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2024-05-20 42:12

仕事に集中できず脱線するのは悪くない【GMV986】

トラウマは困るがグッドイナフでいい。
00:04
おはようございます、グッドモーニングボイスです。
5月20日月曜日、朝7時13分です。
来週ですね、来週Good Vibes×タスクシュートというのをやりますので、
ぜひいろいろチェックしていただくとありがたいんですけど、
もう来週といっても26日日曜日だから、
今週末の日曜日というべきなのかな、13時からオンラインでやります。
これですね、いつもながらなんですけれども、
割とKURADONOさんとちょっと間が空いたのでですね、
KURADONOさんとのセミナーといったものを見てみたいという方はですね、
一応これをチェックしていただくとよろしいのではないかと思います。
はい、なんていうのかな。
昨日もね、この話を少ししようと思うんですけど、
昨日タスクシュート手帳術の回というのをやったんですね。
私なんかには想像できないようなタスクシュート手帳というか、
こう言っても別に失礼ではないと思うんですけど、
中高年の方の男性がですね、
もうまるで女子だなっていうぐらいの、
この女子だなんがいけないのかもしれませんが、
びっくりしたぐらいのそういうすごいのが結構見られるんですよ、
ああいう会に行くとですね。
行くとというか、僕は主催者なんだけど。
で、これがその、なんて言うんだろうな。
まあ、でもタスクシュートなんだよな。
これはこれでっていうね。
そういうのを非常に垣間見て、
タスクシュートの概念を狭めるというのか広げるというのか、
難しいところもあるんですけども、どっちでもいいんだけどね。
その辺のことをですね、今割とそういう仕事をしているから考える。
なかなか盛況でですね、
これからは本当にあの会に関しては、
私はただお膳立てをしていけばいいに違いないと。
あの、喋ったりはしますけど、
直接手帳の話では昨日もありませんでしたし、私の話は。
短めにね、サッとやって、会を、
まつらえるというのか。
とにかく会をセッティングして、
あとは皆様が盛り上げていって充実させて、
皆さんって誰だよっていうのもありますが、
皆さんって認定トレーナーの方とか、
そういう昔ながらのタスクシュートユーザーであり、
かつアナログが必要に迫られて使うっていう人もいらっしゃったし、
03:03
大好きだから使うという方もいらっしゃいましたけども、
そういった方でどんどん拡大させていただければ最高かなと思いまして。
その中で私が考えたのはタスクシュートって何だろうってこと。
これはもう多分一生考え続けていくんでしょうけれども、
その中でですね、私は倉野慶三さんのGood Vibesに、
インスパイアでいいと思うんですけれどもね、
非常に強く影響された、その影響下においてタスクシュートをやってる人、
そういう感じの話を聞いてみたいといった方がいらっしゃいましたら、
26日の13時から一番その辺の話を集中的にいたしますのでよろしくお願いします。
こんな感じですかね。
そのタスクシュート手帳術の回。
手帳の回だったんですが、手帳セミナーだったりもしたんですけど、
ついに第一回は手帳術の回になりました。
では第二回、第三回とあるようにしていきたいわけですけれども、
手帳術の回というのはつまり、
タスクシュート手帳というものをどのように、
一つにはやっぱり実用性のあるものですから、
実用的なものにできるか、そして使っていくものになるか、
そしてあわゆくばそういうアナログ好きな方にとって楽しくてというのか、
楽しいというか、くりくるだけでは十分ではないかな。
それを使っていたいと思うようにしていけるかといったところだと思うんですよ。
だけど私は必ずしもそういうものを楽しんで使うという方ではないので、
どうしても実用度の方を圧倒的に優先する人間ではありますので、
まずは実用的でありたいといったときに、
結局タスクシュートって何だろうになるわけですね。
他の方法ではなくて、タスクシュートを選択するからには、
それなりに何か有効であると、より有効であると。
より有効でなくてもいいのかもしれませんけれども、
少なくとも邪魔にはならない。
それじゃあちょっと消極的すぎますね。
とにかくそういったものでありたいと。
昨日そういう話をしたんですね。
何がどうあるとタスクシュートと言えて、
そしてそれは便利なのか。
基本的に言うとそういうことですよね。
何がどうあるといいのかというとですね、
私はやっぱり他のツール、他のメソッドとつくづく比較して、
やっぱり一番似てるものと比較するのがいいと思うんですよね。
一番似てるものがほとんど同じだったらどっちかで良くなるので、
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一番似てるものがあってなお、
でもタスクシュートが必要だというためには、
これとは違うところがあるってことになりますよね。
私が一番似てるものとしてやっぱりマニアーナがあるわけですね。
あれが一番似てると思います。
タスクシュートのメソッドに近いタスク感。
マニアーナの考え方なり本なりをもう一度ツラツラと見直してみてですね。
タスクシュートとどこが違うのか。
一番違うのは開始終了時刻だなと。
ここがもうはっきりと違う。
フローズドリストとか、
フローズドリスト正確には私タスクシュートにはないと思うんですけど、
一応それっぽい発想はあるし、
デイリータスクリスト、タスクダイエリー、
これは単発タスクとルーティンタスクのことだけれどもありますね。
で、壁みたいな考え方もやっぱりマークホスターはあるんですよ。
あの流れだと当然だろうなとは僕も思うんですね。
ただ唯一違うのが、
たとえ時間を見積もったとしてもですね、
開始と終了時刻をいちいち入れはしない。
マークホスターがタスクシュートのことを知ったら入れるようになるかもしれませんが、
入れてしまったらもうあれはタスクシュートだと私は思いますね。
だから開始終了時刻というものを記入するかしないかが、
一番タスクシュートをタスクシュートらしくするというか、
ユニークネスなものにするポイントだなと思いますね。
これは先日お伝えした通りです。
それでタスクシュート手帳述の日に私がしゃべったのは、
なぜそれをするのかってことですね。
今のチェックリストにチェックを入れてしまうというのも、
普通の考え方なんですけど、
あれを入れるとですね、プロジェクトの単位のレベルに入っても、
アクションの単位に入っても、
同じ形式になってしまうんですよ。
あれは私は大変不都合だとよく思います。
つまりよくある持ち物リストで、
今日なんかもそうですが雨ザーザーだから傘持つ。
傘って書きますよね。
これはチェックリストでいいですよね。
傘を持ち物にするのに、
開始終了時刻も減ったくれもあったものではありません。
持つか持たないか、
持ってるか持ってないかが全てだからチェックでいいでしょう。
でも今最後の悪輪書きモードに入ってますが、
私はこれを悪輪書きモードと呼んでるんだけど、
原稿を脱稿する直前の、
もう間もなくですよ。
今日は例の4月中締め切りの最終脱稿チェックがかかってるわけです。
ゼロ行と言ったりする人もいますが、
とにかくそれ、
この雷和書房さんの、
ごめんなさいちょっと、
雷和出版の雷和書房は違うということを先日知って以来、
適当なことは言えなくなった。
とにかくどっちかですよ。
どっちかで出す本のゼロ行は、
これチェックリストはダメだろうと思うんですよね。
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いつんだったらチェックが入るかわかったもんじゃないけど、
着手はもうとっくにしてるに決まっております。
着手だっていつ始まったのか、
なんとも言えないところではありますよね。
とにかく幅があるわけですよ。
それも30分とか60分とかでは済まされない幅があるわけですね。
だからプロジェクトって普通言うんでしょうけど、
でもプロジェクトって言うと、
これやっぱ出版企画を指すと思うんですよ。
ゼロ行は一体何なんだってことですよね。
これをスタックと呼んでみたりした時代もあったんですけど、
僕は単位の名称を変えてみたところで、
あまり意味がないと思うんですよね。
やっぱりここに操作の仕方を変えないと、
全てにおいてチェックボックスを置いて、
その後ろに出版企画と書いてみたり、
傘と書いてみたりするだけでは、
全部同じ形式になってしまうじゃないですか。
この表現を変えない限り、
それを何と呼ぶか、
フォルダと呼ぶか、マイルストーンと呼ぶかということについては、
あまり意味がない気がするんですよね。
どっちを呼んでみても見え方は変わらないのだから、
扱い方もあまり変えられなくなって、
そして困るわけですよ。
いつになったらこのゼロ項にチェックが入るのっていう話になります。
だから私は開始時刻と終了時刻という概念はいいと思うんですよね。
開始したということは着手はしているという意味であって、
終了するまでは完了はしていないっていう、
そういう表現が飛べますからね。
これを真面目に行うことによってまたスクシュートになるんですよ。
これを真面目に行うということは、
例えば着手はしました。
だから着手の後は残っているわけですね。
着手状態というものに入るわけです。
ルーティンというのは本来着手状態という意味のリストのはずなんですよ。
だから着手はしますよ、あるいはしてますよ、
そういった意味なんですよ。
完了まではまだ言ってませんよ。
完了しているんだったらルーティンとして残っている理由はないですから。
だからルーティンと開始終了時刻があるというのが、
つまりタスクシュートなんだなというふうに言えると思うんですよね。
これはさっき言ったような理由で便利なんだけど、
そのことをですね、私はビヨンですよ。
ミニコットでもいいけど、いきなりそこで説明をすると。
トラウマの概念というものが臨床心理には当然あります。
このトラウマということは本当、
私は先日もお話したかと思うんですけど、
いい言葉ではないなと思うんですよね。
でもしょうがないよなと思うわけですよ。
つまり心的外傷というんだけど、
まずその傷は外からついたものなのかという問題が一つ。
心の中の話ですから。
次に、傷って何なんだという話があります。
悩むとか苦しいとか痛むというだけでは、
傷とまでは表現の問題、これはね。
12:00
傷は傷です。傷は傷かもしれないが、
傷というのは形状を持つものなんですよ、図に考えれば。
外傷などというのは特にそうです。
外にある傷なんだから、皮膚病、皮膚上についてるかもしれないし、
いろいろあります。
家に、いや車にも傷はつきますよね。
外傷というものがあります。
それは目で見ることができます。
心の傷はそうはいかない。絶対目で見ることはできない。
目で見ることができたらそれはあくまでも体の傷ですよね。
ここのところで皮膚になってるわけですよ。
そうすると一体それに何ができるかっていうのが、
皮膚を使ってしまうとですね、やっぱ薬を塗るとか、
癒すとか、元に戻すとか、
そういうことになってしまうんだけど、
私はそれができるのかっていうのが非常に引っかかるわけですよね。
傷を負ったのだとしてですね。
とりあえず今日その話は置いといて、
なんでこういうことが起こるのかという話をしたときにですね、
精神分析の考え方によると、
やっぱり心にはキャパシティというものがあって、
これ非常にキャパシティって言えば当然、
入れ物的な容器的なイメージを持ってるんですけど、
ここではコンテナーと言ったりするから全く容器なんだけども、
容器の中に収められるかどうか、
引き出しが締まるかどうかですよ。
締まらないようなことになってくると、
それはトラウマとカシウルというような話が始まるわけですね。
この話は先日もしました。
締まるか締まらないかの要素を決めるのは、
この場合2つあるんですね。
本当はもっとあるんだけど、とりあえず2つ。
1つは非常に単純ですね。
デカすぎるものは入れられないということです。
だから震災とか、
あるいは子どもにとって親が虐待的であるとか、
そういったあまりにもデカすぎる出来事はですね、
心の中に収容しきることができず、
問題を引き起こすという話。
これが1つですね。
もう1つは収納するためには小さくできるという考え方があります。
昨日話したのはこのことですね。
一番昨日の私の中でのポイントはそこでした。
収納するには小さくできるわけです。
赤ちゃんにとって、
お腹が空いたのにミルクがやってこないというのは、
もうそれだけでもトラウマになりかね。
なぜならば、それがものすごく大きな出来事だからですよ。
なぜならば、一歩間違うと大変な事態になると赤ちゃんは思っています。
というのも赤ちゃんはお母さんがそこにいるということを知らない。
これは知らないくらい年がいってないという大前提があります。
最早期と言ったりしますね。
0歳何日みたいな時は最早期ですよね。
生まれたてホヤホヤみたい。
そういう時にはそこに母親がいるなどという概念はありませんから、
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当然、いつかミルクがやってくるだろうなどと考えることはできません。
今考えると言いましたけど、考えられない状態と言ったりします。
これが精神病の比喩でもアレゴリーでもあるということです。
考えられなくなっているその人が。
その人が頭が悪いという意味ではないですよね。
心理的に考えるという状況にはもはやないという意味です。
この最早期水準まで対抗することを精神病と考えるようなところが、
少なくともクライーンという人以来、精神分析では捉えるようになってきている。
つまり心理臨床というのか、心理カウンセリングの古い歴史の中では、
かなり初期の頃にこういう考え方が発達したということですね。
すごくここが大事だと私は思うんですけど、
それが精神病かどうかということよりも、まず何よりもですね。
考える考えられない状態っていうのに対して、
赤ちゃんは何かが起きていることはわかるわけですよ、とにかく。
なんかすごい辛くなってきたとかね。
まずお腹というものの概念は知らないので、お腹が空いたとは考えられない。
これは結構怖いなって思うんですよ。
あの空腹の苦しみがお腹が空いたというふうに特定できないとすると、
どんな体験になるんだろうなと。
もちろん同じような感じだとは思うんだけれども、
とにかく自分の体の中のね、胃袋あることだって知らないわけですからね。
自分の体の中のどこかに、
大変な苦しみを作り出すものがあるって感じがするだろうっていうような雰囲気があるんですよ。
これをノーシングって言うんですよね。
ノーとシングが別々の単語になってるんですよ。
ノーとシングはすっごい不気味なものですよね。
ノーシングっていうものですよ。
彼は彼の中ではまだナッシングになってないっていう、
これは上手い言い方だなと思うんですけど、
ビヨンっていう人の言い方なんですけどね。
彼は非常にその辺を細かく考える人だなとつくづく思うんですよね。
ウィニコットって人はこの辺同じようなこと言うんだけど、
もっとこうサラッと言うかちょっと詩的な感じでレトリカルに説明してるんですけど、
ビヨンはもうなんかエンジニアみたいなんですよ。
ここに記号を当てはめていくんですよね。
記号を置き始める。
私は結局何だろうな、
いつかビヨンをちゃんと理解できないと、
この辺の話はちゃんと理解したことにならないかなという感じがするんだけど、
まだよくわからないところはいろいろあるんですね。
ただこのノーシングとナッシングというのは、
ウィニコットの本を読めばなんとなくわかる感じがするし、
自分の中でもこの問題でかいなとは思うんですよ。
不在の対象というやつですけど、
私の頭もしょっちゅうノーシングになっちゃってるなっていうのは、
本当にいちいち思い知らされるわけですよね。
例えば、何でもいいんですけれども、
それこそ私が繰り返し、
18:01
もう多分みんな聞き飽きたと思うんですけど、
大学時代に彼女が欲しかったとき、
彼女がいないという、
これはナッシングでなきゃいけないわけですよ。
いないだけなんですよ。
ところが私は、
いないというひどい事態が私にあるって感じをずっと持ってたわけですね。
頭ではそんなことはさすがに思いません。
でも、いなければいけないものがいない。
この感覚っていうのは、
やっぱり2,3歳になった頃、
お母さんが家にいないっていうのと、
非常に酷似した体験なんだろうなと、
後から考えるとつくづくそういう感じがしますね。
お母さんが、いるべきお母さんがいない。
本当はお母さんいないだけなんだけど、
そこに何か積極的に害を及ぼしてくる存在がいるってのとは違うんだけれども、
赤ちゃんは多分そうは考えられない。
やっぱりナッシングになりきれない。
ノーシングが私を攻撃している。
そういう風に捉える。
そういう風に捉える捉え方は、
社会問題としてあるじゃないですか。
男と遊びに行っているひどいお母さんとか、
パチンコをやっているひどいお母さんとか、
家に全然帰ってこないひどいお父さん。
お父さんはひどいことをしているわけではないかもしれないんですよ。
仕事しているだけなのかもしれないじゃないですか。
もちろんそれはそれでひどいのかもしれないけど、
でも仕事しているだけかもしれない。
とにかく仕事に邁進しているだけで、
そこに積極的な悪意とか害はないわけですね。
ところがひどいお父さんという存在があることになり、
それが子供を攻撃していることになる。
攻撃するからにはそこに対象があるわけですよ。
負罪の対象という不思議なものは、
つまりノーシングというものがあるわけですね。
これは大変困ったものですよね。
赤ちゃんはそのノーシングを、
美音流に言うと排出したいわけですね。
外に出してしまいたい。
これが面白いですよね。
ミルクを飲むという取り入れ行為によって、
悪いものは排出されていくんですよ。
この誤解が後々厄介な事態を引き起こすし、
売る種になるというのかな。
そういう話なんですね。
つまり私たちは良いものを得て、
悪いものを外に出すという、
そういう誤解をすることで、
不罪の対象に対応してしまうわけです。
本当にこれは問題ですね。
なぜこれが問題かというと、
我々は大きくなるとそれをやるんですよ。
気がつかないところでやっていく。
非常に厄介ですね。
これは私はいつも思います。
例えばお金がなくなってくるじゃないですか。
でも最近お金がなくなってくるというのは、
電子決済に近い世界なんで、
数字業の話でしかないんですよ。
そうですよね。
お金がある状態というのは札束がいっぱいで、
お金がないときはその札束が消えていくみたいな。
そういう原始的な昭和中期頃とは、
今は全然違うわけですよね。
私全然最近お札たくさん集まっているところなんて、
目にしたこともなくなってきましたもん。
そういう厳禁な世界ではないわけですね。
21:00
そうすると何が起きるんだろうというと、
心の中にお金がないというノーシングな悪い自体が、
非常に切迫感を持ってやってくるわけですよ、一旦。
お金がないだけなのに、
お金がないという状態があるみたいな感じがしてくるわけです。
これを積極的にこの状態、
ほら貧乏神とかって言うじゃないですか。
貧乏神を家から追い出すみたいな。
あの発想ってまさにノーシングという悪いものを
ミルクを飲むことによって追い出すという発想そっくりなんですよね。
だから貧乏という状態を追い出したいわけですよ。
そうするとお金というものを吸収して、
結局のところ銀行口座の残高という数字が大きくなると、
その貧乏というものが外に追い出された感じがする。
こういう感覚を私たちは得ていて、
これは全く最早期の赤ちゃんの情緒とそっくりなんですよね、きっと。
これが少しばかり正気をかいた状態です。
実際に起きていることと、実際の現実と、
頭の中で感じていることが非常にマッチしてない、
全然合ってないわけですね。
全然合ってないといけないじゃないですか。
ここに何にもないのに何かがありますみたいな。
あそこに誰もいないのに幽霊が見えますみたいな。
それは少し正気かいてますよね。
そういう状態というのはつまり少し正気をかいていると。
その少し正気をかいている状態は、
最早期の自分が赤ちゃんになったときの感覚によく似ているんだという、
こういう話なんですね。
ちょっと話が逸れておりますけれども、
タスクシュートの話とそれがどういうふうに結びつくのかというと、
どんどんどんどん物が入ってくるという状態。
トラウマの状態というのは震災のようにドカーンとでかい物が入ってきて、
それが心が収納しきれなくなるという話なんだけど、
ノーシングも同じものなんですね。
赤ちゃんにとってノーシングというでかい物がドカーンとお腹の中に入ってきて、
自分ではそれを対処できない。
だから足をバタつかせてそれを追い出そうとして泣き喚くと。
そうするとどこからかミルクというものがやってきてですね、
このノーシングを追い出すのにひと薬買ってくれるというね、
素晴らしい世界が待っているわけですよ。
普通の家の出来事ではありますけれども、
赤ちゃんの目線をなるべく頑張って捉えてみようとすると、
こういう事態になるわけ。
つまりノーシングというのはでかくて、
赤ちゃんの心の中だけでは収納しきれないわけですね。
そこでお母さんの心というものがそこにあることによってですね、
お母さんの心はこの収納しきれていない赤ちゃんというものを、
一旦お母さんの心が収納して、
そういうことをやってますよね、赤ちゃんのお母さんはね。
赤ちゃんを抱っこするなりして、
お母さんの心の中に収納してミルクというものを提供すると。
そうするとお母さんの心は赤ちゃん、
お腹を空かせている赤ちゃんという、
ノーシングを抱えている赤ちゃんというものを、
ナッシングだと解釈して、
つまりお腹が空いていると解釈し、
24:02
お腹の空いているという解釈は赤ちゃんから出てきません。
お母さんからしか出てこない。
で、それに対する対処策というものを取ることによって、
全てが丸く収まる、そういう話。
つまり、ミリコットなんですよ、これは。
私の漢字ではね。
一人でいる赤ん坊などというのはいないということですね。
お母さんが必ずそこにいる。母子は一体なんですね。
特に心においては一体なわけですね。
で、そのノーシングに匹敵するというか相当するものが、
私たちにとっては、あふれんばかりの仕事なわけです。
あふれんばかりの仕事があまりにも本当にあふれ始めると、
心の中に収納しきれなくなって、
我々は泣くわけですよ。
現実に赤ちゃんのように泣く人は多分極めて少ないでしょうけれども、
心の中ではこれがインナーチャイルドとかそういう言い方をするんだけど、
そういう言い方は別にしなくていいと思うんですよね。
私はただ情緒的に最早期の赤ちゃんだった頃のことを思い出すぐらいで十分だと思うんですよ。
そうして私たちは心の中で泣く。
で、パニックになっていると言ってもいいです。
赤ちゃんみたいに手足をバタつかせてもどうしようもないじゃないですか。
空腹は収まりませんよね。
手足をバタつかせても、もんもんとしていても仕事は進まないわけですよ。
大量の仕事がやってきて心の中に収納しきれなくなったという時に、
必要なものって何ですかという話なんですよ。
お母さんですよ。
けれども、実際のお母さんがやってきたところで多分役には立たないでしょう。
私の場合もそうですが、こんなに原稿を抱えているんだよということを母に泣きついたって母は別に何かできるわけじゃない。
周りに書くことはもちろんできないし、小さなヒントを出してくることすらおそらく思いつかないでしょうが、
すでに私は成人する前に母親というものの機能を手に入れているので、
それによって私はこの問題に対応できる。
つまり、さっきお母さんはノーシングを抱えている赤ちゃん、
心があふれてしまっている赤ちゃんのその状態全体を抱え込むことに、
これをコンテナーとかいったりするわけですよね。
コンテイニングっていうのかな。
とにかく抱え込むことによって、
そしてそこで起きている事態に対してまず判断を下しますよね。
ハングリーという判断を下すわけです。
ノーシングではなくてハングリー。
私もそういうふうにすればいいわけですよ。
原稿があふれていますと。
もうこの状態はどうしようもありませんと。
その時に今何が起きているのかというものを判断するというのが、
まず母親機能の第一手になるわけですね。
つまりその事態を解釈してあげるというわけです。
これをマスクシュートはやるよねって話です。
原稿というものがこういうふうに積み重なってきていますと。
今今でやるべき用事っていうのをこうやってリストアップしてみると、
これとこれとこれとこれになりますと。
27:00
意外と4つぐらいしかないよねっていうこれ。
これによって母親機能というものがそこで働き始めて、
心はただただ事態を収納しきれずに往産をするだけではなくて、
整理をつけることができる。
つまり考えてはいないかもしれないけど、
十分考えられる状態というものがそこに整えられていくわけですよ。
だから赤ちゃんを抱っこしてあいやしているうちにお腹空いたのかなとか、
これは物思いと言ったりするんだけど、
この抱え込んで当たりをつけるという機能を発揮するっていうのが大事なんですね。
この経験を経ている人はやがてこの機能そのものを自分の中に取り入れることができるようになっていく。
この辺の話は昨日はサラッとしたんですよ。
15分で話し切ったんで、もう27分ここで経ってますからね。
このようにして自分に母親機能というものをインストールしていくわけです。
自分がミルクを飲むという体験を繰り返すことによって、
抱え上げられてミルクを飲むという体験を繰り返すことによって、
このノーシングがお腹の中にやってきたときは、
これをやれば対応できるんだということを少しずつ認識していく。
そうしないと体験と言葉が一致しないですよね。
お腹空いたのっていうのが何を意味するのかっていうのをこれで理解していくわけです。
仕事があふれているっていうのはどういう状態なのかを理解するために、
私たちはリストアップという母親機能を使うわけです。
こういうふうに私は昨日説明したつもりだし、
今では完全にそういうふうに理解しているわけですね。
この説明によってそれが妥当であれば、これ大事なんですね。
昨日ここらへんはあまり深入りしていない。
次回あたりにしゃべろうかなと思ったんですけど、
このあたりをつけるという作業が常に正しいとは絶対限らない。
そうですよね。
赤ちゃんを世話しているお母さんはミルクをあげるかもしれないけど、
赤ちゃんは泣きあわないかもしれません。
だいたい最大の問題はお腹にノーシングがあるのではなくて、
背中にあるのかもしれない。
例えば汗ばんでるとかね。
赤ちゃんは何が起きているかは全く理解できない状態にあるので、
ほぼ理解できない状態にあるので、
深いであることしかわからないわけですね。
これに対していろいろな解釈を施したその解釈は、
4つか1つしかどうせないので、
おむつを変えるとか、
暑くする、涼しくする、暖かくする、
ミルクをあげる、菓子つけるとか、
4、5本指にだんだん修練されていくので、
最初はいろいろなことはできないわけですから。
4本のことがない限りは、
熱があるとか、
4本のことがない限りは、
いくつかのパターンしかないわけですよ。
欲しいのは水かミルクかなんですよ、せいぜいね。
このいくつかのパターンの中ででも、
30:00
当たりはつけるんですよ、必ず。
だって相手は何がして欲しいのか、
本当は自分でもわかってないわけですからね。
自分自体っていうのが、
実は我々も持ってると私は思うんですよ。
仕事があふれてるというのは確かだけれども、
それは結局何がしたいのか、
というのがわかってはいないんですよ、
完全にはですね、自分でも。
それは原稿を書きたいんだけれども、
連行を書くと一言で言っても、
すでにある程度まとまりのついているものを書きたいのか、
それともそもそも今から、
これだっていうような、
アイデアみたいなものを考え尽きたいのか、
あるいはまた、
編集さんを納得させるだけの材料集めがしたいのか、
全部違うんですよ。
つまり私たちは、
ノーシングの状態にあるわけですね。
これをニードとニーズみたいな表現で説明していますけれども、
今までもこのPodcastでも。
いずれにしても私たちは、
抱え込まれなければどうしようもない問題というものを、
まず手に余しているわけです。
そしてそれに対して当たりをつけて、
もう赤ちゃんイヤイヤするかもしれないじゃないですか。
同じように私たちもリストアップしてみて、
原稿を書くっていうふうにやってみても、
やってみると全然しっくりこないと、
コーヒーでも入れに行きたくなるわけですよ。
つまり解釈が正しいとは限らない。
解釈は当たりをつけるという話でしかないわけです。
見当をつけてみる。
とりあえずこれなんじゃないかなと考えてみると、
そういった話でしかないわけですね。
つまりあれですよ。
あたすかしみたいな表現もあったんですけど、
ミニコットン、ミオンも似たようなことを言ってますが、
クラインも言ってる気がするんですけどね。
要するにこの解釈というものは外れると。
そして外れることが大事なんだ。
つまりこの外れによって、
母親はパーフェクトではない、
グッドイナフマザーでしかないんだという、
この話につながっていくわけですね。
私はこれはすっごく原稿を書いていると感じるんですよ。
書くじゃないですか。
原稿を書くという行為がたとえフィットしたとしても、
ノーシングがナッシングになって、
ここがミルクなんだというのが妥当だったとしても、
なおですね、完全な満足は得られませんよね。
こういうことなのかな本当にっていう感じもしますし、
文章が完璧でないし、いろいろあるわけですよ。
赤ちゃんもきっと同じようなことを思ったんじゃないですかね。
ミルクは美味しいけど完璧じゃないし、
そもそも今お腹が本当に空いてたんだろうかみたいなね。
そういうふうには考えませんよ赤ちゃんは。
言語がないからね。
ただそのニードルがニーズに切り替えられるということは、
完全ではないということなんですよ。
多くの場合ね。
たまに、この話も大事なんだけど今日はすっ飛ばしますが、
たまにものすごく完全なこともあるでしょう。
でも多くの場合は完全ではないんです。
たまにありますよ原稿を書いてても、
ああイケてんなみたいな、
33:01
そういうのが後から読み直したとき、
本当にイケてるかどうかはまた別なんですが、
とりあえずその時はイケてる気がする。
かなり良い線いってる感じがするっていうケースもありますけれども、
まあ大概そうはなかなかなりませんね。
そもそも俺今結構書きたいのが本当にぐらいになって、
ファンさん見に行って、まあこれは違う話になるからやめよう。
漫画読みに行ってしまうみたいなそういうことも起こりますよね。
つまり解釈は完全ではない。
この外れるというのがすごい大事なんですよ。
だから私はここで脱線してダラダラするとかいうのは、
本当もう今後二度と言いたくはないぐらいに、
脱線するとかではこれは全然ないんですよね。
赤ちゃんはそもそも自分のニードを完全に把握することはできないし、
お母さんもそれに対して当然完全に分かっていない要求を
完全に満たすということは原理的にできない。
ずれが絶対あるという。
このずれを交流するというのが多分心の中で起きるべきことなんですよ。
いつもいつもそこは何かが間違ってる。
大筋正しいんだけど完全ではない。
こういうずれが私たちが仕事をするっていうことなんだと僕は思うんですよね。
だからここで完全でないから脱線だとか、
そういう話ではない。
うまくいかなくて当然とかハードルを下げるって話とも違うんですよ。
なんて言えばいいんですかね、これはね。
完璧には噛み合わないということが現実であるっていう感じだと。
完璧に噛み合うと思ってるのは空想でしかないんです。
ご飯を食べてる時とかに少し思いません?
なんかこう皿が三つ四つあって、
これを食べたいのかそっちを食べたいのか、
そっちを食べてみたんだけど実はこっちだったみたいな。
別にそこで悩むようなことは何もないから。
いいんですよそれはそれで。
いいじゃないですか。
肉を食べようと思ったんだけど、
思わずトマト食べてこれは脱線だとかって思わないじゃないですか。
それは食事という中に踏み込まれる絶対に妥当な何かじゃないですか。
このトマトは天皇陛下が食べるような完璧なトマトではないから、
食べて損をしたとかって普通思わないじゃないですか。
なんていうのかな。
それをしかし妥協とは言わないでしょ。
これはスーパーで198円のトマトだったから、
私は貧乏で妥協してるとかって思わないと思うんですよね。
そのトマトの味が仮に完璧でなかったとしても。
なんていうのかな。
そういう感じなんですよこれは。
私たちはあそこの紙に書いたようなリストを実行していくというのを、
完璧に遂行するっておかしな発想なんですよ。
それは完璧な食事をしましょうっていうぐらいおかしな発想だと思うんですね。
現実味が全くそこにはない。
現実ってのはそういうもんじゃないんですよ。
だからニードは完全な形では満たされないんだけど、
そうであるべきなんですね。
私たちは脱線するという言い方をするんだけど、
そうではないと僕は思うんですね。
36:02
一見原稿と関係ないことをやってても、
それは原稿を書くという行為の中に入っているんですね。
だから私は最近は本当にそうです。
漫画読んでしまってもこれは原稿を書いているんだってことになってます。
タスクシュートってのはそういう意味で正しいんですよ、僕からするとね。
すごく雑然としてなきゃいけないんです、そこが。
そこがすごくすっきりしている、
何か工場で精密機械でも作っているような調子でやっていると考えるとするとですね、
話は一向に進まないだろうなって感じがする。
どっちかっていうと、子供が粘土をいじって、
何かそれっぽいものを作ろうとしているときとよく似ているはずなんだと。
だってお母さんが本当は暖かくしてほしいのに、
ミルクをあげちゃってるなんていうのはザラにあるはずじゃないですか。
泣いてるからね。
赤ちゃんも本当は暖かくしてほしいのに、
抱っこされてミルクを飲んでるのかっていうことで、
片透かしを食らうっていう言い方をするんですよ。
こういう体験をしないと、
そこに母親というものがいるんだということがわからないですよね、いつまで経っても。
母親というものは間違いを得るから母親なのであって、
絶対に間違わなかったら、
何か精密機械みたいなものになってしまって、
本当に赤ちゃんはそこで一人っきりになっちゃうんですよ。
この感覚というもの、
つまりお母さんと一緒にいるから一人になる能力を発揮できる。
つまり二人だからこそ一人になれるっていうのと、
本当に完全に世界が環境化してしまって、
つまり手塚治虫さんみたいな世界ですよ。
政府の宇宙船の中で赤ちゃんしかいないんだけれども、
AIが完璧に話し相手にもなってくれるから、
そのことに赤ちゃんは気づくこともできないという、
かなり怖い世界。
ああいう世界に住みたくなかったら、
やっぱりお母さんは間違ってくれないと困るわけ。
こういう話しかここには入ってるんだと思う。
当然これは精神分析の現場を比喩しているわけですよ。
カウンセラーは間違うと言ってはいけないことを言っちゃうし、
せっかく癒されに来たのに、
かえって傷つけられたよねっていう口コミとかあったりするじゃないですか。
あれすっごい難しい問題含んでるんですよ、だから。
でもそれは良いことかもしれないんですよ。
もちろんそれはどうこしちゃいけないから、
そこがすごい難しいんですよ。
どうこしちゃいけないって言ったってどうこすし、
でもそれに悔いがあるようではいけないし、
スキルがひたすら未熟なせいでそれが起きましたっていうのも問題はありますよね。
でもそうじゃなくてそういうことが起きる可能性は十分あるし、
そういうことが起きないとですね、
起きないとその人は全然社会に適応できないにもかかわらず、
カウンセラーのところに何度も何度も足入っかやって、
いやここ本当に心地いいわみたいになるじゃないですか。
その人はすごい孤独じゃないですか。
本当は社会のどこに行っても適応できるところがなくて、
自分の話を本当に分かってくれる人は生身のところに行ってるのか、
カウンセラー以外には誰もいないんだけど、
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でも私にはカウンセリングがあるから大丈夫っていうわけで、
ずっとカウンセリングルームにできればいたいっていうのはやばいですよね、なんとなく。
そういうヤバさがあるんですよ、母子関係というものの中にはっていう話がここには少しあって、
だから私はですね、タスクシュートでタスクが進みませんというのは実にいいことだと思うんですよね、
逆説的に。
ついつい進むっていうのは何かがおかしいんですよ、やっぱり。
どこかにごまかしがあるということですよね。
赤ちゃんが完璧に妥協してるとか、
いやもう今は全然ミルク飲みたくないんだけどミルク飲みたいことにしますみたいな、
そういう話って赤ん坊ではないけれどもあるじゃないですか。
あらゆることに妥協できてしまう精神状態というか心理の人っていうのもいらっしゃるわけですよね。
お母さんのくれるものなら何でも素晴らしいみたいな、そういう話。
これは当然会社で仕事をやってるっていう時にそういう事態が進行し得るわけだから、
いいことではないわけですよね、ある意味では。
ただそれが適応できているのに悪いことだとカウンセラーに言う権利があるかみたいな話もありますから、
難しいんですよね、ここ。
だからこそ僕が思うのは、そうではない事態が進行しているという話、
それ自体は歓迎するべきことだと思うんです。
原稿が進まずに色んな違うことをやっている、原稿着手っていう時刻は入れたんだけど、
それ以来1時間半が経ってるのに原稿は一文字も書き進まず違うことをやってます。
いいことなんですよ、それは。
ここで僕らは自分で自分に片透かしを食らうんですよ。
思ったようにはならないわけですね。
私のために用意した赤本屋は十分じゃないんですよ。
その時にまた何か他の力を借りるなり、
現実に起きていることなどをもっとよく観察するなり、
とにかく何かしなきゃいけないわけです。
そういうことをしないで何でもかんでもツルツル滑るようにスムーズにどんどんどんどんことが進行していくっていうのは、
あんまりいいことではないんですよ。
これが解釈が失敗するという話にあると僕は思うんですね。
だから心が名前をつけると自体が小さくなるので収納しやすくなる。
ノーシングをナッシングに変えられると。
あなたはただお腹が空いているだけでこれからミルクがくるから大丈夫っていうのが
赤ちゃんに理解できれば心の中にその自体を収納することができると。
こうやって整理していけば原稿を書き進むから大丈夫というのを理解すれば
ラストシュートを使って安心してパニックに陥らずに進行させることができるけれども、
それによってずっとスイスイ進んでいくということは決していいことではないという部分もあるので、
そこが画札に雑然として生々しく意外と赤ちゃんが泣き止まない。
意外とような日が続く。
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お母さんは大変だっていうこの辺りが実はグッドイナフですっていうような話もあるわけですよ。
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