヤコッツしてる人が、仕事の成功の話をしてきた。別にそれはカウンセリングとしてOKじゃないですか。OKだけど、1本間違うと、仕事の成功の話を彼はしていきました。
○みたいになってしまったら、なんかこう、それはそれで問題ですよね。だから特に僕の場合はですね、それはそれですごく問題感が出てくるわけですよ。
いや今日俺なんか仕事したのだろうかみたいな、面白い話聞いて終わっちゃってないかみたいな感じがして、だんだん不安になってくる。
で、この不安が一体、私が私のパーソナリティゆえに不安になっているのか、それとも相手の人が何かを例えば話さなかったから、そういう表面的な話に終止したという意味で逆転的に不安になっているのかについて考えないとまずいですよね。
で、この考えは事後にしか起こらないと僕は感じるんです。少なくとも僕の力量では、この考えって事後にしか発生しないんです。この時には、さっきの松木邦博さんの本とか、ナンシーさんの本とかを読みたくなるんですよ。
対象関係というよりは対象関係と自我心理学が混ぜこぜになっているような、やや体系グリッドみたいなやつですよね。極端な場合には。体系だっているものに合わせて、そうすると別の不安が生まれてくるんですけど、
こう言わなきゃいけないんだとか、こう感じるのは心配なんだとか、そういうことをものすごい書いてあるから、ものすごい凸凹される感じがあるんですけど、別に僕は凸凹の理由ないなと思うんですけど、僕はカウンセラーじゃないから心配カウンセラーじゃないしねみたいな、そういうことが言えちゃう。
でも書いてある通りになっちゃってるわけ。心配カウンセラーはこういうふうに感じがちであるとか言って、そのまんま感じてるわみたいなことが書いてあるんですけど、これが体系だっているところがいいんですよ。
この時には、藤山さんの本で全く同じような事情が扱われているならいいんでしょうけど、あちらはやっぱりクリニックなんで、どっちかというと明らかに、私のところでしているような話とはずいぶん違うわけですよね。
だから全く同じような話はまず出てこないんで、あっちの方を読んでいてもある意味遠いんですよ。でも今度は、体系だっているモデルっていうのは病理水準も健全水準もある意味ないので、それって要するに偏りみたいな感じですから、どう偏るとどう聞こえてどうなるのかみたいな話をされているわけで、
そんなに想定通りにはいかないでしょうけれども、でもやっぱり非常に納得感があるんですよ。そして取りこぼしてるところいっぱいあるなって感じがするんだけど、でも全部取っていくことはできないですしね、一回一回。
というわけで、どっちかっていうと朝に藤山さんの本を読んで、夜に松木さんの本を読むっていうことにパターンとしてなってるなということに気づくんですよ。
これはたまたま結果としてそう、それを、しかも僕はナンシーさんの本を読んでいるときに、あ、そうなってる。だから同じような理由でナンシーさんの本も夜にばっかり読むことに。
今読んだりもするんだけど、今っていうのは僕はこれから二度寝したりするからやっぱり夜なんですよね、今はね。太陽さんさんとなってますけど、基本的に今は夜なんで、僕の中では。
これから11時ぐらいまで寝ることはあるんでね。そのとき朝ですから。その後読むのが藤山さんの本で、で、セッションが一切終わった後に読むのが松木さんだったりナンシーさんだったり馬場玲子さんだったりすると。
なんかこう、取りこぼしとか抜け漏れとかをチェックになっていく感じなんですね、あれは多分。それだけじゃないんですけど。で、そのときにですよ。
自己愛とパーソナリティの考察
そのときにナンシーさんの本とか特にそうだったんですけど、自己愛というやつは、僕はやっぱりこれ自己愛パーソナリティっていうのは、もっとこう違うことを考えていかないと、藤山さんの自己愛について特にすごく言及が多いように見えるんですけど、
わけあるなーって思うんですね。自己愛はボーダーとかシゾイドっていう概念とすごくよく似ている。つまり縦にも横にも出てきちゃうってやつなんですよ。水準の話なのかパーソナリティの話なのかがわかりにくくなってしまう。で、明らかに混同されてますから。
それはナンシーさんの本、松木先生ぐらいの漢字になってるけど、そこが整理された上で書かれてるけど、そういうことは臨床の専門の本でも割となくて、明らかに水準の話とパーソナリティの話がごじゃごじゃになってるんですよ。
だから、どっちのつもりで書いているのかを考えながら読んでいかないと、意味不明なものを読むことになってしまうんですよね。でも考えてみると水準と性質っていうものはある意味では被るじゃないですか。だからこの二軸が直角に交わってないんですよね。
だってそうですよね。例えば私、基幹支援全足って昔すごいなったんだけど、基幹支援全足がすごい重くなってくると、つまり水準ですよね。水準が濃くなっていくと、他の病気、すべての病気が一緒になってきたような高熱にはなるわ、吐くわ、呼吸は困難だわ、頭痛いわみたいになっていくわけですよ。
でもそれは病気の性質なのか病気の重さなのかっていうことが切れなくなってくるじゃないですか。重くなってくると特に。こういうことが多分心理の世界ではより一層激しいんだと思うんですよ。
だから本当は縦軸と横軸は垂直に交わってないといけないんだけど、場合によってはもう交わり方が45度ぐらいになっちゃっていて、お互いがお互いに強い影響を及ぼし合ってしまってるから、だからボーダーラインという水準とボーダーラインパーソナリティというものを混同されて見えてくるっていう現象が普通に起きてくる。
で、それが私は、いわゆるスキゾイドでも、いわゆる自己愛でもきっとそういうことが酷くあってですね。だからどう考えても、東方さんの本に出てくるような自己愛の人ってあれは、根本は違うと思う。いや、クリニック来る必要なくない?みたいなことになるわけじゃないですか。
もう実行愛の人を体験するっていうアプローチを取らないと、その人の症例というか症状というものとか、病理の重さみたいなものを一生懸命見ようとするというよりは、そしてそれは、何て言うんですかね、非正規には取りにくいアプローチですから、特に、だから私は対象関係論っていうのはあれに唯一救いになるんじゃないかと思っているようなところがあるわけ。