2022-02-09 36:26

【GMV 551】人が引きこもるとき

傷つきそうになるので偽りの自分を使う
00:05
おはようございます、グッドモーニングボイスです。
土曜日ですね、というかまずその前に、やっとこの時間に戻ってこれた感があります。
あの、明日は雪だとか言ってますけど、関東は。
あの、あれですね、うまくこう籠ってまた撮れるといいなと。
最近受験もあったりしてバタバタしていたので、バタバタっていうのもなんか変な表現だと思いますが、
ようやくこう、元に戻ってきた感というのが自分の中でありまして、
まあこれは時間に関する話ですけどね、ようやくこの時間に舞い戻れたかなと。
すぐどっか行っちゃうかもしれませんが。
土曜日ですね、土曜日はセミナーがオンラインであります。
シーズン3、そこそこご参加集まってきていただいているので、
満席がどこに設定されているかちょっと私、把握してないんですが、
人間関係ということで、やっぱり人間関係でお困りというか、お悩みという方は多いんだろうなと思います。
なんだかんだ私だってその話ばっかりしてますからね、ここで。
ということは私の人間関係は希薄ですが、
希薄すなわち数としては多くありませんが、
でも困ることはあるということなので、
会社とか行かれている方、お勤めの方はさぞあると思うんですよ。
同じパターンと同じ人との同じ関係かもわからないんですけれども、
さぞあるだろうと思いますので、
どうにもこうにもならなくなった、これを発泡ふさがりと私たち呼んでますが、
なったら来ていただけると、多分発泡ふさがりはなんとかなるんじゃないかと思いますので、
よろしければご検討ください。土曜日の3時からですね。
ということで、人間関係なんですが、
一つ、これは比喩としてどうかとは思うんですけど、
フロイトの本で書かれていることとか、フロイトのいわゆる理論と呼ばれているやつですね。
異動、異動というのはつまり衝動か、
例えば衝動というのかな、力動というのか、とにかく異動とか、
エゴとか、スーパーエゴとか、ああいったもの。
ああいう図式化された構造というのは、別に子どもを観察して、
母親が内敵にいるとか、父親が虚勢恐怖を与えてきたとか、
父親がスーパーエゴだとかいうことの論理が、論理というのかな、
そういう構造が心の中に最初からあるという、
仮定されていたわけではないんですよ、多分。
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フロイトの本に書いてあることって、将棋の規符と似ていると思うんですね。
規符に関する解説みたいな感じがするんです。
つまり、規符の読み方みたいな話であって、
なんていうんですかね、
いずれにしても、カウンセリングがベースになっているわけですよ。
だから、カウンセリングがベースになっているということに
とことん納得していかないと、あんまり、
あれが人間の心というものを表している。
ある意味、病理を扱っているというか、
人間の心というものを表している。
ある意味、病理を扱っているということは、
その反対側に健康があるというような、
それも言い方としておかしいか、あるので、
それでいいと思うんですけど、
規符というものは、将棋を指さなければ絶対に意味をなさないものですよね。
指してみたことのない人は、
これでこうやって勝つのかと、いくら規符の解説を読んでも、
たぶん、その人が将棋を指したら弱いと思うんですよ。
そういうふうにあれを読んでいかないと、
あれによって心の構造が明らかになるというようなものではないと思うんですね。
私は、だから、アドラーのほうが今はとか、
ああいう話にいまいち興味が湧かなかったんですよ。
人によって規符の読み方って違うじゃないですか。
もちろん実力によっても違いますよね。
別に臨床があってなんぼのものなのに、
理論のほうがという理屈というのは、
これも将棋の例になっちゃうんですけど、
試験美者は絶対に中美者より強いみたいな話を聞かされているような感覚になるんですね。
そういうことはないじゃないですか。
どっちの戦法をどっちが得意とするかというのは様々で、
AIに最終的な答えを出させれば、
どっちのほうが偉いとか、どっちのほうが強い作戦だというのは言えるのかもしれないですけど、
多分どっちもダメみたいな話になりかねないと思うんですけどね。
とにかく、あなぐまで囲うのが最強だという理論にはならないと思うんですよね。
これはあくまでも、繰り返しやっている中で登場する型。
そういうのを最近すごく感じるんですよ。
繰り返し繰り返し最近ずっと読んでいるせいなんですけど、精神分析の本。
繰り返し繰り返し読んでいると、またこういうパターンだという感じがだんだん出てくるんですよね。
パターンといっても同じクライアントさんはいないし、
扱っている精神分析家も一人一人違うから、同じパターンはないんだけど、
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ヒステリギミとかジゾイドギミとかそういうところから始まる、
そしてすぐ硬着状態に入るというパターンみたいなのは、
最初に角道を上げて、相手は筋を上げてきてみたいな、
そういうのがあるじゃないですか、将棋にも。
毎回毎回同じことは絶対しないんだけど、
似たようなふうに見える形みたいなのが出てきますよね。
ああいう感じが大事だと思うんですね。
だから、このやり方ではうまくいかないとか、そういうことってないと思うんですよ。
多分そのやり方とかこのやり方とかいうものは、後で出てくる話であって、
やっているときには、このやり方でいくぞ、この患者には、
そこら辺が科学的科学的でないみたいなときには問題になるんでしょうけど、
でもああいう仕事をしているときに、私たち人間が取るやり方というのは、
少なくとも自然にやったらああいうふうになっていくに違いないとは思うんですよね。
もし、自然にやったら、そういうふうになっていくとは思うんですよね。
もし、会話のやり取りみたいなところからいくならば、
Aという診断があるから、Aプラスという対応の仕方をするっていうような、
こういうやり方をしているときには、
自然にやったら、こういうふうになっていくとは思うんですよね。
もし、こういうやり方をしているときには、
自然にやったら、そういうふうになっていくとは思うんですよね。
Aプラスという対応の仕方をするっていうような理屈が先行するはずがないと思います。
絶対中身処理だったら、なんとか学校にするのは正しいとかってないわけですから、
そういうことかなというふうに、それは形が出てくるのは結果だよなという感じがするわけですね。
だから、あそこには必ずその都度その都度のケースが出てきていて、
ただそのケースに一定のパターンが何回も何回もやっていれば、
多分感じられてこざるを得ないんじゃないかっていう、
特にフロイトが最初にやっていた時代には、
イステリーっていうのがすごく多かったっていうこともあって、
その種のパターンが多いんですよね。
多分、今同じように大量の事例が登場すれば、絶対違うだろうなとは思います。
今だったら何が出てくるかというのは、私はやったことがあまりないから難しいですけれども、
まず、ああいう時代にありがちな女の人のヒステリーみたいな問題がメインではないだろうなって感じは、
今はなんとなくします。
それもやっぱり競技ってそうじゃないですか。
時代ごとに流行の戦法みたいなのがありますよね。
それは別にその時代の人たちがそうしなきゃいけないと思ってやってたわけではないと思うんだけど、
09:03
でもやっぱり流行の戦法ってありますよね。
そういうことなのかなと。
人間関係か。
そうそう、つまり、だからなんですよ。
だから子供時代とかいう話にもなりやすいんですね。
結局子供時代に、子供時代に何かが起きたから人間関係がこじれますって話では、
決してないはずなんですよ。
でも、子供というのは人間関係を結局学んじゃいますよね。
人間関係みたいな学問ってないけれども、
人間関係というのを子供って学んでいきしますよね。
そして、それは親の遺伝もある上に、親の遺伝と同じような遺伝子を持った、
親がやろうとしている人間関係の形式で、子供も人間関係を作っていくので、
ここに偏りが出ないはずはないですよね。
さっきの絶対中見者でいきたいみたいになるわけですよね。
ここに人間関係のパターンができるわけで、
パターンができるというか、そういう強みみたいなものと同時に弱みみたいなものが偏りがあるから、
当然できていきますね。
このことがカウンセリング等をしていたり、人間関係で悩んだ時に、
私たちが常に舞い戻ってきてしまうというか、舞い戻っていってしまうというか、
私であれば結局母親に怒鳴られたというその記憶が一番のベースにきてしまって、
そこではもう対抗能力不足というか、
対抗能力不能みたいになっていく。
対抗能力不能みたいな自分の状態がすこぶる不愉快だと。
それは、うむを言わさず自分が悪いことになっているからすこぶる不愉快なんですよ。
この感覚に入りたくないために、
この感覚に叩き込みそうになった人を悪人に呼ばわり、
悪人に呼ばわり、僕の中でしたくなるという。
だからこれは、実際には怒鳴った人とかには、
実はあんまり関係ないことだったりもするというすれ違いが断続的にあるんですね。
これを引き起こさないようにしようみたいなのが、それなりに今風なんですけど、
それは健康なことのようで無理なんですよ。
なぜならこれ勝手に引き起こっちゃうんで、あんまり相手次第じゃないんですよね。
もちろんある程度、定調に扱ってもらうとか、急に怒り出さないということによって、
お互いがお互いの関係性を穏やかにする心掛けはあっていいと思うし、
一定の効力を発揮すると思うんですけど、
12:00
でも例えば私、つい顔色の本書きましたよね。
あの本にレビュー付けた方に、すごいお怒りの方が一人いらっしゃったのを見てもわかる通り、
傷ついちゃうんですよ。
私が定調にやろうと何をしようと。
あの本の中で、私は別に過激な調子で何かをアジテイトするみたいな調子で書いたわけではないですし、
そもそも本なんて、そんなに行き通りを増すような調子で、つまり読まなきゃ済む話なんですよ。
ところが実際にはそうはいかなくて、勝手にある意味では心に勝手に火がついてしまう。
そしてそういうことは避けられないというか、何というか、
つまりボタンをこっちで押すわけじゃないってことなんですよね。
あくまでもこのボタンは、傷つく人も自分で押しているという自覚はないんだけれども、
ここが力道と呼ばれるゆえになると思うんですけど、無意識に自分でボタンを押しちゃうんですよ。
ところがそれは無意識なので、やっぱり押されたような感じがするんですよね。
ここまで言っておきながら、私自身これをやってしまっていますから。
だから人を怒らせないように気をつけるとか、炎上を避けるべく予防するというのは一定の意味はあると思うんだけど、
言うほど完全じゃないし、そんなことは多分、もしそれを本気で望むならば、
情報どころか一切の発信はやめるべきだと思うんですよ。
もう喋らないみたいな。
そういうふうなことになっちゃう方もいらっしゃるじゃないですか。
監督省って言いますけれども、何を言っても無駄だと思ったら何も言いたくなくなるという、
口室でもそういうことがしばしば問題になりますが、
何言っても自分の真意は通らないんだなと思ったら、人は黙っちゃったりもしますよね。
だから私はそれでは戦略として成立しないと思うので、結局いずれは喋らなきゃなんなくなりますよね。
だからここはもう他人が勝手に自分の心の中のボタンを押すのを、
自分の心の中のボタンを押すのをまで、こっちでコントロールしようというのは土台無理なんですよね。
この辺が人間関係の、多分ベースで押さえておくと安心なんじゃないかという、
安心ではないかもしれないけれども、ベースで押さえておかないとつらいんじゃないかという話かなと思っています。
で、先日子供時代ということを考えてみたら、結構私は娘のビデオを撮っているということを思い出したので、見てみたんですよね。
つまりここにトラウマというのかな、ウィニコットのいうところの落ち残ってのはどう考えても、
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メラニー・クラインの言ったような良いおっぱい悪いおっぱいがたじゃないので、
どっちかというといかにもウィニコットっぽいので、つまり問題が出てくるとすると偽りの自分だろうと。
母親を環境扱いして、私たちのこの時代の育て方もありますけれども、
みんなが環境としての母親役を割とやる環境にあったかなと思うんですよね。
環境としての母親というのは、要は究極的には出来の良い召使いみたいにみんながなっていくということだから、
大人が相手にこれをやられると、みんなこいつすっげえ自分勝手だなって思うはずなんですよ。
ナルシシズムというのは、これは誰かが書いていたんですけれども、精神分析家の人が書いていたんですけれども、
どっちかになるんですよ。相手に対するネガティブな気持ち、ナルシシスティックに振る舞われた時に、
相手に対するネガティブな気持ちが出るとすると、こいつはバカだと思うか、こいつは勝手な奴だと思うかのどっちかになりやすいんですよ。
バカだと思うというのはヒステリーケースなんですけどね。
良いおっぱい、悪いおっぱいですね。
あれを徹底的にずっとやっている人を見ていると、どうしてもこの人足りないなって感じを痛いてしまうんですよね。
これはグッドバイオス的にはダメなんだと思うんですけど。
もう一つそうじゃなくて、ひたすら環境としての母親をこっちに押し付けてくる人を見ると、
バカだとは感じない、でもこの人勝手だなって感じは抱くはずなんですよ。
比較的穏やかな人とずっといると、この感じが湧いてくるということが多いと思います。
比較的騒々しい人とずっと一緒にいると、前者の方のどうしても軽蔑したい気分に駆られてくると思います。
それは人によってもちょっと違うと思うんだけど、
我々は多分人とずっといると相手にどっちかの気持ちを抱かせることになるだろうなって思います。
ちなみに私は多分すごくエゴイスティックな感じがずっと一緒にする人とは感じられるんじゃないかと個人的には思っています。
やっぱりどっちかというと起伏が激しい方じゃないですからね。
比較的波風立てずにいく人間の態度っていうのは多分そういうものなんだろうと思うんですよ。
どちらにしてもナルシシズムから完全に逃れるということはできないじゃないですか。
ここでみんな推薦術のバカだと思われたくない、あれは結構伸びてるんだけど、みんなこのこと気にしてるんですよね。
つまり自分がナルシストだってことは主観から出られないって意味なんだけど、
僕らは絶対主観から出られないはずなんですけれども、出られたら多分やばいですよ。
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主観から出るって割と簡単に皆さん言うじゃないですか。
メタ的に自分を見るとか、よく考えるとそれはいかにもおかしいことだと思いません。
例えばこの世の中には何万光年と離れた星とかもあるわけじゃないですか。
つまり何万光年と離れたところも繋がってるわけですよね。
客観ってのはそういうのも無視しないっていう意味ですよね。
私そのことよく思うんですよ。
皆さんはどういうふうに思われるのかわからないんですけど、
客観ってことはこの世の全てを含むって意味にならないとおかしいですよね。
地球のことだけが主観から出てくるっていう意味なんですよね。
これを含むって意味にならないとおかしいですよね。
地球のことだけ考えたらもうすでに主観じゃないですか。
だけど私たちが今ここにいると同時にシリウスの星のことも考えるみたいになってしまったら、
正気を保つのは無理だと思うんですよね。
そういう観点に入ることを常時自分に押し付けていたら。
だから私たちは主観から出られないというのは当たり前であって、
つまりだけれども私たちはそうやって主観から出られないとあいつはバカだと思うから、
主観から出て恥ずかしい思いをしないようにしようとするんだと思うんですが、
私そんなことできっこないと思うんで、バカだと思われたかないですよ、私だって。
だけれどもここはもう感受するしかあまんじて受けるやつですよね。
他ないと思うんですよ。
私としては正気を保っているというのは、
バカだと思われるよりは遥かに大事だと思うので、正気を保ってたいじゃないですか。
正気をバカだと思われたくないから狂気の世界に入るというのは私としては到底受け入れられないので、
どうせ私たちはある程度はバカだと思われるしかないと思うんですよね。
つまりそれは主観から絶対出られないという意味なんですよ。
結局自分の観点から逃れられないのに、
他人から絶対にこの人は自分の観点から逃れられてないなと思われるのを避けるのは無理だと思う。
そういう意味で主観からは出られないんですよね。
これは宗教的な神秘主義を言うとちょっと違う答えが出てくるんだけど、
多分私はそこはバカだと思われるかどうか問題とは関係ないところにあるような気がします。
赤ちゃんというか先日見たビデオはちょうど2歳10ヶ月くらいの頃の映像だったんですけど、
結構長く撮ってていろんな声が入ってて面白いなと思ったんですよ。
もちろん自分の世界に生きてますよ。
明らかにそうだなというのはよく分かるんだけど、とはいえやりとりはするわけですよ。
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2歳10ヶ月というよりも会話は一応できるんですね。
ポイントは周りは確かに環境としての母親として機能してたんですよ。
そのシーンが面白かったのは実家の父母が両方いたから4人周りにいて、
しかも私も妻もいるという状態で6人が周りにいる状態。
そして全部環境としての母親なわけですよ。環境になってるんですね。
娘が麦茶の付近をうろうろしながら紙コップをいじり出したんで、
お水欲しいのって言われた時には反応なしで、
うちの母、実母が麦茶が欲しいのって聞いたんですよ。
そしてそれでもしばらく、しばらくって言っても数秒なんだけど、
あ、違うのか、違うのかいって言ったんですね。
そしたらさらに数秒後に、違くないって言ったんですよ。
ところがこれは誰も聞いてないんですね。
私はこれを見た時にこういうことなんだなと思ったんですよ。
こうして人は傷つくんだと。
この話するとどうしても実母が気分を害するじゃないですか。
私が悪いのかとかって言い出すでしょうね。
しかも妻もそこにいたからいよいよややこしいんで、
こういう話って簡単にできないんだけど、
私はでもこれは簡単に本当は使えばいいことだと思うんですよね。
傷つくってことは大事なことなんですよ。
傷つかないと自分のニードがニーズになるってことの意味がわからないわけですよね。
違くないって言ったからにはお茶が欲しかったわけですよ。
だけれどもうちの子はウィニコット側なんですよ。
ヒステリーは起こさないんですね。
この時にいいおばあちゃんと悪いおばあちゃんに分けるというやり方もあるじゃないですか。
いいおばあちゃんならばもう少し話を丁寧に聞いてくれて、
お茶を飲ませてくれりゃいいわけですよ。
ところがそうはならなかった。
だからもっとヒステリックになってもいいんだけど、
うちの子の場合はひいちゃうんですね。
まったくウィニコットが言う通り、
ウィズドローしてしまうわけです。
引きこもってしまうわけですよ。
違くないっておそっと言って話題を変えるんですよ。
うちの子のほうから。
非常に面白い光景で、こうして人は傷つくんだということなんですよ。
タイミングが少し遅いんですね。
これはもう子供だから日本語、自分の言いたいことを言うのに
数秒やっぱりかかる感じとしては6、7秒かな。
大人はそこまで待てないんですね。
これはもう咄嗟なんですよ。
相手が2歳10ヶ月くらいなんだから待っちゃいいという考えだと思う。
この辺でだから、しかもうちの母とうちの奥さんじゃないですか。
こうしてまた違う問題に発展しやすいんですけど、
24:00
ここだけ見ればいいんですよね本当は。
ここを見ると環境としての母親が失敗したんですよ。
これが大事だと思うんですね。
常に環境としての母親が完璧に機能してしまうと、
やっぱりどうしても発話等の問題でも要するに努力しなくなるし、
この場合の努力というのは結局自分のニーズを満たしたいという思いを
どうやって自分の側からもっと引っ張ってくるかという意味だと思うんですね。
お茶は別に自分で入れてもいいわけですよ。
この辺にも少々遠慮があるわけじゃないですか。
あるんですね。
うちの実家だったから、自宅ではないからね。
自分の手つきがまだ不十分で、お茶を入れてもこぼしうるということを子どもは知ってるし、
うちの子はそういうことを非常に考えられる立ちなんですね。
だからこの辺もミニコットっぽいんです。
つまりどういうことかというと静かなんですね。
ミニコットは子どもというのは静かなものだというふうに表現してるんですよ。
メラニー・クラインの方に言わせると子どもというのはもっと想像しぃもののはずなんですね。
どっちもあり得ると思うんです。
これはたまたま遺伝的にそうだったり、周りの環境がそうであるから、
うちの子の場合はこういう時に一歩引いてしまうという、
だから本当の自分は一瞬引っ込んで、偽りの自分に対応させるんですね。
環境としての母親がミスったから。
これが必要なことなんだと思うんですよ。
だから傷つくということは悪いことではないんですよね。
し、傷つけるということもまた悪いことではないんですよ。
この傷つけるのが悪いことだということになっているのが、
すごく話をややこしくしていると思うんです。
傷つけてるんですよ。
気づいてないだけでね。
うちの子は明らかにあれで傷ついたんですよ。
昨日面白かったのは娘にこの映像を見せたらゲラゲラ笑いだして、
この子こんなにかわいいのにかわいそうにって言って、
非常によくわかるんですよ。
やっぱり自分のことだと。
自分がそこに映っているから。
恥ずかしいから笑っちゃうんだろうけれども、
今十二か、だからあの頃から見ると十年経っているとはいえ、
やっぱり自分以外の何者でもないから恥ずかしいわけですけれどもね、見たら。
でも面白いわけですよ。
これが環境としての母親が失敗するということで、
これはやっぱりパーフェクトではなくグッドイナフであるということなんです。
この場合は誰がってんではないです。
もう私たち取り巻き全員が失敗したんですよ。
故にその子供の方は傷つくと。
で、傷ついて自分のニードが完全な形ではニーズとして認識されず、
従って満たされずに終わると。
ここのことをよくよく自分の中に叩き込んでおけば、
いずれお茶が欲しくなれば自分で飲めるようになるし、
もっとちゃんと欲しければもっとちゃんと言うことができるようになる。
あの種の傷つきというものが、私はアメリカに行って、
27:02
英語がとっさに出ないためにタイミングを逃すというので、
非常によくわかる気がしたんですね。
まさにその状況で、
数秒遅れるために欲しいものが手に入らない。
例えば離職パーティーとか行って、
食べたいものはあるのに片付けられてしまう。
で、あともう片付けられてしまったのを
キッチンまで追っかけて行って食べるという勇気は、
僕のような人間にはないわけです。
完全にウィニコットの子供と同じなんですよね。
結局私はそこで静かにしているという選択を
娘と全く同じなんですよ。
とっても悲しいんですよ。
そこで静かにしているという選択を
娘と全く同じなんですよ。
とってしまう。
それはつまり言語能力のスキルの問題としてもいいんですけど、
だから英語力磨きますよね。
これはニードをニーズに変えたいから
そういう気持ちというものが湧くんですね。
だからいいんですよ。
ここで傷つかないで、
自分が欲しいものを次から次へと
提供されるようになってしまえば、
英語力伸びないですからね。
英語力を伸ばすのがいいのか、
傷つかないのがいいのか、
それはその都度その都度の話ではありますけれども、
子供は絶対この種の目に合っているわけです。
ということはつまり、
私たちはみんな、
相手が子供であろうとなかろうと、
これをやるはずなんですよね。
だって私たちは、
どんな人に対したとしても、
ある種の人に対する、
誰でもいいんですよ。
例えば自分の上司や部下に対して、
パーフェクトな母親を演じるというのは
不可能じゃないですか。
それは完全にエスパーの領域ですよね。
相手が何を望んでいるのかを、
相手が言う前にもう察知して、
それを満たしてあげる。
そういうスーパーマンみたいなことはできないのであって、
そういうことを誰も求めるわけにはいかないと思うんですよ。
これを他人に求め始めるとですね、
その人は多分精神症というものを
少なくとも神経症というものを
引き起こしていくんだろうなとは思います。
だから私は人間関係で
オカルトを持ち出しちゃまずいと思うんですよ。
人の気持ちを読むとか、
異心伝心で気持ちを念波で伝えるみたいになっていくと、
話が一気に病的な方向に振られていくので、
やっぱり口頭でやりとりができるはずですからね。
2歳半ですらできなかったわけじゃないんで、
しくじったけれどもできそうだったわけですからね。
近くないって言ったのは
お茶が飲みたいんだという意味ですよね、当然ね。
ただそれが多分4秒後から6秒後に発せられたために
誰もそれを聞いちゃいなかった。
私でもそれをビデオに撮ってたわけだから、
分かっていなかったわけではないんですけれどもね。
ただ私はずっとビデオを撮っていたかったんですよ。
あの時ずっと撮ってたんですよ。
30:01
十数分このようなシーンをあっちこっちで見てみて、
なるほどと思ったと。
これが人間関係というものの傷つくだなんだの素地であって、
これをエニコットがあんなにゴニョゴニョゴニョゴニョ書いて
いろんな形で決して分かりやすくはないんですが、
なるほど、言われている通りのことがこういうところで
ちゃんと再現されていて、
これがまず間違いなく精神分析の現実の世界で起きるんだと思うんですよ。
大人の間でね、大人の間で。
おそらく転移がすごくなっていって、
完全にではないにせよ幼児っぽいその人の人格というものが現れて、
ものすごいタイミングを狂わせたタイミングで
その人が本当にやってほしいこと、この場合は数秒とかでは絶対ないですよ。
本当にやりたかったこと、例えば夫にああ言ってやりたかったみたいな言葉が
精神分析科に対して例えば1年かけて遅れて出てくるとか、
分かんないですよね普通の人には。
そんなことを急に言われても。
今思い出したんですけど、
ドコンジョガエルの娘で、漫画ですね。
ドコンジョガエルの娘の最後の方のシーンに
マサカズ君とかいうドコンジョガエルの娘の夫が言うんですよ。
君は僕のことを本当に好きだというならば
リビングにあの水槽は置かなかったはずだって。
すっごいじゃないですか。
リビングにあの水槽は置かなかったはずだって。
一体これは何年前の話なのか、僕もさっぱりわかんないんですけど。
でもあのセリフって非常によくわかるような気もするんですよね。
もううちの娘よりも遥かに遅れてますよね。
近くないって言ったのは数秒後だけれども、
問われて答えるべきタイミングってのは我々人間関係にはあって、
それから大幅に逸脱すると文脈を失うために
そもそも近くないが近くないにちゃんと聞こえるのは
私と私の妻ぐらいだったと思うんですね。
近くないをあのタイミングで言ってももう意味はわからないわけですね。
だけれどもうちの娘は直接見てすぐわかったんで、
やっぱり自分だったらわかるんですね。
こういうもんなんですよね。
このリビングにあの水槽は置かなかったはずだってのは
多分数年後に出て不満になった。
言いたかったのはもっとずっと前だと思いますよ、もちろん。
だからそういうふうにして人間関係ってのはややこしくなっているわけです。
もちろんこれはすっごく不思議な事例で、
でもあれを漫画にわざわざセリフとして書いたということは
すごく象徴的な話なんだろうなと思うんです。
こういう行き違いというのか、
水槽を置くとどうして心がそんなに傷つくのか知りませんけれども、
33:03
いうのが僕らは非常に簡単に蓄積されてしまうのが
人間関係の難しさみたいな話なんでしょう。
だけれどもそれは一つには傷つくということ、
悪いことだと思うせいですよね。
そして傷つけたということになると
なんか犯罪者みたいに思わせられるじゃないですか。
私も今もまた思い出したんですけど、
このポッドキャストで僕のこの言葉で傷ついたみたいな話が
ツイッターで出たんですよ。
そうするとドギッとしますよね。
でも私が娘を傷つけるということは何度も何度もやっているはずなんですよ。
そしてそれは絶対にないと困るものだったと思うんですよね。
そういう意味では成人同士であっても同じで、
成人になったら傷つくことはゼロにしなければいけないっていうのは
キーだと思うし、しかもそんなことをお互いに課していたらですね、
なんていうんですかね、
みんなが環境としての完璧な母親をやらなければいけないという意味になってしまって、
多分世の中は発狂していくと思うんですよ。
だからあの血が流れるような状態で
そう思うんですよ。
だからあの血が来ないというのは面白いセリフだなと思って
この話を今日お伝えしたんだけど、
要は環境扱いしているわけですよね。
もちろん自分で飲めないから環境がそれをやってくれないといけないんだけど、
環境というものは自分のナルシズムに完璧に応しているわけではないということを徐々に、
徐々にいわゆる親離れってやつなんだけど、
徐々に学んでいく過程の中で人はどうしても傷つきというものを持ち、
その時に引きこもるという、一瞬にせよですね、引きこもるということをすると、
偽りの自分というものをそこにセットしてしまって、
本当の自分が一歩引くとそういう現象が起こるんですね。
もうほとんど自然に起こるわけです。
すぐにアフラックの招き猫の話にうちの子はすぐに話題を切り替えたので、
あれがまさに、そしてそれはそれで遊びたくないわけじゃないんですよ。
だからその辺は上手なんですよね。
そういうふうにして偽りの自分というものを用意して、
おばあちゃんと招き猫で遊ぶ、そういう展開に切り替えちゃうわけです。
そしてニードをニーズに変えずに引っ込める。
それがまさに引きこもりだと、引きこもりという現象だと。
いわゆる部屋に閉ざして出てこなくなっちゃうと、
あれを社会的引きこもりと言って区別しているんですよ。
そういう精神的な引きこもりとは区別しているんですよね。
36:00
そういうことが何万回も起きていたんだろうなということを思ったんです。
それを思い出し、それを最悪の形で思い出してしまうというのが、
僕らが人間関係で避けたいと思っていることなんでしょう。
36:26

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