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おはようございます、グッドモーニングボイスです。
ただいま10月17日の20時半をちょうど、ちょうどじゃないな、回ったところです。
おかげさまでこのやり方にはすっかり定着しているんですけど、
今日も早速ですね、一つミスがありまして、第690回の、つまり多分今朝上がっていたはずのものなんですけども、
曜日でいうと今朝ってつまり月曜日ですね。月曜日の朝に上がったものはですね、
なんか24分くらい経って元に戻って2回同じのが、これ前もあったんですよね。
なんかね、最初そうしてセットしてないのにそうなっちゃうんですよね。
なんとかこれをせねばと今思っているんですけれども、やっぱり公開する前に確認するしかないんだけれども、
朝はですね、娘を送っている関係上、これを確認している余裕がないんですよね。
もうちょっと後の時間にすればいいのかな。その辺もちょっとおいおい考えながらやっていきたいと思います。
それでですね、今日は久しぶりにちょっと環境としての母親の話に戻ろうかなと思っているんですけれども、
その前に何かCMできないかなと今CM内容を探しておりますが、あんま何もないですね。
100日チャレンジの卒業の日が迫っていると、これはJ松崎さんと100日チャレンジというのをやっていて、
これの第2期、第3期を立て続けに推しをかけようと終わったらですね、今Jさんと画作中です。
こっちはもう完全にタスク集とクラウド、あるいはタスク管理の話に集中していきたいと思うんですけど、
その中で私が今、一つには自我の対抗という問題。
同時に環境としての母親というのをここに何とか投入せればと思っていて、
その話を、復習がてらというのはおかしいんですけど、同じ話をですね、何度もしなきゃいけないって僕は今思うようになっております。
というのは、この話ってそんなに決して簡単な話でもないのに、先ほど私今YouTubeの動画をあげたばっかりなんですけど、
これを説明するのがいかに難しいかと、僕の中では何度も何度も喋って、
ヒステリーと二極化の話をしているにもかかわらずですね、これを正確に基本的なところからじっくりやろうと思うと、
あっという間に15分を超えたのに、ほとんど何にも特にこれといったことを喋ってもいないなと。
つまりまだまだこなれた説明になっていないんですよね。
だからもう絶え間なく同じことを喋っていかなければならないと。
これ聞いている方はどう思われるかわからないんですけど、私としては今そういうふうな段階におります。
そこで環境としての母親なんですが、これ先日発売された新書。
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すっかりTwitterでも、私のTwitterのタイムラインはこれで埋まりつつあるんですけど、聞く技術ですね。
聞いてもらう技術、戸畑海斗さんのやつね。
この中にウィニコットの環境としての母親の説明があって、
しかも非常に素晴らしいことに折りたたんであるシャツって書いてあったんですよね。
ようなことが書いてあった。
これは全くその通りだなって私は思います。
あれこそまさに環境としての母親というものを相当いい感じで説明されていると思うんですね。
ただ、環境としての母親というのは環境ではないんだと僕は思うんですね。
あくまでもあれは心の中の存在のはずなんですよ。
ここがウィニコットのすごい良いところでもあるし分かりにくいところでもあるんですけど、
最初は物理的な存在である面が大きく感じられるんですよね。
一人でいる赤ん坊などというものはいないっていうあれなんですよね。
ただ、私が思うにあれはやっぱりあくまでも事実その通りだしそうであることが非常に大事だけども、
でもあくまでも比喩だと捉えるべきだと思うんですよ。
つまり一人でいる赤ん坊などというものはいないというのは、
一人でしか存在していない人の心などというものはないっていう話なんですよ。
たぶん。
だいたい自我だの、超自我だの、エスだのというのは登場人物なんですよ。
つまり心の中が人間というものはですね、いくつかに分かれてしまっているっていうのが、
精神分析の超重要ポイントじゃないですか。
二人はいるぞっていうことですよね。
無意識ってものがあるんだから。
一人ではないぞと。
いやいや、私は一人しかいませんよっていう人もいらっしゃるかもしれませんけど中には。
でも夢見てる時に自分以外誰も出てこないっていう人は、
もしいたらですね、これはむしろそっちの方がすごいことなんじゃないかなって思っちゃうんですよね。
たぶん他の人出てきますね。
その他の人って誰ですか。
私じゃないですか。
絶対夢なんだから。
そう考えるのがやっぱり自然だと思うんですよ。
つまり自分の脳の中の現象だとしても、脳は一人じゃ構成されてないってことですよね。
何人もいるわけですよ。
で、その何人もいる。
少なくとも何人かはいる。
で、何人かはいる中に環境としての母親というか、
何人かはいる中に環境としての母親という存在が非常に重要であって、
これはシャツじゃないんですよね。
折りたたまれたシャツ、ちゃんとタンスの中にしまわれているっていうのは、
それがある人の母親の存在を意識させる。
この意識の方が大事なんですね。
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シャツの方が大事じゃないってことです。
外側、環境としての母親っていうのは環境じゃない。
環境だったら環境って言っておけばいいわけじゃないですか。
だから戸綾さんはそんなことを百も承知でだということは確実なんだと思うんだけど、
電力とかを出されてるわけですよね。
電力かーって僕はやっぱり思ったわけですよ。
電力って外側だからね。
だけれども電力というものを意識するわけですね、私たちがやっぱり。
環境としての母親というものとして電力、なるほどなとは思うんですけどね。
人工物だし。
でも電力はやっぱり環境って感じがするんですね。
母親ではなくて。
環境としての母親というのは最初は非常に物理的な側面が強いんだと思います。
ずっと抱っこしてるってあれね。
ここでもやっぱりウィニコットって人の考えなんですけど、
ウィニコットの先生っていうのはメラニー・クラインっていう女性なんですよ。
この番組でも何度も登場するクラインですね、ミス・クラインですよね。
クラインさんの考え方っていうのは要するに部分対象って言い方をするんだけど、
お母さんの全体としては捉えてない。
我々は他人を捉えるとき全体としてなんて捉えてないんですけどね。
最近盛んに話題にしているネジ巻き鳥クロニクルの基本テーマはそれですよね。
我々は他人をどれほどよく知っていて、
こいつのことなんてもう100%わかってる。
こいつはただのバカだと思っていたって、
その人の全体でないことは確実なんですよ。
あくまでその人の一部ですよね。
その人の一部っていうのはどういうことかというと、
赤ちゃんは例えばお母さんをおっぱいとして認識してるんですよ。
おっぱいってお母さんがおっぱいとして認識してるんですよ。
おっぱいってお母さんの全体のはずはないですよね。
あるいはお母さんの腕として認識している。
またはこれが非常に重大だと思うんですけど、
顔を認識している。
大概の人って他人を前の姿としか知らないじゃないですか。
後姿まで知っている人っていうよりかなりよく知っている人でしょう。
あの人の私は前はすぐ想像できるけど、
後ろどうだったかは思い出せないっていう風に、
付き合いの浅い人に対してはなると思うんですね。
前しかない人っておかしいじゃないですか。
それはつまり部分対象っていうことになるわけですよ。
だから内的対象とかっていう言葉もあるんですけど、
内的、心の中になる対象っていうのは、
当然部分対象だわけですね。
その人の赤ちゃんだった時代のことは知らない。
その人が子供だった時代のことも知らない。
その人の後姿すら知らない。
その人が裸になったところは知らない。
その人がこれから長く生きる人生についても大半は知らない。
その人が夜どんな営みの仕方をしているのかももろん知らない。
知らないことばっかりですよね。
これが部分対象というわけです。
考えると我々の中にある知っている人の像というのは、
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全部部分対象ですよね、多分。
全体対象が心の中にいますね。
それは絶対おかしいですよね。
全体対象は外側にいるに決まっているわけですよ。
だからこいつのことはもう明らかにわかりきって、
こいつはもう全く軽蔑すべき人間だって思ったとしても、
その人の全体のことは絶対知らないわけですよ。
全体対象というのは、ある意味外的対象とかだって時々言うんだけど、
それはおかしくて、やっぱり我々が意識できるものは内的対象ばっかりなんですよね。
つまりその人の一部でしかないということです。
どういう存在であるとしてもですね。
そして環境としての母親というのは、当然部分的なものなんだけれども、
それにしても自分を包み込んでくれるというのか、
かなり全体的な存在に近いんだけれども、
自分と関わっていて、しかもそれを全体だと意識できないような存在なんだと思う。
説明難しいですね。
だからシャツっていうのが本当にいい事例だなって思うんですよ。
畳まれたシャツね。
シャツそのものでは全然ないんですよね。
で、これの何が大事かというとですね。
メニコットって人の考え方によると、
これがですね、これが完璧に機能しちゃダメなんですよまずね。
これが完璧に、そんなことはないんだけど、
これが理念上にせよ完璧に機能して、
アシャは何にもできなくなるわけです。
だって環境としての母親が全部やってくれる。
一番最初の頃ってそうですよね。
ゼロ歳に近い頃。
最早期。
この中でプレオキュペーション、
この話はやめましょう。
一旦ここは置いておく。
話がややこしくなるんでね。
とにかく完璧に背負うしてくれるというのは、
あるにしてもゼロ日1日2日目とかそういうレベルなんですよ。
生まれる前はそうですよね。
子宮の中にいるから完璧に背負わせてくれてます。
赤ちゃんにやるべき唯一のことは大きくなることだけ。
食事すらする必要はないわけですね。
へそのほうがつながってんだから。
つまり一人である赤ん坊はいないわけですよ。
でもこれは比喩なんですよ。
一人でいるような人間の心というものはないんですよ。
もしそうしたら、
赤ちゃんが生まれる前に、
赤ちゃんが生まれる前に、
赤ちゃんが生まれる前に、
赤ちゃんが生まれる前に、
もしそんなことが起きたら
その人の心を破綻してしまうというのが
ヴィニコットの考え方なんだと思う。
一方で、完璧に環境としての母親でしかなかったら
赤ちゃんはいないことになっちゃうんですよ。
どこにもいないことに
このこれに近い表現もあるんですよ。
影音ビーングという言い方をして
そこに生きづいている物、
しかし生きてはいるんだけど存在していない。
つまりこれは
それは自分がいるっていう意識はないよっていう意味だと思うんですね。
でもずーっとそれじゃまずいじゃないですか。
食べ物はやってくる、温度調節もされる、服も着せてもらえる、
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排泄の世話もしてもらえる。
つまり何にもしなくていいんだけど、
それはお母さんが完璧であったら何にもしなくてもいいんですが、
お母さんは完璧ではない。
だからグッドイナフマザーっていうんですね。
程よい母親じゃないとダメなのです。
そうしないと自立する部分が全くなくなるんで。
だけれどもいきなり自立できないじゃないですか。
赤ちゃんって無力ですからね。
私も驚いたんですけど、
ハイハイすらできないというか、
首自分で立てておくことすらできない。
首が座るって言いますよね。
あれ本当に驚きます。
ゴロンってもげるように落ちちゃうんですよ。
びっくりしますよね。
だからそういうふうに自立していかなければいけない存在なので、
お母さんの環境としての母親のケアというものは、
どこかにほころびがあるわけです。
だけれどもこのほころびが多すぎると、
トラウマになるという話なんですよ。
このようにして、
実は自立とトラウマというのは密接な関係があるんですよ。
これはすごいまた大事なポイントですね。
今日はここで一気に飛躍するんですけど、
この話何度も何度もした覚えがあるので、
一気に飛躍するんですが、
つまりですね、大人になった時に、
環境としての母親というものはどういうふうに存在するかというと、
もちろん存在はしているんですよ、心の中に。
だけれども環境としての母親というのは、
ゼロサムってことは絶対ないんですね。
ゼロであったら赤ちゃんは死んじゃう。
100であったら赤ちゃんは自立できない。
つまり自立する子を、
何て言うんですかね、
自立が進めば進むほど、
環境としての母親は、
その自立した人の心の中の存在に、
だんだんだんだん移っていくわけですよ。
その中間を、
移行期間とか、
移行なんとかとかって言うんですけど、
その中間の中では、
お母さんはずっと横にいることが、
だんだんなくなっていくから、間違いなくそうですよね。
でもかなり長い子とお母さんって、
ずっと横にいるんですよ。
見守っててくれる。
小学生になったって今では、
親って何らかの形で子供とかなり一緒にいるんですよ。
でも一緒にいない時がある。
その時に環境としての母親がバッと消えてしまうと、
多分恐慌をきたすんです。
パニックになるんです。
そこで移行期間においては、
移行対象ってものが出てくるんですね。
毛布とかが有名なんですけどね。
つまり毛布をお母さん代わりに、
握ってれば安心できるとか、
なんでもいいんですよ。
ものがそこで出てくるわけです。
ぬいぐるみとかね。
有名なところではそういうやつですね。
でもいろんなものがあると思いますよ。
やっぱり人によってはパソコンとか、
今じゃあり得ると思うし、
スマホとかいうケースもないわけじゃないと思うんだけど、
もっとやっぱり素朴なものの方がいいんでしょうね。
なんか固みの品とかってあるじゃないですか。
あれもそういうものになってくると思うんです。
それと自分の心とがセットになって、
環境としての母親が、
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なんていうんですか、
やっぱり機能するっていうしか引用はないんですよね。
ちゃんとそういう風に。
全力っていうのはやっぱり言えてみような感じはするんですよ。
停電がありますよね。
停電になると人はやっぱりパニックるじゃないですか。
どこかちょっと。
あの状態、つまり環境としての母親が、
姿を消してしまうと、
その人は正気を保つことが、
おそらく不可能になるんでしょうね。
そこで、そこまでは行かないけど、
環境としての母親というものが、
意識できないような状態に、
落ち着いた人のために、
カウンセラーという存在が、
環境としての母親代わりになってくれるんですよね、きっと。
という話をミニコットはしてるんだと私は思うんですよ。
環境としての母親と、
母親を機能させるような存在として、
あるいは環境としての母親を意識させるような存在として、
ソファーに寝そべっているクライアントさんの、
すぐそばで見守ってくれているかのように、
存在しているような、存在していないような存在になるんですよ。
こしいですけどね。
この状態を指して、
つまり一人でいる赤ん坊などというものはいないんですよ。
つまり一人でいるクライアントなんていうものはいないんですよ。
で、クライアントさんはそこをいずれ、
そこのカウンセラーさんのもとを去っていって、
自立していかなければいけない。
その時にはもう、
その患者さんは自分の心の中に改めて、
環境としての母親を意識できるような心理状態まで
持っていかなければならないという、
そうして精神分析というものは集結するという、
筋書きなんじゃないかと思うんですね。
で、我々はそういう存在をオイソレトは使えないというのが、
この私のポッドキャストの出発点なんですね。
オイソレトは使えないから本を読んだりして、
本を読んだだけじゃダメだと本に書いてあるけど、
そういう本を読んだりして、
つまりそういう本の存在というのは、
私は一つの矛盾があると思うんだけれども、
この矛盾もすごくウィニコット的な矛盾だなと思いながら、
読んだりしているんだけれども、
つまりそういうことが必要なんですね。
私の考えでは。
で、私は環境としての母親というものを機能させる、
一番いい方法は、
神経症水準の私のような人間であるならばですね、
自分が環境としての母親になる、
これに限ると思うんです。
ここで今まであんまりしゃべっていないというか、
強調したりしていないところをしゃべっているんですよ。
自分が環境としての母親というものを、
認識しにくいなという心理状態になってきた。
つまりカウンセリングとかを受けたいなというのに近い、
なんとも言えない厳しい状態にあって、
袋小路だなと思ったら、あるいは発砲塞がりだなと思ったら、
最近言ってないけど、
自分が環境としての母親になることを心がける。
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そうすれば、環境としての母親が、
自分の心で意識できないということはあり得ないじゃないですか。
いや、でも私は環境としての母親が心の中にいませんというのはなし。
それだと我々は多分神経症水準では進まないので、
少なくともオーダーラインよりは精神病に近い状態に多分なってしまう。
ミニコットの言うことが正しければ。
私の解釈が大筋で正しければきっとそういうことになっているはずです。
だから私たちが少なくとも強行を期待していないなら、
辛いな、大変だな、生きにくいなと思っていても、
パニックになっていないのならば、
環境としての母親はきっと機能しているはずです。
というか言葉が理解できて、
象徴機能としての言葉ね、
言葉が人に伝わっていて、
人の言葉が理解できていると感じている限り、
環境としての母親は機能しているはずなんですよ。
ニードをニーズに変えられればいいわけですからね。
喉が渇いたなって思って水を飲んで、
それに良かったと思えるならば、
環境としての母親はほぼ確実に機能しているはずです。
悩みは深かったとしてもね。
なので、いないということは考えにくいんですよね。
これを聞いていらっしゃる方の中には、
見つからないとか見当たらないとか、
意識が全くできませんというのは、
僕には考えにくいと思います。
なんで強行を来たすか、
存在しないと強行を来たすというのは、
どういうことかというとですね、
まずニードがニーズに変換できないというのは、
強行ですよね。
自分がすっごいつらいのに、
つまり喉がカラッカラの状態で、
何したらいいかわからないってことですからね。
でも、そういう話は、
それこそネジマキドリクロニクルに
山のように出てきますよね。
あれはだから極めて危険な状態だってことです。
我々はみんな完全に正気だったとしても、
月に放り出されればすぐこの状態になります。
つまり確かに戸畑海斗さんの言う通り、
電力とか、空気とか、水とか、
きれいな水とか、
そういったものは全部確かに
環境としての母親なんですよね。
単なる環境ではないんです。
それに寄りかかっていれば大丈夫だっていう意識を
持てるっていうのが大事なんですよ。
何にもないところに行ったら、
僕ら即死するじゃないですか。
これが環境としての母親というものが
意識できないときの、
地球上にいたとしても
月に放り出されたような気分になったら、
恐慌をきたすわけですよ。
ナワバシゴがあるから
いつでも出られると思っていた
深い深い井戸の底に
いきなりナワバシゴが消えたらですね、
恐慌をきたすわけですよ。
彼は発狂するんじゃないかと思った。
それは当然ですよね。
そのような心理状態に落ち込むことがあるってことです。
これをウィニコット流に言うと、
環境としての母親が
機能不全に陥ったために
トラウマになってしまうんですよ。
お母さんはもしかして不倫してるのかもしれない。
赤ちゃんはそんなことは思いませんけれども、
お母さんの事情があっちゃダメだってことですよね。
今日学校に行くときにバイバイしたんだけど、
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もしかすると家に帰ってきたら
もうお母さん永久にいないのかなとかね。
そうしたら学校はいけないですよね。
つまり安心してどこかに出かけられるというのは
それだけで環境としての母親というのは
機能しているという意味になるわけです。
だから、くどいようですけど、
ネジ巻き鳥では絶対にいなくならないはずの
奥さんがいなくなって二度とありませんとかいう
手紙をよこすから
ああいう事態になるわけですよね。
あれは奥さんが環境としての母親の一部を
担ってくれていたわけです。
大体において環境としての母親というのは
こういうふうに自立した人にとっては
いくつかのもので構成されているし
いくつかのものっていうのは
全てそれらの部分対象なので
全体ではないので
部分だからこそいきなりいなくなったりする
ってことがあるわけじゃないですか。
岡田徹さんは言ってましたよね。
クミコが勝手にそんなふうに消えていくことは
絶対にありえない。
これが部分対象ですよ。
でも実際にあり得たわけじゃないですか。
全体のことは分かっていない証拠ですよね。
部分部分部分で心の中は形成されていて
そして心は覆っているような
いろんな部分でサポートされている
環境としての母親というものが
見守ってくれている中で
私たちは平和に生きて
平和じゃなくても生きていけるわけですね。
だから環境としての母親になるっていうのか
人の環境としての母親になってあげると
非常に大事だと思うんですよ。
もし環境としての母親というのは
他者がやってくれるものであり
私はあくまでも環境としての母親に
支えられて生きていくだけです
っていうことになってしまうと
私は全然自立しません
っていう話になっちゃうんですね。
どれほど経済的に自立していたり
健康であったり
人の世話になっていないと思っていても
心理的には100%依存する
っていう形になってしまうんですよ。
今の構造が正しければですよ。
だって我々は他人を必ず部分対象として
これをですね
ミニコットはユーティライズっていう表現を取ってるんですね。
利用しているにもかかわらず
日本語で言うほど
利用に悪い意味はないような感じがするんですね。
この場合。
使用しているって訳しているケースの方が多いのかな。
使用だともっと悪い感じがするんだけど
多分そういうにはないんですよね。
こうやってしか生きられないって意味だと思うんですよ。
だから他人に使ってもらう必要がどうしてもあるんですね。
この辺で僕はミニコットの考え方
美音みたいな人もそうなんだけど
精神分析でも特に対象関係論では
いかにもそうなんですけど
すごくグッドバイブスに似てるなって思うところなんですよね。
いきなりですけど
倉園慶三さんの発想とそっくりだなって
私は思うところなんですよ。
ここでなんで私が使われなきゃならないんだ
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っていうのは何かおかしいと思うんですよね。
それだと私はつまり
お母さんの子宮の中に入ります
っていうような感じになってしまうので
普通の人ってそれを非常に恐れるんじゃないかなと思います。
この私に何もさせてもらえない
完全に環境としての母親の言う通りに行きます
っていうのがそれは怖い。
それはむしろ自立し
そんなんだったらむしろ自由に生きていきたいってなるから
弊所恐怖症になるんだっていう解釈なんですよ。
精神分析では。
僕はこの解釈正しいと思うんですよね。
これがだから親に閉じ込められるという恐怖が
どこかに投影されて
階段を上がって後ろのドアが閉まると
恐慌を来たすみたいな
そういう話に近いんだと僕は思うんですね。
だから私は人は根源的にですね
一旦成人してしまったら
完全に環境としての母親に
閉じ込められて抱きかかえられて
生きていくってことはできないんじゃないかっていう
感じを持ってるんです。
だからやっぱり環境としての母親に
自分が成るっていう
男女問わずね
親かどうかも関係なく
成るっていう意識を持って生きる方が
たぶん正気に近づけるという風な
気がするんですね。
このこととまたですね
倉園さんがおっしゃる
依頼には応じるってこれが
交互する感じがするんですね。
仕事において依頼には応じる。
依頼に応じることによって
僕らは自然と環境としての母親に
慣れるじゃないですか。
ケアするわけですからね、人を。
依頼においては多くの場合
相手のニーズだけではなく
ニードをニーズに変換して
それを満たすってことも必要になってくると思うんですよ。
これをやることによって
我々は正気に近づけるっていうのは
非常に正しいんじゃないかなっていう風に
思うわけですね。
そうは言ってもですね
ユーキライズにせよ利用にせよ
使用にせよ
いや、使用はされたくない。
人を使用したいっていうね。
人はそれぐらい弱ってしまうときも
あるとは思うんですよ。
だからこそ
精神分析とかカウンセリングというものが
必要になるんですよ。
多分。
そこではお金と時間を決めてね
一時的に
一時的に
使用する一辺倒になる立場を
買うんですよね。
こういうポジションというものを
確保するのが
カウンセリングであり
精神分析であり
実はそれがですね
全くそのまんまの
形でないにせよ
例えば利発展に行く
利用者に関わるとか
あるいは人生相談をしてもらうとか
私の場合は
それの一環として
精神分析家の書いた本を読むんですよ。
セルフカウンセリング
なんですけれどもやっぱり環境都市の母親
というものを
27:00
この辺になってくると
移行対象に近いのかもしれません。
こういう言い方が許されるのか知りませんけどね。
そういう感情でも
私は持っているんです。
環境じゃないんですよね。
環境都市の母親と環境ってやっぱり
違うと思うんですよ。
本って全体対象としては外にあるじゃないですか。
絶対読むときは部分しか読めませんよね。
一度に全部読めるかどうかって話じゃないですよ。
一度に読める部分は
全部ではないってことですよね。
いっつも
全体は外にあるんだと思うんですね。
必ず心の中にあるのは
一部分。
この一部分がいろんな一部分
東方三流に言うと
いろんな依存対象を探す
身につけるとか
持っておくとかそういう言い方ですよね。
僕はこの持っておくって言うんでは
意味がないだろうと思うんですよ。
これはあくまでも一期一会であって
いろいろな対象と
関わっている中で
部分部分というのがその都度その都度
今ここで
私と環境都市の母親を
支え続けてくれる
環境都市の母親というのは
生きてなければいけないので
そういうスタティックなものじゃないと思うんですよ。
やっぱりダイナミックなものであって
今ここで再活性
今ここで再活性っていう風に
し続けていかないと
生きていかないと思うんですね。
だからこうやって確立しましたとか
前はあったんだけど
なくなりましたとかそういう話では
多分ないだろうなっていう風に
思います。依存先を増やす
っていうのはでも
なんだろうな
テクニカルな言い方としては
正確だと思うんだけど
実際には出会った人
出会った人でその都度その都度
自分がその度に
環境都市の母親になるっていう
覚悟を決め続けていく
っていうのが
一番安全というか
健全というか
心の平安という言い方をするならば
そういうことかなと。これが
私の中でやっぱり
倉園さんの言う与えるに
こうするんですよね。イコールじゃないかもしれない
と思うんですよ。でも
ほとんどこれはもうイコールと
言ってもいいかもなって思うんですよね。
今は与えるフェーズだっていうのは
そういうことなんですよね。
非常に弱っていて
人に与えてもらうフェーズっていうのが
当然あるはずなんですよ。
その一番極端なある意味形が
お医者にかかるとか精神分析を受ける
っていう形なんだと思います。逆に
そこまで弱っていなければ
弱る前に与えるフェーズに
入ってしまった方が実は
強くなれるんじゃないかと。
逆ばかりやっていると
結局子宮会議願望みたいな
これはもうちょっと
そういう弱さをむしろ
自分で引っ張り込むことになっちゃうんじゃないか
っていう話でもあるわけです。