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おはようございます、グッドモーニングボイスです。
たぶんですね、なんか音の聞こえ方が違うんじゃないかと思うんですが、
つまりこれが朝バージョンで、昨日以前、昨日一昨日ぐらいしかないですが、
ちょっと前もあるかな、が夜バージョンですね。
頭は夜の方が元気なんだけど、
必ずしも声とか反響音とかは、
たぶん朝の方が元気だったりするんでしょうね。
でも、頭の中身はかなり今、自分はこの8時ごろってぼーっとしています。
起きたのがもう6時より前なんで、ほぼ5時半なんで、
起きても2時間半経過してるんですけど、この時間一番眠くなってくるんですよ。
妻も寝室ですし、娘は学校ですし、眠い。
静かだし、やたらと周りはですね、この辺っていわゆる中高年層の人たちが多くて、
会社に行ってるか、全く生活の気配のない外の道路をはいてるおじいさんとかはいらっしゃるんですけど、
基本的に家とかは静かすぎて、どうなってんだろうな、空き家もいいんですけどね。
そういうところなんで、眠くなるんですよ、8時ぐらいとかって。
これが真夏になるとまたちょっと違って、蝉の鳴き声と子供電話相談室が何か知らないけど、
庭にまで聞こえてくるくらい大音量でラジオ聞かれる。
大音量でラジオ聞かれる。多分耳が遠いんだと思うんですけどね。
そういうこともあって、割と音がすごいんですけどね。
真夏とかを除くと8時ってのは、すげえ静かで、この辺は眠くなるんですね。
どうでもいい話ですが、早ければ、難しいかもわからないんですけど、
早ければ5月の1日に私の企画で、クラソンさんにはサポートいただくことになっておりますが、
先送りを何とかする1ヶ月コースみたいなのを立ち上げます。
これはですね、実はこういうのはずっと前から、多分5、6年前から意識はしてたんですが、
結局なんとなくやらずにずっと来ていて、
というかこの企画多分私が最初に考えたのは、
自分の先送りの、あれ先送りっていうタイトルが実は外れている系のやつもあるんですが、シリーズの中で、
黄色いですね、我が家ではやるひくんと勝手に命名してるんですけど、
あれ書いてくださったのは東京ランドさんという方で、
人じゃないんですけど、表紙のデザインを多く手掛けられているイラストレーターみたいな方がいらっしゃるんですけど、
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その方に書いてもらった、私の本では多分生涯で一番売れたことになる本。
あれが飛ぶように売れている時に考えてたんですよ、実は。
こういうプログラムを。
でも考えてただけでそのまま忙しかったこともありますし、
娘が幼かったこともありますし、さまざまな引っ越しもしましたしね、
なんだかんだ言って全然やれずに、今日まで来て今さらやろうというものなんですね。
あの本って実は、一応種本っていうんですかね、本もあって、
もはや全く原型をとどめていないほど違うんだけど、
グッズの人には訳があるっていう、これは私の中では結構エポックメイキングっていうのかな、
ちょっとした転換点になった本だと思ってるんですね。
日常生活に心理学の知見をそのまま取り入れるっていう発想は昔からもちろんあるんだけど、
それがある程度世の中の普通のところに認知されてくるのには結構時間がかかってるんですよ。
今では自己啓発では割と王道となってきつつあるんですが、
セルフヘルプって自己啓発のことを英語ではそういう書典のコーナーに置かれていて、
それサイコロジーなんですよ。サイコロジーの一角のちょっとした脇っちょのところに、
私がアメリカにいた2003年の頃はそうだったんですよ。
ああいう漢字っていうのは私の中で日本でも普通になればいいのにって思っていたのが、
2005、6年の頃で、私はそれをやる機会が恵まれればやるぞみたいなのがずっとあったんですよ。
書いてる本がライフハックでも近づけられそうじゃないですか。内容にもよるんですけどね。
エクセルの技とかを言ってる時にそんな話をするのはダメだから無理なんだけど、
もしそれが先送りもそうだし、悪い習慣をなんとかしたいみたいな話をもらったら、
すぐそっちにフローみたいなのがあったわけですね。
心理学にグッと寄せて、でも心理学の学術書みたいなコーナーには置かれないようにして、
セルフヘルプのところにできれば置いて欲しいけど、無理でもビジネス書には置かれるようにするっていう、
その線を狙ってたんですよ。
これに今かなりの成功を収めているのがメンタリストだいごさんとか、
そういった方、あるいは川沢詩音さんとか、あの辺りの方だと思うんですけどね。
私は目論んでただけで、あのレベルの成功には達してないんですが、
でもコーナーとして、ああいうコーナーが確立しつつあるのはいいと思うんですね。
良くないっていう意見ももちろんあると思うし、
06:01
うさんくさすぎるって発想もあると思うんですけど、
これはですね、ある程度市民権を得て定着するまでは当然そうであるはずだと思うんです。
東和田海人さんは別方面からそういう流れになりつつありますよね。
あれは私は自己啓発というよりは、どっちかというとかなりカウンセリング系のエッセイに近い、
だから昔からあった香山梨花さんとかの方面に近いと思うんですけれども、
その辺を分ける意味ってあまりないんですよ。
こういう部分にやけに着目しているから、
そういう風の潮流として僕の頭の中では分かれているけど、
別にそういう分けて考えるべしみたいな、そういう歴史書みたいなのはないですからね。
精神分析の方からはっきり来ているのは山崎さんとか、
もっと土井武夫さんなんかもそうなんですけど、精神分析側から来ていますけど、
あれは爆発的に売れたから一見一般書みたいな雰囲気がありますが、
どう読んでも精神分析の本で、分析の知識が全然ないままあれを読んでも、
非常に読みにくい読み物になっていると思うんですね。
香山梨花さんとか東和田海人さんの方はそういう意味では全然違って、
分析の知識なんか何にもいらなくて、しかも十分楽しく読めるように作られていて、
やっぱり僕としてはそういう方が、少なくともアメリカでセルフヘルプの本を読んだ時は、
そういう印象の方がずっと強かったから、そういう風でありたいとは思うんですね。
つまり当時私2002年の頃とかはまだ英語で本を読むのが大変難しかったんですよ。
はっきり言って1ページ読むのに10分はかかんないにせよ、
1ページ読むのに10分近くかかるわけで疲れるんですね。
でもセルフヘルプはもっとスイスイ読めたから、
やっぱり英語でもそうなんだから、日本語でもそうでありたいと。
土居さんの本なんて多分私が大学生の頃に読んだらですね、
日本語でもページあたり真剣に理解しようと思うと数分かかっちゃうという1ページですよ、
本だったと思うんで、そればっかりだと厳しいなと。
香山梨花さんはちょっと天才的なところもあるし、
子供の心理っていうところにかなり寄せていたからですね、
読みやすさでは抜群だったんですけど、
実は裏側にある知識で言うと全然精神分析そのものなんですよ。
そうは思わせないところがあの方のすごいところなんですが、
実質そうなんですよね。
そういう意味では俗人的にコーナーじゃなくて、
加藤定三さんとか岸田周さんとか、
ああいう方の独特の切り回しで、
その人の本だから小説のようにどんどん読めてしまうっていうのはあって、
それも爆発的に売れましたけれども、
それは決して一画っていうものを作り出したというよりは、
加藤定三さんのコーナーを作るみたいな、
そういう感じになってたんですよね。
こういうことはもちろんありますよね。
例えば推理書館とか、
09:00
松本成長みたいなジャンルよりも人名の方がデカいっていう、
ただ私が目論んでたのはそういうことではなかったので、
できればジャンルというものを作りたいと。
今でも確立しきってはいないと思うので、
話が大変長くなったけど、
5月1日からはそういうコーナーを、
少しプレミア的なものとして、
やろうかなと思っているわけです。
私がそういうのをやれるというよりは、
そういう潮流はできつつあるので、
その潮流というものを世の中に定着させていければいいかなと。
だって私が学生時代そうだったんだけど、
困るんですよ、そういうのないと。
絶対そう思うんですよね。
うさんぐさいとかいかがわしいとか儲けないとか、
じゃあそういうのがないとどうなるかというとですね、
僕らはちょっと調子が悪いな、
でも体調がおかしいわけではないような気もするけど、
なんかちょっと心理的に不調だなという時に、
直ちに精神内科に行きますかというと、
行かないじゃないですか。
これはアメリカでも問題になってたんですね。
アメリカだったらもっとはるかに心理カウンセリングって、
市民的だし開かれてるし定着してるけど、
でもやっぱり受けるとなれば、
一つの覚悟が必要だと思うんですよね。
日本だったらもっとはるかにいるんですよ、そういうものが。
私の学生時代だったらもう、
それを受けに行くということは、
放送禁止用語ですが、
要するにうちのチチダンゾの時代、
基地外病院に入るみたいな、
そこに行くというのは鉄格子の中に閉じ込められるみたいな、
そして毎日注射を打たれる、
父とか本気でそういうことをしゃべってましたからね、
坊主のくせに。
だから、つまりそういうふうになりたい人って、
普通いないでしょう。
そうすると、ちょっと学校に行くのがたるいとか、
言うような、
心理的な面の問題にする手当が全然ないか、
そういう異常に厳しいところに行くか、
じゃなければもう身体の病にしちゃうか、
だから、戸渡さんが書いている通り、
日本では心身症がすごく多く出るという話になるわけですよね。
つまり、何か体調自体が不良にならないと、
メンタルの不調そのものの、
持って行きどころがないために、
37.2度ぐらいの熱が出るという、
身体がそういうことを頑張ってくれちゃうわけですよ。
これはこれで一つのやり方なのかもしれないんですが、
私はこれじゃどうしようもないところもあるだろうと、
実際に熱が出ない人だっていると思うんですね。
だから、結局この種の問題を扱えていないと、
扱っていないと、
結局この種の問題を扱えていないと、
扱い始めると、
12:01
みんながやだらとそれを言うようになる時代って必ず来るわけですよ。
今はそういう時代で、だからしょうがないと思うんですよね。
それが何でもかんでもメンタルなのかって話になりやすいと思うんですけど、
落ち着くまではしょうがないと思うんです。
これをケアせずにしたその付けなんですよ、これは言ってみれば。
心身症に今まで回していたはずなんですよ。
だってそういう調子の悪さってあったに決まってますから、
うつ病じゃないけれども、長期にわたる抑鬱症だというのは、
どうやって分ければいいのかと、
しかも何の知識もない中で、
今ではずいぶんありますからね、そういう知識って昔に比べれば。
そういうことが今までもずっとあって、
ようやくそういうものが何て言うんですかね、
一応認められるに至る、
それに付随して様々なよろしくない現象は当然起きるんですよ。
起きるに決まってるんだけれども、
ないよりはあったほうがそれでもいいっていうのが私の感じなんですよね。
だからそれをやりたいということです。
何の話をしたかったのかはもう完璧に忘れたんですが、
この流れの中の一つに、
総敵防衛というのが私は厳然としてあるという感じを抱いていて、
これは日本人ということでは全然ないんですけど、
マニックディフェンスはヨーロッパにもアメリカにもあるがいいですからね。
この観点で一つ読んでいくのが、
読んでいったり考えていくのが面白いんじゃないかなというふうに思っております。
河合俳夫さんの本とかの切り口とはだいぶ違うんですが、
このマニックディフェンスを扱っている本はいっぱいあるにも関わらず、
この概念自体は全然中央に現れてこないんですよ。
何か訳があるんだろうと思うんです。
一言で言うと、人と距離を置きましょうという、
あれなんですよ。
それがまさに装的防衛の態度なんだけれども、
まるでそれが処刑術のようになっているわけじゃないですか。
人と距離を置きましょうというのはいいアドバイスですよね、今の時代。
これは私は欲打ち症と並んで、
軽いストレス適応障害とか、
ああいったものと近いというか、
レベルの近い私たちの不調の現れの一種なんだと思うんです。
この言い方をするのでも、こんなに言葉を選ばなければならないほど、
世の中の態勢というものが消しつつあり、
それに無理やり抵抗しているような感じがあるんですけれども、
要は僕が言っているのは、人と距離を置きましょうじゃない。
よく言うと、人と距離を置きましょう。
よくないというか、ああいう処置の仕方は危険だという感じを抱いています。
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これはグッドバイブスを蔵園さんに聞いて確信を得たんだけど、
ずっと僕が感じていたことで、
人と距離を置くというのが一つには解決になっていない気がするというと、
もう一つは、すごくあれと似ているんですよ。
37.3度の微温で、
人と距離を置きましょう。
37.3度の微熱とよく似ているやり方だと思うんですね。
人と距離をどんどん置いていくと、
2つや3つだけでも結構自分の状態を悪化させるのに、
それが良いことですということにしちゃっている。
緊急避難的にやむを得ないというのはあるんだけど、
つまり37.3度の微熱はいいことですって聞こえるんですよ。
だからそういうやり方もあるとは思うけれども、
リスキーなものを感じるわけですね。
だって熱が出ているのに、熱が出ているんだったら、
本当は身体の問題を常に疑っておかなきゃいけないはずじゃないですか。
身体の問題を常に疑っていつつ、
でもそれは実は身体がそのメンタルの不調を手当てしてもらうのに、
答えてもらうための努力であるということになっている。
これが心身症ですが、私はジンマシンという形で出ていたんですけどね。
でもジンマシン自体だって問題かもしれないじゃないですか。
こうやって複雑な問題として捉えるとつらいんですよ。
やっぱりいろんな意味でね。
心身症というよりはメンタルの方で扱う。
しかも決して重症というのとは違う。
東方失調症というのとメンタルの不調は全然違うから、
ガンと風邪を同じようなものだと考えてはいけないということと近いんですよ。
風邪は風邪でしょうって話ですね。
でも風邪は風邪ではありませんと言われたら、それはそれで困るんですよ。
あとそんな軽いんだったら病院に来ないでくださいというのも良くないと思うんですね。
今はそれに近いと思うんです。
だから人と距離を置きましょうね。
話を済ませようというところがあって、
しかも人と距離を置くというのはとても良い考え方なんですっていう感じなんだけど、
それはまるでですね、心理状態が悪くなったら、
メンタルが不調になったら37.3度の微熱が出るのを待って、
出たら風邪だということにして休みましょうっていう対処の仕方と似てるように僕には思えるんですよ。
それは病むを得なければそうかもしれないけど、
危険なやり方だなって感じを抱くし、
もっとまともな方法が今はあるはずなのになと思うんですね。
だから人との距離を置く、縁をすっぱり切るみたいなのは、
私には相的防衛の表れだと思えて、
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この線で人との距離を置くというのは、
この線で本を読むなり、メンタル系の本を読むなり、
戸畑海人さんの本を読むなりすると面白いと思うんです。
それはつまり、戸畑さんの本にははっきり最近の、
一番最近の心だけが見つからないだったと思うんですが、
あの本にはっきり現れている、毎度出てきますけどね、
切る、やめるのは簡単だ、ここに来なければいいってセリフがあるんですけど、
あれなんですよね。つまり、縁を切るのは簡単だってことです。
何でもこれは同じで、作るのは大変ですが、
壊すのは一瞬でできるってやつなんですよ。
今の戦争みたいなもんで、壊すのは本当に一瞬でできるんですよ。
これをやるという、その事態に至っているっていうところがすでに、
その人なんですよ。その人の病理の現れで。
だけれども、切る人にしてみれば、切るなりの理論、理屈、正当性があるわけで、
それも当然あるんだけれども、正当な理由があるからといって
バサバサ切っていくと、というか、正当な理由があるから切るという観点で、
生きていくと、孤独になっていくという問題が一つあるわけですが、
もう一つ、もっと大事な問題というか、私の中では意識させられる問題として、
つまりそれが、何と言えばいいかな、ニーズを提供する存在を一つ封じることになるってことなんです。
つまり、ニードが取り残される。ニードが取り残されるというのは、
この番組では何回かお伝えしてますけど、赤ちゃんが泣いている状態で取り残されるんですよ。
インナーチャイルドという概念がありましたけど、私の中の、これはあくまでもヒュート概念ですね。
泣いている子供と操るお母さんと二人いて、この二人でもって私の心が一つになっているという一つの考え方ですね。
二つだけじゃないんだけど、これが基本中の基本だと思うんですね。
そのお母さんを切り捨てるって話なんですよ。
なぜ人との距離を空けるとお母さんを切ることになっちゃうのかというと、
私たちは結局、環境というものをお母さん代わりにして生きているから。
例えば不快になるというのが、夏、炎天下、汗がいっぱい出て、その中を2キロ歩いてとても不快になりました。
この段階では泣いている赤ん坊なんですね。
赤んちゃんだってそういう状態になれば泣きますが、2キロは歩けないけれども、
飲みたいとは言えないわけですね。
飲みたいというあたりをつけて水を飲みたいんだと、
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そんなあたりをつける必要はないですけども、
明らかですが、あたりをつけて飲ませてあげるのがお母さんですね。
つまり、不快というものがそこにあるという状態に対して、
提供すべきものを意識して提供してあげるというのがお母さんですね。
私たちは水を飲むんですよ、コップから。
その水をどこから手に入れたかという話なんですよ。
環境からですよね。環境をお母さん代わりにしてますよね。
私たちは環境がないと泣いている子供になっちゃうわけですよ。
距離を置くという発想というのは、要は離れていくという発想なので、
都合が悪いものは離していくという発想を取らざるを得ないということは、
この赤ちゃんはある一面において、ある一側面においては、
放置されてもしょうがないんだという言い分になってしまうと思います。
話をポンポン飛ばしていますが、それはこの番組の特徴だと思ってください。
グッドファイブスで倉園さんが、総力と書いてすべて力と呼んだのは、
僕の中ではこう解釈しているんですね。
自力でできることはほぼ何もないので、自力というのは、
これが自分の肉体だけだという意味。
もうちょっと言うと自力というのはNだけなんですよ。
Nは自力でできます。不愉快になった泣くというところまでは自力でできます。
多分私が思うに究極的に人は自力でできることはNのみだと思うんです。
これが赤ちゃんの姿ですよね。Nだけであると。
人間の赤ちゃんというのはすごくない。Nだけなんですよ。
でも生きていける。なぜならばNSが周りがNSを持ってきてくれる。
考えてくれる。やってくれるから。
この能力を自分が身につけるというのも自立という文だと思うんですね。
つまり自立というのはすべて力というやつを使えるようになるって意味だと思うんです。
そうすると環境と分離し、切り離して距離を空けるということは、
一つすべて力の一要素を失うということですね。
これが100のうちの一つならいいじゃないかって考え方もあると思うんです。
一時非難的にはその通りだと思うんですけど、私はそれは象徴的なことだなと思うんですよ。
100を99にしていいということは、NSを一つ諦めるって意味になると思うんですね。
NSを一つ諦めるということは、一歩Nが放置される方向に向かうってことなんですよ。
私はその姿勢を自分の心の中に持ってしまうというのがリスキーだっていう風に思うんですね。
微熱を何度か出して、それでメンタルをしのぐというのはありだと思うんだけど、
微熱を出しておけばメンタルの問題が解決されるっていう風な発想を持っちゃうことはリスキーだと思うんですね。
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だからそれと同じような理由で、自力というもの、つまりNがあればいいんだってことには僕はならないと思うんですね。
僕らはもちろん今はAmazonもあるし、お金とAmazonがあれば生きていけるっていう発想もあると思うんですが、
それはAmazonがお母さんだって言ってるに過ぎなくて、何ら変わらないと思うんですよ、ある意味、基本の状態は。
基本の状態は結局私たちは自分はNに過ぎないというか、Nであるという、
つまり自力だけになっちゃうとNだけになっちゃうという事態そのものは変化がなくて、
Amazonにしても先日オッカを売っている方の大変だという特集が昨日テレビで見たんですけど、
つまり環境としての母親というものは何か固定された宇宙の法則みたいなのではないから、何がどうなるかなんてわからないじゃないですか。
ただこの話をしたいわけではないんですけど、私が考えているのは方向性の問題で、
NSというものに常に向かうのが良くて、NSを封じるというのはスクランブルだという風に考えるんですね。
NSを封じるというのが何か諸星術の一種みたいにみなされるというのは、
何となく自分というものに対する不安とか寄る目なさとか頼りなさというものにより近づいていくことにはなっても、
逆には絶対ならないような気がするんですね。
お金をたくさん持っていてAmazonが頼れるのは最強であるという感じが私は全くしないんです。
真逆な感じしかしないんです。
そのようなNS抜きで生きていけないNなのに、NSを減らしていくという、
ニーズ抜きでは生きていけないニードなのに、ニーズを一つずつ封印するのが良い諸星なんだと言われても、
何かこうナンセンスな感じがやっぱりしちゃうんですよ。
朝起きて天気がついたら、お腹が空いているんですよ。
朝起きて天気がついてWi-Fiが繋がって水が飲めるというのは、
全部環境がお母さんになっちゃっているのに、
人間関係に関しては、しかもこれは倉野さんが昔ぶっちゃけ相談かなんかでお話されていたと思うんですけど、
僕ら78億人がいると言っても、出会う人は1億もいないはずなんです。
1億いたら相当なもんだと思うんですね。
まず絶対そういうことは期待できないから、
最初から僕らが出会う人の数ってすごく少ないはずなんですよね。
僕らは日本人で日本語ばっかりに頼るから、
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日本語圏で基本生活するじゃないですか、
勢い関係する人の数というのは、たぶん知れていると思うんですよ。
昔、何とか数とか言って150とか言ってたけど、150とかじゃないですか、豆みたいです。
宇宙と豆みたいな感じになっていくと思うんですが、
そこにしかない、そこでやっているNSの提供をさらに切断して減らしていくというのが、
いい処方にはならないだろうと思います。
これはやっぱり具体的な話であって、
僕が一番意識したいのは単なるメンタルな話で、
逆方面に向かうほどいいんだけど、
世の中の賢い人にしてもそうは言わないんですね。
人との関係で面倒なものを耐えているのは最も致命的だというのが、
一歩間違うと今の世の中では主政として来るんですよ。
一番強い意見だなみたいな感じがあって、一番強いわけではないと思うんですが、
この感じを受け入れて、自分が十分やっていけるという感覚を抱くのは多分難しいだろうと。
実際、切り離すというのとか、距離を置くという言い方が一番正確ですよね。
よく使われるものですよね。同じように見えるんだけど、
距離を置くと言っている話を聞いていると、
人との関係が面倒くさいというのとか必ず出てくるのと、
生きていくのは大変困難だという感じがあるのと、
できれば引きこもっていたいという感じがあるのと、
実際そういう風に聞くこともありますけれども、
私は体力がないとかという話、あるいはMPが少ないとかそういう話、
あるいはHPUが削られるという話はセットになっているんですよ。
つまり、やっぱり距離を置くという、そのニーズを封じるという方向性と、
自分はニードに過ぎなくてつらいという感覚とはセットで、
これはもうMAD VIBESで倉園さんがいつもするお話の通りですけど、
セットでこの感じが僕が昔抱いた不吉な感じなんだなと思って、
セットになったんですよ。
確かにこの人は頭がいいし、そういう人の話を聞いてて思うことですよね。
確かに頭がいいし、良い人だし良心的だし、別に人に迷惑をかけるわけでもないし、
言っていることは私には非常に受け入れやすいんですけど、
私も病気がちでしたからね。
なんかここにはすごく不吉なものがあって、過剰防御感が甚だしく強くて、
私は話を聞いているだけならばこういう人と接しているのは良いんだけど、
30:03
自分の人生観にこれを持ち込みたくないなというのはずっとあったんですね。
Amazonがあって自分の娘と妻がいれば良いんだというこの感じを持っちゃうと、
その反動みたいなものとしてですね、家からは出られない、
日射病にも熱中症になる、冬寒くて出られない、そんなに自分は弱くないぞって思うんですよ。
そういう風に感じるって方もいらっしゃると思うんだけど、
僕は自分はそうは思いたくないし、
そんなになんて言えばいいのか、どう言っても用語が不適切になってしまうので言いませんけれども、
要は昔漫画とか小説とかに出てきた色が白くて発光ですぐなくなってしまう女の子みたいじゃないですか、
私はそういう風では全く外見的にもないし、そんな風には生きていたくないなって思うんですよね、どうしても。
だからここの出だしに、たかなか面倒くさい人間関係、
それによってその人と仲良くするとか、その人と結婚するって話をしているわけじゃないですか、
要は封じないって話をしているだけなのに、
なぜここまで過剰に人とのイカラっぽさみたいなものに対しての警戒心をそんなにマックスまで上げておかなきゃならないかなと。
私の人生も、しかし長らくそういう傾向を帯びていたなと思うんですね。
壮的防衛感強いんですよ。これはやっぱり両親との関係があるんですよね。
父が壮的防衛感の引っ越ある人だったんですよ。
最後の最後になって寺を追われたりしているのを見ると、
この人の人生観というものを、長い人生は反映する傾向があるなと。
もう最後は私は同情でしたけれども、正直言って。
子が親に同情するというのは良いことじゃないかなと思うんですけれども、
どうしても同情心というのが強く出ちゃうんだなと、ああいう時は思いました。
母はしつこい人で、母との喧嘩を打ち切るには、壮的防衛を出すのは大変役に立つというのがあったんですね、私の中で。
これを人間関係に適応しがちなところが、特に男女関係で私はどうしても出ちゃうんですよね。
私は何度かこの番組で言った通り、付き合いたくてしょうがない人間だったから、付き合う時のアプローチは絶対私からだった。
斬り捨てる時も絶対私からになっちゃうんですよね。
壮的防衛ってすごく僕の中に強く根付いていて、違うんだけれども、
例えば会社を辞めるとかも、結局すごくすっきりしちゃうんですよ。
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清々したみたいなのが出ちゃうんですね。
分かる人にはこれはすごいよく分かると思うんですけれども、
私はでも、これもグッドバイブスよりは前だな、
散々この番組では話した、ドコンジョガエルの娘。
あれのドコンジョガエルを書いた先生は、もう壮的防衛がその人の人生なんですね。
もうあそこまで行くと僧侶に近いかなと思うんだけれども、
とにかく母がやっぱりなりたくないなっていうのが、読むと強く感じます。
これがテーマになっている本は山ほどあるにもかかわらず、
なぜかこの概念が中心概念にあんまりはっきり説明されてないんですよね。
非常に学術的に難しいところがあるのか、
ヒステリーという言葉の差別的なニュアンスの問題なのか分かりませんが、
ヒステリーもそうだし、ソーツはもちろんだし、多分多重人格もそういうところがあると思います。
結局、自分で接近しなきゃいけないですからね、人間は。
例えば異性に接近するのに、接近しなくてもいいかもしれないけど、
接近はしますよね。好きな会社に入る、学校に行く、すべてあるわけですよね。
好きから始まる、当然ですよね。それを嫌いになってしまう。
だから切り捨てる。振り子のような動きをするんだけれども、
それを処制術のようにして持つというのが、多分ヒステリーとかなんだと思うんですよ。
ヒステリーは他の要因もあるけれども、でもやっぱり割と中心にそれが来ていると思うんですよね。
最近で言うとヒステリーというよりは、戸田階戸さんの本にあったような、
自立心の異様に旺盛な感じのキャリア志向の人みたいな、
そういうところに随所に出てくる。最初から壁を築いているんだけど、
いざとなると、つまりすごくいい態度か、直ちに捨てる態度のどっちかになってしまうという。
これが多分、記憶を繋いでいると不便だから、記憶まで飛ばしちゃうというのが乖離なんだと思うんですが、
乖離までは普通はいかないから、乖離が別の病だというのは当然かもしれないんですけど、
でも実際な感じってやっぱりあるんですよ。すごく仲良くなるが、
そいつを急に振り捨てるというヒステリーと、その間に、これがだからイヴ・ブラックとイヴ・ホワイトなんだけど、
その間に記憶の繋がりがあると面倒くさいから、記憶まですっ飛ばしてしまうと。
記憶がうまく通ってくれないのを補助するために、ここで大量に酒を飲むというのは、
多分よく出てくるパターンだと思うんですけど、そうやって見るとですね、
すっごい世の中にあふれているような感じすらするんですよね。
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今ではそれがすごいキャリアを積んだ人のお腹にも登場すると、
人にすごく一当たりよくきちっと接してくれるんだと、いざとなると連絡も取れなくなるみたいなね。
そういうふうな感覚って私はとてもよくわかる気がするんですね。
生成するんだと思うんですよ、その人にしてみれば。
こいつダメだみたいになって。
このデフォルトには人の本性というのかな、そういうものには人はダメなところが強くて、
切り捨てなければいけないという人間感を持っていて、その本性なるものが現れたときは、
その本性でもって断罪して一発でレッドカードを出すというような展開を見せるんじゃないかなと思います。
そういうのに切り捨てられるのをすごく怖がる人っていうのが他方にいて、
これは違う話になっていくんですけれども、
多分あれがひどく誰それに見ついちゃうとか、そういうパターンだと思うんですけどね。
しがみつくっていうのかな。
やっぱり家族ですよね、その関係って。
子供が親にしがみつき、ダメになったお父さんとかはバッサリ切り捨てるみたいな、
非常にそこには疑似家族感みたいなものが走ってしまうっていうのがあるような気はします。
だから新聞籍は家族両方に向かうんだし、
それはまどろっこしいし、手間もかかるし、時間も金もかかるから、
やってられないからもうちょっとそれを簡略化しましょうというのが、
今のカウンセリングのすっごいざっくり言った主流なのかなという感じはします。
いずれにしてもですね、私がこの話をしたくなったのはどうしてかというと、
一つには5月1日からやりたいと思っていることは、
こういう背景があって、この話はいちいち全部はしませんけれども、
こういう背景を意識してのことだというのと、
チェンジ図を終了するにあたって、最後の最後まで自分は悩んだということですね。
結局これは違うんだけれども、
始めたものをやめるとか、組織を立ち上げたのを畳むとか、
戦略的にやる話は全然違うと思うんですけど、
これを情緒的な問題と関係があった場合は、
結局はそれは終了ということに対する変にポジティブな感覚、
今後のところを壮的って言うんですよ。
変に元気な、あれをやめてよかったよかったみたいな、
そういうあいつと別れてよかったよかったみたいな、
独特の空元気感みたいなものが絶えず出ちゃう人っているじゃないですか。
いつも元気な人って言うんですよね、壮的な人ってのは。
そういう全く吉澤休美さんか、
ドコンジョガイラーを描いたお父さんがそうなんですよ。
俺は平気だ、いつも平気だからなって言って別れようとするんだけど、
39:00
全然平気じゃないわけですね。
彼はみんなに面倒を見てもらって、ようやくやっと生きていけるというタイプの人。
あんなに典型的なのかどうかは実際にあったことがないから分かりませんけれどもね、
周りの人をみんなお母さんにしちゃっているという、
娘の小遣いまで盗んでいくという、そういう感じっていうのが壮的防衛感にあって、
私は人と距離を置くっていうのが、
つまりああいうことを端的にあんなに恥ずかしい感じにならないように気をつけている人はいっぱいいると思いますけど、
でも究極的にはそういうところなんだと思うんです。
つまり、何らかの私で自分の方で誘っておいた女性なりを、
お前もいいからって言って捨てるとか振るっていうのって、
つまりああいうことじゃないかなっていう感じがするんですよ。
最初はお母さんとして自分のケアをしてくれる相手のような形としてアプローチしておきながら、
本性なるものを見て、お前はダメなやつだから捨てることにしましたというっていうのって、
結局その態度がモラルに反するとかそういうふうに思われるんだと思うんですけど、
僕は全然そういうことはほぼ基本どうでもいいかなと思うんですね。
気になるのはその方針ですよね。
そういう方針が手に入ってしまうととてもリスキーだと、
自分の本来は何にも苦労しないでというわけにはいかないかもしれないけど、
一定の苦労で十分済むところを多大な苦労を生むためになる。
そしてそれがでもさもいいことみたいな感じを最後に残すので、
次回もきっと同じようなパターンにはまり込んでいく。
そして気がつくとですね、すげえ辛いということになりかねないと思うんですよ。
なぜならばお母さんがいない赤ちゃんはすげえ辛いと思いますから。